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内弟子問答集 14

問答 52
物事のわきまえ知るとは、どういうことでしょうか。

 客を迎える場合の迎接については、その30分前に準備を終(お)え、通常の場合は玄関で出迎えるが、相手方がはじめて訪問する場合は、最寄り駅まで出迎えに行くのが礼儀である。
 また客を案内する場合は、客の左後ろに退
(さが)り、右左の方向は右手を差し出し、方向を指示する。この時、足の歩調は客に合わせよ。
 荷物を持っている場合は、「お持ち致します」と断って持ってやり、丁重
(ていちょう)さを旨とする。
 更に、自分では丁重で行っているつもりでも、自己満足に陥る事なく、相手本位で物事を考え、客観的な迎接態度をとれ。人格や品格の評価は、こうしたところでも、既に下されている。

 人に何事かを依頼する場合、その相手に依頼せねばならぬ事情がある事を即座に察せよ。
 人が、自分に何事かを頼む場合、頼む側が無知であっても、そこに誠意が感じられるようである場合は、その依頼事を引き受けよ。
 喩
(たと)え、タドタドしい稚拙(ちせつ)な喋り方であっても、頼む立場の人間としての自覚があり、誠意があるならば、それは赦(ゆる)されるべきであろう。

 しかし、言葉爽やかに、小賢しい頼み方で、自覚に欠け、狡
(ずる)賢い印象を受けたならば、この頼み事はキッパリと断るべきである。こうした者の依頼を受けると、「自分の都合で頼んでおきながら」という後悔をする事になる。
 この時に判断基準は、依頼者に自覚と誠意と、礼儀が有るか無いかの、有無である。また、精神的内容と、外に顕われて来る型との関係を注意深く観察する必要がある。人間は、万人が共通でない事を知れ。

 自分の非に気付いたら直ちに謝罪せよ。
 人間は、人間なるが故に過ちを犯す事が多い。特に若い内は、過ちを犯す事が多い。しかしそれは、その者の鈍感さから来るものではない。多くは先入観から起ったり、誤った固定観念から起ったりの、習慣性から来るものである。
 人間の弱点の一つである自己中心的な発想の習慣は、齢と共に薄らいで行くが、これに合わせて礼法を体得すべきである。これが体得できれば、「詫び上手」にもなるのだ。
 トラブルは出来るだけ避けなければならないが、人の世はトラブルがつきものであり、その時の準備を怠るな。

 次に、自分勝手に物事を運ぶな。
 失敗の多くは、「報告」「連絡」「相談」を行わず、自分の裁量で切り回してしまう事である。最早そうなると、人間の上下関係は不和状態になり、上士は自分の意向を聞き流されたと誤解したり、無視されたと思うであろう。
 その後の人間関係を修復するには、かなりのエネルギーが必要である事は、想像に難くない。そうならない為には、「報告」「連絡」「相談」を厳守し、これを
「ホウ・レン・ソウ」と解しておくと無難であろう。

 目上に宛てる書簡については、充分に文字の点検を行うべし。
 特に誤字を用いて、目上の名前を書いたり、自分でもこれに気付かないと言うのは情けない限りである。自分の低次元な教養も丸出しになる。
 特に昨今は、コンピュータのワープロ機能が発達した為、誤字の儘
(まま)、目上の名前を保存して、これをそのままプリントアウトして、書簡等を送りつける者がいる。名前に用いる漢字が誤字である場合、相当な非礼に当るので、書簡における漢字は、再点検の再点検が必要である。

 「文は人なり」の格言を忘れるな。
 その人にあっても、その人物が如何なる人か、よく分からなかったが、その人の文章を目にして、はじめてその人柄が理解出来たという事はよくあることである。話して分からなかった相手の人柄が、文章になって、よく理解できるという事は、よく覚えておくべきである。
 言葉と言うものは、「光透波
(ことば)」の意味からも、これは宇宙の波動から起るもので、その波動は「正直でありたい」という事が基本となる。言葉は音色のよるものばかりではなく、文字による伝達方法がある事も知れ。
 そして「正直な光透波」は、必ず重量感を伴うものである。

