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内弟子問答集 1


尚道館陵武学舎・内弟子問答集



尚道館の道場正面神前の神棚ならびに神殿。


 人生を生きると言うことは、その人生の中に、今の「生」も死ぬという事である。そして今の「生」が死ねば、それでもう何もなくなって、その後、何も生まれて来ないと思っている人が、現代人には多いのではあるまいか。

 しかし、「今」という現実を考えてみれば、今回なぜ、あなたは生まれて来たのだろうか。それは、初めて生まれて来たのだろうか。然
(しか)も、なぜ他の人ではなく、あなたに生まれて来たのだろうか。

 ここに「生まれること」の繰り返しがある。しかしそれでも、いつかは人類は絶滅することであろうし、親類全体がこの世界から消え失せれば、その後は生まれ変わることもあるまい。それは生まれ変わって来たら、未来に生まれて来るはずだと言う固定観念があるからだ。

 だが、こうした思考が通じるのは、宇宙全体に同じ時間が流れていて、その流れの中で、他も一斉に動いているという観念が存在しているから、自分が死んだ後も動いているのだ、未来が存在しているのだと言う思考が存在しているからである。
 これは明らかに、知性が生んだ顛倒
(てんとう)的妄想(もうそう)であり、この妄想が存在するが故に、「生存」の世界が存在しているのである。

 人間の観念の中で時間を形作るものは、過去の経験に基づく、未来像とを結ぶ「知性」という産物の中に存在している。したがって「生存」を離れれば、時間は空間は存在しなくなる。

 現代人は誰彼もなく、「強欲」に染まった日常を繰り返している。色や欲にボケることが人生だと思い込んでいる。そして現在の自分の価値観からすれば、豊であること、金持ちであること、またその環境下の生活が、便利で快適であることを何処までも追求する物質文明至上主義の生き方を模索
(もさく)している。
 しかし、この模索の裏には、人類滅亡の暗示は封印されているのだ。恐らく、これに気付いている人は、ほんのひと握りの人であろう。

 現代人は、どんなに藻掻
(もが)いても、繰り返し生まれ変わる「輪廻(りんね)の輪」から逃れられない。つまり、分かり易く言えば、「夏になれば冬の寒さが恋しくなり、冬になれば夏の暑さが恋しくなる」そんな生活を日常の時空の中に取り入れて、その環境下から逃れることができないのである。そして、これに中々終止符が打てずに、あくなき格闘を繰り返している。

 しかし、人生とは「繰り返しの日常の中で、愚かにもその繰り返しを更に次々に行う」ことではない。これに見切りを付け、「中庸
(ちゅうよう)を実践する前向きの態度」こそ、人生にかせられた最大の課題なのである。そしてこのテーマに向かって邁進する姿を「修行」と称したのである。
 また、それを人々に伝達することも、修行の一部であった。しかし、勿論これらを強制はしない。

 この『内弟子問答集』は、もともと尚道館のHPに掲載されていたものである。これを新たに整理し、改正した形で問答集として掲載した次第である。


第一章 人生教訓問答集


問答 1
人はなぜ修行するのでしょうか。また、この時代に人は、どう生きればよいのでしょうか。

 「風雪に堪(た)える」と言う、古くからの言葉がある。
 風雪とは、きびしい苦難を現す。極限まで堪え、風と共にふる雪を凌
(しの)ぐと言う意味を持つ。
 内弟子の修行とは、まさにこうした事を言う。
 人知れず黙々と修行に励み、目立たぬところで地味な稽古を行う。これこそが内弟子に与えられた研究課題であり、これをどのように克服して行くかは内弟子自身の、これまでの人間性と、物事に対する思考力に賭
(か)かっている。

 しかし、内弟子の修行は生易しいものではない。地道に、過酷
(かこく)な稽古に耐え、精神的にも肉体的にも、「陰徳(いんとく)」を積む修行に似ている。黙々とした態度は、他の世界の派手さが伴わないので、愚かしい野望を抱いて居るものには過酷な精神的苦痛が伴うだろう。したがって、この種の人間は陰徳の何んたるかも知らず、人生を終(お)える人である。

 では、陰徳とは何か。
 陰徳とは、人に知れないように陰
(かげ)で施す恩徳のことであり、恩徳とは人情に機微(きび)を知る、人への情けを体得する事である。その為には現代人は置かれている、昨今の実情を知ることが大事である。

