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葉隠恋愛論 3

寺崎広業筆『秋苑』


●仙人の性と俗人の性

 人間界には「二つの天地」がある。この天地は、それぞれ天上と地上を交えながら存在しながらも、実は各々に異なり、別々に運用されているのである。一つは天の神が支配し、もう一つは地の神が支配している。天の神に支配するところは精神領域で、地の神の支配は物質領域に着及ぶ。そして各々に上下の領域格差があり、陰陽の変わり目でそれを隔てている。

 現世という、人間現象界では、形のあるものはやがて消えていく。東洋医学的な思想も、此処に由来する。東洋医学の特徴は、「命の変幻」という思想がその背景にあり、姿形のあるものは、やがて変化して消えていくという思想的基盤がある。

 しかし、その一方で、この世の中の「性的エネルギーは限りなく膨張する」という思想を抱え込んでいる。今世こそ、拡大・膨張の数直線上の天の上にあるのである。この世の中は一切に性的エネルギーを抱え込んでいて、それが総てに満たされ、ますます膨張しているのである。

 この事は、人間という存在がなくならないことが雄弁に物語っている。人間の存在は繁殖にある。よって、繁殖期の第一次は、第二次で上回り、性的エネルギーは無限大に殖
(ふ)えていくのである。

 この東洋医学的な発想で、世の中というものを考えた場合、此処には至る所で、エクスタシーが溢れ、その顕れが、つまり、「私」が生まれ、「あなた」が生まれたことである。これは同じエクスタシーの中から生まれたことを顕している。そして、それぞれは、一見個々に動いているようであって、実は同じエクスタシーのエネルギーによって動かされているのである。

 現代人の多くは、この現実を殆ど見逃している。しかし、同根のエクスタシーから発祥したとするならば、私たちはこの点について、もっと大きな価値観を置き、この価値観を求めるように行動してもよいのではないか。

 どう贔屓目
(ひいきめ)に検(み)ても、同根の性的エネルギーが至る所で溢れ、時代が下るにしたがって、益々氾濫(はんらん)する状態になっている。

 東洋医学では「先天の気」は、腎臓に宿っているといわれる。この腎臓は、極めて生殖器に関与している臓器であり、更には、「骨」と「耳」に関係しているという。

 生命というものは、みな姿形を変えていく中で、仙人だけが何ゆえ、姿形を変えずに、長生きが可能なのか。
 それは仙人の持つ「先天の気」ではなく、「後天の気」が関係していることが多いようだ。仙人は、伝説上の人間なのか、あるいは実際に存続を続けて居たのかは別として、ここには一種の気宇壮大なロマンがあり、仙人は「後天の気」より、性的エネルギーを取り出して、それを生きる原動力としたという推測が成り立つ。

 一般に食物には、「精」が宿っており、それが生きている間、そこから生命を抽出して、躰の中に詰め込む方法を編み出したのが、「仙術」という、仙人ご自慢の術である。
 一般に考える仙人像は、「霞
(かずみ)を食べて生きている」といわれるが、一体これは、どういう意味なのか。

 人間の持って生まれた「先天の気」であるエネルギーを、多くの人間が、繁殖の為に使い果たして死んでいく。ところが仙人は、「先天の気」を先祖から貰ったエネルギーとして増殖させ、これを安易に使い果たすことはない。更に、このエネルギーを自己内で増殖させ、然
(しか)もそれを使わないのである。益々溜め込み、「精」へと変換していくのである。

 一方、仙人は山の高いところに登る。あるいは高いところに棲む。それはエネルギーを上に挙げていく為である。高山を好むのは、エネルギー保存に最も優れ、山に居ることで、仙人としての資格は保たれる。仙人は「山に居る人」である。だから「仙人」という。

 その一方で、「俗人」という種族の人が居る。俗人は、「谷に落ちる人」の意味である。つまり、先祖や親から貰った性的エネルギーを使って、射精や排泄によって使い果たし、身を落としていく人のことをいう。だから、「谷に落ちる人」のことを、「俗人」という。

