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内弟子問答集 10

問答 33
人生の運・不運とは何でしょうか。また、何を基点にして運・不運は起るのでしょうか。

 志は苦難の中でのみ成就する。人生は苦があって、次に楽がくるものだ。物事を成就させる条件は、苦が付き纏(まと)うものである。

 
『孟子』には、次のようにある。
 「天の将
(まさ)に大任(たいにん)を是(こ)の人に降(くだ)さんとするや、必ず、まずその心志(しんし)を苦しめ、その筋骨(きんこつ)を労す」とある。

 これは、「天命」と言うものは、その人に大任や大役を仰
(おおせ)せ付ける時、必ず、「これでえもか、これえでもか」と苦しめ、その志と信念に嘘(うそ)(いつわ)りがないか、徹底的に試し、筋骨がボロボロになるまで苦労させ、骨を折らせるというのである。

 人間の人生において、骨を折り、苦労することは非常な苦痛が伴う。
 また、人が恐れ、避けて通りたいのは「苦難」である。苦難の中でも、病気や、災難や、貧困や、不成就などは避けて通りたい苦難であり、かつてはこうした苦難や不幸は、悪魔の仕業
(しわざ)とされ、忌み嫌われたものであった。

 そして現在でも、この迷信は人々の心に深く根付き、これを家相が兇
(わる)いからとか、先祖の罪の現れだとか、因果応報いんがおうほう/過去世における善悪の業で、悪い事をすれば悪い報いが、良い事をすれば良い報いがという仏教布教の教え)の報(むく)いだとか云って、仏教用語を持ち出し、過去における善悪の業(ごう)に応じて現在における幸・不幸の果報を生じ、現在の業に応じて、未来の果報を生ずること等と、安易に決めつけた。

 しかし「仕方がない」と諦めてしまうのは愚かなことである。
 苦難は元々、天命における火と水の「試煉
(しれん)」だからである。苦難を、耐え忍んで努力すれば、必ず良い結果が生まれる。

 古
(いにしえ)の勇者・山中鹿之介やまなかしかのすけ/戦国時代の武将で、名は幸盛。出雲の人で尼子義久に仕えた。しかし、1566年(永禄9)義久が毛利氏に降ったので、尼子勝久を擁して戦ったが、のち播磨(はりま)上月(こうづき)城で毛利方に攻められ、捕えられて打ち首のなった)は、「我に七難八苦を与えたまえ」と自ら進んで、三日月に祈ったと言えれる。

 また、『マタイ伝』
(7-13-14)には、
 「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きく、その路
(みち)は広く、これより入る者は多し。生命に至る門は狭く、その路は細く、これを見い出す者は少なし」とある。

 生命に生き、それを全うする門は、非常に狭くて、入り難く、また苦しいし、痛い。更には、醜く、見窄
(みすぼ)らしく、見て呉(く)れは非常に悪いものである。しかし、それが酷ければ酷いだけ、しっかりとした足取りで進めば、必ずや、この門の扉は開かれる。
 そして門の奥で待ち構えているのは、広き門とは桁
(けた)違いな、歓喜と光明に輝く眩(まばゆ)いばかりの幸福であり、幸福とは苦難から入る狭き門だったのである。

 人は苦難に襲われたり、窮地
(きゅうち)に立たされると、つい弱気になって、考え方を消極的に運び、己の「運命」の不運を嘆くようである。そして、人の一生は「運命」によって定まり、これは人間の力ではどうしようもないと諦めてしまうようである。

 しかし人の一生は、占師が言うように、運命で左右されるものではなく、またその人の生年月日や時間が分かれば、それだけで運命がすっかり分かると言うようなものではない。
 「運命に左右される」というこの考え方は、非常に危険な考え方
【註】占いは深層意識に暗示をかけ、九星気学に見るような、統計的に人の生年月日を分類し、この分類によって未来を占うと言う暗示性の強いもの。この意識下で前頭葉の発達の未熟な者は、暗示に掛かり易く、占い無しでは見通しが立たなくなる)であり、「果報は寝て待て」という怠慢(たいまん)な性格を作り出してしまう。

 いま流行りの、テレビ番組などに出ているカリスマ占師や、自称・霊能者と言う手合いの「言」は、でまかせと嘘が多くて、これを信じる要素は何一つとしてないようだ。

 「運は天にある」のではなく、苦難を体験して、「人事を尽くして天命を待つ」というものなのである。人事を尽くさずして、天命の働きようはなく、毅然
(きぜん)と人事を尽くすから、その行動律においてのみ、運は開けるのである。

