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内弟子問答集 16

問答 59
一度に複数のことを考えるとは、どういうことでしょうか。

 尚道館・陵武学舎での食事の際は、「常在戦場」の思想から、この時間を利用して、宗家の講話などを聴く事があるが、この講話を聴く時は、一々箸を置いて聞く必要はない。箸を動かしたまま、これを聴き、「同時に思考する」と言う「二つの作業」を訓練するのである。指揮官は、同時に幾つもの事をこなせなければならない。一つの事で精一杯と云うのでは、指揮官の器(うつわ)ではない。指揮官の器でない者が、指揮をすると結果は惨めなものになる。こうした事は、歴史が如実に物語っている。

 かつて大正の頃、旧日本陸軍では、士官学校出身者の中から、陸軍大学校入学者応募について、「やっとこさ大尉」「貧乏中尉」という下級将校の中から、優先的に受験をさせ、戦場で役立つ参謀を教育しようと試みた事があった。

 なぜ「やっとこさ大尉」「貧乏中尉」なのかと云うと、「やっとこさ大尉」は家に戻れば、嫁さんを貰ったばかりか、あるいは赤子が生まれたばかりで、その子守りの為に、赤子を背中に背負い、夕食の準備や洗濯をしていたと言う。それと同時に、戦術を考えたり、戦略を練ったりもしたと言う。

 また、「貧乏中尉」は、いつも安月給にピーピー云って、貧乏の苦労を一手に引き受けたような事を遣り、それでいて戦術や戦略を考えるのである。そうした日常を非日常に置き換えて、物事を考える生活次元を、陸軍大学校では高く評価し、彼等を優先的に受験させ、参謀教育を施したのである。

 日常を非日常に置き換えて、物事を思考する事こそ、常在戦場の思想であり、この思想は安穏とした日常生活の中には存在しない。こうした思想を根底の置いて、陸軍大学校ではモルトケ
Hermuth Carl Graf von Moltke/プロイセンの軍人で元帥。1855〜88年参謀総長の任に付き、普墺戦争・普仏戦争に大勝し、ドイツ帝国の統一に貢献した。大モルトケといわれる。1800〜1891)以来の参謀教育を重視し、戦場とは如何なるものか、よく認識していたのである。

 しかし、これが昭和となると、こうした「二つ以上の作業」を同時にこなす人間から、学力重視主義に偏って行き、暗記の得意な者を陸大では採用する事になった。暗記力のいい人間は、答えのある者に対しては非常に強いと言う特徴を持っているが、答えが常に変化し、一定の回答が無い、戦場などの図上演習等は、あまり得意でなかった。

 こうして二つ以上の事を、戦場で同時に考える事のできる人間は退き、ペーパーテストの点数が良い者だけが、出世し、高級軍隊官僚になるという現実が生まれ、彼等は参謀本部と云う後方の安全地帯に身を置き、机上の空論で作戦を練り上げると言う愚行を働いて、日本を敗戦に導き、日本本土を焦土と化したのである。
 そして太平洋戦争に於ては、最後まで、彼等の頭から「奇手」とか「奇襲」といった、奇抜なアイディアは、とうとう一度も出て来なかったのである。

 したがって、尚道館・陵武学舎の内弟子については、常日頃から、同時に「二つ以上の物事」に対処できるように、食事中にも、無言で食事をするのではなく、一時間と云う食事時間の有効利用として、宗家の講話を聴きながら食事をするのである。

 ある流派の食事作法では、食事の際の談話は、好まれないとする流派もあるようであるが、これは食事中に口を開けて、バカ笑いするような会話を慎
(つつ)めと云う事であって、食事中、黙りこくって、話してはいけないという事ではない。

 しかし食事中に、喫煙する者がいるが、これは以ての外であり、直ちに改めなければならない行為である。
 また、尚道館では道場の内外において、喫煙は一切許されていない。普段から喫煙の習慣のある者は、入門審査前に、これを機会に完全に止めるべきである。

 タバコは他人に迷惑をかけるばかりの
ものではなく、料理の味を狂わせる元凶である。また、料理をしてくれた人に対し、「非礼」にも作(な)るのである。しかし、こうした礼儀作法を知る武道家や格闘家は、意外にも少ないのである。
 武道や格闘技の愛好者の中には、喫煙を非礼であると思わない愚者が多いようだ。

