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内弟子問答集 12

問答 41
現代社会はタテマエとホンネが、どうしてこうも、両者の間にギャップがあるのでしょうか。人間とは、「二枚舌を使う生き物」なのでしょうか。

 昨今は無節操なご都合主義が流行している。
 知識から学んだ限られた個人的な体験に基づき、これを主軸にして恣意的
(しいてき)な、暗愚な接し方で、その時の都合を安直に下す事が多くなっている。企業も、ご都合主義優先の利潤追求に耽(ふけ)る為、一見、臨機応変の柔軟な措置に見える諸業も、実は武術的な見地から見ると、問題だらけであり、特にスポーツジムや格闘技道場の場合は、問題や遺恨を後に残す結果を招くのである。

 民主主義の世の中は、全体の多数決がモノを言う世の中であり、多数決によって正しいかどうかを議論するのでは無く、同意者の多き方に天秤
(てんびん)が傾く社会構造になっている。
 つまり、現代と言う世の中を事細かに注意して観察すると、どこもここも、総てが矛盾に覆われていると言うことだ。矛盾に塗れ理不尽が罷り通り、そこに聖人ではない俗人が屯しているのであるから、そうしてもその場は「二枚舌を使う生き物」で溢れ返って来る。

 正しいか、否かであるという事ではない。一個人の判断がどんなに正しくても、多勢の意見で同意を得る事が出来なければ、その判断は弾劾
(だんがい)され、闇(やみ)に葬(ほうむ)られる。
 正しいか、どうかではない。多いか少ないかの、議会制が、この社会システムの基本であり、この基本装置によって、人は動かされている。これが民主主義だ。デモクラシー下では、タテマエとホンネと言うような、どうしても「二枚舌」が必要になる。この二枚舌は、人類が滅びるまで、永遠に続くだろう。人間とは、そうした生き物なのである。また、現代人とは、こうした世の中に生きている。そこは矛盾と欺瞞
(ぐまん)に充(み)ちた世界なのである。

 したがって多数決の票を巡って混乱が起る。票の行方を巡って「三つ巴」や「四つ巴」の格闘が浮上して来る。
 平等を理由に、背後では力関係に決着をつけるべき綱引きが行われ、水面下では巧妙な根回し作戦が展開されている。人の眼に触れないところでは公然と不正が行われる。これが、自由・平等・博愛・個人的人権の尊重と信じられている民主主義の素顔だ。

 往時の身分社会では混乱がなかったものが、近代に至って「混乱」と「混沌」を招き、この中に身を置いて、「形なし」の文化が蔓延
(はびこ)るようになったのは、「民主主義」と言う名の元に寄生したご都合主義者達の悪しき個人主義的傲慢であろう。
 そして民主主義を定義するならば、一口に云って、「民主主義とは、悪しき個人主義」を云う事が出来る。

 日本人が身分によって、固有の生活圏を持ち、独自の文化を持って居た頃は、多数決等と言う票取り合戦等の混乱はなかった。ところが身分社会が、西洋の「民主」の仮面を被った植民地主義と帝国主義に襲われると、武家文化も、町人文化も、更には「河原者」あるいは「河原乞食」と蔑まれていた芸能人迄が入り混じって、混乱を来し、「型なし」のご都合主義が蔓延
(はびこ)るようになった。

 しかし、このご都合主義に、ひたすら忍従を続ける、一億総中流と自称する日本国民は、この現実に自覚症状を持たない。
 ただ享楽と快楽に明け暮れ、性交遊戯で身を持ち崩すと言う現実に、自ら我が身を委
(ゆだ)ね、エイズと云う不治の病と、ガンと云う不治の病の狭間(はざま)に挟まれ、無慙(むざん)に朽ち果てようとしている。これに危惧(きぐ)する日本人は、実に少ないのである。礼儀知らずの現実が、ここまで日本人を危うくしたと言えよう。

