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葉隠恋愛論 2

『女の悲しみ』(渡辺省亭筆)


●恋の結晶作用と美化作用

 宮陶酔し過ぎた悲劇に、有名なフランスの作家スタンダールStendhal/社会批判と心理分析とに優れた作家で、その著書に、小説『赤と黒』『パルムの僧院』のほか、また『恋愛論』、更には自伝の『アンリ・ブリュラールの生涯』などがある。1783〜1842)の『恋愛論』がある。

 その『恋愛論』の中には、繰り返し「結晶作用」という言葉が使われている。この結晶作用とは、炭坑の中に持ち込まれた枯れ枝が、塩分などにより結晶作用を受けて、枯れ枝だの結晶体の中心に、まるで花を付けたような小枝に変貌
(へんぼう)する事から、こう呼ぶそうだ。

 スタンダールによれば、人間は恋愛をすると、女性では、相手側の男性の欠点も時には長所に映り、粗暴で粗野な性格も、男らしくて勇敢と映るわけである。また男側から恋する女を見れば、惚れれば、菊石
(あばた)もエクボで、実に美しく見えると言うのである。男女とも、美化された環境に陥ってしまって、そこから抜け出せないというのである。
 つまり、恋愛の心理は、相手を美化して考える結晶作用と言うのである。

 また、フランスの小説家で評論家のアンドレ・ジード
Andre Gide/人間性の諸問題に関与した小説などで有名で、20世紀前半の文学に指導的役割を果した。小説『狭き門』を始めとして、『贋金つくり』、評論『ドストエフスキー』『ソビエト紀行』などがある。ノーベル賞受賞者。1869〜1951)によれば、その著書の小説『狭き門』からも分かるように、この小説仕立ての著書は、外見的に甘美な、然(しか)も純愛な恋愛を描いているもので、「余りにも美しすぎる」と評価されるものであった。また、この小説を読むと、うっとりとして感化もされ易いようである。

 しかし、内容を深く掘り下げて数回読み返すと、そこには数々の結晶作用が存在する事に気付かされる。陶酔による危機が、この恋愛小説の中にはあり、これが徐々に破綻
(はたん)していく様子が描かれている。

 さて、『狭き門』の粗筋
(あらすじ)を要約すると、次のようなものである。
 小説の主人公ジェロムは、幼い時から躰
(からだ)が弱く、その一方で勉強や文学に興じる青年だった。彼には従兄妹(いとこ)のアリサがおり、この女性を、この世で一番美しい、然(しか)も一番優しい女と思うようになっていた。

 一方、アリサは何処となく物悲し気な、憂いを含んだ女性だった。それは彼女が、家庭的には余り幸福ではない環境に育ったからである。こうしたアリサにジェロムは同情を寄せ、この同情は、やがて思慕の思いに発展していくのである。
 ジェロムはアリサを幸せにしたいと思うようになる。また、彼自身、アリサに相応しい立派な人間になろうと努力するのである。そして、二人で手を繋
(つな)ぎ、神の世界に行く事への憧(あこが)れを抱くようになる。特に、ジェロムはこの気持ちが烈(はげ)しく、また、始めの頃は、アリサもこうしたジェロムへ好意を寄せるようになる。このことが彼の愛に応えたかのように映ったのである。

 ところが、アリサはいつの間にか、ジェロムの余りにも陶酔し切る愛が、重荷になるようになるのである。そこが総
(すべ)ての人生の躓(つまず)きだった。
 その上、アリサの妹のジュリエットが、ジェロムに恋している事を知るのである。アリサは妹の為に身を退
(ひ)こうと思うようになる。また、妹は妹で、姉の為に、好きでもない商人の男と見合い結婚をして、自分の身を退いてしまう。こうして『狭き門』の第一部が終わるのである。

