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内弟子問答集 4

問答 11
人間は「生まれながらに平等」とありますが、本当に生まれながらに人は平等なのでしょうか。

 平等意識の中の不平等な現実に現代人は騙(だま)されている。しかし、誰もが、人間は生まれながらに平等を思い込んでいる。

 人間は生まれながらにして平等ではない。「人間は生まれながらにして不平等」である。
 これは「アメリカ独立宣言」
【註】ジェファーソンが起草した宣言で、1776年7月大陸会議で可決され、ジョン・ロックの自然法思想に立脚して、自由・平等・幸福の追求を天賦の人権として主張した)を繰り返し読めば明白となる。

 アメリカ独立宣言の冒頭には「すべての人間は平等に造られた」とあり、ジョン・ロックの思想を背景にしていることが分かる。そしてジェファーソンは「人間は生まれながらにして平等である」と付け加えた。
 しかし「平等」というのは現実的でない。現実を見渡せば、余りにも不平等であり、不平等に満ちている。

 マルキシズムならば、歴
(れっき)とした階級が存在し、階級の上位者が階級の最下位を搾取(さくしゅ)する社会である。また、最後の階級社会と云われる資本主義に当て嵌(は)めれば、資本家が労働者階級を搾取する社会である。そしてこの社会では、失業者もいれば貧困もあり、現実問題としてこれらは現存する。

 デモクラシーの総本山であり、資本主義の総帥として世界に君臨する、現実のアメリカは、人類の理想からは程遠く、あまりにも多くの罪で満ち溢れている。かつて「平等主義」から奴隸解放運動が起った。しかしその後、今度は人種差別が起った。
 そしてこの国は、少しでも油断すると、直ぐに汚職や腐敗が蔓延
(まんえん)し、ギャングの横行や不法行為などが地から湧いて出るように起り、その犯罪数は計り知れない。

 また、民主主義が正しく機能する為には、勤勉で理性的な人間が国家内の集合体を造り、これを前提として平和な自然状態が到来する。
 しかし、総
(すべ)ての人間は勤勉とは限らない。勤勉でもなければ理性的でもない人間が存在しているのが現実であり、これを起因として紛争が生じる。各地で戦争の火種が、未(いま)だ消えあらぬのはこうした事が原因している。一部の有識者や進歩的文化人は、自然状態に至れば戦争はなくなり、平和が到来すると豪語する。しかし、自然状態になっても紛争はあり得る。

 現に、民事訴訟の多発現象は、これを何よりも明確に象徴している。人間関係におけるイザコザは、半永久的に無くならない現象人間の、定めと云うべきものである。双方の意思が食い違いから問題が起るとされるこの現象は、人間の宿命と云うべきものだろう。

 勤勉でなく、理性的でもない人間は、資本主義下では労働力を投下しないから、私有財産を所持しない。また、持てる者に対し、羨望
(せんぼう)を抱き、人のモノを強奪しようとする。かくして意思の食い違いから、保守と革新の攻防戦によって紛争が起る。紛争の起因は、私有財産の「持てる者」と「待たざる者」との間に起る。一種の階級闘争である。

 アメリカ独立宣言は云う。「すべての人間は平等に造られた」と。
 しかしここで言う、「人間は生まれながらにして平等である」とは、一つは「キリスト教的契約における平等」であり、他の一つは「私有財産獲得の為の平等」である。そしてこの根元には、「資本主義における平等」と、「民主主義諸国間における平等」である。つまり、単的に言うならば、「腐れた平等意識」あるいは「民主主義下の腐敗した悪しき平等観」である。
 デモクラシーとは、個人個人が自己主張を主張し、それを押し通し、力関係において、自他を競い、多数決の原理によって、自己勢力下を拡大することである。この意味で、デモクラシーには腐れた平等意識が存在する。

