運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
相術と八門古典物理学 1
相術と八門古典物理学 2
相術と八門古典物理学 3
相術と八門古典物理学 4
home > 相術と八門古典物理学 > 相術と八門古典物理学 3
相術と八門古典物理学 3

八門遁甲は築城の技術に生かされる。高松城天守閣。


●山鹿流兵学

 山鹿流兵学は吉田松陰が学んだ流派として有名であるが、この流派は単に戦術を専門的に体系化した流派ではない。
 正式には「山本勘介流」とも謂
(い)われるこの流派は、開祖山鹿素行が『甲陽軍鑑』を骨組みにして構築した兵学であり、素行が北条氏長から学んだ甲州流兵学に端(たん)を発している。

 山鹿流の特徴は合戦に於ける戦術に止まらず、武士の道義的行動までを指摘し、一つの武士道の世界をつくり上げている。この道義的行動とは、武田信玄が常に合戦に於て、「六分の勝ち」を求めたように、「皆殺しの戦法」を戒めた意図が貫かれていた。完全な勝ちではなく、敵に40%の余力を残した、60%の勝ちである。六分でよしとしたのである。
 人間の心理から考えて、皆殺しは怨みを買い、禍根
(かこん)を残すことになるからである。

平戸城天守閣 平戸城城壁

 だが、やはり合戦は非常なものであり、特に、些(いささ)かの余裕を与えて勝ちを得る戦いは、智恵を巡らせた戦略と戦術が必要であった。
 合戦兵学によれば、優位な場所に位置して、そこから攻め込み、然も多勢の敵に臆病風を吹かせ、敗走させるような事態が起こりうる「日取り」の計算を割り出す「日取り決め
(年・月・日・時・分・秒)」がある。これを八門遁甲では、《軍立》という。

 その日時を、戦略占星術の七曜、九執、十二宮、二十八宿に分類し、天球を八つに分け、一宮に三宿を割り振り、外円の二十四宿に二十八宿を振り分け、複雑な計算式から割り出して、充分な作戦を立てるのである。これに日本式の兵学では《真言九力
(真言十力の中の九つの法力で、九九・八十一の碁盤の目の中で戦う術)》が加わる。

 もし、この軍立に従って戦うとしたら、敵側の君主の命を暴き、それに纏
(まつわ)る弱点的な事柄と方角を探し出し、決戦場所を決定する。そして宣戦布告した後、決戦場所で特殊な陣形を組み、敵を迎かえ撃つ。これが一旦行動を起こさせば、猛烈な奇襲戦法となるのだ。

 少数勢力が大勢の敵と戦うには、こちらが特殊な陣形を組んだ撹乱戦術を中心とした陽動作戦に出なければならない。迎かえ撃つ側の機動力にも富んでいなければならない。この特殊な陣形を《八門遁甲・金鎖之陣》という。

 この陣形は独特なもので、兵士の隊伍を整える一般的な「鶴翼之陣」等に代表されるものではなく、八方を同じ隊形にして何処が本陣であるか分からなくする陣策が凝らしてある。つまり同じように見える八方に構えた陣は、各々に粗密があるのである。
 したがって、これを攻める方は、味方を八方向に割いて、同じように八方の陣に割当てなければならなくなる。粗の部分は攻めても容易に勝つことが出来るが、密の部分は苦戦を強いられる。

 うっかり密の部分に大将が攻め入れば、部隊全体は命取りともなり兼ねない。このような戦略戦術上の理が『甲陽軍鑑』には記されている。
 『甲陽軍鑑』そのものは、武田信玄、勝頼親子が二代に亘って、治績、刑政、戦争、戦術、戦略構想、論功行賞等を纏め上げた兵学書であり、武田信玄の軍師であった山本勘介
やまもとかんすけ/山本勘助とも言い、この人物は架空のものでないとする説と、大内義隆に仕えたという説がある)が、この書物に軍学の才を買われて名軍師として登場している。
 山鹿素行
(会津の人。名は高祐、甚五左衛門と言う。1619〜1686年)が自らの流派を「山鹿流」と謂(い)わず、「山本勘介流」と名乗ったのは、この辺に由来しているのであろう。

