●サムライという名の知者
かつて日本には、文武両道に秀(ひい)でた名君といわれる為政者が居た。この為政者は叡智(えいち)に満ち溢れる人物だった。
その人物の叡智の中には、サムライをサムライらしく見せ、それに品格と人格の両方を併せ持ち、崇高(すうこう)なる霊域までに高めたのは、その根本に「文武両道」があったからだ。
そしてその中心課題は、自らは犠牲となって、全体を生かし、艱難(かんなん)に先立って全人格を表現することであった。全局の為に損得勘定を離れ、打算的思考をせず、自らの栄達の為に、打算は存在しないのである。これこそが武士道の根本に横たわるもので、大局の一切を損得で判断しないのである。
現代社会のように、物質至上主義が罷(まか)り通り、何事も総てが金銭的価値で換算される現代にあって、既に現代人が忘れてしまった、「人は損得だけで判断する」という打算を度外視して、全体に奉仕するというサムライの姿勢があったことを、もう一度、再考すべきである。
犠牲になる、生贄(いけにえ)になる、損をするという人間の行為があるが、これらを総じて「損」という。そして「損」は、金銭的な損、労力的な損、更に窮極的には、他人の為に銃に自分の命を捨てるということまでが含まれる。
他人の為に自分の命を差し出すことは、容易なことではないが、わが身を犠牲にし、わが命の投げ出し、他人の為に何かをするというのは、実に喜びなのである。それは自分たちが、取るに足らない小さなことでも、これに耐え、あるいは時間を割いたり、他人を助けるという行為を実行したとき、初めてその人は本当の意味で人間になることが出来るからである。
この時の気持ちで、大事かつ偉大なことは、本当は自分は彼等の為に自分の損を覚悟で、崇高なことを一つ遣(や)り終えたとき、自分は彼等に対し「有難う御座いました」と、彼等の方に礼を言う態度でなければならない。そして損得勘定から起る「損をした」ということは、露ほども思わないことである。
本当は、自分が生きたのではなく、自分か彼等から生かされたのであり、金を出したり、労力を提供したり、自分の楽するべきところを自分の為に使わず、「他人の為に使う」ことにより、そこには人間としての尊厳が生まれる。
つまり、サムライの精神とは、本来は自分が労力においても、金銭においても、時間においても、損得勘定を度外視して、自分が損をして、「他人の為に尽くす」ことなのである。
●サムライの持つ平和観
戦争論で考えると、戦争と戦争の間にある、ほんのささやかな息抜きの時間が、平和だとする定義がある。しかし、「ほんのささやかな息抜きの時間」が長くなると、人間の心は病み始める。平和の持続は、心を病に追い込み、病的な精神状態に人間を陥らせる。
今日の世を平和だと勘違いする人は多い。この平和が長く続いてもらいたいと願う人は、国民の大半に及ぶだろう。しかし、平和というものの実態は、本来戦争と戦争の中に存在する「ひと時の休憩」であるから、実質は表面上は平和のように思われていても、その水面下では激しい機先争いが生じていることは明白だろう。
また、平和というものは、戦乱の世にあって初めて実感するものであり、平和ボケした世の中では、こうしたものを感得すことは難しい。
人間の心の中には、領土争いや民族独立の戦いを、もう充分のうんざりして考える人も居ることだろう。しかし、心の一部には、「これが人生かも知れない」と、人の闘争本能を認める考えに落ち着く人も居るだろう。
何故ならば、人類はその歴史の中で、空想以外の、机上の空論以外に、全く戦争のない、差別や対立のない社会というものを、一度たりとも体験したことがないからである。
そうした未体験者が「平和」を口にするのだから、これは非常の訝(おか)しなことで、また戦争を知らない世代が、「さも、平和とはこのようなものであろう」と空想上の平和論を掲げているのであるから笑止千万といわねばならない。
