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吾が修行時代を振り帰る 29


●大いなる東

 旧資料によると、昭和45年当時の、わが流の大東流修気会は、様々な憶測により、派閥の道場生によって、流統の諸説が唱えられ、昭和45年10月に、大東流修気会の名前で発行された機関雑誌『和合への道』の歴史の略歴の中には、そのまま、『武道全書』(堀田巍顕著)の「合気術」の項目の歴史がコピーされ、「山下芳衛先生が松田利美師範の弟子」となって記されている。そんな事はない。これも歴史作文による誤りからであった。

『合気ニュース』が訂正した“誤字”は『武道全書』(堀田巍顕著)の「合気術」の盲目の歴史を“丸写し”したものだった。

  また『合気ニュース』では松田師範の「利美」を、ご丁寧に「敏美」と訂正して、2ページにわたる社説(論説)の中に大々的に取り上げ、「鬼の首」を取ったように、これをインチキだと称している。

『合気ニュース』で指摘された松田師範の「利美」を「敏美」と訂正された歴史作文。この作文は『武道全書』の「合気術」の項目を丸写し・土台にしている。 わが流には、大東流修気会時代、こうした絵と文の上手な人も居た。そして数人の作文制作者によって、作られた。
 勿論、この責任は彼等だけに押し付けるのではなく、多くは筆者の責任である。

 しかし、わが流は「大東流修気会」から、昭和51年3月に「西郷派大東流」と改名し、また、これまでの人脈の歴史が総て間違っていたことを訂正している。この話は、既に岡本邦介氏が入門した昭和50年に通達し、それ以降の出版物には、植芝流合気道と、武田惣角の流れを汲む大東流の流統を完全に否定している。

『合気ニュース』89号(夏号)1991年(平成3年)7月26日発行

論説(1)

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論説(2)

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 『合気ニュース』に書かれているスタンレー・プラニン氏の論説に、反論する気持ちはなし、これに註釈も付けない。読者にその判断はお任せする。
 しかし、プラニン氏の論には“感情のほつれ”があるようだ。確かに、誰かから吹き込まれた先入観があるようだ。ノン・フィクションとして表現するのであれば、感情を押さえるべきであろうが、それが露骨に浮き上がっているのを見ると、端に道徳的気分で書く、正義感然とした善悪論に終始しているようだ。

 しかし、読者が欲しているのは、正義感ぶった、特定の人間の意見ではなく、事実なのだから、それを如実に表現するには、偉人の正義感などぶつ必要はなく、出来るだけ感情を排し、冷静な報道が必要であると言う事だ。
 その結果、自分と趣味に合わない物の考え方をする者にぶつかっても、正確に取材し、丹念に事実関係を調べ、吹聴された事を憶測で書かないのがジャーナリストとしての使命ではないか。

 特に、リンカーンの言葉を代用している論じている事は恐れ入るし、また私を中国拳法の達人と自称したとあるが、これは一時期、「太極拳合気拳法」と名乗った時期
【註】中央町時代にその道場を「合気武道館」と名乗り、賃貸だったので、道場内で柔術と拳法の二つを毎日交互に指導した事があり、これは入居して出るまでの2年間ほどであり、その後、指導はしなかった。飛んだり跳ねたりの動作は日本人向きではないと悟ったからだ)があり、これは一時的なものである。中国拳法の達人と称した事もない。但し、「陳式太極拳」を研究した事はある。研究して何処が悪かろう。その結果、“合気”と“中国拳法”の共通性は見出せなかった。中国伝統の「気」と、日本の取って付けたような「気」は、相性的に違うようだ。「気」は伝染しない。

 また、「西郷派大東流」というネーミングは、百年以上も前から存在したものでなく、私が昭和50年代に掛けて、命名した流名であり、その前には存在したことはない。また、西郷四郎
山下芳衛の人脈について、これは明らかに間違いである。誤報である。また、一部の書籍に「西郷四郎伝」となっているのも間違いである。この時「西郷派」が西郷頼母の精神性に結びつかず、西郷を“西郷四郎”に結び付けているからだ。作文の影響である。

 この間違いに乗じて、ある読者から電話で、「お前は西郷四郎を食い物にして、汚い人間だ。西郷四郎は大東流の経験は全く無いのだぞ」と、住所・氏名も名乗らず、一方的な電話があった。そして、「あなたは?」と訊いたら、「自分は西郷四郎を長年研究している人間だ」と答えた。
 私も、この考えに同感である旨を伝えた。

 したがって、西郷四郎の「山嵐」と「大東流六箇条」は無関係となる。しかし、会津武家屋敷では、西郷四郎の錦絵までを捏造
(ねつぞう)し、西郷四郎の山嵐は、大東流六箇条から作られたとしている。また、会津武家屋敷発行の『西郷四郎』の書籍にも、大東流六箇条と山嵐の関係を述べているが、こうした関係は一切無かった。津川と会津若松は、距離にして100キロ以上離れているからである。