 これは、仙人とは対照的である。この事が、俗人といわれる所以
(ゆえん)である。俗人は、高山のような空気の綺麗なところには居ない。下界の淀(よど)んだ空気の中に居る。経済優先で、利益追求に余念がない。金・物・色にほだされて、これに奔走する。夜の巷(ちまた)の嬌声(きょうせい)の中を徘徊(はいかい)する。
 だから、淀みの中で種々の病魔に襲われる。

 また一方、俗人は生殖器を通じて、因縁から起る子供を作るが、仙人は自己の体内の中に、「光の子供」を宿す。 この「光の子供」こそ、極めてよく練り上げられ、昇華されたエネルギーのことである。
 したがって、次世代に繋
(つな)げる生命の性的エネルギーに加えて、更に食物の中からも、同じような性的エネルギーを抽出するのに、優れた能力を持っている。それが仙人である。

 仙人は食物の中から、裡側
(うちがわ)に蓄える性的エネルギーを抽出するのである。この性的エネルギーは、四ツ足などの、人間と同じ性(さが)を同じとする共食いを避ける為に、動物の肉は摂らない。動物の肉は、血液を汚染し、短命する元凶であるからだ。
 また、従来の性的エネルギーを、更に精選して、「精的エネルギー」に変換させるのに、動物や乳製品などの動蛋白は不適当であるからだ。

 仙人は、食物から第二種の工程で、「精的エネルギー」を変換する方法を知っている。それは、一つは酸素であり、また、食物を酸素で分解するのである。こうして昇華された「精的エネルギー」が作られる。

 酸素により、食物をよりよく分解する為には、空気の汚い俗人界では、目的が達せられない。だから仙人は、山頂の空気の綺麗な高山に棲
(す)み、そこで植物が新鮮に繁茂(はんも)しているところでしか生きていけない。

 更に、もう一つの仙人が長寿を全うする秘訣は、「心」である。心が綺麗で、清らかでないと、精的エネルギーを蓄積することが出来ない。
 欲などがあり、常に煩悩
(ぼんのう)に煽られるようでは、心が清らかにはならないし、最終目標は達成されない。

 したがって、仙人は、性的な衝動が起ったとしても、これに安易に排泄はしない。更に仙人は、膨大で絶大な精的エネルギーを溜め込んでいるにもかかわらず、排泄という、射精の類
(たぐい)の愚行は行わず、更に欲情すらも外に漏らさず、内に溜め込むのである。
 こうして溜め込むことにより、これまでの俗人とは違う「性的エネルギー」を溜め込み、その溜め込んだ後、遂にこのエネルギーを、1ランク上の「精的エネルギー」に変換させ、昇華させ、精なるエネルギーに満たされて、千年単位の長寿が全うできるという。これが仙人が霞
(かすみ)を食べ、何千年々も生きられる秘訣であるらしい。

 この話は、勿論、寓話
(ぐうわ)を交えての話であるから、その真相は定かでないが、仙人が仙人たる所以(ゆえん)は、独自に「陽気」を発生させて、これを体内に巡らす「周天法」にあるらしい。周天法で得たものが「光の子供」であるらしい。

 周天法については後ほど述べるとして、「性的エネルギー」で生命を終らせるのか、更に昇華させて「精的エネルギー」まで進化させるのとでは、その恋愛術においても、大きな隔たりが生まれるはずである。
 つまり、セックスだけの次元にとどめて、快楽遊戯の中でそれを恋愛とするのか、更に進化させ、精神世界にまで及んで、恋愛を男女の心の絆
(きずな)と考えるのかでは、此処に大きな違うが生まれるからだ。

 肉の塊から齎される快楽遊戯は、肉体の消滅と倶
(とも)にその肉との感覚は永遠に失われる。一方、精神世界にまで入り込んだ男女の精神性は、肉体が滅んだ後も、それが魂として永遠に生き続ける。
 先に述べた『ダフニスとクロエ』の物語に回帰すれば、彼等二人の野原で戯
(たわむ)れるような無邪気性は、恐らく天界の神の仕業(しわざ)であろう。