 タバコ一つ止める事が出来ない意志薄弱な者に、我が流の儀法や戦闘思想は、簡単に学べるほど生易しいものではない。
 そして、意志薄弱者は、同時に不作法であり、無態
(ぶざま)な醜態(しゅうたい)を曝(さら)しても、これを顧みる事が出来ない無能者だ。

 また、戦後の民主主義教育の特徴の一つに、一家団欒
(いっただんらん)と云う、マイホーム的な思考が蔓延(はび)こったが、この家族全員が居間等に集まり、一家族が集まって、なごみ、楽しむという行為の中心は、テレビを見ながら食事をすると言う事であり、「テレビを見ながら食事をする」という行為は、同時に、日本の家庭崩壊を招いた。

 親も子も、お笑いタレントの登場する番組を見ながら、あるいはグルメやクイズ番組を見ながら、一時の娯楽と慰安の時を過ごすが、こうした行為が急速に日本の家庭を崩壊に導き、家長制度を突き崩した元凶になった事は明白である。
 そして、テレビに子守りされた子供達が大人になった時、どういう人間が出来上がるか、想像に難しくない。

 日本の食体系や食思想から考えて、かつては「テレビを見ながら」という食事の作法は存在しなかった。しかし、昭和30年代の高度成長を切っ掛けに、テレビの普及が急速に進み、テレビによって、親も子も共通の「テレビによる子守り現象」が起きた。
 そして、この中から、ある種の人間像が出来上がった。

 この人間像は、今や広く社会の裾野
(すその)に分布し、体制側の搾取(さくしゅ)される種類に置かれているのである。
 また広く分布する、この階層が、食事の時、どのような親からの躾
(しつけ)を受けたか、それを考えても想像に難しくない。

 尚道館・陵武学舎での入門審査の際は、入門志願者と必ず一緒に昼食を摂り、正坐厳守を審査条件して、その人間の一切を審査してしまうのである。この方法は、ペーパー・テストで、頭の中身を測定するよりも、実に効果的なのである。食事には、教養も頭の程度も総て顕われるのである。

 食事作法の基準に照らし合わせて行けば、箸遣い、茶碗や椀物の握り方、茶碗への手の添え方、汁椀への手の添え方、姿勢や食事態度、これまでの親の躾
(しつけ)や、育った環境、目配りや隙が生まれているか否か、食事の展開の手順などを検(み)て、何を好んで中心に箸をつけるか、そして香(こう)の物といわれる漬物類を、どこの場面で遣うか等の、その人間の教養や、思考力までもを読み取ってしまうのである。



問答 60
食べることの大事を教えて下さい。

 食事での態度と姿勢に、その人の人間性が顕われるものである。
 人間の食事は、動物のそれではない。単なる栄養補給ではないのだ。
 つまり食事とは、動物が獲物
(えもの)に喰(く)らい付く「エサ」という意味ではないのである。

 これは自分と天地を結び付ける神道的な神事の「祀
(まつ)り」を含んだ「人の行い」であり、この中には、一粒の米、一片の野菜、一滴の水に至るまで天地の恵みが凝縮(ぎょうしゅく)された恩恵を、人間は身を以て養う為の「祀り事」が、すなわち食事なのである。

 食べる事は人間の本能的欲求であるから、その姿勢には、最も「己」が曝
(さら)される事になる。「食べる」という行為と関わって、人物の「境涯」あるいは「程度」と云ったものが能(よ)く顕(あら)われる。これは最も簡単な事でありながら、実は非常に難しいのが「食べる事」なのだ。

 禅の世界では、修行僧の食事作法の心得として、道元禅師(どうげんぜんじ)の『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)の冒頭に、「道を求める事と、食を摂ることは同じである」と記されている。浄不浄(じょうふじょう)や、美味しい、不味いと言った事は、食の本質ではないと説かれているのだ。
 すなわち「食べる」と言う行為の中に、何かが存在していると云う事に気付かなければならないのである。

