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内弟子問答集 8

第二章 実務実践問答集

陽の恵みの歓喜と倶に


問答 26
優柔不断とは、どういう人を云うのでしょうか。

 優柔不断な性質に偏るのは、飽食に明け暮れる、「食い道楽」の人間に多い。美食に陥ると、美食を追って何処までも彷徨(さまよ)う事になる。そして散々さ迷った挙句、気付いた時には自分の躰(からだ)が、敏捷さを失った「肥り過ぎ人間」になっているのである。

 尚道館では「優柔不断」と同時に、飽食に明け暮れた、肥り過ぎの人間もお断りしている。また、痩せ過ぎ人間も固くお断りしている。
 体躯
(たいく)は中肉中背の「中庸(ちゅうよう)」をよしとし、体重制限に於ては痩せ過ぎと肥り過ぎも我が流では不適当を判定している。痩せ過ぎ並びに肥り過ぎは、自分自身で食事のコントロールが出来ない、だらしない人間であり、食生活に問題がある。

 食養道ではこの種の人間を「どんぶり腹」と言って蔑
(さげす)み、こうした自分を制御出来ない人間は、精進努力ならびに工夫を凝らす事の出来ない「人間のクズ」である。少なくとも、修行の世界では、平均に満たない痩せ過ぎや肥り過ぎは問題にしない。中庸を満たしていないからだ。

 わが流では、猛暑に懸
(かか)れば寒い冬を恋しがり、極寒の冬では猛暑を恋しがるような輪廻ね輪から脱け出せずに堂々回りしている優柔不断な人間は必要としない。中庸(ちゅうよう)の体躯を満たしうる体躯の持ち主のみを、「修行可能な体躯」と看做(みな)している。痩せ過ぎや肥り過ぎは、迷いがある人である。

 ちなみに入門時の身体検査の体重制限は、
『58kg以上〜80kg以下』(ただし女子は43kg〜63kg以下)で、身長には『160cm以上〜188cm以下』(ただし女子は152cm〜175cm以下)である。
 入門後は体重を56kg〜75kg
(ただし女子は45kg〜58kg)までに体躯調整を行い、この制限を厳守して頂く。
 また内弟子修行中に、体重が55kg
(女子は44kg)を切った場合および、78kg(女子は59kg)を超えた場合は、強制的に破門・絶縁となる。押されて跳ね返るような貧弱な体躯、ならびに小廻りの出来ない鈍重な体躯の持ち主に、わが流は教える術(すべ)を知らない。

 修行半ばに「痩せる」あるいは「肥る」という事は、隠れて間食している為か、偏食している為であり、自分の躰をコントロール出来ない人間は、口先だけで精進努力を唱えていても、実際には鈍重な体躯に振り回されて、走る事すら出来ないのである。武術家にとって「身軽である」という事は非常に大事である。

 しかし痩せ過ぎで身軽であると言うのは「胃下垂症」や「胃拡張症」であり、こうした体躯は健康とは言えない。
 一方、体重の重い人間は、鈍重で長距離を走る事が出来ず、走れない人間は、戦場でも一番先に死ぬ人間である。自分の命を護ろうとするならば、まず、躰を身軽にして、走れることが大事であり、常在戦場の中で、走れなくなれば、後は死ぬだけである。

 ちなみに今日の自衛隊では、体重が75kgを超えた者は、身体検査の段階で不合格になる。また仮合格して、入隊時まで2〜3ヵ月から半年間ぐらいの自宅待機期間があるが、本採用の時に、再び身体検査があり、この時に75kgを超えた者は、入隊が取り消され、その後、再び応募する事が出来なくなる。

 昨今は、警察
【註】体重制限は下が、男子の場合は55kg以上で、上限はない。これはこの機関が、戦闘集団ではなく司法行政官である事を顕わしている)も自衛隊【註】一般自衛官の場合、中学卒業時迄の学力と云っているが、学科試験が難しくなった。曹候補士や幹部候補生はそれ以上。つまり警察官としての司法行政官と、実戦に参加する戦闘員とは根本的に異なる)も様変わりし、一昔前のようには簡単で無くなって来ている。
 特に自衛隊は、その変貌が激しく、自衛官になる為の、私設の予備校までが登場する始末である。