 「方位」にしても同じ事であり、怠け者は幾ら良い方位をとっても良い方に働かず、また悪い方位を避けても、益々悪くなるばかりである。
 特に九星気学のような、変型方位版
(60度と30度。そして右に5度ずれる)を使っての「方位取り」は、危険であり、そこから土や水や塩などを持ち返ったとしても、決して「果報は寝て待つ」ような怠け者には働きようがなく、運気は益々停滞するどころか、逆方向の悪化の方向に向かう。

 本来の、《八門遁甲》
はちもんとんこう/地球を球体を看做し、正八角形の遁甲盤に自分の位置を配当し、ここから複雑な計算をする兵法。大学レベルの物理数学などの不得手な人には、非常に難解で全く理解できない。素人は絶対に手を出さぬのが賢明)でいう軍立(いくさだて)をする中国古典物理学では、良い吉方(きっぽう)をとっても良くはならず、また悪い災方(さいほう)をとっても悪くならないと言うのが本当であって、方位次第で運気が上下するものではないのである。

 したがって「人の境遇」などというものは、予
(あらかじ)め定まっているようなものではなく、その人が苦労しつつ、逆境をものともせず、毅然と立ち向かえば、その人の心通りに、境遇の方が「変わる」ということなのである。


問答 34
流れるような、理に叶った機能美とは何でしょうか。

 機能美を追求することは、人生の大事な課題の一つである。
 
武人の行動律は「機能美」に集約されていなければならない。
 したがって、抽象的な非現実主義が嫌われ、現実的かつ機能的なものが尊ばれる。この機能美の中には、作法としての「隙
(すき)のない振る舞い」を重視し、隙をつくらぬ配慮に心掛ける。

 例えば、ある会社などを訪問して、会社の廊下に一片のゴミが墜
(お)ちていたとしよう。
 これを発見した時、次ぎのような判定が下せる。
 まず、この会社は廊下にゴミが墜ちていても、社員は誰もゴミを拾う人など居ない。次に、ゴミを拾えない程、この会社は忙しい。そして最後に、社長も、ゴミが墜ちているのに気付きながら、自分でも拾うのが厭
(いや)だから、このまま放置した。

 しかし、ゴミが墜ちていてそれを拾おうともしない会社は、はっきり言って「斜陽」に向かっているのは紛れもない事実であろう。
 また、こうした会社の経営者も、社員の躾
(しつけ)のぞんざいな、ただの凡夫(ぼんぷ)が社長を遣(や)っているに違いない。要するに観察眼がなく、隙だらけの、心が盲(めくら)のような社員が居(お)り、経営者が居(い)ると言う、斜陽に差し掛かった会社と言えよう。したがって、会社の将来性もゼロと言うことになる。そして機能美などは、何処にも存在していないことが分かろう。

 これは道場や、それに附随している内弟子寮についても、同じ事が言える。
 本来ならば、武人の配慮は隙を作らぬ事で一貫していなければならない。常在戦場の意識を自覚し、いつ、いかなる時も、即応できるような体勢を作り上げ、有事の際に対処できるような態勢を整えて置く必要がある。

 使い古された言葉であるが、「火事は出来るだけ出さないようにしなければならない。よく注意して火の元には細心の注意を払い、火の用心には心掛けねばならない。しかし、万一火事が起れば、この火を消すだけの訓練と準備をしておかなければならない」という、外国の用心に対する諺
(ことわざ)がある。

 「火事は出来るだけ出さないようにしなければならない」
 これは万人が願う気持ちであろう。しかし用心しているからと言って、火事がこれだけで防げるとは限らない。人間は不注意の塊
(かたまり)のような生き物であるから、聞き逃しや見逃しがあるのは当然の事である。その為に、毎日毎日、起こりようもないと思える火事に対して、消防士や消防レンジャー隊員は過酷な消化訓練と救出訓練を繰り返しているのである。

 武術で言う、「負けない境地」も、実はこれと同じであり、武を練り、修行をし、稽古を繰り返して、隙を作らぬ事が「負けない境地」を確立しているのである。したがって、「常在戦場」という意識が必要になる。
 日常の瑣末
(さまつ)な所作の一つ一つに心を配り、どんな小さなミスも見逃さず、些(いささ)か神経質と思われるような注意を注がなければならないのである。