 時代が目紛
(めまぐる)しく激変する中、自分を見つけ出し、発見すると云う事は中々出来なくなった。立場意識も廃れ、筋目意識も廃れた。
 現代人の多くは、我が身一つの身の処し方も知らず、時代と流行に流されて、身を持て余している。競技武道や格闘スポーツは、結果優先で物事を考える為、モノの言い方や態度上の不作法をあまり重要視する事が無くなった。礼儀は無用の長物のようになり、競技に於ては、とるに足らぬ瑣末
(さまつ)な事のように思われはじめた。

 本来武術には、道の修練としての態度を反省する帰納的定義が備わっていた。ここには紛
(まぎ)れもなく回帰的定義があった。また、行動律から起る、「行い」や「言葉」を吟味する「回帰」の要素が含まれていた。
 ところが武道が競技化の道を選択し、格闘技が興行を目的として催される時代、態度の反省や武技の修練法は、勝つ為のみに置かれ、実人生における大事な修練は等閑
(なおざり)にされてしまった。

 武道関係者もスポーツ関係者も、口では「青少年育成」を掲げる。あるいは「社会教育への参加」を掲げたり、「礼儀」を掲げたりする。しかし実のところ、彼等の掲げるテーマが、実は何を意味するか、非常に不明瞭
(ふめいりょう)である。そして具体性がなく、同時に説得力がない。

 彼等の定める武道憲章等を吟味すると、その柱になっているのは「礼節」であるが、これは具体的には人間の生活行動における、「何処の部分を指すのか」まったくもって不明瞭であり、しかも漠然として抽象的である。
 そして客観的に見て、「挨拶」を礼儀とし、「お辞儀」を礼節としているのではあるまいか等と疑いたくなる。

 ここに、我が身の処し方が希薄になった現実がある。
 頸
(くび)から下だけが頑丈(がんじょう)で、ただ人を殴ったり、蹴ったり、投げたりする事ばかりを考えて、練習に明け暮れる、芸能タレント擬(もど)きの人間を大量生産したところで、社会や個人にとって、それが最終的には一体どうなると云うのであろうか。
 果たして、金メダル選手の数を増やす事が、日本の国益にとって、どれほど寄与するという風に考えているのだろうか。またそれを真摯に受け止め、国益だと信じる日本の有識者が、どれ程いるのだろうか。

 武術や武道愛好者が生涯を通じて、これに携わっているのは、敢
(あ)て云えば、それは「武術や武道が好き」という領域のものであり、「好き」という領域は、「好き」以外の何ものでもなく、それ以上でもそれ以下でもないという事である。したがって、一般に信じられているような「人格の向上」等、これらを通じて行える筈がなく、これは社会的意義から見て、武術や武道に寄せられる単にスローガンでしかない。
 要するにこれは、素人の「青少年育成」という政治レベルで考える願望であり、儚
(はかな)い期待に過ぎないという事である。

 こうした短絡的な考え方は、内容の伴わない空疎なタテマエ論を展開し、青少年育成と嘯
(うそぶ)くが、「武」の持つ原点の意味を知らない為に、人間の意識には自分一個の個人から離れて、社会に対し、「何を奉仕するか」と言う具体的な「奉仕」の意味を理解していない。
 武人は、そもそも人民に奉仕する「奉仕人」ではなかったか。
 礼儀を糺し、「分際」という意識を携
(たずさ)えて、他の師表しひょう/人の師となり手本となること)になろうと試みたのではなかったか。

 ところが武術や競技武道が観客を意識しは始めた頃から、一般スポーツ界や芸能界とが地続きになり、これまでの武道界に根付いていた独自の価値観や自覚が失われたのである。そしていつの間にか、「観客アピール」という西洋の思想に汚染され、観客に媚
(こ)び売る姿が目立ち始めた。これが喜怒哀楽の見苦しさだ。選手が右手を上げて掲げるガッツ・ポーズが、そのよき例だ。

 観客受けを狙う考え方は、明らかに観客に媚びを売る態度であり、これは本来のスポーツにもなかったものであるが、芸能界とスポーツ界が地続きになった為に、芸能のそれが、武道や格闘技の世界でも意識されるようになった。