 また、山鹿流の特徴は、単に戦術に重きを置いた軍学ではなく、戦乱の世から離れてしまった武家社会に於て、本当の武士の生き態
(ざま)とは如何なるものかを探究し、武士道精神を啓示した特異な流派でもあった。山鹿流の精神には、戦術を教える『武教全集』と技術面の部分を除けば、『葉隠』にも共通した箇所があり、武士の道義的心得が貫かれていた。

 【註】江戸期に著された「士道」と「武士道」は、根本的な思想が異なるので注意。「士道」は主人が無能ならばその許(もと)を去り、二君に仕えても良いとしているが、「武士道」儒教思想に裏づけられて大成、封建支配体制の観念的支柱をなし、二君に仕える事を武士の踏み行う道に非ずと戒め、主人の無能は家来の力量でこれを解決すべしとしている。「士道」は戦国時代の「もののふ」の心構えを説き、「武士道」は忠誠を中心にした、犠牲・信義・廉恥・礼儀・潔白・質素・倹約・尚武・名誉・情愛などを重んずることを説いている。

 素行は元和八年
(1622)に生まれた。父山鹿六右衛門貞以は、々関一政の家臣であったが、同輩を斬って会津に立退き、町野長門守幸仍(ながとのかみゆきなお)の食客であった。母は蒲生(がもう)家の臣、岡左内の一族岡備中守の女であったが、父六右衛門貞以は彼女を妾(めかけ)にして、その二人の間に生まれたのが素行であった。

 素行は幼少より朱子学を学び、更に小幡景憲
(おばたかげのり)に甲州流兵学を学び寛永十九年(1643)に印可を受けたが、やがて当時の官学であった、朱子学に強い疑いを抱くようになる。これが朱子学を批判した『聖教要録』だった。
 そして、次に目指したのは孟子の教えを直接取り込む、古文辞学的な方向で、儒学と兵学を融合させようと図ったのであった。

 しかし、これが後に幕府の怒りをかい、播州赤穂
(ばんしゅうあこう)に流刑されている。浅野家は約十年に亘り、素行を優遇し、この地で彼に兵学の教育に当たらせている。赤穂義士の武士としての精神土壌は、この素行の山鹿流兵学によって培われたものである。そして、この研鑽は、「武教要録」「配所残筆」「山鹿語類」「中朝事実」「武家事紀」などに著され、特に有名なのが『配所残筆』や、朱子学を排した『聖教要録』である。

 『配所残筆』には、「我等儀凡下之者、殊更無徳短才、中々、御歴々之御末席え出座候者に之
(こ)れ無く候所、幼少之時分より似合に人も存(ぞんじ)候て、御歴々方御取持(とりもち)下され候、此段全(まったく)我等徳義之故とは存ぜず候。
 天道之冥加に相叶
(かない)候故に之(こ)れ有るべく、弥(いよいよ)天命をおそれ候て毎事(まいじ)日用を勤慎(つとめつつしみ)候事に候。

一、六歳より親申付
(もうしうけ)候て、学(がく)(つかまつ)らせられ候へ共、不器用に候て漸(ようやく)八歳之比(これ)迄に、四書・五経・七書・詩文之書、大方よみ覚(おぼえ)候。

一、九歳之時、稲葉丹後守殿
(いなばたんばのかみどの)御家来塚田杢助(つかだもくすけ)我等親近付(ちかづき)故、我等を林道春老(江戸初期の幕府の儒官だった林羅山のこと)弟子に仕度(つかまつりたき)(よし)頼入(たのみいれ)候。杢助次手(ついで)候て、右之段、丹後守殿へ申上候へば、幼少にて学問仕(つかまつり)候事奇特成(なる)(よし)(おお)せられ、御城に於いて道春え直(ただち)に丹後守殿御頼(たのみ)下され候。