 尚道館では、この事を火事に喩
(たと)えて教訓に挙げているが、これは決して命令したり、あるいは一切を指導する宗家先生が一々、事細かに注意をすることはない。廊下や階段に小さなゴミ片が墜ちていても、これを拾えとは、一言も言わない。
 では、もし廊下や階段にゴミが墜ちていて、内弟子も気付かないとすれば、いったい誰が拾うのであろうか。それは指標に立つもの自らが、ゴミを拾って廻る。

 何年か前の夏季合宿セミナーの時、合宿が始まって何日が過ぎ、心の弛
(ゆる)みが出た頃、玄関前に並べられた参加者の履物がぞんざいになり始めた。スニーカーや雪駄などは揃(そろ)えられておらず、脱ぎっぱなしの状態になっていた。そしてこうした履物を、きちんと揃えようとした参加者は一人も居なかった。

 そうした時、これに逸早く気付き、門人や参加者達の靴を無言で揃
(そろ)えていたのは、実はその道の指標の立場にある者だった。この事に気付いたF師範は、慌てて飛んで行き、途中で宗家先生と交代したが、「指導者は、自らその行いを無言の儘(まま)で示す事が指導的立場にあるのもの姿だ」と、わが流では教える。

 したがって内弟子の我等も、この教えは厳守しなければならない。しかし用心深さや、注意深さや長時間の緊張に欠ける我々は、見逃しや聞き逃しも多く、疲れて、つい緊張が弛
(ゆる)み、瑣末な所作も作ってしまう事もしばしばである。

 また、注意事項に、「跫音
(あしおと)を立てて歩くな」とか、「コップや湯呑みや盃は右手で持つな」という教えがある。
 跫音を立てる事は未熟な証拠で、膝・腰が弱い事を表し、西郷派大東流の「弓身之足
(きゅうしんのあし)の修行が足らない事を物語り、敵に対して跫音を聴かれて自分の居場所を教えるようなものであり、盃などを利き手の右で持つ事は、利き手を制するとして致命的であると戒められる。

 特に、利き手を塞
(ふさ)いでしまう事は、いざという時に即応が出来ず、常に利き腕は自由にさせておくと言う事が原則であり、これこそが武門の行動律なのである。
 また、坐礼の時は、初段補以上の有段者は利き手でない左手から床に手をつき、壱級から初心者一般は利き腕の右手から出すように教える。

 一方、黒帯以上は利き手でない方から出しますが、それ以外は誠意の現れとして、未熟を認め、また、上士から技の指導を受けると意味も罩
(こ)めて、利き手から出し、ここに西郷派大東流の特異な身分が存在しているのである。

 この身分は、身分制度のそれではなく、また黒帯以上が威張る為の身分でもなく、修行者としての先達の身分に敬意を表すのである。
 つまり「発心順」
ほっしんじゅん/入門順)というのが、西郷派大東流の諸先輩を尊敬する敬意の現れれであり、特に黒帯と、それ以外を発心順に修行者としての会得範囲を示し、敬意の象徴として許された証(あかし)がこれであり、この伝統はもう、五十年以上も続いているわが流の掟(おきて)なのである。
 こうした所作も機能美から生まれた、上下関係の摩擦を避ける為の、身分を表した無言の礼法と言えよう。



問答 35
有形の価値観と無形の価値観は、どう違うのでしょうか。

 命を縮める愚行と、命を延す法には次ぎのような、天地を分ける隔たりがある。
 
人間には大きく分けて、二通りのタイプがある。それは有形の形あるモノに、某(なにがし)かのエネルギー入れ揚げる人と、無形の、形のないモノを大事にする人である。

 つまり、金や物や色
(かつては中国の女性の纏足(てんそく)などにも見られるように、女性は「モノ」としての存在でしかなかった。中国では、女児が4〜5歳になった頃、足指に長い布帛を巻き、第1指(親指)以外の指を足裏に折り込むように固く縛って、大きくしないようにした風俗で、清の康熙帝が禁止令を出したが効果がなく、第一次世界大戦の頃まで続いた)と言った形ある、この世限りの物品を大事にする人と、形など無い、未来永劫に存在する、人が奪うことの出来ない無形のモノを尊ぶ人である。

 多くの人の支持は圧倒的に前者であり、後者は数えるくらいにしか居ない。この意味で、人は案外、浅知恵と言えよう。世の中の本当の宝と言うものは、自分の外にはなく、自分の裡側
(うちがわ)にあるのである。そして自分の裡側に存在する、たった一つの宝を粗末にしている。