 スポーツも、許
(もと)を糺(ただ)せば、欧州の貴族社会に普及したものであり、彼等が当時、観客にアピールする事を由(よし)としたか否か、恐らく、こうした尺度すらなかった筈だ。
 ところが芸能として捉えられ始めたスポーツはもとより、武道や格闘技の世界にもこれが入り込み、そして今や伝統武術と自称するこうしたものにまで、不節操な歪んだ理屈が罷
(まか)り通り、これに何の疑いも抱かない愛好者が増えて来た。

 だからこそ、我が流はこの危険性を指摘する。
 一喜一憂に振り回される事なく、地道に精進を重ねる事が本来の武の道の姿だ。これこそが武士道実践者の斯道
(しどう)の在(あ)り方だ。

 わが西郷派大東流合気武術の門人は、武士道を重んじ、不本意な恥辱
(ちじょく)を憂いとし、斯道に励むと言う事を第一義とするのである。
 私たちは武術を通じて、スポーツ・タレントや芸能人のように、新聞やテレビで放映される事を目標に掲げて精進しているのではない。人知れず、陰に廻って努力を重ね、工夫を凝らし、「知られざる稽古」を積んでいるのである。そして秘密は、秘密である間が一番強いのである。



問答 42
清掃する意味とは何でしょうか。また、これは人生と、どのような関係にあるのでしょうか。

 「さっぱりとさせる」ことに異論を挟む人は居ないだろう。穢い汚れたところに自分の居場所を需(もと)めるより、綺麗なところに身を置きたいと思うのは人類共通の意識だろう。

 道場の内外を払い浄める。
 これは武術を修行する者にとって、ごく当たり前の事である。ゴミがつき、穢れるのは、何も外に世界ばかりでない。少しでも油断すれば、自分の「心の庭」にもゴミが降り、心までもが穢れて行く。穢れるのが、修行の障
(さまた)げとなるのであれば、常に清掃をしていなければならない。

 「払い浄める」行為に、掃除と云うものがある。
 清掃とは、現象人間界を「浄
(きよ)める」ことであり、自分の裡側(うちがわ)を浄めると同時に、自分の取り巻いている環境も浄めなければならない。また、掃除には「害悪を一掃する」ことが含まれ、清く、潔くすることである。

 「清く」は濁
(にご)りの無い様を顕(あら)わし、「潔く」は清々しい様を顕わす。総称してこれを「清潔」という文字で顕わすが、同時にこれは、その実践者が人格や品行が、清く潔いことを指し、内面的な領域までを顕わすのである。
 浄める事で、心の中の罪穢
(つみけが)れが取り除かれ、これを日々糺(ただ)して行く事で、未来の「見通し」が利く眼が養われて行く。したがって陵武学舎の内弟子は、便所や風呂場、玄関周りや近所の溝のドブ浚(さら)いまで行って、浄めて廻るのである。

 内弟子達が課せられる事は、「清掃」と云う実態を身を以て体験する為に、掃除道具以外に、自分の手を遣い、例えば、便器とか、風呂の湯槽
(ゆぶね)などを直接洗い浄める事だ。身を呈して、さっぱりと払い浄めることこそ、罪・穢れ・災禍(わざわい)などを取り除くことに繋がるのである。

 喩
(たと)えば、「何故、便所の便器を人間の手で洗うのか」という、これ一つをとってみても、便所は一般的に見て汚いと想像し、人間の手は清いと思いがちだが、そもそも両者は、浄穢不二において平等である。これの意味するものは、清浄な悟りの状態と、穢れた迷いの状態とは、現象的には区別があるが、本性上から見れば「不二平等」であるということ指すのである。神仏の目から見て、両者は「平等」に位置するのである。

 人間の目から見て平等なのではなく、神仏の目から見て「平等」なのだ。
 こうした「平等」の本性上から、浄穢不二
(じょうえふじ)の行為を、「穢(きたな)い」等と洩らせば、その人は、それ止まりの人である。



問答 43
約束時間を守る理由について教えて下さい。よく時間厳守といわれますが、時間と言うものはそれほど厳格でなければならないのでしょうか。

 約束時間を絶対厳守するには、「5分前精神」が必要である。5分前に、約束の場所に到着し、互いが決めあった時間を厳守するということは、人生に於て大きな意味を示している。

