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生死の循環・中有思想 3

一度、西洋文明の洗礼を受けると、科学的な体系・体系・体系……と、そればかりを重んじるあまり、唯物論の目が眩(くら)まされて、肝心なる有機体の部分を「断片のみ」と色眼鏡で一蹴してしまったのである。これを「断片の集積」と看做さなかった。ここに明治以来の西洋のみを真理とする考え方に固執する西洋哲学が、日本の権威筋に定着するのである。

 斯
(か)くして東洋の、断片自体が有機体系を成していることを見落としてしまうのである。
 人体構造も、本来は有機的構造だったものが分類・分解によって、破壊されてしまったのである。外側だけの肉の眼に見えるものだけを取り上げ、裡側を見落としてしまったのである。


●中有には既に心が存在する

 人間は胎生(たいせい/あるいは「たいしょう」)によって生まれて来る。
 この“胎生”は、生物学で云う胎生である。子が母体内で養分を受け、ある程度の発達を遂げたのち生れることで、単孔類以外の哺乳類にみられる胎盤が発達する真の胎生と、卵胎生とがある。
 人間はこの中でも、水冷式哺乳動物に分類され、胎生をする動物であり、単孔類を除くすべての哺乳類は胎生の形式を取る。

 そして仏道では、胎生を「たいしょう」とよび、四生
(ししょう)の一つを云う。人や獣のように母胎で成熟して生れることを指すのである。
 ちなみに「四生」とは、生物をその生れ方から四種類に分けたもので、則
(すなわ)ち、胎生(たいしょう)、卵生(らんしょう)、湿生(しつしょう)、化生(けしょう)である。

四 生 胎 生 人や獣のように母胎で成熟して生れること生き物を云い、また、生れた「生きとし生けるもの」を指す。この中でも人間は“現象人間界”の生き物である。
卵 生 鳥などのように卵から生れるものを指し、神話的存在や特殊の人物も含まれる。天狗などもこの中に入る。
湿 生 湿処から自然に発生する生物のこと。また、そのもので、湿地で生まれる蚊など昆虫の類を指す。
化 生 母胎または卵を通過せずに、超自然的に突然生れでること。また、そのものを云い、仏や菩薩または天界の衆生の類を云う。そして救済の為に、仏・菩薩が衆生を救済する為、人の姿をかりて現れることで、化身や化人などという。

 さて、中有
(ちゅうう)に入った心の意識は、女性の胎内で結合した血液と経血によって、それが入り込む事により、その出発点となる。そして中有が、その心の意識を所有して生まれて来るかどうか、その意識の過去の行動と行為によって決定される。
 この意識こそ
“中有”なのだ。

 中有とは、四有
しう/生き、死に、次に再び生れるまでの間の四時期で、生有(しょうう)・本有(ほんぬ)・死有・中有の称)の一つで、衆生が死んで次の生を受けるまでの間を云う。そして人間は「再生する生き物」なのだ。

生 有 衆生(しゅうじょう)が死んだのち、次の生にまさに生れる瞬間を云う。
本 有 生れてから死ぬまでの間を云う。
死 有 衆生が寿命が尽きて、まさに死のうとする刹那(せつな)を云う。
中 有 生が死んで次の生を受けるまでの間を云い、期間は“一念”の間から七日あるいは不定ともいうが、日本では49日を云う。この間、七日ごとに法事を行い、中陰とも。
 「49日」は、人の死後49日間のことで、前生までの報いが定まって、次の「生」に生まれ変わるまでの期間を指す。俗にこの間、死者の魂は迷っているとされる。

 日本では、現代、中途半端な無神論者が多い為、「死ねばそれまでよ」と云う考えを持つ人が多い。「死ねばそれまで」と云う考えは、逆に云うと、人間は「死んだらそれっきり」と云う意味になる。死んだらそれっきり、というのは、「生まれるのもそれっきり」ということになる。生まれるのも“たった一回限り”の事であれば、死ぬのも、たった一回限りと云うことになる。生まれて、死んで、ただの一回限りである。そして他には何も残らないとする。

