●ラットレースの罠
当時の袁了凡(えんりょうぼん)は、何も書いていない功過格(こうかかく)の「人生の貸借対照表」を『治心篇(ちしんへん)』と名付けた。
袁了凡が朝起きて、堂に坐(すわ)ると、家人が玄関番に渡して、彼の机に置いてくれるのである。その『治心篇』に、善悪を細大もらさず書き綴(つづ)るのである。この時、彼は「善事一万条の行」にかかっていた。
また夜になると、庭に卓を設けて、宋の有名な哲人の書物を読んで勉強し、この事を香(こう)を焚(た)いて天帝に申し告げるのであった。
その夜、たまたま一神人の夢を見た。
袁了凡は神人に「善事一万条の行」が、非常に成就し難たき苦しみを訴えた。すると神人の言うには、「ただ糧(りょう)を一単位減ずるがよい。そうすれば一万の善行が即時に成就するであろう」と言うのであった。
出世して地位が高くなればなるほど、低い地位の時よりも善行が実行でき、貧しい者より富める者の方が善行を積めると思われるが、これは反対である。高位高官に昇れば、職務が多忙になり、それを行う時間が失われる。人付き合いも多くなる。「一万条の善行」を積む事が非常に困難になるのである。
諺(ことわざ)に「富める者が天国に入るのは、ラクダが針の穴に通る事より難しい」というのは、この為である。
だから、袁了凡の訴えに応えて、神人は「ただ糧を一単位減ずるがよい。そうすれば一万の善行が即時に成就するであろう」と示唆したのである。この事を袁了凡はよくよく考えた。神人は県知事の権限で、税を減らせと言うのである。宝テイ知県の田は、一畝(いちぼ/中国で地積の単位。6尺四方を1歩(ぶ)とし、古くは100歩、後には240歩を1畝とした)につき、二分三厘七毛の税率であった。
そこで、夢に出た神人の言に従って、自分で区劃(くかく)を作り直し、それに手加減を加えて、一分四厘六毛に下げたのである。しかし考えてみると、これは何ぶんにも夢のお告げであり、果たしてこれで、一万善行の成就が出来るだろうかと疑問に思い始めたのである。
恰度(ちょうど)その頃、五台山(ごだいさん)から幻餘(げんよ)禅師がやって来られた。五台山は中国山西省の北東部にある山で、中国仏教三大霊場の一つに数えられる名高い霊山である。
そこで袁了凡は幻餘禅師に、自分が夢で見た事を話した。このお告げを信じてよいか否かである。それに対して、幻餘禅師はこう言われた。
「人間の、善を行う行為は真実から発したものである。まして県知事として県民の糧を減じて、万民に福を授けているのである。これが万善に当たらなくてどうするか」と喝破(かっぱ)されたのである。
これを聞いて、袁了凡は大いに感動した。袁了凡の「吾(われ)漸々(やくやく)に円満して……」からも分かるように、次第に涙が溢れ、感動が起り、これを直ちに実行に移した。袁了凡の行った減税は、県民から大いに喜ばれた。彼の県知事としての名声は世に広まったのである。
それからも陰徳を重ね、更に、自らの俸禄(ほうろく)を割いて、五台山に登った。そこで一万の僧に斎(とき/午前中にとる食事)を供養して回向(えこう)して廻った。
孔老人から、袁了凡は五十三歳の八月十四日の丑(うし)の刻(今日の午前二時頃)、自宅の表座敷で死ぬと算定されていたので、未(いま)だ曾(かつ)て、長生きさせてもらいたいなど、祈った事はなかった。しかし五十三歳の年齢を超え、何の災厄もなく、今は六十九歳になっていた。
書経には、「天と言うものは充(あ)てに出来ないものだ。天命と言うものは常に変化して、その停まるところを知らぬものだ。天と言うものは、限り無い創造であり、造化である。人間の注文通りにはならないものである。浅はかな人間の知恵や欲望では、どうする事も出来ない。
したがって人間の側から見れば、天ほど信用できないものはない。一切は命(めい)である。したがって、常と言う事はない。行い如何によって変化するものである。
この定まりし運命に変化が生じないのは、それは俗人が、運命の支配する陰陽の周期から抜け出せないからであり、徳のない俗人は、定まった儘(まま)の運命の陰陽に支配されて、その儘の運命を全(まっと)うする事になるのである」と記されている。
したがって、「禍福は、人間の力ではどうする事も出来ない」というのは、この世の俗人の論理であると言う事になる。「天命の命ずるところ」というのは、俗人の世界に当て嵌(は)まる事なのである。