 昨今は、世の中が殺伐とし、人倫が乱れて妻子ある大人の不倫が大流行であり、情事を人生の享楽主義に摺
(す)り替えての快楽遊戯が大流行である。またこうした背景に、不穏な事件や、通り魔殺人などの、血腥(ちなまぐ)い事件が目立つようになってきた。
 これは現代人が、拝金主義や金銭至上主義に、色も絡んで、未
(いま)だ、性(セックス)に踊らされていると言う事を明白に物語っているからである。
 人間の価値観も、精神的支柱である心から離れ、金・物・色の物質的な欲望を募らせ、偏
(ひとえ)に、こうした価値観は人の情じょう/事象に感じて起る、主観的な知情意)から、金や物へと移行している現実があるからだ。

 一説によれば、現代は心の時代で、拝金主義は終焉
(しゅうえん)を迎えたと言われる。二十一世紀は、「心の時代」であるとも、豪語される。
 しかし、実際に二十一世紀に突入すれば、何処を見渡してみても「心の時代」であるとは言い難く、現実問題として、人の命や、人権は、未
(いま)だ金銭に換算され、損害賠償などを含む民事訴訟で、生命ならびに基本的人権は、金銭に換算され、この価値観によって、人間の評価はなされている。心の時代と豪語した、「心の時代」は遂に到来しなかった。

 戦後の日本人の多くは、アメリカの持ち込んだ民主主義
【註】この主義はアメリカ国家が行う、国民への民族主義教育。その象徴が『星条旗よ永遠なれ』という、この国の国歌だ)の真の姿も知り得ず、異口同音にして入れ揚げ、手放しで喜んでいるが、ここに民主主義と資本主義の交錯する箇所に、大きな落とし穴がある事に気付いていない。
 私たち日本人が戦後民主主義教育の中で、安易に信じ込まされたのは、アメリカと言う国家が平等社会を標榜
(ひょうぼう)しているのにも関わらず、その裏側にある、アメリカのタブー【註】実はアメリカは階級社会。しかしこれを公表することは禁忌)を排除した、「平等」という神話に魅せられ、これに入れ揚げた事でなかったか。

 しかし、アメリカのもう一つに顔は、途方もなく複雑な現代社会に、歴然と階級制度が実在することを見せつける現実である。例えば、人が何かを考えたり、行動する時、この国では、「階級」
(クラス)と「自分の出身母体」【註】祖父母までに遡る家柄あるいは出身大学の倶楽部)が考慮されると言う現実だ。

 アメリカと言う、国の本当の素性を知らない多くの日本人は、民主主義の本家であるこの国に、階級など存在しないと思い込んでいる。しかし、アメリカこそ階級社会であり、平等を標榜する民主主義は、実は平等など何処にも存在していない事が分かる。そしてアメリカ社会を広く見回してみると、階級問題は霧に包まれて、いつも複雑で、微妙な問題が横たわっている事が分かる。

 ところが多くの日本人は、この現実を知る事はない。
 アメリカを表して、「階級社会」等と言うと、不快な嫌疑が掛けられ、その分析に熱中したり、研究したりすると、忽
(たちま)ちのうちに権威筋から精神異常者か、つむじ曲がりの異端視扱いされるようだ。

 しかし、「平等」というアメリカの神話を安易に信じる日本人は少なくない。そして何処までも、神話を神話として存続させようとする、岩波書店を中心とする進歩的文化人の権威筋の企みがある。
 平等でない現実を、平等の言葉に置き換えるところに、今日の民主主義の説く安易な平等観がある。だが、この平等観こそ、平等過敏症の自覚症状であり、世襲の肩書きや、地位、称号などと言った、便利な制度を持ち合わせないアメリカでは、各々の世代によって階級のヒエラルキーが規定され、これを主軸にして、「成功すること」に向けて、この国は動いている。「成功すること」が、この国では、決定的な重要性を持っているのである。
 そして日本人の多くの若者も、こうしたアメリカ社会観に追随する思考が強いようだ。

 アメリカ人の彼等が、社会生活を営む上での必要不可欠な事柄は、「人々の尊敬を勝ち取ること」である。
 日本でもこの傾向が強くなり、タレントや芸能人までもが、尊敬に値する成功者として、脚光を浴びるようになった。スポーツ・タレントも同様だ。
 しかし、アメリカの「成功すること」に、人生設計を置けば、尊敬されて、誰もが一廉
(ひとかど)の人物の国と言うのは、日本も含めて、裏を返せば、誰一人、重要人物ではないという事でもある。