 平等意識の中で、貧富の差が発生することこそ、デモクラシーの最大の矛盾点である。「金持ち」対「貧乏人」の、この二つの社会構造を追求すると、アメリカ・デモクラシーは「二分法的差別」が実在している事が分かる。それは「持てる者」と「待たざる者」の経済格差だ。金銭の所有力によって身分が決定され、人物像が決定される。一見、この格差は平等な実力主義の中から生まれたように見える。しかし、平等下の腐敗した基盤には、最初から腐ったものしか存在しなかった。
 現実にこの両者は存在し、二分法的差別が実在する。この構造はマルクス理論にも見られる。

 マルクスの云う、支配階級と被支配階級、あるいは資本家と労働者は常に二分法的対立である。したがって資本家の搾取する側と、労働者の搾取される側とによって、物質的恩恵が与えられるか、否かと言う事を起因として階級闘争が起る。

 しかしこうした現実を無視して、有識者や進歩的文化人は庶民を前に、競って「平等」と云う言葉を乱発する。昨今は、こうした手合いに限らず、左派や右派の政治理念を飛び越えて、口から出任せのように「平等」を口にする政治家や、その手の権威筋の有識者が多くなった。

 では、何故「平等」という言葉が乱発されるのか。
 それは庶民のウケを狙っての乱発である。ただ「平等」を口にさえしておれば、庶民のウケが非常によく、単にそれだけの理由で、「平等」の文字が、言葉が、両陣営から投げ出され、「平等」の応酬合戦が繰り広げられるのである。

 庶民攻略の狙いは、「人には上下の差別がなく、身分などない」と信じ切る庶民に対し、庶民の不満を柔らげる意図が隠されているのは明白である。そして、多くの政治家や文化人達が、「庶民ウケ」を期待して奔走
(ほんそう)するのは周知の通りである。選挙前ともなれば、「平等」の乱発合戦で世の中は騒然(そうぜん)となる。

 現代日本に深く根を下ろす禍根
(かこん)は、戦後民主主義に起因する。現在に人倫の乱れや性風俗の氾濫、頻発する不詳事や教育の荒廃と云った諸問題は、総(すべ)てこれに帰着する。
 強制された民主主義と云うこと事態最大の矛盾である。その上、民主主義の標榜する、「自由」「平等」「人権」「議会制」といった附随物は庶民の目を欺
(あざむ)く、欺瞞(ぎまん)に満ちた錦(にしき)の御旗(みはた)である事は明確である。

 その中でも、「平等」の誤解は目に余るものがあり、頭を切りそろえ、「平等」とするところに不可解な矛盾点が隱されている。そもそも「平等意識」は、知的エリートを根絶させる為に、手段として起こしたアクションではなかったか。
 しかしこの手段は、逆手にとられ、知的エリートを温存させる官僚主義を生み出したではなかったか。そしていつの間にか、この「官僚」と云う身分制度は、庶民の知らない所で一人歩きし、国民の頂点的な役割をしているではないか。

 絵に描いた餅同様の独立国家・日本には、国民不在でありながら、官僚だけが国家の顔をして存在する。本来、国家形成は、国民を有してこそ、国家は成立するのである。しかし、この国は国民が居ないのに、官僚と云う身分制度だけが存在する不可解な国である。

 では、身分とは何か。それは階級に代表される。
 階級を定義すると、経済を指標とし、この経済力の格差をもって、金持ちである資本家と、貧乏人である労働者を差別し、これを二分化するものである。

 また、経済力の他にも、名誉や権力が存在し、更に様々な差別の指標を混入して、多次元化したものを「階級」
stratifiication/主に生産関係上の利害・地位・性質などを同じくする人間集団の、年齢・財産・職業・学歴・身分などが尺度と所属する組織の区別あるいは階層)と云う。
 そして「階級」が存在する以上、「平等」など何処にも存在しないのである。
 人が平等でない事は、何よりもこの事が証明している。

 ともあれ、現代人は無制限な消費欲求の為に、
「消費の為の消費」を繰り返している。普通では無駄と思えるような消費を繰り返し、エネルギーを浪費させ、地球環境を悪化させている。