 一方、約束時間に、10分も、15分も遅れて来る者は「人間のクズ」である。時間の観念が薄い人間は、あえて言えば前頭葉未発達の人間である。前頭葉が発達していなければ、同時に時間の観念も薄く、約束や秘密も直ぐに漏洩させてしまう人間である。

 幼児期の、母親の躾が甘ければ、こうして躾けられた人間は大人になっても、前頭葉未発達の儘、人を観察したり、世の中を考える考え方が実に甘いものになる。したがって厳格という意識もない。こうした人間は要注意である。人生の伴侶や、仕事のパートナーとして選んだ場合、とんでもない煮え湯を飲まされることがある。あるいは平気で毒を盛られ、再起不能の後遺症を患
(わずら)うことにもなる。その判定をするにあたり、時間の観念を見届けることは、よき判定材料となる。

 時間を厳守出来ない人間は、往々にして言い訳がましい。そしてその言い訳は、見苦しさが漂っている。つまり、遅れること事態が、「人間のクズ」の証明である。自らクズである証拠を示しながら、何を言い訳する必要があろうか。

 時間厳守を実行できなかった者は、如何なる理由で弁明しても、人の同意を得る事は出来ない。
 クズは生涯、人から相手にされる事はない。何の価値も見出せない、ただの不要なゴミに過ぎない。如何なる理由があろうとも、約束時間は厳守する事であり、尚道館・陵武学舎では、約束時間の
「5分前精神」を、厳格に義務付けている。

 この精神は、将来自分で道場を開業した時に、多いに役立つのである。人脈造りも、「5分前精神」から始まる。
 この、僅か
「5分間」の時間を自分でコントロール出来ないような人間は、自分の人生すらコントロールする事が出来ず、生涯、コントロールできない自分に振り回されて、無価値の儘(まま)、自分の人生を閉じる事になる。
 「5分間」の時間を失う人間は、「五十年」の人生を失う人間であり、殆ど何も出来ずに哀れに死んで行く。

 時間とは、保存や備蓄の出来ない
「貴重な資源」であるということを、肝(きも)に命ぜよ。この「貴重な資源」を無駄に浪費する者は、生涯、人から相手にされる事はなく、人からの信用もなく、信頼も得る事が出来ない。

 約束した時間と場所には、必ず
「5分前」に到着することが肝心であり、約束の時間までの「5分間」と言う時間は、心に余裕を作る時間と心得るべきである。仮に、約束時間通り、その場にピッタリと到着したとしても、その時間と同時に、相談や面接などの物事の展開を実現する事は不可能であり、やはり心に余裕をもって、静かに、それ迄の時間、「瞑想」できるような時間が必要なのである。

 こうした余裕の無い人間は、自他共に不幸・不運に陥り、特に、相手の遅れた事を指摘出来ない人間は、同時に自分自身も相手と同種の人間であり、やがてこの人間も、人から相手にされなくなり、信用も信頼も得る事が出来ないであろう。

 繰り返すが、時間とは、保存や備蓄の出来ない
「貴重な資源」であるということを肝に命じ、生涯これを違(たが)えるような事をしなければ、たいした不孝や不運には見舞われないものである。また、人の運・不運は、こうした時間厳守にも起因している。



問答 44
精進や努力や工夫と、人生とは如何なる関係があるのでしょうか。

 精進・努力・工夫の日々の生き方は、人生を益々豊かにする生き方である。
 道を求めて精進・努力する事は、いわば人間の持って生まれた「使命」のようなものだ。
 精進し、努力して、道は始めて極められるものである。

 しかし「努力する」といっても、単に努力だけでは「徒労努力」で終わる事が多く、そこには
「工夫」が必要となる。
 工夫を凝
(こ)らし、工夫の眼を養う事で、人は正しく将来を見通せる未来が開けるのである。また、「日々精進」の意味もここにある。
 工夫において、今日の反省は、明日の進歩に繋
(つな)がるのである。

