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吾が修行時代を振り帰る 34


●明林塾ゼミナールに取り入れた個別指導

 落ち目になり、下り坂を転がり落ちようとする時期、私は一人の天才に出会ったことがある。
 この人物は勉学とか、学習と言うものを合理的に考え、その学力に応じて、徹底的に『個別指導』をするという学習方法を編み出した人物である。彼こそ、日本の“個別指導の元祖”とも言うべき発明者だった。

 彼は昭和31年に東京大学に入学し、高校時代より始めた家庭教師が驚異的な成果により、週刊誌などに取り上げられ、東大医学部・麻酔科外科医より、個別指導の道へと転進した特異な人物であった。
 私は東京上野で、この人物と知り合いになるのである。

『勉強は一人でやった方が伸びる』(佐々木慶一著、桐原書店、1987年4月1日初版発行)

 この人物を私に引き合わせたのは、わが流の進龍一師範であった。進龍一も当時、私と同系列の「進学教室・明林塾」を経営しており、これから進学塾の学習形式が変化しつつある事を、私に教えたのであった。
 「個別指導」とは、間仕切りをした個室の中で、個別に、自分の学習をやらせる能力別に加え、教師と生徒が一対一で取り組む学習システムの事である。

 つまり、個別指導の生みの親・佐々木慶一
(ささき‐けいいち)氏は、教育者の理想を追求した人であり、この理想は、一対一の指導に絶大な効果が出ると理論立てをした、学習指導の天才であった。

 佐々木氏の論は、学校教育の一斉授業の欠点を挙げ、例えば1クラス40〜50人として、この全員が同じ事を、黒板を前にして教師から習うのであるが、この全員は能力もバラバラであり、大半を分析すると、指導されている内容が分かり過ぎる生徒と、分からな過ぎる生徒に分かれ、教師の指導は分散されているというのである。これは仮に、能力別に分たとしても、大勢であれば、一対一に比べて、平均効果は低下すると言うものだった。

 したがって、学習塾や進学塾においても、学校の授業の延長である、一斉授業では大きな効果が得られないというのが佐々木氏の持論だった。つまり“集団グループ授業”では、教育効果が期待できないと言うものである。
 佐々木氏は、集団授業の欠点を、次のように分析していた。

分かり切ったことを説明されたり、分かり切った問題を解かされること。時間の無駄。
分からないことを早く説明されて、分からないままになったり、分からない問題を説明不足のまま長時間考えさせること。特に英語などは、この典型であろう。何故ならば、英語は考えている間は伸びないからである。知らない単語は幾ら考えても、分かるはずがない。
集団の中で順位やランクを示唆または公表され、「学力イコール人格」の目で評価されると、生徒はこの上もない屈辱を受けること。公表する逆効果を指定しているのである。

 以上を例に挙げて、佐々木氏は各々の科目を鋭く切り込んで行った。そして、次のように指摘するのである。
 例えば、英単語は自分の知らない単語を幾ら考えても分からない。考えている時間は死んでいる。
 理科や社会は、問題集を反復しても伸びない。読解問題演習では、読解力は伸びない。もともと解ける問題をノートに解いても、その時間は死んでいる。

 算数や数学の文章題は、国語力の無い生徒が幾ら取り組んでも、問題事態が読めないので、国語力強化から始めなければならない。つまり、学力の低下は、日本語を知らない事が原因していると言うのだ。日本人でありならが、日本語を知らなければ、その人間は日本語だけではなく、日本の文化や為来
(しきたり)や礼儀すらも、分からないと言う事になる。昨今の日本人の礼儀知らずは、この辺にあるのかも知れない。

 また、一斉授業において、教師が黒板に向かい、大声で“熱演した授業”を展開していても、それは総て教科書に書かれた事を黒板に書いているだけで、時間の無駄。教科書に書いていることは、教科書を見れば分かるはずである。

