運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
運命転換術 1
運命転換術 2
運命転換術 3
運命転換術 4
運命転換術 5
運命転換術 6
運命転換術 7
運命転換術 8
運命転換術 9
運命転換術 10
運命転換術 11
運命転換術 12
運命転換術 13
運命転換術 14
運命転換術 15
運命転換術 16
運命転換術 17
運命転換術 18
運命転換術 19
運命転換術 20
運命転換術 21
運命転換術 22
運命転換術 23
運命転換術 24
運命転換術 25
home > 運命転換術 > 運命転換術 3
運命転換術 3

寄せては返す磯での自然の摂理の中で、この摂理と同じものを共有しているのが人間である。
 そしてこの摂理の中には、喜怒哀楽があり、一喜一憂がある。
 当然この中には、傲慢があり、屈辱があり、また誹謗なのから被る怨念が渦巻いている。



●この世には逆因果律の《予定説》が働く

 人間の運命を考える上で、因縁と言うものが問題になする。そして《予定説》で言うならば、まさに逆因果律であり、その作用は逆因縁である。
 こうした結果は、最初から、予
(あたかじ)め予定されたものだったのだろうか。あるいは予定されていたとして、「後天の気」において、運命を転換させることはできないのであろうか。

 人間と言う生き物は、先天的に、親から受け継いだものと、後天的な、環境や育ちで受け継いだ「二種類の気」で成り立っている。
 人は誰しも、性質や体質を、ある一定の配分量の確率で両親から遺伝情報を受け継ぎ、あるいは両親を通り越して、祖父母から受け継いだものをも所有している。両親の何
(いず)れかに貌(かお)や性格が似るのはこの為である。これが先天的な要素を造り、後天的なものは家庭環境やその育ちなどである。

 次に、先天的かつ後天的な性質や体質を受け継ぐ人間は、それに加えて、情報と情報処理と言うものが問題になってくる。そして人間の情報処理には、二つの系
(けい)からなっている。
 一つは「能力」であり、もう一つは「類型」もしくは「様式」である。情報は、人間の個性によって各々受け取り方が違う。

 また能力とは、それを処理する上での、高級か低級か、緻密
(ちみつ)か粗雑か、奥行きが有るか無いかなどの程度の「差」を言い、類型とは、受け入れる際の「個人の型」を言うのである。つまり受け入れの際の、個人の「個性」や「性質」の事である。これに密接に絡んでいるのが、「個人が持って生まれた性格」である。これは「持った生まれたもの」であから、生涯変ることがない。

 よく運命屋や職業祈祷師らが、智慧
(ちえ)の足りない他力本願者に、「自分の性格は変えられる」などを騙して多額の金銭を巻き上げる悪質な商売があるが、相談する方もされる方も、最初から同じ性格を持った者同士が、同じ土俵の中で金銭の争奪戦をしていることになる。これが類は友を呼ぶ喩(たと)えである。

 したがって、情報とは、能力と個性によって受け入れられ、取捨選択と言う形で処理されていく。つまり処理された記憶によって、その後の記憶が受け入れられ、更に試行錯誤を繰り返して、経験や体験の記憶が集積されていく。このレベルでは、何の矛盾も発生しない。

 ところが記憶に関して、根本的な問題が派生する。
 それは人間の記憶が、自分がこの世に生まれてから始まっているものではなく、生まれる以前の過去世
(かこ‐ぜ)からの記憶が存在することだ。これを「因縁」という。
 運命屋や職業祈祷師らに騙される馬鹿は、騙される「無知の因縁」によるものである。互いの共通項が同じ土俵の中で、「惹
(ひ)き合った」に過ぎない。

 生物と言うものは、過去からあらゆる経験や体験によって、記憶を蓄積し、必ずその影響を後世の生物に残し、生物はこの影響の下で、次の経験や体験を受け入れていく事になる。
 その影響の実体こそ、習気
(じっけ)と言うものであり、これが記憶痕(きおく‐こん)である。人だ誰しも、「記憶痕」を持つ。懷かしい心の故郷を持っている。あるいは「懷かしい脳」といってもよい。郷愁に還ろうとする遠い日の記憶である。

