●西郷派大東流の戦闘思想
「気系」あるいは「合気系」の武道は、昨今では地に落ちた観がある。打撃系格闘技や柔術系格闘技に、大東流が、ちっとも通用しないからである。
さて、幕末から明治・大正・昭和の大東流の足跡を追うと、果たして「大東流なるものは、武術史上最高傑作であったのだろうか?」という素朴な疑念が起ってくる。実に疑わしくなってくる。
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▲戦闘思想としての“合気”とは何か。単に争うだけが合気なのか。 イラスト/曽川 彩
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西郷派大東流の戦闘思想は、武門の「礼法」に帰着する。「礼法」こそ、武家社会での仕来(しきた)りであるからだ。
かつて武家社会では、自分に課せられた処分が不服ならば、その理由を堂々と問い質(ただ)し、それが間違っていれば、歯向かう事が許されたのである。この一事(いちじ)につき、礼儀作法を母体とした「御式内(おしきうち)」が唯一、武術であるという確信を抱かせるところである。
武士階級にあっては、身分の上下なく、何処の場所(登城し、主君や重臣の居る殿中など)に上がるにしても、「脇差の帯刀」が許されていた。この点が、武家社会の武術を解明する上で「重要なポイント」になる。これこそ、「御式内」が武術としての体裁(ていさい)を保っている「重要ポイント」といえよう。
「脇差の帯刀」の意味は、今日ではあまり語られることがないし、この意味を正しく知る人は居ないようだが、武士が上下の身分に関係なく「脇差が帯刀」できる意味は、次の事による。
例えば、間違いがあったり、不正があったりすれば、その関係者や当事者に対して、下士は上士に対して「歯向かう事が許されていた」からである。この点、武家社会の方が、今日の資本主義を基盤とした会社社会より、数段もフェアーだったといえよう。
重役が居並ぶ中で、処分の言い渡しと、同時に、切腹を命ぜられたり、討ち果たされるような場合でも、処分を受ける者は、脇差の帯刀が許され、また、不服がある場合は歯向かう事が許されていた。上士の一方的な理不尽に対し、最後の最後は、わが脇差を抜いて斬りつける覚悟で、抗弁できたのである。それは主君に対しても同じであった。主君に対しても、歯向かう事が許されたのである。ここが御式内を武術に結びつける重要なポイントになる。
この場合、喩(たと)え相手が高貴な身分の主君であっても、あえて歯向かう事ができた。また、歯向かう位の意地を見せた方が、良い態度として大きな評価を受けたのである。この根底にこそ、身分の上下なく、諂(へつら)う事の「愚」を戒めているのである。
諂わない下級武士は、命を賭(と)して上士に歯向かう。あるいは命を賭して主君に歯向かう。理不尽があれば、その非を毅然(きぜん)と申し述べた。民主主義の現代とは大違いで、何と「対等な考え方」であろうか。現代は民主社会というけれども、ここまでの「対等性」はない。一言で「民主」というけれど、その実は「金持ち」対「貧乏人」の、金銭に関する所有の身分差が歴然としている。
その意味で、武家社会の方が、この点においては優れていた。武家社会においては、金銭所有での上下関係はなかった。単に身分や地位の上では、上下関係があるが、「人間としては体等である」としたのが、武家社会の鉄則であった。
だから、不当な処分を言い渡されたり、理不尽な扱いを受けたり、罪なく切腹を申し付けられたりすると、この不当な扱いに対し、「歯向かう」ことが許された。現代の、企業のリストラなどと比べると、大違いである。不当な扱いに泣き寝入りせずに済んだ。堂々と抗弁・弁明が出来、あるいは諌言(かくげん)が述べられた。一方的に遣(や)られぱなしではないのである。
今から考えると、武家時代の方が、実に紳士的で、人間的には対等で、同格で、毅然(きぜん)として振舞え、不当な扱いには命を賭(と)して「厳重抗議」が出来たのである。
これこそ、まさに「武士道の実践」ではなかったか。
一方、主君や重臣等の上士は、どうしたのか。
下級武士が歯向かってくるのを、黙って見過ごしていたわけではない。これに対して、主君を護り、歯向かう者の攻撃に対処しなければならない。上士は、この責務が負わされた。