 そして、「勉強の姿勢」というのは、嫌々ながら机に長時間かじりついて、“勉強しているポーズ”をしても、それは勉強している事にならない。日本人が考える勉強をするというポーズは、これに回帰されると、佐々木氏は鋭く指摘するのであった。勉強は長時間懸けてするものではなく、短時間に効率良く、無駄なく無理なくムラなくやるのだと言う。それが出来れば余暇の時間も殖
(ふ)え、それが健康面や衛生面に反映されると言うのである。

 更に佐々木氏は、これまでの教育者が見逃していた、「想像力と連想力」を駆使する思考を編み出すのである。それは人間の、「考えようとする行為を疲れる!」と定義していることだ。
 だから氏は「考えるな」と言うのである。これまでとは全く逆の発想である。氏は、考えようと思わず、“興味を持って眺めようとする心の姿勢”が大事だと言う。
 興味が起れば、充分に想像し、充分に連想して、他の事とも絡めていくことができると言うのである。つまりこれが「学問をする姿勢だ」と言うのである。

 したがって「学問をする姿勢」は、他と絡める知性と理性の関連がなければ、連結するパイプは失われ、ただ一つの事だけが孤立した存在として浮き上がり、この結果、人間が学問をする姿勢が失われると言うのである。総じて「関連のパイプ」を通じて、連鎖反応を起こすことが大事で、この反応が繰り返される度に、学問と人間の成長が記憶の中に固定すると言うのである。

 私は佐々木氏の話を聴いて、人間の知性や理性の「文」の部分と、人間的成長の度合いのバロメーターである、死を嗜
(たしな)む道の「武」の両方を結び付けて、これを観点のパイプで結ぶ、「文武両道」を連想したのである。

 また氏は言う。
 どんな知識も、「ひとり独立しているものは弱く、消え去ることも早い」と。
 これを青少年期の勉学に例えるならば、理科と社会科の関連性は実に弱く、年齢と倶
(とも)に、これらは記憶から消去されていくと指摘している。しかし、理科と社会の“共通の原則”を関連づければ、心の中で、新たなものを惹起(じゃっき)させることができると言う。
 例えば、理科は
旺盛な興味と好奇心と探究心を湧き立たせるものであり、社会科はそれらに加えて、一つの事柄を教科全体の中で、位置付けと意味を確認すれば、これまでの平面が、立体になると言うのである。

 つまり、これまでの平面とは、特に社会科の場合、学校の教師は教科書の書いていることを自分なりにまとめ、それを黒板に書き出し、それをまた生徒に、ノートに書くことを強要する。これでは問題提起の活字に過ぎないと言うのである。生きたものでなく、深い味合いの含蓄も存在しないのである。この中からは、単に暗記力に頼って年号を覚えるだけの、粗末な、“旺盛な興味”が死ぬ、暗記だけが繰り替えされていると言うのだ。
 これを佐々木氏は、「想像力と連想力」を奪った死んだ学習法としている。結局、“勉強しているポーズ”だけで終ると言うのである。

 そこで佐々木氏は、こうした“勉強しているポーズ”の世界から、生徒を解放する必要があると言うのである。その次なるテーマが次のようなものであった。

分からないところだけを集中的に、一対一で分かるまで教えてもらうこと。それに進度は関係ない。進度設定のしているエクササイズは、百害あって一利なし。
学力は成績の現状と、また伸び具合は集団の中で好評されなくても、親にも子にも日々予測できるスケジュールが必要。進度チェック体制を一人ひとりに作れば、教師側は一々公表する必要はないこと。
学習は一人でした方が確実に、無駄なく伸びる。それを指導する教師側は、その方法を丹念に一つずつ教え、生徒の手伝いをし、これを管理する。此処に佐々木氏の、病人と医者の関係を顕わす医学者的な発想が出ている。