さて、ここで「人生の貸借対照表」に入る前に、少し《貸借対照表》の勉強をしてみたい。
もともと金銭にあくせくして、経済的に困窮する人は、最大の欠点が金銭感覚に疎(うと)いばかりでなく、「損益計算書」と「貸借対照表」の関係が全く解っていない事である。
また、「資産」と「負債」の違いについても、殆ど解っていない。そしてこの混乱は、「資産」が収入の書き込まれ、「負債」は支出に書き込まれる事を全く理解していないことだ。
したがって金持ちになりたいのなら、「資産」を買えばいい事である。ところが多くの72%に当たる中流階級以下の階層は、「資産」を買わずに、「負債」ばかりを買い続けるのである。つまりクレジットやローンをする事である。また、クレジットやローンで購入したものを、自分の資産と思い込んでいるのである。だから28%の金持ち層に入れないのである。「金持ち」対「貧乏人」の分離比は、ユダヤ黄金率によれば28:72の関係なのだ。
これからも分かるように、資産と負債の根本的な考えの違いから、「金持ち」と「貧乏人」を二分している事が分かるであろう。貧乏人は、いつまでも貧乏に甘んじて、貧乏から抜け出せないのは、72%の多くの中流階級以下の階層が、資産ではなく、負債ばかりを買い続ける為である。多くは、借金漬けになり、負債を買う為の生涯に、自分の全エネルギーを費やしているのである。
これは金銭的な流れを見ると、一目瞭然になる。
中流階級以下の72%の人達は、仕事をし、給料を貰えば、一端は損益計算書の中では、収入の方にその金額が書き込まれる。しかし此処には税金、マイホームのローンの返済、マイカーのローン返済、その他クレジットの返済がある。こうした固定支出がある上に、家族サービスの為の週に一回の外食、家族旅行、食費、衣料費、水道光熱費、娯楽費などの支出があり、それらは住宅ローンの借入であったり、月々の支払をするクレジットカードや、それ等の未払分は「負債の部」に入る。
つまり、夫婦名義の登記済権利証書のマイホーム(半分以上の頭金を払ったマイホームでも、根抵当が設定されている。根抵当権設定は不特定の債権を、極度額の限度で担保する抵当権のことだ)でも、マイカーでも、一円でも未払分があれば、これは「負債の部」に入る性質のものである。
一方、28%の金持ちに属する人の金銭の流れは、資産を買う事に当てられ、不動産、手形・小切手・貨物引換証・船荷証券・倉庫証券・株券・債券・商品券・抵当証券などの有価証券、印税、著作権、特許権、その他の知的財産を持っていて、これはら資産から収入へと記されるものである。
人の運命の流れもこれと同じで、72%の中流階級以下の多くの人は、運命の陰陽に支配されて、予(あらかじ)め予定された通りの人生を履行していく事になる。
運命と金銭の流れは、ある意味で共通点を持つ。経済的に困窮し、借金を抱えている人は、とにかく、いま金が必要である。ところが、単に金が入れば解決する問題ではない。金は時として、人間の弱さを暴露(ばくろ)するのである。
例えば宝くじが当たる、死んだ親の遺産が入る、昇給するなどの、思わぬ金に巡り合う事態が発生した場合、その金の流れは、更に加速を増すだけなのである。結局、一時的に、裕福に見えた現象は、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻るのである。それは、「貸借対照表」の読み方を知らず、「損益計算書」の財務処理能力に欠けているからだ。
これと同じ事が、人間の人生における運命の中にも起っている。
72%の中流階級以下の人達の人生パターンは、ほぼ定まっており、それはまるで予(あらかじ)め、神が予定したように、誰もが同じような行動パターンを示す。
では、その順を追って見る事にしよう。
まず、立派な教育を身に付けねばと高度な教育を受ける。目的は、いい成績をとって、一流大学(【註】確率的に見ると、実際に一流大学と称される大学に入れるのは全学生の28%以下)に入り、一流企業に入る為である。そして一流企業に入れたら、高度な教育を受けた者同士が結婚し、新たに新居を構えて暮らし始める。次に子どもの出産に備えて貯蓄を始め、それ迄の間は共働きをし、貯蓄に専念する。やがてその努力は実り、貯蓄と共に収入もアップしていく。足には車が必要になり、マイカーを所有する。しかしそれに従って、マイカーローン返済などの支出も増える。その上、所得税(この税金は累進課税である事に注意。特に課税標準の増加に伴って、高い税率を適用する租税である)と言う高額な税金も加わってくる。
