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内弟子問答集 13

問答 47
人と人の接し方について、どういう態度をとったらいいのでしょうか。

 悪しきエゴイズムに陥らない為には、中心的な思考からの解脱することが大事である。「無私」を旨として、客観的な物の考え方で、人生と云う人間の運命を見渡すことが肝心である。

 いつの時代も、何処の国にも、あるいはどのような組織や団体にも、自己中心的に物事を考え、それを他人に押し付けたり、その思考を押し通す類
(たぐい)は、常に存在するものである。
 主観的に物事を捉え、客観的に自分を真摯
(しんし)に見詰めることの出来ない、思い上がった人間は、内外を問わず何処にでもいるものである。
 そして、これこそが「人間の弱点」と気付かずに、一生を終える哀れな人間も少なくない。

 この種の人間は「自己観察」が疎
(うと)いようだ。
 精神面が著しく欠如していると、精神を集中して、心中に自己の本性や真理を観察することが出来なくなる。したがって自分自身の意識体験も不明瞭
(ふめいりょう)で、消極的に、否定的な行動しか出来なくなる。

 以上の考え方が優先する人間は、他人に意見を求めておいて、それを「参考にまで」という態度で締めくくる場合が多い。
 ある問題について、他人の意見を求め、それでいて訊
(き)いた後、「参考にまでに……」という態度をとる者がいる。しかし、これはあくまで目下の者に対し、意見具申を求めた場合に限り、許される事である。

 目上の者に意見を求めながら、「参考にまで」と締めくくったり、気に入った部分のみをちゃっかり引用して、それを自分の意見の如く吹聴
(ふいちょう)するのは、甚(はなは)だ無礼であり、非礼この上もないのである。特に、わが流にメールや電話で問い合わせる者の多くは、この種の人間に入り、極めて自己中心的である。

 さて、人は一度そう言う扱いを受けると、二度と同じ相手の為に助言や援助はしなくなるものである。また、貴重な示唆を与えながら、「ふん、ふん、ふん」などの軽い相槌
(あいつち)を打って、これを聞く人間にも、それから先の示唆は、しなくなるものである。

 返答と言うものは「はい」の一言以外になく、「ふん、ふん、ふん」などの軽い相槌は非常に非礼な事である。
 若いと言うのは、悲しい事である。若いだけに軽率な態度をとったり、非礼に対して中々気付く事が出来ない。そして、こうした扱いを受けた長上
(ちょうじょう)は、「そう言う態度ならば……」「そういう了見ならば……」という気持ちになり、「では、後は勝手にせい」等となり、その後の示唆はそこで止まってしまう。これは非常に「勿体無い」ことであり、大きな損失となる。

 人生をこうして棒に振ったり、うだつの上がらない部署に押し込められて、そこから這い出す事の出来ない人間は、こうした無礼を過去に働いた足跡を持っている。他人の貴重な意見を粗略に扱ったり、善意を軽視したり、意見を求めて参考程度と扱ってしまう人間は、人の頭の上を土足で押し渡ような慇懃無礼
(いんぎんぶれい)なところがある。

 うわべは丁寧なようで、実は尊大であり、またその一方で、高ぶって偉そうにする人間がこれに入り、要するに客観的な自分が想像できず、自己中心的な「甘え」に陥って行くのである。こうした「甘え」は、若い内だけであると思うようであるが、けっこう歳を取った人間にも、こうした甘えを所有している者は少なくなく、人間の鈍感さがこうした事をさせるようだ。

 要するに他人の為に気配りをしたり、神経を遣うと言う、親の躾
(しつけ)と、少年期からの訓練が未熟で、そのままの主観的な思考で、大人になったような人間である。こうした人間は、人生の前半生だけをこうした、慇懃無礼で占領するばかりでなく、人生の後半生も、同じく、前半の名残りを留め、一生をこの状態にしたまま人生を終える人である。

 また、非礼の上に非礼を重ねて、自分の過
(あやま)ちが気付かないまま、死生観を未解決にして、辛い末期(まつご)を、臨終(りんじゅう)に臨(のぞ)み、再度体験しなければならない人である。そしてこれは、次の因縁を作り、輪廻(りんね)の輪に取り込まれてしまうのである。