 佐々木氏の発想は、まさに画期的であり、どのようにして無駄な時間の浪費を避けさせ、十分な睡眠を取らせ、子供らしい愉(たの)しい余暇と、将来を窺(うかが)わせる力強い、逞(たくま)しい健康を維持するか、それをテーマにしていた。まさに教育の理想が解かれていた。また学力の順調な伸びが、どうしたら確保されるかを徹底的に研究し尽していた。

 私たちはのこれまでの学習方法は、間違いだらけで、英単語の小テストを長時間かかって考え、国語力もないのに算数や数学の文章題に振り回され、これらを“難解なもの”と錯誤して来たのである。これこそ「考える無駄」の最たるものであった。

 私は進龍一から、この事を聞かされた時、もう、これまでのような学校の延長である、一斉授業形式の学習塾や進学塾では、時代遅れになると言う事を聞かされたのであった。そして、進龍一を伴い、上野に在
(あ)る佐々木氏の個別指導教室のモデルルームに度々足を運んだことがあった。
 しかし私の場合、やはり資金力などの問題があり、この方式を取り入れるのは、かなりの無理があった。

 その後、佐々木氏とは意気投合し、上野界隈
(かいわい)を飲み歩き、また何度も北九州の黒崎校に来て頂いて、将来を語り合い、教育の理想を追求したものであった。
 だがこの時、私の明林塾ゼミナールは斜陽の時期であり、画期的な佐々木氏の指導方式を充分に取り入れて、受講生に大きな効果を齎
(もたら)すことは出来なかった。もう、「時、遅し」という観があったのである。佐々木氏に巡り会う時期が、もう少し早ければ、と思うのであった。

 佐々木氏とは、その後も何度か飲み明かしたが、その席で、ふと大阪の“鷲野のオッサン”の話が出た。
 私は「何で鷲野さんを知っているのですか?」と訊いたら、日本刀の事で近付きになったと言う。また佐々木氏も日本刀を何振りか持ち、日本刀をこよなく愛する一人だったのである。そして私も、もと刀屋であった事を告げた。
 それ以降、彼とは親近感が更に深くなり、その後、鷲野氏を北九州に招いた時、鷲野氏は開口一番「あいつは何しろ、東大医学部やからなア。並の人間の頭と、中身が違うわい。あいつはホンマに天才や」と言っていたが、鷲野氏も蔵前高専の出身者であり、現在の東京工業大学の全身の卒業生であった。

 個別指導の生みの親であった佐々木氏の「個別指導方式」は、今日、多くの学習塾や進学塾に採用され、盛会を見ているが、もとは佐々木慶一氏が、昭和27年頃に、東京高等師範付属中学・高校
(現在の筑波大学付属中学・高等学校)の高校生時代に考え出した学習方式であった。



●天命の命ずる儘に

 人生に於ては、何事も突発事故は偶然に起るようである。しかしまた一方に於て、何事も、必然から起るようである。このような人生を、人は“運命”と定義付ける。そして偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味を持っているという事で、人生はやはり運命が支配しているのである。それも、“運命の陰陽”という名の支配が……。

 人生が運命であるように、また一方で、人生は希望でもある。希望は成就に至らなかった場合、絶望を伴うが、しかしそれは運命であるからこそ、また、そこには不可知の希望の伴うものである。人間の知識では及びもつかないところで、運命は展開されているのである。

 さて、人にはその思い出の中に“哀愁”という、古き時代の記憶が刻み込まれている。
 それは“望郷感”であったり、“微苦
(ほろにが)い過去の想い出”や、“忌まわしい出来事”であったりする。だがそこに人は、“人生の掟(おきて)”を感じたり、“天命”を感じたり、“人情の機微”を発見するであろう。殊(とく)にそれが、逆境に立たされ、窮地(きゅうち)に追い込まれて、今まさに“風前の灯火(ともしび)”となって、己が人生に訣別(けつべつ)を告げんとする時、万が一の確率で救われる事があるからだ。間一髪(かんいっぱつ)というか、運命の悪戯(いたずら)というか、そんな際どい所で、再び元の人生に復活する事がある。これを“悪運”と云うべきか。