つまり上の表で言うならば、収入が増えると、個人の「貸借対照表」の中にも、負債の額が増えるという事である。しかし「貸借対照表」の読み方を知らない者は、負債が増えたという事に、あまりピーンとくる事はない。
やがて子どもも出来、家が手狭になる。
それに併せたかのように収入が上がって、そろそろマイホームでも持とうという考えが頭を持ち上げる。これは住宅ローンで購入するので、更に返済利息と、税金の額は増えるのであるが、疎い者はこの時点でも、ピーンと来ない。しかし、確実に増えていく。それはローン返済の元金と利息以外の、固定資産税(土地・家屋・償却資産の所有者に対し、その価格(評価額)を課税標準として、固定資産所在の市町村が課する税金)と言う地方税が加わるからである。
また、マイホームを持てば、それに併せて、調度品や家具、電化製品などが必要になる。そして子どもが、更にもう一人生まれる。それに併せて、学校で支払う以外の受験用の教育費が必要になる。子どもが成長するに随(したが)い、更に支出が増える。上級学校に進むに随い、更に資質は増える。
つまり「損益計算書」と「貸借対照表」は、「損益計算書」に書かれる数字の額は収入に、収入の増えた事が記され、一方「損益計算書」の支出に、それだけ支出が増えた数字も掲載される。支出が増えたと言う事は、「貸借対照表」では負債に支出分の増えた事が掲載され、収入が増えると言う事は、負債も増えたと言う事になるのである。
これはどういう事なのかというと、ローン返済や、クレジットカードなどで支払を済ませるこの縮図の中に、現代人の消費癖を煽り、必然的に収入を殖(ふ)やす必要性が生じている事に、多くの人は気付かないで生活しているのである。そしてこうした関係になっている事を、多くの人は知らずに人生を送る事になる。つまり貸借対照表の「負債の部」が、徐々に増えている事に、全く気付かないで生活をしているのである。
ところが、ある日突然、住宅ローンやクレジットカードの支払で、「負債の部」に書き込まれた数字を見て、愕然(がくぜん)とする。金に困る本当の原因は、貸借対照表の「負債の部」に書き込まれた数字の額にあったからだ。こんなに増えていたのかと、驚かされるからである。あまりにも疎い、マイナス思考で人生を送って来た自分に愕然とする。
自分がこれまで一生懸命働いて来たのは、「ラットレースの罠(わな)」に嵌(はま)っていたのだと気付くのである。しかし、一度「ラットレースの罠」に嵌れば、此処から抜け出すのは容易でない。
●救われる者と救われない者
現代という時代にも、確かに運命転換法なるものは存在する。ただ、袁了凡の『陰隲録(いんしつろく)』と表現方法が違っているだけの事である。その証拠に、「HOW TOもの」と謂(い)われる「成功もの」や「人生成就もの」また「自己改革もの」と言った類のものが多く出回り、これが今でも読まれている事である。
ただ、「HOW TOもの」は残念ながら、「自己」という領域から一歩も出る事なく、自分の欲望や願望のみを相手にして、根本から運命を転換させると言うものではない。この点が「HOW TOもの」と、運命転換法の根本的な違いである。
「HOW TOもの」は、自分の人生に目標を掲げ、その目標の向かって、自己の願望の成就を目指して努力するものである。したがって、自己の範疇(はんちゅう)から一歩も出る事なく、どこまでも自分中心になって、願望に向かって奔走する事が中心になっている。そして願望を掲げた場合、一つの願望が叶(かな)えられた時に、その人の運命は、再び元の運命路線に引き戻されてしまうのである。運命の陰陽に、再び支配されてしまう事だ。
したがってこれでは、これ迄の運命支配から抜け出して、離脱し、新たな自己を形成したとは言えないのである。また、これ迄の自己の運命を、総(すべ)て消去する事は出来ないのである。これから離脱する為には、まず徹底した「自己否定」が必要である。自己否定とは、これ迄の自分と言うものが一度死に、再び蘇(よみがえ)らなければ、自己否定は出来ない。そして自己否定とは、自分の欲望の抹殺でもある。