 日本でもアメリカでも、努力すれば容易
(たやす)く上の階級に伸(の)し上がる事が出来、金持ちになれると言う神話がある。この神話など、取るに足らないと軽く考えたところで、現実問題としては日本でもアメリカでも、歴然として階級制度があり、階級制度の現実の罠(わな)に嵌(はま)った時、下から上へ登る人生の登攀者(とうはんしゃ)は、苦々しさと、幻滅と言うものの洗礼を受けることは必定である。

 資本主義と程よく合体し、国家規模の
「ねずみ講」を奨励する民主主義は、グローバル的な平等の背後に宿し、相続財産、幼児期の生活環境、自身の出身大学の学閥、父母の出身母体や家柄・階級といったものが不条理に明らかにされ、これが社会的階級の階段を駆け登る条件となっているのは、明白な事実である。
 「階級のない社会」という、タテマエ論としての神話は、幻滅のうちに最早
(もはや)崩れ去っているのである。そして「階級のねたみ」は、時として、いざとなれば復讐(ふくしゅう)の為の平等主義に拍車を掛けるのである。

 私たち日本人は、アメリカ社会同様、平等主義と民主主義を区別して考え、「市民は公平に競争をする」という競争原理の中に於てのみ、拝金主義に固まって生息している微生物なのであり、また、ひと握りのエリートも、庶民を顕微鏡下の微生物扱いして、何の憚
(はばか)ることもない。

 戦後の教育を受けた多くの日本人は、とにかく民主主義、さしずめ平等主義には、ひときわ入れ揚
(あ)げるところが多かった。民主主義や平等主義の実態を解することもなく、一方に於いて、右翼だ、左翼だのと、権力中枢形態の本質も見抜くことが出来ず、唯物行為や経済万能主義に入れ揚げ、拝金主義の真っ只中にあって、金や物や色に踊らされてきた。
 そしてこうした現実は、今も依然
(いぜん)として続けられている。

 こうした現実の中で、身を窶
(やつ)し、年老いて、ボロ雑巾のように捨てられる人生観が果たして、掛け替えのある人生を全うできるか否か、甚(はなは)だ疑問である。
 尚道館ではこうした現実の反省から、心ある老若男女に対し、あるいは日本の国民として、地球の住民として、意義ある、有意義な、悔
(く)いのない人生を体得してもらいたいと言う祈念を捧げている。それは自我(じが)から抜け出した「中庸(ちゅうよう)」の存立である。

 人間は中庸を維持できなくなれば、あとは滅ぶだけであろう。
 中庸に至る道は、そんなに存在していない。その数少ない中庸に至る道を、わが流では説いているのだ。
 それは独自な指導方法をもって、後進の指導者となる為の、西郷派大東流合気武術の指導を行っているのである。



問答 2
修行の難しさとは、何でしょうか。

 これまで多くの若者(一部年配者も含む)が尚道館の内弟子制度の門を叩き、途中で挫折し、無慙(むざん)に故郷へと引き下がって行った。そして未(いま)だ、誰一人として、わが西郷派大東流合気武術の、内弟子修行を遂行した者は居ない。それは、如何に「中庸」を維持することが難しいかということだ。

 現代人は中庸のバランスを崩している。中庸を保つことは難しい。したがって、人間の修行とは、頭で考える程、生易しいものではない。
 「修行」は思考で理解できるようなものではない。自分の霊肉共に極限まで追いやり、その限界を見極めると言うのが修行の真の姿であり、その見極めが出来た者だけが、晴れて新たな人生の第一歩を踏み出す事が出来るのである。

 これまでの挫折者の多くは、自分を棚に上げ、自らの極限追求に敗れた事を、他人の性に責任転換し、自分は正しかったと言い張るものが少なくない。
 しかし彼等の共通した意識は、現代社会の甘やかされた現実に、便利さと快適さと、更には豊かさだけを享受
(きょうじゅ)すると言う意識が身に付いて、自らを苦しめ、その極限に向かって、難解な西郷派大東流合気武術の真髄(しんずい)に触れる事の出来なかった者達である。