 だが一方で、人間が地上に顕われた歴史は、アウストラロピテクスが約200万年前、ホモエレクトスが約120〜40万年前、先行ホモサピエンスが約30〜20万年前、ネアンデルタール人が約10〜5万年前、クロマニョン人が約4〜1万年前であり、人類の歴史は生物学上の歴史から考えても、約200万年前に始まったとするこの説に、人の誕生を置き換えるならば、もし、「死ねばそれまでよ」と同時に、「生まれるのもそれっきり」という、死も生も一回限りと云うならば、そこで、この生命再生を否定する人に訊
(き)きたいのだが、「では、あなたは今回始めて生まれて来たのだろうか?」と質問したいのである。
 それも約200万年前の人類から数えて、「約200万年後の今に?」「それもたった一回?」と。

 200万年もの長きに亘
(わた)って、「あなたの生は、たった一回限りで、更に“人類として生まれた最初のヒト科の種類”か?」と、訊きたいのだ。
 そして「なぜ現代という、“今の世”に生まれたのか?」と。

 日本人の“中途半端な無神論者”の数は殖
(ふ)えこそすれ、減ることはない。
 昨今は科学一辺倒社会が猛威を揮っている。全てが、科学的な論理で貫かれていなければ、“非科学的な迷信”と云う、罵声
(ばせい)の一蹴(いっしゅう)が浴びせられる。

 物質万能主義と金銭至上主義が吹き荒れる現代社会にあって、正守護神
(精神分野を司る)は封じ込められ、物質中心の副守護神(物質分野を司る)だけが猛威を揮っている。
 その中にあって、現代人は益々、中途半端な無神論者に成り下がって行く。訝しな“科学的”という言葉を妄信する余り、中途半端な無神論者の増幅度は益々拡大して行くばかりである。

 その状況下で、今の生がおわれば、もう何もなくなり、その後、生まれて来ないと信じている人は以外にも多いのではあるまいか。それならば、あなたは何故、墓を作ったり、遺族に七日事に法要を願うような、死後の意識を持つのだろうか。

 また、科学的と云う言葉を乱発し、口では神社仏閣を認めない癖に、先祖の墓参りはするし、盆、彼岸、命日には法要と称して坊主を呼び燈明
(とうみょう)を灯(とも)し、線香を上げ、結婚式には神前で額衝(ず)き、クリスチャン風では教会のチャペルに立ち、仏式の葬式は寺に参り、悉(ことごと)く中途半端な無神論者の所業の数々を示す。

 12月24日のクリスマスイブともなれば、クリスチャンでもない癖に前夜祭としてクリスマスを祝い、31日大晦日
(おおみそか)には仏閣から発せられる“除夜の鐘”を聴き、明けて元旦ともなれば仏教徒から神道へと切り替わり、神社に押し掛けて初詣でをする。

 高校入試や大学入試ともなると合格祈願に神社仏閣に押し掛け、合格したら合格したでお礼参りを行う。家をたてる時やその他の工事を始める時は地鎮祭
(じちんさい)を行い、土地の神にその“お窺い”を立てる。そのお窺いすら信じない癖に、一応誰もが遣(や)るからと、それに右へ習えをする。
 また、悪いことをして刑務所行きになれば、教誨師の言に従って直に仏門に帰依
(きえ)し、刑期が終って出所すれば、出所祝いなどをして、これまでの仏門に帰依した行いは、すっかり忘れて、どこへやら。

 外国旅行をして、税関で「あなたの宗教は何ですか?」と問われれば、「無神論者」と答えておきながら、子供が山で遭難したり、外国で不法監修されれば、「どうか無事でありますように」と神仏に祈る。あるいは長期療養で長患いをしたり、末期状態で死ぬ時は「子供達には迷惑を掛けぬよう、ポックリいきますように」とポックリ信仰に興味を抱く。その癖に、胸を張って「私は無神論者です。神仏は信じません!」などと声を大にして云う人が少ない。

 これこそ「中途半端な無神論者」の最たる愚行ではないか。ご都合主義の中で生きる日本人は、無神論者でありながら、しかし唯心論とて捨て難いのだ。

 こうした愚行を犯しながらも、日本人は“科学的”という言葉が好きで、その癖、今日では極めて古典と云われる十七世紀のニュートンの物理学に絶大な信頼をよせ、万有引力の法則の「質量を有する総ての物体間に作用する引力で、この場合、二つの物体の間に働く万有引力は、両物体の質量の積に比例し、距離の平方に逆比例する」の計算式の計算すら出来ない人がいるのだ。こうした手合は、甚
(はなは)だ“科学的”という言葉を口から乱発するのである。

 そして科学的と云う言葉を妄信する余り、今の生が終れば、もう何も生まれて来ないと思い込んでいるのである。死ねば、それまでよ、と思い込んでいるのである。
 そこで訊きたいのだが、それならば、なぜ今回あなたはこの世に生まれて来たのか?そして、はじめて生まれて来たのか?

