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| ▲「城、春にして草木ふかし」と謂えば、栄枯盛衰を思わせるが、「功成り、名を遂げた一国一城の主」ですら、時の流れには勝てないのである。 |
●死ぬ時は清々しくありたい
人間、生まれる時が喜びであれば、また死ぬ時も喜びでありたい。
人間の人生に於いて、死生観をどのように捉えるかは、個々に於て重要な課題である。生まれて来た以上、いつかは必ず死なねばならない。
しかしこの「死ぬ」という事について、多くの人はその実感を自分自身と直接的に結び付ける事が出来ない。したがって「今」という次元と、自分の死と言う現実をどうしても直結する事が出来ず、死はやがて恐れる対象となる。人が死を恐れる現実は、実はここに回帰されるのである。
吉田松陰は死に対して次のように云う。
「死は恐れるものでなく、憎むべきものではない。生きて大業を為す見込みがあればいつまでも生きたらよりしい。死して不朽の見込みがあると思うなら、いつどこで死んでもよい。要するに死を度外視して為すべきを為すことが大事だ」
この思想は人間の生き方を示し、重要な示唆が含まれている。幕末期、武士道は廃れたものになり、武士の美学が崩壊する中で、松陰は人の生きざまを示唆したのである。
これによれば、窮地に直面しても、逃げる事を屈辱と心得る者は困難な中にも、その活路が見出せるとしたのである。
高杉晋作(たかすぎしんさく/幕末の志士で長州藩士。久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに松下村塾の双璧とされた。1839〜1867)は松下村塾時代、松陰に「男子は何処で死ぬべきですか」と迫った事があった。しかしこの時松陰は的確な答えが出せず、これが回答出来たのは、獄に繋がれ、死を目前にして、死地に赴く土壇場であった。
当時、晋作に明確な回答が出来なかった松陰は死を目前にして悟り得た死生観を、晋作に説く。
「今この獄中にあって、死の一字につき、発見したことがあるので、いつかの君の質問に答えておく……」と切り出したのだった。そして死は恐れるものでない事と、憎むべき対象でない事を諭す。
これによって晋作は、神出鬼没という予想外の行動に出て、一方、逃げる時はよく逃げた。自分の死を安っぽい犬死に終わらせるのを避けた為である。そして松陰の説く、「不朽の見込み」のある死場所を探す為に死する事で見込みのある敢行を齎す事が、次の時代を動かす原動力になった。
いわば松陰の説いた死生観は、愛弟子晋作の行動力によって伊吹が吹き込まれ、次の時代を旋回させる歴史を作り上げたのである。
そして松陰は、人間の四期を高らかに掲げる。
『留魂録(ざんこんろく)』の冒頭には次の一首がある。
身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留置(とどめおかま)し大和魂
死期が迫っている松陰の心を顕わしたものであるが、心の乱れは寸分も窺われない。そして至誠にして、動かざるものはないという信念で事に当たったが、失敗したのは自分の徳が至らかったと言わしめている。
松陰は人間の生と死の哲学を四季に顕わした。四季は春・夏・秋・冬であり、この四季は人間の四期にも置き換えられた。
「今日死を決するの安心は四時(四季)の順環(循環)に於て得る所あり」と述べ、穀物の収穫に人間の四期を喩(たと)えている。
それによれば、今日、死を覚悟した私の心は実に平安で、春・夏・秋・冬の四季の循環を人間の人生に置き換える事によって死生観が達し得たとしている。
つまり農業の一年の行程を見れば、春には種を蒔(ま)き、夏にはその苗を植え、秋にはそれを収穫する。冬には収穫した穀物を貯蓄して冬の寒さを凌ぐ。秋の収穫期には農民が汗を流して働いた成果が収穫となって現われ、その歓喜は一方で酒を作り、一方で冬に備えて備蓄する。これが季節における四季であるが、人間にもこのような四季の循環を巡って、四期を経験するのだと云っている。
そして松陰は繋ぐ。
「私は今年で三十歳になった。人間の四期を未だ経験せず、一事の成功を見る事もなく、まもなく死を迎えようとしている。これは穀物に例えるならば、花をつけず、実もつけずに似ている。短直に云えば悔しい限りだ。しかし、私自身の身に付いて云うなら、今が結実の時である。花が咲き、実を結ぶに、何が悲しい事があろう。何故ならば、人には寿命と云うものが定まっていないからであり、穀物のように必ず四期を巡らなければならないと云う理はない。