 他を中傷誹謗
(ちゅうしょうひぼう)し、自分を棚に揚げて、自らを顧(かえり)みないのは概(おおむ)ねの人間の常である。並み以下の人間はこれに含まれ、多くは凡夫(ぼんぷ)に等しい。しかし凡夫でありながら、凡夫の域から脱出しようと企てる人間の気持ちは、実に美しく、貴く、清々しいものがある。
 凡夫に甘んじる事なく、少しでも自分を向上させ、人格ならびに品格を高め、霊格までもを高めようと日々努力する人間の姿は、実に美しき限りである。そこには中庸を存立させようとする気持ちが働いているからだ。

 中庸とは、作るの暑さの中に冬の寒さを恋しがることではなく、また冬の寒さになるの暑さを恋しがることでもない。暑さ寒さに振り回されない自己を確立することである。

 そして内弟子の一日の始まりは、
『陵武学舎・内弟子四カ条』の斉唱から始まる。
 陵武学舎の精神は、「まこと」であり、陽明学の云う「まごころ」である。「まごころ」とは、偽りのない心を顕わし、「誠の心」を意味する。「誠の心」は、「赤心
(せきしん)であり、「真実の心」を指す。
 『後漢書光武紀』には、「赤心を推して、人の腹中に置く」とあり、「まごころを以て、人に接し、少しもへだてをおかないこと」と教示され、人を信じて疑わないことこそ、「赤心」という「まごころ」の第一義と説いている。

 陵武学舎は
「内弟子四カ条」をもって、人間教育の本義に帰るが、その奥に座するものは、心と心を師弟共にぶつけ合う信義であり、「信」の一字に賭けて、「誠意」を主張するのである。

■■■ 陵武学舎・内弟子四カ条 ■■■
 われわれ内弟子は、

一、今日も一日、「はい」という素直な一言を実行致します。

一、きびきびとした動作で、今日も一日、清々しく、すずやかな行動を
  実践致します。

一、今日一日の、その日の仕事は、その日の内に終了させます。

一、日々新たに、易より難へと精進します。


問答 3
何故、内弟子は剃髪が必要なのでしょうか。

 内弟子入門者は、まず「剃髪(ていはつ)」という厳粛(げんしゅく)な儀式を受ける為に、何人たりとも剃髪を行い、謙虚さと忠節の証(あかし)として尚道館では「断髪式」が行われる。

 昨今は、ヘア−・ファッションなどが巷
(ちまた)で流行し、茶髪や長髪と言った髪型が、スタイリストや仕掛人によって仕掛けられているが、尚道館の内弟子はこうした世間の流行とは一切無縁である。
 尚道館・陵武学舎の内弟子の剃髪は、古くは「山嵐」で有名な西郷四郎の剃髪に由来する。
 西郷四郎は生涯剃髪を通した人物として知られるが、その真意は、武術家の「忠節」を顕わしたものである。

剃髪で生涯を通した西郷四郎。

 坊主頭は、何も修行者に課せられた「忠節」の意味を持つものだけではなかった。江戸時代は、僧侶とならんで、医者も坊主だったのだ。医者の坊主は、忠節を尽くす人間の証で、「まごころ」をもって人々を治すと言う意味が込められていた。それが「医は仁術」と言われた所以だ。

 こうした思想は武術家にもあり、かつては柔術の道場などが、骨接ぎなどで地域の人々の地域医療に貢献していたのである。そして坊主頭の柔術家も少なくなかった。天神真楊流柔術の「名倉堂
(なくらどう)」はこうした、当時の地域医療に従事した医術で有名だった。
 ところが西洋化の波が日本に押し寄せ、髪の毛を伸し始めたのは、明治維新以降の事であり、それ以前は「まごころ」の証として、柔術家は坊主頭が普通だった。発足当時の講道館でも、坊主頭の修行者が多かった。

 曽川和翁宗家の著書『旅の衣』
(後編)には、「剃髪」について、次のような興味深い一節が書かれている。

 「この印伝式は、他の段位等の印可式と異なり、正式に道統を伝承したという証
(あかし)に、それを伝授する方も、それを授かる方も、一点の曇りもないという相伝の証に、双方は頭を剃髪(ていはつ)し、後世までそれを伝えていくことを互いに確認し、授かった方はそれを誓うのである。私が頭を丸め、剃刀(かみそり)で頭髪を剃り落とすことは、大学二年のとき以来であった。