平和ボケ社会では、平和病に罹(かか)る人が殖(ふ)えているという。そして平和ボケ社会の平和に享受する現代人には、明らかに差別意識があり、他と比較する優越意識があり、平和論が食い違う対立意識があるのである。こうした総てが満たされない社会に、本当の平和が到来しているといえるのだろうか。
本来の平和の意味は、「一切が満たされていて、そこには不満が生ぜず、衆目は穏やかに一つの意見に一致していて、欠けたものが存在しない状態」を言うのであって、一部でも満たされず、不満や不平が生じ、欠けたものが存在するならば、これは決して平和とは言わないのである。
現代社会において、これまでの歴史の中で、一度でもこうした状態が生じただろうか。
戦後世代の多くは、敵の爆撃機が空襲したり、ミサイルが飛び交う大地の防空壕に居て、砲弾の音や爆撃機が投下する爆弾の風切り音を聞きながら、息を潜めて過ごすという実体験をしたことがない。こうした実体験は先の大戦を体験をした体験者の談を聞くだけである。
しかし、こうした体験者の談は多くが感情論に満ち溢れていて、状況を正しく伝えるものは実に少ない。
今日、戦争体験者が語る戦争の悲劇の談は、その多くが感情論に固執している。また、戦争体験世代の多くは、戦争といえばおぞましく、戦争といえば眉(まゆ)をしかめ、頭から、武器や戦争を研究する学究の徒の判断を大いに邪魔するものである。
本来戦争というものは、政治的な延長という言葉を持ち出すまでもなく、戦争の内実には、それぞれの国の歴史や伝統、文化や風土、思考や道徳規範というものが絡んでいる。こうした絡みが、間接的に戦争に反映されるのである。そして、その反映を次世代は鏡として、戦争の中から教訓を学び取るのである。
この通例的な教訓への足がかりを、「おぞましい」という感情的な態度で退ければ、正しい歴史認識は喪(うしな)われることになる。
もともと戦後民主主義の空間には、過去の歴史から教訓を学び取るという現代史の、極めて常識的で通例的な約束事を怠った為に、捩れた平和観が出現した。その最たるものが、奇妙な構図として顕れた「非武装中立」という愚かしいまでの反戦主義ではなかったか。
これらは「中立法」を知らない机上の空論であることは明白であろう。
●サムライの戈を止める軍事観
「戦争は、もう、こりごりだ」とか「先の大戦のおぞましい実態を後世に貴重な体験として伝える」などとする戦争体験者の言は、一様に貴重なものであり、次世代に伝えようとする使命感は尊いが、これが感情から出た言辞ならば、それは間違いを犯す危険性を孕(はら)んでおり、この感情論を持ち出して次世代に戦争を語り継ぐことは、歴史を正しく認識する上でも、検証する能力を育てる上でも、大いに危険であることは明白である。
次世代に、戦争体験者は自らの感情を絡ませてはならない。また、感情の発露をこれに充ててもならない。極めて冷静沈着さが必要である。更に突き詰めれば、戦争が起るメカニズムに眼を向けなければならない。戦争は自然発生的に起るものではないということを念頭に置くべきだ。この分析力に欠けると、正しい検証と、それを探究する能力が失われる。
しかし、今日の多くの反戦論者は、「戦争とはおぞましい行為であり、もう、こうした地獄絵はこりごりだ」としている点の戦争観に対する表現は、実に感情から発する言辞である。その言辞は、まさしく感情そのものである。その感情そのものが、情熱的な使命感となって、次世代の伝えようとしているところに大きな誤りがある。そして「軍国主義反対!」と声高に唱える感情論者は、今日では左翼系のジャーナリズムに支えられ、これが“絶対正義”であるかのような扱いを受けている。
しかし、こうした感情論の出所を探り、分析の篩(ふるい)に掛ければ、直ぐに化けの皮が剥がれてしまう決定的な欠点を持っている。それは「感情のみで次世代に語り継ぐ」という愚かしいまでの情緒主義に汚染されていることである。戦争そのものを全く分析していないのである。