 民主主義は、一緒のエゴイズムの謳歌
(おうか)であり、個人主義の追求であるが、この個人主義が悪しき個人主義に変貌した時、そこには自己中心的な人間の宿痾(しゅくあ)が出現するであろう。この宿痾こそ、人間に憑(つ)き纏(まと)う痼疾(こしつ)であり、長い間なおらない病気を裡側に抱えているのと同じ状態を永遠に繰り返すのである。
 だからこそ、自己中心的な思考から解脱する努力が必要になるのである。



問答 48
人間としての価値は、何処にあらわれるものなのでしょうか。

 謙虚さと礼儀正しさを、個人は「品位」とか「品格」と云った。こうした「人間的な品」のある人間は、以外と隙が少ない人である。それは、「徳」から滲(にじ)み出るものかも知れないし、あるいは精進の結果、同時に備わった人間性であるかも知れない。

 無意識に展開する日常の無意識の行動は、時として大きな隙を作り、他人に誤解を与える事がある。それは決して悪気から起るものではなく、また意識して誤解を受ける態度をとろうとして、招いた事ではない。しかし、他人の眼から見て「横柄」と映り、「横着」と映る場合がある。しかし本質は無意識であり、意識しての事ではない。

 だが、ここに人間の弱点が隠されている。
 喩えば、上士の前で、普段行っている「腕組み」をしたとしよう。これは悪気でなく、あきらかに無意識で、悪意の無い事は明白であるが、これが上士の眼、同僚の眼、この席に臨席する者の眼からすれば、「目上の者の前に居ながら」という意識から横柄と映り、横着と映り、礼儀知らずと映る。

 この、「人の眼」に映った態度こそ、敵を作る態度である。また、無駄な争いを起こす元凶となる。したがって、礼儀を実行する上で、「作法」と言うものが必要になる。起居・動作の正しい法式は礼儀を基本にして構成されたものであるが、物事を行う方法と、その為来
(しきた)りには、ある種の禁忌と、行ってはならない態度がある。

 その一つが、目下でありながら上士の前で腕を組む。上士が足を崩さないのに、自分が足を崩し胡座
(あぐら)をかく。返答の相槌(あいつち)を「ふん、ふん」と、軽く鼻で去(い)なしたり、目上の相手に対し、その躰(からだ)を気安く触ると言う無礼である。

 特に、目上の人間に対し、親しみのつもりか、あるいは敬愛を込めた世辞か、追従のつもりかは知らないが、やたら肩を叩いたり、背中を叩く者がいる。こうした場合の相手の上士は、よほど虫の居処
(いどころ)が悪かったり、小賢(こざか)しいと嫌悪を感ずる人でない限り、そういう目にあっても、露骨に怒ったり、不快感は示さないものであるが、こうした事とに鈍感で、安易に、目上に対し、こうした愚行はするべきではない。

 要するに軽輩の分際でありながら、上士が不快感を見せないからと言う安易な推測で、これに図に乗ると、後で大きな「しっぺ返し」を喰う事になるのである。悪気はなくても、図に乗ったり、日常の自分の無意識の行動を点検できない者は、要するに、礼儀知らずから、好機が訪れても
チャンスも逃がす事があるのである。

 人前では、「他人行儀」に振るまい、決して息を抜かない事だ。
 隙を読まれたり、無意識状態に起る「弛
(ゆる)み」を見られたりするので、自分を客観的に演出しなければならないのである。これを怠ると、必ず厄病神(やくびょうがみ)に取り憑(つ)かれる。神経症や躁鬱(そううつ)病などと言う、現代では統合失調症と云われるかつての精神分裂病も、実は「弛み」が元凶となっている精神障害である。
 そしていったん厄病神に取り憑かれると、災禍
(わざわい)というものは重ねてやって来るものなのである。
 ゆめゆめ「弛み」を見せないことだ。

 礼法は、単なる人間社会の約束事ではない。礼儀・作法を、人間がつくり出した猿芝居と捕らえるのは、非常に短見である。
 礼法の根底に流れるものは、まず「人格の発露」であるということがいえる。その母体を為
(な)すものは、人格であり、品格である。

 そしてこれに加味して来るものは、天地大自然の生々発展
【註】絶えず勢いよく発展すること)の秩序が人間社会に出現したと云うべきものである。
 この原点には、日本固有の古神道における「祀り」ならびに「祭り」があり、人間大天地と共に踏み行う「道」として、「礼」が派生した。
 「礼」をふみ行う事は、そのまま無窮
【註】無限の意味を持ち、極まりないこと)の発展を意味し、生々発展するべき人間の在(あ)り方の根拠は、人格の骨格となるべき、品性に求められるべきものである。