 剃髪をして、山村師範と対面した時、微かな戦慄
(せんりつ)と緊張が趨(はし)った。
 そして賜わり物を手にした時、当主二代
(第二代宗家)としての、その責任の重さと、大変なものを継がされてしまったという、一種の小さな後悔と、この流派の看板を一生背負っていくことの重荷が感じられた。

 その意味で私は所詮
(しょせん)道統を継ぐような器ではなかったのかも知れない。
 私に山村師範が道統を継がせたのは「何故だろう」と、今でも考えることがある。
 その道統を継いだ重みは、頭髪を剃り落とした頭の軽さと反比例して、大きな責任に喘いでいるようであった。
 密教や古神道の秘伝形式で道統を伝え、印伝式を行う流派は必ずといっていい程、その儀式に際して剃髪を行う」と、出ている。

 剃髪は、「まごころ」の証を表現する人間の行動原理である。
 ところがファッションにこだわる現代の多くの若者は、剃髪することを潔
(いさぎ)よしとしない。心の中身より、外側の、どうでもいいような、外形のみにこだわって、そこに愚かな価値観を外見に求めようとする。しかし、こうした、外見にこだわる人種に、内弟子の厳格な修行は出来るはずがないのである。
 尚道館の内弟子の第一歩は、自らを律し、素直な心をもって、内弟子としての「まごころ」を表現することなのである。


問答 4
内弟子としての態度と、日本語としての言葉使いについて、教えて下さい。

 尚道館での指導のモットーは、「言葉を重く用いよ」という精神で、門人一人ひとりを指導する。これは内弟子ならびに外弟子の区別はない。
 人間の使う言葉に表裏の無いことは、正しい言霊
(ことだま)を発する上で大きな要因となる。これを乱せば、忽(たちま)ちのうちに、自らの人生の使命は失われる。言葉には、「自分の命が賭(か)かっている」ということを認識すべきである。

 また、言葉に命を賭
(か)ける行動力が失われれば、人間として、指導者として、何の威力も迫力もないのである。二枚舌は、何処までいっても軽蔑の対象にしかなり得ないのである。

 男の顔は一つあればよいのと同様、言葉も一言
(いちご)で、二言(にごん)があってはならない。言葉の使い道を幾重にも分けて、政治家のように、行き先別に言葉を使い分ける必要はなく、武人は、簡明直截(かんめいちょくせつ)を尊び、これをその生涯の信念とした。

 『葉隠』の著者・山本常朝は言う。
 「物言ひの肝要は言
(げん)はざる事なり、言(げん)はずして済ますべしと思わば一言も言(げん)はずしてすむものなり」と言い切っている。
 これは言わずに済ますわけにはいかないことを、「言葉少な」に、言語明晰ならびに簡明直截に言えと云っているのである。

 さて、言葉使いとその態度として、尚道館では次のように指導している。
 その第一は、何人に対しても丁寧語を遣う事は勿論であるが、敬語
【註】話し手(または書き手)と相手と表現対象(話題の人自身またはその人に関する物・行為など)と尊敬語(話題の人や、その人自身の行為・性質およびその人に所属するもので、その人に対する行為などに関して、話し手の敬意を含ませた表現)の違いを学ばせ、自他離別の意識を無くして、他人に対して敬意を払う態度を指導している。

  人接 春風のごとし 己には秋露のごとし、である。

 人は、自分の甘く、他人には厳しいものである。自分を何処までも甘やかせる。しかし、甘い自分こそ、自分を粗末にしていることになり、しいては墓穴を掘る事になるのだ。
 また、これを知ることにより、他への中傷誹謗の妄念は少なくなり、礼儀が身に付くのである。

 話し言葉の態度としても、常に正確な言葉使いを心掛け、言葉に責任を持たせると言うのが尚道館での教えである。

 第二は、「聞き上手になれ」ということであり、聞き上手は、言葉巧みな話し上手と異なり、相手の意見をよく聴き、それを分析する能力が養われるからである。人はややともすると、他人の意見を聴くよりは、自分の手前味噌の自己主張ばかりを強めて、自他離別意識で他を卑下すると言うのが常である。マスコミなどで一廉
(ひとがど)の人物として知られていても、言葉巧みに自己主張ばかりを主張する輩(やから)が実に多い。また、誹謗中傷ばかりをして、それに対抗できる自分自身の確固たる回答を持たない人間も少なくない。