 心理学的に言うならば、大脳の記憶中枢の内部に存在する痕跡
(こんせき)を示す「記憶痕」であり、この記憶痕は、そそまま形を変えて、次世代へと受け継がれていく。つまり記憶痕には、個体の記憶の他に、種族系統の個性が記憶として残っているという事である。

 この「個性」こそ、その人の運命を決定する因子なのである。個体における記憶が、その後に起る運命を暗示し、予
(あらかじ)め予定通りに履行する運命の記憶巣(きおく‐そう)を記憶しているという事である。

 したがって不幸現象の多くは、この記憶巣から引っ張り出された結果通りの原因が派生し、その因子によって、横死する者は「横死」という最期を迎えるのである。まさに《予定説》のそのままを人間の運命は、確実に履行していると言う事になる。
 運命が成立する場も、転機を齎
(もたら)す場も、「記憶の場」によって展開されているのだ。これこそ、実(げ)に恐ろしき、「記憶の場」と言わねばならない。過去世に刻み込まれた「記憶痕」が、運命が成立する「転機の場」を借りて、そこで運命の転機が図られるのである。

 ここに人間の持つ宿業
しゅくごう/現世に応報を招く原因となった過去世の善悪の行為)の悲劇があると言っても過言ではない。したがって不幸現象に遭遇するか、しないかは、一切知性と無関係になる。また、知性で解決出来る程、人の運命は単純なものではない。

 人間がホモ・サピエンス
Homo sapiens/知性人あるいは叡知人の意)といわれ、知性を持つ種族に分類され、人間にはなり得たが、運命と言う現象界を見てみると、それは知性とは一切無関係なく、人の幸・不幸が展開されている事に気付かされる。人間の人知の範囲では、運命の危機から回避出来るだけの智慧(ちえ)は、持ち合わせていない事になる。

 したがって「運命学」という分野で、人間の人生を見た場合、人の運命は、有能な運命学者が、それを予見し、その人の運命の総てを解き明かした時、その人の運命は、予見した通りに履行されると言う実例は無数にあるのだ。

 しかし、幾ら有能な運命学者でも、予見した運命を転換したり、改変したりと言う実例は、運命学にない。
 だがしかし、安岡正篤
やすおか‐まさひろ/大阪生まれの日本屈指の陽明学者。明治31年〜昭和58年)先生が著わした『陰隲録(いんしつろく)を読む』(竹井出版、平成2年2月21日初版発行)には運命転換法が記されている。

 そもそも「陰隲」とは、天帝が秘かに人間の行為をみて、禍福を下す事を指し、明
(みん)末期に纏(まと)められた道教の経典から由来した言葉である。そして、この『陰隲録』には、中国明代の袁了凡(えん‐りょうぼん)の運命についての話が出て来る。

 この『陰隲録』は「立命の書」として記述されたもので、袁了凡が我が息子・袁天啓
(えん‐てんけい)に書き与えたものである。
 『陰隲録』が貫いているものは、「人間の運命」であり、また「人間の宿命」である。そしてその思想体系は、
「自らの努力によって、立命に転換していける」という直観内容に、論理的反省を加えて出来上がった思惟(しい)である。そしてこれは、体系的に純然たる、運命論を貫く、深い内容を包含している。

 徹底的な宿命観あるいは運命観の陥っていた袁了凡が、雲谷禅師
(うんこく‐ぜんじ)を棲霞山せいかざん/中国南京の北東、摂山にある名刹(めいさつ)であり、劉宋の泰始(465〜471)年間、明僧紹(明徴君)の創建。南朝三論宗の中心をなした)に訪ね、その深く感ずるところから、この特異な「運命転換法」は始まるのである。

 袁了凡は雲谷禅師という当代屈指の達人に遭
(あ)い、その教えを受けた。
 それによると、「禍福は、みな自分より求めないものはない」という真実の言葉であった。
 つまり禍福は、自分の不注意や、不完全から起り、これは自分が未熟ゆえに、自分で求めているようなものであると言っているのである。