 電話の掛け方には、充分に注意を払うべし。
 電話という道具は、相手に電話を掛けた時、相手をわざわざ「電話口まで呼びつける」道具であるという事を忘れてはならない。
 呼ばれれば、出ない訳にはいかない電話という道具は、その特性ゆえに、軽率に用い、節度を失った形で遣えば、これこそ非礼の最たるものになる。これを充分に承知するべきで、「呼び出し方一つ」においても、そこには利用する者の品格が現れるものである。

 そして「相手を呼びつけた」という事を弁
(わきま)えておかねばならない。
 以上のような「弁え」こそ、礼儀であり、礼儀を心得ておけば、決して「オレオレ詐欺」など、容易に引っ掛かるものではない。これに引っ掛かる者は、自分自身にも礼儀がないからだ。

 礼儀に則した手順で考えるなら、仮に親子であっても、夫婦であっても、まず、名前を名乗るべきであり、こうした教育が家庭でなされてない家では、「オレオレ詐欺」など、「振り込め詐欺」に引っ掛かり、老後の貯えを一挙に奪われてしまうのである。
 詐欺を働く者ばかりの責任ではなく、礼儀に照らし合わせれば、自分自身も「オレだ」とか「アタシ」と云った物言いで、相手を確認できずに電話を遣っていた事が裏目に出たと言えよう。
 礼儀は、ニアミスなどの物理的な危険から身を護るだけではなく、経済的にも大事な生活の糧
(かて)を、危険から護ってくれるのである。



問答 53
本音と建前とは、何処で見分けるのでしょうか。

 ツキに見放されたら、直ぐさま退却せよ。
 負け将棋を、「もう一番、もう一番」と繰り返すのは、その人間に「堪
(こら)え性」がないからだ。ゆめゆめ、最後の大逆転がある等と、絶対に期待しない事である。
 「期待」は、希望的観測であり、そして断じて希望などではない。
 期待は将来その事が実現すればいいと、当てにして待ち授
(う)ける事であり、期待につきものなのは、「裏切られる」「騙(だま)された」「当て外れ」などの失望であり、この事をよく理解して居なければならない。

 美辞麗句に踊らされるな。
 人はタテマエからなる美辞麗句に誘導され、ついには踊らされて、現実の厳しさを思い知らされるものである。

 人間は少年時代から、タテマエ論に踊らされ続けて来た。
 親からは「よく勉強しろ」と云われ、学校の先生からは「世の中は厳しいから一生懸命努力せよ」と云われ、そして社会に出ると、先輩からは「誠心誠意を以て事に当たれ」と云われ、上司や経営者からは「真心を以て客に接せよ」と云われ続けて来た。

 ところが、これを云った張本人はどうか。果たして厳守しているのか。以上の言葉の多くは道徳論から発している。
 しかしよく吟味すると、どれもこれも、実行不可能な許し難いものばかりであり、これらの言葉を発した本人すら、不言実行が不可能なものばかりである。この根底には儒教にあるような、聖賢君子の説教が鎮座していて、人は、このように自分では不言実行が難しいタテマエばかりを、年端のいかない目下の者に押し付けると言う事が明白となる。

 そして更に洞察すると、どれもこれもが欺瞞
(ぎまん)に満ちている。
 日本人の多くは戦後民主主義教育の中で、日教組の言葉に踊らされ、人間の本質を見失った表面的な美辞麗句に踊らされ、その中で「エゴイズム」と「平等」と「平和」という言葉を押し付けられて来た。どれこもれも実戦面において、手練手管
(てれんてくだ)に欠た、修羅(しゅら)の世界で生きるには、あまりにも説得力がない「評語」に踊らされぱなしであつた。
 現実に目を向け、これをじっくりと観察し、洞察する力を養わなければならない。