 一方、肉欲に耽り、ドロドロとした絡み付き、粘り着くような漆膠から起る「自称・愛」は、肉の欲望から起るものである。そこに存在するものは、愛などとは程遠く、紛れもなく「欲の塊」であり、この欲が実は「肉欲」の正体なのである。多くの現代人は、この「肉欲」を大きな誤解をして「愛」などと称しているのである。これが精神性のない、次元の低い存在であることは、詳細な説明を加えなくても一目瞭然であろう。



●愛欲の肉欲はどう違うのか

 男女の最初の出逢いは、単に、その場、その時のフィーリング的なものがあるかも知れないが、容姿や顔立ちの、見てくれから始まる肉欲あるいは愛欲は、決して一生涯に連れ添う、良き伴侶(はんりょ)となる相手に巡り合える事は意味せず、これにより良き伴侶を得ることは極めて稀(まれ)であろう。

 容姿や顔立ちだけで、人生の伴侶を求めた場合、それが飽きないのは知り合っての、一年程度であり、その後は倦怠期を伴った腐れ縁となる。特に、男女の何
(いず)れかに、教養などの人生を語り合う上での大事な要素が欠け落ちている場合、ただ可愛いだけの相手では直ぐに飽きてしまうからだ。これでは人形と一緒にいるようなものであるからだ。
 人間は容姿や顔立ち以外の何かに、惹
(ひ)かれる魅力があるからだ。

 また、恋愛と云うものは、肉欲や性の問題にしても、肉を通じて愛情を確かめ、その確かめた結果、心が通い愛と云うものでもなかろうと思っている。肉を通じての愛ならば、例えば、男同士のともだち関係にある者は、ホモ関係により、肉を通じてのみ、その信頼関係が確保できると云うものであれば、何とも、肉は汚らしいものになってしまう。したがって、「友人関係」イコール「男色主義者同士」という図式は成り立たないはずである。肉の関係を通じ、男色に趨らない男同士の友情は、人類の歴史上多く存在している。

 したがって、肉欲ならびに性の問題は、性欲を蔑視してそれを罪悪の最たるものと決めつけたり、逆に今日の進歩的文化人が唱えるように、愛欲や肉欲こそ、男女の心を通じ合う唯一の方法と考えるのは、甚だ賛成し難いのである。
 しかし、今日の多くの恋愛小説や歌謡曲には、肉による愛を取り上げ、「肉欲」イコール「心」の疎通としているのは、何とも不可解な男女の在
(あ)り方と云わねばならない。

 例えば、恋愛を通じて、知り合った数日後、あるいは数ヵ月後、一旦許してしまった肉の関係は、その関係が深まれば深まるほど、その事後は虚しいものがあり、徐々に身も心もくたくたになって行くのは、恋愛を通じて肉欲に奔った男女であれば、誰ももが経験することであろう。
 その上、相手に対して疑心を抱き、悩みを抱き、憎しみを抱き、嫉妬を抱き、悲しみを抱き、苦しみを抱き、こうしたものが相乗効果を為
(な)して、虚しさのドン底に叩き落すからである。

 何と、肉を交えても、それは永遠に持続できるものでない。「欲」というものは、これで満足できる状態には辿り着けないのである。それだけに空しいものがある。特に婚前交渉を重ねた男女ならば、このことは、よし切実に迫って来る事を、既に経験済みであろう。肉だけを通じて、男女が絡み合う行為は、その事後が、実に虚しいのである。大変な空虚を感じるのである。そして、それは想い出だけに、虚しさが残るものである。

 また、男女の愛において、口先だけで、愛し、愛されたと言う事実は存在しても、時間が経てばそれは、一種の「想い出」に成り下がる過去の記憶でしかない。更に実体を追求しても、それは極めて抽象的で、ハッキリとした形で残る事はない。