 一方において、エネルギーの消耗激しい、お祭り騒ぎや戦争は、如何にも無駄の最たるものと思われながら、「消費の為の消費」であるという点では、これも今後止むことがない。「消費の為の消費」を限り無く繰り返し、拡大再生産して行く為の、生産過程が自立した社会、これが資本主義だ。
 また、恒常的に「消費の為の消費」が組み込まれ、これが
「ねずみ講」構造で、グローバル的に稼動している社会構造が資本主義である。そしてこの社会構造は、無駄の多い社会なのである。

 私たちは人間として、この社会の現実を、無制限な消費欲求を繰り返し、実現する、この
「ねずみ講」構造について、再点検しなければならない時期が来ているように思う。



問答 12
現代と言う複雑な時代を生き抜くには、どうしたらよいのでしょうか。あまりにも時代の流れが激しくて、これに順応することが難しいように思われるのですが。

 「創意」と「工夫」で現代社会を生き抜く法を知らなければならない。安易に「消費の為の消費」の社会システムに流されるだけでは、余りにも能がない。この世の中は、「夏の暑さが長続きすれば、冬の寒さを恋しがり、冬の寒さが訪れれば、夏の暑さを恋しがるような構造」になっているのだから、少なくともこうした、本来は固定化されない実情に振り回される事なく、中庸(ちゅうよう)を保つことが大事である。

 近代資本主義は、無制限な消費欲求を実現するシステムである。
 拡散する消費欲求を放置する事は非常に危険な事である。地球環境の破壊も、実はこの無制限な消費欲求から起った。つまり、中庸のバランスを失い、悪しき個人主義が旺盛になった為に起った社会現象である。

 そして現代人が認識すべき事は、アメリカを総帥とした資本主義と云う社会構造は、一方で、自由・平等・博愛など工作事項を掲げ、これを巧妙に偽装して、庶民の目を欺き、この社会システム下において、附随物として「人権」と「議会制」を挙げつつ、民主主義と蜜月
(ハネムーン)の中を保ち、無制限な消費欲求を創造して生きていくと云うシステムが「近代資本主義」という定義を、心に深く認識する事である。

 では、近代資本主義が何故、無制限な消費欲求を消費するのか。
 それは唯一つである。
 利潤を獲得する為である。利潤とは、企業の総収益から生産費を控除した余剰で、企業家の所得となるものである。更に、生産過程で生み出される剰余価値の転化した形態が利益と云われる利潤であり、この利潤追求により、企業家の富が生まれると言うシステムである。
 そして資本主義の競争原理下では、利潤を獲得する為には、労働力を提供する労働者は、どのような事もしなければならないし、実際に「利潤を追求する」ことにおいてのみ、現代人は生きていると言える。

 かつての人類が知っている資本主義は、利潤を追求し、それを獲得する為には、労働時間を延長し、労働者をボロ雑巾のように使い捨てて来ただけでなく、そのボロ雑巾から搾
(しぼ)り取れるだけの賃金を絞り上げて来た。その結果、一方でプロレタリア独裁のマルキシズムが世界中を駆け抜けた。

 労働者は生産の中でも、生産の外でも、より巧妙に資本家によって搾取
(さくしゅ)され続けた。しかし、より巧妙な搾取の方が、労働者にとっては幸運な場合もあり得る。「経営」という、凡人(ぼんぷ)には煩(わずら)わしい企画力や思考力が必要でないからだ。
 そして資本主義は民主主義と結合した。

 民主主義とは政治制度であるが、人間に生きるスタイルを根幹とした社会システムであり、この主義の売り物は「基本的人権」という定義を第一義にしている事である。そしてこの定義を解すれば、基本的人権とは、「個人の生命と財産の不可侵」である。

 侵してはならぬ事は、国家が、社会組織が、社会の諸団体が、あるいは諸個人が、民主の主体である「個人」に対し、生命と財産は、侵してはならないという事である。しかし、他は何をしても良いという事である。そして、これに更に付け加える事項があるならば、デモクラシーとは紛
(まぎ)れもない「エゴイズム」のことである。
 エゴイズムを原理とした社会システムが、「民主主義」と云う事だ。