ここで礼法以外の武技が登場しなければならない。これを取り押さえ、固め捕り、あるいは投げれば柔術であり、一気に居掛ければ「居掛之術(いかけ‐の‐じゅつ)」である。此処(ここ)に攻防の鬩(せめ)ぎ合いがあった。居掛之術ならびに殿中居合の起源は此処にあるといってよい。
あるいは上坐の殿中を血で汚すことが許されぬのならば、速(すみ)やかに取り押さえ、固め捕る為の殿中柔術が、この起源となりえた。歯向かう方も、歯向かう者を取り押さえる方も、ともに命を賭(と)したわけである。ある意味で、武士の起居(たちい)振る舞いは、これに集約できよう。
では、精神基盤としての「武士道の実践」とは何か。
わが西郷派は、「武士道の実践」に重きを置く。それは精神基盤を陽明学に置いての、「武士道の実践」であると定義している。また、これが武士の行動律だった。その行動律が、武技を形作った。ここに「術」のはじまりがある。
だが今日のように大東流が形骸化され、明治中期から昭和初期までの、中興の祖と称される人の武勇伝が一人歩きして、次世代に伝承される歴史の中で、「伝承武道の形式」を採(と)ったことは、「時代遅れ」である観(かん)が否(いな)めない。時代遅れの武技で、武士道の実践は不可能である。大東流はその他の柔術に比べて、洗練されているといっても、型の反復武技では、「骨董品的」に成り下がる外ない。これが「大東流柔術百十八箇条」を、骨董品の位置に止めてしまったのである。驚異的な練習をするプロレスや大相撲に比でないからだ。
一方西郷派は、伝承を骨董品の位置に止めず、「伝承武術」に変化させていった。時代に対応する為である。時代に対応する為には、幾ら武技のみを蒐集(しゅうしゅう)しても駄目である。時代に応じた「道」と「心」が必要になる。時代に則した戦闘思想が必要になる。
●利害が対立する人間社会
精神病の代表格は、「精神分裂病」である。現在では人権擁護の立場から、“統合失調症”と言う名前に変えられてしまった精神分裂病は、非常に難解で、治り難く、厄介な病気である。この病気に罹って、ある程度、良くなったとしても、最早、精神安定剤なしには生きて行けない「廃人」となる。
精神分裂病の発病率は、数年前まで「100人に1人弱」と言われていたが、今日では、1%弱の数字が、2%へと移行しようとしている。
100人に1人弱の割合で、もし、あなた自身の先祖を振り返った場合、四代前までに遡(さかのぼ)れば、必ず一人は精神分裂病患者が居た事になる。人間とは特定の人にとって、それほど感受性が強く、デリケートな生き物であることが分かる。
精神分裂病は本来「遺伝はしない」と言う医学的な仮説があるが、これはあくまで仮説に過ぎず、先祖に保菌者がいた場合は、その血の中に、必ず精神分裂病の保菌者が潜んでいると言う事になる。また、精神分裂病と、ノイローゼ等の自律神経失調から起る神経症は、種々に分類されて考えられているよだが、神経内科的な病気は鬱病(うつびょう)を経由して、不安の要素が濃厚になれば、精神分裂病へと移行するケースも殖(ふ)え始めている。これまで信じられていた、神経症は分裂病に移行しないと云う考え方が、現代社会では、これまでの仮説が崩れ始めているのだ。
情報過剰で、人間不信の時代は、様々な妄想が背後で吹き荒れている。この中に落ち込むと、もうそこは「妄想の世界」である。
精神的混乱が起り、現実から遠ざかり、孤独で憂鬱(ゆううつ)な世界へ逃げ込もうとする。
そして、こういう状態に至った場合、世間の目は、自分とは遠く掛け離れた、精神異常者の想像をして、彼等に対しては隔離する事が必要だと、安易に決め付けてしまう。何と恐ろしい考え方ではないか。
かくして現代人の「ゴミ捨て場」が出来上がり、現代物質文明の発展の真っ只中に、精神病院と言う「秘境」が誕生するのである。しかし、一般人が思う、こうした考え方は、無知の最たるもので、本来、精神病院とは、入院患者の心の平静を取り戻す治療の場所だった。
ところがこの考え方や、見方を歪(ゆが)めているのが、精神病院の構造と外形であり、重い鉄の扉の「錠前」と、刑務所さながらの「鉄格子」が、現状を知らない一般人に、更に大きな誤解を与えている現実がある。