 精進・努力・工夫というのは、人間の
「進歩」並びに「進化」の度合いを表現する言葉である。進歩なく、進化ない状態に甘んずるのは、人のそれではなく、動物のそれである。動物には進歩や進化の観念がない。単に、エサを喰(く)らい、日々を経験し、生命の補給をしているに過ぎない。
 特に、人間から飼われている動物は、この度合いが甚
(はなは)だしく、自分がどういう立場にあるか、その自覚すら出来ない生き物である。

 しかし愚者は云う。「動物には心配事もなさそうだし、動物に生まれる事はそう悪いものではない」と。
 しかし果たしてそうだろうか。
 それは動物の「生」の本質を見落としている考え方であり、非常に短絡的である。もし、あなたが、牛や豚に生まれたら、果たして「心配もなさそうだし……、それも悪くない」と結論付ける事が出来だろうか。

 海に棲
(す)む動物達や、それ以外の小魚や貝や亀等について考えてみよう。
 大きな動物は小さなものを食べ、あるいは強いものが弱いものを食べると云う自然界の掟
(おきて)がある。一方で小動物は、躰の大きな動物の隙を窺(うかが)って、大型動物の「くぼみ」を食べるという「食い荒らし」を行っている。眼に見えない細菌類や、バクテリア等がこれに入る。

 彼等は大きな動物、強い動物が他を食べると言う食物連鎖の中にあって、他を食べ、自分も他に食べられると言う現実がある。そして彼等は、この輪廻
(りんね)に等しい輪の中から一歩も外に出られないのである。
 また、彼等には輪の外に「出よう」という知恵がない。これは陸に住む動物とて、例外ではない。

 他の動物に喰われたり、人間から殺されて食べられたり、あるいは使役されて酷使され、飼い主の我が儘で飼い殺しをされるペット等も同様であり、彼等は大自然の中で生きている動物以上に、そこから逃れる事は難しい。

 昨今はペットブームで、自分の飼う動物をファッシュナブルにし、まるで着せ替え人形のようにこれを楽しみ、人間側はこれを「癒し」と銘
(めい)打っている。しかし動物側やペット側からすれば、甚だ迷惑であるのには違いなく、果たして彼等は動く人形のように弄(もてあそ)ばれる事を喜んでいると言えるだろうか。
 また、彼等の、「生まれて、死ぬ」と言う、人間の作為的な思考に弄ばれた運命が、喜ばしいと思うだろうか。

 一方、弱肉強食の食物連鎖にあって、強いものから食べられる弱い草食動物は、どうであろうか。いつもビクビクしていて、いつも周囲を警戒し、ゆったりとした時間を彼等は満喫できるだろうか。

 特に、人間に使役され、やがて殺される動物達は、自分の自由と言うものを、全く奪われている。熊や虎は、自らの毛皮を剥
(は)がれる為に殺される。麝香鹿(じゃこうじか)や、角を持つその他の動物は、臭い袋や角を採られる為に人間から殺される。
 そして更に哀れなものは、人間に飼われている家畜としての牛や豚だ。
 彼等は、最初から殺される為に、人間に喰われる為に、生まれて来るのであるから、これほど哀れなものはない。

 しかしながら、動物達は最初から自由を奪われる運命にありながら、そこから抜け出そうとする意識が働かない。自分ではどうしたらよいか、検討もつかないのである。これはペットとて、例外ではない。
 だからこそ、動物の心は、「愚かさに曇らされている」と言える。
 彼等は愚かさや無智の為に、果てしない苦しみの中に輪廻循環していて、そこから一歩も抜け出す事ができず、然
(しか)も、そこに無慙(むざん)に埋没して行くのである。何と哀れな運命だろう。

 動物と云う生き物は、その意識の中に精進し、努力し、工夫すると言う意識が働かない。だから永遠に動物であるのだが、あなたは日常生活の中で、動物の肉を喰らい、動物の脂肪や乳製品を喰らい、あるいは「癒し」と称して彼等を飼い、彼等の悲しい心の裡
(うち)を察した事があるだろうか。彼等の心になり切って、その苦しみを察した事があるだろうか。