 したがぅて民主主義は、利潤獲得の為には、どのようなこともする資本主義の衝動力を利用しつつ、これを自由に発動させて、この条件下において、民主主義と資本主義は固く結びついているのである。しかしこれが社会主義となるとどうなるか。

 エゴイズムを原理とする民主主義は、共同性を原理とする社会主義に対しては、最後まで平行線であり、所詮、水と油に分離する物質でしかない。個人の生命と財産が、共同体の生命と財産の為に供養させられると言う社会システムは、どんなに民主的な政治が行われたとしても、それは外皮的な表層事の政策でしかない。
 したがって社会主義国家が、どんなに旨く偽装して「民主主義共和国」などを国名に標榜したところで、個人が第一義であるデモクラシーの原理下においては、フィクションでしかないのだ。

 また一方、個人の富が一方的に、あるひと握りのエリートに集中し、エリート個人の自由が許されるという社会も、それがどんなに素晴らしく、美しい、アメリカン・ドリームのような名目に基づいていても、これほど怖い社会はないのである。

 金にモノを言わせて買い漁
(あさ)る傲慢は、この民主主義下の、資本主義がよく結合した事から起った問題点ではないか。そしてこの背後には、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーMax Weber/リッケルトらの影響を受け、経済行為や宗教現象の社会学的理論の分野を開拓、「理念型論」を提唱。1864〜1920)が指摘した通り、プロテスタンティズムの倫理が働いている。つまり資本主義はプロテスタンティズムの倫理をもって経済行為と宗教現象を緊密にさせ、「勤勉」を原動力にしたのである。

 また民主主義のとって、大多数の個人を取り纏
(まと)める事で、これが都合がいいのは、デモクラシー下の、個人主義を原理とする多数決である。これを「大多数主義」と云い、民主主義の別名である。多勢が可決すれば、それがどんなに間違った事でも、一度議会で採否されたならば多数者の意見としてこれを決定するという方式が「議会制民主主義」と云われるものである。

 一方、マルクスの共同性の原理が、どんなに美しい美辞麗句で飾られていても、その実現は不可能であり、結果的に悲惨になったのは歴史が証明している。マルクスは、自分でも出来なかった事を、やろうとはしなかったが、それを人類に、他人に、実験的にやらせ、要求すると言う蛮行を働いた。そしてこの蛮行は、「革命」と言う名の暴力によって、反対勢力の粛清
(しゅくせい)を図った。人類にとって、これほど残酷な事はなかった。

 さて、昨今は民主主義下にありながら、世を挙げてエゴイズムを批判する。しかしこの批判原理とて、エゴイズムの変型である。
 学歴社会を批判する。しかし、学歴社会
【註】正しくは大卒者を指すのではなく、大学院修了のマスターやドクターの学位を持つ者を指す)は受験体勢に基づく、自由競争の原理に基づくものである。そして、受験競争に勝利した東大閥が優遇されて、なぜ悪いのかと、一方で批判が起る。
 これは、競争の結果、出来うる限りの平等があったという原理が働いているから、一方で優遇されるのは当たり前と云い、他方で悪いという敗者のエゴイズムが炸裂
(さくれつ)する。しかし、学歴・学閥重視の社会では、競争の結果から、勝者が敗者の上に立ち、ヒエラルキーのバランスはこれで拮抗(きっこう)を保つ。

 民主主義は、競争の結果を重視する政治理念でありシステムである。この為に、この社会では何処もかしこも、競争原理が働く。スポーツ武道や格闘技が、試合して勝者と敗者を定めるのは、民主主義の自由競争と、競争原理が働いているからだ。
 そして試合と云う競争を行った結果、観戦者の多数によって認められた勝利を、何処までも尊重するのである。
 また、このシステムには、競争によって得られた多数支配を脅
(おびや)かすような事がないように配慮されているところがあり、勝者は英雄としてその頂点に立つ事が許されるのである。したがって試合熱は益々過熱気味になる。