 誰もが敗北を信じ、二度と浮かび上がれないと確信する状態にありながら、しぶとく浮上する事があるのだ。私はそのような中に居ながら、絶望的な状態の中から浮上して来た。悪運が強いというか、まさに「天命の命ずるところ」であった。

 私は平成2年9月17日、完全な敗北を帰した。私の経営する「有限会社明林塾ゼミナール」が二度目の不渡りを出し、事実上倒産したからである。そしてその日から、想像を絶するこれ迄の日々に加えて、新たな“苦難の旅”が始まったのである。
 この日、誰もが二度と浮かび上がれないと確信し、私は既に死んだ人間のように扱われた。予備校関係者も、それを知る私の周囲も、既に“ひと花”咲かせ、そして花を散らした過去の人間のように思われた。勿論、羨望
(せんぼう)(はなは)だしい道場関係者の間でも、私の墜落は確定され、“過去の亡霊”として葬り去られていた。

 だがどうした事か、これで幕は閉じなかった。そして不死鳥のように、時機
(とき)を経て、灰の中から復活した。生きている私の姿を見た者は、実際に目を疑ったに違いない。
 殊に、小さな我執
(がしゅう)の往来する羨望(せんぼう)と嫉妬(しっと)と我田引水(がでん‐いんすい)を企てる武道界にあっては、私の復活は番狂わせにも似た異変が伴ったものであった。
 また過去に取り引きのあった銀行を始めとする債権者の中には、二度と生きて還
(かえ)れないと信じていた者が、まるで奇蹟か、幽霊でも目(ま)のあたりに見るように、私を見る者が少なくなかった。

 だがこれとて安穏とした日々を送って、棚ボタ式に復活の機会が訪れた訳ではなかった。その水面下では限りない格闘と、己自信の葛藤
(かっとう)が繰り返されていたのである。それについての私の告白が、これから先に述べるノンフィクションの回想の物語である。



●不毛の地・北九州

 日本の何処かには地域性、或いは住民の意識からして、伝統文化の根付かない土地がある。このような土地を「不毛の地」という。しかし開拓者ならば、不屈の開拓者魂を以て、この不毛の地に鍬
(くわ)を入れ、辛抱強く、丹念に耕す事がこの地に根を降ろす者の力量や伎倆(ぎりょう)であろう。しかし、それだけに此処に遣われるエネルギーは大変なものである。

 後ろ楯の無い私としては、精々奮闘しても、大手に伸
(の)し上がる事は不可能に近かった。
 道場経営の肩代りとして、私の経営する有限会社明林塾ゼミナールは、その程度の存在だった。一人奮闘し、精一杯頑張っても、正直な処、それを例えるならば、多少流行
(はや)る田舎街の喫茶店程度のものであり、業績にても、現状を維持しながら好調を続ける事は出来ない代物であった。幾ら趣向を懲(こ)らし、手を変え品を変えたところで、お客は現金なものである。飽れば直ぐに、よそへ行ってしまうのである。

 こういう中で、予備校経営と道場経営が行われていた。その意味で北九州は不安定で、伝統文化がなく、厄介な場所であった。
 また飼い犬に手を咬
(か)まれ、その毒がやがて破傷風や狂犬病に発展し、体内を循環して、悶死(もんし)する恐れがあった。そして私が行き着いた処は、行くも地獄、止まるも地獄、退くも地獄であった。現世の毀誉褒貶(きよ‐ほうへん)の十字路で、八方塞がりの“憂き目”に遭遇し、辺りは修羅(しゅら)の業火(ごうか)に包まれていた。

 さて、では何故私がこのような事態に陥ったか、これについて告白しなければならない。
 これより振り帰ること二十年程前、信頼しうる一人の片腕を失った事に端
(たん)を発する。現代社会に於て何事も、一人で複雑な経営は出来ない。
 過去を振り帰ると私に、一生一度の、天の助けといえる片腕、或いは参謀といえる人間が、唯一度だけ現われた事があった。