 人間現象界は、常に主体が人間であり、人間以外にその主体はない。「動物愛護協会」等と言う、口では奇麗事を云って、動物愛護に廻
(まわ)る連中も、その主体は自分であり、自分か感じる主体で物事を考え、自分の独断と偏見による自己主張に従って、人間界から下位の畜生界を見下すような眼で、動物を見下ろしているだけに過ぎない。
 動物愛護協会の会員ですら、動物の立場で動物を愛護しているのではなく、人間の立場で、独断と偏見に満ちた地球環境を掲げているに過ぎない。

 苦しみに喘
(あえ)いでいる動物を視(み)たら、あれはかつての自分の父母であり、兄弟姉妹であったかも知れないと観(かん)ずる事だ。
 更には、一見、長閑
(のどか)で幸せそうに飼われていても、食しているこの肉は……、飼っているこのペットは……、過去の自分であり、彼等は苦しみを音色に変えて、人間の分かるように口にはしないが、ああやって苦しんでいるのは自分自身であると気付く事だ。

 動物に生まれて来た事の、彼等の苦しみが理解できれば、今、自分は何をしなければならないか、分かるはずであり、彼等動物の立場が分かれば、「動物に生まれる事の苦しみ」を理解し、瞑想して、動物以下に墜
(お)ちない為にも、精進・努力・工夫が、人間として如何に大事か気付く筈である。



問答 45
粗食・少食の目的とは何でしょうか。人間には栄養学で言う「最低カロリー」と言うものがありますが、これを無視してまで、何故、粗食・少食をするのでしょうか。

 食べない贅沢(ぜいたく)という食思想がある。現代は飽食の時代と云われて随分と久しい。また、こうした時代が批判されながらも、世の中はそれにも関わらず、飽食の時代である。
 誰もがグルメを気取り、美食や珍味に舌鼓
(したつづみ)を打っている。

 一方、グルメを気取り美食に惹
(ひ)かれ、食べ過ぎて贅沢を満喫する美食思想がある。
 飽きるほど食べ、美味しい物があると聞けば、千里の道も何の其の。遠くからでも押し寄せ、長蛇の行列を作る。外国へも押し寄せて行く。日本国民は今や、一億総中流を気取り、飽食と退屈に明け暮れている。そして、食べ過ぎにより、早々と死んで行く現代人は多い。

 しかし一方で、食傷を煩
(わずら)い、肥満症や糖尿病を病み、自分の命を粗末に扱っている現実がある。こうした世情にあって、喰(く)らい尽くすのではなく、飽食に明け暮れる「どんぶり腹」を余所目(よそめ)に、「食べない贅沢」という事があるのも知らなければならない。

 また、「食」は命を繋ぐ原動力であり、食べる事を楽しむ為のそれではない。美食に明け暮れて、珍味などを好むようになると、体躯は肥満に傾き、高蛋白の食肉や乳製品に喰らい付き、運勢的には「凶」となり、あるいは食に偏
(かたよ)りがあると、好き嫌いが激しくなり、ジャンクフードのようなスナック菓子ばかりを好み、しいては拒食症を招き、痩せ過ぎとなって命を落とす。
 体躯は「中庸
(ちゅうよう)が大事であり、いずれにも偏ってはならない。肥り過ぎは躰(からだ)の中に病気と運勢的な凶事を抱え、痩せ過ぎは心の片隅に、自殺願望を抱いている。

 以上のいずれにも偏ること無く、不偏不倚で過不及のない「中正の道」を歩く事こそ、人間に課せられた霊肉育成
【註】半身半霊体を指し、霊体5に肉体5の分離する体躯)の最大の課題である。飽食に時代に、飽食に溺れることは、徳論の中心概念を狂わすことになる。

 現代は食道楽の真っ只中にあり、美味しい物を食べたいだけ食べる贅沢が食通を中心として、マスコミ上で展開されているが、マキシムのローストビーフや、中華料理の大皿を囲む飽食者の貪欲に対し、あえてこういう時代だからこそ、「食べない贅沢」と言うものがあるように思う。
 食べ過ぎの「害」という、食傷は医学上、よく云われることであるが、肉体や味覚の世界を離れて、精神的なアングルから「食べない贅沢」という云う優雅さがあってもいいと思う。