 希望的観測ではなく、「今」という現実に目を向けよ。
 人間で一番大事なのは、「自分自身の志向」を明確に規定する事である。
 会社人間ならば、自分は将来社長を志向するのか、それとも重役や部長止まりなのか、あるいは平社員を通してマイホーム主義者となるのか、定年後は夫婦で古寺巡礼にでも出られれば、それでよしとするのか、こうした思いを定めるべきである。

 喩えば、自信を持って社長を目指す人ならば、「韓非子流」の道をとるべきである。儒教的なタテマエ論に踊らされるような、甘い考えでは、現実の実戦に勝利する事は出来ない。
 また、精々努力して部課長止まりだと、昇進を諦め、「清貧」に甘んじて、悠々自適
(ゆうゆうじてき)の老後を望むのなら、ないまぜ世界で、適当に生きたら宜しかろう。

 しかしこうした場合にでも、部下を可愛がり、目下に目を掛けたとしても、彼等に迎合していい気持ちになっていると、やはり足許
(あしもと)が掬(すく)われるのである。そして、やがては彼等の軽蔑の対象になり、思い知らされ、傷心と僻(ひがみ)で、老後を送らなければならなくなる。

 「そのうち、何とかなるだろう」的な、甘えが大きすぎれば、決断の下せない人間に転落してしまう。今日の多くの日本人は、こうした「甘さ」の中で生きて来た。
 その証拠に、上は大臣から、下はホームレスに至るまで、自分の目指す道と、自分の意思に対して「責任をとる」という事を怠って来た。その他多勢の「中」にランクされる人間は、いつの時代も、自分を弁明工作し、責任転嫁をして、自分に火の粉が降り掛かる事を回避し、保身と安泰を図って来た。

 そして、その根底に流れている元凶は「礼儀知らず」だった。
 やがてこの「礼儀知らず」は、「恥知らず」となり、恥辱に対する感覚を希薄にし、恥の上塗りをしても、痛痒
(つうよう)を感じない鈍感な人間が多く出現したのである。



問答 54
八方美人津優柔不断について教えて下さい。

 恥を知る人間は少なし。礼儀を知る人間は少なし。
 恥辱に対する感覚と、責任をとる感覚が鈍麻
(どんま)になると、人間はいつの頃からか「あわよくば」という考えを抱くようになる。
 クズ程こうした考えは濃厚であり、喩えば、自分がある女性に魅
(み)せられて好きになったとしよう。この時に最初に思い付くのは「あわよくば……ものにできる」の、軽薄な思考である。

 「あわよくば」の思考は、その思惟
(しい)に対して、断固として責任をとると言う態度でないので、甘えが表面化して来る。肉欲目当ての不倫も、自由恋愛も、総(すべ)てここから始まる。
 現代はこうした、「甘え人間」が増え始めている。しかし、今後はこれも通用しない世界の為来
(しきた)りとなって行くであろう。
 恥辱に対する感覚を敏感にさせ、「恥を知る」という感覚を磨かなければ、やがて身動きが出来ない窮地に追い込まれるのは必定であろう。

 わが流の掲げる禁忌事項は、「一度読んだだけで、分かった」と言うものではない。繰り返し読み直し、拳々服膺
(けんけんふくよう)する必要がある。
 本ページに書かれた事柄は、内弟子志望者に対し向けられてものであるが、何もこれを目指さなくても、ここには多くの人生訓が満載されている。少なくとも志を掲げ、将来大きく羽ばたこうとする者は、繰り返し読む必要がある。

 さて、志とは「絵に描いた餅」ではない。また、漠然とした希望的観測でもないし、夢見る乙女のような、淡い期待のようなものでもない。現実をしっかりと見据え、「今」を把握しなければならない。「今」という現実に、過去は存在しないし、未来も存在しない。「今」と言う現実に目を向け、志を抱くのであれば、志というこの実体が如何なるものか洞察しなければならない。

 志は、権力に対する意欲と表裏一体である事を知らなければならない。それは、権力を得なければ、志は達成されないからだ。
 日本人の中には、先の大戦の敗戦から、権力は厭
(いや)だと云う進歩的文化人のような考え方をする人が居るが、その人は「権力が厭だ」というのではなく、それを振るうのが「怕(こわ)い」と恐れているに過ぎない人である。