 彼は同じ大学の同級生であったが、学部が違っていて、ある友人の紹介で、彼と知り合う機会を得た。
 柔道出身の彼は、当時応援団に入っていて、奨学金で学費を賄
(まかな)える程頭も良く、既に人望があり、また参謀たる手腕に長けた人物であった。その人物を以前から、私は心から欲していたのであった。そして応援団を辞めて貰って、吾が道場「大東修気館」に、師範代として彼を招いたのであった。私も若かったが、彼も青年の意気込みを持ち、暫(しばら)くは私と一緒になって奮戦してくれた。

 この男はFという名で、大学三年で辞めて警察官になったN
【註】Nについては、志友会報の裏面に掲載の拙著『旅の衣』前編を参照)とは良い組み合わせの、私の信頼するべき副官であった。類は友を呼ぶ。当時の私は、そのことが得意満面であった。

 だがFとは、私の片腕となっての二年目の夏合宿の時、私が彼の不手際を攻めたところ、それが原因となって拗
(こじ)れた状態になり、もう再び、彼は道場に姿を顕さなかった。私の小心者の、“不徳”が招いた事であった。何度か手紙を書き、最後には家まで行って頼み込んで見たが、彼は再び首を縦に振る事はなかった。思い余って、家まで訪問して土下座したが、頑(がん)として受け付けず、そして空しくこの場を立ち去った事を憶えている。

 何事も、「覆水
(ふくすい)盆に返らず」なのである。
 これは太公望
(たいこうぼう)が若い頃、読書ばかりしていて、甲斐性のない彼に愛想をつかした妻が離縁して、彼の許を去ったという故事に準(なぞら)えられている。やがて彼が周王(しゅうおう)に召し抱えられた事を知ると、再び彼女が遣(や)って来て、復縁を迫って断わられたという話があるが、これとまったく同じで、またこれも人生の“苛酷な掟”なのである。

 私も暗愚な一面から、Fの人間性を見抜けなかった。大学四年の教職課程の実習の時も、彼と同じ高校の、同じ学年を受け持ち、一週間、この学校で過ごしたが、殆ど口を訊く事はなかった。もう総ては終わってしまった事を知らされた思いだった。一度別れてしまった夫婦の如く、縁は戻される事はなかった。

 人生に別れは付き物であると謂
(い)われるが、こうして人と出会い、また別れるという事が、人生の非情な掟であるのかも知れない。もし彼が道場に残っていて呉れたら、どんなにか発展しただろう、と時々思う事がある。しかし頑なに、横に頸を振り続ける彼は、遠い昔の幻影であった。私は孤独であった。人生に孤独は付き物である。無差別に、人と交わる故に、孤独な人が居るが、私は良き友を求めて、得られざるが故に孤独であった。

 その後、私には全く片腕、或いは参謀と謂
(い)える者は、一人も現われなかった。天下取りの、乗るか反(そ)るかの大戦は、一人では出来ない。生まれの悪い、無名の指導者を、天下に名だたる一廉(ひとかど)の者に仕立て上げる為には、卓(すぐ)れた片腕が必要なのだ。常に助言を与え、それを吟味したり、協議する、片腕と謂われる知恵袋が必要なのだ。

 人間は、その個人が、如何に才覚があり、力量及び伎倆が共に優れ、衆に抜きん出ていると雖
(いえど)も、たかが一人では何も出来ない。これを可能にするには、荒波を乗り切る、人生航路の良き伴侶(はんりょ)が必要なのだ。良き協力者が必要なのだ。
 主従が互いに、人格及び霊格を認め合い、各々の優れた処を評価して、信頼出来れば、この二人三脚は、「知恵の葦
(あし)」で「鬼に金棒」となるのだ。

 どんなに苦しい時でも、一蓮托生の運命を担う。その目的を同じにし、同志として認め合い、心の許し合える戦友と謂われる者を友にすれば、それだけで“三国志の世界”が巡って来るのだ。だが天は、私からFを遠避け、変わりに悶絶
(もんぜつ)と苦悶(くもん)が暗示する、迷走の十字路へと追い立てたのであった。