そして一旦抹殺してしまった後に、新たなる自己が誕生し、新たなる創造と展開を為(な)さねばならないのである。
その意味で袁了凡(えん‐りょうぼん)は、「積善」と言う「功格」方法を用いて、これを日々の行動様式にしたのである。袁了凡の善事の足跡(そくせき)を見ると、それは人間としての道を踏み行う、純粋な行動に他ならない。最初、運命論者であった袁了凡が、雲谷禅師(うんこく‐ぜんじ)に遭ってから後し、運命転換論者に変わってしまったのは、それが欲望を基に思い立った行動であるとしても、彼の行動そのものは、欲望や願望とは一切関係のない、純然たる善行だったのである。
袁了凡は雲谷禅師より、「人生の貸借対照表」である「功過格表」一巻を受け取った時、彼の心の中には、「過格(悪事)を犯すまい」と言う決意が湧き起った筈である。この時、彼の心の中に、これまで存在していた欲望は、一切抹殺された筈である。
そしてこれにより、彼はこれ迄の運命路線をも消滅させてしまった事になる。但しこれだけで、これ迄の彼の人生が、その時点で総て消滅したわけではない。しかし少なくとも、古いこれ迄の行動様式だけは一変し、そこには「刷新された自己」が蘇(よみがえ)った筈である。
さて、もう一度、《予定説》に予定された救われる者28%:救われない者72%の二分する分離比を思い返して頂きたい。救われる者が、全体の30%以下である事に注目して頂きたい。此処が最も重要なところである。
新しい行動パターンを展開する上では、あらゆる点で抵抗が起き、摩擦が派生する。殆どの人はこれに耐えられず、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻る。したがって救われるのは、全体の28%であり、その確率は三人に一人以下と言う事になる。つまり陰徳を積もうと心掛けた三人のうち、二人が途中で挫折するという事である。
私たちは、ある時を転機として、自分の生活や行動様式を一新し、「日々新たに」と、思い立つ事がある。しかしこうした、「思い立ったが吉日」は、その日限りか、あるいは三日坊主で終ってしまう事が多い。行動が思いつきであるから持続性がないのである。
では、何故こうした状態に逆戻りするのか。
それは過去世から引き摺(ず)る「業報(ごうほう/影響あるいは因業。または善悪の業因によって受ける苦楽の果報)」であろう。つまり、これに押し返されてしまうのである。運命の軋轢(あつれき)に負けると言ってもよいであろう。
もし、これに抵抗し、如何なる圧力も跳ね返していくのであれば、やはり袁了凡が用いたような、刷新する新しい行動パターンが必要であり、「功過格表」に則(のっと)った生活と、行動様式が必要になってくるのである。
最初のうちは、暫(しばら)くの間、過去世からの業(ごう)が顕われるけれども、時間の経過と共に、業の影響は次第に薄れ、やがては命(めい)を動かす運命が展開されていくわけである。しかし、これには非常な忍耐を努力が必要であり、この意味に於て、困難を極めるが、これ迄の古い自己から解脱する唯一の方法は、これしかないのである。
だから、《予定説》に予定された救われる者28%と、救われない者72%の歴然とした差が、そこに生じるのである。その差は、三人のうち、一人以下であると肝に命じる必要がある。
また、明代に生きた袁了凡の時代は、今日に比べて、あらゆる面に於いて救われた時代であったと言える。彼のような暗記型の能力と素質を持った人間は、科挙(かきょ/明代は進士だけの試験になり、易経・書経・詩経・春秋・礼記の五経)の試験も、易々とやってのける事が出来たであろうし、家は貧しかったと言うが、豪族の出と言うことで、環境も恵まれていたといえる。
しかし現代は、時代も異なり、資本主義の競争原理が働き、「勝ち組」と「負け組」に色分けされた組織内で、熾烈(しれつ)な弱肉強食の過当競争にも挑まなければならない。その点を考えれば、袁了凡が行った行動様式は、現代人には到底真似できないように思えてくる。あるいは、“泰平の世”のお伽話(とぎばなし)と映るかも知れない。
だが安易に、こう考えてしまうのは短見と言えよう。