 宝とは、とりもなおさず「自分自身」のことであり、これを粗末にして自分の外側に置かれる金・物・色ばかりを大事にしている。
 金の有り難さを考えこれを大事にし、物の使い勝手を知り、これを大事に使うと言うことは決して悪い事ではない。しかし、こうした物ばかりを大事にし過ぎて、逆に、自分を粗末にしている事は決して喜ぶべきことではない。

 金・物・色を大事にするあまり、自分を大事にせず、逆に、金や物に「けちる」ようになります。また、人から罵詈雑言
(ばりぞうごん)が飛んで来れば、これに腹を立て、逆上すると行った愚行を重ねている。その実、自分は大事にせず、また精神衛生上の注意も怠り、命を縮める事ばかり励んでいる。

 命の延命は、まず自分を大事にする事であり、これは「甘えさせる」という意味ではない。厳格に自分を鍛え、易より難へと追いやり、その行動律を厳しく律し、甘さに流される低空飛行に抑止を掛ける事なのである。
 金銭を求め過ぎれば、アルコール依存症のように、無限にアルコールを求めるようになり、また麻薬患者のように無性に麻薬が欲しくなる。周囲に高価な物財を置くと、これもまた無性に次から次へと際限なく物財が欲しくなるもので、その限りがない。色でも、耽り過ぎれば「精禄」を使い尽くし、この浪費は結局命を縮める事になる。

 何事も程々がよく、食事にしても美食や珍味ばかりを好んで食べると、最後は食傷
しょくしょう/食い飽きて、次から次へと珍種の美食が欲しくなる。春秋戦国時代の、君子として知られた周王ですら、美食に食べ飽き、嬪(そばめ)の言に従って人間の子供の人肉を食べた)を煩(わずら)い、命を縮めてしまう。

 洪自誠
こうじせい/明末の儒者・洪応明の事で字は自誠。儒教の思想を本系とし、老荘・禅学の説を交えた処世哲学書を『菜根譚』に説く)が著わした『菜根譚(さいこんたん)には、次のように記されている。
 「口当たりのよい美食や珍味は、これを過ごせば胃腸を損ない、五体を傷つける毒薬となる。美食や珍味に溺れる事無く、程々にやめておけば害する事はあるまい」また、「心を喜ばす楽しみごとや享楽は、これに耽れば、すべて身を誤り、人格を傷つける原因となる。楽しさや狂喜に溺れる事無く、程々に手を引けば、後悔する事もあるまい」とある。

 あるいはグルメ通を表
(ひょう)して「野草で腹を充(み)たす人は、心が清く、玉のようだ。美衣美食に溺れ飽きた人は、心が卑しく、浅ましいものだ。物欲を抑える事がで切れば、理想を追求する事が出来る。物欲は理想の敵である」と、こう言わしめている。

 則
(すなわ)ち「御馳走(ごちそう)も満腹すれば味が無く、色事などの情事も終わってしまえば味気ないものだ。それを思えば、金・物・色にぐらつく心も静止する事が出来る」という意味を述べ、「欲望の空しさ」を教示している。

 人間は一日のうちに、朝・昼・晩と各々に上下する浮動の心があり、鍛えられ、抑止力の無い心は常にぐらつくものである。したがって、動揺する心を静止させ、不動にさせる事ができれば、これこそが「命を延ばす法」であり、私たちはいつの時代であろうとも、「一点の素心
そしん/かねての心)」を貫こうと努力しなければならない。



問答 36
死生観について教えて下さい。人間は年々歳をとり、やがて死に近付いて生きます。これを解決する為の心構えはあるのでしょうか。

 死生観を超越することが大事である。人間は、生きているうちに、生死(しょうじ)を超越する意識を抱かなければならないのである。

 
人類に公
平かつ対等に課せられているのは「人の死」である。
 人の死は、時代の古今東西、長幼も、あるいは性別に関係なく訪れるものです。何人
(なんびと)も、生・老・病・死の四期は踏(ふ)まえなければならない。そしてこれは、逃れる事も、延ばす事も許されず、必ず果たさねばならない「人間の責任」のようなものである。

 人生の終止符は「死」によって齎
(もたら)され、生きた証(あかし)の人生の総決算は、「死」によって訪れる。人の世で、「死」こそ一大事の、大事業はない。

 人間の最後の欲望があるとしたら、それは「生命欲」ではないだろうか。ひたすら「生きる」ことに縋
(すが)り、死を先延ばしにしたい欲望ではないだろうか。
 この欲望が、生に執着するとすれば、生を断ち切る断絶の悲痛な現実は、死によって意図も簡単に断ち切られてしまう。また、生命欲を断つ断絶が死であるからこそ、「死にたくない」と思う唸
(ねん)が最も強いのは、人情からしても、当然の事と言えよう。

