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相術と八門古典物理学 2


●忌み嫌われる鬼門と心像化現象

 人間の持つ本来の衆生は神と直結された《善》である。しかし、物質界の垢(あか)に穢(けが)れはじめると、やがて心に歪(ひずみ)が出来て、神から直流的に降ろされてきた気は、幽界と地上界の「外流(邪気)」に穢れはじめる。その外流の気が最も強い方向が丑寅(艮/うしとらであると謂(い)われている。

 だがそこは時間の揺らぎから起こる時空の揺らぎであり、此処には虚の時間と実の時間が重なりあった箇所である。更に歪は想念を伴い、元々無かったものを在
(あ)るように見せかけ、新たな外流的影響を作り上げて、時として人を幻想・幻覚の世界へと誘う鬼界(きかい)に接した空間でもある。
 通常、忌み嫌われる丑寅
(うしとら)の方向が鬼門だと信じてしまえば、即座に外流に汚染され、それは実際現象として地獄的想念を作り上げ、それを信じる人に災いを降り掛ける。これが心に描いたことが現実化されてしまう、心像化現象の悪しき例である。

 鬼門信仰は古くからあった。その歴史は匈奴
(きょうど)に由来する。
 匈奴の存在は、前三世紀から後五世紀にかけて、中国を度々脅かした北方の遊牧民で、モンゴル系に属するフン族である。首領を単于
(ぜんう)と称した。単于は君主の称号である。
 彼等は集団騎馬戦法を得意とし、ヨーロッパへの侵入や、東・西ゴート民族を圧迫した歴史をもっている。その集団騎馬戦法は凄まじく、皆殺し戦法を常としていた為、民族大移動の原因までを作っている。

 秦の始皇帝
(第一世皇帝・政)自身、匈奴の凄まじさを充分に承知しており、彼等の疾風の如き侵入と、その皆殺し戦法の脅威を恐れて、黄河以北に逐い、春秋戦国時代(斉・燕・趙・魏)に一部築かれていた万里の長城を増築したのは有名である。またゲルマン民族が大移動したのも、この匈奴の脅威の為であった。

 また、650年の唐王朝に至っても、単于都護府
(ぜんうとごふ)が設けられ、高宗の時に帰化城(フフホト)付近に設置された。単于都護府は唐朝の六都護府の一つで、内モンゴルに遊牧する突厥(とつけつ)などの諸部を統轄する機関であった。匈奴の猛威は凄まじく、三元式遁甲を用いての奇襲は恐れるべきものがあり、匈奴が侵略した跡は、まるで嵐の通り過ぎた跡に匹敵するぐらいだといわれた。

 匈奴の存在は中国の有史以来の、頭を悩ませ続けた強大なる脅威であり、彼等が生息していた地域は中国の都から見て、東北の方向にあった為、この方向を災いの「鬼のいる門」、つまり《鬼門》としたのである。

 この考え方は後に、弥生神道
(発祥は中国の一部及び朝鮮。後年は縄文古神道に変わって日本列島に君臨する)や陰陽道に取り入れられ、鬼が出入りする方向を丑寅(うしとら)の東北と定め、万事この方角を災いの根源として忌み嫌うものとしたのである。またこの方角の反対方向が、鬼門と裏返しになった《裏鬼門(西北)》である。

  天守による「日の出」と「日の入」の図。天守は城郭の本丸にある最大の櫓(やぐら)であり、戦時には展望台・司令塔または最後の根拠地となり、平時は領主の権勢の表現として権威に象徴だった。

 中国では天守は、天子の座する場所として、古くから城壁築城と共に発達して来たが、日本では文献上の初見は1550年
(天文19)の伊丹城で、76年(天正4)織田信長構築の安土城に至って、壮麗雄偉な様式を完成をみ、後に天守閣と呼ばれるようになった。

