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内弟子問答集 3

問答 7
内弟子としての礼儀と作法は、如何なるものなのでしょうか。

 今日のスポーツ武道団体は、何処の指導者も、団体員に元気のよい挨拶(あいさつ)を指導しているが、これが礼儀と思い込んでいる指導者の多いのも、また事実である。
 しかし、礼儀と挨拶は根本的に違うのである。

 挨拶と言うものを定義すると、昨今では、山登りや、山野などのハイキングに行くと、出合った相手に、片っ端
(ぱし)から無差別に悉々(ことごと)く、大声で挨拶を送る光景が見られる。しかし単に、単純粗雑な挨拶を送れば良いというものではない。
 挨拶には、時と場合があり、相手と自分の関係を無視して挨拶を交わせば、これが時として非礼な行為になることがある。

 無差別に、画一的な挨拶は、片っ端から挨拶をするので、声を掛けられた方が迷惑することが多々あるようだ。
 山登りやハイキングに限らず、最近では学校でも、誰彼なしに来客者には声をかけ、挨拶することを、学校の教職員側
【註】学校長をはじめ教頭を頭として、学年主任などは、この種の「片っ端から挨拶」するのが好きな人種だ。また生徒達にも半ば強制的に、命令調で実行させている現実は、実に教育の間違いに大きな疑問を感じさせる次第である)は生徒達に義務付け、強(し)いているようであるが、部外者が学校内を歩いていて、前方の生徒達数人から声を掛けられ、迷惑することがある。

 こういう生徒達に、挨拶の声を掛けられて喜ぶ人もいるが、しかし、こう、声を掛けられて、部外者だからと無視でもすれば、挨拶を送った生徒は、自分達がはぐらかされたと厭
(いや)な気持ちになるだろう。
 だからと言って、軍隊の観閲式
(かんえつしき)同様に、一人ひとりの生徒に対し、答礼を強(し)いられるのは迷惑千万であり、はっきり言って、こうした挨拶は迷惑以外の何ものでもあり得ないのである。

 礼儀で大事なことは、「挨拶をしたり」それに応えて「挨拶を送ったり」という儀式ではなく、本来挨拶は、出会った相手に利便を図り、不快を与えない程度のものが挨拶なのである。一人一人に対し、答礼を強いられるのは、既に不快の域であり、これは大きく礼儀から逸脱していると言える。
 そして、学校に出向いた時、生徒から声をかけてもらわなければ不快を感じたり、声を掛けられたことで喜ぶような大人は、発育の遅れた政治家や、大人になり切らない、幼児趣味の大人
(公立学校の教師によく見られるタイプ)である。

 妄想は何処までも付き纏
(まと)うものである。
 知育的発育の遅れた大人に限っては、安易に声を掛けられ、挨拶されることを嬉々として喜ぶものである。「声を掛けられれば悦
(よろこ)ぶだろう」あるいは「気分がよくなるのではないか」と言う、発育の遅れた大人の妄想は、これこそが「礼儀正しい」という、好感のもたれる思い込みに、感じ入っているかも知れないが、無差別に交わす挨拶は、政治家や教師側を含む専売特許で、幼児趣味の大人の妄想にしか過ぎないのである。
 昨今の、学校内で教師などが、卒業生から暴行を受けたり、刺し殺される事件を考えて見ても、安易に挨拶を強要した教師側に対する、かつての生徒の逆襲ではあるまいか。

 挨拶と礼儀正しさは、はっきりと区別するべきものである。
 相手構わず、こちらから挨拶をすることは、良好な人間関係を保つ為の礼儀・作法とは大いに異なるものである。挨拶は、通りすがりの儀式に過ぎないが、礼儀は、時として我が身を護る護身術になる。
 礼儀を尽くすことの、僅かな努力は、自らを窮地に陥れる愚かの所作を防止するものである。