 昔の禅僧の中には、雨溜
(あまだま)りが出来た道端の泥水を平然と啜(すす)り、蛆(うじ)のわいた食事を摂る者も居たといわれるが、それがしごく当たり前に行じられる時、浄穢不二じょうえふじ/清浄な悟りの状態と穢れた迷いの状態とは、現象的には区別があるが、本性上から見れば不二平等であるということ)は、その人物の血となり、肉となり、骨となっていく。
 したがって禅の世界に生きる、修行僧にとって、「食」とは、真剣勝負だったのである。そして禅の中には、「食事五観」というものがあり、食事の作法の中に、人の求める道があると説かれている。

 近年は、「食」がグルメの対象になり、美食指向が持て囃
(はや)されている。誰もが美食や珍味に舌鼓を打つ。武術家や武道家を自称する愛好者とて、こうした流行に乗せられ、食道楽に陥っている。
 しかし、いやしくも武術家や武道家を自称するからには、食事作法の中に「道を探究する」態度が欲しいものである。
 ただ試合に強いばかりの一時的な勝者、あるいは技術的な駆け引きがうまいばかりのテクニック屋の、次元の低いものばかりを追い求めていては、道の探究などあろう筈がない。

 尚道館・陵武学舎の食事は、玄米に味噌汁というシンプルな「一汁一菜」が、当道場の食餌法
(しょくじほう)の基本だ。質素を第一義とする。
 玄米六割に、小豆・大豆・もち粟・もち黍・たか黍・稗・押麦・ハト麦・赤米・黒米・丸麦・うるち玄米などの雑穀四割が混ざった御飯と、味噌汁が一日二度
(昼食と夕食)の食事の基本となる。粗食・少食こそ、人間の頂く「食」の原点なのだ。

 さて、「食」の教えの中には「飲食求道
(おんじきぐどう)という言葉がある。
 俗世界では、喰う為に働くと言うが、尚道館・陵武学舎の教えは、一椀の食、一杯の茶湯を頂く事が飲食求道の教えであると説く。したがって我が流の食思想は、武術修行を成就する為に、我が身を飢渇状態に追い込み、粗食・少食に徹し、癒
(いや)す為に「食」が遣われるという現実を分からせる事を目的にしている。

 また一方、「飢えを知る」という事も説き、飢えを知る事こそ、飽食の時代にあって、「飢える事」も、人間には必要なのだと教える。犬でも、腹が地面に引き摺るような犬は間抜けである。腹の部分が多くき凹み、筋肉がしまった犬ほど、精悍
(せいかん)であり、また敏捷である。喰らい過ぎより、飢えた状態にしておいた方が、動作が鋭くなるのである。

 また尚道館では、半自給自足を目指す為、野菜の自家栽培をする。そして、自らが農作物を育て、手塩にかけて丹念に世話をし、立派に収穫できるまでに育
(はぐく)み、収穫の時に、自分と言う存在は、天地の恵みの恩恵を受け、「天命より生かされている」という事を実感する為に、あるいは天地への感謝を知り、歓喜(かんき)を体感する為に、畑作業と言う仕事をするのである。

 「一日な作
(な)さざれば、一日喰らわず」の思想は此処にある。
 そして、どんな食べ物でも粗末に出来ないし、また、無駄をしない。最後の一片まで使い切る事が、天地の恵みに対しての感謝の印だ。

 謙虚さや慎み深さを忘れた現代人は、自分が「食」を頂くに値するか否かを、自らに深く反省し、あるいは自問自答の心を抱かなくなってしまった。飲食の行為は、食道楽に通じる快楽であり、目先三尺・口先三寸の美味を貪るだけの、享楽の酔い痴
(し)れる、味覚を楽しむだけの行いに成り下がった。
 そして「食」の大事を知らない。

 飲食をすると言うのは、人間の生理的欲求であるが、飽食の時代、飲食の貪る欲よりも、人間らしい余裕を身に付けねばならない時代が到来していると言える。今日の日本では、差し当たり、飢える事は無くなったが、日本人は、もうそろそろ飽食の悪夢から醒
(さ)めて、精神生活を身に付けねばならない時期にきている。

 本当の飢えを知らない多くの日本人は、「武士は食わねど高楊枝
(たかようじ)」という言葉を、侮蔑(ぶべつ)を込めて揶揄(やゆ)するようであるが、こうした侮蔑の籠(こも)った言葉を使って、からかっている本人の顔つきの方が、どこか下卑げび/劣で卑しいこと)ていることが多いのは、何故だろうか。飽食の時代にあって、清貧に甘んじる、「食べない贅沢」はそれほど価値観の低いものであろうか。