 しかし一方で、こうした人生最大の悲痛な叫びを乗り越える方法として、死生観を超越する克服の道を模索していなければならない。これこそ、人生の最重要課題であり、これに向かって人は努力を惜しまぬようにしなければならない。こうした努力を「死の超剋
(ちょうこく)」と言う。

 しかし、人の所有する生命の本質は玄妙
(げんみょう)なものであり、人の死は人生の終わりを意味するものではありません。一切の人生の成果は、死で完結するのではなく、死は、単に生の終焉(しゅうえん)でしかないのである。

 生きていると言う事は、「形を有する」ことであり、また、これに応じて成長するという事であり、変化し、現象人間界に「形を変化させる」
(体格を変化させる)という現象が現れ、ただ、こういう事を、「生」と云っているに過ぎない。
 しかし、隠れた真の存在は「顕幽
(げんゆう)なる反面があり、これは何処までも無形の存在である。この無形の存在は、常住(じょうじゅう)であり、不変なる面を持ち、絶対界の存在である。

 一方人間の思考は、形あるものに執着し、形のみに囚
(とら)われて、現象世界の形を見て、それを科学と名付けたり、科学的【註】多くの日本人が「科学的」と称する科学は、17世紀の「ニュートンの古典物理学」を指し、これを総称して科学的と呼んでいるに過ぎない。したがって量子力学などの量子論を指すのではない)と称して自己満足に浸る。しかしこうした、可視世界での科学は、現象の一局面を捉(とら)えたものに過ぎず、形の生を追いかけるが、本来無形のはずの死の本質を見ようとしない。したがって、これを逃避するから、死は「恐れるもの」の題材となってしまう。

 生の本質を考えると、実は、生の実態は「無」に立った「有」であり、「空」に応呼した「色」に過ぎない。したがって死は、死した後、何も無くなってしまうのではなく、無くなったように見えるだけのものなのである。

 勿論、人間が死ねば、人間としての人体を構成する肉体は失われ、形は崩壊する。死語、肉体は帰るべき処に帰って行き、土に戻り、水へと帰っていく。更に、複数の元素に還元され、肉体を構成していた生体としての容器は、命体の無形の魂
(たましい)を解き放ち、魂はもとあったところに回帰していく。
 そして、生死は循環し、還元して、永遠の生きとし生けるものの生命が繰り返し続けられるのである。



問答 37
死生観を超越するとは、どういう事なのでしょうか。果たして人間は死の恐怖を超えられるものなのでしょうか。

 歓喜(かんき)と人生の関係は大事なものである。「喜び」を観じるか、そうでないかで人生の形態は大きく変わってしまう。

 人が生まれる時が喜びであったら、また死ぬ時も喜びでなければならない。これは朝起きる時が、今日一日の希望に満ちた喜びであるのなら、その終日の、寝る時も、また喜びでなければならないのと同じである。人生には、次から次へと喜び事が吹き出しているのである。

 これは金銭についても同じ事が言えよう。
 金銭が入る時が愉快であるならば、また、金銭が出て行く時も爽快
(そうかい)でなければならない。これは貯金が嬉しくて、借金が悲しいと言う道理はないはずだ。
 物事をこのように考えていくと、生まれる時が喜びであれば、また、死ぬ時も喜びであるはずなのである。喜びの連続と人生を捉えるか、苦の連続と人生を捉えるかで、その人の人生観は一変する。

 もし、人生を「喜びの連続」と捉える事ができれば、その人は、もう、死生観を超越した事になる。そして生死は一如であり、この一如は生命が不滅であり、宇宙は永遠であると云う事が分かる。

 更に一歩一歩踏み締めて行くと、生に善悪の二色があり、禍福
(かっぷく)の両面があり、明暗の二局面がある事が分かるだろう。しかし、これを解さない人も少なくないようだ。

 死は、もともと荘厳
(そうごん)なものである。
 私たちは、この荘厳に向かって日夜努力しているのである。しかし、努力を怠る人も少なくない。

 その一つの例として、世の中には、生きている時はどんなに苦しんでいても、一度死ねば、極楽浄土
(ごくらくじょうど)に行けると念仏宗ねんぶつしゅう/一般に「南無阿弥陀仏」を唱える浄土真宗、浄土宗、融通念仏宗、時宗など浄土に往生することを願う仏教宗派を指す。彼等は僧侶も門徒も、法然や真鸞の言に惑わされて真物の「真諦」を知らず、方便の「俗諦」を有り難がる)の戯言(たわごと)を信じる人が少なくない。

