運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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吾が修行時代を振り帰る 35


●“おやじの為なら”何でも遣る、という嘘

 世の中には往々にして豪傑肌で、勇ましい人間がいる。特に道場に籍を置き、古株として羽振りをきかしている輩にはこのタイプの人間が多い。
 「おやじの為なら、人殺しでも遣
(や)る」「おやじの為なら、刑務所に入る事も厭(いと)わない」等と、ぬかす輩(やから)は元々嘘付きである。また、“おやじ”は配下の「お追従」に、間抜けにも、気を良くしているだけである。どっちもどっちである。

 このタイプの人間は、知力や学力が共に低く、教養も多く身に着けていない為、酒を飲むと「おやじの為なら、何でも遣る」という威勢のいい言葉が矢継早に出るのである。私はこれ等の輩の嘘と、巧妙なトリックに、何度でも引っか掛った事があった。
 弟子の慰安を兼ねて、道場主の“おごり”でクラブやキャバレーを梯子した場合、必ずこのように酒の席で豪語する輩
(やから)がいる。

 一見勇猛に見えるこのタイプの人間は、実際に戦わねばならなくなった時、先ず二種類に分かれる。
 一つは今までの豪語を度外視して、急に臆病になる種類で、もう一つは些
(いささ)か腕に覚えがあるのが、相手と相対した途端に、アドレナリンホルモンが急激に分泌し、体温が上昇して顔が紅潮し、濁声を張り上げて怒鳴るなどの種類である。この孰(いず)れの種類も、アルコールを呑んだ時だけは、実に威勢がいい。

 前者のタイプは、自らの発する言葉に“二面性”を持ち、寝返るか、裏切り者であり、後者のタイプは自信過剰から出た自己完結性を持たない人間であり、勇猛に戦い、自分に出来ない事はないと思い込んでいる人間である。またこのタイプは、過去の武勇伝を自慢し、かつ豪語し、自分自身を自慢する人間でもある。

 この武勇伝を自慢するタイプの人間は、アルコールが入った時に、勇猛果敢な素振りを見せる。吐き出される言葉は勇ましく、お山の大将的な処があって、自分が主役になる事を好む。少し頭のいい人間ならば、直にこの嘘は見破ってしまうが、凡夫
(ぼんぷ)は面白半分に痛快性を感じ、受け入れてしまう事が少なくない。こうした人間が、自称「武道家」とか、自称「武術研究家」と名乗る人間に多い。

 さて、アルコールには体内のアドレナリンを活発にする作用がある。勇猛果敢
(ゆうもう‐かかん)な状態を作るのに、最も効果のあるのは大麻(麻から採取した麻薬で、マリファナ等を加えて合成したもの)とされ、それに続くものがアルコールであるといわれている。

 イスラム教原理主義の過激派が爆弾テロを起す場合、その儀式としてハシシュ
(hashi)を飲用あるいは喫煙して、老師の指示通りの行動に出ると言われている。これを引用する事によって、多幸感、開放感が現われ、幻覚、妄想、興奮を来たすのである。この意味に於ても、アルコールはハシシュに近い状態が作れ、酒を飲んで段々気が大きくなり、暴れたり、喧嘩早くなるのは、アルコールがアドレナリンを活発にする要素を含んでいるからである。

 これが習慣的になると、興奮の現われ方が常人より早くなり、好戦的な性格へと変貌
(へんぼう)していく。したがって“喧嘩慣れ”した不敵な感覚が襲い、豪胆で、恐怖感が薄らいだような錯覚を与える。だがこれには持続力が無く、突発的な環境の変化によって様々に変化するのである。この一見、“勇気”と思える錯覚現象は、時と場所によって浮き沈みがある。またこのような、「おやじの為なら、刑務所に入る事も厭(いと)わない」等と言う男に限って、毎日、早起きをする、或いは日々を忠実に自分の枠(わく)の中で精一杯生きる等という事は究めて苦手で、日常生活面では意外にだらしのないに日を送っている。

 「おやじの為なら何でも遣る」とは、実に忠孝的な美辞麗句である。“おやじ”側からすれば、頼もしく、歯の浮くような“お追従”だが、これは飽くまで表面上の事で、本当に恐怖感を感じないというのは嘘である。
 もし、恐怖感を感じないとするならば、間違いなく早死にするタイプの人間である。裏を返せば、早死にしないのは巧みな、時と場所に用いる処世術を心得ているからであり、いつもその度に、“おやじ”に対するお追従をコロコロと翻
(ひるがえ)し、上手に使い分けて来たからである。
 つまり、「おやじの為なら何でもする」というのは、“おやじ”を売り出す為の、一種の常套句のような“社交辞令”のよう
なものであり、組織の牽制(けんせい)に過ぎない。