 それも人類の歴史が、200万年前も遡るアウストラロピテクスから数えて、「なぜ今に?」ということを訊きたい。更に、「よりによって、何故あなたに?」と。
 「他人ではなく、何故あなたに?」と。
 これらを総合すれば、人間の霊魂は再生していると考えた方が自然であろう。

 さて、人間に再生する筈
(はず)の中の“中有”の意識は、自分の父母となるべき性交中の男女の床へと一目散に辿り着く。その途中、傍(そば)で犬が交尾して居たとしても、それを素通りするか、あるいは雄犬が射精する精虫の一匹に成り済ますか、否かは、“中有の意識”の差によるものである。
 もし、犬の交尾に気を取られ、雄犬の射精した刹那
(せつな)に、一匹の精虫に成り済ませば、もうこれで人間に生まれ変わるチャンスは永久に失われる。

 ところがこれを素通りすれば、性交中の男女の許
(もと)に辿り着く事が出来る。過去の行動や行為から起こる風(ふう)は、中有の意識を、将来母親となるべき女性の胎内で結合した精液と経血の中心に吹き込むのである。
 この時の吹いた風は、母親の経血の方に惹
(ひ)かれれば、男として生まれるであろうし、父親に惹かれるようであれば女として生まれて来る。

 胎児は母胎の中に納まっている間中、狹い子宮の中で堪
(た)え難い苦しみに堪えなければならないであろうし、暑さの襲う夏は、その夏の暑さにも苦しまなければならない。母体は動けば、それに合わせて胎児自らも動き、揺れ動く衝撃にも堪(た)えなければならない。
 そして九ヵ月頃になると、再び胎内に風が起こり、胎児は誕生に備えて逆さまになる。
 この狹い牢獄のような子宮の中で、そこから押し出される時が、また一苦労なのだ。窮屈
(きゅうくつ)な鉄の壁のようなトンネルを通って、狹い鉄の穴から出て来る苦しみを味わう。

 これは人間が死ぬる時と、全く反対のコースを辿って、外に出て来る。躰
(からだ)が赤く腫(は)れ上がり、真っ赤に肌が焼けて生まれ出て来るのである。
 これは死ぬ時の逆である。人間は臨終を迎えた時、風が起こり、躰全体が爛
(ただ)れるように痛く感じる。少し触られただけでも、非常に痛く感じるのである。

 『正法念経』には「命終
(みゅうじゅう)のとき風(ふう)みな動ず、千の鋭き刀、その身を刺すが如し。故はいかん。断末魔の風が身中に出来(しゅったい)するとき、骨と肉と離るるなり」とあり、死ぬ時も、生まれる時も断末魔の苦しみを味わうという。

 したがって臨終を迎える時、人は体内にモルヒネ物質であるエンドルフィン
endorphin/哺乳類の脳や下垂体に存在するモルヒネ様作用を持つペプチド)が合成され、その麻酔作用によって穩やかな臨終が迎えられるとしている。

 しかし酒豪やアル中状態では、エンドルフィンの合成が妨げられて、その効き目が殆ど無いと云う。それは丁度、大酒呑みの人が手術を受けるのに、麻酔が効かないと言うのと同じ事である。
 だから多くの宗教では、繰り返し酒を飲んではならないと啓示しているのだ。禁酒の真意は、実はここにあったのである。

 西洋では臨終を迎えた病人に対し、神父は家に呼ばれ、神父は今息を退
(ひ)きとらんとす人の躰に、香油(香りの良い、信者の臨終に際して行われる塗油)を塗って、臨終の苦痛を和らげようとする。
 特にカトリックでは、「終油礼
(extreme unction/しゅうゆれい)」として、信者の臨終に際して行われる儀式である。これはカトリック教会の秘跡の一つになっている。

