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吾が修行時代を振り帰る 41


●伊倉南八幡宮参拝

 平成2年の4月頃、家内と二人で熊本県玉名市の「伊倉南八幡宮」に詣でた事があった。桜の季節が終り、4月の下旬だったと記憶しているが、そこへ夫婦で出掛けたのであった。
 此処の神社は、家内が独学でやっていた「方位学」から割り出したもので、家内は、その神社から“御札”や“お守り”を通販で買っていたようだ。

 最初、このことを知らず、家の中に伊倉南八幡宮の御札が貼ってあるので、「何処の神社の御札だ?』と訊いたことから、この神社の宮司と手紙をやり取りすることになったのである。手紙を何度かやり取りし、また度々電話も掛け、この神社の宮司の人柄に惹
(ひ)き寄せられていった。宮司は非常に好人物であった。
 そしてこの年の4月に、伊倉南八幡宮に夫婦で参拝することになったのである。

 この日の早朝、特急『有明』で玉名まで向かった。玉名駅に着くと、此処からタクシーで伊倉南八幡宮へと向かった。此処の神社は不思議な線引きの管轄
(かんかつ)がなされていて、道路を挟み、上が伊倉北八幡宮となり、下が伊倉南八幡宮だった。

 当時、神社横の社務所は、自宅と棟続きになっていて、本日電話で参拝することを伝えておいたら、宮司御夫妻
(この神社では、奥様も国学院大学の出身者であるらしく、神主の資格を持っていた)が暖かく私達を迎えてくれた。参拝に来たことで、神社の本殿に案内され、私達夫婦揃って祝詞を挙げて下さった。その上、昼ご飯を御馳走(ごちそう)になり、祝詞料として奉納した5000円は、後で東弘典(ひがし‐ひろのり)宮司より、私達の経済状態を充分に承知している為か、「奉納頂いた5000円は、一度神様にお供えしたのであるから、これは神様が貰ったのも同じ。したがって神様は、今度はあなた達お二人に餞別(せんべつ)としてお渡しになるよう言われました」と言うのであった。
 そして、「これを何かに役立てて下さい」と言われたのであった。

 また、東宮司は「西郷家」の事に非常に詳しく、薩摩西郷家と会津西郷家は遠縁であることを仰っていた。そして「西郷」の苗字は遠く、「菊池一族」から始まり、菊地家初代の則隆の子に政隆がおり、この人が「西郷太郎」を名乗っていたと言う。
 私が愛隆堂の今堀社長に請われて『大東流合気武術2』を出す時に、“流派の歴史的な流れの資料収集の一助となれば”ということで、西郷派大東流の為に菊池氏の系図を、ご説明頂いたのであった。

伊倉南八幡宮・宮司東弘典氏よりの手紙(表)
伊倉南八幡宮・宮司東弘典氏よりの手紙(裏)

菊池一族と西郷家を語る東弘典氏の手紙(1) 菊池一族と西郷家を語る東弘典氏の手紙(2)
菊池一族と西郷家を語る東弘典氏の手紙(3) 菊池一族と西郷家を語る東弘典氏の手紙(4)

 東宮司の話によれば、熊本菊池の郷から西郷一族が、一部は南に下って、薩摩西郷家となり、また一部は北に上って会津西郷家を形成したとしても不思議ではないと言っておられた。菊池家は九州の名族であり、伊倉南八幡宮は菊池一族の西郷太郎が作ったものだと言う。
 そして、伊倉南八幡宮の宮司家は「東
(ひがし)」であり、この一族が伊倉南八幡宮と宇佐神宮の「宇佐家」の系統だと言うのであった。

 また東宮司は、「大東流合気道」
【註】今日の武田惣角を祖とする明治以降の大東流合気武道や大東流合気柔術ではない)のことを以前から能(よ)く御存じで、“もしかしたら会津西郷家に伝わった技は、もともとは「菊井一族の技」で、これが会津に伝わったのでは?”と言う推理を立てている方であった。
 菊池一族には、国難が迫る時や、国家が窮地
(きゅうち)に陥った時には、菊池氏が出兵し、「正義武断」と言う戦闘思想があった。これは武士が職能人として、何らかの武技的な技術を持っていたと言う事が裏付けとなっている。