 しかし、これにも盲点がある。
 資本主義が、無制限な利潤欲求を追求するが如く、試合や競技に働く競争原理は、際限なく競争すると言う進行状態にある為、ある時点を超えると、勝つ為の競争自体が意味を為
(な)さない「臨界点」に達する。つまり、過熱競争が猛威を振るうようになり、「勝つ為には手段を選ばぬ」という隠された作為が生まれるからである。

 これは民主主義下に資本主義と結合した競争原理下で、過熱競争が繰り返され、食品産業の企てる飽食のシステム、また、その他の産業が企てる無駄の垂れ流しのシステムなど、一々挙げれば切りがなく、こうした消費の為の消費が、環境を資源を破壊し、庶民を搾取し、人類を滅亡に組み込んだシステムであると云う事が分かるであろう。何と云う愚行だろうか。
 資本主義の行き着く先は「自死」であり、民主主義は競争原理下の、拡散と暴走である。しかしこれをコントロールするシステムは、まだ見い出されていない。
 また、社会主義も、それを進化させたと豪語する共産主義も、これをコントロールする抑止力にはならない。

 私たちは、こうした過熱する競争原理の輪廻
(りんね)の輪から、脱出を試みなければならない。堂々回りの愚は避けなければならない。だから、倹約と節約が必要になり、生きて行く為の創意と工夫が必要になる。そして「消費の為の消費」の輪廻の輪から一日も早く抜け出し、自立しなければならないのである。



問答 13
創意と工夫を、いったい何に求めたらよいのでしょうか。

 現代人が見逃して入るのは、「礼」の中に創意と工夫のヒントが隠されているのである。まず、「礼」を中心にして考えた時、そこには人間の「行動規範」が浮び上がってくる。まず、「礼」を正しく学び、「礼」に適(かな)っているか、否かを追求することである。

 礼と云う、人間の守るべき社会の秩序や、それ保つ為の生活規範が失われれば、世の中は暴走して、過剰競争に拍車が掛かる。儀式・作法・制度・文物などの道徳観念が失われば、無規範
anomie/共通の価値・道徳が失われ、混乱が支配的になる社会状態)となる。優れた者に敬意を表したり、父母に「孝」の気持ちを忘れれば、戦国時代に逆戻りし、下剋上が起る。

 また、武道界や格闘技界の於ても、競技や試合の過熱競争に走れば、これまでの古人の智慧
(ちえ)の集積は蔑ろにされ、弱肉強食の十六世紀の「乱世の兵法」に逆戻りする。総(すべ)て「礼」がないためだ。

 近代民主主義が自死に向かって臨界点に達し、民主主義がエゴイズムをむき出しに暴走する現代、個人主義を謳歌する為に、様々な規制や法律が強化されている。これは資本主義と民主主義が「規則による統制」なしでは、正しく集団の秩序を保てないと言う現実を物語ったものである。
 したがって規則と云う手段が必要になり、法律の許
(もと)で集団の秩序を規制すると言うものである。

 しかし、規律を設け、規則を設けなくても、あるいは法統制下の規制を用いなくても、集団の秩序の維持を図る手段は他にもある。

 『建武式目
(けんむしきもく)には次のようにある。
 「理国之要 無過好礼。君可有君礼。臣可有臣礼。凡上下各守分際。言行可専礼儀乎」と。
 つまり、国を治めると言う理国
(理想国家の意)の手段としては、「礼」によってこれを為(な)すのが最も最上の方法であると説いているのである。

 『建武式目』は、建武三年
(1336)足利尊氏が幕政の参考の為に諮問しもん/識者の意見を求めること)し、これに中原是円や同真恵らが答申する形式をとった法令で、その第一義は「礼を重んずる」ことであった。これには幕府の所在地に関する第一項目と、政道第十七条とから成っている。そして「礼節を専(もっぱ)らにすべき事」とある。
 これには、礼によって自主性を保ち、師長や先輩、同僚や後進と望ましい間柄を確立し、人生を一つの修練の場と考え、ここで人間形成を行い、修行を目的として、これを追求するという人間の有るべき理想が掲げられている。