何故ならば、やはり現代にも、救われる者と救われない者は、現実に存在していて、はっきりと「28:72」と言うシビアな数字で二分されているからだ。
さて、この二分する数字を、読者諸氏は一体どのようにお考えだろうか。
●今日一日の枠の中に「運」がある
運命を考えたり、運気を向上させるには、九星気学などの星回りの相性を考えたり、方位を取ったりの思考法ではどうしようもない。
「運」とは、もともと「軍」が「走る」のであるから、机上の空論から「思考」するものではなく、「行動」するものなのである。行ってこそ、効果が出るものであり、苦情の空論から運をひねり出すものではない。
 |
| ▲暗雲の中から、「運」は開けるものである。一条の烱(ひか)りは、暗雲の中より差し込むのである。それは今日一日の「今」という瞬間にあるのである。 |
つまり、「運」とは何処に存在するかと言うと、「今」であり、「今日一日の枠の中」にだけ存在するものなのである。
「今日」とは、一生の中でまたとない、今日の事であり、この今日は、もう二度と巡ってこない。したがって、「今日」には、厄日もなければ吉日もない。今日一日の、「今」があるだけである。恭一の地の中であらゆる智慧を遣い、あらゆる思考を巡らせ、そして「今」行動をしなければならない。この行動に躊躇(ちゅうちょ)があってはならないのである。
「人生の貸借対照表」も、今日、それも「今」行動を起こすことにおいて有効なのである。明日の先送りでは何もならない。いま動くしかないのである。この行動に、「まった」はない。何しろ、運とは「軍が走る」からである。その走りは、凄まじいものなのである。安穏としていては、その勢いに巻き込まれて、敢え無く潰えるのである。心して懸からなければならない。
「今日」という日は、またと巡ってこない一日である。これ、運気を考える上での鉄則。鉄則だから崩しようがない。したがって、明日に先送りする理由は何処にも派生しない。それこそ“こじつけ”である。昨日が過ぎ去った「今日」であり、明日は近付きつつある「今日」である。人生には「今日」しかない。「今日」の連続が人生である。「今日」の連続が人生を形づくる。しかし、一生を「今日」の連続であることを知らない人が多い。実に多過ぎる。したがって、常に「運」を取り逃がしている。
また、「今日」を取り逃がす人は、運気を取り逃がしているだけではなく、昨日を悔い、明日を憂うる人である。過去に後悔を抱き、まだ、来ても居ない未来に嘆きを投げ付ける人である。そして、こうした人々は、「今日の影法師」にびくつき、今日がまたとない一日であることを知らない人である。
今日の先延ばしは許されない。今日一日は、今日一日以外にない。今日を明日に先き延ばすことは許されないのである。今日の事は、今日で始末をする。これは運気を呼ぶ行動力である。今日は、今日の光明が炯(ひか)っている。今日は今日の耀(かが)やきがあり、それは希望に満ちた今日一日である。そして、「今日」こそ、またとない「良き日」なのである。
今日しなければならないことを、今日するから、運気が向上するのである。今日を明日に延ばせば、それは運気を衰退させることになる。先送りしてはいけないのである。今日しなければならないことが、一体、人生のいつに巡って来ると言うのか。今日を取り逃がす人は、一生を取り逃がす人であり、一生を取り逃がす人は、自らの人生を棒に振る人である。
九星気学でいう、あるいは四柱推命でいう、その他の占いでいう、「日の良し悪し」など存在しない。日の良し悪しに囚(とら)われて、吉凶の迷信に振り回されている人は、実に気の毒な人である。実に、運気は「今日一日の枠」の中にあるのである。宝が転がり込んで来る予兆は、「今日一日の枠」の中にあるのである。その予兆が、今日の中にあり、今日は「日が悪い」と、これを見逃してしまうのが愚かであろう。
自分の人生でいう「今日」とは、一生に二日とない「幸運を齎(もたら)す日」なのである。しかし、「今日一日」に、隙(すき)があり、油断があれば、それはどんな禍が降り懸かって来て、厄日ともなりかねないのだ。
今日を厄日にするか、吉日にするか、それは今日という日に問題があるのでなく、隙や油断があることに問題があるのである。白が黒になり、幸運が不運に変るのは、日の吉凶には関係がない。それを取り逃がし、隙や油断が問題なのである。今日が吉か凶か、それは運勢暦の「大安」か「仏滅」ではなく、また『九星早見表』などにあるのではない。