 さて、このような人間を信頼し、いつまでも振り回されていると、指揮官は往々にして誤りを犯す。それは人間を見抜く見識眼が無かった、と言えばそれまでだが、実際にこれ等の人間を見抜くのは難しい。
 世の中には裏切り者が多く居ると知りながら、ついこの裏切り者に騙
(だま)されてしまうのである。私もこの一人であった。

 今までも多くの弟子に造反され、嘘を付かれ、その度に人間界には、このような人間が居るのだと知らされながらも、今なお、裏切られ、騙され、徒党を組んでの造反に甘んじている。人間は、一説には素晴しい生き物である、としながらも、その背後には、このドロドロとした汚物のような汚さと穢れの一面を漂わせているのである。

 また現代は種々の難病奇病を生み出しているので、頑迷で気難しい、自閉的な人間が居たり、超能力に憧れて、その“妄想の殻”から抜け出さないでいる人間も少なくない。彼等の多くは、言動と行動に一致性が無く、多くは悪を行えない無力な善人で、一般的な、可もなく不可もないという人種である。外野から感想を述べる、口だけの、一種の傍観者でもある。

 “頑迷の迷宮”に閉じ篭
(こも)る、自閉的である人間は、実に多い。
 言う事と行動が異なる、裏切る、密告する、造反すると言った現象は、この世の常であるが、またこの世の常を計算に入れながら、心の片隅に一線を画する位置で、自分と他人を隔てなければならない事は、何とも残念な事である。私は当時の自分を振り帰りながら、この時、無情にも去って行った、道場生は決して少なくなかった。



●斜陽

 昭和30〜40年初期にかけて、合気会植芝グループの大御所である植芝盛平翁は、内外の多くの弟子達から「大先生」或いは「翁先生」と呼ばれ、子息の吉祥丸氏は「若先生」と呼ばれて傅
(かしず)かれ、合気道の全盛を誇った時代があった。

 当時の思い出に振り返れば、私はまだ20歳前後で、「大東修気館」を北九州市八幡東区春の町の豊山八幡神社内に旗揚げして、纔
(わずか)1、2年経った頃であった。
 財力の無い私にとって、豊山八幡神社境内に道場を開かせて貰った事は、周りの人の惜しみない努力と働きよるものであるが、これとて力強い後ろ楯がある分けでなく、自力で経営するという状態であり、経営的には自転車操業に近いものであった。

 それに既に述べたが、私は当時、師範とは名ばかりの、沖田二二
(おきた‐つぎじ)氏や波多野英麿(はたの‐ひでまろ)氏の下僕のような、使い走りに過ぎなかった。何をやるにも規制が掛かり、行動範囲は限定され、“籠(かご)の鳥”のような状態だった。
 被る責任だけが重く、行動も言論も、侭
(まま)なら無かった。そして端(はな)から経済的に困窮するような仕組みになっていた。

 合気道の全盛時代、私はこの自転車操業的な苦労を重ねながら、いつか“陽の目”の見る事を夢見ていた。しかし次々に入門する弟子を長い間、吾
(わ)が道場に定着させる事は出来なかった。
 私が20歳そこそこの若輩者であるせいか、年配の弟子達は些
(いささ)か私を侮(あなど)ったところがあり、陰口が絶えなかった。その上、入れ変わりも激しく、辞めて行った年配の弟子達は、道場に居る頃は、私を「師範」と呼んだが、辞めた後、街で顔を合わせると「曽川君」と、一等も二等も下に見られて、“君付け”で呼ばれる始末であった。

 またそれだけ、人間的な繋
(つな)がりや、尊敬の念はなく、「金の切れ目が、縁の切れ目」の如く、「道場の切れ目が、縁の切れ目」であった。顔を合わせたこれ等の、曾(かつ)ての年配の弟子は、声一つ掛けるにしても、私を見下したように喋り、徹底した“学生扱い”で、私が“世間知らず”であるという風に、吹聴し、一蹴(いっしゅう)の態度を崩さなかった。幾許(いくばく)かの蔑称(べっしょう)が吹き抜けるばかりでなく、実に冷たいものであった。私が、これに、微(かす)かな厭世観(えんせい‐かん)を抱いた事は事実であった。

