●ある雪の日の日曜日
私は明後日の手形決済が、どうしても頭から離れなかった。どう工面するかを考えていた。柴山氏に「明後日までには、必ず手形決済をいたしますので、ご安心ください」と言った以上、これを履行(りこう)するしかなかった。しかし、500万円を、どう工面するか、思案に暮れていた。そして、「生きていく」という事を、根本から思い知らされ、その難しさを感じるのだった。
生きていくという事は、歳月を積み重ねて行く事である。同時に歳月は、人を待たず、容赦のない変化を押し付けて来るのである。それは老化であり、また病気などでもあった。
夫婦が共に健康で、互いに協力関係にある時は、様々な変化も、その信頼において乗り越えて行く事ができる。夫婦はそれを認め合い、うこうした運命の定めに従うことが、人間の生活と言えよう。
ところが、「認め合うバランス」が一度崩れると、夫婦の何(いず)れかに、重く、辛い現実が襲い掛かって来る。また大きな疲労を背負い込む事になる。疲労は重くのしかかり、次第に周囲への注意力を散漫にする。思考力も落ちはじめる。考え事をしていても、同じところを堂々回りする。私の心は疲弊して、“もう限界だ”と悲鳴を上げていた。回転の鈍くなった頭で、そう結論を出していたのである。
私は、こうした現実に苦悶(くもん)しなながら、私に襲い掛かる嵐の通過を、辛抱強く、耐え忍んでいたのである。
この日の早朝、小倉南区志井方面には、例年になく大雪が降った。平成2年の2月上旬頃ではなかっただろうか。
積雪は平地でも30cmを記録した。当時の“住まい”兼“道場”の、尚道館ビルの屋上にも、珍しく雪が積もった。長靴を履(は)いて屋上の外に出ると、ズボッと膝近くまで隠れる程だった。
この日は、日曜日だったと記憶している。土曜の午後を過ぎ、日曜日一杯は、“借金取り”も休戦状態に入るので、返済遅延の債権者からは電話が掛からない。その他の督促もない。一時(ひととき)の安らぎが、ほんの束(つか)の間に訪れる。そんな日であったことを憶えている。辺一面は、白一色であった。
この日曜日、私は家内と二人で子供心に帰って、雪達磨(ゆき‐だるま)を作った。二人で長靴を履き、円い雪玉を転がした。そして2メートル程の雪達磨が出来た。
恐らく此処に子供が居たら、どんなにか喜んだに違いないと思いながら、作り上げた雪達磨を見上げたが、その幻想は直ぐに泡(あわ)のように崩れ、子供の喜ぶ顔を見ない儘(まま)、その日一日は過ぎようとしていた。
当時私の印象に深く刻まれた出来事は、ただあの大雪の日、家内と二人で雪達磨を作った事だけがはっきりと残った。それからというものは、明けても覚めても、支払いと金策に追われた。
眼覚まし時計の音で、朝早く、ゼンマイ仕掛けの人形のように飛び起き、急いでワイシャツを着、ネクタイを結び、背広に着替え、出勤に急ぐ姿であった。
始発のモノレールの席はガラ空で、纔(わずか)に一人二人が疎(まば)らにポッンポッンと座っていた。朝早くから小倉の総本部の予備校に出勤し、多くの難問に忙殺されていた。判で押したように、同じ時間に起き、多忙に追われ、終電で帰宅するという日々が続いた。それでも相変わらず、債権者の借金取立は厳しかった。
そんな毎日の中での一時が、大雪の降った日の日曜日だった。しかし、午後になると陽が指して来て、折角作った雪達磨は、傾き掛けていた。眼の前に、居もしない子供二人の悲しそうな顔を幻影する。それは崩れかける雪達磨を哀れむ、子供の顔の幻影だった。
子供二人は、児童保護法(今日では児童福祉法と同じものになっている)ならびに児童福祉法に従い、特別児童養護施設(1998年、児童養護施設に名称変更)に預けてあった。母親が精神分裂病の為に入退院を繰り返し、こうした状況下では育児能力がない。その為に、児童福祉施設に預けなければならなかった。
私は、その時の事を確かに憶(おぼ)えている。
福祉事務所の職員に、八幡厚生病院の精神科を紹介され、そこで診察を受け、直ちに緊急入院が決まったその日、私は八幡東区尾倉町の児童相談所(児童の福祉増進について相談に応じ、必要によっては児童およびその家庭につき必要な調査・判定・指導を行う機関。児童福祉法に基づき都道府県および政令指定都市に設けられる)に、二人の子供を連れていかなければならなかった。
八幡厚生病院に入院が決定したその日、福祉事務所の職員二名が家内と子供二人を、この病院の待合室に連れて来ていた。子供二人は、福祉事務所の職員の何(いずれ)れかから、病院内の売店でパンを買ってもらったらしく、各々の手には菓子パンが握られていた。