 そして第二部の始まりは、ジュリエットが結婚後、寄り添っては、再び離れねばならない姉アリサの奇
(く)しき運命を見らねばならないところから始まる。描写は文学小説らしく、北フランスの風景が見事な描写によって美しく書き顕(あら)わされ、この風景の中で、アリサとジェロムの恋愛が展開されていく。
 ところがアリサは、ジェロムの、自分と一緒に手を繋
(つな)いで人生を進もうとする、この立派過ぎる生き方に、辟易(へきえき)を感じるようになる。ジェロムの立派過ぎる人生観が、アリサには馴染めなくなって来るのである。それは余りにも理想主義的な生き方に近く、アリサにとって重荷であり、ジェロムが過大評価して、アリサを愛している事を知るのである。これこそスタンダールが指摘した「結晶作用」の最たるものであった。愛が美化されて、まるで仏教が指摘する「渇愛(かつあい)」の世界に迷い込もうとしていたのである。
 渇愛とは、往々にして未熟な凡夫が陥る、渇して水をほしがるような愛着
(あいじゃく)のことである。愛情に惹(ひ)かれて思い切れないことであり、愛欲の溺れることをいう。小説『狭き門』の悲劇は、此処にあると言えよう。

 余りにも高過ぎる理想主義を貫き通そうとするジェロム。それに対して、自分を一等卑下して、そんなに立派ではないと思い込んでいるアリサ。アリサの不安は、実は此処にあったのである。
 この二人は、高い世界に向けての、考え方の違いに大きな隔たりがあった。しかし、ジェロムはアリサのこうした不安に気付かず、一方的に、アリサを益々心の中に引き入れ、恋い焦
(こ)がれてしまうのである。

 ジェロムの心の中に描いたアリサ像は、まさに聖女であった。見事に美化された、一点の曇りもなく、一点の落ち度もない美しき、優しい乙女であった。こうした乙女へと、ジェロムは益々、恋い焦がれていくのである。そして、この場合の最大の悲劇は、ジェロムがアリサの美化された、聖女のような幻
(まぼろし)を追い掛けている事であった。

 宗教的には、天国に至る門を「狭き門」と称するようだ。高い理想の世界に通じる門を、「狭き門」という。この門は、「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」とされている。こうした「狭き門」に、ジェロムはアリサの手を曳
(ひ)いて、突き進んで行こうとするのである。

 一方、アリサはジェロムの突き進んでいる道が、余りにも「狭き門」に通じる、不可能に近い門であると知るのである。これを知ったアリサは、ジェロムを愛するが故に、ひとり身を退き、彼と別れて旅に出るのである。そして、アリサは孤独な旅の果てに死んで行くのである。
 しかし、ジェロムはアリサが死んだ後も、彼女だけを、より一層美化して、アリサの聖女の幻を追って、慕い続けながら生きていくのである。

 この物語は、純愛物の傑作とされてるが、繰り返し読むと、清らかな純愛の裏の、「二人の男女の悲劇」を何処かで揶揄
(やゆ)し、嘲笑(ちょうしょう)しているのではないかと、とれるのである。つまり、陶酔から起こる恋愛が、実はその背後に、こうした落とし穴が控えている事に、警告を与えているかのように思われて来るのである。
 恋をした人間の誰もが罹
(かか)る熱病の一種の、相手を美化する結晶作用が、アンドレ・ジードの小説『狭き門』にはあり、作者は恋愛が仮面舞踏会のような、愛する人に、よく思われたいという恐ろしい一面があるという指摘に気付されるのである。

 仮面舞踏会なみの恋愛は、誰もが実物大以上の、また等身大以上の仮面を付け、分不相応なマスクを付けて登場し、気取ったり、強がったり、学のある振りをして大学の学閥
(がくばつ)を自慢したり、仕事が順調にいっている事に自信ありげな口調で論じて、自分をこの世で一番頼もしい男のような素振りを見せる男が少なくない。
 その癖、例えば、回転寿司などに彼女を誘うと、握鮨
(にぎりずし)に付ける花生姜(はなしょうが)の「がり」は、「タダだから、幾ら取ってもいいんだよ」などと貧乏臭いようなことを平気でいう。その本性の側面には、実は浅ましく、見苦しく、恥知らずが漂っているのだが、男の方はこれに気付かないのである。
 また、こうした「タダだから幾ら取ってもいい」とする、自分勝手な、男の卑劣さを見抜けない女性も少なくないようだ。
 要するに、見抜けないばかりは、同レベルの人種なのである。

 少しでも、理知的な女性であったら、こうした男は、人生の伴侶に不適当ぐらいは、簡単に値踏みできるのであるが、恋愛の煙りに姿を曇らされている女性は、男の貧しく、賤
(いや)しい、見窄(みすぼ)らしさに気付かないのである。仮面を付けた同士の、愚かな似合いのカップルと言うべきか。あるいは現実以上に、背伸びをした者同士の、憎からず思う同情の応酬(おうしゅう)か。