 一方、人間の心と言うものは身勝手なものであり、ある一面に於いて、「人恋しい」と思う時もあるが、一方に於いて、他人から声を掛けられることが、煩わしく思う時もある。こうした時に、そっとその儘
(まま)にしておいて、「無関心を装う」ことも、また一種の礼儀であり、作法であり、思いやりでもある。これを武門の礼法では、「礼儀的無関心」と言う。武人だけが知る、無言の心遣いなのだ。

 礼儀は挨拶と混同されがちであるが、挨拶を受ける側の気持ちを無視した、送り手の勝手な社交辞令で、勝手気侭な善意を押し付けられても迷惑千万である。こういう場合は、「放って置く」というのが「武士の情け」であり、礼儀に適
(かな)った「礼儀的無関心」と言うものだ。

 昨今では、礼儀と言えば、誰彼なしに挨拶をすることが礼儀だと勘違いしているようであるが、これは大きな間違いである。
 答礼と言うものは、受けた側は一つや二つ、遣ろうと思えば出来ぬことはない。しかし礼法で言う作法とは、相手の心情や、人情に機微を無視して、相手に一方的に無理強いするものではない。

 また、この辺の見極めが出来ぬようでは、一廉
(ひとかど)の人物に成長する将来の要素は残っていないものと言える。
 相手の心理を巧みに読むことも礼法の一つであり、これこそが、礼儀と言われる、もう一つの護身術なのである。

 尚道館では、内弟子に対して、この事を力説し、相手の心を読む観察力と観察眼を指導し、相手本位に振る舞わせて、自己満足の挨拶を戒めているのである。挨拶とは、社交辞令的に行うものではなく、「まごころ」から出るものであり、同時にそれは隙がなく、一度有事が起れば、それを躱
(かわ)せるようなものでなければならない。



問答 8
礼儀における、卑下と謙譲とはどう違うのでしょうか。

 自らを遜(へりくだ)る卑下と、非礼の区別を知らない現代人の実情は、実に嘆かわしいものがある。
 もともと卑下
(ひげ)は謙譲(けんじょう)と言う意味ではない。また、遜(へりくだ)るという意識は、一見他人を敬(うやま)い、自分を下に置くという謙遜(けんそん)のように受け取られがちだが、実は謙遜でも、仁恵じんけい/慈しみを顕わす)でもなく、自分を買い被(かぶ)った傲慢(ごうまん)と言わねばならない。こうした傲慢こそ、非礼の最たるものだ。

 卑下とは、自分が劣ったものとして卑
(いや)しめることを言うのであるが、卑しめ、見下すことが、逆の展開となって「己を卑下するのも自慢の中(うち)」というような、傲慢に陥らないようにしなければならない。
 遜るとは謙遜を意味する言葉であるが、謙遜も度が過ぎれば見苦しいものとなる。しかし、これに気付かない輩
(やから)は多い。

武術は武門の中で育まれ、武門の起居振る舞いと礼儀を尊(たっと)んで来た。そこには真剣勝負の遣り取りと、真摯な礼儀正しさが漲(みなぎ)っていた。多少の勝ちで奢(おご)る事なく、また、自分を決して卑下する事もなく、人間と人間が対等な立場として対面し、表面で人を差別するような事はなかった。
 その証拠に、下級武士でも登城する時は、殿中に於てでさえ「脇指」の帯刀が許され、上級武士や君主と雖も、もし、上士の意見や思考が間違っていれば、下級武士が自ら帯刀した脇指を抜いて、斬り掛かり、抵抗する事すら許されたのである。その意味で、下級武士であるからという、卑下する気持ちすら存在しなかったのである。勿論その後の、責任は負わされるであろうが……。
 しかし、「脇指を帯刀する」と言う条件下では、身分の隔たりはなく、上士・下士ともに対等であり、下級武士でも自分が卑しい身分であると卑下する必要はなかった。

 これは道場などで良く見られる光景であるが、例えば昇級について、指導者から「昇級してはどうですか」と声を掛けられ、これに謙遜のつもりか、遠慮のつもりか、あるいは自分などまだまだと考えているのか、これを辞退したり、指導者の声を無視してしまう人がいる。