 幾ら正義を論じても、その裏付けとなる“力”がなければ、その正義は成り立たない。これが菊池一族の存在とともに浮かび上がる「正義武断」であった。西郷太郎以降の一族が、この“力”を持って、会津に向かったとしても不思議ではないのである。

 かつて武田時宗先生が、わが方に数回訪れた時、「会津藩の文化と武術は、代々西郷家が伝えていた」と言う話と、まさにピッタリと一致するのである。
 このように考えてくると、「大東流」というのは、何も武田惣角のみが専売特許とした大東流ではないことが分かる。

 武田時宗先生が生前展開した「大同団結」のスローガンは、大同団結により、全国に「大東流」を名乗る道場や団体を取り込んで行く運動であったが、この中には武田惣角の大東流とは、縁
(えん)も所縁(ゆかり)もない大東流が、かなりあったと思われる。勿論、勝手に名乗った大東流もあったし、また大東流であっても、『武芸流派大事典』に出て来る、大東流合気武道以前の“古典の大東流柔術”であったり、“大東流手裏剣術”の大東流であったと思われるものもある。あるいは勝手に「大東流」を語った団体もあったと思われる。

 しかし、これらの団体は、大東流合気武道に取り込まれた以降、これまでの“大東流擬
(もど)き”が、会員になることにより、大手を振って大東流を名乗ることが出来た。ここに大同団結の狙いがあったように思う。
 しかし、わが「西郷派大東流」は、この大同団結に与
(くみ)しなかった。

 与しない理由は、次の通りである。

西龍一郎が、どう立ち回って武田時宗先生に取り付いたかは知らないが、この時(筆者は大東流合気武道から貰った会員証を返す直前)、西は九州総支部長になっていた。もし、与(くみ)すれば筆者は一頭も二等も低く、“もと師匠”が、西龍一郎の下にランク付けされることになる。実力のない西の下に、どうして筆者が位置付けされればならないのか。
 これにより、西の“等身大の人間像”が浮き彫りにされた観がある。
進龍一は武田時宗先生から、再三再四帰伏されることを奨(すす)められた。一方筆者は「何で私の弟子に、勝手に帰伏する事を奨めたのか」と抗議の手紙を書いたことがある。時宗先生は、これに答えて曰(いわ)く、「西龍一郎氏も、進龍一氏も、長い目で見てもらいたい」という返事だった。
 筆者は時宗先生の言われる「長い目で見てもらいたい」という返事に、未だに窮
(きゅう)するのであるが、この“長い目”というのは、西郷派大東流が、大東流合気武道の傘下に入ると言う意味であったと解釈している。これは帰伏ではないのか。
 後に進龍一は、次のように語った。
 「もし、時宗先生の言葉に乗って与
(くみ)していたら、俺は今頃、近藤さん(近藤勝之氏のこと)の弟と千葉県を二分して、その手下として奔走していたかも知れない」と。
 ここにも当時の「大同団結の論理」が働いていた。
時宗先生は、「西郷派と大東流合気武道は、よく似ていますね」と言い、小松雅宮氏は「(西郷派は)合気道より、よほどいい」と言われたが、これは大同団結への誘いであったと思料する。したがって、この“誘い”を受けなかった。
“誘い”を受けない理由として、西郷派と大東流合気武道は、一部の躰術(たいじゅうt)を除いて、似たような共通点(しかし体系的に分類が違うし、似たような技も少ない)が見られなかったこと。
 筆者は先師
(山下芳衛先生)より、柔術の他に剣術や試刀術、居合術や手裏剣術などを習った。しかし、大東流合気武道の演武会で、試し斬り、据え物斬り、居合や居掛之術などを見た事がない。剣術の技は、“直心影流の表の型”である。
 次に筆者は、弓術や半弓術を習ったが、こうしたものも大東流合気武道の演武会では見られなかった。また、文献の上では「武田惣角の合気槍術」
【註】後世の仮託か、あるいは惣角自身が創意工夫した槍術。しかし、具体的なものは体系化されていない)なるものが存在するようになっているが、わが流には「槍術」が存在する。
 本来、槍術は薙刀
(なぎなた)と異なり、「軽い」のが特長で、「片手」でも遣えるのが特長である。この特長を生かしたものが、大東流合気武道にはない。つまり、槍術が存在しない。
 また、大東流合気武道には、具体的に「腕
(かいな)を返す」という馬術で用いられる、馬術の“術”がない。
わが流には「思想」が存在するが、大東流合気武道には思想なるものがない。
 つまり、吉田松蔭の「松下村塾」のような、人間形成並びに日本人としての国学を学ぶ「文武両道」の思想が存在しない。
 今日の多くの大東流愛好者は、武田惣角の“武勇伝”に便乗し、それに機会に乗じて、うまいことをする意図が感じられる。これは強弱の根本である「武」のみを優に置き、「文」を蔑
(ないがし)ろにしている側面があることを窺(うかが)わせる。
 これでは「死を嗜
(たしな)む道」の「文武両道」は実現されない。
 つまり、日本と言う「大いなる東
(ひむがし)」の武人の心を受け継ぐことができない。
 西郷派が吉田松陰の「松下村塾」を追求するのに対し、大東流合気武道や、その他の大東流は、この点を目指していない。単に体育であり、健康法である。何処までも、“強弱の優位性”である。
 それでは時代を見抜き、そこに存在する“稀有
(きう)の世界観”を形成する事は出来ない。
 そもそも“歴史の流れ”というものは、単に歴史が流れて通過するだけでなく、その流れの中には、必ず「渦
(うず)」が存在し、この渦が、その場所と時を巻き込んで、歴史が展開されると言う構造がある。
 菊池一族から始まる南北の西郷家は、これを逸早く見抜き、「大いなる東
(ひむがし)」を掲げて、「大東」としたのではなかったか。西郷頼母が、南朝の支柱となった北畠親房(きたばたけ‐ちかふさ)を崇尊して居たことは有名な話である。