私はこの時、予備校の授業を、他の講師に代わってもらって、時間を作り、この病院に来たところであった。
子供達はパンを片手に遊んでいた。それを家内が追い掛け、「そんな穢(きたな)いものは食べるのではありません」と大声で子供に言い聞かせていた。もう完全に狂っていて、手の施しようがなかった。福祉事務所の職員は、この病院に、かなり前から連れて来ていると言うことだった。
精神科は診察を受けるのにも、かなりの時間が掛かる。もう三時間以上も待たされていると言う。
そして、いよいよ診察の段となり、精神科医の前に両脇から二人の看護師に掴まれて、家内が引き立てられた。それでも家内は何か喚(わめ)き立てていた。
「あの悪魔どもが来たから、こうなったのだ!」と、錯乱状態で喚いていた。
診察した精神科医は、「重度の精神分裂病です。完治は無理ですが、気長に時間をかければ、また社会に復帰することができるかも知れません」と、完治の難しいことを仄(ほの)めかした。
私は「重度の精神分裂病」という事に、激しい衝撃を憶えた。そして完治が難しいと言うことも悟った。
“絶望”と言う名の理不尽を背負う以外ないのであるが、私の心に引っ掛かったことは、家内が云った「あの悪魔ども……」の言葉の意味であった。
私自身も以前に、精神分裂病に関する医学書をかなりの数、読んでいたので、深層心理にある心因反応(psychogene Reaktion)は研究していたが、この反応は、精神科医学書によれば、欲求不満や葛藤(かつとう)などの心理的ならびいに精神的原因によって起因する精神障害の事で、神経症および心因性精神病を含むものである。したがって、根底には“心理的原因”が潜(ひそ)んでいるのである。
ここには明らかに、葛藤があり、心の中に、それぞれ違った方向、あるいは相反する方向の力があって、その選択に苦慮する闘いが繰り広げられていると見えたのである。つまり、心理的葛藤が働き、そこで精神的な格闘が繰り返されていると映ったのである。
私は精神科医に、家内が云った「あの悪魔ども……」の意味を訊(き)いてみた。
これに精神科医、答えて曰(いわ)く、「過去の出来事の中に“悪魔の仕業(しわざ)”と思(おぼ)しきものが存在すれば、深層心理の中で創り出された悪魔が、分裂病に関わる何かを起因させることはあるでしょうね。
しかし、“悪魔”の基準は人により様々でしょうから、それは不明としても、心因反応が起る所在は、過去の出来事と関連している為、これが事ある度(たび)に反復されることはあるでしょう。勿論これがどの深度で起っているかは、その人の感受性にも、よりましょうが……」と言うのであった。
家内の心の中には、八幡大学合気柔術部の「徒党を組んで」の造反事件が、未(いま)だに解決されていないのである。「徒党を組んで」の、この行為が、絶対に赦(ゆる)せないのである。「奪うだけ奪っておいて」という理不尽に対する憤(いきどお)りが、未だに沈静化していないのである。
そこに、何かのはずみで憤懣(ふんまん)やる方ない憎悪が吹き上げて来るのである。しかし、この憤懣から起る憤(いきどお)りは、これで結着を迎えたのではなかった。
その後、たびたび津波のような衝撃となって、再び彼女を襲うのであった。永遠に解決されない、まさに“もぐら叩きゲーム”であった。
私は失意に暮れるしかなかった。絶望と言う名の理不尽が、私にも津波のように押し寄せて来るのであった。人間の傲慢(ごうまん)と、欲望の主張。自己顕示欲。更には自己宣伝欲に名を借りた売名行為。
これらは確かに俗人の心を汚染している。その汚染は、単に汚染者自身に反映されるばかりでなく、それに触れた周りにも汚染物質は、空気を伝染し、言葉を伝染し、活字を伝染し、襲って来るものである。
此処に現代社会の、理不尽なる不条理が存在しているのである。私は理不尽に敗北する以外なかった。
八幡厚生病院に家内が緊急入院の決定されたその後、私は尾倉町の児童相談所に連れていったことを憶えている。2歳になったばかりの彩の手を引き、1歳の竜磨を腕に抱き、三ヶ森から、電車で尾倉町へと向かった。黒崎で筑豊電鉄から西鉄の市街電車に乗り換え、子供二人を車内の長椅子に遊ばせながら、尾倉町へと向かった。電車は通勤ラッシュの少し前であるのは、空いていて、子供達は長椅子の上を走り回って遊んでいた。
電停に着くと、此処から二人の子供の手を引いて、児童相談所に向かった。そして児童相談所の職員も、親と子供の“別れ際”が如何に大変であるかを知っていて、「泣きわめいても困りますから」と言い、「子供さんを、幼児部屋で遊ばせますから、その隙(すき)にお父さんは姿を消して下さい」と言うのであった。