 本来、俗人が考える事は、「禍福は人間の力ではどうにもならない」あるいは「人知ではどうする事も出来ない」というものであって、運命学的に言って、これ以上進展させる方法はないが、雲谷禅師の言によると、「謙虚、積善、改過」という道徳的精進によって、自らの運命を開拓し、心機一転して素晴らしい人生を実現出来るという、運・不運の根源的な人生観を述べている。
 これにより袁了凡は、これまでの運命論者から一転して、運命転換論者となるのである。



●立命の書『陰隲録』

 安岡正篤先生は、『陰隲録
(いんしつろく)を読む』の冒頭で、こう述べている。
 「運・不運というものは確かに人生にはあります。しかし本書を読めば、運を招き、不運を呼ぶその根本のものは、冥々
めいめい/事情のはっきりしないさま)の裡(うち)に、自分自身が作っているのであろうということを、真実味を帯びてさとられるのであり、ここに本書の妙味が存するのであります」と、難解な文章で書かれた『陰隲録』を見事に現代化し、私たちに「運命と立命」という課題で、分かりやすく解き明かしているのである。

陽明学の祖・王陽明(おうようめい)の著わした「一掴一掌血 一棒一條痕」の諌言を認めた安岡正篤先生の書(曽川和翁所蔵)

 さて、袁了凡なる人物を追おうと、この人は、明の時代の1550〜1600年代にかけての時代の人で、江南の豪族出身で、最初、官吏を目指した人であったが、母親から「医者になって欲しい」と言う願いを聞き入れ、最初、医術を学んだ人である。

 ある時、彼は慈雲寺を遊山した。そこで雲南の人で、「孔」と名乗る老人
ろうにん/一道に秀でた達人あるいは名人)に遭ったのである。この時の感想を、袁了凡は次のように語っている。

 「私が慈雲寺を訪ねたとき、一人の老翁
(おじ)に出合った。この老翁は頬髭(ほほ)の長い偉大な風貌を持ち、飄々(ひょうひょう)とした仙人のようであった。私は思わずその老翁に敬礼をした。するとその老翁は、“君は官吏になって役人生活をする人である。来年は科挙(かきょ)の試験に向かってその勉強をやる事になる。しかし、今どうしてその勉強をしないのか”と訊(き)くので、自分は、実はこういうわけで……と、母からの経緯を話し、併せて老翁の名前と住所を聞いた」
 ここから『陰隲録』の物語が始まるのである。

 この孔老人は邵康節
しょう‐こうせつ/北宋の学者で易を基礎として宇宙論を究め、周敦頤(しゅう‐とんい)の理気学に対して象数論を開いた。1011〜1077)の秘伝を受け継いでいるという、大変な易の達人で、この老人が、袁了凡の一生涯の運命を占ったのである。孔老人の占いは凄まじく、悉々(ことごと)くが一致し、また予言の総てが適中した。これにより、袁了凡は驚嘆し、運命論者になるのである。

 後に袁了凡は、仕事で北京に行った時、棲霞山
(せいか‐ざん)を訪ね、雲谷禅師に遭う機会を得た。一室の中で対座して、三昼夜眠らずに雲谷禅師と向かいあった。
 そして雲谷禅師が、袁了凡に問われて次のように言った。
 「多くの人が、聖人になれないのは、ただ邪念が付きまとう為である。ところが、あなたは三日間も座りっきりで、一念の邪念も起きる事はなかった」
 これに応えて、袁了凡曰
(いわ)く、「私はかつて易の達人である孔先生に、易断され、一生涯、栄辱(えいじょく)も生死も、皆その運命が定まっております。したがって邪念を起こし、妄想しようにも、妄想しようがありません。私の何もかもは、総て定まっているのですから」と落胆して言った。

 すると雲谷禅師は、にこやかに笑いながら、「私はあなたが期待されるべく、優れた人物であると思っていたが、ただの俗人であったか」と嘆き、失望を思わせるような言い方をされたので、袁了凡はこれをすかさず切り返し、その理由を訊
(き)いた。