 しかし、マトモな神経の持ち主ならば、長い間の背伸びのし過ぎは、息切れがしてしまう筈である。
 小説『狭き門』は、極端な美化作用と結晶作用が悲劇を招く事を、裏側で鋭く批判しているのである。そして、恋人アリサを、悲劇に追いやったのは、何を隠そう、その主人公のジェロムであると糾弾
(きゅうだん)しているのである。だから、アリサは愛するジェロムの許(もと)から去って、ひとり旅に出るのである。

 私はこの物語を読んだ時、なぜ道子が、私の傍
(そば)から急に居なくなったのか、分かるような気がした。もしかしたら彼女は、私を心から愛していて、『狭き門』のヒロインのアリサではなかったのだろうかと思う事がある。そして、居なくなったアリサの幻を追う、アリサを悲劇に追いやった張本人のジェロムが、実は私ではなかったかと思うのである。
 どうやらこの結末には、私の無智と、無感覚が、いつまでも夢を見させる元凶をつくり出していたと言えるようだ。

 確かに、恋愛には陶酔や美化する意識が必要であろう。しかし、これに溺れ過ぎれば、命取りになるのである。私は人間として一番大切な、「眼を覚まさなければならない」という行動原理の大事を見落としていたようだ。



●エロスについて

 人間がよくよく考えなければならないことは、愛情と情熱の違いを知ることである。そして恋愛と云う中で当然起こりうる、肉体的な情熱の問題である。
 人間に憑き纏うエロスという言葉の意味には、いろいろなものが含まれる。普通この言葉はアガペー
(agape)という言葉と比較される。

 アガペーとは、神の愛のことをいう。神が罪人たる人間に対して、一方的に恩寵(おんちょう)を与える自己犠牲的な行為で、キリストの愛として、新約聖書にあらわれた思想である。またエロスは、ギリシア神話の愛の神のことで、あらゆるものを結合する力を擬人化したものである。

 アガペーは精神的な愛を指し、一方のエロスは肉体的な情熱や性的な愛を意味している。つまり、エロスには肉体的な愛が限定されていると云うことである。
 普通には恋愛や性愛を意味するものであるが、プラトンは肉欲から始まり、愛の上昇の種々の段階を説き、最高の純粋な愛は美のイデアに対する憧
(あこが)れであるとし、エロスは真善美に到達しようとする哲学的衝動を意味すると説いている。またフロイトの精神分析では、「生」の本能を指している。

 そして昨今に流行と云えば、「肉体的な愛」を宣伝し、これを流布するマスメディアの流行現象がある。これこそ愛の典型と云わんばかりの宣伝であり、特に若者の多くはこうした流行の中に取り込まれていく。肉体的な異性関係を深めていくことが、恋愛の感情であり、この肉の繋がりを安易に「愛」と標榜しているようだ。

 しかし、こうした肉の繋がりを美しいものと見ず、汚らしい肉愛とした風潮は少なくとも終戦直後に日本人には誰もが持っていた感情である。当時の男女の異性観は「恋愛の純粋さ」が追求されたものであった。本能的な肉欲に追求よりも、肉欲を殆ど相手にせず、精神面に於いての純愛ストーリーを誰もが支持していた。

 ところがそれから20年も経たないうちに、純愛から肉欲への愛に変る風潮が生まれ、いまや日本だけに止まらず、韓国でも台湾でも中国でも、あるいは東南アジア諸国でも、肉と愛情を絡ませる肉体的情熱を主体とする恋愛遊戯が常識化される風潮を生んだ。そして、愛すると云うことは肉体を交わし異性関係に繋がることが、真の愛情などと言い出したのである。
 また、女は男の、「やりたい一心の欲望」に報いることが恋人同士の仲のように考えられるようになった。

 こうした風潮は早い時期方肉体関係を持ち、それは健全な肉体を持つ男女なら当然と云う考えをつくり出したのである。愛情の深さは、肉体的な関係を問題にするようになったのである。



●ダフニスとクロエ

 古代ギリシャの田園詩に基づいて創作された『ダフニスとクロエ』は、山羊(やぎ)飼いの若い男女、ダフニスとクロエの、無邪気でいかにも牧歌的な素朴な愛情をテーマとして繰り広げられる。
 この『ダフニスとクロエ』は、紀元2〜3世紀頃のギリシアの小説家ロンゴスが書いた純愛小説である。