 恋愛を通じての、肉を交わした歳月は、それなりの意味があるであろうが、それを通じて、「幸せを感じる時短」というのは、瞬間的で、実に刹那的
(せつな‐てき)なものであろう。むしろ、苦しんだり、悩んだりする方が大きなウエイトを占めるのではないか。
 ここには、肉に絡む腐れ縁が、後を曳く虚しさがある。それは、「肉愛」を通じての男女の愛情交換は、結果として、要するに引きずり回される側面が存在するからである。そして、一度、肉の絡んだ恋愛の中に突入すれば、頭で考えていた事と、肉体が求めようとする事は、同一性を持たないようになり、統一的な思考が崩壊してしまうのである。

 恋愛を通じての肉の交わりは、統一性や同一性を欠くところに、多くの男女はそれによって苦しみ、悩み、悲しみ、離したくないとする独占欲と、その一方で嫉妬し、憎悪する不可解な現象が入り交じって、混乱を起こすのである。この結果、身も心も、くたくたとなる。それは恋愛と云う「愛」の根源に、肉体を通じて深く絡み合ったものは、それが深ければ深いほど、複雑さをまし、雁字搦めの腐れ縁の状態になるのである。
 これは則
(すな)ち、愛憎という「愛」の根源に潜む、魔物に人間は支配されると言う現実があるからだ。

 したがって、肉体の交わりという一線を超えれば、後は倦怠期と云う、狎
(な)れによる腐れ縁が派生するのである。それは長年連れ添った夫婦の多くが、狎れにより、性を軽々しく弄(こてあそ)んだ代償として、倦怠感の中に突き落とされるのである。これは夫婦関係だけではなく、恋人関係でも同じだろう。その代償は、肉の絡み付きは根深ければ根深いほど、大きなものを払わされるのである。

 私は、これまでの多くの失敗を通じて、性は軽々しく弄ぶべきでない。これをやらかせば、とんでもない火傷
(やけど)をする恐れがあると考えていた。その火傷の始まりが、肉に絡めた恋心であり、恋愛を通じた矛盾は、結果的に二律背反(にりつ‐はいはん)の恐ろしい牙に懸(か)けられることである。しかし、恋愛行為にこうした牙が潜んでいる事を知らず、安易に容姿や顔貌から入って、腐れ縁状態に遭遇する男女は少なくないようだ。

 その意味からすれば、女性は、単に在
(あ)り来たりの、鑑賞用の肉美人ではないのだ。とびっきりの実力を備えた、滅多に居ない、特に伴侶候補ともなれば、特異な女なのだ。これは安易な結晶作用が齎した結果に於ての評価ではなく、魂に触れて、これが判明したのであった。女を、肉の塊と視るよりは、肉の内部に躍動する魂の根源に、そうした崇高なものが潜んでいる事を、現代人は知るべきであると思う。

 多くの現代人は、とうに忘れた人間本来の純粋性や、無邪気さや、無垢な発想で考える精神性は既に退化してしまっているようだが、人間性復活の意味から考えれば、それが将来に於ての次世代が人間性を復活出来るか否かに掛かっているように思える。




●シラノ・ド・ベルシュラックという名の葉隠精神

 男『シラノ・ド・ベルジュラック』というエドモン・ロスタンEdmond Rostand/フランスの劇作家で、初め詩人となるが、後に軽快な韻文劇で知名を得る。1868〜1918)の著わした有名な戯曲がある。この中の主人公シラノ・ド・ベルジュラックは、十七世紀半ばに実在した人物であり、パリのガスコン青年隊と称する貴族で組織された戦闘隊の隊員であった。彼は、文武両道に優れた剣士で、パリでは無双の遣い手として知られ、また、同時に詩人であり、哲学者であり、音楽家でもあった。

 ところが彼には、人並外れた大きな鼻の持ち主で、その容貌は不様の一言に尽きるものだった。
 人が、シラノの鼻を見て、少しでも嘲
(あざ)ける者がいれば、容赦なく叩き付け、さもなくば得意の哲学的毒舌ならびに鋭い舌峰(ぜっぽう)をもって、相手を完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめすのであった。剣の才能に恵まれ、豊かな教養の持ち主であったシラノだが、自分の貌(かお)が醜いと云う事だけは、何とも残念でならなかったのである。
 その為に、身分の高い貴族でありながら、女性から一切ちやほやされず、また、女性から、愛される幸せにも遭遇しなかったのである。