 したがってこれ以降、何事も一人で遣
(や)らなければならず、喩(たと)えば道場に於ては、広告のレイアウトから、印刷の段取り、電話の応対、入門者の金銭の授受に至るまでの総てを、一人で遣らなければならなかった。またこれが、金銭的な誤解を生む原因になつて行った。そして道場生は、いつの頃からか、奇妙な勘違いを始め、私からの請求が無いのをいい事にして、道場では月謝を払わないでも済むという意識が、半ば常識的になり、「不払いこそ古株の箔(はく)だ」と考えるようになった。

 そしてこれ以来、不払い感覚が道場の禍根
(かこん)となって、徐々に私を苦しめ始めるのだった。貧乏な道場経営者は、それだけで、日々、金策に追われた。その意味で、全く道場経営とは割りに合わない商売であった。ビジネスにはならないのである。道楽の世界のものだった。

 現在の小倉南区に辿り着く前は、凡
(おおよ)そ北九州を対角線で縦断するように道場を転々とした。豊山八幡神社の境内の能神楽舞台(のう‐かぐら‐ぶたい)跡を出発点として、八幡西区森下、八幡東区中央町、同枝光、同高見、同荒生田(あろうだ)、八幡西区八千代町、同黒崎町、同三ヶ森、同千代ヶ崎、小倉北区馬借町、そして最後に落ち着いたのが現在の小倉南区志井であった。

 総て賃貸の為、月初めになると、家賃に追われる有様だった。
 その為、武術で一本立ちするのは容易でなく、武術以外に職を探さねばならなかった。しかし今更、宮仕
(みや‐づかい)も出来る訳はなく、かといって裟婆(しゃば)で生活の糧(かて)を立てられる程の財産はなく、親の残してくれた猫の額程の家屋敷を担保に、最初は刀屋をやり、一時それでも“一当り”して纔(わずか)ばかりの小金を掴んだ事はったが、これもやがてオイルショックの煽(あお)りを受けて、美術刀剣が売れなくなり、有限会社大東美術商会は二度目の不渡りを出して倒産した。商売が下手な私は、何処までも“武家の商法”であった。

 倒産の責任を果たしつつ、尚、生活の糧を探さねばならなかった。それもある程度自由が効き、時間調整できるものでなければならなかった。その職が結局考えた挙句の、中・高生対象の家庭教師であり、それに付随するように始めたのが寺小屋式の学習塾や進学塾であった。

 これはやがて大学予備校にまで発展を遂げ、一応それまでの奮闘で、資金の余裕も出来、自前の道場が持てるようになり、何とか安定したかに思えた。しかし世の中は、それ程甘いものではなかった。首尾よく成長したかに思えた予備校経営は、北九州を舞台にした四ツ巴
(代ゼミ、河合塾、北予備と弱小・明林塾ゼミナール)の予備校進出戦争で、基礎体力の無い吾(わ)が方は、斜陽の一途を辿る事になる。

 この大きな原因は、私には片腕、或いは参謀と謂
(い)われる、心の底から信用しきれる者が居なかった為である。
 事を起す時機
(とき)、如何に優れている人間でも、男気だけではどうにもならない。取り巻きから、ちやほやされ、先生、先生と持ち上げられて、傅(かしず)かれる為には、ある程度の金が必要である。

 この金は自分の財産を抛
(なげう)って作るか、強力なスポンサーを見つけて、そこから金を引っ張り出してくるしかない。取り巻きを養い、育て、傅かせる為には、“後ろ楯”が必要であり、それに似合うだけの資金力がなければ裡側(うちがわ)から崩壊してしまうのである。大将は部下を食わせてこそ、大将なのだ。

