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| ▲小倉南区朽網にあった屋敷の玄関は、巧の工夫を懲らした組木だった。 |
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▲朽網の屋敷の庭には、池を造って鯉を飼っていた。 |
●もぐら叩き
私の頭上には、“エンドレス”と言う取立の悲劇が起っていた。終りなき悲劇が次から次へと襲い掛かり、為(な)す術(すべ)がなかった。行くところまで行く以外ないであろう。
このエンドレスを作る元凶は、刑事事件と民事事件の違いから起るものであった。この二つの事件の違いを挙げた場合、そこには判決においてグレー・ゾーンが存在するか、否かにあった。これがある為に、永遠に解決しないだろう。
グレー・ゾーンと言うのは、刑事事件に於ては「疑わしきは罰せず」である。したがって、“疑わしき者”は「疑う理由がある」にしろ、判決理由は判決の結論を示す“判決主文”では「無罪」か「有罪」かに何(いず)れであり、それ以外にあり得ない。裁判所の終局裁判は無罪の場合“0”で、有罪の場合“100”の確率で罪を負う。
これに対して民事事件では、民事訴訟法での訴えに対し、口頭弁論に基づいてなされる形式的な裁判形式を取り、口頭弁論は繰り替えされるが、結果として「無罪」か「有罪」かにはならない。まず“0”対“100”という判決は出ない。
判決請求権に基づけば、主にこの言葉は、他人に対して一定の行為(作為や不作為など)を請求しうる権利を言い、民事訴訟上の用語に用いられるものである。したがって裁判所に訴訟を提起して、審判を求め得る当事者の権利を「判決請求権」あるいは「訴権(そけん)」という。
つまり、白黒の結着がつかない為に、裁判所は「和解」を提示し、「訴権」に基づいて、当事者間の手に移り、当事者同士で“勝手に話し合いをつけろ”と言う、互いの譲歩を促(うなが)すのである。裁判上の和解は、民事事件において、裁判所の面前でなされる和解を指す。
裁判所の面前でなされる和解には、訴訟係属後の“訴訟上の和解”と、訴訟係属前の“起訴前の和解”とがあり、別名“即決和解”とがある。そして裁判上の和解は、調書に記載されると、確定判決と同一の効力が生ずる。したがって、これには民事不介入となって警察は口出しが出来ないし、口出しもしない。口出ししない方が無難であるからだ。こうしたところにも、国家権力の横暴があった。その為に、当事者同士で好きにやれと言うことになる。
だが、こうした状態で当事者同士を“浮いた形”にしてしまうと、此処に裏社会の人間が付け込んで来る。案件が刑事事件でないだけに、当事者同士が好き勝手に、「綱引き」を始める。この綱引きが曲者(くせもの)なのである。この社会の人間が、こうした案件に取り憑(つ)くことは非常に多く、彼等は、これを“飯の種”にしている。
大手や中堅からの“代下がり”の多重債務者の処理されるべき債務物件を買い込み、債務者が少しでも“型”に填め易い状態にあると、これに付け込んで、ありとあらゆる方法で、裁判所を使い、追い込んで来る。私も、その追い込みを掛けられた一人であった。裁判所は裏社会の味方に、突然、豹変するのである。
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▲小倉簡易裁判所の特別送達。
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▲小倉簡易裁判所よりの支払督促の仮執行予告。
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平成元年の後半から2年の前半に懸(か)けては、こうした裁判所からの「支払督促」が特別送達で、わんさと届くようになっていた。これに対し、簡易裁判所に『督促異義申立書』を提出しなければならなかった。
“代下がり”の債権者達は、「請求の趣旨及び原因」の理由を裁判所に訴え、これらが次から次へと送達されるのであった。
「請求の趣旨」を検(み)ても法外な要求で、自分達に一方的な意見が述べられ、「請求の原因」には法外な利息と延滞金と、それを請求する為に生じた必要経費などが挙げられ、かつての契約内容に基づいて、損害利率が長々と記されてあった。そして分割の支払いを怠った日の「期限における利益喪失」の年月日を挙げ、これから遡(さかのぼ)って支払えと言うものであった。数字自体も理屈に合わない「複利法」の計算がなされていた。
この複利法は、単利法と異なり、一定期間後の利息を元金に加えたものを次期の元金とし、次の期間には新元金に対して、利息を計算する方法が取られていた。つまり、その間の利息も元金に含まれているのである。したがって、数字は天文学的なものになる。一件だけでは、それが起らないが、数件、数十件となると、数字は一般の人が一生働き続けても手に入れることの出来ない、天文学的な金銭が要求されるのである。
違法とは言えないにしても、実によく作られた“作文”であったが、債務者としては、決して呑むことの出来ない内容であった。呑めば将来は失われる。
当時の法定利息は「年29.20%」であり、遅延損害金利息は「32.00%」であった。この利息は期限の利益を喪失した日から発生し、利息制限法に基づいて同日から施行されるもので、仮に一社から上限の50万円を借りた場合でも、遅延損害金が加わると、それが一年後には100万円を超えているのである。更に彼等が仕組んだ裁判所の「申立費用手続」(一件で4,700円)が加算されるのである。