今日一日の、「今」の一秒は、それを積み重ねれば、60回で1分となり、3600回で1時間となり、86400回で一日となるのだ。この「今」という、僅か一秒たりとも無駄にしてはならない。「今」を失う人は、一日を失う人である。一日を失う人は、一生を棒に振る人である。
「時は金なり」と言う。「時」を失う人は金を失う人である。しかし、金は働けば取り返せる。しかし、「時」は再び巡って来ない。
「今」を失わない為には、気付いた時に何事も処理する。先送りしてはならない。厭なことでも、「今」処理する。喜んで、さっと処理する。神は、あなたのそうしたところを視ているのである。したがって、気付いたら同時に、「今」行うのである。今日は日が悪いなどと、先送りしてはならない。「今日」遣(や)ることは、「今日」遣るのである。
運気を向上させ、運命を転換させるには、「今日」のことは、「今日」遣る。決して明日に先送りしない。
遣ればできるのではない。遣らなければ出来ないのである。では、いつ遣るのか。それは、「今」遣るべきことは、「今」遣るのだ。遣ればできるでは、出来ないのである。「遣ろう、出来る」で、出来るのである。それは「今」遣るから出来るのである。これこそ、運命転換の秘訣。成功の秘訣。健康の秘訣なのである。
ずぼらで、後回し、先送りにする人は、みな「今」を取り逃がす人である。「今」を取り逃がす人に運気は向上しない。運命の転換は不可能である。
「光陰矢の如し」という。時間の経つのは早い。月日の早く過ぎ行くが如しに、時は流れる。
したがって、何事でも気付いた時には、「今」処理することだ。これを「後で」とか、「明日」などと思わないことだ。事を処理するには、「今」が絶好のチャンスなのだ。
そのチャンスを取り逃がせば、次第に条件が悪くなる。時間が経てば、時間は人に「分別」を与え、従順にするものである。臆病にするものである。臆病では行動は出来ない。したがって、臆病では条件が悪かろう。決心したことも尻つぼみになって、次第に条件を悪くし、最後は無分別から離れて、従順な人間になってしまっている。これでは何も出来ない。
運命を転換するには、行動が伴わなければ無理である。「棚からボタ餅」のような、甘い考え方では、益々運命の陰陽に流され、最後はそれで潰える。「棚ボタ」式では、思いがけない好運が巡ってくるなど、万に一つの確率もないのだ。そんなに自分勝手な都合のいい事は起こらない。
何事も事情が最も高潮に達した時が、絶好のチャンスなのだ。その波動が、人間の脳に伝わった瞬間こそ、絶好のチャンスなのである。
このように「転換するチャンス」が巡って来ても、世の中には、自分が宝の山に入りながら、手ぶらで引き返して来る人がいるのである。「思い立ったが吉日」という。これ以上の、最上の吉日はないであろう。事を思い立ったら、その日を吉日として、すぐ着手するのがよいのだ。運命転換法も、この一言に尽きよう。
●相対界は大きな矛盾に覆われている
現世と言う世の中の構造は「相対的矛盾構造」である。現世の一切のものは、総(すべ)てが矛盾するのである。それは現世が、現象界であり、この現象は相対的に起こるからである。
運命転換術を試みるに当たり、このことを念頭に置いて居なければならない。それは人間が「非存在」なる生き物であるからだ。
その証拠に、人間は常に病気や死と隣り合せに生きている。いつ生命を落としても訝(おか)しくない状態の中で生活をしている。人間の死こそ、人間が非存在の生き物であることを克明に証明しているところである。
この事実は、これから世界恐慌が起こらなくても、横暴なる金融経済が猛威を揮(ふる)わなくても、資本主義市場経済が混乱を生じなくても、現世の矛盾は、何処までも憑(つ)き纏(まと)うのである。
つまり、この現世を生きる上では「欲」の達成と、「幸福」の達成を混同しないことである。これを混同すると、折角の運命転換術も一挙に崩壊するであろう。また、その酬(むく)いを受けなくてはならなくなる。
それは「現世」と言うこの世が、矛盾に充(み)ちた世界であり、殆(ほと)ど永遠に「未完成の世界」であるからだ。
