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相術と八門古典物理学 4

城塞型の山城・岐阜城。



●城攻めと城壁

 攻撃と守りの比率比は、約3:1の関係である。
 城攻めをする場合、最低でも城兵の約三倍の兵力を投入せねばならないのである。これは城塞
(じょうさい)攻撃の原則である。
 一方、城攻めする地域が一種の都市型国家形体をなしている場合、攻め手の勢力は三倍でも不足する。

 古代中国の都市型国家は、まだ城に壕を巡らす技術が欠けていたため、それだけに一旦城壁を包囲しても、二重三重の縄文を重ね、それが複数化していたために、それぞれを破壊するために攻める側は籠城の兵よりも三倍以上の兵力が必要であった。

 仮に外側から城壁を取り巻いたとしても、その間、城壁上から、投石や石弓といわれる弩弓
(どきゅう)などが降り注ぎ攻め手の侵入を阻むのである。城壁に窓が開いたように等間隔に置かれた小窓は銃眼の役目を果たし、そこから矢を射るのである。正攻法で真正面から闘った場合、攻め手は相当数の被害を被ることは必定であり、城攻めは容易ではなかった。
 更に城攻めの場合、城壁の高さであった。規模の大小に拘
(かかわ)らず、城壁が高い場合、攻め手は難儀を強いられる。

 また、城内を守る兵の意識の問題もある。
 大軍に取り巻かれれば、いよいよ堅く守らねばならないという意志堅固が生まれる。抵抗を露
(あらわ)にする。ここに攻め手の攻城戦にこだわる愚行があった。
 それに正面攻撃である場合、難事は眼に見えていた。攻城戦の殆どが、大軍を投入しての一大消耗戦になったのである。

 そこで虚をつく。手薄な時期を突く。奇襲戦法を試みるのである。
 普通、平時の場合は守備兵は手薄である。
 平時に置ける守備兵は、城の周りを巡回する宮闕
(きゅうけつ)の衛兵や、城門警護の番兵くらいであり、強兵というのは戦意の昂揚から起こるもので、普段は存在しない兵である。戦時になって決意を新たにするのである。そこに至って戦意を滾(たぎ)らすのである。激しい怒りを持つのは、いよいよという時期になって初めて芽生える。

 日常に戦意は生まれない。非日常になって初めて戦意が生まれる。
 況
(ま)して、包囲されてもおらず、また籠城策も持っていない場合、具体的な計画はないのであり、これを別の角度から見れば、まさに“空家”なのである。
 城攻めは、この空家を攻めるのが得策とされた。つまり奇襲戦を試みるのである。

 「城を毀
(こぼ)つ」という言葉がある。
 これは戦闘が起きる気概を失わせ、士気を削ぐのである。あるいは不戦論に持ち込んで、反戦に傾け戦闘意識を和らげるという意味も持つ。守備の武装兵を出来るだけ解除して、武器を遠ざけ、内面からは反戦に傾けておいて、裡側
(うちがわ)から城壁を叩き壊す工作をすることである。
 一口に「城を毀
つ」というが、これは戦によって消耗戦を企てることでもなく、また単に城を屠(ほふ)るのでもなく、戦闘意識を削(そ)ぐとともに、城壁を裡側から破壊して行くのである。無防備にさせるのである。

 その不戦論の象徴が、「城を毀
つ」ことであった。
 城壁を失えば籠城戦が不可能になる。守備兵は必要なくなる。居ても意味をなさない。丸裸になってしまうからである。

 そのために国内の輿論
(よろん)を多数に分裂させる。意見の一致を見させない。複数意見に分裂させる。自己主張を露(あらわ)にさせる。悪しき個人主義に奔らせる。エゴイズム同士を戦わせる。我田引水の構図を作る。そして、中心に纏まるものを作らせないように世相工作するのである。このために工作員を送り込む。