 しかし、指導者は昇級しても良いと判断するのであるからこそ、声を掛けるのであって、その実力に満たない者に、無闇に声を掛けるものではないのではない。声を掛けられて、辞退したり、あるいは無視するのは、卑下傲慢と言われる慢心の一種である。これを安易に無視してしまう、愚かな人間は多いものである。
 あるいは、昇級すれば某
(なにが)かの金銭が掛かり、これを無駄な出費と考えて辞退するのかは定かでないが、こうした複雑な感情も入り乱れていることは確かである。

 昇段や昇級には金が掛かるのも事実だ。無形のものに、あまり金を賭けたくないと思うのは、有形のみを信じ、その、物としての存在のみしか認めない人に多い。
 昨今では、昇段や昇級に無形の努力を賭けをかけると言う気風は薄れ、明治維新以降の日本人は、以降、確かに物への価値観を重要視する風潮が生まれた。

 物を重要視し、無形の遺産を軽視するあまり、「断わり」を込めた、いわゆる「へりくだったつもり」が、愚かにも自己評価の基準値を無視して、「自分はまだまだです」などという、軽薄な言葉を吐露(とろ)させるようだ。

 しかしこれは、実は武術の礼法上から言うと、非礼であり、「道」に反した行為を無意識のうちに行っているということになる。
 一般に「武」は「礼に始まり、礼に終わる」と信じられている。しかし、この言葉が、現代の武道界を見てみると、もはや死語である事が分かる。昨今の格闘技を含めた武道界に、礼儀など何処にも存在しないのである。
 それと相交えて、礼儀知らずは増加する原因を作ることになった。そして、礼の何たるかも解しない武道愛好者が増えた。

 この礼とは、目上や上士の心遣いを知る事であり、これを解しない人は、礼儀知らずと言わねばならない。

 本来ならば昇級をして、自らの級位が「上がる」ということは、日頃お世話になった先生や先輩達への謝恩の証である。自分の伎倆
(ぎりょう)が、日頃の稽古と精進によって、少しずつ、微々ではあるが、進歩しているということは、これまでの自分自身が精進した無形の「心の証」となるはずである。

 ところが、金銭が掛かるとか、無形の物に金を払うのは勿体
(もったい)無いと言う考えは、実に愚かしい限りである。更には、「自分を遜(へりくだ)る」というような、そうした高級な意識もない。昇段や昇級を商いなどの経済行為に結び付けて、「金が勿体無い」と思うのは「愚か」の一言であり、こうした手合いの進歩は将来的に皆無と言ってよいだろう。

 指導者から声を掛けられた場合は、慎んで、かつ潔
(いさぎよ)くそれを受け、昇級審査に臨むようにするべきである。そして合格した場合、是非とも諸先生、諸先輩方へ、お礼の挨拶を忘れないよう心掛けるようでありたい。

 更に、青少年の場合、その保護養育の任にある人
(父母)は、我が子が昇級試験に合格した場合、家庭内で簡単でも結構であるから祝膳を用意して、家族揃って合格祝をやる位の心遣いが欲しいものである。

 子供がこうした日本武術の伝統を受け継ぎ、将来自分が大人になった時、おそらくその人は、日本のこうした良き伝統を、我が子にも受け継がせたいと思うであろう。



問答 9
礼儀を重んじると有りますが、礼儀と人生はどのような関連性を持っているのでしょうか。

 人間の世の中は、人と人の助け合いであり、「助け合い」に介在しているものは「礼」である。「礼」が存在しているからこそ、自他の摩擦は限り無くゼロに近付く。

 人生のテーマは、どうしたら出来るだけ「災い」が排除でき、それを少なくするかに懸
(かか)っている。禍根(かこん)は出来るだけ絶たなければならないのである。したがって災いの排除、禍根の排除に心血を注がなければならない。

 また、訴訟事においても同じである。無駄なエネルギーを注ぐ、小競り合いは出来るだけ排除しなければならない。自他が攻防する摩擦は、出来るだけ取り除き、後々の禍根にならないようにしなければならない。
 この排除に対し、有力な極め手のなるのが「礼」である。礼をもって、相手と接し、また相手にも礼儀を重んじてもらうことが大事である。