 小説の舞台となったのは、エーゲ海に浮かぶレスボス島である。この島は美しい運河に囲まれたミティレーヌの街で話であり、山羊飼いラオモンに育てられた美少年ダフニスと、羊飼いドリュアスに育てられた美少女クロエが、数々の試練や困難に立ち向かい、最後にめでたく結ばれるというストーリーとなっている。

 ある日のこと、山羊飼いラオモンは常春藤
(きづた)で覆われた叢林(そうりん)の中に、一匹の牝山羊から乳を飲んでいる可愛い男の捨て子を発見するのである。その子どもは、立派な産衣(うぶぎ)を着せられていた為、実に捨て子らしからぬ風体だった。産衣を着たその子どもは、金のホックの付いた緋色(ひいろ)のマントを纏(まと)い、まるで王侯の子どものような恰好をしていた。更には、直ぐ傍(そば)に象牙(ぞうげ)の柄(つか)の短剣までが置いてあった。

 ラオモンはこの子どもを拾って帰り、ダフニスと云う名前を付けて育てることにした。そかれら2年ほどが経って、やはりこの村に棲
(す)むドリュアスという羊飼いが、洞穴の中に捨てられた女の子を見つけた。この子の傍には、金で編んだ帽子や、金で塗られた木靴が置かれ、更には靴下が置かれていた。ドリュアスはこの赤ん坊にクロエという名前を付けた。

 ダフニスとクロエは、それぞれの養い親の許で育てられ、二人とも立派に成長していくのである。同じような境遇の許に育った二人は幼児期より仲良しで、一緒に山羊
(やぎ)の番をするようになったのである。
 自然の中に育った二人は、自然のままに成長し、しかし、相思相愛の関係の心を持つようになったが、愛や恋と云うものは誰からも教えられることはなかった。それにも係わらず、本能的に二人はお互いの肉体の持つ美しさに惹
(ひ)かれ、そこの恋愛感情が芽生えてくるのである。

 ある日のこと、ダフニスは山羊を追っているうちに穴に落ち込み、泥だらけになった衣服をクロエに渡し、汚れた躰を泉の中で洗っていた。水浴をしている青年の体躯を持つダフニスは、陽の烱
(ひか)りを受けて、キラキラ輝いていた。この時、クロエはダフニスの肉体を美しいと思うのである。彼の髪は黒檀(こくたん)のように黒く、もし彼が見ていなければ、その肌に触れたいほどだった。この日を機に、クロエの気持ちは彼に動きはじめるのである。

 この時のクロエの気持ちは、次のように記されている。
 「レスボス島のミティレーヌの田舎で養育された彼女は、自分の心中に沸き起こったこの感情を、何と云うか、その名が分からなかった。彼女にはこれまでの人生の中で、“恋”という名のものを知らなかった。ダフニスを泉で見た時から、一日中食事を摂らないこともあり、また一晩中眠らない事もあった。彼女は夢想の世界に陥り、次のような独り言をいうのであった。
 “ダフニスはきれい。あの耀やきは花のようだ。あの人が唱
(うた)うとき、それは鳥のようだ。ああ、わたしには何故、彼のような笛がないのだろう。笛ならばあの人の唇に触れることもできように。そして、何故、わたしはあの人の仔山羊(こやぎ)でないのだろうか。もし、あの人の仔山羊ならば腕の中に抱いてくれように!”」とある。

 このような心の悩みはクロエだけではなかった。また、ダフニスも同じような悩みを持っていた。
 ある日、彼はドルコンという友達と、クロエとの接吻
(せっぷん)の賭(か)けをして、自分達二人のうち、どちらが美しいか論争をした事があった。その論争に勝った彼は、はじめてクロエの接吻を受けたわけであるが、その日から彼は、まるで毒に刺されたような心の痛みを受けるのであった。

 時には悲しみが襲ったり、無性に寂しくなったり、溜息
(ためいき)をついてばかりの日々が続いた。そして彼女のことを思うと、切ない気持ちが襲って来て、分けの分からない身顫(みぶるい)が襲うのだった。
 クロエの前に出ると、今までに覚えのない恥ずかしさが襲ったり、心の動揺を感じるのであった。そして、彼もまた、次のように独り言を呟
(つぶや)くのであった。