 「天守」の構造は、「明堂」に習い、古代中国では天子が政
(まつりごと)を行う殿堂としての意味を持ち、明堂の語源の他に「政堂」とも呼ばれ、日本では「朝廷」と呼ばれた。そして、此処は天子が政治をとりおこなう所とされた。
 それゆえ、明堂を囲む城壁は、まず、天子は北に座し、南に向かう、東西南北の辺を明確にし、太陽の運行と密接な関係を持っていた。

 しかし、鬼門・裏鬼門は、単に中国の故事から起こった匈奴への脅威だけではなかった。
 この方角は太陽の運行から考えると、「日の出」と「日の入」の方角であり、陰から陽に変わる境目の位置に属する、方角と時間であり、また陽から陰に変わる境目の位置と時間である。各々の陰陽のバランスが半々になった瞬間であり、陽とも陰ともつかない混沌
(こんとん)とした状態の時である。それはまるで、天地開闢(かいびやく)の「初め」を顯す次元で、天地のまだ分れなかった状態を指す。つまり、陰陽が明確でないフラクタル(fractal)状態を指すのである。
 即ち、一番緊張が弛
(ゆるみ)み、隙(すき)が起こりやすい時間帯である。特に、太陽の日が傾きを始める時刻は一番大きな隙が出来やすいと謂われている。

 かつて、ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーは、「日の入」の緊張の緩む時間帯を「悪魔の囁
(ささや)き」として、この時間に、単調な宣伝工作活動を繰り返し行うと潜在意識の中に、「悪魔の囁き」が入り込んで、人を意の儘(まま)に動かせるという、秘密を知っていた。これに似たことは、近年まで左翼活動家たちがこの宣伝工作法を用い、党員を倍増させてきた裏話は、知る人ぞ知る有名な話である。まさに、弁証法から人間の心理を解析した合理的な論拠に基づくものである。

 また、奇襲攻撃を仕掛ける際に、一番多く使われる時間帯は「日の出」の頃であり、寝覚めの前の一番深い睡眠状態にある時である。俗に「寝込み襲う」というのが、これである。
 兵法・八門遁甲でも、この方角を攻めの「出入口」に用いており、この方角は謂わば戦略上の死角である。最も侵入を容易にする方角が、《鬼門》と謂われる東北方向であり、時間帯に置き換えるならば日の出間際ということになる。

 また、この逆が《裏鬼門》と「日の入」の時間帯である。これらは何れも人の心にある心像化現象が作り上げた死角の一例である。
 しかし霊学的に言えば、《鬼門》、即ち丑寅には、仏教や弥生神道や国家神道によって押し込められてしまった「艮の金神」が封じ込められている方角でもある。



●八門兵法・太子流

 太子流平法は抑聖徳太子(用明天皇の皇子で本名は厩戸皇子)の称号名《太子》に由来し、望月相模守定朝を、その流儀の祖とする軍学兵法である。定朝は、聖徳太子の軍要の奥儀を夢の中で悟り、甲斐武田家に属し、屡(しばしば)騎馬戦法を以て、奇襲攻撃で軍功を立てた人物である。

 甲斐武田家が滅亡すると、芦名盛氏の地頭の代から、定朝の門弟が会津や仙台の東北各地で活躍した。会津藩初代当主・保科正之
(ほしなまさゆき)は、当代希(まれ)にみる名君(政治家)で、徳川四代将軍・家綱の補佐役を勤めた人物であった。朱子学の山崎闇斎(やまざきあんざい)、神道の吉川惟足(きっかわこれたる)を招いて、自らの修身と、藩士の教育に勤めた。

 保科正之は、江戸初期の徳川御三家の水戸藩・徳川光圀
(みつくに)、外様大名岡山藩・池田光政と並ぶ、儒教的な文治政治を行った三大名君(明君でもあった)の一人であった。
 因
(ちな)み幕末の会津藩国家老・西郷頼母は、明治になって保科近悳(ほしなちかのり)と姓名を改めるが、藩祖保科正之の末裔(まつえい)である。会津藩では、この太子流平法が極秘の裡(うち)に伝わり、二流派に分かれていた。浦野派と中林派である。