この未完成の世界は、一見完成に向かうような形を採りながらも、実は完成することのない、ほぼ「永遠の未完成」を余儀無くされているからである。現世と言う世の中が、永遠の未完成であると云うことを忘れてはならない。
喩(たと)えば、何か一つ改善すれば、その改善に伴った反動が別の箇所で起こるのである。則(すなわ)ち、運命の陰陽の支配は、作用と反作用の働く世界であり、これは相対的である。にもかかわらず、人類は進歩の方向に向かって進んでいると妄信する人が居るが、こうした物質的な恩恵も、一時的なものであり、その皺寄(しわ‐よ)せや反動が、その後に必ず起こるのである。物質的な恩恵は永遠に持続することはないのである。それはエネルギー資源を考えれば明白であろう。
人間はユートピアを求めて努力を積み上げているが、その努力の多くは、物質的な面に向けられている。つまり、便利で、豊かで、快適でという物質的な恩恵である。ところがこうした恩恵も、別の部分に皺寄せが出て、反動が起こる。
したがって、この物質的ユートピアは、どのような人間、あるいはどのような正統が政治をやり、理想は掲げていても、最終的に理想郷には到達することができないのである。相対界では、人間は矛盾から逃れることができないのである。
現実を正視すれば、どの人生、どの人の生き方を観ていても、「これでいい」という人生などあり得ないのである。現世とは「砂上の楼閣」であり、この相対界では、一方を立てれば、また一方は立たずであり、人民がこぞって、千人が千人、あるいは万人が万人、総て「よし」という社会は出現しないのである。
しかし、それが出現しないからといって諦めたり、怠ったりするのでなく、出来るだけ理想に近付ける努力は必要であろうが、それでも相対界の宿命である矛盾は永遠に消え去らないのである。
この事から、ユートピアの到来は、この世では不可能であり、矛盾のない理想郷は現世では、ほぼ永遠にあり得ないのである。
では、今を生きる現代人はどうすればよいのか。また、運命を転換するには、どうすればよいのかと云うことになる。
これは今の状態を、駄目だとか、無駄だとか思うのでなく、この矛盾だらけの相対界を生きるには、どうすれば自分の環境が精神的に豊かになり、おもしろくなるかということの努力をしなければならない。辛い仕事も、苦海に充(み)ちた人生も、これを精神的に豊かにし、かつ、おもしろくする為にはどうするかを考えるのが、真の意味での運命転換法なのである。
その為に、人間には未来を夢見ることの許される「希望」というものがある。しかし「希望」は、本来は人間の本能に帰属するもので、望んだからといって、それが叶えられるものではない。希望に向かって、希望の数直線上を歩くことが大事なのである。希望の数直線の上に立っていなければ希望に到達することができない。また、希望が幸福に至る道であるとするならば、やはり幸福に向かう数直線上に立っていなければならない。
幸福になると言う希望を抱きながら、地獄の数直線の上に立っていては、幾ら希望を望んだからと云っても、希望に向かうことはない。地獄へ真っ逆さまに堕(お)ちる、最悪の道でしかないのである。
さて、「希望」は時間的位置である過去・現在・未来などの、どこの箇所に存在するかと言うと明らかに、「未来」である。未来であるから希望と云う。しかし、希望が実現することは殆どあり得ない。実際には希望通りになることは実に少ないのである。
多くの現代人は、希望と我欲を混同して、遣(つか)い間違っているが、喩(たと)えば宝くじを一万円分買い、それが一億円に化けるとか、今の待遇状態から1ランクも2ランクも出世して、地位を高めるとかは、希望とイコールでないことを知らなければならない。これは希望などではなく、自分の我(が)から出る「欲」である。欲と希望を混同してはならない。
運命転換術では、「我(が)」を希望に置き換えて、それを充たすことで、自分が幸せになると言う妄想を抱いた時、立ち所に転落する。現世には、作用と反作用が働いていることを胆に命ずるべきであろう。また、相対界では、必ず運命支配の陰陽が起こり、欲の皮を突っ張らして、あれもこれもとはいかないのである。中庸(ちゅうよう)を保ち、そこに身を置くことこそ、運命転換術の第一歩なのである。
これより先をご覧になりたい方は入会案内をご覧下さい。
 |
daitouryu.net会員の入会はこちら |
<<戻る 次へ>> |