 そんなシラノにも、長い間、心の中に密かに想う、従姉妹
(いとこ)のロクサーヌという美貌(びぼう)の女性が居たのである。しかし、シラノは彼女に対しての思慕の想いが傾けば傾くほど、自分の貌を思い、自らの醜い巨大は鼻が、総てを一切帳消しにするのを知っていたのである。
 一方、ロクサーヌは自分の従兄弟
(いとこ)のシラノが、自分に対して、これほどまでに烈(はげ)しい恋心を抱いて、情熱を傾けているとは、全く気付かなかったのである。ただ、シラノの事は、顔貌(かおかたち)は醜いけれど、心根は優しく、包容力のある兄のように彼の事を考えて居たのである。

 こうした、その頃に、ガスコン青年隊に美男なるクリスチャン・ド・ヌーヴィレットという貴族の青年が入隊してきたのだった。彼のマスクは実に均整がとれ、その面貌
(めんぼう)は、まさに美男子の形容に相応しい、それであった。
 ところが、クリスチャンは教養や才智にかけては、並の凡夫
(ぼんぷ)の域を出らず、然(しか)も剣の腕前も、そこそこの凡庸(ぼんよう)な男だったのである。つまり、外形的な顔貌や容貌はそれなりに見栄えのするものの、その精神面や気質である、この分野に於ては、今日で云う、「可もなく不可もない善良な市民」という、この程度の分別知(ふんべつ‐ち)の持ち主であった。

 このクリスチャンが、ある日、ロクサーヌを見初
(みそ)めて、彼女に恋をしたのである。また、ロクサーヌはロクサーヌで、自分の前に顕われたクリスチャンは、颯爽(さっそう)として恰好よく、処女の彼女はクリスチャンの容貌に、一目見て心を惹(ひ)かれたのである。

 シラノはロクサーヌから、クリスチャンを恋している事を告げられ、一瞬狼狽
(ろうばい)して大変なショックを受けるが、しかし、ロクサーヌはシラノを兄とも慕う間柄であり、彼はロクサーヌのために一肌脱ぐ事を決心するのである。
 しかし、シラノの本心は、自分もロクサーヌを愛していて、非常に苦しむのである。そして、苦しみ、悩み、悲しんだ末に、遂に到達した心境は、自分がロクサーヌを想う、その恋に殉
(じゅん)じようとしたのである。
 この心境は、まさに『葉隠』を彷佛
(ほうふつ)とさせるものであり、『葉隠』の、「忍ぶ恋」に匹敵するものであった。

 シラノは、それからというものは自らの恋に殉じる為に、積極的にロクサーヌとクリスチャンが結ばれるように働きかけ、奔走するのである。
 その奔走の第一は、凡庸で凡人レベルのクリスチャンに、ロクサーヌへの恋文を代筆してやることであった。わが憧れのロクサーヌに、まるでわが心をぶつけ、美しい語句をふんだんにちりばめて、愛の籠
(こも)った手紙をクリスチャンの代筆者としてしたためたのであった。それはあたかも、自分がロクサーヌに恋の告白を打ち明けるが如くの烈しいものであり、熱烈たる恋文を書き上げたのであった。
 次にその第二は、二人の中を、出来るだけ積極的に接近させ、仲を取り持つ事であった。その為に、様々な機会をつくり、二人の恋仲を成就させる為に、脇役に徹した事であった。

 ロクサーヌは、恋文を貰った時、それがシラノの代筆による恋文とは知らず、これを受け取り大喜びするのである。「わたしのクリスチャンさま」と、天にも登る気持ちだったのである。
 しかし、ロクサーヌは、自分の受け取った愛の告白が、誰の手によって作られたか、誰の口から吐露
(とろ)されたのか、全く知らないまま、それがクリスチャンの唇から出たものだと、信じて疑わなかったのである。そして二人は、烈しい恋仲の恋人同士となるのである。