戦争がどうして起るのかという、根本に隠れ潜む、「戦争が起るメカニズム」というものを全く理解せず、表面的に、情緒から起った感情論で、戦争を色眼鏡のフィルターを通して、「戦争はもうこりごりだ」 という、極めて傲慢(ごうまん)な反戦論を唱えていることである。
果たして、こうした感情論によって展開された戦争観で、次世代に、本当に「戦争の悲惨さ」が伝わるのだろうか。
もっと冷静に言うならば、「戦争のおぞましさ」ではなく、「戦争が起るメカニズムをどうしたら抑止できるか」 の方が、最も具体的な対処法であり、理性や知性をもって、戦争体験を語り継ぐということが、先の大戦の戦争体験の語り継ぐ、必須要因ではあるまいか。これこそ、本当の意味での貴重な体験を語り継ぐ、有効な手段ではあるまいか。
しかし、大東亜戦争という、アメリカ側から見た太平洋戦争であるが、「あの戦争が何故起ったか」という根本にある戦争のメカニズムの、どこに誤りがあったか、こうしたメカニズム論を、反戦主義者から一度も聞いたことがない。
今日の反戦主義者の多くは、左翼系ジャーナリズムの便乗組と、ただ自分の感情を他人に押し付ける押し売り組で構成され、一番肝心な「戦争の起るメカニズム」に対して、全く一言も触れていないのである。
また、こうした感情論が戦後民主主義の掲げる「権利」と「義務」の履き違えを起したといえよう。更に、こうした元凶の側面にあるものは、精神的な廃退(はいたい)であり、この廃退によって、幼稚な感情論が戦後社会を如何に歪(ゆが)め、社会全体を畸形(きけい)にしたか、昨今の生臭い事件の多発を見れば、容易に理解できよう。この事こそ、最も批判されるべき事柄ではないか。
現世に起る総ての事象には、その起因として発生のメカニズムがある。そのメカニズム抜きにして、感情からなる体験主義では、単に感情の発露として利用する、悪しき体験主義に成り下がるだけである。
●現代は権利と義務が履き違えられた世の中である
現代人は慰謝料とか保障とかで、何かあったら、それを餌にして、「根こそぎ取って遣(や)れ」とか「型に嵌(は)めて身包み剥(は)ぐ」という、現代風の損害賠償の意識と主張が強いが、これは計算高い打算的な損得勘定がこうした行動に奔(はし)らせるようだ。
この打算的行動の裏には、自分の都合の悪いことは直ぐに止めさせ、自分を棚に上げて、他人に欠点や非ばかりを衝(つ)いて、それで「得」をしようという考え方である。また、この根底には、金銭に絡ませて「金を取る」という目論見があり、こうしたことが表面化したものが、金を目論見ながら、実は金が総てではないと嘯(うそぶ)き、実は金目当ての反対運動であったり、告発運動であったり、監視運動で合ったりしている。
オンブズマンとか、住民運動の多くはこうした目論見が流れており、一般人に対して「これを放置すれば、あなたが損をするのですよ」と訴える活動である。自分にとって損をすることは、何が何でも許せないのである。
しかし、人間の歴史を紐解(ひも‐ど)くと、人間というものは、動物と違って、「自分が損を出来る生き物」なのである。この「損」こそ、動物と人間を区別する肝心なところであり、ここに動物と人間を隔てている。
慰謝料という考え方も、「損をする側」と、「損をさせる側」とに別れている。損をする側は慰謝料を取られて、自分は損をしたと思うであろうし、損をさせる側は、相手から慰謝料を巻き上げて損をさせて自分は得をしたとおもうであろう。
また、慰謝料という制度は、人間の心の裡側に「心の表現の未熟さ」が隠されているようだ。
これは精神的な悲しみを金銭で償うという制度であり、人間は自分の心の本性を他人に顕すことが難しい生き物なので、その誠意を相手にわかってもらいたいが為に、金を出して自分は損をし、ここに「金」という手段が使われているのである。
そして、慰謝料という考え方は、もし、損害賠償やその他の償いとして、慰謝料を貰う側は、その対象者の能力や生活力の強弱によって、算出するというのが何千年前からの決まりになっているようだ。