 つまり資金力が無く、組織力が無く、後ろ楯が無いという事は、そう言う事であったのだ。
 だから私は、この打開策として「刀屋「家庭教師」「学習塾」「進学塾」「予備校」と資金力の基盤を築こうとして、調達の為の奔走
(ほんそう)を余儀なくされたのであった。

 最初に始めた刀屋では、当時突然に襲ったドルショックとオイルショックで負債を抱えて失敗したものの、家庭教師以降は、追い風を受けて順調な滑り出しであった。新聞広告に小さな広告を出し、「プロの家庭教師」として生徒を募集したのであった。当時の指導料は一時間1万円で非常に高額であり、それでも「プロの家庭教師」と銘打っているだけに、受験戦争の父母の弱みにつけ込んだ作戦は見事図に当たった。そして徐々に大きくなる基盤をこれによって固めて行った。

 だが確固とした骨組みを持たず、基礎体力もない軟体動物同様の予備校は、やがて予備校戦争で斜陽・敗北の翳
(かげ)りが忍び寄っていた。
 予備校が斜陽の一途を辿った原因を作ったのは、昭和60年から始めた「個別指導方式による学習法」であった。かつて個別指導の元祖・佐々木慶一氏に助力を願ったからだ。

個別指導のチラシ

 当初の、昭和60年の冬期講習から始めたこの個別指導は、幸先(さいさき)として出だしがよかった。思惑が能(あた)った。予備校の売り上げが頭打ちになり、伸び悩んでいる最中のこの新学習法は、一世を風靡(ふうび)して、短期間ながら隆盛をみた。しかし2年目に入る頃から、その威力が少しずつ失われ、悪評が立ち始めた。

 この個別指導の発案者は、当時東京中野に本部を置く、全国の個別指導の草分けで、「個別指導」の言葉を発明した佐々木慶一氏であった。彼は東大理科三類
(医学部)在学中、この“新方式”を発明し、家庭教師からヒントを得て、個別指導なるものを考え出した。

 それは当時としては画期的であり、今迄に存在しなかった“新しい勉強法”であった。実際に東京まで出かけ、当時千葉で進学塾をしていた、私の弟子である関東方面指導部長の進龍一氏を伴って、中野まで出向いた事があった。佐々木慶一氏と会って、その内容を詳細に聞けば聞く程、益々そのシステムが納得できるのである。

 個別指導の建前は、「勉強は一人でやった方が伸びる」を謳
(うた)い文句にして、「大事な事は教師が黒板に書く事柄ではなく、それは既に教科書にも書かれている。それならば教科書の内容を黒板から書き取り、二重のコピーをしなくても、教科書を直接読んだ方が効率がよい」「解っている生徒は、重複して同じ処を訊く必要はない。解らない処だけが訊きたいのだ」、そして再び「だから、勉強は一人でやった方が伸びる」の謳い文句に戻ってくるのだった。

 私は、彼の中野のモデルルーム本部にも、度々足を運び、その塾と、その経営ぶりと、その“繁盛振り”をこの目で確かめ、そして私には、大きく閃
(ひらめ)くものがあった。何回目か訪ねた日の夜、彼は私を接待すると言い出したのである。理由ははっきりしないが、恐らく私を憎からず思ったのであろう。彼は私を“同種の人間”という。この意味は不明だが、私も彼が厭(いや)な人間でなかった。
 それは話題が一致するからである。話す次元が一致し、彼の知的レベルの高さを感じる話題は、耳に心地よかった。

 彼の接待によって、上野・黒門町界隈
(かいわい)の料理屋やクラブを飲み回り、また彼が北九州の私の予備校に訪れた時は、女子事務員総出で彼を迎え、今度は私が、接待役となって九州の珍しい珍味を食べに案内したり、行き付けのクラブ等に案内して暁方(あけがた)まで飲み歩いた事があった。そして彼とは意気投合して、一種の友愛を暖める迄に心が通い始めていた。

 そして彼の緻密な助言に従い、昭和60年の冬期講習に華々しくオープンしたのが「明林塾個別指導ゼミナール」であった。
 この個別指導は、商売に聡
(さと)い様々な進学塾や学習塾から真似され、一時は個別指導の名を以て、全国的に流行したものであった。殊(とく)に、その中でも、明光義塾や山田義塾という、「義塾」とは名ばかりの、大手塾がこれを真似して、その資本力にものを言わせて、全国展開を図ったのである。