一般人が想像する病院は、「病院」と名がつけば、病人を優しく労ってくれると言うイメージを抱く。ところが実際に、「精神の病」で入院すると、これは病院のイメージと大きく逸脱してしいる。
したがって、精神病の実態を知らない無知な一般人も、また、既に精神病を患いながら、「自分は精神病ではない」「自分の頭は正常である」と思い続けている精神病患者自身、こうした病気への無知が伴って、精神病を他の病気とは、一等も、二等も低く見下し、蔑視する考え方が固定観念として脳裡(のうり)に巣喰い、焼き付いているのである。
そして、この固定観念が精神病院をして、「生地獄」という陳腐な言葉までの連想させてしまったのである。
現に、日本医師会の会長であった故・武見太郎は、ある種の精神病院経営者達を指して、「牧畜業者」と呼んで物議を醸(かも)し出したことがあったが、現実に「牧畜業者」のような精神病院もあることも事実だ。ここでは、人間の人権が剥奪(はくだつ)され、「人間イコール家畜」として患者が扱われている。
そうした病院の各閉鎖病棟には、暴力大好きの看護師が居て、白衣の下に長靴を履(は)き、青竹か竹刀を手に持ち、患者であるか弱き仔(こ)羊達は、彼等の暴力に屈する“生地獄”が展開されている。
だから、こうした歪んだ固定観念は、更に中級以下の精神病院では、「錠前」と「鉄格子」、「強靱な看護師の暴力」と「保護室と言う独房」(【註】鍵の掛る個室の事で、殆どは窓がない、四方が壁。この密室は「懲罰房」として使用される。病院の意に沿わない患者が、看護師から暴行を受ける事もある。但し、これは中級以下の病院に多い)が、更に歪んだイメージとなって、「精神病は実に恐ろしいもので、多くの人間はこの世界とは無関係だ」と高を括(くく)っている。
しかし、“この現実”は、人間である以上、誰一人として無関係ではない。ある日突然、全く予告なしに、恐るべき不幸が襲って来るのである。これこそ、理不尽の最たるものであろう。
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▲わが妻は、あの痛手から復活せず。いまもなお、後遺症を引き摺っているのである。
平成4年3月、筆者夫婦は八光流柔術師範・松永毅氏の道場に間借していた。愛知県豊橋市南小池町の「神武館道場」にて。(当時37歳) |
私は、理不尽に度々襲われている。“寝耳に水”の八幡大学合気柔術部の造反事件。それに関連した家内の発狂。平成3年7月の『合気ニュース』89号(夏号)の“論説”による誹謗中傷。それ以降の執拗(しつよう)なまでの「西郷派叩き」の実態。営業妨害。名誉毀損(きそん)。これらの精神的経済的苦痛から起る、さらなる精神障害の悪化。どれ一つとってみても、理不尽でないものはない。
更に次は、「世間様の目」という理不尽が襲って来る。
八幡大学合気柔術部の造反事件後、家内は放心したような状態で、座布団に坐り、1歳をちょっと過ぎた娘と、四ヵ月を過ぎた息子を抱えて坐り込む事が多くなった。焦点の定まらぬ、視線を何回も私に投げて来るのだった。まるで魂の抜けたような、烱(ひか)りのない虚(うつ)ろな眸(め)で。
乱れた髪の解(ほつ)れも掻(か)き上げる事はせず、黙り込んで二人の子供を見下ろす姿は、私にとって、不吉な翳(かげ)りを感じるものだった。惨めな無力さを噛み締める瞬間でもあり、また、身を切られる責苦の瞬間でもあった。
「おい、どうしたんだ」と声を懸(か)けても返事をせず、その放心の眸(め)からは、精神的な消耗の烈しさを物語っていた。なんとも言葉に言い表せない、慄然(りつぜん)とした情景である。同時に、不意に胸を突かれたような、激しい動揺を感じたものだった。
不意に襲うもの。理不尽を旨として突然襲って来るもの。こうしたものを総じて、「悪霊は正義感然として天から降ってくるもの」かも知れない。家内の力の無い、虚ろの眸を見ていると、そんな気がしてならないのだ。
一人の人間が廃人にされた。人間として生きる事が困難になった。結果は明白だった。
そして発狂の当時、私は数ヵ所に学習塾を構えていたが、精神状態の不安定な家内に、二人の子供を委せておいたのでは、安心して働く事も出来なかった。こんな日を何十回、何百回と経験した事だろう。