 「礼」とは、礼一字を以て「礼」と為すのではない。
 礼は、礼・義・廉・恥の四つの集合を総称したものが「礼」であり、四つのうち一つでも欠ければ、それは「礼」とは云わない。しかし多くの日本人武道家は、礼一字を以て「礼」とする嫌いがある。そして「礼」を、お辞儀と考えたり、お行儀と考えたり、しいては挨拶と解釈するなどの考え違いが起っている。

 礼の根本は、人格を形成する「品位」であり、人間は品性さえ卑
(いや)しくなければ、少々行儀が悪くても改善の余地はあるが、品性を失っていればその不作法は非礼に繋(つな)がってしまう。したがってこれは、瑣末(さまつ)なマナー違反と呼ばれるような次元の低い価値観ではなく、人格の根幹部を巣喰う下品性が、その者の性(さが)としての、人間をして、人間を陥れていると云うような、「人間失格」に直結されてしまうのである。

 人間は「美しきものに憧
(あこが)れる」性(さが)をもっている。
 それは表面や表皮から起る、恰好づくりではない。こうしたものこそ、猿芝居の最たるものである。そんな表皮に「美しきもの」は存在しない。

 「美しきもの」は、内在的であり、深層部の奥深くに仕舞われている。これを発露させるのは人間であり、人間としての「格」が、これを浮き立たせる。
 「美しきもの」を愛する人間の性
(さが)として、美しき言葉を語り、美しき起居振る舞いを見せ、美しく人生を送る事こそ、人間最大の「美しき映像」なのである。



問答 49
犯してはならない事について教えて頂きたいのですが。

 禁忌。それは一般には「タブー」と云う言葉でおなじみである。そして社会的に、厳しく禁止される特定の行為でもある。
 その尺度の物差
(ものさし)は「礼儀」であり、人はその慎みや謙譲さを忘れた時に、不幸が突然襲って来る。したがって用心の上にも用心を重ね、充分に注意を払って、慎重でありたいと願う次第である。

 目上の人の前や、先輩の前では絶対に腕を組むな。これが横柄に映る。
 常に両手は、膝の上だ。誤解を受ける多くの者は、これまでの自身の持つ安易な先入観と、暗い固定観念から起るものだ。物事を正しく再認識する必要がある。

 また目上や先輩が足を崩さないのに、自分は足が痛いからと言って足を崩したり、胡座
(あぐら)をかくな。痛さに堪え、長時間、静坐ができる事こそ、修行に打ち込む姿だ。
 「痛い」は自分の未熟を顕
(あら)わすバロメーターだ。

 相槌
(あいつち)は考え方に共鳴した時だけであって、それにも関わらず、安易な返事をしたり、返事を求められて「はい」以外の返事をするな。
 また返事をする場合「はいはい」と、二度繰り返すな。自分の軽率さと、軽薄さを顕わす態度は、とるべきでない。同時に「頭の程度」も知れる。
 返事は常に「はい」の一言であることを心得よ。「災いは口より出
(い)ずる」ことを忘れるな。

 目上や先輩の躰
(からだ)を気安く触ったり、肩を叩いたり、背中を叩くな。
 「ヨオー!」などと先輩の肩を叩く事は、周囲の反感を買われるばかりでなく、自分自身の品位を落としている事にも気付かねばならない。また極めて非礼である。常に自分が人から観察されている事を忘れるな。

 
(かぶ)り物と云われる帽子や手拭い、タオルなどを道場内や室内で被るな。
 被り物は、室外での作業中のみに許されるもので、これを室内で被るのは無礼となる。

 陵武学舎では一ヵ月に一度、内弟子寮での親睦会があるが、この席で酒を喰らい、その勢いを借りて、説教じみた議論を唱える事はタブーとなっている。
 酒を飲まない時の、普段はおとなしい者が、酒が入ると急に豹変する人間がいる。そして、こういう手の人間程、説教じみた事を云ったり、愚痴を零
(こぼ)す者がいる。見苦しい限りである。

 酒を呑むには、呑む前の「酒品」という礼儀を心得て呑むべきである。酩酊
(めいてい)に浸り、決して自分が酒から呑まれるべからず。酔って理屈がましい事を云うのは、劣等感の現れであり、底の見える浅い人間である証拠である。
 酒席はホンネで語り合うのに重宝がられるが、しかし酒の力を借りないとホンネが語れないような者は、腰抜けである。また、安易な「無礼講」という言葉を信用するな。