 終戦直後の昭和20年代、日本列島では多くの国民が飢えていた。この時代感覚は、食べないことは、食べられないことであり、実に惨じめであった。
 ところが飽食の現代にあっては、粗食・少食に徹し、玄米粥を梅干一つで、30分も、一時間も掛けて、脂がギラギラとしたフランス料理や中国料理を余所目
(よそめ)に、物質と文明の贅肉に食傷した我が肉体を癒(いや)す、優雅さくらいは持ちたいものである。
 昨今、食べないで死んだ人は居ないが、食べ過ぎで死んだ人は数え切れないくらいだ。現代は心も躰も食べ過ぎなのだから、少しは内臓を休ませるべきである。

 本来は内臓もストレスを感じるのである。動蛋白の多く含む美食を、これでもか、これでもかと内臓に送り続けると、内臓はそれだけで悲鳴を上げているのである。酷使し続ければ、やがて故障が起るのも必然的な理由であろう。



問答 46
「負けない境地」とは如何なるものでしょうか。世に中には、勝か、負けるかの、白黒二つしかないのに、「負けない境地」とは、勝つ事を放棄した境地なのでしょうか。

 人生を生き抜いて行く為には、実学として通用するナマの教養を高める必要がある。

 品位や人格は、教養の高さで決定される。
 物事の善悪を判断したり、事象を観察する祖の眼力は
「教養」から起るものであり、教養が欠ければ見識眼は養われず、また、世の中の「見通し」の目も利(き)かなくなる。常に、情況判断は教養の高低に左右されるものであり、教養のない、乏しい思考力では、やがて敵から無慙(むざん)に葬られる事になる。

 教養を高めるには、単に本を読んで読書をするだけでは効果がない。実学としての行動学を学ぶ事によってのみ、成就されるものであり、通り一遍の読書をして、「何ページに、何が書かれている」などを記憶したところで、そんなものは、「実学」としては役に立たない。

 実学としてのナマの教養を積んだ人間は、暴力に出あった時機
(とき)の対処の仕方も、一般人のそれとは異なる。教養の持ち主は、まず腕力を振るう前に、頭を使う。同時に「言葉」を武器として使う事が出来る。自分一人が逃げれば済む時は、つとめて相手になる必要はなく、逃げられる時は、まず逃げる事を考えるものである。

 ところが中途半端な競技武道の経験者は、暴力に出会い、これに対処しようとして試合ルールで相手になり、最後は刺されて命を失う事になる。
 「逃げる」ことは「負けた」ことにならない。しかし窮地
(きゅうち)に追い詰められて、どうしても交戦しなければなら無くなった時、切られ傷、刺され傷、覚悟で立ち向かわねばならない。ゆめゆめ、無傷で、これを生け捕ろう、制そう等という事は、絶対に思わないことだ。

 そして素人は「手が速い」ということも、予々
(かねがね)より心得ておかなければならない。いつも、素人から刺されて重傷を負ったり、命を失うのは、たいていが武道経験者か格闘技経験者だ。

 日常と非日常の、頭の切替は機敏でなければならない。そして、万一戦わねばならなくなった時、事の推移や、事情を証明してくれる証人の協力を予
(あらかじ)め請うてなければならない。一対一ならば、相手は刃物を持っていても素手で戦え。複数ならば、道具を使って撹乱する事もよし。道具を使う時は、躊躇(ためら)わず一気に行え。ただし、相手に重傷を負わせないような努力だけは、最後まで捨ててはならない。

 こうした情況判断を瞬時に行い、
「負けない境地」を作り出すのは、総(すべ)て「教養」の為(な)せる技であり、決して机上の空論からは、日常を非日常に変化させる事が出来ないのである。また、「臨機応変」という行動律も、咄嗟(とっさ)の頭と度胸の為(な)せる技であり、教科書などに示される知識ではない。
 知識を離れた、常々の教養の深さがモノを言うのであり、知る事と、行い事は一緒であると云う行動律こそが、
「知行合一」の原点なのである。



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