 つまり権力とは、「責任を担う」という事であり、責任を担うのが嫌いと云うのは、それは許し難い欺瞞者
(ぎまんしゃ)と云うべきだろう。また、極めて未熟と云う稚拙(ちせつ)ぶりで、小娘倫理に支配されていると云うべきであろう。

 志を掲げるのなら、小児エゴの美辞麗句から抜け出し、情緒主義的な思考を総て取り払わなければならない。人が良くて、奇麗事だけを吐く、「ヤワ」な八方美人や、優柔不断な思考は、総
(すべ)て撤去しなければならない。
 志は成熟した大人の倫理で考えてこそ、成就されるものと心得るべきである。そして、その計る尺度も、やはり「礼儀」の有無にかかっている。



問答 55
筋目意識とは何でしょうか。

 志を掲げるならば、もっと『韓非子(かんぴし)』を勉強せよ。
 『韓非子』の「内儲説篇上」には、こうある。
 「賞誉が不充分で、ハッキリしないと、臣下は働かないが、賞誉
(しょうよ)が充分で、確かだと、臣下は命賭けで働く」と。

 要するに「義」とは、裏を返せば「利」という事になるのである。博徒が好んで遣う「義理人情」もここから派生したのだ。
 人間関係に、人間が介在する以上、そのこのは利害関係が働くのは当然の事である。そして現実を見れば、「礼儀」という尺度で、それに照らし合わせて行かないと、不安定な利害関係が発生するのだ。だからこそ「礼儀を糺
(ただ)す」とは、警告の意味をも含んでいるのである。

 『韓非子』の法治理論は、儒家の道徳説に対峙
(たいじ)し、極めて現実主義である。
 韓非は弱肉強食の戦国時代に生まれ、そこで育ち、人間の通性を鋭い目で観察した。そしてそこから得られた答えは、人間は利慾によって動くもので、賞を喜び、罪を憎むというものだった。
 したがって道徳には規制力がなく、賞罰だけに人間を動かす力があると言う結論を導き出した。

 この結果から、韓非は、法は人間の利欲を巧みに利用する事によってのみ、その目的が達成されると考えたのであった。
 今日でも、世の中の現実はこの理論で動いており、決して道徳家のお説教で動いているのではないと知るべきである。

 ゆめゆめ道徳家の道徳論で、世の中が動いていると云うような、情緒主義に陥る事無く、「今」と言う現実をしっかりと見据えてもらいたいものである。これが理解できれば、人はそれぞれに自分の立場と言うものを自覚する事ができ、そこには自ずから、自分のとるべき態度と言うものが明確になってくる。

 その場合、その際の言動や、態度の規矩
(きく)、あるいは羅針盤の役目を担うのが「礼儀」から派生する「筋目意識」と言うものである。筋目意識を明確にさせる事によってのみ、現世と云う現実は、乗り切る事が出来るのである。



問答 56
礼儀における金銭意識とは、どんなものでしょうか。

 筋目意識とは、「筋合い」の論理である。
 人は、「君に指図される筋合いはない」とか「こちらから出向く筋合いはない」などと云って、「筋合い論」を強調する。
 この「筋合い」の中にこそ、人間と人間の関わり方が潜んでいる。

 「関わり方」とは、裏を返せば「礼」が深く関わっている現象であり、地上に人間が存在する限り、人間の生活に付き纏
(まと)って来る現象である。したがってここからは、各種様々なトラブルが発生し、「見識」と云う意識を問われる事になる。見識の疎(うと)い者は、蔑まれ、高い者は「礼儀を知る者」として高い評価を受ける。どの社会環境も、どの階級も、何処の世界でも、この「筋合い」の論理が働いている事を忘れるな。