八幡大学合気柔術部の造反事件は、いままで彼女が経験した事の無いくらい、気も狂わんばかりに腹立たしいものであり、衝撃の大きなものであったに違いない。
更に私が経験しなければならなかった事は、「世間様の目」において、“後ろ指”を指される事だった。
近所の人は、挨拶しても挨拶せず、貌(かお)を背けて通る人が殆どだった。まるで私が何かに裁かれているようだった。しかし、と思う。一体、私がこうした人達を苦しめたり、悪い事をしたのだろうかと思うのである。どう考えてみても、直接、私が絡んだ問題は何一つ無く、こうした罰を受け入れなければならない問題ではなかった。どうしてこんな事になってしまったのかと思う。
そして八幡大学合気柔術部の造反事件より二十数年が過ぎた。しかし、いま八幡大学合気柔術部なる体育会に属するクラブ活動は存在しない。
私を蹴落とし、師範の座から引き摺(ず)り降ろして、私の取って代わった西龍一郎が、このクラブの面倒を途中で怠ったからである。教えに行かなくなったからである。理不尽として、これ以上の理不尽はあるまい。この人間の人格は、いったい何処にあるのだろうか。
かつてのOB会長の横田稔と画策して、造反を企て、私を同大学の師範の座から追い落とし、家内を発狂させておいて、その後、私にとって代わった西が、真面目に師範を行っているのかと言えばそうではなく、怠慢から廃部に至ってしまったのである。こうした自分の事は棚に上げ、『合気ニュース』で論ずる「西郷派叩き」は一向に弛(ゆる)めない。一体このモラルは、何処からくるものだろうか。どういう道徳に端を発するのだろうか。
それでいて、一端の武道家面しているのだから、空いた口が塞(ふさ)がらない。これを言い尽くすには、一晩かかっても二晩かかっても、簡単には言い尽くせないだろう。
世間には、大した理由もなく、その人を他人が認めたとなると、自分も認めようとする動きがある。それは人間の持つ“共通の弱さ”であり、誰か一人がこうだと言えば、自分はそれが立派だとは思えないのに関わらず、つい不安になる事から、付和雷同(ふわ‐らいどう)してしまうのである。ここのマスコミ操作の禍根が横たわっている。
それは、自分には目が無いからと言う不安があり、その不安が、付和雷同を引き起こす。目の無い人間が、目のある“目のある人間面”するのは、要するにそれに便乗し、付和雷同する事により、漁夫の利を狙っての、ただ他の説にわけもなく賛成することなのである。多数派に付和雷同したということだろう。いいように表現すれば、演出の合理性一本槍と言えるだろうが、悪く言えば、紛れもなく“便乗”である。またこうした“便乗”が、下剋上の構図を作り出して行く。
では、下剋上(げこくじょう)は何処から起るのか。戦後の民主教育にあると思う。戦後の民主教育は、日教組などにより、「平等意識」を植え付けた。この平等意識は、何びとも、人権上は平等だから、あえて目上に対しても、尊敬する必要はないという、実に貧しい人間関係を作った。これが下剋上を作る。師が師でなくなる。幼児的である。幼児は、自分の所有する人形の首がもげたら泣く癖に、人間の首がもげるに等しいことが行われても、それに気付かず、また気付いても平気と云う不思議な人間を培養した。
いっぱしの大人であっても、相手の身になって物事を考えることができない、幼児性を持った人物は実に多いのである。人間社会は過酷なものである。殆どは利害関係に対立している。資本主義市場経済の社会構造は、常に一方が損をすれば、片方が儲かるという例が殆どである。あらゆる商行為は、これに尽きよう。そして損をする側は、単に経済的損失ばかりでなく、衝撃により、精神まで損傷を起こす事がある。
一人の人間の精神が破壊されると言う事は、人間の首がもげるに等しい行為が行われたからだ。
破壊された人間性の損傷。元に戻れない廃人の一生。そして一家離散。
親子・夫婦で暮らす事が、何でこんなに難しいのだろうか。
私は歳老いて、還暦を過ぎた今、病魔に襲われ、ぼんやりと坐ったまま、こうした思いに耽る事がある。虚しさ、無力さ、焦燥、更には、一つの軌道の狂いから生じた運命の事を、また、はては此処まで追い込んだ者達に対する復習までもを。
だが私は、傷付いた心の再スタートとして、再び理不尽に向かって歩き出さなければならないのである。