 礼は、幾らこちらが礼儀を重んじても、相手に礼の心がなければ、人間同士での礼儀は成り立たない。こちらも礼儀を尽くすが、また、相手側も礼儀の解る人であって、はじめてこの関係は正常なものとなる。

 現代と言う世の中は、礼儀を欠く人が多い。不作法・不躾の人はゴマンといる。人の道をを訊いても、礼の一言も言わない。不躾に訪問しても、何の恥じるところもない。助けてやっても、その恩すら感じない。こうした種類の人間は最近急増し、かつて武門で田島馴れていた礼儀や起居振る舞いは、現代に至ってすっかり廃れてしまっている。

 したがって、善人と悪人を種別するときは、「礼の物指し」で人を計り、これに適
(かな)っているか、否かで判断すべきだろう。礼儀を心得ない人を側近に置くべきではない。礼儀はその人の人間性と品格から出て居るもので、礼儀を知る人間と、礼儀知らずの人間との間には、人の踏み行うべき道が有るか、無いかに懸(かか)っている。礼儀知らずは、後々に「災い」を齎(もたら)すものである。

 わが流の内弟子を志し、途中で去って行く人間は、その挫折した人間の全員が、人間として根本的な礼儀を知らなかったという事である。礼儀知らずは、災いを齎すばかりで無く、世話した人間をも巻き込んで、最大の被害を与える厄病神でもあった。したがって、世話する方も、こうした厄病神が身を引き受ける度量がいるのである。
 しかし、出来る事なら、こうした禍根は最初から絶っておく事が肝心であろう。



問答 10
人間は平等と云われますが、果たしてそうなのでしょうか。現実問題をよく観察すると、どうも平等には思われないのですが。

 人はみな平等ではないが、人を同格ならびに同等に扱う意識が必要である。
 それは身装りや所持品に圧倒されること無く、誰にでも分けへ隔てなく人と接し、弱者を助けて、同格ならびに同等、あるいは対等に扱う精神は、人間として実に崇高
(すうこう)な行為である。
 「人は対等」と一口で言うが、人を対等に扱う崇高な精神を持ち、分けへ隔てなく人に接しきれる「品格」を持った人は少ない。

 ややともすれば、身装りのみに眼が行き、持ち物で人の値踏みをすると言うのが現代人の常のようだ。あるいはその人の棲
(す)む、建物や豪華さに圧倒され、それだけで恐れ入ってしまう。
 これは見識眼の無さで、現代人の金や物に慣された、愚かな認識と言える。人間の修行にとって、こうした認識で人を色眼鏡で検
(み)る事は、しいてはやがて、物事の真相を見逃し、ついには見落としから、自らが敗ることになる。

 物事を十二分
(じゅうにぶん)に観察すると言う観察眼は、武人にとって最も重要な洞察力であり、この洞察力の疎(うと)い者は、人に嵌(は)められ、抜き差しならぬ窮地に追い込まれる。そして最後は無慙(むざん)に敗北するのだ。

 人を観察し、その外表皮である金・物・色を総
(すべ)て除外して、中身のみを見抜く事が肝心である。その他の附随物である外表皮である金・物・色は、大して評価の対象とはならない。
 そして平等と、同格を勘違いして、平等主義に入れ上げていると、「平等」を乱発することで、人を見下す、次の新たな傲慢
(ごうまん)を作り上げることになるので、よくよく注意したい言葉である。
 こうした傲慢は、動物を見下ろす目であり、また、家畜を見下ろす意識である。

 人間は動物や家畜を見る場合、決して彼等に対し、対等な目は向けないはずである。果たして動物園で動物を見る場合、彼等に人間と同じ対等な目を向けるだろうか。
 地球環境下で、動物の彼等も人間と同じ地球生物とは云うが、彼等を一等も、二等も低く見ている事は明白である。その証拠に鯨やイルカなどの海洋生物には寛大な目を向けながら、人間は牛や豚や鶏などの、家畜として扱われる動物を食べるではないか。