 否、違う。一日に四度も五度
(いまや、若者の間では一日五食が常識になっている。食傷に陥るのも時間の問題)も繰り替えされる飽食によって、人は、精神から物質へと移行しているのだ。
 そして、人間が物を「食べる」という姿は、礼儀に欠けると、隙も出来易く、見苦しいものになり易いと言う事を心得ておくべきである。

 昨今は食事形式も、西洋風になり、特に立食パーティー等が資金集めを目的にして、武道関係者や格闘技関係者の中でも盛んに行われるようになった。こうしたパーティー形式の会合では、飲食物は人員割りをして、その「全体の半分」と言うのが通り相場であり、したがって、この種のパーティーに不馴
(ふな)れな人は、卓上の飲み物が少量である事に不満を洩(も)らす人も居る。

 また逆に、この種のパーティーに慣れた人は、この手の催し物が、盛大に飲み食いするもので無い事を知っていて、立食パーティーは、会場の雰囲気を盛り上げる小道具であることを承知している。会場に集まった全員の乾杯が終われば、出席者の多くは「人」の方ではなく、「食べ物」の方に向かって一目散に直行し、貪り付くと言うのが、パーティー狎
(な)れした人の姿だ。

 そして参加者の多くは、「せっかく高い会費を払っているのだから、喰わなきゃ損。少しでも取り返さなければ」という意識が働いており、主催者の金集めの意図に対抗して、喰う事で少しでも元を取り返そうとする損得勘定がある事は明白である。
 最早こうなれば、主催者側と参加者側の熾烈
(しれつ)な争いであり、見苦しいものだけが鼻に衝(つ)いてくる。

 以前、武道関係者や格闘技関係者の、この種の集
(つど)いに招待された事があるが、物を食べる姿が美しい人は、今までに一人も見た事がない。そこで見たものは、大人も子供も、口一杯に頬張って「がっつく」姿だった。
 彼等の殆どは、人よりも、料理であり、料理に向かって直行し、貪り食っている姿を見ると、「道だ」「礼だ」「武だ」と豪語する言葉と裏腹に、何とも後味の悪い、遣
(や)り切れない気持ちで一杯になる。

 また貪り付く、こうした人に話し掛けても、料理が先の為、口一杯に頬張ったまま返答がなく、その人が飽食に腹を充
(み)たすのを待って、やっと会話ができると言う有様で、こうした相手の姿を見ると、その人が如何に才能のある選手であっても、有能な師範であっても、その品位の無さに興醒(きょうざ)めしてしまうのである。

 武道や格闘技では、得てして、「乾坤一擲
(けんこんいってき)などの言葉を口にする。乾坤一擲とは、運命を賭(と)して、のるかそるかの勝負を、此処一番という時の事を云うが、此処一番が、口一杯に頬張った姿では情けないではないか。

 欧米などの上流階級で行われているパーティーの目的は、パーティーに華
(はな)を添える唯一の御馳走(ごちそう)は、パーティーに集まった「顔ぶれ」である。決して彼等は、料理目的で集まったのではなく、収穫は、胃袋の中に収まった美味なる物や、珍味なる物ではない。その集いで、引き合わされ、新たに造り得た「人脈」なのである。

 しかし日本では、立食パーティーの目的が、主催者側の資金集めを目的として行われる場合が多く、武道関係者や格闘技関係者のパーティーのみならず、政治家の主催するパーティーもまた、政治資金集めで、その意図が、本来のパーティーの目的から逸脱している事が明白となる。主催目的は立食をエサに、支持者から金を釣り上げているのである。

 パーティー主催者が、愚者の領域の人であれば、当然参加者も愚者と言う事になり、日本人の武道愛好者や格闘技愛好者の立食パーティーのように、足は、「人」の方に向かず、「料理」の方に向いてしまうのである。

 卓上の少なめの料理を、短時間で、どれだけ沢山食べるかが参加者の目的であり、そしてその姿を、一部の常識ある眼が、遠くから一部始終を観察し、食べている時の姿と、人間の程度を、じっくりと品定めされ、見透かされている現実があるのだ。
 「食」とは、こうした恐ろしい一面も持っているのである。したがって、「人間の程度」を計るのなら、食事をするだけで充分に測定できるのである。