 武術修行中の身でありながら、酩酊するまで酒を飲むのは醜態である。
 また一般の席でも、招待客より先に出来上がってしまうような者は、軽く見られる。酒席は、公
(おおやけ)の席である事を忘れるな。他人の目が厳しい事を忘れるな。
 酒は、用い方によっては人生を謳歌
(おうか)する良き友になるが、人間が社会的な生き物である以上、そこには必ず他人が介入する事を忘れるな。

 深酒すれば、他人に迷惑を掛け、自分の身を害し、酒品
(酒を飲む時の気品)を下げる事が分かっていながら、これを制御できない者は意志薄弱である。また、人格的な欠陥があると思われても、致し方無い事である。酒品を崩さず、酒には充分に注意したいものである。



問答 50
「けじめ」とは如何なる事を云うのでしょうか。

 自分が借りて遣(つか)った物は、必ず許(もと)に返せ。
 そして返す際は、許に復元するか、許の状態にして返すべし。
 喩
(たと)えば、自転車を借りてパンクさせておきながら、そのまま返すのは礼儀知らずであり、バイクや車を借りながらガソリンを浪費しておいて、そのまま返すのは非礼である。
 「許
(もと)の状態に戻す」「許に復元する」と言うのが礼儀であり、「けじめ」と「筋目」を糺(ただ)す事こそ、人間最大の美徳である。

 借りた物品は責任を持つ事であり、返し終えるまで責任はその人間にある。しかし、このことを知らない者は多い。
 かつての内弟子修行をして、9ヵ月で挫折した人間の中に、尚道館の車を借りて置きながら、後ろのバンパーを傷つけ、それを白ペンキを塗って誤魔化し、これを報告せずに辞めて行った者が居た。これは自らがつけるべき「けじめ」を誤魔化した人間である。そして、こういう人間を武門では「恥知らず」という。

 更には、車を使わせてもらいながら、車の中や車の天上を、握り飯など散々汚し、その儘
(まま)、清掃もする事なく、傲慢(ごうまん)に辞(や)めて行った者もいた。こうした人間が、口では、修行だの、人の道だのと二言目には喚(わめ)き捲(まく)るが、結局、この程度の類の人間である。

 自分の不注意で破損させた物品は、責任をもって修理するか、直らなければ同等の物品を弁償するのは世の道理である。
 喩えば、道場の傘を借りて、雨の中を差して行き、それを出先等で盗難にあって、その儘
(まま)にする者がいる。道場の自転車を借りて、駅に止めていたところ、これが盗難にあい、盗まれても、その儘(まま)にする者がいる。

 また、道場内に備えているビデオデッキやDVDデッキを、自分の不注意で破損させ、その儘にする者がいる。ここまで来ると、礼儀知らずもいいところだが、こうした事は、その者の人間性が疑われるので、必ず基
(もと)に復元するか、弁償するべきである。

 何事も、非礼と誤解されないように、こうした、自分の不注意が招いた事は、最後まで自分の責任において果たすべきである。責任のとれない者は、「人間のクズ」の烙印が押されるであろう。恥辱
(ちじょく)に対して敏感な意識を持つべきである。

 目上に対して、褒
(ほ)め言葉を遣ったり、お追従(ついしょう)をするな。
 目下から褒
(ほ)められて喜ぶような上士は、人間のしての底が知れているし、目下は媚(こ)びを売り、へつらわなければ機嫌取りが出来ないと考えるのなら、双方はその程度の人間であり、その程度の人生を送る。

 特に、「その程度」の代表は、「お歳の割には、お若いですね」と云われて喜んだり、「お歳の割には、お元気ですね」と云われてその気になる類
(たぐい)であり、また、こうした言葉を口にする類も、不躾者である。
 これがどうして「不躾」にあたるか、分からないようでも困り者だ。
 更に、目上に対し「ごくろうさま」とか、「お疲れさんでした」等と云うのも非礼であり、これはあくまで目下にかける言葉である。