喩えば、十歳で死ぬ者は、その十歳の中に人間の四期が存在し、二十歳には二十歳の、三十歳には三十歳の、五十、百には自ずから五十、百の四期が存在するのだ。
十歳では短過ぎるとするのは、茅蜩(ひぐらし)などの虫の寿命を霊椿(れいちん/霊樹などを顕わし、千年以上も生きた寿命の長い樹木を指す)などの寿命に換算して計算し、寿命の長い霊椿と寿命の短い茅蜩を同じ物差で計るようなものだ。また一方、百歳をもって長いとするのは、逆に霊椿の寿命を茅蜩の短い寿命にあてがい、これをもって長い短いと言っているに過ぎない。しかしこの考え方は物差の基準の違いで、実はこの生きた証に長い短いは存在しない。いずれも天から与えられた寿命を全うしたか、そうでないかにかかるのである。
私は既に三十歳になり、四期は循環の中で整ったのである。花が咲き、三十歳で実を結んだのだ。ただ問題なのは、この実の結んだ穀物が、ただの籾殻なのか、実の詰まった粟であるのか、私の知るところでない」と清々しく言い除けている。
松陰の死は常に捨身であった。
捨身を「死に身」とも言う。極限にまで自分と向かい合い、極限にまで自分と自問し、そして捨身に至る。ここに武士道実践者の一種独特の、すずやかさがあったのではなかったか。
潔(いさぎよ)さの根底には一種の「涼(すず)やかさ」があり、それが死に身を代表したのではなかったか。
では、死に身に代表される涼やかさは一体何処から起ってくるのか。
死に身の実態が我が身を捨てる行動律である以上、初めから我が身を捨てる態度にそれが現われて来る。吾(わ)が身一身の保身など、最初から勘定のうちに入らないのである。人間は損得勘定を超越した時、はじめて捨身の態度に至る事が出来る。
そして生と死の、二元相対の中で、我が身を最初から捨てる事で、心の動揺が一切取り払われる。
本来の武士道で言う「死に身」は一朝事ある時は、吾が身を捨てて君国の為に働く存在価値にこそ、その意義が見い出された。武士道の根元には常に死と言うものが存在しなければならない。死と隣り合せで生きる事で、非日常の現実に接近したとしても、心の動揺はなかったのである。
また死と隣り合せで生き、この非日常の現実の中にこそ、清々しさと、生き生きとした活路が見い出されて、不安や迷いや苦悩は一掃されるのである。
もし、明日自分が死ぬとしたら、今の次元において、人は最も遣(や)っておかねばならない事を最優先するのであって、どうでもいいような愚行には趨(はし)らず、限りある残された時間を最も有効に遣おうとするはずである。そこに人間のもつ輝きがあるのではないか。
こうした輝きを持つ人の周囲は、いつもさっぱりと片付いていて、その行動律も、実に清々しい簡潔性をたたえているのである。
●一粒の麦、地に墜ちて死なずば
松陰は獄中にあって、刻々と迫り来る死に対して、生に執着したり、死からの救いを求めて誰もが帰依(きえ)する宗教に、差し当たりその救いを求めなかった。
人間は年を取ると急に信心深くなり、多くの老人達は宗教に帰依(きえ)しようを焦りを募らす。何処の神社仏閣に行っても、こうした場所に詣でるのは圧倒的に若者より老人が多い。
また、死刑囚などの刑が確定した者は、生からたち斬られる恐怖を和らげる為に、その救いの手を宗教などに求める。
しかし松陰は獄に在って、死が迫り来る中、神仏に救いの手を求めたり、祈願する事はなかった。
松陰は死を目前にしながら、死を克服するのに知性と意志力を総結集して、これに立ち向かった。また宗教に帰依しない事が、死して後の清々しさを作り出す要因になった。だからこそ、死は恐れるものではないし、憎む対象でもないと云い放ったのだ。
そしてついに死生観を超越する。
松陰は死ぬ間際、「花が咲き、三十歳で実を結んだのだ。ただ問題なのは、この実の結んだ穀物が、ただの籾殻(もみがら)なのか、実の詰まった粟であるのか、私の知るところでない」と云い放ったが、松陰は三十歳で死して、実を結んだものは決して籾殻などではなく、見事な一粒の麦であった事は、構成の歴史が証明しているところである。一粒の麦は地に墜ちた後も、死ぬ事はなかったのである。