 太子流は兵法として、山鹿流と甲州流の軍学の影響下にあり、八門遁甲方術の流れを汲む複雑な三元式遁甲の騎馬戦法を用いる流派であったと謂
(い)われている。
 特に、山鹿流の影響が強く、『武教全集』には剣術、柔術、杖術、棒術、槍術、弓術、薙刀術、小太刀術、殿中居合、馬術、古式泳法、操船術、騎馬軍法を含んでいた。

 因みに山鹿流の二大宗家は、平戸藩
(山鹿万介高紹)と津軽藩(特に有名なのは第四代藩主・津軽信政で、遁甲は用いないが日取りの方術を得意とした)であり、長州の吉田松陰(吉田寅次郎の養子になり名は矩方)は、長州藩代々の山鹿流兵術師範の家にあり、長崎遊学の際には、宗家の山鹿万介(やまがまんすけ)や葉山鎧軒(はやまがいけん)を頼って平戸を訪れている。松陰が、この二人を訪ねた理由が何だったか、実際のところ定かではないが、今日でも歴史的な暗示と謎を与えて、現代に問いかけているようにも思える。

山鹿素行が造ったと言われる平戸城の城壁。築城法には、敵を撹乱する八門遁甲の儀法が至る所に遣われている。

 太子流の根本は、《孫子の兵法》であり、これに騎馬民族の、複雑な三元式の八門遁甲の騎馬戦法が組み合わさったものと思われる。
 八門遁甲は、別名《奇門遁甲》とも謂
(い)われ、昨今の占いブームに、しばしば奇門遁甲の名で登場している。しかし遁甲は、正確にはそのような占いの類では断じてない。

 「軍立
(いくさ‐だて)」という日取りを割り出す計算を、緻密に計算するので、勘に頼ると言う安易な占いの類(たぐい)にはなり得ない。これは兵法であるからだ。
 したがって兵法には、「軍掟
(いくさ‐おきて)」があり、陣中の命令が最大の命令となり、「軍令」ともいう。この軍令を司り、作戦に支障がないように、更に「軍神(ぐんしん)」へ武運を願うのである。

 軍神は「いくさがみ」ともいわれ、「いくさ」の守護神でる。そして武運を守る神でもある。
 日本では遠く、経津主
(ふつぬし)と武甕槌(たけみかずち)の二神を「いくさがみ」とし、または八幡神(はちまんしん)なども軍神とされた。
 そして兵家では、北斗七星、また、摩利支天
(まりしてん)・勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)・不動明王(ふどうみょうおう)などを祭り、それを総称したものが「弓矢の神」であった。これこそ八門遁甲が兵法の証であり、占いの類(たぐい)でないことは明白であろう。
 つまり、奇門遁甲の看板を掲げた占師の仕事場や事務所には、宗教儀式の一種を思われる神棚のようなものを祭っているが、奇門遁甲と、霊能力的
(神のお告げや霊視等の超常現象)な繋(つな)がりは一切持たない。

 八門遁甲は極めてシビアーな、そして神も仏も存在しない、電磁気、力学、幾何学を用いる、中国の古典物理学である。したがって、一切の霊能力的なものや、神聖を補助する占いは、ここに入り込む余地が全くない。それは自然科学の弁証法の如しであるからだ。
 大自然の運行の、自然科学が理解せずして、八門遁甲は理解できない。

 つまり、弁証法であるから、思弁的かつ肯定的認識へ高める為の、否定的理性の働きを主体にするのであるから、弁証法をもって認識論を主体とし、「自然、人間社会および思考の、一般的な発展法則についての科学」としたところに、唯心的神秘主義は入り込めないし、また、可視的世界を対象にした三次元唯物論である。