問答 61
朝食抜きの「一日2食主義」の利点を教えて下さい。

 わが流では、朝食抜きの食餌法の薦めている。
 一般に信じられている「朝食は一日の活動エネルギー源」という嘘
(うそ)は、主に現代栄養学者や現代医学者が作り上げた、一つの仮説に過ぎず、むしろ朝食は摂らない方が良い。
 
「朝食は一日の活動エネルギー源」という仮説は、人間を機械に見立てた論理であり、生体の本質を見誤った短絡的な論理と言える。

 車や内燃機関などの機械は、ガソリンを注入した時点で、直ぐに役に立つ働きをするが、人体では、食べた物が少なくとも7〜8時間以上経たないと、それをエネルギーに変換する事が出来ない。機械は人体に比べて単純であり、燃料を補給した時点で動き出すが、人間はそうはいかない。複雑な物質代謝系を経て、はじめて食糧はエネルギーに変換されるのである。
 したがって、その朝に食べた朝食が、その日のうちの活動エネルギーになる等と云った、仮説は成り立たなくなる。

 今日一日の活動エネルギー源は、既に、前夜までに摂られた食糧によって賄
(まかな)われているのである。
 人間の生体活動を支えているのは、医学的に見て、その生理機能は、
「同化作用」「異化作用」である。これは、相互間では全く相反する方向性を持っている。
 同化作用は生体物質を合成し、エネルギーを蓄積する働きを司る。一方、異化作用は生体物質を分解し、エネルギーを解放し、更に消化すると言う働きを司っている。
 そして、この二つの特性を持つ作用は、昼と夜で、各々の働きが切り替わるのである。

 日暮れから暁方
(あけがた)までにかけては、「同化作用」が優勢になり、夜明けから日中の間は、異化作用が優勢になる。
 もっと分かり易く言えば、「食事」と「睡眠」が同化作用の働きであり、「排泄」と「活動」が異化作用の働きである。

 昨晩の、食事を摂る事によって、心身がリラックス状態に至れば、眠気が襲って来て、睡眠状態に入り、睡眠中に同化作用が完了する。そして、翌朝目覚めた時には、食べ物の摂取によって生じた不要物の排泄にかかるのが、実は「朝」のタイムであり、排泄して身軽になれば、睡眠中に得たエネルギーを遣って、その日一日、存分に活動ができるのである。
 したがって、朝は「排泄タイム」であり、食事をする時間ではない。排泄をスムーズに行う為にも、朝食は抜いた方が好ましいのだ。

 この排泄タイムに、ある一定以上の食事を胃袋に送ると、かえって自然な排泄反射にブレーキをかけ、やがてこれが便秘などになって、腸内に宿便を宿す事になる。
 愚者の中には、排便をしっかり行う為に、朝食をしっかり摂っていると云う論理を掲げている人もいるが、人間の生体は機械ではなく、生体のおける腸管は、機械の管
(くだ)のようにトコロテン方式のようにはいかないように出来ているのだ。沢山押し込めば、腸管に残っている古い不要物は、総て押し出される等と云った具合には、決して出来ていないのである。

 しかし、排泄反射を高める為に、飲食物を胃袋に少量の液体を入れて、刺戟
(しげき)すると、その反射作用は大いに高まるので、便通促進からも、ヨモギ、枸杞(くこ)、はぶ、ドクダミ等の薬草茶を飲むのは効果的であり、また、胚芽、葉緑素、花粉、高麗人参茶、玄米スープ、梅干茶、梅干におろし生姜などの食物を飲用する事は非常に好ましい。

 一日三食より、二食へ、二食より一食へと、食事会数を減らして行くほど、全体の食事量か確実に少なくなり、身軽になるばかりでなく、経済的にも節食が出来、省エネに繋
(つな)がる。また、霊的体験も旺盛になり、こうした粗食・少食を実行する事によって、確実に半身半霊体(はんしんはんりょうたい)に近付く事が出来るのである。
 詳細については、下記のホームページに掲載されているので、是非熟読頂きたい。


 大東流霊的食養道 http://www.daitouryu.com/syokuyou/
 癒しの杜の会 http://www.daitouryu.com/iyashi/



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