 将来の展望がなく、ビジョンがない人間は、やたら他人を中傷誹謗はするが、それに対して自らの回答を、何等示せず、見苦しい泥試合に身を窶
(やつ)している者も少なくない。こうした見苦しさは、聞き上手でないからだ。
 マイナーな武道雑誌などで、他を誹謗中傷している記事を目にするが、この張本人こそ、この種類の人間に入り、思考能力が「幼児なみ」と言うことを、自分で暴露しているようなものだ。

 第三は、自分の専門趣味などの「得意芸や表芸を話題にするな」と言うことである。
 例えば、コンピュータなどが多少詳しくなると、人の集まる席で、やたらパソコン専門用語を並べ立て、素人も巻き込んでこうした話に誘おうとするが、これは、この種の人間が、いかにも品格が低いということを顕わしている。その上、素養の無さを感じ、人間として余裕の無いことを自ら暴露していることになる。しかし、こうした人間に限り、これに気付かず、また自覚症状も感じないようだ。
 人が集まる席で、話題にする内容は、その席に、みんなが関心を持っているものを選んで話すべきである。

 第四は、「酒の席で普段口に出来ない事を言うべきでは無い」ということである。酒の勢いを借りて、酔っている相手に、理屈がましいことを言ったり、説教調でモノを言う人間がいるが、自分だけを棚に挙げているところから、実に見苦しい限りであり、酒の席で議論などをすることは慎まなければならない。
 また、この時とばかりに他を非難するような言動も慎まなければならない。これは自らが心に余裕がなく、人間的に一周りも二周りも、スケールが小さいことを自分自身で暴露しているのである。

 第五は、他人が話している最中に、欠伸
(あくび)をしたり、頭をかいたり、鼻クソをほじくったり、寝転んだりするな、と言うことである。
 また、隣の者と耳打ちをすることも慎まなければならない。他人の話を聴く時は、真摯
(しんし)に耳を傾け、他の用事をしたり、平気で席を立ったり、よそ見をしたり、汗を拭ったりせず、こうした「中座の非礼」に当たることは固く慎(つつし)まなければならない。

 しかし、人間は生理現象などもあって、どうしても中座しなければならない時は、丁重に一礼して、中座の非礼を詫びて席を立つべきである。
 また、他人の話に腰を折ったり、割り込んで無理な誘導をしないことである。更には、話の中で他人の間違いを名指しで指摘し、これを攻める言動は慎まなければならない。しかし、これは談話時の作法であるが、会議などの討論や議論とは別物であり、議論するべき時は、よく聞く耳を持ちながら、充分に議論しなければならない。

 第六は、他人の身体的な特徴や不具を指摘して、笑い者にしたり、侮辱
(ぶじょく)する言葉を投げてはならない。また、相手の知られたく無い秘密を明白(あからさま)に指摘し、これを暴露するようなことを行ってはならない。密告や中傷も見苦しいものであるが、秘密の暴露は、覗き見趣味的なところがあり、武人は、古来よりこうした者を賎(いや)しんだ。

 武人が毅然
(きぜん)とした態度を取ることは、実に清々しいものがある。
 武士道が廃れ、西洋流の騎士道chivalry/中世ヨーロッパで、騎士身分の台頭にゆって起った気風。キリスト教の影響をも受けながら発達、忠誠・勇気・敬神・礼節・名誉・寛容・女性への奉仕などの徳を理想としているが、必ずしも武士道に対峙するわけではなく、武士道の言う全人格を代表するようなところはない)にとって変わられる現代日本の昨今、武人の態度は、総て武士道に回帰されるのである。

 欧米を追従し、欧米を真似ることを常識とした明治維新以降の日本人は、欧米文化に、白人コンプレックスを感じつつ、西洋流の騎士道をもって白人のように振る舞うことを模倣して、自分が一種独特な文化人になったように勘違いしてきた。日本精神が蔑
(ないがしろ)ろにされ、武士道が廃(すた)れて、欧米の騎士道に取って代られた元凶は、武士道の根底に掲げられている「毅然(きぜん)とした武士道観」が見失われた為である。

 そして今、多くの日本人は自分の財産目録に、金や物
(最近では色の代表である美男・美女も入るそうだが)以外の財産目録を挙げる人間は、殆ど居なくなったと言ってよい。



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