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内弟子問答集 9

問答 29
尚道館陵武学舎の一日とは、どういうものでしょうか。 (2)

 (前ページの続きより)また受身の健康法としての利点は、上下の血を回転することにより入れ替える事が出来、天地を逆さまにして、血液の交流を容易にすることも大事である。
 更に、回転する時に、眼を開けて一箇所を凝視
(ぎょうし)する為、空中の感覚意識が養成され、平衡感覚が徳に発達する。これで受身は、西郷派大東流にとって、無用の長物で無い事が分かるはずである。

頸椎とそれに附随する第四頸椎と環椎

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  午前10時より昼食の弁当を持って、午後3時まで野外での山稽古。
 特に、剣術並びに手裏剣などの飛び道具の稽古が中心。斜面を利用しての山稽古は、室内の稽古と異なり、自然をよく知らなければならず、地形や地質や、転向や水の流れ、樹木の生息や自然動物の生態なども心得ていなければならない。

 そして、「土」を知り、「水」を知り、「風」を知り、「火」を知り、最後に天空の「空(くう)」を知る「五大(ごだい)」に迫るのである。これは、道場と言う室内に居ては体得出来ない。道場と言う室内は、修行と言う大自然相手の一部に過ぎず、道場内稽古だけでは武術の真髄には迫れない。

 非日常とは、室内以外の、野戦が展開された時、これにどのように対処するかと言う事であり、単に平坦な、周囲にロープの張られた柔らかいリングの上や、クッションのある板張りや、あるいはスポンジの利いた畳の上と言った、風雨を防げる防禦構内では、その現実を知る事は出来ない。

 実戦とは観客のいる室内で戦う事ではなく、建物もなく、身を安らぐ場所もないような、過酷な大自然の中での、自然と己自身の戦いを繰り広げるのが、すなわち実戦であって、この中にあってこそ、我が身を護る手掛りがあり、これを会得してこそ、本当の「護身術」を身に付けたと言えるであろう。

 多くの格闘技経験者やスポーツ武道経験者は、野外での稽古の経験が殆どない。また、險
(けわ)しい山路(やまみち)などの辺鄙(へんぴ)な、歪(ゆが)んだ地形での実戦を経験したことはなく、大雨の大自然の猛威や、暴風雨、大雪、寒気や猛暑などの過酷な自然状態にあって、わが身を護るという、実際を知らない。

 しかし尚道館では、非日常の中で「真の実戦とは何か」と言うことを、内弟子らは体験して行く。全天候型の実戦経験者を育成するのである。
 大自然は無分別であり、無差別であり、いつ突然荒れ狂うかも知れない。あるいは、何処かの国に戦争が勃発して、この火の粉
(こ)がいつ何時、日本に降り掛かるかも知れない。

 こうした時に、最後の最後に役に立つのは、大自然の中で経験した「本当の白兵戦」であり、人間の最後の戦いは、こうした大自然の中で繰り広げられる、白兵戦に他ならないのである。そして、自然を自分の味方に付けて戦う、特異な白兵戦を知らなければ最後まで生き残る事は出来ないのである。

 午後7時まで自由時間。その間、入浴して食事
【註】食事の時は常に「静坐」することが基本。足を横の崩したり、胡座をかくなどの、だらしない姿勢は許されない)。午後9時まで道場生と混じって、夜の部の道場稽古。一日の反省を行った後、『内弟子日誌』を記載し、午後12時前後に就寝。
 但し、この睡眠時間を割
(さ)き、自己反省や精神統一の瞑想法「夜坐」【註】やざ/今日一日を省みて、納得のいかない点を、自身で反省しつつ、瞑想にはいる術)に充(あ)てても構わない。人間は、常に「自分とは何か」という事を問い続けなければならない。

 なお、内弟子期間中、経済活動の為に、アルバイトや短期就業で働きに出かける内弟子は、午後の時間が自由に使える。また同じように、高等職業訓練所などで各種の職業指導を受ける者は、この間
(午前九時から午後五時まで)を利用して、これに随(したが)い、約一年間に亘り、失業保険を受けつつ、尚道館での修行をする事ができる。

 尚道館で指導する野外稽古の中には、自給自足の為に、植物の苗を植える農作業も含まれるのである。
 人間は、古来より土と共に馴染
(なじ)み、土地と共に生きてきた。この基本的な教訓を大自然から学ぶ為に、尚道館では、こうした農作業にも、大きな指導要項に挙げ、有機農法を展開しつつ、大自然研究の一つに当てている。