何と惨(むご)い“別れ際”を演出するではないか。
これも偏(ひとえ)に、八幡大学合気柔術部の「徒党を組んで」の造反事件が尾を引いていることを認めざるを得なかった。この事件が、一人の人間の精神を狂わし、一家離散に導いたのであった。
児童相談所に預けた時点で、親はその親権が剥奪(はくだつ)され、以降の未青年期は都道府県が監督する。この時点で、未成年の子に対して、父母が有する、監護や教育や財産の管理などの包括的な権限および責務は、親から都道府県に移るのである。以後、子供の監督と責務は、児童養護施設か、里親が権利を持つことになる。
児童相談所は、乳児院や、児童養護施設や、児童自立支援施設への入所措置を決定する機関であり、主に保護者のない児童や虐待(ぎゃくたい)されている児童などを入所させて養護する施設である。また児童相談所は空きの児童養護施設か、里親になってくれる家庭が見つかる迄は、此処が子供を預かるのである。此処での最長滞在期間は2ヵ月迄で、その後、児童養護施設か、里親に引き取られていく。
私の子供は、2ヵ月後、児童相談所から小倉南区長行(おさゆき)の「双葉学園」へと引き取られていった。
家内は、退院後、此処を度々訪れたようであった。
そして平成2年の2月のある日曜の雪の日、私は家内を連れて、徒歩で双葉学園に子供の面会に行ったことを憶えている。
子供達は集団に揉(も)まれて、日常の生活力が逞(たくま)しくなっていた。何事も競走であるらしく、すばしっこさが身に付いていた。ぼやぼやしていては、自分が優遇されないことを学んでいたのである。此処には子供の世界には珍しい、生存競争と適者生存の原則が働いていた。
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| ▲子供の面会に訪れた日。暖房の利いた暖かい部屋は、物質的には幸せを感じさせるものであったが……。(写真は2月ではなく、同年の4月頃と思われる) |
此処で30分ほどの時間を費やしたであろうか。
帰りに困ったのは、彩が「ここから一緒に家に帰る」と言って泣き出し、言うことをきかないことだった。そして保母に引き離され、さっさと引き取られて、奥に連れて行かれたことであった。
あの日曜の雪の日は、そんな日だった。
そして私の下の子供二人は、親許(おやもと)を離れて、児童養護施設『双葉学園』で5年間も暮らすことになる。
●手形決済
私は明日に迫った手形決済に苦慮(くりょ)していた。
無担保、無保証で借りれるところは、総て借り尽していた。また、日本刀をはじめとする美術品も、売り捌(さば)いて、手許(てもと)には金になるような“もの”はなく、残っていても雅楽多(がらくた)ばかりだった。後は担保を入れて、これで幾らかでも借り入れするしかなかった。それは、かつて有限会社明林塾の教職員の為の、社内寮として購入したマンションであった。
4LDKのマンションで、広さの割りには安く、その理由は1階であること。日当たりが悪い事であった。当時の金額で2000万円弱で、これを私が自社から、購入資金を借用し、それにより購入したマンションであった。このマンションの権利証書を持って奔走し、抵当権設定を許して金を借り入れる事であった。これを一般には、「抵当貸」などと言う。債権者が剃頭設定をし、抵当を取って金銭を貸し付けることを言う。
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▲友田のマンションの権利証書
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▲権利証書内の使用許可書
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友田のマンションの権利証書は、いろいろと想い出のあるものであった。この権利書は、いろいろと持ち歩いたのだが、中々抵当権設定が出来ず、借入に度々失敗したものだった。
このマンションは、平成元年の1月頃の購入したものであったが、一度、「金融に詳しいと言う人間に引き合わせるから、千葉まで出て来てくれませんか」という依頼を受けて、千葉まで出て行った事があった。これを言い出したのは、わが流の進龍一師範だった。
進龍一の話を聞くと、“もと警察官上がりで、不動産や金融のことに詳しい、知能犯出身の人が居るので、この人に引き合わせる”と言う事であった。