 中国大陸などでは、国を守る城とは、集落、村、町などの方形で囲んだものをいい、城とは「都市国家」とほぼ同じ意味を為
(な)すものである。国家の領土とは、城壁で都市中心部や家々を鎧兜(よろいかぶと)で武装した物を言うのである。
 したがって、これが外されれば外部からの攻撃に対しては丸裸状態で、裸身で向かうのも同然となり、実に脆くなるのである。

 つまり城壁を破壊されると言うことは、都市国家の中心軸が失われ、機能は無能化され、国家としての求心力は忽ち失われてしまうのである。
 人類に文明が起こって以来、文明人は単に平坦なる曠野に家を密集させただけの場所を文明国家としたのではない。曠野に幾くら家を建てたところで、またそれが密集しているからと言って、都市国家の様相とは言えない。それだけでは危険この上もないからである。

 市民社会の原則は、防衛態勢が完備していて市民は都市国家の一員となることが出来るのである。
 しかし、平和はヒステリックにシュプレヒコールで約束されるものでない。
 況
(ま)して人間には、人は、幾ら自由で平等と言い張ったところで、そういうものは絵に描いた餅に等しく、危険は言論で解決させるものでない。不履行されたり破談にされればそれまでである。

 そして人は、平坦な土地が何処までも広がって棲むに善き環境があって、ライフラインも完備されていて、それが曠野に密集しているからと言って、そう言う場所に棲みたいと思うだろうか。
 城壁のないところには棲みたいとは思わないのである。他民族が攻めるの好都合であるからだ。こう言うのを裸同然と言う。
 つまり、城壁を壊せば、要
(かなめ)を失い、仮に密集した集落があっても、直に人は去ってしまうからである。



●古典に学ぶ現代城壁論

 私たちが生きている社会を「近代市民社会」と言う。都市機能に組み込まれた市民社会のことである。
 この定義からすると、市民とは何かと言うことになり、更に市民と、ただの人間を比較した場合、一体どこが違うのかと言うことになる。

 人間は本来自由であるべき筈であるが、しかしその自由は、制約下における自由である。
 市民社会では法律に従わねばならない。自由奔放は許されない。法の範囲で自由なのであり、法に抵触すれば忽ち自由は奪われる。拘束され、蹂躙
(じゅうりん)される。
 ゆえに市民社会では法律に従い、その監督下で生活を営んでいる人を市民と言う。

 つまり、「法の支配」の中で生きていることになる。
 特に近代市民社会では、民主の名において自らで社会のリーダーたるべき指導者を選び出し、またその指導者によって制定された法律に従い、運営されている社会を近代市民社会と言う。

 では、何のために法律が必要かと言うことになる。
 人とは、如何なる生き物かと言うことを上げた場合、おおよそ人間は有史以来、揉
(も)め事や諍(いさか)いがつきものであり、これは大きく発展すれば紛争へと繋がるものである。

 紛争が起こった場合、その解決策として、腕ずくで暴力で解決してしまう社会もあれば、話し合いで、交渉人や仲介者を介して解決する社会もある。
 しかし、話し合い解決法を選択した場合、話し合いによって巧く解決できるとは限らない。
 何故なら、相手方の「聴く耳」を持つか否かに掛かり、教養なども含まれる。これか欠けていれば、むしろ逆に拗
(こじ)れて、両者の溝が深まる場合もある。理解不足から拗れに拗れ、また歴史背景や気候、風土、習慣、民族性にもよる。
 話し合いにより、交渉により、それで紛争が解決できれば、これに越したことはない。それがベストだ。

 ところが、紛争の根元には根強い怨みや憎しみが籠
(こも)っているものが少なくなく、禍根や遺恨は、中に交渉人が入ったからと言ってそれで総て巧く行くとは限らない。

 話し合いで巧くいく場合は、その多くが顔見知りである場合である。
 例えば、村紛争で、村人全体が全員顔見知りであり、このように小さな社会であるのなら未
(ま)だしも、意見が分裂するような大きな社会である場合は、全員一致の協力が得られないときは、交渉結果もさまざまに分裂し、殆ど協力を得ることは難しくなる。