 植物は、生命体存在の基礎であり、植物を知る事は、すなわち大自然を知ることであり、植物と関わり合いを持つ上で、「土を知る」ということも、大切な修得課題の一つなのである。

 植物は、その種別ごとに、あるいは季節ごとに芽を出し、花を咲かせ、実を付ける。人間はこうして、植物から恩恵を受け、季節の移り変わりを教えられ、その季節の移り変わりを巧みに読み取って、「護身術に活かす」と言うのが、西郷派大東流合気武術の教えであり、この教えに忠実であることが、すなわち宇宙の法則に従うことなのだ。
 すなおに、大自然の法則に従う事を知る事こそ、「合気」修得の近道なのである。

 そして大自然を知る第一の課程は、まず、「土を知る」ということであり、大地の仕組みを知らずして、「合気」の修得はあり得ない。
 土を知り、それを直接感じるのは、大地と接する足の裏であり、その要は足の裏のほぼ中央部にある「湧泉
(ゆうせん)」という経穴(ツボ)である。湧泉から気を吸い上げ、掌の「労宮(ろうきゅう)」から抜ける回路と、もう一つは顔面から抜ける回路がある。人間はこの回路の循環によって大地から活かされ、同時に天の気を「泥丸(でいがん)」で感知し、霊的な能力を密かに発揮しているのである。

 内弟子の大事な仕事の一つとして、道場の事務処理がある。
 道場事務
(入門願書やその他の書類、各支部道場の集金・受付・見学者への説明など)や電話応対(はっきりとした、てきぱきとした受け答え)といったものがあり、他にも食糧の買い出し(食品の良し悪しを見抜く眼を養う)、炊事当番(料理の技術を磨くのが目的)、便所掃除(尚道館では、便器を洗う場合は自分の手で直接洗うのが常識)や風呂掃除・風呂番(お湯の湯加減を看る。人の気持ちを観じ、勘を養うのが目的)などの雑用も課せられ、これは将来自分が道場を開業した場合に、大いに役立つ。

一日24時間の道場稽古のない時の、普段の修行サイクル表。ただし、一日の修行のうち、稽古を中座してアルバイトに出る者は、事前の申し出により、修行継続の為の経済活動が許される。 一日24時間の道場稽古がある時の修行サイクル表。ただし、一日の修行のうち、稽古を中座してアルバイトに出る者は、事前の申し出により、修行継続の為の経済活動が許される。

 しかし稽古日以外曜日(火・木・土・日の稽古日および個人教伝が行われる時は、稽古に参加しなければならない)での外出は自由で、夜は点呼もなく、帰館門限も午前0時の就寝時間までに戻れば許される。その間、経済活動の為、時間・曜日指定のアルバイトなどの活動を行っても構わない。
 以上、規則正しい修行者の生活が繰り返され、こうした事は将来道場を開設した時、大いに役立つようにプログラムされている。


問答 30
尚道館陵武学舎での、その他の暮らし向きはどうでしょうか。

 内弟子は「他人のメシを食う」という、人生を内弟子で経験する。他人の冷飯を喰って、人情に機微(きび)を知る。

 ここで和気藹々
(わきあいあい)とした実学生活を、一緒に暮らし、共同生活をしながら、そこから「人とは何か……」あるいは「人生とは何か……」という最大のテーマに取り組み、学んでいくことになる。

 人は、社会性動物である。
 生物学的に言えば、サル目
(霊長類)ヒト科の動物であり、現存種はホモ・サピエンスただ一種とされている。これを「人類」と呼び、また、その一員としての個々人を「人」と名付けている。

 更に、「人類」を追求すると、霊長類としての人類は、その中で特に現在のヒトを指すのであって、行動的には直立歩行し、脳の発達が著しく、手を巧みに使い、道具を作って使用し得る動物である。そしてその「人」は、出生から死亡に至るまでの自然人であり、世の中を渡る社会的動物と言えよう。

 人間は、「人間」と書いて、「ひとあい」とも言う。
 「ひとあい」とは、自分以外の他人と付き合って行く社会性を指し、心を通わせて、人の「気受け」をし、そこに人情に機微
を感じ取る。そしてこれを更に追求すれば、「人は如何に生きるべきか」という人生の命題に行き当たる。