私が、「“もと警察官”と何処で知り合ったのか」と訊くと、彼は「パチンコやで知り合った」と言う。不動産や金融に詳しい人間が、どうしてパチンコ屋に出入りするのかは分からなかったが、彼はそのように言った。
この自称“もと警察官”には手下と言うか、配下と言うか、そうした若者が一人居て、その若者は早稲田の法学部出身と言う事であった。そして、いよいよ引き合わせにより、“御対面”ということになった。
この時直感として、自称“もと警察官”は、そのように見えなかった。私も何人か警察官を知っているが、共通して言えることは誰もが、「非常に目が鋭い」ことだ。しかし、“もと警察官”はそういう目をしていなかった。眼に力がなかった。パチンコ屋に出入りする、そのようなタイプの目の男だった。
私は、自称“もと警察官”と自称“早稲田の法学部出身”を疑っていたのである。その人相から、そういう知識があるようには思えなかったからである。しかし進龍一は、この二人に、ころりと騙(だま)されているようで、進曰(いわ)く、「奴等は凄い実力を隠しているのだ」ということであったが、私には、そう見えなかった。
私は試しに、マンションの権利証書を出し、これが換金できないか訊いてみた。しかし“もと警察官”は権利証書の見方や、抵当権設定の見方を全く知らなかった。質問すると、ボロが出そうになり、話をはぐらかしてしまうのである。更に追い込むと、全く話を変えて、「今晩、クラブに接待するから」と言い出したのである。
高級クラブを2、3軒“はしご”して、最後に行き着いた先は、フィリピン・バーだった。フィリピンからの出稼ぎの女性が、わんさと居た。
“もと警察官”は「好きな女性を何人でもいいから、好きにしろ」と言うのである。此処ではヤクザのように“顔”であったが、進と顔を見合わせ、「本当かな?」と疑い始めたのである。
そして、いよいよ「好きな女性をどうぞ」と言う段になった時、これは“もと警察官”に嵌(は)められているのではないかと、確信が持てるようになり、私と進は、便所を行く振りをして、この場から退散したのであった。危うく、根こそぎ取り込まれるところであった。
今回ばかりは、進龍一の眼力は狂っていたようである。
「君子は危うきに近寄らず」と言うが、まさにその通りだった。身を慎み守ってこそ、人間の威厳は保たれるのである。“うまい話”は、必ず毒針が隠されている。
結局この時の千葉行きは、無駄足だった。権利証書は結局換金するような手立てはなかった。
─────また、同権利証書を持って、次なる奔走をした事があった。
人間は金に窮(きゅう)するようになると、どうしてもスポーツ新聞や週刊誌の金融広告に目が言ってしまうらしい。私もこれらに目が行っていたのである。その広告の中に、一軒だけ、権利証書を持参した上で、担保設定が完了すれば、200万円まで貸すと言う広告を見たのだった。即、電話し、内容を訊(き)いてみた。
すると、その金融会社の社長のような男が電話に出て、今直ぐ来いと言う。私はその会社にタクシーで向かい、借金の相談に出向いたのであった。
この会社はマンションの最上階にあり、そこまでエレベーターで上がり、部屋を訪ねると、ドアには小さなプレートが掛かり“K信販”とあり、此処のドアをノックした。中からは「どうぞ」という女性の声がして、伺った旨を話した。
この時、社長と思(おぼ)しき男はこの席に居ず、別の部屋から指示を出しているようだった。
話はトントン拍子に進み、書類作成も、この女性が総(すべ)てやってくれた。そして金額を書く段になって、私が金額の単位の位取りを間違い、200万と書くところを、“0”を一つ多く付けて、2000万円と書いてしまったのである。
その金額が間違いであることを、その女性に伝えた。女性は慌(あわ)てて、社長らしき者へ電話をし、この“書き損ない”について指示を受けていた。そして社長らしき男は、私に電話に出よと云ったらしく、電話に出ると、男の声で「お前は何歳か?」と訊いた。私は「41です」と答えた。
「41もなって、商売をしていて、お前は“位取り”も分からんのか!」と罵倒されたのであった。
その後、電話は「女性に代われ」と言うことで、女性に渡したが、女性はその電話を受けて「申し訳ございません。今回のことは無かったことに」と申し訳なさそうに謝ったのである。ついに見放された観があった。今一歩のところで、“うっちゃり”を食わされたのである。そのマンション(金融会社)から出て、最寄りの電停まで歩くのに、足が重く、長い時間が掛かったような記憶がある。
─────明日に迫った手形決済の為に、同じ権利証書を持って奔走していた。