 夫
(それ)に就(つ)き杢助拙者を同道仕(つかまつり)候て道春へ参(まいり)候。道春・永喜(えいき)一座にて、我等に論語之序、無点之唐本にてよませ申され候。我等よみ候へば、山谷(さんこく)を取出し候て読ませられ候。永喜申され候は、幼少にて此(か)くの如く読(よみ)候事きとくに候、然(しか)し乍(なが)ら田舎学問之者、師を仕候と相みへ、点悪敷(あしく)候由(よし)申され候。道春も永喜同意に申され候て感悦仕られ、別(ぶつし)て念比(ねんごろ)に候て、十一歳迄、以前読(よみ)候書物共又点を改(あらため)、無点之本にて読直(よみなおし)候」とある。

小倉城天守閣。

拡大表示
小倉城天守閣より城内周辺を臨む。

拡大表示

 また、『聖教要録』には、「聖学は何の為ぞや。人たるの道を学ぶなり。聖教は何の為ぞや。人たるの道を教ふるなり。人学ばざれば則ち道を知らず。生質の美、知識の敏も、道を知らざればその蔽(ついえ)多し。
 学はただ古の訓
(おしえ)を学んで、その知を致(きわ)め、而(しか)も日用に施すなり。知の至れるや、遂(つい)に気質を変ず。

 学は志を立つるに在
(あ)り。志立たざれば則(すなわ)ち人の為にするなり。学に法あり、小学・大学、下学・上達、中人以上・中人以下、おのおの法あり。学は必ず問ふに在り。問ふことは必ず審らかにするに在り。問はざれば則ち新ならず。学は必ず習ふに在り。学んで時(よりより)習ふなり。学は必ず思ふに在り。思はざればその知至らず、学必ず蔽(ついえ)あり。心学・理学は心を甘んじ性を嗜(たしな)む、その蔽過ぐ。書を読み事に泥(なず)む、その蔽(ついえ)及ばず。共に学の蔽なり。

 学は必ず標準あり。その志す所正しからざれば、乃
(すなわ)ち書を読みて、知日に昏(くら)く、道をモトめて、理(ことわり)日に惑ふ、その行、倹に過ぐ。その君子と称するも、亦(また)事物通ぜず。言必ず信あり、行必ず果たす、コウ々然(こうこうぜん)たる小人(しょうじん)なり」とある。

 また、こうした素行の精神的血脈は、幕末の吉田松陰にも受け継がれ、松陰自身に大きな示唆を与えた。所謂これが学識を集大成した「松陰学」というものに発展していく。
 「吾
(われ)(もっぱ)ら陽明学を修むるには非(あら)ず。ただその学の真、往々にして吾が真と会うのみ」と松陰は語って、朱子学、陽明学、あるいは和漢の歴史にも通じ、幅広い見識を示している。

 そして松陰が国際社会へ眼を向け、後に九州遊学を決意して『水陸戦略』を上書きして、「海防論」に至ったことは、海外知識を分析して日本列島を取り巻く欧米列強の外圧的到来を予測するだけの先見の明があったと謂
(い)えるのではあるまいか。

 現実に欧米列強は明治維新を口実に、討幕派と佐幕派に各々イギリスとフランスの両方に軍事援助させ、日本列島を二分する植民地計画が実行に移されていた。一方ロシアは日本海を渡って奥蝦夷
(おくえぞ)方面(北海道北部)から侵入し、両国間の隙(すき)を見計らって「漁夫の利」を得ようとしていた。

 松陰はこの時、纔
(わずか)ばかりの乏しい資料で欧米の海外情報を分析し、『廻浦紀略』を書き著したが、その真相を確認する為にも九州遊学を決意するのであった。また平戸藩には、山鹿流兵学の本流である宗家の山鹿万介(万助とも書く。名は高紹/たかつぐが居たのである。
 それは「海防論」に至った結論を導き出す、「山鹿流兵学では、この国家危急に如何に対処するか」という意見参考を聞く為のものでもあった。




  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法