 内弟子修行は、こうした命題に対し、日々これを探究し、自身で我が行いを省みつつ、精進する目的意識が、内弟子の果たさねばならない研究課題なのである。
 
『内弟子四カ条』のテーマの一つに、「易より難へと修練を要す」という項目があり、内弟子は徐々に困難なテーマに対し、精進を図るのである。そして「日々新たに、精進する」のである。

 この研究課題は、毎日繰り替えされ、その日々の中で、人としての進むべき道を、日々新たに取り組むのが、内弟子の一日の重要な、今日一日の課題なのです。今日一日の反省の中に、明日への希望があり、ある事を成就させようと願い望むこと原点は、まさにこの反省の中にその答がある。

 人間は、ややともすれば自分を見失い、ある時は思い上がり、ある時は絶望の淵
(ふち)に叩き付けられる。これは日々の反省に欠けた日常を送っているからに他ならない。安易な日常を送っていると、つい、こうなってしまうのだ。

 しかし「常在戦場の気持ち」を忘れず、安穏な日々を非日常に置き換えて、緊張して生きる事も人間には必要であり、何よりも「他人行儀」に人と接すると言う気持ちを忘れなければ、過保護な親に縋
(すが)るような愚かな甘えも無くなって、日々新たに、清々しい毎日を送れるに違いない。



問答 31
尚道館陵武学舎では、他人行儀と言う事が説かれていますが、これはどういう事でしょうか。

 他人行儀とは、「人と接する時の心構え」である。
 この言葉は、一般にはあまり良い方に使われない。巷間
(こうかん)での解釈は、親しい仲であるのに、他人に接する時のようによそよそしく振る舞うことを指し、むしろ悪い意味でとられる方が多いようである。

 しかし、一方「親しき仲にも礼儀あり」という言葉もある。
 これは、親密過ぎて節度を失うのは不和のもとだから、親密な仲であっても、時と場合を考えて、礼儀を守るようにせよということであり、この同義として、「親しき仲に垣かきをせよ」ともある。

 秩序が崩壊するのは、人間が人と人の付き合いの中で、礼儀を失う事に由来する。また、規範が失われ、無規範
anomie/日々の行動を秩序づける共通の価値・道徳が失われること)になって悪魔のイデオロギーが蔓延(はびこ)り、世の中が騒然となるもの、礼儀が失われる事に由来する。

 尚道館では、子弟相互間でも「敬語」を遣わせ、「丁寧語
(ていねいご)」を使わせえう。秩序が崩壊し無規範になるのは、馴(な)れ馴れしさから日常の不和が原因して、崩壊に至ります。人々の日々の行動律が道徳や倫理を失い、無規範と混乱が支配的になった社会状態になれば、秩序は忽然(こつぜん)として崩壊してしまう。

 ある一つの時代が終わり、ある時代が浮上する時は、こうしや無規範状態が暫
(しばら)く続き、その後に歴史が塗り替えられる。一つの国家が忽然として消えるのは、無規範によって齎され、無礼の極みが禍根となって、国が崩壊し、文明が崩壊するのである。これは、何よりも歴史が証明しているところである。

 かつて「ローデシア」
Rhodesia/アフリカ南部の旧イギリス植民地で、1953年ローデシア・ニアサランド連邦(中央アフリカ連邦)を結成)という国があった。しかしこの国は、1964年北ローデシアはザンビア、ニアサランドはマラウイとして独立し、南ローデシアは1965年、独立を宣言してローデシアと称したが、1980年、革命によってこの国は崩壊した。
 崩壊後は、当時軍人であったジンバブエ大統領に指導され後、正式にジンバブエ
(Zimbabwe)として独立しましたが、ローデシアと言う国は地球上から消えてなくなったのである。

 国一国が崩壊する時、あるいは文明が崩壊する時、必ず社会には無規範が蔓延
(はびこ)る。これはローマ帝国崩壊を見ても明らかであろう。西洋古代最大の帝国であったローマ帝国は、王政、共和政、第1次・第2次三頭政治を経て、前27年オクタウィアヌスが統一し、帝政時代を実現したが、その後衰退を辿り、崩壊に至る。

 無規範とはこのように恐ろしいものであり、武術家は単にハングリーで、ハードな修練に明け暮れるのではなく、護身術の一つとして、「恐れる」という事を、実感として身に体験しなければならない。

 「恐れ」に疎
(うと)い、武道オタクや格闘技マニアは、この「恐れる」という感覚に疎いようであるが、こうした感覚で格闘技や競技武道に親しんでいると、必ずいつかは「しっぺ返し」を喰らうものである。