 これは派閥を持つ大物政治家が、自己資金の欠乏から造反を受けたり、裏切り者を出すという現実を見れば、これ等の裏側に「金の力」イコール「指導力」という図式が働いている事を見い出すことが出来る。志だけでは如何ともし難いのである。この意味で、北九州はまさに志だけでは動かない、人間の現金さが、この不毛の地の体質を作り上げていたのである。

 また人間は、その霊的レベルが下がれば下がる程、外見によって人間性を判断され易い。志高く、大旆
(たいはい)を掲げても、そこに集合する人間に資金力や、後ろ楯が無ければ、それなりの軽い評価で終わってしまう。何よりも、“見掛け”が大事なのだ。

 公園の片隅を「道場」と豪語しても、或いは山中の広場を「野外道場」と言い繕
(つくろ)ってみても、此処には雨や、風や、雪や、寒さを凌(しの)げる設備はない。また公園の砂利の上で“膝行”をしたり、“受身”をするといった粗末な稽古場に、どれだけの人が参加するであろうか。

 物事は“形”から入るものである。形から入って、その形の中に隠されている本当の姿が、徐々に分かってくるものである。その本当の姿を見極める、見識眼を持たない凡夫
(ぼんぷ)を導くのに、志や大旆(たいはい)など、分かろう筈(はず)がない。だからこそ、不毛の地には財力や金を投入する膨大な資金力や、後ろ楯というものが必要になるのである。

 手足を持たない状態で、自らが部隊長になって、陣頭指揮を執るには、余にもお粗末な兵力であり、私にとっては疾風怒涛
(しっぷう‐どとう)という、惨憺(さんたん)たる時代であった。見栄に任せて、思い切り背伸びをし、爪先立ちの儘(まま)で突進して、当然の事ながら、挫折したのは言うまでもない。



●苦行の定義

 苦行とは、単に躰
(からだ)を苛(せ)める事ではない。
 一般に、妄想的に誤解する苦行の定理は、極限まで躰を動かしたり、極限まで酷使して、その終了後、相撲部屋のように、たらふくスタミナ料理と称する、肉や魚貝類を食べるといったものではない。真の魂のスタミナ源は「食」にあるのではない。
 たらふく食って、筋力トレーニングに励むのと、二週間、三週間と断食を行って、苦行するのとは違う。肉体と共に、心と魂を養うのとでは、自ずから苦行の次元が異なり、更に食禄
(しょくろく)という、一人の人間に与えられた、“一生涯の食糧”を安易に食い潰すだけ、というのとは全く異なるのである。

 多くの読者は、武術家の「苦行」を想
(おも)う時、凡(おおよ)そは大山倍達の「山篭(やまごもり)」を連想するのではあるまいか。風雪に我が孤拳を鍛え、練習三昧(ざんまい)に明け暮れる事が苦行と想うのではあるまいか。

 しかし、私の苦行は世間一般が想像するように、隔離された深山幽谷に入り、ただ只管
(ひたすら)に肉体練習に明け暮れるというものではなかった。寧(むし)ろ世間の中に入り込み、俗と交わり、俗に塗(まみ)れて、俗に蝕まれ、その中にあって苦行を余儀なくされた、一種の「人生行」であった。憂身(ゆうしん)に身を窶(やつ)し、正・不正を綯(な)い交ぜにして、何事も承諾し、人間本来の人格等は、総て押し殺したものであった。私は俗と交わる、最も困難な「行」を、人間界での修行として、天から余儀なくされたのである。

 世間には目的達成の為に、手段を選ばない輩
(やから)が多い。己の臭気を撒(ま)き散らしながらも、何の憚(はばか)る事も知らない。黄金を手にする為に、汚い事を遣(や)り、恥知らずにも、その醜態を顧(かえり)みないのだ。しかし汚物に塗れて、黄金を手にしたところで、一体何になろう。やはり人は、香気を漂わせて、人生を送りたいものである。