 この当時のフランスは、ドイツならびにハンガリーと砲火を交えて居たので、ガスコン青年隊は、やがて最前線へと派遣される事になる。シラノもクリスチャンも、戦士として隊列に加わり、最前線へと赴いたのである。

 最前線での戦闘は激しさを増し、その戦場は激戦地と化して居た。この激戦地では、次第に兵糧
(ひょうろう)にも困るようになり、戦闘も日増しに激しくなり、やがて死を決意しなければならない状態に陥って行くのである。
 この時、クリスチャンはシラノに向かって、これまでのロクサーヌに対する慕情を訴え、またシラノは自分のロクサーヌに対する恋慕の思いを告白するのである。
 こうした中、ロクサーヌは戦場に赴いた恋人のクリスチャンに、益々想いを募らせ、ついに一大決心して、ガスコン青年隊が戦っている陣地へ馬車を仕立て、大変な危険を冒して、戦場まで出向くのである。この戦場は、俗に言う「アラスの戦い」である。

 クリスチャンはロクサーヌが戦場までやってきたことに大変驚くが、ロクサーヌにこうした思いを決意させた背景には、シラノの助けがあって、シラノが自分のために恋文を書いてくれたからだと知るのである。彼は自分の力で、ロクサーヌを射止めたのではなかった事に激しい衝撃を受けるのである。
 ロクサーヌが此処までやって来たのは、シラノの書いた恋文が自分の心の打ち明けではなく、シラノそのものの恋の打ち明けであった事に、計り知れない衝撃を受けるのである。結局、ロクサーヌを此処まで連れ出したのは、シラノの恋の打ち明けが、彼女をこうまでして危険を冒させ、激戦地までやってこさせたと考え、これに耐えられなくなるのである。

 こうした最中、敵弾の一発がクリスチャンを貫き、彼は倒してしまうのである。クリスチャンの死を知ったロクサーヌは酷い悲しみに暮れるが、この機を利用してクリスチャンに変り、ロクサーヌに付け入る事は、シラノは、しなかったのである。シラノは、ただただロクサーヌへの忍ぶ恋を貫いたのであった。

 ロクサーヌはクリスチャンの戦死後、めっきり気力が衰え、次第に老け始めた。それから十五年の歳月が流れ、初老を迎えたロクサーヌは、未亡人としてある尼僧の修道院に身を寄せていたのである。目は衰え、躰
(からだ)は日増しに弱って行くロクサーヌであった。シラノは毎日此処を訪れ、ロクサーヌのために新聞を読んでやるのであった。
 しかし、シラノはロクサーヌに、自分の心の裡
(うち)は、一言も打ち明けるものではなかった。ただ、彼は毎日の習慣に従って、新聞をロクサーヌに読んでやるのだった。

 ところが、ある日、シラノは修道院に向かう途中、ある家の二階から落ちて来た材木により、頭にそれを受けて重傷を負うのである。それを知ったロクサーヌは、直ちにシラノを見舞うのである。シラノは既に重傷のため、もう、そんなに長い命ではなかった。

 そして、シラノは最後の願いとして、ロクサーヌが肌身は出さず持っているクリスチャンの恋文を見せて欲しいと頼むのだった。一字一句、間違いなく暗誦しているシラノは、ロクサーヌが読む声に合わせて、自分の諳
(そら)んじた声を重ねるのであった。
 その時、ロクサーヌの顔色が突然変るのである。彼女は自分に恋を囁
(ささや)いた男は、クリスチャンではなく、実はシラノだったと気付くのである。

 しかし、彼女がそれを読み終えた時、既にシラノの息は絶えて居たのである。シラノは、自分の生涯を賭
(か)けて、男の心意気を貫いたのである。男の意地を通したのである。見上げた男と云うべきか。
 私は、エドモン・ロスタンの著わした有名な戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』に、『葉隠』の「忍ぶ恋」を重ねて居たのである。



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