 尚道館では、「礼儀」は「護身術の一つ」であると教える。それは、人間の円滑な関係は礼儀から生まれ、社会が騒然となって、無規範状態に陥るのを防止するからである。



問答 32
死を自分自身に当てて暮らすとは、一体どういう事でしょうか。

 日々新たに、「今日」と言う一日を、死に当てて暮らす。死の物狂いで、「今日一日」を大事にする。
 「今日一日」と言う、その一日は、またとない「今日」であるからだ。

 その日が吉日
(きちじつ)であるか、厄日(やくび)であるかは、今日一日と言う、本当の意味を知ることから始まるのである。したがって「今日一日」とは、人生の中でまたと無い「良き日」であり、これを吉日にするか、厄日にするかは、それは自分自身の行動律に掛かる。

 吉日か、厄日はか、九星早見表や暦表の暦
(こよみ)の中にあるのではない。
 「今日一日」とは、またと巡って来ない一日である。「昨日」は過ぎ去った今日であり、「明日」は近付きつつある今日である。「今日」以外に、人間が知覚し、これを体験し、その中で行動すると言うこと以外出来ない。すなわち「今日」が人生であり、「今日」以外に人生はない。したがって、人の一生は、「今日の連続」である。

 しかし世の中には、昨日を悔
(く)い、また、明日を憂(うれ)うる人がいる。これは、己が影法師に、びくつく優柔不断な人である。その為、日の良し悪しを愚かな運勢暦で占ったり、方位を占ったり、九星早見表でその日を占う人がいる。何と愚かしい限りであろうか。

 今日と言う日を、日の吉凶で占い、そうした迷信を信じる人は、また、実に気の毒な人である。そして今日を取り逃がし、迷信を信じたまま、また、一生を取り逃がす人になってしまうのだ。

 今日と言う一日は、またとない「今日一日」のことなのである。今日は、人生に於て、二日と巡って来ない今日だからである。この今日を、吉日にするか、厄日にするかは、今日を判断する自分自身の中
(うち)にある。
 隙
(すき)を作れば、今日はどんな危険が襲う厄日なのかも知れないし、一方、迷信に振り回されること無く今日一日を希望の日と捉えれば、またとない良き日になる。

 今日一日の「今」は、「一秒」の集積である。この「今」を失う人は、今日一日を失う人である。今日一日を失う人は、一生を失う人である。
 今日一日を吉日にするか、厄日にするかは自分の裡側
(うちがわ)にあり、今を蔑(ないがし)ろにする人は、結局、今日一日を無駄に過ごし、今日一日を無駄にする人は、また、自分の人生をも無駄に過ごす人である。

 「光陰
(こういん)矢の如し」という格言に心を傾ければ、「今日一日」は如何に大事は想像がつくだろう。また、「歳月人を待たず」ということを心に留め置けば、更に今日の集積が大事か分かろう。

 更に金言として、「時は金なり」というではないか。そして、西郷派大東流では「今」この一瞬に、総てを賭
(か)けることを教えるのである。
 「この一瞬に賭ける」とは、青春をこの一瞬に賭ける事であり、また、自分の振り下ろす、一刀の太刀も、その「初太刀」
【註】抜刀して一番最初の痛烈な第一撃)に総てを賭ける事を言う。西郷派大東流では、剣での一太刀も、「初太刀に総てを賭ける」と言う事を教えるから、「自分の太刀は、自信をもって振り下ろせ」と教示する。

 ゆめゆめ、間違っても、初太刀で跳ね返されるなどの失態は許されない。敵にこれを受けられ、跳ね返されれば、自分が次に斬られて死ぬだけのことなのである。したがって痛烈な第一撃は、自分を信じ、初太刀を信じるのである。
 「一瞬に総てを賭ける」と言う格言は、この「今」と言う瞬間に輝かしい光を放つ。
 その教えの中に、「現代に生きる武士道」の思想がある。

 そして尚道館では、「武士道とは何か……」という命題に迫りつつ、かつての武人達に見られた毅然
(きぜん)とした態度ならびに、一種独特の「すずやかな態度」と、「潔さ」にテーマを掲げ、内弟子はそれに向かって儀法や習得事項などに全エネルギーを注ぎ込み、精進を重ね、同時に、「捨身懸命(すてみけんめい)の武士道精神」を探究していく事になる。
 捨身懸命とは、「死に身」の事であり、一般には「捨身」と云う言葉で知られている。