 学力検査も去る事ながら、体力制限や体重制限もあり、特に体重制限は厳格を帰し、これは「走る」という事を最初から意識しているものと思われる。また、学力が必要とされるのは、その場その時の情況判断が、一兵卒の判断によって戦闘が展開される、近代戦に対応したものと思われる。

 戦争で、走れない兵士は一番先に死ぬ。走る事が出来てこそ、兵士の役目が勤まる。したがって、わが尚道館も、走れない、体重のある者は、初めから不合格となる。
 これまでを見ても、いつも問題を起こすのは、骨格が細く、筋肉がなく、大食漢で水太りの、鈍重で、鈍麻な人間だった。
 自分の肉体をスマートにコントロールできない、意志薄弱者は、わが流の修行には不向きである。




問答 27
凡夫には内弟子が務まらないのでしょうか。

 凡夫(ぼんぷ)は凡夫なりに、諦(あきら)めずに努力する「今」の姿に大きな価値がある!
 一方、才能に恵まれていても、これを持て余し、無駄に人生を送るものは多い。


 凡夫は、凡夫であるが故に、それに諦めを感じ、凡夫で焉(おわ)るか、あるいは凡夫でありながら、凡夫の域から脱出を図り、少しでも我が心身を向上させようと願うかで、その人は、人としての、生まれた真価が試される。

 出来が悪いからと言って、嘆くことはない。出来の悪さは、日々の努力で改善して行く事が出来る。しかしこの努力を、人間が諦めた時、その人は、人生の敗北者に成り下がるのである。

 凡夫は凡夫なりに、凡夫の域から脱出しようとして、努力を怠らない限り、その人の生涯は、決して凡夫で終わる事はない。努力を試みる人間は、寝ていても、起きていても、休んでいても、今もなお、努力の作戦は続行中であり、これを忘れない限り、成就の可能性は常にあると言える。

 尚道館では、努力によって愚
(ぐ)から脱出し、人生に通用する人間を育成する機関である。ただ技が優れだけをよしとする、喧嘩上手を養成する格闘ジムではない。人から、中身の真価が評価され、老人になっても、若者から「道を請(こ)われる武人」を養成するのである。

 宮本武蔵が何故、後世に至っても武神と崇
(あが)められるか。
 それは単に武技の遣
(や)り取り上手ではなく、彼の裡側(うちがわ)から滲(にじ)み出る、人としての教養が、今なお人々の尊敬を集めているからだ。

中央の力士は横綱・双葉山。また太刀持・名寄岩らを従える。木鶏と言われて広く勇名を馳せ、努力の人だったが……(昭和13年5月の写真)

 かつて名横綱としてならした、晩年の双葉山の嘆きを思い出して頂きたい。
 彼は晩年、新興宗教に嵌
(はま)り、現人神(あらひとがみ)と名乗る平凡な中年女性(この人は誇大妄想的な精神分裂病だった)の教団に馳(は)せ参じ、この教団に、手入れの入った警察官と大乱闘を演じている。

 そして、ひと晩留置所に留め置かれ、釈放された時に語った言葉は、
 「自分は悲しいかな、学問がなかった。あの中
(女性教祖が璽光尊と名乗る新興宗教)に、己を導くものがあるのではないかと探究するうちに、ああ言う結果になってしまった」と、ぽつりと吐いたと言う。

 武蔵は13歳から28歳まで、60回以上の試合に及び、悉々
(ことごと)く勝利したが、この勝利に溺れることなく、30歳過ぎると試合をぷっつり止め、剣を筆に持ち変えて、書家となり、水墨画家となった。老いて熊本細川領に定住した時は、禅僧を師として、瞑想に耽る傍(かたわ)ら、『五輪書』を綴ったことは有名である。

 今にして思えば、横綱・双葉山も、もし教育があり、教養と言うものを身に着けていたら、武蔵のような方向に転進する事が出来、名横綱の伝説は永久不滅のものになり得たであろう。
 更には、武蔵の説く、空・風・火・水・地という、宇宙構成の根元であるエレメントを、彼の才能や素質とともに探究し、もし、これと一体となる秘訣を掴んでいたら、双葉山こそ、「無心の強さ」について、もっと現代的な言葉で、明確に語ることが出来たのではあるまいか。
 そして人生の機微を知る、若者から道を請われる幸運を手にしたのではあるまいか。