 わが流は以上をもって、「孤立無援の道」を選択した。
 しかし、大東流合気武道に与
(くみ)しないことで、西郷派は、日本で唯一つ孤立することになり、大東流の名を語るの偽物として、「武道界・武術界の総叩き」の矢面(やもて)に立たされ、批難を浴びることになるのである。
 いつの時代も、人よりも一歩先を歩くことは、可視的世界の中で賞賛されることでもあるが、数歩先の霧の向こうを走る人間は、往々にして現世に於いて、批難と無理解の渦中に立たされることがある。これはいつの時代も同じであろう。

 武術的かる思想的に、先駆的な行動や思考形式は、時として誤解され易い。またこの世界の中には、生死を超越する崇高
(すうこう)なものが存在するのにも関わらず、これに気付く者が余りにも少ない。
 かくして武術や武道は、素手で格闘することにより、その強弱論の優劣のみで結着が付けられ、それはあたかも、十六世紀の“乱世の兵法”に逆戻りさせただけであった。



●菊池一族の武技と、それからの西郷太郎一族

 伊倉南八幡宮の宮司・東弘典氏は、初代の菊池則隆(きくち‐のりたか)の嫡男・西郷太郎の一族が、遠く北へ移動したとしても不思議ではないとしている。また、西郷太郎一族の何(いず)れかが会津に棲(す)み、そこで“菊池家の武技”を伝えたとしても不思議ではないとしている。
 更に東弘典氏は、菊池一族が後世に伝えたものは、単に“乱世の兵法”ではなく、文化面における思想や思考形式であり、この“名”と“利”の狭間
(はざま)に「菊池氏の歴史」が展開されたと位置付けている。