そこには金融ヤクザの“したたか”な思惑があり、小資金で、法外な大金を釣り上げる仕掛けを、裁判所を通じて追い込んで来ることだった。民事不介入と言う方の編み目を潜り、狙った獲物は逃がさないと言う“したたかさ”があった。
私はこうした者を相手にしながら、同時に予備校全体の経営もしなければならなかった。“もぐら叩きゲーム”は複雑な動きを要求された。
この当時、時代は「流通革新」の中に突入していた。そして安定成長時代に入り、バブル景気に湧(わ)いたのも束(つか)の間、やがて需要の拡大が望めなくなり、ビッグストア間の競走も激化していった。
その上に、同業者間の競走も過熱の一途を辿り、まさに生き残れるかどうかの、瀬戸際に立たされようとしていた。この“瀬戸際”を総じて「戦争」という名に値するかも知れない。
この戦争で、生残っていく為には、業態や業種別の細かい対策が必要であった。
しかし、戦いに生き残る為には、市場に溢れている経営の指導書は、殆ど役に立たなかった。こうしたものは一般論ばかりが展開されていて、実務とは程遠く、また各地で開かれるセミナーも同様に、一般論から脱け切れていなかった。こうした情況下では暗中模索を続ける以外なかった。
経営を掲げて、戦争を闘うということでは、塾や予備校においても同じだった。そして既にこの頃、学習塾業界からのブームが去り、「自然淘汰の時代」に突入していた。
乱立→過当競争という図式が明確となり、ある塾は廃業し、ある塾は生き残るという淘汰過程の中で、異業種からの参入やチェーン塾までが登場し、それが激烈を極めていた。
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当時の明林塾ゼミナールのコース別・指導実態
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コース数
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クラス名
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指導担当者
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チューターの有無
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校舎別
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1
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大学予備校クラス
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筆者並び専任講師
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有
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小倉校・黒崎校
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2
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大検予備校クラス
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筆者並び専任講師
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有
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小倉校・黒崎校
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3
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看護・医療技術短大クラス
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筆者並び専任講師
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有
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小倉校・黒崎校
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4
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個別指導クラス(小中高生対象)
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筆者並び学生講師
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個人チェック票