愛弟子(まなでし)晋作に教示した「死して不朽の見込みあらば、いつにても死すべし」という、松陰持論の死生観は、三十歳をもって不朽の死に至る。
これは安政の大獄と言う体制側権力によって、殺される事によって、松陰は不朽の死を得るのであり、殉国の受難像を自らが作り出す事により、これが時代を動かす原動力になった。そして松陰が常々教示した、生前の指導に強い説得力を持たせ、先駆者としての威厳を確立したのである。
これにより晋作だけではなく、松陰門下の門人が総て奮い立ち、松陰の死は新たな時代の、激動の渦に突き進むのである。
徳川幕府は松陰を殉職者にした事によって墓穴を掘り、古今東西の何処の国にも見るような専制君主の末路を辿るのである。
歴史は一の時代も同じであるが、時代の先駆者は常に孤独の中に在って、非難と無理解に苦しめられる。不可視的世界の闇に隠れた部分を感知できるばかりに、そこには可視的世界の非難と無理解がある。しかしこうした可視的世界の俗事から超越する事によって、先駆的な行動が生まれるのである。
保身に明け暮れる者は、思考形式が狭窄的である。したがって見通しが立たない。自分の末路すら想像する事が出来ないのだ。
そして悲しい事は、日常と非日常の区別を即座に感知出来ない事である。
感知できないからこそ、突然に死が襲って来るとうろたえる。
松陰は死に赴く時、その態度は堂々たるもので、一糸乱れざるものであったという。
八丁堀同心から聴いた話として、佐倉藩士・依田学海(よだがっかい)の日記には次のように記されている。
「過ぎし日、死罪を命じられし、吉田寅次郎(松陰)の動止には、感泣たり。奉行、死罪のよしを読み聞かせし後、畏(かしこ)まり候(そうろう)よし恭敷(うやうやし)く、御答申して、平日庁に出ずる時に介添せる吏人(かんり)に久しく労をかけ候(そうろう)よしを言葉やさしくのべ、さて死刑にのぞみて鼻をかみ候(そうら)わんとて心靜かに用意してうたれけるとなり。およそ死刑に処せらるるものこれまで多しといえども、かくまで従容たるは見ず。多くは命をよみ聞かせらるる時、上気して面赤く、刑場に赴く時は腰立たず、左右より手をとり行くに、踵、地につく事なし……」とある。
また首切り役人・山田朝右衛門から聴いた話として松村介石(かいせき)は、雑誌『東洋文化』に、このように記している。
「吉田松陰が江戸に於いて首を斬られた祖の最後の態度は堂々たるものであった。松陰の首を打った山田朝右衛門(やまだあさえもん/江戸中期以降、代々、将軍の刀のためし斬りを本職とし、また死罪執行のとき首打役をも引き受けた浪人。世に「首斬朝右衛門」と称す。初代は1700年頃の人で、吉田松陰を斬首したのは幕末近代の人)は、先年まで居って、四谷に居た。その人の話によると、いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は実にあっぱれなものであったと言う。悠々として歩を運んできて、役人共に一揖し、《ご苦労様》と言って端座した。その一子乱れざる、堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」とある。
生死を超越した死生観は、人々に従容として潔さを感じつけている。最後を聴く者に、肺を抉られるような思いを印象づけるが、一方に於いて、この潔さは後世の感嘆を得る事になる。そしてこれこそが、「一粒の麦、地に墜ちて死なずば」を地でいった事になる。
どこかイエスの、首都エルサレムでパリサイ派や祭司階級を批判、あるいは讒訴(ざんそ/讒言(ざんげん)して訴えること)されて、ゴルゴタ丘(Golgotha/エルサレム近郊の丘)で十字架刑にかかった、あの死を彷佛(ほうふつ)とさせるではないか。
●天命は、消極的な行いを好まず、積極的な行いを好む
ひたすら保身に明け暮れ、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の一生に安堵(あんど)する者は、やがてその全てを奪われ、己の身を捨てて、決死の意識で、戦わずして勝つの理を探究する者は、その使命は果たされ、事は成就されるものである。
成就への原動力は、まず不成功に終わっても、それに懲(こ)りて諦めない事であり、窮地(きゅうち)に追い込まっれても、そこから逃げ出さない事である。
人生に於て苦悩し、困苦を味あう事は常であり、この苦しみに圧倒され、本来の自分を見失わない事である。