 しかし、惜しいかな、双葉山には、過去の栄光以外に、「今」を光らせる道標は、後世の人間に示唆することは出来なかった。ここに双葉山の悲劇があり、他にもスポーツや格闘技で慣らした多くの選手達の晩年の悲劇がある。双葉山こそ、何とも惜しい人物である。

 尚道館の合い言葉は、「過去を振り返らず、《今》を見詰めて、未来の為の先駆けとして、その先駆者になろう」というのが、指導者となるべき内弟子に課せられたテーマであり、内弟子は、一切の過去に縋
(すが)ること無く、今を真摯(しんし)に見据え、将来の見通しを、修行を通じて掴み取ろうとするものである。


●尚道館が求める人間像は、次の通りである

慎み深く、驕(おご)らず、自惚れずの無垢(むく)な人間。
礼儀正しさを自分の取柄としている人間。
何事も集中力を以て、全力投球できる人間。
素直な心で、短期速習の決意の成就を秘めた人間。
ある程度の品格を持ち、毅然(きぜん)とした態度のとれる人間。こうした人間は、実に謝り方や、詫び方が見事で、決して責任転換をしたり、言い訳をしない、清々しい人である。しかし、実際には非常に少ない人のタイプだ。
いま自分が貧乏であると言う事を恥じないが、しかし、金持ちを羨(うらや)ましいとも思わない人間。生まれや、貧困の環境に目下ず、力強く邁進し、努力を惜しまない人間に対しては、尚道館の内弟子制度に於いて、これを「特待生」と認め、今後も、出来るだけ経済的な負担が掛からないように配慮するつもりである。
過去のこだわらず、形振(なりふ)り構わず、頑張れる人間。ファッションや形にこだわる人間は心が薄っぺらで、実に中身の無い人間である。中身のない、可愛い人間は、一時的にはセックス・フレンドくらいにはなれるであろうが、こうした人間と、生涯を共にするのは大変に苦痛である。
強弱論を捨て、肉体にこだわらず、筋力やスピードを信奉せず、本当の兵法を学ぼうとする人間。
頑固でなく、頑迷でなく、本能的に先の事を直観等で感知する人間。また、自分の将来を想像出来、それを見通せる人間。

 以上の項目の一つでも、自分の性格が掛かれば、それは充分に内弟子制度に合格するチャンスがあると言えるだろう。



問答 28
内弟子志願者に対し、尚道館では、どのようなメッセージがあるのでしょうか。目的とする募集要項とはどういうものでしょうか。

 尚道館の募集要項と人材募集は凡(おおよ)そ、次の通りである。

 
総本部尚道館・内弟子寮「陵武学舎」では、「内弟子制度」により、広く内弟子を募集し、将来、道場開設などをして武術指導を職業にしたり、その本格的な日本を代表する指導者として世界に羽ばたいてもらい、わが西郷派大東流合気武術を後世に伝えることを使命とする人を求めている。

 志
(こころざし)があれば、その熱意によって名誉ある入門が許可される。
 入門審査に際しては、先輩格である内弟子の諸氏が最初に対応し、その結果を踏まえて宗家先生が直接、その人の将来の展望を訊
(き)き、適性であると認められ、本人が熱望すれば入門が許される。

 但し、生半可な気持ちでは通用しないので、宗家先生の眼力に適
(かな)う人でなければなりらない。
 昨今は、大東流ドットコムから内弟子制度をご覧になり、これについて問合せのメールや手紙が増え、電話を掛けて来る人が多くなりましたが、多くは生半可な、興味本位で訊
(き)く人が多いようである。

 中には不躾と言うか無教養と言うか、「そこって、ゴウキドウ
(本人は「合気道」の読みを「ごうきどう」と読んだらしい)の道場ですか」とか、宗家先生をわざわざ電話口まで呼び出しておいて、「へー、シュウケ(この人も「宗家」の読みを「しゅうけ」と読んだらしい)なんだ。へー」を連発させた、不躾かつ無教養の御仁がいた。呆れる限りである。

 既に、合否の判定をつけるならば、メール・手紙・電話の時点で不合格であり、内弟子の修行を甘く考えている人が少なくない。生温い環境の許
(もと)で、過保護に育っていることが手にとるように分かる。また、一種のマニアック系の武道オタクも少なくないようだ。
 こうした人は、恐らく、一日の24時間以内に挫折してしまうのは必定である。