 つまり臨終とは、かくも躰が「骨と肉と離るるなり」とあるように、非常に痛いのである。
 そして死ぬとは、生まれるのと逆のコースを辿って、霊魂と肉体が分離して、霊界に加入し、やがて統合する事を意味する。人間に宿った霊魂は、再び許
(もと)の世界に帰って行くのである。

 さて、臨終と同じように痛いのが「生まれて来る時」なのだ。生まれて来る赤ん坊は、その無理矢理押し出される鉄の穴と通り抜けて来るのであるから、自分の出来る事といったら、ただ大声を張り上げて泣く事しか出来ない。

 母親は母親で、お産するには命賭けであり、お産は母子双方が「死出の旅」を覚悟して、死に向かって歩み始める事なのである。
 同時に生まれて来た赤ん坊は、その不快と苦しみの意識を認識する。そして再び、生・老・病・死のコースを辿り、人生を経験して行く事になる。この中に人生は集約されていると言えよう。
 そして生まれて来るまでは「先天の気」の影響を受け、生まれた後は「後天の気」を受けるのである。



●臨終間際の点検

 晩年期は、「死の準備」の為に費やす時期である。物質欲から離れる時期である。物から心へと移行する時期である。
 人間は、青年期ならびに働き盛りの壮年期は、人よりも一歩先んじようと奔走する。「先んずれば人を制す」の思考で突っ走る。『史記項羽本紀』ように、他より、相手より、敵より、先に事を行えば優位に立つことができると、そう信じて疑わない。野望をギラつかせ、出世街道を一っ飛びで駆け上がろうとする。

 仮に、これが成就したとして、成功を勝ち取り、財を得、何某
(なにがし)かの分野で頂点に立ったとしよう。
 そして金も、権力も、物財も、地位も、名誉も掴んだとしよう。物質界にあるものは、殆ど手に入れたとしよう。大富豪の位置まで駆け上ったとしよう。果たして、こうした人間の迎える晩年は豊かだろうか。精神的な安住はあるだろうか。心の静寂はあるだろうか。物欲から離れる勇気はあるだろうか。

 創造しただけでも、物質に固執した老後は哀れである。
 それは余命幾許
(いくばく)もない病気になれば分かることである。死を目前に控えてみれば分かることである。

 死に際して一番惨めなのは、この世の物財や権力を手に入れた人間であろう。
 しかし、自分の死を前にして、それらは何の行使も出来ないのである。金も、権力も、物財も、地位も、名誉も、それらのものは、死を目前に控えた老人や病人に何の威力も持たないのである。何一つ行使できないのである。

 末期ガンで、余命数週間と告知されたガン病棟のガン患者が、その後の死ぬまでに過ごす時間は、今此処に挙げた物質でないことは、容易に理解できよう。

 金持ちや成功者は、自らが持っている意識の中に、下々
(しもじも)とは違う優越感を持っている。その優越感が、新幹線で云えば、「普通席」と「グリーン席」の違いであり、航空機で云えば「エコノミー・シート」と「スーパー・シート」くらいの違いであろう。
 彼等は特別待遇を受けて然
(しか)るべきと考える「VIP」の意識が強い。これこそ「権力者意識」である。
 したがって、入院治療を要する場合でも、一般病棟とは異なる「個室」に完全看護の形で占拠し、「同じ病気になっても、お前らとは違うんだぞ」という、鼻持ちならないところ優越感で病院と医師を一人占めする。
 何故ならば、彼等のこれ迄の人生での生き方が、一般庶民とは悉
(ことごと)く違っていたからである。

 金持ちや権力者などの特権階級の意識は、「この世の中」というものが、いわば彼等の為に在
(あ)ったようなものだ。大企業の代表権を持つ、社長や会長クラスは、自分の会社は自分の為に在るようなものだった。
 また、国家にしても、政府要人は、各々の行政機関が自分の意の儘
(まま)に操れることに限り無い優越感を抱き、わが「鶴の一声」で、全体を切り盛りする満悦感は最高のものであったはずだ。こうした人にとって、現世と言う世の中は、彼等の「生」を満悦するものであり、楽しみを与える多くの享楽や快楽が限り無く存在していたはずである。