 もし、年配者に「ごくろうさま」とか、「お疲れさんでした」等とかけて、これを喜ぶようであれば、その年配者はそれ迄の人であり、本来ならば怪訝
(けげん)な目をする筈である。
 「ごくろうさま」「お疲れさんでした」という言葉は、云うまでもなく「労
(ねぎら)いの言葉」であるが、これは目上が目下にかける言葉である。それを無視して、目下から目上に、労いの言葉を掛けるのは逆位であり、子供が大人に向かって掛けるとの同様、「小賢しく映る」のである。
 見え透いたお世辞は、誤解されて侮蔑を招くだけである。言葉をもっと勉強すべきである。

 じろじろと見る非礼はするな。
 相手を興味ありげに見る事は非常な非礼である。また、見られた方は、非常に不愉快を感じるものである。
 喩えば、飲み屋等に入り、それまで中に居た客が、一斉に自分の方をじろりと見る事がある。これは決して良いものではない。しかし礼儀知らずの溜まり場では、こうした事が日常茶飯事だ。だからと言って、当たり前の事だと思うのではなく、見られた側の気持ちを察するべきである。

 「見られたって、どってことないではにか」という者が居たら、その人間は鈍感であり、観察眼に欠ける人間だ。
 また、その人間こそ、「どってことない」人間である。

 ヤクザ等が「顔を見た」「ガンをつけた」等と云って絡んで来るのも、絡まれる側に落ち度があるのである。ヤクザ者だから突っかかったり、いちゃもんを付けて来ると考えるのは、お門違いであり、礼儀を知らない自分の方に大きな問題があると云わねばならない。
 我が流で云う、「礼儀」とは、人間観察の事であり、これを正常に働かし、相手の気持ちになって考えれば、容易に分かるものである。

 目上の人間の進路を塞
(ふさ)がぬ事。
 階段や、通路において、目上が通りかかった時、これを安易に塞いでしまう者がいる。また、目上が階段を昇っているのに、目下は路
(みち)を空ける事もなく、平気で下る者がいる。

 更に、目上と目を合わせながら、目礼一つしない者がいる。
 では、こうした場面に遭遇したらどのようにしたら良いか。
 まず、相手の眼が合えば目礼する事だ。そして直ぐに視線を外す事である。これこそが護身術なのである。次に、心もち腰を折り、相手に路を空け、壁の傍
(そば)に身を寄せて、相手の通り過ぎるのをやり過ごせば良い。

 また、我が西郷派大東流合気武術では、こうした際に、もし通路で目上に出合った場合、
「五尺飛び退(の)いて間合をつくれ」と教える。
 ニアミスもそうであるが、人と接触しそうになった場合や、目上にぶつかりそうになった場合は、咄嗟
(とっさ)に身を退(ひ)く事だ。そして何よりも間合を作り、速やかに攻撃圏外に出るという事である。絶対に相手の制空圏(せいくうけん)に入ってはならないのである。
 武術を志す者であれば、これくらいの素早さは養ってもらいたいものである。



問答 51
襟を正すとはどういう事でしょうか。また恥に対する感覚意識とは、どういう意識でしょうか。

 稽古中の者、仕事中の者に挨拶を送ったり、声をかけるな。
 万一、声を掛けた場合は、その返答を求めず、その場から用件だけを述べて速やか立ち去れ。一心に稽古に打ち込んでいる最中や、一心に仕事をしている最中に声をかけるのは非礼であり、どうしても用件を述べなければならない時は、要件のみを伝えて、返答を求めず、その場から直ちに立ち去らなければならない。これを
「黙認の礼」と云う。

 他人に向けて人さし指を指すな。
 指を指す事で、見知らぬ他人から誤解される事がある。また顎
(あご)でしゃくって、「あいつだ」と他人を指すな。遠くから凝視されれば、敵意のある行動に映る。

 相手の経験や見識に敬意を払え。
 無理に背伸びして、相手と肩を並べるような同格意識を持つな。常に、相手に一歩先譲り、一等下に我が身を置いてこそ、その身の安泰は図れる。同格・対等であっても、決して張り合うな。張り合う人間は、劣等感が強いからだ。

 同情を求めるような話をするな。同情は軽蔑を招くし、低く見られる。
 よく、「親が病気で……」とか、「交通事故に遭遇したので……」という切出し方で、「それでも頑張っている」とか、「それでも来たやったのだ」という恩着せがましい言い方をする者がいるが、こうした、恩を着せ、同情を求めるような言い方は、自分を軽く見せる元凶となる。喩
(たと)え、そうであっても、こうした事は黙っておいた方がよい。どうせ後で知れる事であり、無言の方が高い評価を受ける。そしてこの時、はじめて本当の同情を得る。
 身内の病気や不運を表面に出し、同情を得ようとするのは卑怯者のする事である。