 「ああ神様。クロエとの接吻はどのような働きをしたのでしょうか。あの娘の唇はバラのように優しく、いい匂いがして、その口は蜂蜜のような甘さを持っていた。私の胸ははち裂けるばかりです。酷い動悸に襲われ、脈が波打ち、心はますます悩みを募らせるばかりです。しかし、また彼女と接吻をしたいと願っているのです。そして、この苦しみが何なのか、私には分からないのです」

 ダフニスとクロエは、なぜ自分達がこのように悩むのか、また、なぜ心が苦しいのか理解できないでいた。自然児である二人は“恋”という名も知らず、その存在しら知らなかった。
 『ダフニスとクロエ』の小説の面白さは、恋愛の存在も知らず、自然の中の素朴な二人が、次から次へと湧き起こる恋愛感情の中で翻弄
(ほんろう)されながら、悩まされる点にある。また、心でお互いに悩みながら、それを二人はどう処理していいのか分からないのである。況(ま)して、恋愛の技術や愛撫すると云ったことを知らない為に、不幸にしてその心理に弄(もてあそ)ばれるのである。

 しかし、ある日、彼等はいつものように山羊の番をしながら遊び戯れている時、大きな外套
(がいとう)を纏(まと)い、木靴を履き、古びたパン袋を下げ、毛皮を着た一人の老人に出合うのである。この老人は二人に「アムール(amour)」と呼ぶ、愛の神の話をするのである。

 老人が云うのには、「本当の心を癒
(いや)してくれるのは……」という語りから始まり、「それは歌でもなく、話でもなく、魅了する力や薬でもなく、ただ抱擁(ほうよう)と接吻、そしてただ裸で一緒に寝ることだけである」というのだった。

 この老人の言葉を聞いた二人は、自分達の悩みをその話に照らし合わせ、はじめて今の心の悩みが恋であると知るのである。彼等二人は老人の言葉通り、野原で腕を組み合わせ、しっかりと抱き合ってみた。しかし、最後の癒
(いや)しである、「裸で寝る」ということには流石(さすが)に身が退けたのである。「裸で寝る」という行為は、彼等二人には余りにも大胆であったからだ。

 その癖、次の夜になって、自分達が最終的に遣
(や)るべき「裸で寝る」という行為をしなかったことが悔やまれ、その夜をお互いは静かに過ごすことが出来なかったのである。

 彼等はお互いに反芻
(はんすう)する。
 「私たちは接吻をした。しかし結果は何事もなかった。私たちは抱擁した。しかし何も私たちを癒してくれなかった。では“一緒に寝る”ということが、恋愛の唯一の解決法だろう。それではこれを試してみなければならない。それには、接吻などとは違う何かがきっとあるはずだ」

 しかし、「一緒になって裸で寝る」ということが、彼等二人にはどうしても出来なかったのである。また、「裸で寝る」という具体的な方法すら知らなかったのである。それを口に出すことも、憚
(はばか)られたのである。
 この小説は、二人が時には命にも係わるような事件に遭遇したり、暫
(しばら)くの間は別れ別れになったり、こうした波乱万丈の運命を辿りながら、最終的には結婚をすると言う結末に至る。

 さて、『ダフニスとクロエ』の恋愛小説の妙味は、もともと自然児であるダフニスとクロエが次第に性に芽生え、性について様々なことを学び、最後は「結び合う」という点に落ち着くことである。

 フランスの小説家で、写実主義文学の代表的存在と称されたフローベール
Gustave Flaubert/生来のロマンチックな心情と文体・形式の完璧さへの願望を結びつけた作品を書いた。著書に『ボヴァリー夫人』『サランボー』『感情教育』『聖アントワーヌの誘惑』など。1821〜1880)の著書に『感情教育』という小説があるが、この小説にもじって云えば、牧歌的情景を折り込んだ『ダフニスとクロエ』は、性教育の小説であると言えよう。しかし、その一面に於いて、ギリシャの田園風景を謳(うた)い、そこに登場する若い男女の恋物語は、性的な芽生えからはじまっているが、決して読者を卑猥(ひわい)な気持ちにさせないのである。