 これを承
(う)けて最近は、つくづく、生半可な、確固たる志をもたない若者が増えていることに、嘆息せずにはいられない。率直に言えば、内弟子の修行に耐えられるのは、一万人中一人以下で、それ以外は、途中で挫折してしまいそうな、総て武術家には不向きな、人間のクズばかりである。

 しかし、現在世界には、約60億人の人々が地球上に生きていて、そのうちの、一万人中一人の確率で内弟子になりそうな人を推測すると、約60万人が未来の内弟子予備軍であり、日本の人口も現在は、約1億2千5百万人と言われるので、1万2千5百人くらいの人が内弟子予備軍として推測される。しかしこれは少なくとも、約五十年か、百年くらいかかって、門扉を叩く人達であり、年間にすれば、一人か二人と言う事になる。

 要するに、適正者は極めて少ないと言えよう。
 裏を返せば、わが流の内弟子として最後まで遂行し、自分の念願を果たせる人間は、ごく僅かだと言う事になる。しかし武術が、幾らマイナーだと言っても、マイナーな武道雑誌や格闘技雑誌の、熱烈な読者として入れ揚げる、武道オタク・格闘技オタクと言う人種で無い事は明らかである。

 尚道館の入門規定でもあるように、優柔不断なマニアック系の武道オタクや格闘技オタクは、わが流に潜り込む余地はない。わが流が必要とするのは、こうしたマニアックな愛好者や同好者と言った類
(たぐい)の人種ではない。

 自分の将来の展望を鋭く見据え、流行に振り回されること無く、黙々と素直に言い付けを守り、自分を常に失わない、志のある青少年を求めている。常に信念をもち続け、青雲高く志をもって、最後までこれを貫き通そうとする、ごく限られた少数の青少年達です。青雲の志に燃え、どんなに辛い窮地に立たされても、それ挫
(くじ)けず、最後の最後まで諦めずに最善を尽くして努力し、己の意志を貫こうとする人を、わが流は若干数求めている。

 さて、指導内容
(指導は単に、西郷派大東流の技術指導や整体術ばかりでなく、政治・経済・軍事・哲学・陽明学・言霊学・金融工学・歴史工学・開業ロケーション理論・心理学やアイドマ理論・食養道・道場経理学・インターネット作製などの広範囲に及ぶ)は直接宗家が行い、修業年数は2ヵ年。ここを卒業した人は各道場や支部に派遣し、また新たに各都道府県で道場が開設・開業でき、支部長以上の資格を有し、将来我が流派の幹部要員を養成する。

 これまで多くの青雲
(せいうん)の志に燃えた若者が、我が西郷派大東流宗家の許に参集したが、ここを卒業した人は、現在までに、一人も居ない。
 これは非常に残念な事ですが、わが西郷派大東流の修行に耐えた最高年月の人は1年1ヵ月であり、また、口だけで意気巻いて入門し、僅か1週間で逃げ出した人もいる。1年1ヵ月を越えれば新記録達成ということもありえそうだ。
 しかし、それだけでは満期終了には至らない。物事は満願成就が大切である。

 もし、わが尚道館の内弟子の厳格な修行に耐えることが出来れば、これは人生の素晴らしい教訓になり、少々の辛いことや、逆境に立たされても決してへこたれることはない。会社などの組織の一員となっても、立派にリーダーシップを発揮する事が出来るであろう。
 また、成功への鍵もこの中に含まれている事は請け合いである。




問答 29
尚道館陵武学舎の一日とは、どういうものでしょうか。 (1)

 一日の日程は、午前5時30分起床【註】ただし冬場は6時起床。冬場と夏場は「秋分の日」と翌年の「春分の日」で分ける)、洗面後、道場内外や風呂場の掃除。水汲みや農作物の世話。野菜ジュースまたはドクダミ茶あるいはヨモギ茶の朝食。朝は排泄タイムであり、一般に信じられている「しっかり朝食を摂る」という現代栄養学の考え方はない。
 この詳細理由は、「大東流食養道」
http://www.daitouryu.com/syokuyouを参照のこと。

指型指圧器

経穴刺戟鍼

 その後、足の裏の摩擦ならびに指型指圧器や、鍼灸師用の経穴刺戟鍼(けいけつしげきしん)を使って、足の裏の湧泉(ゆうせん)を徹底的に刺戟し、大地から「気」を吸い上げるツボを指や指型指圧器や経穴刺戟鍼で30分程押さえます。
 これによって足の裏が柔らかくなり、血行が良くなって、内臓の諸器官が鍛えられる。また、寒さにも強い足に鍛える事が出来きる。