 しかし、生においてでさえ、「楽」を得ない人が、死して、どうして楽を得る事が出来ようか。これは自殺願望の心理を描いたもので、錯覚の描写と云わねばならない。
 未
(いま)だに生を得ずして、どうして死を得る事が出来ようか。

 仏教について一言申し添えるが、現存する日本の仏教の多くは、仏教を真諦
(しんてい)から説いているのではなく、法然(ほうねん)が知り得なかった俗諦(ぞくてい)を基本として、これに解釈を加えていることだ。
 巨大な仏閣を立て、新興宗教の教祖に収まっている類は、俗諦でものを言い、日本仏教を邪教化の方向に導こうとしている現実がある。

 念仏宗が当時の時代の人々に「潤いを与えて、救った」というのは、あくまで俗諦の範囲内の事である。法然や真鸞
(しんらん)がこれをやったお陰で、真諦という本当の仏教を民衆に伝える事が出来なかったのでる。

 俗諦で説かれている事は、「六道輪廻」
りくどうりんね/衆生(しゆじよう)が善悪の業(ごう)によっておもむき住む六つの迷界のことであり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天を指す)ですから、何処に行っても、六道の堂々巡りを繰り返し、ここから一歩も外に出られないのである。
 仏教用語を使うと「解脱
(げだつ)出来ない」ということになる。この六道(りくどう)から一歩も出れないと言う事は、まさに「無間(むげん)地獄」の名に値しよう。そういう意味では、念仏を説いた法然も真鸞も、無間地獄の墜(お)ちた事になる。

 生きている時は、何にも楽しい事がなかったが、せめて死ぬ時は大往生
(だいおうじょう)をしてみたいというのが阿弥陀仏(あみだぶつ)の名号を称える念仏宗の「念仏往生」である。阿弥陀仏をたのみ、その名号を称えて極楽往生を遂げる幻想を抱く人がいる。

 しかしこの幻想は、一年中、年から年中、貧乏をしていて、せめて大晦日
(おおみそか)と正月だけは金持ちでありたいと願うようなものである。また年から年中、病気をしている人が、正月の元旦だけは、病気から解放されて清々しくありたいと願望を抱くようなものであり、愚かな幻想と云う他ない。

 なぜならば、問題は一向に解決していないからである。
 これは最期
(さいご)の、人の死に例えるならば、「死の場面」のみが、荘厳(そうごん)でありたいと幻想を抱くようなものであり、どうして最期のみが荘厳で、かつ奇抜であり得るであろうか。

 人生をよく生きた人は、その死によってまた、更に広く、より高い次元へと生き返る事が出来る。しかし本当の「生」に生きず、自分を誤魔化し、死後、楽になると願う、人生を生半可に生きた人は、また、死も本当に、死たらしめないのである。死ぬ事すら、許されないのです。肉体を死んでも、その願望や唸
ねん/経験を明瞭に記憶して忘れない心の憶念)は、この世に残されて停滞し、永久に死が訪れないのである。

 これは霊的には「地縛霊」
【註】自ら自分を縛り、頑迷にこの世に留まる意識体)などと称されて、オカルト愛好者の興味をそそっているようである。これは「当たらずとも遠からじ」で、生前に思い描いた人の唸や意識は、死して残留するのは事実である。
 人間の最期に、このような悲惨が待ち受けているとしたら、これ程、大きな悲惨はないだろう。

 私たちは、確実に死に向かって歩いている。何人
(なんびと)もこれを否定する事は出来ない。だからこそ、よりよい「死の場面」を迎え、それが荘厳でありたいと願うのである。
 真の修行とは、単に喧嘩に強くなるとか、高級儀法が使えるようになって人を驚愕
(きょうがく)させる事ではなく、こうした地道な求道の中で、日々の修行を積み重ね、「死の荘厳」を求めて模索するものでなければならないのである。
 そしてその奥に、歓喜
(本当の喜び)があり、人生の連絡回路は此処に繋(つな)がって居たと言う事を知るのである。

 往古の人は、人間の死を重んじた。立派な死に方をしたいと念じた。しかし、正しい生き方をした人でないと、美しい死を迎えることは出来ない。安らかな臨終は訪れない。
 見事な死に方をした人は、見事な一生を貫いた人なのである。
 だからこそ、「臨終
(りんじゅう)の大事」が此処にあるのである。



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