 雲谷禅師が言うのは、「人間と言う生き物は、無心であると言う境地が中々保てない。したがって、最後はどうしても運命の陰陽の働きによって、支配され、束縛されてしまう。それはただの俗人作
(な)るが故の悲しさであり、本当に運命を転換させるのであれば、徳(陰徳)を積む事である。
 極善の人に対しては、運命もその人を当然拘束する事は出来ない。また極悪人に対しても、運命は、その業
(ごう)に引き回されて中々定まらないものである。あなたは二十年このかた、かの孔老人の易断に縛(しば)られたままで、少しも変化していないと言うのは、何たる凡人であるか」と厳しく叱責された。

 これに対して、袁了凡は、再び問い質
(ただ)す。
 「ならば、運命と言うものは、その支配から逃れる事が出来るのですか」
 雲谷禅師は「然様
(さよう)」と応えて、再び淡々とした話をされた。

 「運命は自分から造り、幸福は自分から求めるものである。自らが進んで功名を求めれば、功名が得られ、富貴を求めれば富貴が得られる。また長寿を求めれば長寿が得られ、子宝を求めれば、男女何
(いず)れの子宝も求められる。これは仏教の教典にも書かれている事で、何故、仏や菩薩が人間を騙(だま)す事をしようか」と言われた。

 袁了凡は膝を乗り出し、「では御伺い致します。孟子は、『求めれば得られるが、それは自分にあるものを求めるからである』と言っています。道徳や仁義は、心の裡側
(うちがわ)にあるものですから、努力によって求める事が出来ましょうが、功名や富貴は本来、天にあるもので、幾ら努力しても求める事が出来ないのではないでしょうか」と。

 これに応えて、雲谷禅師は「孟子の言っている事は間違いではない。あなたが勝手に間違って解釈しているだけの事だ。六祖大師
ろくそ‐たいし/南宗禅の根本思想を説いた人物で、中国禅宗の第六祖の慧能(えのう)も次のように言っておられる。“総ての幸福の称する畑は心の中にある”と。

 則ち、心の中
(うち)に従って求めたならば、感じて通じないものはない。自らの裡(うち)にあるものを求めれば、ただ道徳や仁義を得るばかりでなく、功名や富貴すらも得られるのである。本来、自分が求めれば、裡(うち)に備わる道徳ならびに仁義はおろか、外に備わる功名や富貴も得られるのである。これが求めて益ある事でなのある。

 しかし、我が身を反省せずに、外面のみに求めたならば、うまく行く筈
(はず)がなく、内外ともに失うであろう。これが孟子の言う真意である」と説明した。
 その後、袁了凡は孔老人が占ったこれから先の運命を、包み隠さず雲谷禅師に告げた。

 まず、清流に魚棲
(す)まずの喩(たと)えを上げ、自分は科挙の試験に合格しない事。子どもが出来ない事を告げた。
 雲谷禅師は「なるほど」と言って、「では、あなたは孔老人の占った運命とは考えを別にして、自分自身で求める通りの人生を考えてみなさい。科挙の試験が及第するか否か、また子どもが生まれるか否か。これをどう判断するか」と叱責するように言われた。

 袁了凡は暫(しばら)く考えて、「及第する事も出来ず、また子どもも生まれる事もありますまい。第一、科挙の試験に合格する人は、まず福相があります。しかし私は福相が薄く、陰徳を積み、善行を重ねて、幸福の基礎など造る事は出来ません。その上、世の中の煩雑(わずらわ)しさには耐えられず、度量も狭く、人徳もなく、なん人も受け入れるような寛容さもありません。また屡々(しばしば)自分の才能をひけらかして、それで他人を押さえ付けようとする事もあるし、思う儘(まま)に言動して感情的になったり、頭ごなしに罵倒(ばとう)したり、他人を中傷したり、誹謗(ひぼう)したり、口も軽く、軽々しい談義もします。こうした事は総(すべ)て自分の薄徳から出たものです。このようなありさまで、どうして官吏登庸(かんり‐とうよう)試験に合格し、高官などのになれましょう。