 私たちは日常生活の中で、目上の人間に対してはともかく、目下の相手に対しては、とかく礼を忘れがちである。強者には諂
(へつら)うが、弱者には傲慢(ごうまん)になる。人の油断とは、こういう時に起る。寝首を掻(か)かれるのも、こうした時に起る。

 これが一国の政治となると、個人は権力の抑圧され、法体制下の中で、無体さ差別をされるのはいつの世も同じである。古代中国では徳治主義を有効な政治手段として、これを社会システムに応用したが、韓非子
(かんぴし)の法化主義は性悪説に立っている為、万人を法によって幸福には導けなかった。理由は秩序維持を「法」に定め、「礼」を軽く見た為である。
 この意味からすれば、現代の我が国の法治主義も同様であろう。

 では、「礼」によって、何を実践するのか。
 これは武門の礼法に見る事が出来る。武門の礼法の特徴は、一般的には堅苦しいと誤解されがちだが、そして『書経説命中
(しょきょうせつめいちゅう)』にある通り、礼儀もあまりやかましく繁雑にすると、かえって守られなくなる等と、揶揄(やゆ)されるものでもない。
 武門の礼法は、世俗のそれと異なり、実に単純明解である。その態度の基本は、第一が「目立たない」ことであり、第二が「控え目」、第三が「途切れのない自然さ」、第四が「機転」の早さ、第五が「配慮」というものである。

 この五つの態度の中で最も重要なのは、第五番目に挙げられる「配慮」というもので、他人への思いやりと、それに絡む「人情の機微
(きび)」である。これは「思い遣(や)り」という言葉で統合されている。
 また、創意と工夫は自分の進まんとする人生指標に照らし合わせ、その中の構図から「調調整する方法を見つけ出すことだろう。

 この世の中とは、まさに満員の地球に、60億以上の人類がひしめき合っているのだから、超過密の満員電車に乗って、目的地に向かうが如しの状況にある。まず、この事を把握するべきであろう。これは決して様式の問題ではない。あるいは様式を変更することもでない。人類が過密になれば、残される行動は、やがて共食いだろう。共食いを避ける為には、今日の推進力を幾らかでも減退させ、豊かさや便利さや快適さから離脱することだろう。

 この離脱の中においてこそ、創意と工夫の自分なりの道が見えて来るものである。つまり、豊かさから離脱すると、そこに残るものは不自由である。便利さがない不自由である。快適さがない不自由である。しかし、この不自由は何処まで追求しても、実体がない不自由で、最終的には自分の裡側
(うちがわ)に辿り着くであろう。つまり、「自分とは何か」ということである。
 この探究は、生涯続くものであろうが、この探究なしに創意と工夫の解決の糸口は見つからない。




問答 14
礼法としての「起居振る舞い」の大事について教えて下さい。

 もともと「起居振る舞い」には、敵を作らぬ用心と、隙(すき)のない行動律が要求された。
 人間の行動律には、「坐る」「立つ」「歩く」また、「食事」「排便・排尿」「入浴」「就寝」などの日常生活の中での行動がある。しかしこの行動律の中で、体勢や姿勢の崩れ、または不用意な行動、あるいは何事かに気をとられたり、注意散漫になったりの、隙(すき)は、やがて自分の未来もを失う要因になり易い。

 武道愛好者は「敵を作るな」と安易に言い捨てる。しかし「敵を作らぬ」とは、反体制勢力に罵詈雑言
(ばりぞうごん)を投げ付けたり、恨みを買われるような言動や行動を、単に慎む事だけではない。礼儀を糺(ただ)す事にある。礼儀を糺すとは、心を糺す事だ。

 礼儀を糺せば、崩れ易い体勢も緊張によって立ち直る事が出来、また不用意な隙
(すき)も作らなくて済む。隙を作らず、緊張状態を日常生活に作り出す事は、同時に非日常の中にも張り詰めた心を準備する事になり、同時にこれが武術の心得ともなる。つまり「心得」とは、弁(わきま)えておく事柄であり、事情を即座に理解して処置することであり、「はからい」である。