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小倉校・黒崎校
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5
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高校受験予備校クラス
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専任と元中学教員
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有
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小倉校
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6
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中三対象の難関校受験クラス
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筆者並び専任講師
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有
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黒崎校
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塾や予備校の経営は、単に立地条件がいいというばかりでなく、コース別を設け、各々に特長を持たせ、カリキュラムの組み方、時間割り、教財の選び方などを具体的に示し、最終目標である志望校に合格させるという責任と実績が求められるものであった。そして当然の事ながら「生徒募集」のノウハウが“もの”を言うのである。
それゆえに本来、学習塾・進学塾・予備校と言うものの経営には、地域社会における“教育の一貫”を担う、仕事であると言う意識を持っていなければならない。この根底が崩れれば、此処から中途半端にして逸脱することは社会悪となり、誹(そし)られる結果を生むことになる。始めた以上は、新学期単位でしか、簡単に廃業も出来ないのであった。
“赤字覚悟で”というのが、またこうした経営者に課せられた責任でもあった。私はこの責任において、なおも奔走しなければならなかったのである。
金策に走り、授業をし、それが朝早くから夜遅くまで続いた。並のサラリーマンの三倍の精神力が必要であり、また体力も、三倍以上のものを持っていなければならず、金融舎弟に負けず劣らずの、「ネバーギブアップの精神」が必要だった。
●倒産予告
「あなたは確かに“無”から“有”を作り出した特異な錬金術師だ!」
「……………」
私は“錬金術師”という言葉を聴いて、些(いささ)か苦笑せざるをえなかった。
身も心も、くたくたになって疲れて帰ると、F銀行本店の融資課長の柴山祐司(仮名)氏が部下一名を連れて、夜遅く、応接間で待ち構えていた。(【註】この日、精神病院より一時帰宅が認められた家内が家に居た)
早速、彼等の応対に当たらねばならなかった。
部屋に入ると空気が重たく、二人は“御通夜(おつや)”にでも出掛けて来たような、沈鬱(ちんうつ)な表情をして、私を迎えたのだった。一瞬辺りに重苦しい沈黙が流れた。
柴山融資課長は、椅子に座った儘(まま)の姿勢で、私を上目遣いに睨(にら)み、
「一体、会社をどうするつもりですか?」
重苦しい沈黙を破って、開口一番飛び出したした言葉は、私に現在の「有限会社明林塾ゼミナール」をどうするのか、と訊いているようであった。
この明林塾は、私が数年前、書店から1500円で『有限会社の作り方』という本を買って来て、それを読んで定款(ていかん)を作り、公証人役場に届けて公正証書を作成してもらい、また有限会社と言う法人届をして組織形態を「法人」にしたのであった。これにより、届け出は僅か7万円の印紙代だけで済んだ。
そして資本金は、10万円で、私が8万円を出資し、家内が2万円を出資して、この段階から始めたものであった。その後、組織は大きくなり、資本金も数千万円単位になり、年間売上は最高時で5億円以上に達していた。教職員数も100名近くに達していた。
柴山氏は、苛(いら)ついた口調で、ボソボソと話し始めた。
「明後日、手形の決済があります。うちの銀行では、もうこれ以上、融資する訳には参りません。今迄に、一度手形の焦げ付きを発生させています。もし、明後日の手形が落とせない場合、事実上“倒産”という事になります。うちとしても、今まで成長を遂げている、あなたの会社を見込んで、色々とご融資させて頂ましたが、実情は当初と随分変わった、緊迫した状態になっています。
その事はあなたご自身が十分に承知していると思いますので、これ以上の事は申し上げますまい。もし明後日、手形が落とせないというような事になれば、あなたの会社は倒産するというばかりでなく、うちの銀行としても大変迷惑を被(こうむ)る訳です。この事を是非お考え下さい」
「はあ……」
私は力の抜けた、気の無いような返事をしていた。来る処まで来たという感じであった。
「実はですね、曽川さん。私の立場上の話を聞いてくれませんか」