 この参画には全く塾とは関係ない、金貸やスポーツ店主、繁盛している食堂の親爺や、ビルのオーナーらが資本を提供し、自らは理事長に収まって、「街の教育者」と呼ばれた時代を作ったのである。
 「勉強は一人でやった方が伸びる」これは名言である。今迄の、学校の一斉授業の盲点を突いた、画期的で、革命的な、新しい学習システムであった。

 しかしこれにも、開始して暫くすると、盲点が見え始めた。
 それは“究めて学力の低い生徒”には、全く通用しないシステムであるという事が分かったのである。勉強の出来る子供は、ほったらかしにしておいても、自分でどんどん勉強をやっていく。また勉学への好奇心が旺盛な為、寧
(むし)ろ放置状態である方が、彼等にとっては有難く、本当に解らない処だけを講師に質問すれば済むのである。

 しかし勉強の出来ない子供は、そうではない。殊
(とく)に成績が、中より下の子供は、もしこのような、外から隔離された個室コンピュータ・ルームのような所に放置されたら、益々遊ぶばかりで、とてもでないが、一人では勉強できない。自分のするべき事が分からないからだ。

 自習室に入って、遊んだり、落書きをしたり、手遊びをするというのは昔から、中以下の成績の、勉強の出来ない子供と、相場が決まっていた。彼等は体力的に欠陥があり、殊に“背筋力”と“背骨”に問題があるのだ。
 “IQが低い”とか“頭が悪い”というだけではなく、元々勉学に必要な“集中力”と言う基礎体力が欠落していて、その上、無能な母親の影響も大きな比重を占めていた。

 つまり親の欠陥を、そのまま子供が引き継いでいると言う状態だった。うだつの上がらない親には、うだつが上がらない子供が存在すると言う、この世の現実であり、人は決して平等ではなかった。そして、こうした子供を持つ親に限り、口先の自己主張は並外れて逞
(たくま)しく、特に母親に於てはその典型であった。
 要するに、“自己権利”の主張である。その側面に限り、逞しい。そして自分が愚かな事に気付かない。子供に過保護である事に気付かない。

 何故ならば、溺愛と、過保護と、遺伝的な“親のIQの低くさ”から、一心に、寝食を忘れて、集中する“集中力”に欠けているのだ。結論は、“背筋と背骨の力”イコール“集中力”であった。学力以前に、勉強する体力が欠落しているのである。
 その為、勉強の出来ない子供は、出来る子供の倍以上、或いは3倍も4倍もそれ以上も手が掛るのである。そして時間も掛るのである。その為、同じ月謝では到底、割が合わない事になる。
 彼等は解らない箇所自体が、自分でも解らないのである。これでは個別指導は正常に機能する訳がないのだ。

 私の予備校には、究めて成績の良い生徒もいたが、多くは中以下の、集中力の無い、また勉学への意欲の乏しい生徒が殆どを占めていた。隔離し、孤独にすると益々集中力を失い、教師から見られていない事を良い事にして、指導を受ける時間中、遊ぶ、落書きをする、自分勝手に好きな科目だけをやる、中には寝てしまうという生徒までいた。

 これでは個別指導の機能は、全く働いていない事になる。やり始めて、初めてこの欠陥に気付いたのであった。
 有名私立の進学校が、東京より少ない北九州では、その比率から言って出来る子より、出来ない子の方が圧倒的に多くなる。また学力も、東京や大阪等と比べて低い。駿台テスト
(駿河台予備校の全国テスト)やZ会テスト等を行うと一目瞭然であるが、公立学校の生徒では、全く歯が立たないのである。

 また講師自身が、公立高校、国公立大学
(殊に多かったのは、国公立の北九州大学や九州工業大学や福岡教育大学。これらの学生や出身者は、私立難関校では、全く“使い物”にならなかった)と進み、所謂(いわゆる)有名私立の鹿児島ラ・サールや灘高や開成や久留米付設等の出身者でない場合、生徒(有名私立中)の中でこれ等の高校を受験したり、或いは早大の英文(当時の私として、長文読解はかなりの高度な難問であった。国公立の比ではなかった)を志望する生徒(英語検定1級を持った高校生も居た)には、講師自身(英文科の出身)がその内容を指導できなかったり、自分でも有名私立の高校受験問題が解けないという悲惨な状態が起こってきたのである。“理事長”兼“塾長”の私としては、こうした現実問題を抱えて、此処で挫折してしまった観があった。