 それは『太平記』に記される如く、「爰
(ここ)ニ本朝人皇(にんおう)ノ始メ、神武天皇ヨリ九十五代ノ帝、後醍醐天皇ノ御宇ニ当ツテ、武臣相模守平高時ト云者アリ。此時上(かみ)君之徳ニ乖(そむ)キ、下(しも)臣之礼ヲ失フ。之レ従リ四海大キニ乱テ、一日モ未ダ安カラズ。狼煙(ろうえん)天ヲ翳(かく)シ、鯢波(げいは)地ヲ動カスコト、今ニ至ルマデ四十余年。一人ト而(して)春秋ニ富メルコトヲ得ズ。万民手足(しゅそく)ヲ措(お)クニ所無シ」と、である。
 そして菊池一族は、肥後国
(ひご‐の‐くに)菊池郡を本拠地として栄えた武士の一族であった。

後醍醐天皇、笠置(かさぎ)落ちの図。後醍醐天皇は鎌倉末期の南北朝時代の天皇で、後宇多天皇の第二皇子として生を受ける。親政を志し、北条氏を滅ぼして建武新政を成就。間もなく足利尊氏の離反により吉野入りし、南朝を樹立したが、失意の間に没す。

 『太平記』の作者は“小島法師(こじま‐ほうし)説”が最も有力で、内容は幾つかの段階を経て、応安(1368〜1375)〜 永和(1375〜1379)の頃に成った軍記物語である。この物語は、北条高時失政ならびに建武中興を始め、南北朝時代五十余年間の争乱の様を、華麗な和漢混淆(こんこう)文によって描き出されている。

 建武2年
(1335)、建武の新政が崩れ、後醍醐天皇と足利尊氏の戦いが始まると、菊池氏は天皇方に付いた。中央では菊池武重(きくち‐たけしげ)の箱根山合戦が展開され、武重は父武時の挙兵に従い、その戦死後、九州南朝軍の中心として肥後や筑後で戦った。
 また九州では、弟武敏が延元1年
(1336)、足利尊氏と戦って敗れ、のち各地に転戦した。
 これからも分かるように、菊池氏は、九州の「南朝方」の中心として活躍したのである。

太平記絵巻に描かれた内乱の図

 内乱当時の武門では、一族が“宮方”と謂(いわ)れた「南朝方」と、“武家方”と謂れた北朝方に分裂して争った例も少なくなかったが、菊池氏はこれが殆ど表面化する事なく、また内部分裂が避けられ、一貫して「南朝方」として統一されていた。
 更に肥後国は、地理的に検
(み)た場合、九州の中央にあって、九州地方の北朝方の武家である、少弐(しょうに)家、大友家、島津家の連絡網を阻(はば)む重要な位置にあって、菊池氏の動向により、九州全土が左右されていた。

筑後川合戦の図。有名な筑後川(大保原)合戦は、6万と8千の戦いであり、また筑前長者原の合戦は7千と5千と『太平記』には出ている。この記述が正確かどうかは定かでないが、何れも、大軍を相手に野戦で勝利した事が記録されている。

 菊池武重の死後、菊池家の宗家となったのは菊池武士(きくち‐たけひと)だった。この時代は一貫して菊池氏の活動が停滞した時期であったが、宗家が菊池武光(きくち‐たけみつ)になると、征西将軍懐良親王(かねなが‐しんのう)の下(もと)、大友氏時(おおとも‐うじとき)や少弐頼尚(しょうに‐ためなお)らと戦い、菊池氏の勢力は大きく発展することになる。親王を擁(よう)した征西府の権威で、菊池氏は九州の南朝方勢力の盟主として、九州の地に君臨するのである。

 また菊池武光の孫の時代になると、菊池武朝
(きくち‐たけとも)が九州統治に精力的で、武朝は懐良(かねよし)・良成(ながなり)両親王を奉じた武将で、武朝は隈部山城を本拠として、九州探題の今川了俊(いまがわ‐りょうしゅん)と対抗したが、大勢を転換できなかった。
 しかし、菊池氏は北朝方の世になっても、名誉ある形で九州の地に生き残り、唯一の南朝方の武家であったと言えよう。