 言葉を軽々しく遣い、文字遊びのように弄
(もてあそ)ぶな。
 言葉を軽んずる事は、品格を下げる事である。また、義理人情や、信義と云った言葉も、軽々しく遣うな。品位を自ら下げている人間に、義理人情家は居ず、信義家も居ない。こうした言葉を平気で遣う人間は、所詮
(しょせん)その程度の人間である。
 言葉は重く用いられてこそ、不言実行の行動律があるのだ。

 入室の心得を徹底すべし。障子や襖
(ふすま)の外では、必ず坐って声を掛け、応答を得て入り、退る場合は一礼すべし。

 モノの上は跨
(また)がず、蒲団の上や、畳の縁(へり)は踏むな。
 刀剣や木刀を跨ぐのは言語道断・心行処滅。

 古参と云えども、思い上がって隙
(すき)を作るな。
 目下の前では警戒を怠らず、横柄な態度をとるな。後で寝首を掻かれ、怨まれれば、倍の仕打ちを受ける。普段から襟
(えり)を糺(ただ)せ。古参は特に、後進の手本になる立場にある事を知れ。立場意識を明確にさせる事こそ、古参と云われる者の使命である。

 へりくだったつもりでも、非礼がある事を忘れるな。
 自分を低きに置き、卑下
(ひげ)する事は、同時に卑下傲慢(ごうまん)になる事がある。安易な卑下は、一種の慢心と心得よ。「へりくだる」ことも、一歩間違えば、驕(おご)る事になるのだ。

 服装や容儀は質素、清潔、機能美を重んぜよ。
 時と場所に応じて頭を遣い、また、直立姿勢、坐り方、椅子の遣い方など、きびきびとした爽やかな動きを徹底せよ。

 跫音
(あしおと)を立てて歩くな。
 重心を「湧泉
(ゆうせん)の位置より先に置き、踵(かかと)をついて歩くな。引き摺って歩くな。歩行は、速過ぎず、遅過ぎず、足頸(あしくび)や膝を柔らかくして歩け。躰の重心軸を崩すな。

 食事は、自分の育った環境や育ち方が克明に現れるものである。
 品位や人格も此処には顕われる。充分に警戒すべし。好き嫌いで食べるな。箸
(はし)遣いに注意せよ。迷い箸、ねぶり箸などの卑しい箸遣いをするな。料理の味を見ない内に、醤油(しょうゆ)やソース等の掛け物を勝手に付け足すな。無態(ぶざま)にガツガツ喰(く)うな。箸は正しく遣え。食事中、不愉快な話題をするな。
 食事後は、目上より先に席を離れるな。どうしても離れなければならない事情がある時は、許可を得て行え。

 恥辱
(ちじょく)に対しての感覚を磨け。憚(はばか)る事を知れ。卑怯未練は行うな。失敗を誤魔化すな。最初から弁明して、隠蔽(いんぺい)工作を行うな。失敗は恐れてはならぬが、同じ失敗を三度するな。無抵抗な人間に無意味な攻撃は行うな。他人の醜態を笑ったり、真剣に学んでいる時に崩した姿勢で高処(たかみ)の見物をするな。
 恥辱意識の低い者は、自分の底を見られてしまう。「何だ、あいつはその程度の人間か……」と思われる恥辱
(ちじょく)に対し、特に敏感である意識を高めよ。

 「世話になった」「恩を受けた」と、口先だけで唱えるのは「人間のクズ」である。
 真当
(ほんとう)の武人たらんとすれば、この世話になった口先以外で恩返しせよ。「恩」は返す事が出来てこそ、「恩を受けた」ことは成就するのだ。
 口先だけで唱えるならば、その人間の人格と品格はそれ止まりである。恥辱に対する意識と共に、世話になったり、恩を受けた事の、口先以外の恩返しをせよ。

 発音や言葉使いは明瞭
(めいりょう)に行え。報告は簡潔を旨とせよ。無駄な形容詞や前置きは省略して、単刀直入に述べよ。

 見送りや出迎えは内弟子の義務である。
 また指導者や目上が帰館した時は、玄関に出迎えるのが基本である。恭
(うやうや)しく振る舞う事を旨とせよ。自分の信じるものを、自分で汚すような事はするな。



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