 やがて個別指導は色褪
(いろ‐あ)せ、生徒一人一人が鶏小屋のようなコーナーの中に入って、一人で遣(や)る勉強法は、「教師の手抜き」と指摘され、教えない事への父母からの不満が高まり、日を追うごとに暗い翳(かげ)りを見せ始めた。
 そして鶏小屋個室は、時間ごとに入れ代わる同じ席での、掲示板として“机”や、間仕切としての“衝立て”に落書きをされると言う事態まで起っていた。机や衝立てに書かれた落書きを読むと、「この席に坐る者は仲間だぜ。○月○日、○○で落ち合おう」などと書かれ、今で言うサイト内の、まさに“掲示板”のような連絡場所や同好の士を募るものになっていた。
 もうこれでは、個別学習としては機能が果たされていない状態を顕わしていた。

 ポスト予備校の救世主と思えた“個別指導”は、徐々に落ちぶれて行った。そして愚かしい、自己主張の強い親からは、教えない事で、一種の詐欺
(さぎ)とまで言われてしまったのである。


 ─────如何に“優れた方式”と雖
(いえど)も、「万人向き」というものは、この世には存在しないのである。これは政治システムでも同じであろう。この政治形態でも「100%主義」というものは存在しないのである。
 かつて私たちの世代は、戦後のベビーブーマー世代であり、また全共闘世代であった。世の中全体が社会主義あるいは共産主義となり、この政治形態が出現すれば、人々は“地上の楽園”に居るように、幸せになれると信じていた。その為に、猛烈な、嵐のような学生運動が起った。
 またこの政治システムが完成すれば、戦争はなくなり、犯罪も皆無で、貧富の差は消滅すると信じられていた。その理想を掲げて階級闘争が起った。時の権力者を倒し、それにとって代わらなければと言う思い上がりが……その時代を生きる青年の心の裡
(うち)には存在した。

 ところが、これらは総て虚構であり、幻想であった。一つの理想主義にしか過ぎなかった。実際に、地上から病人が減ったり、乞食や売春がなくならなかった。世界規模で見れば、戦争が各地にその火種は存在するし、飢餓も存在している。そして階級闘争が完成した暁
(あかつき)には、一党独裁の為、庶民は政治参加に無権利となり、自由は失われることだった。それらは、社会主義や共産主義を理想に掲げる国家を見れば一目瞭然であろう。“プロレタリア独裁”とは名ばかりで、封建時代に逆戻りするのである。

 社会主義国家では、党員にならなければ、社会の上層部には入れないし、現実に逆差別や階級制が存在し、方の独立はなく、感情下の一党独裁により、違反者は粛清
(しゅくせい)されて行く。独裁政党などで、方針に反する者や対立分子は、必ず厳しく取り締まられ、遂には処刑される。
 しかし、こうした現実を知らない者達は、進歩主義を礼讃
(らいさん)し、現実を悪く言い、未来の夢の理想論を吹聴(ふいちょう)して廻る。もう、この時点で、この政治形態は崩壊しているのである。理想は理想で、何処迄も現実化には程遠いのである。

 夢や理想を追い掛けるのが、現象人間界の生き物である人間かも知れないが、このように「完璧」とか「完全」というものは存在しないのである。
 したがって「完全な幸福」などというものは存在せず、健全な感覚を持った人ならば、自分の生活に、悲しみと不安を抱きながら生きると言うのが、人間の真の姿なのである。
 勉強法も、「完璧」とか「完全」などは存在しない。「100%システム」と思われた勉強法も、やはり万人に対応できる完全なものではなかったのである。その恩恵に与
(あずか)れるのは、知的能力の高い、“一握りの生徒”だった。

 その後、佐々木慶一氏とは会っていないが、最後に彼から連絡があったのは、彼が京都で新しいスポンサーを見付け、その援助を以て、個別指導の教室を大々的に展開しているという内容の手紙と、それに付随した大型のカラー広告であった。彼もまた、教えない事で、上野を追われ、京都に来ているのだった。中以下の学力と、その子供に遺伝した頭の中身を持つ親からは、その程度に個別指導の内容は評価されなかったようである。