日本は奇(く)しくも、未だに平和と繁栄の中にいる。アメリカを発信源とするサブプライム問題、更には米リーマン・ブラザーズの経営破綻に伴い、金融危機を招き、世界的な株価下落と、急激な円買いにより、景気の冷え込みが意識され、不景気の真っ只中にいる。しかし、それでも多くに日本人は、比較的裕福で、特に飽食の世界は未だに続いている。
人にも運の良い人と運が悪い人がいるように、国家にも幸運な国と、悲劇的な国があるようだ。その中にあって、日本は歴史上類例を見ない幸福な国家であると言えるかも知れない。しかし、これは物質面に於いてのみであり、人間としての魂の癒されるのとは別問題である。
人間の精神は宇宙開闢(かいびゃく)以来、貧困な時には罹病(りびょう)せず、豊かさの中にあって初めて苦しむという奇妙な不幸感が存在する。そして現代人の多くは、短命な時代には考えもしなかった“長寿による残酷な晩年”を体験せねばならない運命を余儀無くされている。そしてその一方で、科学万能主義や物質一辺倒主義に翻弄(ほんろう)され、豊かになれば総ては解決すると言う、単純な進歩主義者達に引き摺り廻されて来た。
物が有りながら、進歩主義者達が唱えた、精神の飢餓(きが)は救済する事が出来なかったからである。
しかし、この世に起るべき、総ての善も悪も、何らかの意味合いを持っているものと思われる。寝耳に水も、晴天の霹靂も、それなりに意味を含み、自分の身の回りに起った苦難を丹念に見回して行くと、何かの意味付けをしようとする、この事に納得するのである。
●一場の夢
自分を通じて、自分の頭上に起った総ての事象を視ようとする努力。あるいは望んでも得られなかったことが、どの人間の生涯にもあり、その時の事柄に執着せず、さらりと立ち去ることが出来れば、やがて帰るべきところに帰着する。
私は大病を病んで、日々死を考える事がよくある。そして死後、どこに還(かえ)るかをよく考える。
ある人は、「人間、死ねばおしまいよ」と言う。無に帰すると言う。無でもいいだろうが、還るところを考えないで、死出の旅は愚かしい。現代の世では、物理的に時間は縮まっていると言う。現世は、光陰矢の如しで、時間が過ぎ去って行くのである。この過ぎ去る早さは、息を突かせないほど恐ろしいのだ。
だからこそ、負け戦でも、「生」と闘い尽し、生き尽し、“思い残す事がない”と言う状態になって死んで行く事こそ、残るものに爽(さわ)やかな気持ちが与えられるのかも知れない。
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| ▲それでも外国から求道者は遣って来る。米国人VICTOR S.BLOCKが訪ねて来た豊橋時代。 |
そして『吾が修行時代を振り帰る』は、ここで物語が終了したのではない。これまでの事件は、“ほんの序曲”に過ぎない。理不尽は、今から猛烈の恐ろしさで襲って来るのである。
しかし、こうした恐ろしさも、人生の最後の行進の後で、何処かで“のたれ死に”する決意さえあれば、それ以上に恐ろしいものはないと思料するのである。
また、これこそが「九死に一生を得る」秘訣であると信じるのである。
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▲米国人VICTOR S.BLOCK氏の名刺
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▲内藤文穏先生の名刺
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▲内藤文穏先生からの手紙(1)
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▲内藤文穏先生からの手紙(2)
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戦いにおける「破軍星」(【註】北斗の第七星のことで、剣の形をなし、陰陽道では、その剣先の指す方角を万事に不吉なりとして忌んだ)は、その剣尖(けんさき)が掛け合い事、勝負事、取引、交渉に向かえば敗けて殆(あや)うしと言う。剣尖を背に、則(すなわ)ち、剣尖を正反対の方向に向けてこそ、勝因はあり、勝機は“わが方”に向く。