 そこで近代社会では、法治国家の形態を採
(と)って、人々の紛争を法律に照らし合わせて法による解決を求めた。
 法律に解決を求めるなら、弱い者でもその主張が正しければ、解決の糸口は掴めるからである。自らの権利を保護してもらえるからである。
 近代社会では市民社会の構成員は、市民と市民の関係として法に定められている。つまり、法治国家では市民同士の紛争は最終的には裁判で決着がつけられるようになっている。法に照らしてどちらが正しいか、判断を決する裁判所を有しているからである。

 そして、こうした「法による支配」が確立されている市民社会では、人間と人間の諍いに、個人間の暴力が介入してはならないと定義されている。
 また、不法行為や不合理な支配関係も不可であり、そういう私的なものは介入してはならないことになっている。つまり、市民とは一人ひとりが尊重されるべき存在で、一度尊重されれば、人民の尊厳は国家と雖
(いえど)も決して犯してはならないのである。

 そこで、この運営に当り、市民社会では暴力装置を一ヵ所に集中させたのである。それが「国家」という運営体である。
 国家は物理的実力と言う暴力を一手に独占する。そして暴力が行使される場合は、100%法に基づいていなければならない。
 国家は暴力を集中し、法をもってコントロールする。これは市民社会の大原則である。
 更に、国家は市民が集まって、市民のために意志決定を実行する権力機関である。
 また、国家が一方的に市民の自由や権利を犯しては困るので、その歯止めを掛けるために、まず憲法を制定した。憲法を基準にその他の法を設定し、行き過ぎなどを第三者の目で検
(み)て、抑制し、コンロロールしようとした。これも「法の支配」と言われる。

 この支配を、古典に学べば市民社会では、国家は必要な場合を除いては、市民に一切の感傷をしない方が適切であり、ただ最小限度に留めておき、こういう国家を「夜警国家
(Nachtwachterstaat)」と称した。
 これは国防や治安、それに若干の公共事業など、必要最小限の夜警的な役割を果たすに留
(とど)まる国家をいい、それに代わって福祉や文化における国家の積極的役割を強調したラサールFerdinand Lassalle/ドイツの社会主義者でヘーゲル左派として知られる。全ドイツ労働者同盟を組織、その初代総裁となる。賃金鉄則を唱えて、労働者の窮乏を訴え、国家を労働者の解放に利用しうると考えて、夜警国家を例に上げ、また国家社会主義を唱えた。1825〜1864)が、自由放任主義の国家を批判して用いたことで知られる。

 しかし、これらを論
(あげつら)ったことで物事は簡単には納まらない。
 それは過去の禍根や遺恨のみならず、人間には欲望と言うものが何処までも付き纏うからである。
 有史以来の人間の歴史を考えれば明確になろう。
 人間には、「支配する側」と「支配される側」に区分される。
 これは市民社会を営んでいる現代でも同じである。交渉人の調停のみで解決できるものは、ごく限られたものだけである。

 双方の主張やそれぞれの言い分においては、その白黒判定は裁判所に委ね、あるいは交渉人の巧みな弁舌によって丸め込むことが出来ようが、その禍
(わざわい)が感情の根に依存する場合は、思うような、あるいは意図するような解決策を見出すことは難しく、事実、支配する側は少数でありながら圧倒的な力を有し、一方支配される側は大多数であるが無力である。これはいつの時代も変わりがない。
 そして権力は、通常、一度打ち立てると簡単には倒れないものである。

 これは国家であれ、組織形態をもつ企業であれ、あるいは特定の目的をもった宗教団体のような信仰集団であれ、それが崩壊する時は、まず対外的には強大なライバルが顕われて、その生存と存亡において戦いに敗れた場合と、更にもう一つは、内部から腐れ始めて運営が疎外される状況に至った場合である。こうした場合、明治維新からも分るように徳川幕末期は内部の根腐れから倒幕運動に繋がり幕府は崩壊した。
 また、極端に国内に不況と失業者が溢れ、景気動向が先行き見えない状況に至れば、その立場の逆転を狙って革命が企てられ、無政府主義に徹する輩
(やから)が現れて、現体制を崩壊させる。これが革命と言う、人民の名を借りた内紛である。