 大地の気は、足の裏側からのみ、取り込む事が出来、同時に足の裏から気を取り込む養成をしていると、冬でも足袋
(たび)や靴下無しで過ごす事が出来、寒さに対しては勿論の事ですが、夏の暑さや、梅雨時のジメジメした季節に発生し易い水虫などの予防にもなります。

 水虫は、白癬菌(はくせんきん)による皮膚病の一種(カビの一種で水瘡(みずぐさ)ともいわれる浸淫瘡)で、足の裏や足指の間などに、水膨れが出来たり、皮膚が白くふやけたり爛(ただ)れたりして、強い痒(かゆ)みを伴う病気である。汗疱(かんぽう)などとも言われるこの病気は、皮靴などで密閉された踝(くるぶし)から下の箇所の、特に足の裏の指俣(ゆびまた)の辺りに出来る皮膚病で、一度発生すると季節に関係なく、痒みを増しながら悪化の一途を辿る。

 そして残念ながら、今日の医学ではこの病気を完治させる治療薬は、まだ発見されていない。
 したがって常に足の裏を外気に当て、あるいは午前中の直射日光に当て、湧泉マッサージの刺戟を繰り返し、こうした病気に罹
(かか)らないように予防しなければならない。

 これが終わった後、今度は手頸
(てくび)の指関節を逆に曲げたり、手の甲を順方向に極限まで曲げたり、小手返しの方向や小手捻りの方向に曲げ、手頸や指の老廃物(手指の尿酸塩の除去。尿酸塩の沈着は3〜40歳台の飽食する男性に多く、動物性蛋白ことにラーメンの汁などに含まれる核酸摂取の過剰により、発作性激痛の痛風を起こす。慢性化すると腎不全で死亡)を取り除く柔軟動作をする。
 この四つの動作は、儀法
(ぎほう)を実践する上で、ストレッチを兼ねた手頸運動であり、関節などに溜まるゴミを除去する効果がある。

 午前7時より10時まで自主的な道場稽古(特に「受身」を徹底的に稽古し、後ろ受身、前受身、前方回転受身、前方飛び込み回転受身を五百回、千回と繰り返す。そして目標は、アスファルトの硬度な上でも、「ネコ」のように軽く回転し、躰にダメージを受けない体躯と体質造りをする)

 わが流では、徹底的に受身をすることを示唆する。昨今は、コンクリートのような硬度な場所の上で、軽く受身をとれる人は殆ど見かけなくなったが、こうした硬度な床の上で受身をとれるようにしておくことが、実戦では大いに役に立つ。
 受身は内臓を衝撃から護
(まも)る効果があり、同時に頭蓋骨(ずがいこつ)ならびに頭部を支える頸椎(けいつい)を強化させる。

 人間の頭部の重みは、全体重の8%に当たり、例えば体重が65kgの人であれば、頭部の重みは約5.2kgということになる。この5kg強を、7個の頸椎のリングが支えている。そしてこの頸椎の7個のいずれかがズレる事によって、様々な種々の病気が発生する。こうした病気を防ぐには、日頃から受身などをして、「転がる」という動作を身に着けておかなければならない。

 合気武術の基本は「受身」であり、また極意も受身の中にある。本来受身と言うものは、日常活動から非日常活動に切り替わった際に、臨機応変に、咄嗟
(とっさ)に反射的に行うものであり、意識してやるものではない。無意識のうちに、反射神経をもって、ネコのような受身をとることを目的とする。

 交通事故などに遭遇し、四つ角などの出逢い端
(ばな)に、急発進の車から身を護れるのは、「前方飛び込み回転受身」のみで、また、車などの乗っていて後ろから追突された場合も、鞭打ち症を防げるのは、「後方後ろ受身」のみである。
 他の大東流では、「受身は必要無い」と言い切る指導者がいる。この指導者の言によると、「技を憶
(おぼ)え、自在に使えるようになれば、投げる方だけをやればいいのであるから、わざわざ投げられる受身など必要無い」というのである。しかし、これは大変な誤りである。