 よく「武士道」等というと、聴き覚えのある『葉隠論語』を捩
(もじ)って「死ぬ事と見付けたり……云々」と云う人がいるが、これは認識薄であろう。
 かつての、太平洋戦争当時、「特攻隊」
【註】別攻撃隊の略称で、特に、太平洋戦争中、体当りの攻撃を行なった日本陸海軍の部隊で、「神風特別攻撃隊」等がこれに当たる)という青少年の決死隊があったが、自分の命を粗末に扱い、犬死するという事ではない。

 勿論、当時の特攻隊員の青少年の惨劇は、亡国に当たり、国防の為、自らの命を顧
(かえり)みず、国に捧げた報国の精神は非常に貴いものであるが、真の武士道はこうした、上からの命令によって死を強要され、それに準ずると云う姿勢を、我が流は「武士道」と定義しているのではない。

 武士道とは、容易に敵から付け入られない境地を養うことであって、「死ぬ事」ばかりを念頭において、死に急ぐ事ではない。
 真の武士道は、人に死ぬ事を強要しないものなのである。最後の最後まで生き抜いて、「日々、己の日常生活の中に死を取り入れて、もし、明日死ぬのだったら」という気持ちで、世の中を生きていく、生き方を教えているのである。

 例えば、読者諸氏が、「もし、明日死ぬのだったら」……、今、一体何がしたいと思うであろうか。もし明日、地球がこの宇宙から消えてなくなるとしたら、読者諸氏は、今一体何がしたいと思うであろうか。

 多くの人は、今自分が一番したいことを真っ先に遣るのではないかと思う。
 やり残した仕事が残っているのなら、この仕事を、何が何でも今日中に仕上げて死にたいと思うであろう。中には、不埒
(ふらち)な不法の限りを尽くして、男ならば女を犯し捲り、好き勝手な暴力を働いて、性欲を満足させて死にたいと思う人も居るかも知れないが、多くの人は、やはり善意をもって、最後に、人の為に、死にたいと考えるのではないだろうか。

 人は臨終
(りんじゅう)間際(まぎわ)に及び、善意の光りに導かれ、悪であるより、善でありたいと願うものである。悪業の限りを尽くして、それを自分の臨終としたいと思う人は、殆ど居ないのではなかろうか。

 これは、死刑囚の死刑執行までの日々の行いを見れば明らかになる。殺人鬼のような死刑囚であっても、やはり最後は宗教に帰依し、これまでの罪を悔
(く)い入り、安らかに死にたいと考えるだろう。こうした最後に及んで、性欲を発散させたいなどと思う人は非常に少ないと言え、もし、こう言う人が居たのなら、これは異常者と言うべきであろう。そしてこうした異常者は、異常者として次の因縁を作るのである。

 また、悪業の限りを尽くして死んでも、安らかな臨終など出来るわけがない。
 安らかな臨終を迎えるには、善導に導く、何かが必要になる。つまり善導とは、自分の一番やらなければならない事を最優先して、これに打ち込み、この成就を願う事なのである。

 例えば、芸術家であれば、最高の芸術を求めて限りある時間を努力に費やすし、例えば機関士であっても、運転手であっても、また、その他の職業に就いていても、その仕事に誇りを持ち、最後の締め括りとして、最高の、完成度の高いものを求めて努力するのではないだろうか。

 これこそが、「日々、己の日常生活の中に、死を取り入れて生きる」と云うことなのである。つまり、それは生き生きとして、その人の日々は輝くのではないだろうか。誰もがそう言う気持ちで生きれば、素晴らしい社会が出来上がるのだ。
 西郷派大東流の説く武士道は、此処
(ここ)に根本を為(な)し、「日々、死を取り入れて生きる」と言う事を目指しているのである。

 よく、人は「死んだつもりで……」とか、「死にもの狂いで……」
【註】『葉隠』では「死に狂い」という)とかの、窮地に立たされたと時機(とき)、このような言葉を使い。死を覚悟した人間ほど、強い者はないだろう。格闘技の猛者(もさ)でも、死を覚悟した人間と闘うと、非常に手こずるようだ。命を捨てて掛かる人間ほど、強いものはないからである。