 武門の礼儀作法で一貫していなければならぬ事は、「坐る」「立つ」という動作の中で、その行動律は一連の動作の中で、常に重心軸は正中線が重力方向のジオイド
geoid/地球重力の方向に垂直で、かつ平均海水面とほぼ一致する曲面)方向に向かい、安定を保っていなければならないという事である。したがって武術では、前後左右ならびに上下の立体空間において、どの位置からの攻撃に対しても、備えが出来ているという事を要求される。つまり、ここには身体的な中庸(ちゅうよう)が求められるのである。

抜刀可能な状態とは、自らの心身が中庸を保っている状態である。また、中庸のバランスが保てるからこそ、「水走り」の流れるような動きが即座に出来、然(しか)も、この流れの中には力んだ様子が窺(うかが)われないのである。この構え方は西郷派独特の半坐半立の「帯刀(たいとう)穏陰之構(おんいんのかまえ)」である。

 まず「坐る」動作の中では、この姿勢から瞬時に体の転身が出来、瞬時に跳躍(ちょうやく)し、更には抜刀可能と云う状態を作り出していなければならない。この状態を作り出す為には、まず、肩の力を抜き、上半身が前屈(まえかが)みでない起きた状態でなければならず、頸筋(くびすじ)から肩の線は非常に「なだらか」であることが大事である。

 我が西郷派大東流合気武術・尚道館では、この「なだらかな線」を養成する為に、手頸の線に流れるような「水走り」の体勢造りを指導し、停滞しない「流れる動」の養成を内弟子に義務付けている。
 一般に武術修行と云えば、単に厳しい、酷な、荒々しいハード・トレーニングを想像するようであるが、ハード練習は青少年期の体力充分の時に相応しいトレーニングであり、三十歳過ぎて体力が下り坂に差し掛かると、筋力トレーニングは、むしろ「百害あって一利なし」だ。

 筋力とスピードの養成より、起居振る舞いから起る「動き」と「流れ」を養成するべきで、停滞しない、流れる動が大事である。武門では「自然な動きをよしとする」のである。自然な動きこそ、合理性を重んずる動きであり、この動きの中に「合気」が存在している。そして停滞点を作らないと言う事が、武術的に見ても「隙
(すき)のない動作」に繋(つな)がるものであり、手足と言うものは躰(からだ)とバラバラに動くものではなく、一体であるべきなのである。つまりこれが心身の中庸である。

 スピードに頼った場合、手足の動きは、心臓やその他の内臓器官とバラバラになる。また手は手、足は足となってしまう。
 つまり、起動点のエンジンが手と足の上下に分かれ、更に左右に分かれ、四つのエンジンが必要になってしまうのである。エンジンを四つにした動きに、空手をはじめとして中国南派拳法やクックボクシングなどが挙げられ、空手は四つのエンジンからなっている。それは空手が極めて直線的な動きをする事に由来している。

 武術は本来円運動から展開し、続いて球体運動や球体の螺旋
(らせん)円周を弧とした螺旋運動へと展開される。それは、円は、必ず最後には元の位置に戻るからだ。
 ある物体がアクションを起こす場合、動力源と云われるエンジンに相当するものが必要になる。人間で云えば、生きる為の脳であり、まな脳に血液を送り続ける心臓部分に、このエンジンが相当する。同時にアクションと云われる行動が必要になるから、これを起動させる為にはエンジンとなる脚のバネや、それを援助する腕の動きが必要となる。

 空手で云う、「突き」や「蹴り」は、左右の手足の四のエンジンからなる。空手は力を用いる為、手足で各々使う力は、別々のエンジンから起動している。
 ところが合気武術はこれらのエンジンが一体型であり、一挙手一投足が「流れ」と「動き」による儀法
(ぎほう)からなる。筋力やスピードの外筋に頼るものと、内在する力に頼る内筋に頼るものとは、おのずとその起動のさせ方が異なり、外形で表現する直線的な動作と、内在で異で外には現れぬ円の動きとは、かくも異なるのである。
 つまり我が流で云う「動き」と「流れ」とは、一つのエンジンからなる一挙手一投足の事であり、これが一体型として動く、「養力」を錬
(ね)るのである。



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