今迄この柴山融資課長は、私を「曽川さん」と呼んだ事はなかった。予備校という、私の職業柄、いつも「曽川先生」と呼んでいた。以前は銀行に私が姿を現わした時も、行員総出で、「曽川先生」と出迎えて呉れていた。それが此処に来て、「先生」から「さん」に格下げになっていた。この事は最早(もはや)、私が尊敬の対象でないという事を物語っていた。
今迄の事を思うと、「曽川先生」と呼ばれている事が、苦笑に値するものであった。
「曽川さん、実はですね。私は粕屋郡(福岡県)宇美町の片田舎宇美町の支店に明日付けで支店長として転勤する事になりました。あなたの会社の以降の事は、この牛田(仮名)が処理をいたします」
柴山融資課長は力なげにそう言って、牛田という三十初めの行員を紹介した。牛田と紹介された行員は、早速名刺入れから名刺を差し出し、少し侮蔑(ぶべつ)の篭(こも)ったような会釈をして、私を直視していた。
名刺を見ると、“F銀行本店融資係長・牛田肇(仮名)”となっていた。
柴山融資課長は、もう直ぐ五十に届く程の人で、今まで凄腕(すごうで)の手腕を振るって、融資課を率いた有能な猛者であったが、私の会社に融資したばかりに、回収が思うようにならず、先頃、異動を命じられたのではなかろうかと察した。飛ばされたという感じが、その大柄な体躯(たいく)に滲(にじ)み出ていた。いつもは張りのある大きな声で、物を話す人なのだが、今晩は実に弱々しい、病人のような声を出していた。宇美町の支店長というのは、恐らく左遷(させん)であろう。
私は何とも返事し難かった。うっかり「お気の毒でした」などと言おうものなら、飛びついて来て、私を締め殺すのではあるまいかという、逆鱗(げきりん)に触れるかも知れないのだ。この人は大学時代、F大の柔道部の主将を勤めた人であるからだ。下手に失言を発して、恨みを買う事もあるまい。この場は黙って相槌(あいつち)を打たず、沈黙を通す方が賢明と思われた。
そしてまた暫(しばら)く沈黙が続いた。
柴山氏は慌(あわ)てた手つきで、背広の裡ポケットを探り、タバコを取り出して、焦るような動作でタバコに火を点(つ)けた。今迄この人は、私の前では絶対にタバコを吸わない人であった。私がタバコを吸わないことを知っているからである。
それが今晩はどうした事か、断わりもなく、火を点(つ)けて、眼の焦点は宙に浮いた儘(まま)で、落ち着きのない仕種(すぐさ)でスパスパと吹かすように吸うのであった。私への侮蔑(ぶべつ)であったのかも知れないが、余程、宇美町への左遷が堪(こた)えたのであろう。辺りの空気は益々重くなって行った。それは私への恨みが、そうさせているのかも知れなかった。柴山氏も、私への感情を押さえるのが精一杯だったのであろう。
「ところで曽川さん、明後日の“手形の決済”の手筈(てはず)はついておりますか?」
辺りの沈黙を破って、口を開いたのは牛田氏であった。
「……………」
私は返事に窮していた。
牛田氏は、じっと私から視線を外さず見つめていた。私は窮(きゅう)する以外返事のしようがなかった。
「だからあんたは駄目なのだ!」
突然、柴山氏が激怒の大声を張り上げた。
「あんたはなァー、調子のいい御託(ごたく)ばかりを並べて、将来は株式会社はおろか、学校法人にもなって見せると言ったではないか。広大な事業計画を、私の前で自信に満ちた熱弁で語ったではないか。それがどうだ、うちの銀行の返済額も儘(まま)ならず、街金からも金を借り、おまけに倒産を余儀なくされているのだぞ。人に迷惑を掛けておいて、何の責任も感じないのか!」
柴山氏の激怒は頂点に達していた。
私も、売り言葉に買い言葉であった。
「確かに、お宅の銀行には返済を些(いささ)か遅延して、ご迷惑をおかけしています。しかし遅延したといっても、総て一ヵ月以内に遅れたものはご返済しているではありませんか。それに明後日といっても、まだ倒産したわけではありません。明後日までには、必ず手形決済をいたしますので、ご安心ください」
「おい!決済すると一口で言っても、五百万だぞ。そんな大金が僅か一日で、右から左へと作れるのか?!」
柴山氏の言う事は尤(もっと)もであった。そんな金は私の手許(てもと)に殆どないのだ。しかしこの場は、最後の見栄を切るしかないのだ。
「必ず決済しますよ」
「それは本当ですか、信じていいのですね」
牛田氏は、しつこく念を押すように訊いた。この言葉の意味は重かった。私にとって、人生のうちの、そう度々聞かされる事ない最高レベルの、惨めなフラスト・レーションであった。
「しかし分からんぞ。こいつは我が銀行の内情調査によると、サラ金はおろか、高利貸しやヤミ金の暴力金融にも手を出しているというではないか。手形の決済など出来るものか!」こう、断定的に言ったのは柴山氏であった。
「私はもうこれ以上の金を、あなたの銀行から融資して呉と頼む気持ちはありません。間違いなく、明後日に手形を決済すると言っているのです。サラ金で金を借りようが、高利貸しで借りようが、私の勝手ではありませんか。決済する、金は金でしょ。この原因を作ったのは、結局の処、あなた達の貸渋りが高(こう)じて、こうなったのではありませんか」
「曽川さん、我々の貸渋りを例に挙げて、それが“非”であるかのように言うより、あなたの会社の基礎体力のなさを反省するべきではありませんか。責任転換をして、我々に向けないで欲しいですね」この反撃は牛田氏の毒づきであった。