 愛の神を人間に反映させ、ダフニスとクロエの恋の苦しさを取り除く為に顕われた老人は、その解決法として、「裸になって一緒に寝ろ」と奨
(すす)めるのである。また、この奨めに応じて、無邪気にそれを実行するダフニスとクロエも、その心は純真そのものである。一点の濁りもなく、少しも卑猥さを感じさせないのは、二人の恋愛が不純さから起るものでなかったからだ。

 彼等二人は、人生の酸いも甘いも噛み分けた年寄りから山羊の飼い方を教わり、葡萄の植え方を教わり、病気の治し方を教えてもやう素直な率直さで、「性」についてもそれと同じように教わり、そして学ぶのである。



●愛と性欲は違う

 しかし、この物語は、単に二人の若い男女の物語だけではない。やがてダフニスはセニオンという中年女から、テクニック的な性の技術も学ぶである。
 セニオンは、愛の手解きと称して「本当の性技」を教えるとしながらも、実は巧妙な騙しの術策でダフニスの童貞を奪うのである。その後、ダフニスはセニオンから習った性技をクロエに、同じ遣り方で為
(な)そうと考える。

 しかし、やはり何処か訝
(おか)しいと思うのである。どうしても結婚してない男女が、接吻と抱擁以外、それ以上のことはしてはならないと思うのである。その上、ダフニスは男女が絡み合って、クロエに動物のような叫び声を発する嬌声を挙げさせようとは思わなかったのである。

 また、彼女の感情を害するような泣かせる真似とか、すすり泣きをさせる卑猥なことは到底やらせることは出来なかったのである。況
(ま)して、結婚もしてない男女が、処女を奪うようなことは出来なかった。自分の性の欲望の為に、女を襲うような形で出血をさせると云うことは到底出来なかったのである。
 更に彼は、女をそうした形で奪うように襲い出血させるという血の恐れを抱いていた。自分の大事なものを痛々しく傷つけられなかったからである。

 ダフニスは、結婚もしてない女に出血させるということは、傷を負わせることと考え、これは一種の障害罪であり、人間としてあるべき姿のものでないと考えていた。自分の欲望を充たす為に、愛しいものを傷つけても良いのだろうかと言う疑問を抱いた為である。その上、結婚もしていないのである。

 昨今は、男が女と寝ると云うことは、「愛の一種」と表現するが、「寝ること」イコール「男女の欲望」以外何ものでもなく、ここに愛に形があるのか否か、甚
(はなは)だ疑問である。そしてダフニスが中年女から教わった、男女が寝ると云う性技は結婚前には必要ではなく、「愛」の名をもって女の処女を奪い取り、出血させて傷つけるのは、果たして人間の遣(や)ることかと思うのである。動物の人間の違いは、「愛」という名で、自分の性欲を充たす為に、出血させる行為で無理矢理に奪い取ってはならないと云う事であった。ここにダフニスの誠実感があり、ある意味で、武士道を思わせる、人間としての至誠があるのではないかと思う。

 つまり、「愛」とは、必ずしも性欲を充
(み)たす為に、男女が絡まり合う必要はないと言う、「健気さ」であった。
 昨今は、進歩的文化人等が掲げる「愛の定義」が、「男女が愛の名をもって絡まる」ということであるが、この行為は愛よりも先に、性欲が優先しているのである。特に、男側の性欲が甚だしく、結婚もしてない男女が不当にも自分の性欲を充たす為に、絡まって寝るということは、その「出血させる行為」自体が不当なるもので、これを決して愛とは表現できないだろう。むしろ、愛の名を語った欲望達成の為の不当なる行いと云わねばならない。

 したがって、ダフニスがクロエを抱いて、更に肉体的な一線を越えて出血させると云う行為は、動物は別にしても、人間の場合、結婚してない男女が絡み合い、性欲を充たす為に出血をさせると云う行為を、適当と感じるのか不当と感じるのか、この境目で大いに悩み、迷うのである。

 では、なぜダフニスは悩み、迷ったのであろうか。
 それはむしろ人間としての悩みであり、迷いではなかったかと思う。つまり、相手側への尊厳であった。愛しい、大事なものを自分の性欲を充たす為に、軽々しく傷つけてはならないと云う考えからであった。ダフニスはクロエが「性」というものに、罪の意識も、暗い後ろめたさも全く以て居なかったからである。はっきり云えば、無垢
(むく)であり、穢(けが)れが一切なかったからである。