 しかし、子供の学力を伸ばす為にどうしたらよいか、という探究は、結局「教えない事」に行き着き、「勉強は一人でやった方が伸びる」と説き廻り、それに奔走しながら、また彼も世間の親達の頭の悪さに、苦悶
(くもん)を続けながら、私同様、上野には棲(す)めない状態に陥ったのであろう。

 そして決定的な打撃を受けたのが、吾
(わ)が予備校前に、突如姿を顕わした脅威の「代ゼミ」(代々木ゼミナール)であり、その直横に北予備(北九州予備校)が姿を見せ、また小倉より一駅離れJR西小倉駅駅前には「河合塾」が姿を顕わした。
 また予備校のメインであった大学入学資格検定クラスも、「東京アカデミー」の小倉校進出で壊滅的な打撃を受ける事になる。そして、吾
(わ)が明林塾ゼミナールは、有限会社を起こして、3年足らずで斜陽の一途を辿る事になる。



●自転車操業

 近未来への翳
(かげ)りが顕われ、事業が斜陽になる頃、そこ生じる経済状態は、「資金繰り」である。資金繰りが困難になり、やがて自転車操業に追い込まれる事である。操業を停止すれば倒産するほかない企業が、赤字を承知で操業を続けていく状態を「自転車操業」と云う。哀れな響きだ。

 この時期、私の予備校も、こうした“モード”に入っていたと言えよう。
 資金繰りが苦しくなると、どうしてもスポーツ新聞や週刊誌の広告欄の、《全国即日振込》とか、《遠隔地歓迎》などに目が行く。全国の資金繰りに苦しむ、経営者を対照した広告に目がいってしまうのである。

 これらは、甘い言葉であるのは“百も承知”で、目を向けてしまうのである。
 そしてこれらの広告の謳
(うた)い文句は、自転車操業を続ける経営者を、巧に魅了する魔力を持っていた。
 《多重債務者、歓迎》《無担保・無診査百万円まで即刻融資》《他店で断られた方、直にお電話下さい》
 こんな親切な広告が週刊誌やスポーツ新聞の広告欄に、所狭しと並べられているのである。資金繰りに苦しむ経営者は、これを「親切な広告」と思い込んでしまうのである。それは私も例外ではなかった。

 また、公衆電話の電話ボックスなどに行くと、名刺サイズのカラー・チラシが、エロ広告と倶
(とも)にベタベタと貼られ、公衆便所に入ると、またそこに同じものがベタベタと貼られていた。こんな旨い話が、あるだろうかと思いながらも、ついこうしたものに目が行くのが、資金繰りに苦しむ経営者である。借金で苦しむ、台所事情が“火の車”の人は、いつまでもこれを見詰めながら、“ウソだろう。そんな事はないはずだ、しかし本当かも知れない。だが……“しかし、ヤクザのヤミ金だったらヤバイしなァ”などと自問自答を繰り返すのである。

 週刊誌、スポーツ新聞、電話ボックスや公衆便所のカラー・チラシを見ながら、私も、自問自答を繰り返した一人だった。
 人間は喉
(のど)が渇(かわ)くと、飲み物の広告を見ただけでよけいに喉が渇くと言う。喉が渇けば、それは液体であれ、何でもいいのである。少しでも早く、液体を喉に流し込みたいのである。

 そして飲み物の広告同様、《多重債務者、歓迎》とあるのは、多重債務で厳しい取立で、追い込みを懸
(か)けられている人でも、「お金を貸しますよ」と囁(ささや)き懸けているように思えるのである。
 私は、この巧妙な囁きに、心をぐらつかせながら、耳を傾けていたのである。

 そうした心のぐらつくままに、“一応訊
(き)くだけ”でという軽い気持ちで、ある業者に電話をしたのだった。あくまで“参考程度”という軽い気持ちだった。そして、ヤーさんのやっているヤミ金だったら、それで電話を切ればいいと思っていたのである。

 私の電話を掛けたところは、R商事だった。この業者は県知事の貸金業認可も取得していて、福岡県の県知事登録番号が(3)になっていたからである。「福岡県知事(3)」ということは6年以上で、ことして三期目に入っていることを意味するのである。
 (1)が三年未満で、(2)が六年未満。したがって(3)は六年以上で、今年で7年目にはいっている事を意味していた。またそれだけ、信用もあり、駆出しの(1)とは違うと踏んだからだ。