太平記絵巻/騎馬戦の図

 さて、菊池氏の系図を見ると、度々その子孫に「西郷」を名乗る人物が登場している。
 太宰少監の菊地則隆の子には政隆
(まさたか)が居(お)り、政隆は「西郷太郎」を名乗っている。また政隆の子・隆基は「西郷太夫」を名乗り、隆基(たかもと)の孫・隆房(たかふさ)は「西郷三郎」を名乗ってる。既に、平安から鎌倉期に掛けて、“西郷姓”が存在したのである。

 西郷氏系の祖霊は山崎霊社
【註】北宮の摂社で、五社宮に数えられ、山崎大明神とも。『菊池風土記』には「此内に山崎霊社大明神の御神体有り……」とある)であるが、菊池川流域の経隆(つねたか)霊社もその一つで、経隆霊社が北宮摂社の五社宮の内の若宮だったと謂(いわ)れる。経隆は、西郷氏ならびに小島氏を除いた総ての宗家を含めた、菊池一族の始祖である。
 則隆の子・蔵隆
(くらたか)は、系図では政隆と記され、「西郷太郎」と名乗っているところに重要な点を見い出すことができる。政隆は、「太郎」とありながら、家督相続をせず、庶流の西郷氏の祖として歴史に登場する。また政隆は肥後前司定任暗殺団の中心人物として、公的には五畿七道ごき‐しちどう/律令制下の地方行政区画で、山城・大和・摂津・河内・和泉の5ヵ国と、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道)に追捕の官符が発せられている。

 太宰府では、政隆は召進が命ぜられ、“お尋ね者”とされて、父・則隆もその一味と考えられて太宰府に出頭が命ぜられたことであろう。しかし、幸いにして、主君の太宰府権帥隆家の配慮によって、蔵隆らは海上を逃亡した事として報告され、結着が付いたが、菊池氏では則隆が隠退する事になった。菊池氏の家督は、事件に関係のなかった末弟の経隆が相続し、太宰府と所縁からも撤退
(てったい)して、本拠地肥後に引き蘢(こも)った事から、菊池一族はこの地を基盤とする事になる。

 この事から西郷氏は菊池一族の庶流であり、後の系図によれば、武房の父の兄弟は、西郷三郎隆政、加恵九郎隆時、城隆経、本郷四郎実照、それに菊池隆頼と5人であり、「石塁上の菊池勢」と一致するのである。そしてこの勢力は、末代まで勇猛果敢な武士団として崇められることになる。

 菊池勢の戦術は、南北朝の戦乱でその戦術を検討すると、楠木正成のゲリラ戦術とは大いに異なっている。楠木勢の戦術は、敵の大軍が攻め難い地形や、堅固な城攻めに誘い込み、ゲリラ戦術で相手を大いに悩ます戦法が用いられたが、菊池勢は、敵に比べて極めて少ない兵力で、多くの敵に立ち向かう野戦を展開している。
 菊池勢は常に大軍を相手しにして野戦に持ち込み、然
(しか)も長駆国外に打って出て、敵の本拠地を落している。更に本陣を破ろうとする戦い方が多かった。

 これは「平場の駆け」と謂
(いわ)れ、当時の騎馬隊を主力とした野戦で、何れも勝利を収めた例である。
 一般的に考えて、軍勢の数により、その勝負は左右されるものである。小人数の軍隊であり、寡兵
(かへい)であって、最初から勝負が見えているのに、菊池勢は鏡面から敵に挑(いど)み、その不利を補うだけの戦術と武器を所有し、中央突破を狙ったと言われる。
 これは得意の戦法が既に存在した事を意味し、特異な武器があったと考えられる。その武器こそ、槍の原点であった「菊池千本槍」と謂
(いわ)れている 

菊池槍。または「菊池千本槍」と謂れるものである。薙刀と違い、軽量で、片手で操作が出来た。
 短刀を切刃造りにして、造りとしては日本最古の槍と思われる。
(写真提供:大東美術刀剣店 福岡県公安委員会 第10221号)