 謝礼・謝儀の意味を把握せよ。
 本来道場は月謝で運営されるものである。月謝とは、月々に門人から支払われる謝礼であり、謝儀である。これは商行為における対価の対象ではない。一般の習い事でも同じであるが、月謝は商い取引の対価ではないのである。

 したがって謝礼は謝礼であって、給与のそれとは異なるのである。つまり「手当て」や「給与」とは異なる性質の報酬であり、道場経営者は、商店の商店主とは異なるのである。そこに働くのは師弟関係の感謝の意味合いを含んだ、謝儀
(しゃぎ)の意識があり、師弟関係は商店と顧客の関係を云うのではない。修行の世界のそれを指している事を忘れるな。
 謝礼と対価の違いを正確に把握せよ。

 師匠が門人を表する事はあっても、門人が師匠を表する事はあり得ない。
 武術修行の基本は、その師弟関係によって行われる。したがって師弟関係は対等な相互関係ではない。同格でもないし同等でもない。まして平等などでもない。ここには厳しい上下関係を持つ。

 この世界では、師から門人に対して褒賞
(ほうしょう)として某(なにがし)かのモノが与えられると云う事は伝統的なことであるが、逆に門人から師に対し、物が与えられると云う事はあり得ない。
 物が贈られる事はあっても、それは「献上の品」であり、弟子が師に対し、「与える」ということではない。

 金銭でも同じ事である。金銭を与える事を「金一封」などで表現するが、師から弟子に対して「金一封」はあり得ても、その逆はあり得ない。もし、こうした事があり得れば、それは言語道断の非礼である。「献金」とは異なる性質を持つからだ。
 仮に、「献上の品」に現金が用いられるような事があっても、それは「金一封」と云う性質のものではなく、「お車代」とか「お食事代」あるいは「御神酒代」とか「御玉串代」というのが本当であって、報償金に当る語を用いた「金一封」は非礼である事を知らねばならない。

 師弟関係のけじめが崩れれば、その道は滅ぶ。
 今日「けじめ意識」は、急速に崩壊の一途を辿っている。
 「けじめ意識」とは、「序列意識」に他ならず、師匠と弟子の関係や、先輩と後輩の関係が崩壊すれば、そこには最早、「礼」の感覚は失われ、「謝礼と対価」の違いも分からなくなり、師と弟子が「対等に物を言い合う」ようになり、この世界特有の「厳しさ」と「格調」が失われる事になる。

 特に、道場主を「○○さん付け」で、呼称し合う道場などはこれに入り、既に「けじめ意識」は崩壊していると言えよう。中には、「○○さん付け」を民主的と歓迎する向きもあるが、修行の世界に平等も民主的な面も無関係である。あるのは「厳しさ」と「格調」だけである。これに民主主義的要素を持ち込むのは間違いである。

 これでは民間の生活者レベルのそれであり、世の中を対価で考える、資本主義の「ギブ・アンド・テーク」の世界に成り下がるのである。修行の世界の「厳しさ」と「格調」を、修行者は持ちたいものである。

 門人間で金銭の貸し借りはするな。
 金銭の貸し借りは、人格を低くからしめる行為であり、貸した者は借りた者に返済を迫り、借りた者は貸した者に頭の上がらぬ状態を作る。借金はそもそも、自らの人格を低くからしめ、品格を損なう行為である。

 以上、小文に纏
(まと)め、最低限度の「謙虚さ」と「礼儀」を挙げてみたが、ここに挙げた小文に接して、はじめて知ったと云う人が居るかも知れないが、これは作法としての道理を考えれば、案外心得るべきものであると気付く筈(はず)である。

 さて、「礼儀とは何か」という事に迫れば、まず「裸の現実」を直視し、人間の基本的な性情を洞察して、それに基づくタテマエの裏に隠れたホンネを抽出し、分析した結果、様々なトラブルを回避して、自らの生命並びに財産を防禦
(ぼうぎょ)する事である。
 この防禦は、組織や国家の繁栄は勿論の事、個人においても、「志」という原点を見詰め直す事に寄与し、発展・繁栄に貢献できるものと信ずる次第である。




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