 土地の穢
(けが)れている処は、多くの物を生じますが、水の清い処では、魚が棲(す)まない喩(たと)えがあります。私は潔癖性ですから、子どもも授かる事がありません。これが子を持てない第一の理由です。
 春のような、和らいだ気は万物を育てますが、私のように感情に激
(げき)し易く、些細(ささい)な事で怒る性格では、和らいだ気はありません。私が子が持てない第二の理由は、これです。
 愛と言うものは、万物を育む本
(もと)であり、一方残忍は万物を育成させない根本となります。私は名誉とか節操とかを、自分の保身の為に、ただ自分を大事にし、それ等を失う事を惜しみ、また自分を犧牲にして、他人を救う事が出来ません。これが子を持てない第三の理由です。
 その上、私の過
(あや)ちを数え上げるなら、この程度ではとても納まらず、もう数え切れないくらい無数にあります」と、自分のこれ迄の非を、次々に吐露(とろ)し始めた。

 これを聞いた雲谷禅師は、「それは官吏登庸試験の合格・不合格、子どもの有る無しは、総て徳の如何によるものだ。その上、あなたは、いま自分の非を悟った。これまでを考えると、孔老人の占い通りであったが、これからは及第も出来ず、子も生(な)せないという悪相を改め、つとめて徳を積み上げて、人の言を聞き入れるような度量を持ち、和やかな愛情を持つようにすればよい。そうすれば昨日までの自分は死に、今日からは新しく生まれ変わる事ができる。

 書経
【註】五経の一つで、尭舜から秦の穆公ぼくこうに至る政治史・政教を記した中国最古の経典。孔子の編という。漢代には尚書、宋代に書経といった)の太甲篇には“天が下す災いは、なお避ける事ができるが、自分の作った罪科による災いは避ける事が出来ぬ。どうしようもない”と云っている。
 つまり孔老人は、あなたに言った、科挙の試験も及第できず、子も生せないと占ったのは、書経の云う“天の為せる災い”と同じ事であるから、自分を変えれば避ける事ができる。徳分を充分に満たし、善行を行い、多くの陰徳を積んでいったならば、自分が作った福で満たされる事になる。

 自分が作った罪科による災難が、どうしても避ける事が出来ぬものならば、また自分の作った福も受け入れられないという事になり、そんな事があろう筈がない。
 過去の罪を真情に尽くして懺悔
(ざんげ)し、誓願文一通を作り、まず第一に、科挙の試験に及第する事を願い、善事三千余りを行い、天地祖先の神々の徳に報いる事を誓う事だ」といった。

 こうして袁了凡は、雲谷禅師から、自らの運命を根本的に変えてしまう
「人生の貸借対照表」の書き方を教わったのである。
 また、その他に「御符
(ごふ)の書き方」も習った。
 御符を書くには、まず良質の硯
(すずり)に良質の墨を用い、今流に言えばインスタント的な墨汁を遣わず、硯に墨を摩(す)る方法を用いねばならない。そして字を書く時間帯も、気の澄んだ朝方である。午後からは気が澱(よど)み、濁るからである。

 「予言
(預言も含む)書を書く家には、このような言い伝えがある。それは御符の書き方だ。御符を書く秘伝を知らなければ、鬼神に笑われると言うのである。この秘伝は、決して思慮を動かさない事だ。筆を取り御符を書く為には、先ず第一に、世間一切の因縁を捨て去り、一点の雑念も起こしてはならない。心に動揺なく、一切の蟠(わだかま)りが消えて、澄み切った時機(とき)、最初の一点を書き下ろす。これを“混沌開基(天地開闢の初めをあらわし、物事のもといを開くこと)”という。
 これにより、一筆で書き上げて、その間、思慮を差し挟まなかったら、この御符は霊験があると云う事になる。
 あなたは、まだ無心になる事ができないから、ひたすら準提咒
じゅんていじゅ規則や基本に則ること)を誦持(じゅじ)して実行せよ。その時に何回誦したとか、それらを記憶したりしてはいけない。間断なく誦持する事が出来て、初めて無心になれるのだ。
 そして念頭に、何も動かなくなって、始めて霊験が生じる」と、有り難いお言葉を頂いたのである。そして一切の福は、努力によって始まると、雲谷禅師は結ばれたのである。
 袁了凡の運命転換ならびに立命の実践は、この時に始まったのである。

 その時の具体的な対策として、孔老人から絶対に科挙の試験の合格しないと予言された、この試験に合格する事を第一の目標に定めた。次に、「三千の善行」を行い、積徳の行の実践を誓った。これは袁了凡自身が、これまでの不徳を転換する為である。