 有識者や進歩的文化人ほど、「平等」という言葉の好きな人種は居ないが、彼等の口にする「平等」は、まるで神の目から見た、庶民と言う微生物に対しての平等認識であり、一等も二等も高い位置から「平等」を乱発していることは明白である。また、庶民を家畜と云う、上から見下ろす意識で見下している事も拭い切れない。

 日本人の意識は、明治維新以前の感覚で自然を見、動物を観察する目ではないようだ。維新後、急速な西洋化に伴い、それ以降、食肉や鶏卵や牛乳などの動蛋白摂取をした為、日本人の感覚は西洋人と同じ感覚で物事を考えるようになったと思われる。平等と云う意識も、欧米人と同じ思考であり、人間が万物の霊長としてそのヒエラルキーの頂点に立ち、そこから他の生物を見下ろすと言う意識である。

 だから経済格差においても、「持てる者」と「待たざる者」を比較した場合、まるで「持てる者」は「待たざる者」を、まるで家畜のように見下し、ひと握りの為政者レベルで考えれば、最下位の庶民層など、微生物の集合のように見ているではないか。

サタン・ルシファーの目は、完成されないピラミッドの上で庶民を見下す、微生物に対しての、階級下の平等観だった。ヒエラルキーの最下位には庶民がピラミッドの土台となっている。
 日本では「平等」を口にする進歩的文化人や有識者の権威筋に「ルシファーの目」のエージェントが多く、テレビや新聞、雑誌などを通じて「平等意識細胞」を国民に培養している。

 そして神の目から見た平等意識は、あのサタン・ルシファーLucifer/本来は「明けの明星」を指し、 神に反逆して天から堕した最高位の天使であり、堕天使たちの頭領としてのサタン)の目を彷佛(ほうふつ)させるではないか。

 ルシファーの目は、完成されないピラミッドの頂点に君臨する、ヒエラルキーの最高位にある。もし、平等主義者達が、ヒエラルキーの最高位に位置し、この目と同じ目で庶民を、顕微鏡下の微生物と見下した場合、そこにいる微生物はどれも特徴がなく、同じ種の平等生物に映るではないか。

 しかして、有識者や進歩的文化人の、庶民の高位に立つ者の目からすれば、「平等」という言葉の本当の意味が見えて来る。
 私たち日本人は、戦後民主主義教育下で「平等主義」に染められてきたが、実は、隣人を平等と看做
(みな)すのではなく、高位から庶民を見下す、顕微鏡下の平等観に慣(な)らされて来たのである。

 安易な、権威筋の平等と、人間として同格であり、同等であり、対等であると言う意識は、根本から異なっている。人間は、その人権において対等であるが、その人権は肉体的な対等に移行される「平等」では決してないのだ。
 これは男の体躯
(たいく)と女の体躯が、決して平等ではないように、その体格も、体力も同様ではないし、女は子供を産める肉体を持っているが、男にはそれがない。これを、神の目で見るような感覚で、平たく、微生物の「平等」と豪語するのはお門違いであり、男は男なりに、また、女は女なりにその特徴を活かせば良いことである。

 また、法の下では「人権」というものがあり、人は皆平等と言うが、権利として、その人権は平等であるのであって、法の下での平等は、実は人間同士が対等であり、同格であり、同等であると云う言葉の換言である。

 この、法の下での平等を取り違えると、訝
(おか)しな民主主義下の平等論に発展し、ひと握りのエリート官僚が、庶民全体を見回して、見下した後、顕微鏡下の「微生物はどれもこれも同じで、平等だ」と見下す論理になってしまう。
 これこそ、人間をして、ひと握りのエリートが、人間を見下す愚かな「ルシファーの目」と云わねばならない。
 つまり、ひと握りのエリート官僚と、一部の有識者や進歩的文化人達は、同じ目で庶民を「平等視」している意識が働いているのである。何と言う傲慢
(ごうまん)だろう。



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