「二度あることは三度ある」という故事の、特に、悪い事は繰り返し起るという“喩(たと)え”を脳裡(のうり)に反芻(はんすう)しながら、奔走したのであった。そして一軒だけ、可能性のあるところを探し出したのである。
その金融会社は、表面からは得体の知れない、ヤミ金の様相を漂わせていた。しかし、此処まで来れば、それが悪質な街金であろうと、ヤミ金であろうと、私には何の関係も無かった。明日の手形決済だけが問題なのであり、これを決済できれば、金は何処から借りようと同じであった。
数日前、F銀行の柴山氏に約束した通り、「必ず決済しますよ」を実行しなければならなかった。もう、“二度あることは三度ある”を繰り返してはならなかったのである。
私はスポーツ新聞広告の金融欄に出ていた、Tキャッシュ・サービスに予(あらかじ)め電話をしておいて、出向いたのだった。この会社が入る雑居ビルの一室に、Tキャッシュ・サービスはあった。此処も一般の街金と同じような、受付嬢がいて、出向いた用件を伝えると、直に社長に“お目通り”と言うことになった。
そして社長室に入った途端、その若い社長が「あッ、先生!」と、驚いた声を挙げ、私も「あッ!」と思ったのである。
この若き社長は、かつて私がある大学の非常勤講師をして居た時に、一年間、数学を教えたことのある学生であった。いつも熱心に授業には顔を出し、一番前の席で陣取っていた学生であったから、よく憶えていたのである。
この学生はS君(彼は学生の頃から名前のSをとって“S坊”と呼ばれていた)と言い、彼は折尾の金貸し(【註】対価に値する担保を持っていれば、その日のうちに1億円以上を用意できる高額貸し付け業者)をしている富豪の妾の子であり、父親の遺伝をそのまま受けたのか、やはり彼も金貸しになっていた。
彼は私の顔を見るなり、「“自分”は学生時代、先生から“無限等比級数”を徹底的に仕込まれましたから、利息計算が数字を検(み)ただけで、複利法のいう数値が、おおよそ暗算で検討が付くようになったのですよ」と、かつての昔話を始めたのであった。
「S君、実は私は……」と切り出すと、S君は「金でしょ、幾ら用立てたら宜しいでしょうか?」と、既に私の心の裡(うち)を見抜いていた。
「……………」
「“自分”はこういう商売をしている関係上、人の顔色を読むのがうまくなりましてね」
「実は……」と云いかけて、私はその場に土下座し、「頼みます、明日の(銀行のしまる時間の午後)3時までに500万が必要です」と頭を下げていた。
「先生、その土下座は止めて貰えませんか。先生にそんなことをされると、商売がやり難くて仕方ありません。“自分”は金貸しなので、金を貸すのは商売。商売は、商売人がお客に頭を下げるのであって、お客が商売人に頭を下げるのではありません。天地が逆さになる、下剋上のようなことは止めて下さい」と云い放ったのであった。
彼は学生時代、真面目な学生であったが、成績はそんなに良い方ではなかった。しかし、金貸しをして、社会の荒波に揉(も)まれ、充分に成長したことは窺(うかが)えた。
「……………」
「500万、いま此処で御用立てしましょう。担保も何もとりません。ただし、用立て期間は10日間です。10日過ぎると、お貸しして差し上げた債権は、直に別にところに移ります。そういう契約でありましたら、いま直、ここで御用立て致します」
私は、ほっとした気持ちで、「お願いします」と頭を下げていた。
500万、即金で貸すと言う事であったが、利息は10日間で1割と高く、500万から利息分の50万を差し引いた450万を貸すと言うのであった。そして、万一10日以内に500万の返済が出来ない場合、その債権は下取り屋の“S通商”に移ると言うものであった。
S君の話によると、この“S通商”は保険会社のようなもので、最悪の場合、債権を下取りしてくれて、一割の手数料を払えば、債権の満額を買い入れてくれる同業者だと言った。
私はこうしてS君の用立てにより、明日の手形決済を無事に終了するのであるが、不足分の50万円を作るのに、その日一日と、翌日の午前中を奔走したことは言うまでもない。
しかし、この500万円は結局10日以内に完済することが出来ずに、返し終えたのは半分にも満たない220万円で、残りの280万円は、Tキャッシュ・サービスからの債権として、“S通商”に買い取られ、私の抱えた借金の債権は、以降、この会社に移ることになる。
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