己を信じる事の出来ない者や、信念の希薄な者は極致に立たされた時、そこから逃げ出そうとする。あるいは進退に迷いが生じる。これこそが墓穴の第一歩現象であり、確立した自己を形成してない者は此処で躓(つまず)き、自分の一生を台無しにする。
そこで、積極性の一つとして、自分の生き態に、まず「理想」を掲げる事である。こうする事によって、一つの人生観が出て来る。何かの理想に向かって追求する積極性である。理想に向けて、欣求精進(ごんぐしょうじん)の姿こそ、普遍的な永遠なる「道」として、自己を生かす原動力となるのである。
人間は、吾(わ)が身を楽にし、保身に奔走すれば、それはどうしても守りの体勢を作り上げ、萎縮して消極的になる。また享楽に酔い痴れると、一時の夢に浮かされて、ついにそこから抜け出す機会を失ってしまう。
つまり「積極的」とは、享楽的生活からの訣別である。甘美な世界から脱却して、官能に浸る生活を追放し、精神的なものへと移行させる事である。不断に、自己のぐうたら駆逐し、楽欲を克服して、「人間はかくあるべきだ」という、一つの理想を掲げる事である。理想生活に向けての精進努力である。
肉欲と甘美と、この世の春の宵からの訣別をする時、人は、傷付き、躓(つまず)きながらも、一つの理想への入口に辿り着く。「歌え歓(よろこ)べ」の悦楽の世界から卒業し、理想に向けて、屈する事もなく突き進む「道」が、此処に来て登場する。その道が、喩え、悲劇の結末で終ろうとも、それを恐れずに突き進む姿である。
こうした姿に、幸運の女神は微笑みかける。女神はそこを観ているのである。この神は、決して気紛れな神ではない。
人間が初めて、「道」に目覚める境地に至った時、女神は。それに細やかな助力を加えるのである。諦めず、斃(たお)れても斃れても起き上がってくる人間には、万雷(ばんらい)の拍手が送られる。
だから、打たれても、なお起き上がり、それに屈しない姿は、自らの態度を尊大にするのである。偉大にするのである。これにより、いままで臆病者として罵(ののし)られていた、懦夫(だふ)でも、ついに勇者となるのである。
●一年後の己の心が、果たして読み切れるか
人間の心は常に揺れ動くものである。心境は絶えず変化するものである。
自他共に、心は変化とともに揺れ動き、「今」と言う次元でさえ、一旦、心が揺れ動けば、まだ来もしない明日を憂うものである。
「今」の感知を間違うと、人は往々にして、「恐れるものは皆来る」の落し穴に嵌(はま)り込んでいるのである。
明日に喜びを抱く者は、明日の到来を楽しみにし、明日の苦悩を予見する者は、まだ来もしない明日の運命を苦悩するのである。いずれも愚かな事である。
特に、堪え性(こらえしょう/がまんのできる性分。あるいは生れつきの損な性質)のない人間は、一喜一憂し、喜怒哀楽に振りまわされる。したがって堪え性を養う事は非常に大事な事である。
喩(たと)えば、コップに落ちる一滴一滴の水滴でも長時間に至れば、コップ一杯に満たす事が出来、飲めばこれで咽喉(のど)を潤す事が出来る。コップ一杯になれば、非常時の立派な飲料水ともなるのだ。
ところが一滴一滴の雫(しずく)を、堪え性がなくて、適度に溜め、それを小出しにして掠め取って行けば、到底、非常時には咽喉を潤す飲料水とはならない。我慢強く耐え忍び、目先の雫の少量に、誘惑される事なく、堪えて、忍んでこそ、それはコップを並々と満たす、非常時の飲料水となるのだ。
こうした堪え性を養う事は、寒さを凌(しの)ぐ、石油ストーブの火にも同じ事が言える。点火する火を普段より、10分遅らせれば、10分だけ後に長引かせる事が出来る。逆に、10分速めれば、10分だけ気は早く消えてしまう。
同じように、20分、30分と遅らせれば、その分だけ後に長引く事になり、速めれば、その分だけ早く火は消えてしまう。一日我慢すれば、一日分だけ後に長引き、一日の我慢を失えば、一日分の消費がそれで費える。
人間には自分の心の中に、我慢する自分と堪え性のない自分が存在する。どちらの心が働くか、それは己の心の読み方に掛かっている。
しかし心と言うものは、不確実なものであり、常に揺れ動いている。一年後、二年後の心が、果たして自分で読み切れるか否か、それは心を制御する根本構造を構築する「信念」に掛かっているのである。
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