 そしてこれらの現象をよく観察すると、必ず何処に人間の欲望が絡んでいることが分る。
 民族間でも国家間でも、また企業間でも、至る所に人間の欲望が見て取れる。
 これを阻止するために支配者は、そうはさせじと防衛に廻り、その地位を長く保ち続けることを企む。また富が独占したければ、この欲望は一層露になる。
 この体制に対し、転覆を企てる方は、立場の逆転を狙って、打倒に執念を燃やす。詰まるところ、根底の原動力は欲望に他ならない。斯くして双方が死闘を演じることになる。

 近代社会において、富の形成は金銭オンリーではない。金銭の裏付けとなるものを必要とする。そのためには先ず資源や食糧が優先的となり、次に貴金属や工業製品であり、更に労働力や領土なのである。そして支配者の潜在的欲望意識が濃厚な場合は、支配する領域のみで満足は得られないであろうから、自国の長い期間を掛けて経済成長を促すよりは、もっとも手っ取り早い方法としてしばしば軍事力を駆使して近隣諸国の領土に攻め入り、民族や国家を服従させる。
 この手法で富を収奪する方法が手っ取り早く、また効率的でもある。総て人間の欲望の為せる技である。

 古代から現代に至るまでの戦争の歴史は、これを何よりも雄弁に物語っているのではないか。
 そして戦争メカニズムの裏には、人類史を振り返れば、おおよそ十八世紀後半頃から、一つの流脈により人工的に誘導された形跡が否めない。
 時代的背景には特定の目的と意図を持った隠微な集団が居て、この集団が走狗となって水面下を暗躍した。この場合、先ず取り憑くターゲットは防備の甘い、手薄なところに狙いを付けて潜入してくる。まさに「猟りの構図」である。

 日本のように四方を海に囲まれた国以外のユーラシア大陸やヨーロッパ大陸では、狩りをする狩猟民族の巧妙な戦略で、国家間の鬩ぎ合いがあった。そのために内部警察機構の機能が有効に働く運営方法が用いられてきた。
 侵略並びに侵害する者を国家は厳しく取り締まる。それは市民の場合も同じであった。工作員だけでない。工作員が市民に化けたり、市民が戦争されて買国行為を働くこともあるからである。この機能を果たすのが警察である。

 また国家は、外部勢力に対しても監視する眼を怠らなかった。これは日本の比ではない。
 則ち、タテマエは国家が外部勢力に対して市民社会を守るという機能であり、侵害者の排除と取締を強行する。
 外部から侵略者が侵入すれば、これまで市民が貯えた富は掠奪され、市民は生命の危険にも曝
(さら)される現実を招くからである。市民社会の平和な日々は著しく疎外されるからである。

 折角築き上げた財産でも、対外暴力が侵入すれば、市民社会は滅茶苦茶になり、市民の生命は危険に曝されることになる。
 こうした侵攻は、組織的なプロ集団に懸かれば、これまでの警察力では太刀打ち出来ない状況が生まれる。そこで、平時からプロを養成しておくのである。そのプロが戦争職人である。戦争職人が市民に変わって万一に場合、市民社会を防衛するのである。この機能を果たすのが、戦争職人と言う軍隊である。

 市民社会を平和に営んで行くには、必ず警察と軍隊が必要になる。これが貧弱だと必ず攻め込まれる。市民社会を平和裡に秩序と安全を維持したければ、この二つがどうしても必要になるのである。
 そして近代市民社会を形成する国家とは何かとなると、市民が自分達の責任において、社会を安全に平和裡に運営して行こうと思えば、国家の言う機能は必要不可欠であり、その責任を果たすためにも、警察と軍隊は無視出来ない存在なのである。
 これは、古代の城壁論と酷似するのである。


つづく…



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