彼がまだ「です、ます言葉」を使っているのは、ただ自分が私より若年であるという事がそうさせるのであろう。彼もまた以前、私が銀行の店頭現われた時、小走りに走り寄って来て深々とお辞儀をして、「曽川先生」と言っていた一人であった。
人間は金銭に窮(きゅう)し、返済が儘(まま)ならなくなると、こうまで人格は軽視されて、蔑(さげす)まれるものなのである。商売人の故事に「金のないのは、首のないのと同じ」とは、よく言ったものである。私は、彼等にしてみれば、“首の無い人間”同様であった。
「曽川さん、あんた、会社の倒産という事が、如何に惨(みじ)めで、悲惨なものか知っているのかね?!」
一々言われなくても分かっている、と言いたかったが、それをこんこんと、私流の意見を述べても仕方あるまい。
「分かっていますとも」
「では、うちの銀行から、幾ら金を借り、その返済額が幾らか知っているのか!」
喧嘩を売るような柴山氏の言葉使いであった。
「はい、承知しています。第一、この私の会社に融資する事を吟味(ぎんみ)し、厳重な調査において、それを決定したのは融資課長の、柴山さん。実は、あなたではありませんか」
柴山氏は「実はそうだった」とガックリと頭を垂れた。氏が「あの時、もう少し厳重に調べておけばよかった」等と言わないところは、やはり柴山氏も済んでしまった事に拘(こだ)わらない人であったようだ。
結局、柴山氏と牛田氏が現われたのは、左遷される恨み事を吐露(とろ)したかったのであろうが、これは一種の柴山氏との“別れの挨拶”が、このような形を使って、今晩の来訪になったのであろう。
柴山氏の心は、もう遠い田舎の支店の、長閑(のどか)な田園風景の、澄んだ空を想像しているのかも知れない。もはや私に対する、復讐(ふくしゅう)や憎悪など、毛頭もなかろう。そして柴山氏の背中には、裏びれた男の哀愁(あいしゅう)が漂っていた。
私は、これから三年後、ひょっこりと柴山氏に、小倉の街で会った事があった。その時、最初柴山氏とは気付かなかったが、向こうから懐かしそうに声を掛けて呉れて、それに気付いたのだった。その時の彼には、銀行に勤めていた頃の面影は全くなかった。
真っ白いヤクザ風のジャケット姿の上下で、頭はパンチパーマを掛け、薄い色の付いたシューティング・グラスを掛けていた。一見ヤクザと見間違う程であった。そして私との別れ際に、べんべんと並べた恨み辛みの御託(ごたく)は、もう消えうせているようであった。彼に会ったのは、古き良き時代の、行員としての懐かしい一時(ひととき)が、私への呼び掛けとなったのであろう。
─────この時、柴山氏は笑顔で、「何とか、山場を乗り切ったそうですね」と、私に問いかけてきた。
「はあ、何とか……」
「あなたの事は、F銀行の頭取もご存じだそうですよ」
私に羨望(せんぼう)とも、畏敬(いけい)の念とも付かぬ眼差しを向けた。私はこの後、倒産、整理、取立、脅し、暴力という、債務者に付き物の手順を繰り返して、“火と水の試煉”の洗礼を受けるのであるが、これを僅か三年足らずで果たして、見事に復活を果たしたのであった。
「多くの経営者はバブル崩壊で、自殺したり、夜逃げして、以後、殆ど復活は儘(まま)ならなかったと聞いています。だがあなたは違う。見事に復活し、それに、どう立ち回ったかは知らないが、滋賀県大津に立派な屋敷(これは後援者の好意で無償で借りた家)を構えられている。まさに奇蹟を行なったとしか言いようがない。F銀行の頭取は、それを言うのです。唯(ただ)一人の復活者と。私も、あなたの運に肖(あやか)りたいですよ」
「否(いや)、ただの“悪運”が付き纏(まと)っているだけですよ」
「それにしても、あなたは強い方だ。死んだと思ったのに、まだ、しぶとく生きていた。本屋であなたのビデオや書籍を見た時は、驚きましたよ、あッ!こんな所で生きているとね」
柴山氏は、このように私の感想を述べた。
立ち話も何なので、近くの喫茶店に入って柴山氏や現状を聞いたり、私の現状を話した。柴山氏は今、ある暴力団の“会計係”兼“税務対策”をやっているとの事であった。宇美町の支店長に左遷になって、2ヵ月程で銀行を辞めてしまったという事であった。“腐っても鯛”というプライドが、左遷に甘んじる事を許さなかったのであろう。何しろ、柴山氏はF銀行の融資課長まで昇り詰めたエリートであるからだ。
私は此処で一時間ほど、現状と世間話しをして、柴山氏と別れた。そして私が復活したとの噂は、多くの人の知るところとなった。
F銀行の頭取の命を受けて、同行の取締役が、大津の私の所にやって来た事もあったし、会社を経営する経営者が「生き方を教えて呉れ」と相談に来る事もあった。皆、私の運に肖りたいというのだ。しかし私に幸運など一切存在しないのだ。私は“天命の命”に従った迄であった。
─────さて、話は前に戻るが、手形決済を明後日に控えた私は、早速翌朝から高利貸しの総“盥回し”で金策に走っていた。持っている日本刀や古美術等の物財は、総て叩き売り、換金した。それを担保に金を借りて廻ったりもした。
案外、高利貸しは金勘定には聡(さと)いものの、日本刀や美術品に弱く、根がヤクザである為か、殊に日本刀はマル特等の鑑定書を見せて、その曰(いわ)くや由来を話すと、言い値で貸してくれる所もあった。そして目標額の五百万をかき集めたのだった。
だが、これはほんの一時逃れに過ぎなかった。災難は次から次へと襲って来た。
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