 唯物論的自然科学に、唯神的な神は入り込む余地がない。唯物論で示される自然界の現象は、眼に見える可視的分野のみを相手にしている。可視的世界を超越する、不可視世界は、この中に入り込む余地がない。サルトル
Jean Paul Sartre/フランスの文学者・哲学者。一時期、共産主義思想に近づき、晩年は連帯の倫理を説いた。未完成の「弁証法的理性批判」が有名。1905〜1980)の現象学的な意識の弁証法が、遁甲には織り交ぜられている。

 もし、ここに祈祷
(きとう)行為に似た、霊能力的なものや、神聖なものが、占いの一部として入り込んでいたら、これらは全て偽物であり、自分の遁甲知識の未熟を繕(つくろ)う為に、神や仏を持ち出しているに過ぎない。これらは奇門遁甲の名を騙(いつ)わり、拝金主義に墜落した詐欺商人の、それである。

 遁甲は、簡単に言えば《地理風水》の一種にも類似しており、しかし、神の超越性を強調するところは異なり、正確には「八門金鎖之陣」と「奇門遁甲」の二つが合体して、《八門遁甲》になったと謂
(い)われ、漢籍書では子部兵書に属しており、歴(れつ)とした《兵術》なのである。

 中でも、三元式の八門遁甲は、満蒙の騎馬民族の兵術であるとされ、騎馬戦法に際しては、恐るべき威力を発揮すると謂
(い)われている。「燎原(りょうげん)火の如く掠(かす)め取る」という凄まじさは、これは騎馬戦法による鏖殺(みがごろ)しの戦法であり、後に日本において十六世紀、甲州流兵法を編み出したことから考えても、三元式遁甲には恐るべき猛威があるのである。
 我が国に於ける遁甲の由来は、推古天皇の御代六百二年十月に、百済の僧侶、観靭が日本に訪れた際、『暦本』『天文地理書』と共に朝廷に献上したことから始まる。

 直伝は、《符使式》とは違う《三元式》のもので、朝廷の命に従い、大友村主高聡
(たかふさ)が習得し、天武天皇自身も大変上手であったとある。遁甲は満蒙の騎馬民族の兵術であった為、やがて中国でも学ぶことが禁止された。

 唐六代・玄宗皇帝は、王室以外の者に漏れるのを恐れ、金属製の箱に厳封したとある。やがて日本でも、これが禁じられた。
 後に皇室が、一切の遁甲に関する秘巻を焼却したのを始め、これらの兵書は悉
(ことご)く禁止されて、日本からは、その殆どが消滅している。

 密かに伝わったものとして、甲州流
(山本勘助)や山鹿流、他に越後流、長沼流、宮川流、宇佐美氏等の兵術が存在しているが、今日では一番肝心な日取りの軍配術(軍立)等の、奥儀と称される秘伝が悉(ことご)く消滅しているのである。したがって、山鹿流でも直伝のものは失われ、大方は室町期に複製書物として、後に作ったものであると謂(い)われている。

 しかし、その威力
(この威力というものは、あくまで電気的エネルギーという意味で、神聖的エネルギーは一切存在しない)を恐れるあまり、徳川年間になっても、それを研究したり、用いたりすることは厳罰に処され、これらの書物を持っていただけで、即刻打ち首になったとある。

 遁甲の語源を岩波書店の『広辞苑』で調べると、「人目をまぎらわせて身体を隠す、妖術。忍術」とある。これは語源学者自身の不勉強から起こる誤った解釈であろう。遁甲は忍術のように、その術者が姿を隠すものではない。
 遁甲は、あくまで隠れるのは、十干の「甲」が、六儀
(戊、己、庚、辛、壬、癸)の中に隠れるのであって、人間が姿を消したり、隠れたりするのではない。

 十干の「甲」が、六儀の中に隠れるとは、方術の術法に従って物理学と同じような物理法則
(その土地の磁場と君主の生年月日の関係、及び太陽や月や星の運行を調べ、そこで起こる時間的な磁場現象が君主の「命」に与える影響を計算する術)に従って、電気的法則に則ってこれを用いる。