 武士団の発生以来、合戦にあっては、距離をおいての弓矢の応酬(おうしゅう)が起り、それを防ぐ為に楯(たて)を必要とした。次に両軍は接近戦にい挑み、太刀、薙刀、組打による短刀などが遣われた。その上で、騎馬の機動力と、甲冑の防護力が勝敗の物理的な基盤を為(な)した。
 しかし、日本の最古の槍と謂
(いわ)れる槍に、「菊池槍」あるいは「菊池千本槍」なるものがある。
 槍は薙刀に比べて軽く、戦闘に於ては攻撃の素早さと、突き刺す正確さにおいて、優れた特長を持った武器であった。

 これは薙刀に比較して、長大で、重心が手許
(てもと)から遠い薙刀以上に勝るもので、片手でも扱える特長がある。その上で、一方に楯を持って攻守双方の戦いが展開できると言う有利さがあり、一方薙刀は両手で扱わなければならず、槍のようには両方が行えない。つまり、薙刀を握った場合、攻撃に於ては、楯による守りを捨てなければならない。この点、菊池槍は片手で使えて、然(しか)も突き刺す事に専念できた。甲冑を突き刺す破壊力も大きかった。

 ここに「刺す技」の長所がある。
 刺す技の長所は、これが片手で行えると謂う事である。
 著名な大宮司郎氏は『真伝合気口訣奥秘』の中で、「武道すなわち神道であると説く」と題して、「天地開闢
(かいびゃく)にあたって、天神から伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の二神に賜わった天瓊矛(あめ‐の‐ぬ‐ぼこ)は、天地の玄理に則って大八洲(おおやしま)つまり地上を生成した原動力であり、同時に武徳の象徴である」と論じ、“地上を生成した原動力”を、次のように言っている。

 「宇宙創造の根源の神として三柱の神が示されている。天御中主神
(あめのみなかぬしのかみ)、高御産霊神(たまみむすびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ)である。
 天御中主神は宇宙の中心に座す神であり、同時に人の中心に座す神である。
 高御産霊神は高く、健
(たけ)く、外に発する働きである。
 神産霊神は、カミ、噛
(か)み締める、内集する働きである。
 実は、そうした天地生成の三柱の神の働きは、合気之術の基本となるいくつかの心得と一致する。
 天御中主神は人体の臍下
(せいか)丹田に当り、そこを中心にした躰動が合気之術身体動作の根本である。
 高御産霊神は合気的な発気であり、脱力である。
 神産霊神は合気的な密着、力の集中である」と説明している。

 これらを冷徹に解読して行けば、「槍の刺す技法」にも通ずつではないか。
 それは「一円相
(いちえんそう)」に回帰されよう。一円相は、宇宙をも包含するという。自由自在に変化するともいう。しかし、円相のみに固執したら、真意を見失うという。
 一円相は天地大自然から大宇宙を包含するばかりでなく、その状況に応じては、心の姿を顕したり、あらゆるものに自由自在に変幻するのである。その為に「円相」ばかりに心が囚
(とら)われたのでは、本当の真意は見逃してしまうだろう。

 かつて剣豪・宮本武蔵は吉岡一門を討ち果たした後、美濃の大仙寺に愚堂
(ぐどう)和尚を訪ねたことがあった。そして天地大自然のことについて、教えを乞うたのであった。その時、和尚は何も言わず、武蔵が立っている周りに杖で一円相を描き、そのまま旅に出てしまったのである。武蔵は、一円相の中に取り置かれ、これが何であるか、三日三晩考え抜き、ようやく一円相より脱することが出来たという。

 一方、槍も「円相」を貫く「術」である。菊池一族は、既にこの時代、菊池槍を発明し、その真髄を会得していたともと思われる。

大宮司郎氏の名刺
武田社長の名刺

真伝合気口訣奥秘(大宮司郎著、八幡書店)

 私は大宮司郎氏とも、また八幡書店の武田崇元(たけだ‐すうげん)社長も、よく御存じ申し上げている。
 また、熊本県玉名市の伊倉南八幡宮に詣でた事は、西郷家の源流である「菊池一族」の流れを研究する事にも役立ったし、また宮司の東弘典氏が、熊本菊池の郷から西郷一族が、一部は南に下って、薩摩西郷家となり、また一部は北に上って会津西郷家を形成したとしても不思議ではないと言っておられた事にも、得心がいったのである。




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