 私も願わくば、そうでありたかった。しかし俗と知りながら、或いは俗の持つ魔力の落し穴を重々承知しながらも、それが俗故に、幾度か過
(あやま)ちを重ね、俗の魔力に魅了されて、俗に塗(まみ)れる人生を選択していた。それなるが故に、この世が一瞬にして、私の“苦海”となったのであった。

 この苦海は現世と隔離された世界でない為、“悪の魅力”という厄介なものが存在した。その存在を知りながらも、崩れ掛った頽廃
(たいはい)に、今迄も、心を惹(ひ)かれる男女も少なくないのだ。当時の私も、その一人であった。従って私の苦行は、この現世の苦海の中で実行されたのであった。

 苦海の輪の中で、逃げずに踏み止まると言う事は、決して容易な事ではない。人間は往々
(おうおう)にして、安全圏の領域に逃げ込もうとするのが“本来の習性”である。安全圏に逃げ込んで、客観的安定を求める行為が、消極性とするならば、逃げずに踏み止まり、危険と思える客観状勢の中で、平然としながら、然(しか)も安定している主観的安定は、言わば客観的安定を求める行為より、究めて積極的な行為といえる。だが、それだけに困難なのだ。

 「断じてこれを行えば、鬼神
(きじん)も避ける」と謂(い)う諺(ことわざ)通り、安全圏の中では、この心境が得られない。何故ならば安全圏の中では、切羽詰まった迫力に欠け、創意工夫が何も生まれないからである。また反射神経や平衡感覚が不必要であるから、心身共に脆弱(ぜいじゃく)となり、イザという時に自立出来ず、直ぐに助けを求めるか、逃げてしまうという最悪の状態を作り兼ねないのである。

 この状態を仏道では、このように説く。
 「悟りは必要であるが、悟りに安住してしまうと、それは最早
(もはや)悟りではなく、単に過去の陰影となってしまう」と説いている。外部に起る現象ばかりに捕(とら)われて、いつまでも影響を受ける事を恐れ、逃げ回れば、やがて“悟境の域”から脱落する。

 この事について臨済和尚
(りんざい‐おしょう)は、「一人は孤峰の頂きにいて、而(しか)も世俗を超越する路(みち)が無い。一人は十字街頭に居ながら、その差別に囚(とら)われぬ自由を持っている」と説いている。前者の一人は完全に悟りの心境、或いは絶対的平等と差別の意識にありながら、相対二元性の“世俗の現実”から逃避して、幽山深谷に入り込み孤高を持している。後者のもう一人は、“相対二元性”に囚われること無く、自在に世俗を生きて俗に交わりながら、俗に塗れず、而も心には何ら支障が無い。

 前者を上求菩提
(上に悟りを求める事)といい、後者を下化衆生(下に衆生を教化する事)という。前者のように、この世の浮世現象から逃れて、静かな隔離された世界で、如何に修行を重ねようとも、所詮(しょせん)一人合点の悟りで終わってしまう。
 逆に、後者のようにこの世の浮世現象の中にあって、悩み、迷い、苦しむといった人々と共にあってこそ、そこで悟った悟りは“本物”になる。騒然
(そうぜん)とした混乱にも影響されず、雑音にも心を掻(か)き乱さない。これが真の悟りというものである、と説くのだ。

 此処に至って自在な働きや、魂の輝きが益々本物に向かって、回帰すると言われる。
 日々の事柄や喜怒哀楽に振り回されているうちに、人間の心は、段々と退化と腐敗を重ねていく。そして益々滅びの加速度は増していくのである。しかし、しっかりと自己を見つめ、そこに創意工夫が生まれれば、その精神構造は進化するのだ、と説いているのである。
 しかしこれは究めて難しい修行である。

 多くは安全圏に居て、自己中心的な個人主義に走る傾向にある現代社会に於て、自己主張ばかりが強くなり、義務や責任が軽く扱われる現世にあって、どれ程の積極性を実行している人が居るだろうか。多くは安全地帯に逃げ込み、保身に明け暮れる日々を送っているではないだろうか。



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