 私はD商会に電話を掛けたのだった。

D商会─── お電話、有難う御座います。D商会でご座います。

 この電話から響く女性の声は実に明るく、丁重であった。別に私の身元を、根掘り葉掘り訊(き)き出そうという風にもとれなかった。

私───── あのう……、広告チラシを見て電話をしているんですけど……。
D商会─── かしこまりました。如何ほど、ご入用でご座いますか。
私───── あのう……、100万、いや200万ほど、明日の午後3時までに用立てて頂きたいのですが……。
D商会─── はい、承(うけ‐たまわ)りました。

 「承りました」とは、私が必要とする100万か、200万を直ぐに用立てるということなのであろうか。当時大手サラ金では、貸し出しの上限が“一社で50万円”までと制限されていたが、ここでは100万円単位でも金を貸すようだ。
 私はこれを聴いて、直ぐに安堵すると倶
(とも)に、用立てを二つ返事で了解するとは考えても見なかったのである。

 しかし、R商事では、その言葉の後に、「一応……」という語尾がついた。念の為に、社内審査をかけると言うのである。それで、名前、住所、生年月日、電話番号、勤め先、家族構成、持ち家の有無、現在の借入状況を教えて欲しいという事だった。
 私は訊かれた通りの一切を喋り、自分の個人データを総て教えたのである。但し、借入状況は銀行だけを教え、大手サラ金・数社から借りている、遅延して利息を含む800万ほどの借入状況については教えなかった。

 R商事の親切?な受付嬢は、私の個人情報を総て聞き取った後、15分後にもう一度、電話を掛けてくれと言うのであった。
 私は最初、“ヤクザのヤミ金だったらヤバイしなァ”などと自問自答していたのだが、受付嬢の親切な声を聞く限り、そこが極悪の街金であったり、ヤミ金には思えなかった。親切な受付嬢の声が、いつまでも耳から離れなかったのである。それで、「15分後にもう一度、電話を掛けてくれ」という言葉も、親切の延長と考えていたのである。

 私は時計を睨
(にら)みながら、きっちり15分後に電話をした。

D商会─── お電話、有難うご座います。D商会でご座います。

 15分前と寸分も変わらぬ、受付嬢の明るい声がした。

私───── 先ほど電話をした曽川ですが。
D商会─── お電話、お待ちしておりました。
私───── あのう……、融資の件、どうなりましたでしょうか?
D商会─── ほぼ確定でご座います。
私───── それでは融資していただけるんですね。
D商会─── ご安心くださいませ。ご希望の額を間違いなく、ご融資させて頂きます。
私───── ああ、よかった。一時は、どうなることやらと思いました。明日、落さねばならない手形があるから、困っていたところなんですよ。

  私は今の“自分の胸の裡(うち)”を、安堵の余り、この受付嬢に喋っていた。軽卒と言えば軽率だが、安堵が先立って、軽率な言動に気付かなかった。

D商会─── でも、曽川さまの場合、金額が200万円と、一般の方よりも大きゅうご座いますので、お手数ですが、社内規程により、ご来店して頂く必要がご座います。
私───── ……………。
D商会─── これはわが社の社内規程でございまして、あくまでも形式的なものでご座います。100万円以上の場合は、一応、皆さま、ご来店して頂くようになっております。また、ご来店の際に、身分証明になる運転免許証、健康保険書、パスポートなどの何れかと、印鑑登録にしてある、実印をご持参下さいませ。
私───── あの……、広告には保証人無しで、無担保と書いてありましたが、本当でしょうか……。
D商会─── さようでご座います。基本的には無保証で、無担保でご座います。
私───── 基本的と申されますと……。
D商会─── 曽川さまの場合は、まず無保証で、無担保のご融資が可能でご座います。まずは、ご来店くださいませ。
私───── じゃァ、今からお伺いします。

 受付嬢は私に来店を請い、社内規程の何かで形式的な審査をするらしい。そして、「あくまでも形式的なものでご座います」に念を押すのであった。
 しかし、私は資金繰りの苦しむ中、今日にでも融資をしてもらい、明日の手形に間に合わせようとしていたのである。融資が可能になったという事で、私は心も弾む思いで、D商会に出掛けたのだった。

 しかし、この時、私は既にD商会の「型に填
(は)める罠」に掛かっていたのである。そこからが“生地獄”の奥に引き込まれる最初の入口であったのである。



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