 甲、または乙が、各々に変化して、三奇
(乙、丙、丁)の中で入れ替わり、複雑な行動を示す術として最重要視されていたのである。
 蜀の丞相・諸葛亮孔明が使ったと謂
(い)われる《八門之陣》という得意な戦法も、この八門遁甲に由来している。

 これは別名を《八卦之陣》といって、巧妙に変化する「八つの陣」から成り立ち、この陣へ攻撃を加える攻撃者の目から見れば、どれが一体本当の陣か分からないのである。この時、攻める側としてみれば、攻撃部隊を八つに分けるわけであるから、戦力は八つに分散され、攻撃機能が低下するばかりか、下手をすると密なる強部に接触して、攻撃側の致命的な命取りにもなりかねないのである。

 指揮官の戦場心理の一つとして、戦闘展開のプログラムをどう演出していくか、そして当面の敵に対し、何処に優先順位をつけて、攻撃に掛るかということに心を砕くものである。だから一定兵力を各々の攻撃目標に対して割く場合は、完璧な作戦と緻密な計算を立てた上で割かなければならない。

 しかしそれには優先順位があり、本隊に主力を結集させれば、別動隊は攻撃に至っても完全な勝利は望めず、戦闘も手薄の状態で展開が始まる。
 逆に別動隊に主力を結集させると、本隊は手薄となり、辛い状態で苦戦を強いられることになる。二つに割かれても、このような不安の影が付き纏
(まと)うのであるから、八つに分けられた陣を攻撃するのは慎重な対策がいるのはいうまでもない。

 これらを攻撃する側から見る場合、更に悪い事は、この八つの陣は、均等に八つに分かれているのではなく、どれが主力であるか分からないばかりか、変化に富んだ複雑な地形に陣地配置がなされている点である。それは丁度、一人に対して、八人の敵が包囲してしまった時と同じ状態になってしまうのである。これには魏の最高司令官であった、司馬仲達も散々悩まされ大いに苦戦したとある。

 司馬仲達
しばちゅうたつ/司馬懿(しばい)といい、字は仲達。三国の魏の権臣で、魏の諸帝に仕え、蜀漢の諸葛亮と戦い、東北・朝鮮に領土を広げ、魏末丞相となって実権を握った。孫の司馬炎(武帝)が晋を建て、追尊して高祖宣帝と称した。179〜251)は、孔明の《八門之陣》という布陣の見事さに思わず感嘆の声を上げ、「天下の奇才なり」と、その英知と力量を率直に評価している。

なだらかな丘陵に建てられた邯鄲の趙武霊王の叢台

 西郷派大東流の中には地平戦や山岳戦に於て、《八方分身》、あるいは《八方分散》という技法があるが、この八門兵法を応用したものである。

 この技法は八方向に分散した多敵に対し、一瞬の攻撃を促して誘い入れ、一気に殲滅する恐るべき秘術である。この秘術は《誘い入れの誘》というものがあり、一斉に誘い入れる導入の通路を、自らを取り巻く敵上の空間に一人がやっと通れるトンネルを作って、心理的に「今が攻撃の汐時(しおどき)」という錯覚を敵に起こさせて誘導する術である。

 八人の敵を八人と思わず、常に一人であるとして、その内の一人に注目して、最初の一人を空間のトンネルに誘い入れて、一人を次々に倒すが如く全体を倒すという得意の術である。これを西郷派大東流の「柔之術」では、《秘伝・八方分身》という。

 西郷派大東流の技法の中には、他武道では見られない多数捕りは、江戸年間の『甲中乙伝』に由来しているものと思われる。このように日本学派の兵学や兵法は、これらの戦略と戦術を土台として出来上がったものであり、根源は全て八門遁甲の複雑な奥儀に由来するのである。




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