 指導者は弟子を投げるだけでいいであろうが、投げられる方の弟子は、はやり受身を充分にしておく必要がある。
 合気道の演武会でも、指導者や師範格の人の技が、非常に見栄えが良く映るのは、受をとる人の受身の旨さが、指導者や師範格の技を引き立てている。しかし。もし、受をとる人の受身が下手だったら、彼等の技も台無しになってしまうであろう。

 ただし、西郷派大東流の言う「受身の大事」は、合気道の受身と類を異にする。受身の目的が違うからである。演武会用の受身とは異なるからである。
 大東流でも合気道でも、受身の上手な人は、先生達から引っ張りだこである。先生達の技を引き立てるのは、受身の上手な受け手がいるからである。受け手の受身が下手であれば、先生達の技は引き立たないだろう。これは大東流や合気道の演武会を、確
(しか)とその目で、ご覧になれば、一目瞭然であろう。

 しかし、わが西郷派大東流の「受身の大事」は、演武会用の受身でないから、必ずしも、観客に旨く見せ掛ける必要はない。問題は、アスファルトのような硬い場所でも受身がとれ、内臓に衝撃を与えることなく、我が身を護ると言う事を目的にしているからである。したがって、演武会に臨席する観客の目は、それほど重要ではないのである。他人の目を気にするよりは、自分の躰
(からだ)を守る事を最優先するのである。

 受身は、他から先に攻撃を受けて、防ぐ立場になって反射的に行うものであるから、攻撃なき場合は、わざわざ自分から派手なアクションを起こして受身をする必要はない。受動的に、他から何等かの攻撃を働きかけられた時に限り、護身術は有効であり、自分から先にし欠けるものではない。「先の先」をとって、これを護身法と言う流派もあるが、「後の先」こそ武術の真髄であり、過剰防衛にならない為にも、受身は必須課題の修得技である。

 私たちの周りには、無数の危険が取りまいている。わが家
(や)から一歩外に出れば、そこは修羅場(しゅらば)の危険地帯であり、いつ何時(なんどき)不慮の事故に遭遇しないとも限らない。

 受身を単純明解に表すれば、相手に投げられた時、あるいは他から被害を被った時、受ける被害ができるだけ少ないように倒れる方法であり、いつ日常が非日常に変化するかも知れない現代は、こうした反射神経を養い、それが「霊的反射神経」にまで拡張できるように養成しておかねばなならい。そして致命的な致死傷に繋がる「顛倒
(てんとう)」だけは、絶対に避けねばならない。
 正確な受身を会得するには、まず、繰り返し受身を研究する事が大事であり、五百回、千回と徹底的に受身を繰り返すことだ。
頸椎と脊柱の図

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 受身は、回数を重ねて、転がれば転がる程、脊柱(せきちゅう)の7個の頸椎(けいつい)、12個の胸椎(きょうつい)、5個の腰椎(ようつい)、岬角こうかく/仙骨の突起部にある)、仙骨(せんこつ)、尾骨(びこつ)の各々を正しく矯正する。脊柱は32〜34個の椎骨からなり、上から順に頸椎・胸椎・腰椎・仙椎・尾椎の順に重なっている。

 頸椎・胸椎・腰椎は椎骨といわれ、各々に独立した骨の、真椎
(しんつい)といわれるもので、仙椎ならびに尾椎は仮椎といわれ、成人になるに従って、各々は癒合(ゆごう)して仙骨と尾骨(びこつ)に独立している。

 そして成人以降、腰痛に悩まされる理由は、幼児期から少年期にかけては仙骨と尾骨が各々に独立して腰椎が重なっていないから、腰痛にはなり難いのであるが、成人になるとこれらが独立し、その上に腰椎が重なり、しばしば「ギックリ腰」と言う椎間板
(ずいかんばん)ヘルニア状態が起り、腰部の激痛が起るのである。これは脊柱の骨が正しく重なっていまいと言う事を表す。

 しかし常日頃から、受身をして転がりますと、脊柱の重なりを矯正し、重なり方を正しく復元する。転がれば転がる程、矯正度合いは高くなり、同時に脊柱の両側にある内臓に繋
(つな)がる経穴も刺戟(しげき)するから、内臓が丈夫になるばかりでなく、内臓の位置すら正しく矯正し、元の位置に復元する。更に、衝撃に耐えられるような内臓は位置を行い、腹部すら鍛えてしまうのである。(以後、次のページに続く)



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