 定まった運命を転換させる為には、運命が支配する陰陽の周期から抜け出さねばならない。これから抜け出す為には、自分の生き方を変えなければならない。しかし運命を変えようと思ったところで、今までと同じ物の考え方では変わりようがない。運命を変えようと思えば、これまでの自分は、一度死ななければならない。死ぬ事で生まれ変わる。

 悪い事を積み上げていけば、その運命は悪くなっていく事は明白である。他人の物を盗めば窃盗犯であり、他人を暴力で傷つければ傷害犯とされ、人を殺せば殺人犯という、各々の犯罪者としての運命が待っている。
 反対に、良い方向に変えようと思ったならば、良い方向に変わっていく事は明白である。

 袁了凡は昨日迄の罪科の数々の非を顧みて、自分はこれまで、のんべんだらりとして、呑気に構えた生活を送っていた。日々を無駄に送っていた。これからはこうした事では、結局、運命の陰陽に支配されて、その周期に一喜一憂しなければならない。喜怒哀楽に振り回される。これでは旧
(もと)の木阿弥(もくあみ)だ。こうした繰り返されることから、解脱(げだつ)しなければならない。
 その支配から抜け出す為には、一挙一動、一言一句、等閑
(なおざり)に出来ない。人の見ていない、独り居の時でも、慎みを忘れるような事はしてはならない。

 また、他人から悪口を云われても、それに対して、軽々しく弁明や反論しまい。感情的な議論は軽々しく論ずるまい。こう言うことに耐える。
 則ちそれは、対象が天地でないから、他人から中傷されたり、誹
(そし)られたくらいでは、自分の心は動かないのである。
 そして、いよいよ「善事三千の行」を始め、運命転換に向けて行動を開始したのであった。

 しかし袁了凡は、自分の今日一日を反省して、それを振り返ってみると、余りにも自分の身に誤りが多い事に気付いた。道を行うにも純粋でなかったり、正しい事を行おうとしても、勇気に欠けていたり、他人の困っているのを黙って見過ごしたり、中途半端な事で妥協をしたり、信念が途中でぐらついたり、礼儀に反した事をしたり、間違った事を口にしたりということで、自分の反省点が多かった。

 あるいは、酒を飲まない場合は、身を保つ事が出来たのに、一旦酒が入ってしまうと、酒の酩酊
(めいてい)に従って気が大きくなり、約束不可能な事を約束したり、二言になったり、結局これまでの善行を帳消しするようなことばかりをしている自分に気付いた。
 せっかく善行を積もうとして行った努力も、これでは水の泡ではないかと嘆くのであった。そして、空しく時が過ぎ去って行くのを、自分ではどうすることもできなかった。

 そして一計を案じた。
 再び初心に戻ることにした。気持ちを白紙状態に戻すには、初心の還る以外ない。
 雲谷禅師の教えを受けて感動した時の、自分の運命の転換法について再び考え直してみることにした。人間は、常に初心に戻ってフィードバックしないと、信念を貫くことは出来ないものだと猛反省した。

 その日一日に、自分の運命転換への
「人生の貸借対照表」の善行の欄に、得点を重ねられなくても、気を落とす事なく、明日への善行を誓ったのである。こうしながら、袁了凡は「善事三千の行」を行うのに十余年がかかった。
 袁了凡は「善事三千の行」の誓を立ててこれを始めたのが、隆慶三年の己巳
(つちのとみ)の歳で、完了したのが万暦ばんれき/中国、明(みん)の神宗朝の年号)七年の己卯(つちのと‐う)の歳であった。

 孔老人の占いからは、残念ながら子どもは出来ないと言われて諦めていたが、辛巳
(かのと‐み)の歳に、男子天啓が生まれた。
 そして再び、「善事三千の行」を行った。これは四年で完了した。
 更に、次は進士及第の誓いを立て、「善事一万条の行」を行った。これは癸未
(みずのと‐ひつじ)の歳の万暦十一年(1583)の九月十三日で、進士試験に合格したのが丙戌(ひのえ‐いぬ)の歳であった。そして晴れて官吏になり、宝テイ知県(河北省)の知事に任ぜられたのである。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法