 ところが、彼等は「死」を目近
(まじか)に控え、人間の死と言うものが、人各々に「平等」に与えられている事に気付かされる。最後は、「みな同じだ」と気付かされるのである。
 だが、彼等はこの「同じ死」を認めようとしない。自分の死と、下々の死が同じである事を、最後までも拒み、最後の最後まで闘う。

 この闘いには、専門の医師団を編成させて、「金に糸目は付けないから、最高の治療を施して、五年や十年は延命できるように取り計らってもらいたい」などと、傲慢
(ごうまん)な話を持ちかけるかも知れないし、あるいはどうしても死ななければならないのなら、最高の臨終を迎える為に、死刑囚さながらに、教誨師(きょうかいし)の連中を呼び、安楽に死んでいけるよう、特別な香油を躰(からだ)に塗るなり、最高のお経をあげるなりの注文を要求し、自分自身の死は、差別化された最高の形を望む事で、庶民とは一線を画した死を求めるかも知れない。

 そして「平等」であるということに、最後の最後まで闘い、これに膨大なエネルギーを注ぎ込む。
 この為に、彼等は最も重要な、死に行く者としての「大事な作法」を学ぶチャンスを見逃してしまうのである。VIPを自称する特権階級は、屡々
(しばしば)、死を最終結果として、「謙虚に受諾する」という態度を逸(いつ)してしまうのである。
 これは死を目前に控えた者にとって、最も大事な、「謙虚さ」を学ぶ絶好の機会を見逃し、ただ単に、「死への拒絶」と「死への怒り」を撒
(ま)き散らせて、見苦しい態度で死に向かうのである。

 筆者がこれまで立ち会った人の死の中には、こうした、死までをも優越感で乗り切ろうとした、何人かの特権階級に属する人を見た事がある。
 そして不思議な事に、この手の特権階級が、死んで行くその死因となるものは、「ガン疾患」が最も多く、次に脳卒中や心臓病の順だった。あらゆる末期患者の中で、もっとも絶望的に、孤独な死を迎えるのは、こうした彼等だった。それは見苦しい態度を執
(と)る為に、家族からの顰蹙(ひんしゅく)を買い、また取り巻から嘲笑(ちょうしょう)を買うような態度で死んで行ったからだ。

 今日は、多くの日本人が、自分なりに「中流意志」を持ち、こうした意識は、VIPの連中と殆ど変わりがないようなところがある。そのために、「死に行く者としての作法」を知らずに死んで行く者が多くなって来ている。臨終を臨むには、「作法」がある。これは死に行く者の礼儀である。

 生前、この作法を学ばず、霊界のまたを知らずに死んで行く人の死は、実に哀れであろう。
 また、死した後の意識は、現在未科学の分野に入る為、これを医学的に証明できないが、死した後の意識としての波動は、確かに現存するにも関わらず、未
(いま)だにオカルトの世界に圧(お)しやられ、非科学として一蹴(いっしゅう)される傾向にあるようだ。

 つまり現代人は、「死のレベル」から云えば、絶望的な死を迎えようとしているのである。そして残念な事だが、生前、死に臨む作法の学習をせず、「人間は死ねばそれ迄よ」と豪語して来た人の死は、その人の死後が、実に哀れという事である。

 かつては、60歳を超え、やがて自分が晩年期に達し、この年齢になったら、「還暦
(かんれき)の祝い」【註】60年で、再び生れた年の干支に還ることからいい、数え年の61歳をいう。本卦還(ほんけがえり)の宴などとも称す)を家族から祝ってもらい、いよいよ人生に磨きを掛け、最後のラスト・スパートを意識して、「肉体から霊魂への移行」の時期を迎えなければならないことを認識していた。
 ところが現代では、60歳を過ぎても性欲が盛んで、こうした意識の切替が出来ず、単に、肉体に固執する人は多い。自分が本来、「意識体」である事を全く理解していない。こうした事から、今日の高齢者は、自らの「死」を見苦しくさせていると言えよう。

 そこで、死した後の、自分の魂のあり方を末期患者に正しく伝え、死後の生活への理解を求める事も、末期患者との付き合い方の一つであろう。また、末期患者が「霊魂だの」「死後の世界だの」を全く信じぬ唯物論者であれば、臨終間際の態度は、「立派であるほど、その人の人格や品格が高い」ということを、教えてやるべきであろう。



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