 つまり、「死んだつもりで」とか、「死にものぐるいで」と言うのが「捨身懸命」の精神であり、「命を捨てて掛かる」と云う武士道の崇高
(すうこう)な精神は、此処に回帰される。そして「捨身懸命」の中から、西郷派大東流合気武術は、敵に「負けない境地」を教えるのである。

 それは一度闘うような事があれば、死を覚悟して、命を捨てて敵と闘うからである。この次元に、死生観は存在せず、ただ自分が死んで、相手も死ぬという事だけが、「負けない境地」に誘
(いざな)うからである。

 スポーツや格闘技は、次元の低い、「勝ちに、こだわる」種目競技である。ボクシングのチャンピオンが、柔道のルールで勝てるわけはなく、柔道の選手は水泳競技の選手と競争して、これを負かす事は出来ない。また、土俵内では幾ら強い力士でも、マラソン選手の長距離ランナーには歯が立たず、40キロ前後の長距離を完走する事は不可能であろう。

 結局、スポーツや格闘技は、同じ競技種目で対戦者を競わせ、勝者を褒
(ほめ)め讃(たた)えて、局面的な英雄を作り上げようとするだけのことなのである。
 試合に勝てば、時の英雄となる事が出来、その時代の英雄として多くの人達から、ちやほやされ、持て囃
(はや)され、自分自身も舞い上がって有頂天になり、「時の人」になったことに思い上がってしまう。

 人前では、態度や語り口が傲慢
(ごうまん)になり、他人を見下すようになって、「図に乗る」という態度に出る。昨今のスポーツ選手や、格闘技の選手が、非常に傲慢(ごうまん)で悪態(あくたい)をつくのは、周知の通りである。そして勝ったこと、あるいは優勝したことにいつまでも酔い痴れる。
 しかしこれは、一時
(ひととき)の儚(はか)い夢でしかない。一年も経てば、次の新たな英雄が出てきて入れ代わり、自分の名前など、世間からすっかり忘れ去られ、十年後、二十年後には、完全に人々の記憶から消滅してしまう。

 一時、勇名を馳
(は)せても、あるいは有名人になる切っ掛けを掴んだとしても、これは永久的なものではない。かつての某格闘技の世界チャンピオンが、芸能タレントに身を窶(やつ)したり、その後、酒で身を持ち崩したり、異性や同性で身を持ち崩すと言う話は五万とあり、寂しい晩年を送っていると云うのは紛れもない事実である。

 芸能タレントでも、こうした人々の記憶から薄れると云う現実からは免れることが出来ず、スポーツ・タレントも同じような結末を迎える。若い頃に、有名人として名を馳せた大スターは、スポーツ界でも芸能界でも、晩年が実に惨めなのは、周知の通りなのだ。
 それは、過去の栄光と共に、過去のものになり、人々の記憶から忘れ去られるからである。

 一方武術は、スポーツ武道や格闘技と異なり、観客の前でゲームや試合を楽しむと言う事ではないし、観戦スポーツでもないので、その根底に流れているのは、「己を捨てた捨身」であり、生と死の二極相対の中で、あれかこれかと迷わぬ心を養成していく。
 これを「不動心」と云い、不動心の中にこそ、かつての武士の、一朝事がある時は身を捨てて有事に向かう精神がその存在的価値観である。この事から人間の人生は、何事においても、「死と隣り合せである」という事が分かる。

 こうして常に、日々を「死」を以て当たれば、その人生は生き生きと輝き、その行動原理は、常にさっぱりと片付いていて、総
(すべ)てに、一種の簡潔性を見る事が出来る。
 そして、その簡潔性を決定するのは、迷わぬ不動心であり、こうした不動の心に近付けば、その人の品格は常に潔いものであると同時に、こうした品格を決定するのは、その根底に、その人の持つ志が流れているからである。

 この志こそ、今風に云う「目的意識」であり、この目的意識が、「何を考えているか」また「武人とは如何にあるべきか」と云う事を、武技の修練や稽古を通じて示唆してくれるものなのである。
 ともあれ、人間はその志によって品格が決まる。その品格が高いか、あるいは低いかは、その儘
(まま)が志の高低に繋(つな)がる。そして志は、自分を生涯支え続ける威力でもる。

 将来に志を掲げ、世の中に大旆
(たいはい)を掲げ、自分の将来を見詰めて、自分は後世の指導者たらんと志す方は、真摯(しんし)な気持ちで、ぜひ一度、我が西郷派大東流合気武術の総本部・尚道館の内弟子の門を叩いてみては如何がであろうか。



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