これは「自分がこれだけ被害を被ったのだから、それを客観的に換算して算出する基準」が設けられ、これに照らし合わせて該当者に支払うという方法が取られている。
しかし、こうした概念が一般的に定着すると、例えば金持ちならば、金で済むことならば金で済ませ、そこに償いの気持ちが一切生まれないことである。償いさえも、金で形をつけることができ、貧者が自責の念に迫られて、心から償いの気持ちを示す、それとは天地の差が生まれることである。
こう考えると、金という、償いを顕す手段も、結局、人間の損得勘定を、単に金に置き換えて、相手から巻き上げる側と、相手から巻き上げられた側に分かれるだけであって、ここに人間的な「心」というものは存在しなくなる。つまり、現代という世の中は、「金が総ての世の中」であるともいえる。
ところが、「金が総ての世の中」であっても、自ら進んで金銭を投げ出し、労力を投げ出し、あるいは命まで全体に投げ出して奉仕する人が居る。
日本の戦後教育の母体は、アメリカが導入した民主主義のよって、基本的人権というエゴイズムから「損になることは黙っていない」という、教育目標が掲げられた。これが、訴訟社会の始まりであり、商人的な損得勘定が教育に導入されたことであった。
損をするとか、損をしないという思考の根本には、常に動物的な本能と習性が漂っている。これが本当と習性である以上、この根本には執念のようなものが漂っている。損をすることに激しい憤りを感じたり、損をさせられたら決して黙ってはいないとする思考は、まさに動物的であり、かつ情熱的である。そして、損をするから「憤る」という感情が生まれる。
近頃の考え方と自己主張として、民主主義か掲げる「権利」と「義務」という言葉があるが、この使用法を誤ればとんでもないことになる。また、既に使用法を誤った人も少なくない。
特に、この使用法で誤っているのは「権利」という次元のものの「自己解釈」である。多くは、この権利を自分が思考するものと思っている。自分にはそれを主張する権利があると思っている。
しかし、考えてみれば不可解なことで、権利は自分側から思考するものでない。他人が権利を持っていることを、自分が認めることである。
これに対し、義務とは、自分が相手に対して要求するべきものでない。義務とは相手に要求するものではなく、自分が黙々とその任務を遂行すればいいことなのである。
この二つの考え方が狂ってくると、人間社会は間違いだらけとなり、円滑な歯車の動きがぎこちなくなる。様々な箇所に障害が出て来る。これがトラブルの元凶となり、今日に見る訴訟社会の実情が生まれたのである。
この訴訟社会の根底には、他人には義務を要求し、自分が権利を主張するという、決して二つが相容れない訴訟の構造が出来上がっていることである。このような社会構造を定着させたのは、民主主義を標榜(ひょうぼう)するアメリカであり、現にアメリカは訴訟社会であり、これは周知の知るところである。
訴訟社会では、得になることだけしか考えない。損を絶対にしない商人根性というか、商魂逞しい、得なことだけに眼を輝かせる、金銭至上主義の金や物や色への固執を生み出したのである。現代人が損得勘定から、これに現(うつつ)を抜かすのは、この為である。
現代人の動物化は、此処に見て取れる。
今日の日本で、人権と平等以外、何も語られないのは非常に残念なことである。そして、多くの日本人が、大人も子供もない綯交(ないま)ぜして間違っていることは、人権は主張するものでなく、他人に人権があることを認めるものであり、義務は、自分が相手に対して要求するものでなく、自分が自分に与えられた使命を、着実に遂行することを言うのである。
これを理解できない者は、成人の年齢に達していても、思考能力においては、未だに幼児なのである。
これより先をご覧になりたい方は入会案内をご覧下さい。
 |
daitouryu.net会員の入会はこちら |
<<戻る 次へ>> |