 更に、ダフニスはクロエを観
(み)て、ギリシャの青空に映(は)える桃金嬢(てんにん‐か)のように、澄んだ眼でセックスと云うものを眺(なが)めていたのである。桃金嬢はもともとは東南アジアに分布するフトモモ科の常緑低木で、日本では沖縄に自生する植物である。
 葉は長楕円形をなし、革質で下面に短毛を密生する。夏は葉腋に淡紅色の五弁花を開く美しい植物である。紫色楕円形の果実は食用となり、この植物を漢名では「桃金嬢」あるいは「天人花
(てんにん‐か)」という。この「天人(てんにん)」の名からも窺(うかが)えるように、天界に住む神々であり、女性の場合では天女を意味するものである。それはまた清らかさの象徴でもある。

 一方、クロエにしてみれば、ダフニスの裸体を彼女が泉の傍
(そば)で観た時、水に濡れた彼の躰は陽の烱(ひか)りを浴びてキラキラと赫(かがや)き、これを実に美しいと思ったに違いない。こうした赫くものに触れてみたいと思うのは、人間の性欲から起るものでなく、ごく自然に感じる健全な行動から起る衝動だろう。ここに卑猥(ひわい)は存在しないはずである。決して淫(みだ)らな欲望からではなかった。
 つまり、人間として起る衝動であり、例えば美しい花を見れば、その花の匂いをかいでみたいという、ごく普通の、自然の中から起る衝動である。

 ダフニスが、かつて老人から教えられて、心の苦しみや痛みを解決する方法として、緑の草原の上に寝転び、抱き合って接吻をするなどの行為は、成る程と思えるところがある。この行為自体は、密蜂が花を慕う行為と酷似し、むしろ自然であると言えよう。

 しかし、昨今は「愛」の名が性欲に摺
(す)り替えられ、「肉欲」に摺り替えられている。そこに存在する肉欲の実際は、賤しい、穢らわしい、純粋なる恋愛を気づけつけるようなものばかりが「愛」だと定義しているのである。

 『ダフニスとクロエ』の、小さな牧歌的な物語は、一見、遠い、現代人は全く失ってしまった夢のような、お伽話
(とぎばなし)にも感じられる。しかしこれは、決して古代ギリシャの昔話ではないはずである。ただ現代人が、性的意識を歪められている為に、今では全く気付かなくなってしまった、「人間は自然界の一員である」というこの事自体が、今日の暗くて卑猥な性交遊戯と結びつかない為である。あるいは無差別に誰とでも寝る、スポーツセックスと結びつかないからである。

 『ダフニスとクロエ』の物語は性と言うものが昏
(くら)い影も帯びず、罪の匂いも漂わせず、実に延び延びとした明るさと無邪気さが存在していたからである。そして、重要なことは、この時代の性は大自然と倶(とも)にあり、性が歪(ゆが)んでもなく、実におおらかであったと言うことを顕わしている。

 ところが時代が下がるに従い、ヨーロッパではキリスト教が、東洋では仏教や儒教が、人間の肉からこの無邪気さを奪い、一握りのひねくれ者の宗教者によって、人間の肉に罠
(わな)を仕掛けたものかも知れない。その頃から人間の肉は無性に汚らしいものになり、「迷いへの罠(わな)」となっていくのである。
 それが現代では、宗教が堕落し、人間が精神的に墜落している現実では、人間の肉が穢
(けが)れ始めたのは、人間自身のもつ観念の摺(ず)れから、「迷いの罠」に捕らえられたと言えよう。
 これにより、人間の肉は一挙に牧歌的物語の存在から、卑猥で、肉の塊
(かたまり)で、無性に精力を消耗する、男女が浪費する世界へと投げ出されたのである。

 人間が高い山の山頂から転落して、谷に堕
(お)ち「俗人」と称されるようになったのは、この為であろう。
 東洋では、高い山に棲む人を「仙人」と云う。一方、高い山とは無関係なところに棲
(す)み、谷間に堕ちた人を「俗人」と云う。
 したがって、仙人の思想とする「性」と、俗人が夢想する「性」とは根本的に違うようだ。更に「愛」の概念も違って来よう。仙人は愛を清きもの捉えているようであるが、俗人は肉の塊と捉え、卑猥なるものと捉えて、これを「愛」などと称して、似ても似つかぬものに隔ててしまっているのである。



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