人間の一生には、幸福な一生もあろうが、また不幸な一生もある。しかし、幸福な一生も、不幸な一生も、まさに“一場(いちじょう)の夢”であり、その夢が醒(さ)める時、“人は死ぬ”のである。
ちなみに、内藤文穏(ないとう‐ぶんいん)先生は、「戸隠流忍法体術」の初見良昭先生のところの顧問であり、また八門遁甲の大家である。
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| ▲豊橋時代は平成4年1月から5月までの僅か5ヵ月間であったが、この時代、いろいろな方々が豊橋の神武館まで訪ねて来て下さった。写真は豊橋の神武館で、道場開きの写真である。左寄り、習志野綱武館の進龍一師範、筆者、栃木の熊坂護氏。 |
さて、空海の『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』には、次のようにある。
「三界(この世)の狂人は狂せることを知らず、四生(ししょう/総ての生あるもの)の盲者は盲なることを識(さと)らず。
生まれ生まれ生まれ生まれ生の始めに暗く、死に死に死に死んで、死の終りに冥(くら)し」と。
つまり私たち人間の眼には、何も見えていないのだろう。真理など何も見えず、私たちがこの世で掴み取った、味わったとする一切のものは、果たしてどれほど重いか、そんなに重要ではないと言っているのである。
幸福感を感じ、七色の虹を見て微笑んだ。幻の責め苦に、責められて絶望の淵に立たされた。空海によれば、こうした事は、みな“一場(いちじょう)の夢”であるというのだ。
そして空海はこの間の思いを、更に高らかに言う。
「空(くう)はすなわち仮有(けう)の根(もとい)。仮有(けう)は有(う)にあらざれども有有として森羅(しんら)なり。絶空は空にあらざれども、空空として不在なり」と。
誰にとっても、“悪い一生ではなかった”とか“よい一生だった”と思う事は可能であろう。理不尽に殺されて行く人間にしても、そう思う事は可能である。世の中は決して完全に出来ていないが、おもしろいところだった思う事は可能なのである。
これは人間関係や夫婦にしても同じだろう。どんなによさそうな人間関係にあっても、決していいことばかりではない。
また、お互いに痼(しこ)りが有り、仲の兇(わる)い夫婦は、片方の一方が死ねばそれで救われるが、仲の良い夫婦は、片方の何れかが死ねば、残された方は生きながらにして、死の苦しみを味わう事になる。
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注
意
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※この物語の中はノン・フィクションの為、事件に対しては実名を用いている。また事実は事実として表現したが、表現方法について問題がある場合は、それを随時訂正して行く積もりである。筆者自身も、今から40年以上も前の事を、遡(さかのぼ)って、当時の日記や写真などの資料収集をし、その中から記憶を呼び起こして手作業で始めている次第である。当然間違いや、事実無根と思える箇所があると思う。あるいは誤りと思える箇所もあろう。特に「日付け」に至っては、この懸念が大きいと思料する。しかし、間違いは最小限にとどめた積もりである。
出来るだけ、自分の能力の追い付く限り、冷静に、理性と知性を交えて表現した積もりであるが、至らない点もあり、そうした箇所については、今後とも読み返した上で、訂正を重ねて行く。
人は、自分の方が間違っていたと思える人は、非常に少なく、いつも自分の方が正しいと思っている人の方が圧倒的に多い。筆者もその一人であり、ご指摘いただけでば柔軟に対処したい。頑迷に、一事に固執するものでない。
いつでも間違いを指摘していただければ、即座に訂正する用意がある。
※なお、訂正・ご指摘の場合は匿名やペンネームではなく、毅然とした態度で、
住所・氏名・電話番号・職業・年齢をお書きの上、こちらからお願い致します。
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