 西郷派大東流は、私が、西郷頼母の霊的神性を受け継いで、「西郷派」と命名したのであり、西郷四郎とは無関係である。したがって、「西郷派」の後ろに、「わが流は“大東流”と謂
(い)う」という“大東流”を名乗っているだけで、大東流合気武道を真似したものではない。
 私がネーミングした以上、西郷派大東流合気武術や西郷派大東流合気柔術は、昭和50年
(1975年)以降のもので、戦前に外国(特にアメリカやカナダ)にあったとするのは明らかに、ウソである。

 また、「大東流」は甲野善紀氏が、朝日新聞社編の『人物大事典』の武田惣角の項で言うような、「古武術」ではない。明治以降のものである。少なくとも、明治28年の大日本武徳会発足以降に、何者かによって「大東流」と命名
(命名者は不明だが、武田惣角ではない事は確かだ)されている。したがって、近代に完成されたものであり、多くの伝説は、真実に欠くものである。

 さて、疑問の残る点を幾つか挙げるのなら、『合気ニュース』の論説
(此処ではスタンレーが仕切っているので社説とする)は、私が武田時宗先生の訪問を度々受け、弟子の一部は技術的にも、柔術手解きを数十本に亘(わた)り、指導を受けている。また、これは私が大東流合気武道の“会員証”を受け取り、約2年間ほど継続された。これを、どう説明するのであろうか。勿論私は、西郷派と大東流合気武道が、同じものであると言う積もりはない。違うと言う認識がある。

 わが流が『合気ニュース』に対する「公開質問状」は、次の通りである。

今は2008年10月である。『合気ニュース』89号(夏号)は1991年7月に発行されたものである。俚諺(りげん)「人の噂(うわさ)も75日」という。2008年10月から1991年7月を差し引くと、“17年と3ヵ月弱”であり、この間、何故「西郷派叩き」を、事あるごとに記載するのだろうか。あるいは西郷派に騙(だま)されて入門する人に、警告を与えているのだろうか。
 もし、警告としてこれを記載しているのなら、これは充分に“功を奏している”と言えよう。何故ならば、わが道場は閑古鳥
(かんこ‐どり)が鳴いているからである。稽古には一人も来ない日があって、売上は、さっぱりであり、確定申告は非課税になるほど顛落(てんらく)をしている。
 『合気ニュース』は筆者の家族に精神障害までを発症させておいて、その後、更に「西郷派叩き」を遣
(や)るのは何故か。あるいは「西郷派」が地上から消滅するまで、叩くのか。引き合いに出す、理由を回答する義務があろう。
時宗先生から頂いた「大東流合気武道の会員証」を返還しなければ、「西郷派インチキ説」は成り立たなかったであろう。また造反も、あるいはなかったのかも知れないが、西龍一郎には、八幡大学合気柔術部“師範の座”を乗っ取られて居たことであろう。何(いず)れにしろ、同じような運命の選択であろうが、大同団結のスローガンに乗らずに、独自の道を選択した事は、信念を貫徹したと言えるだろう。
 こうなった理由も大東流合気武道に帰伏しない、“会員証返還”にある。
なぜ、西ごときを“大東流の実力者”として、このレベルの人間(八幡大学合気柔術部の造反事件より10年未満で九州総支部長になり、第一人者面する程度)を掲載するのか。また、「アンチ西郷派」の音頭を執る、西並びに近藤氏の執拗(しつよう)な「西郷派叩き」は、一種の“厭(いや)がらせ”であり、今風に言えば“ストーカー行為”ではないのか。
なぜ取材して、当時の経緯と真実を確かめないのか。
事実無根の「大東流○○会」が、大東流と何の関係もなく、旗揚げしているが、これらの団体は野放しなのか。
 いま『合気ニュース』便乗組という、大東流合気武道とも、その他の大東流合気柔術に全く関係のない連中が、同じようにネットで「西郷派叩き」をして、会員を増やしていると言う。これは野放しなのか。それとも彼等では話題性がないからしないのか。
 また“大東流合気柔術”や、流派名を隠して“合気武道”を語る、「もと西郷派」の“離反組”は叩かないのか。広い意味で言えば、西龍一郎の“造反組”も、これに入ろう。
 
「三人よれば“大東流○○会”」が、“新たなブーム”である事は、知らぬはずがあるまい。
かつて大東流合気武道・方面指導部長を名乗った小松雅宮氏は、日本少林寺拳法は“大東流から出た”と強調したが、少林寺拳法の技は“大東流”の技であるにもかかわらず、中国河南省鄭州の崇山少林寺から伝承されたとしているが、この虚実は調査したのか。
 『合気ニュース』は“合気道と大東流の専門誌”と謳
(うた)っている以上、中国伝承無縁の少林寺拳法も、虚実を調査する必要があるのではないか。西郷派のみに攻撃の鉾先を向けるのは、片手落ちではないのか。それとも巨大組織には歯が立たないのか。
『合気ニュース』89号(夏号)には、「鬼の首」をとったように、喜々なる論調で述べているが、この資料集入手先の人物名を公開するべきであろう。
 推理するに、スタンレー・プラニン氏の調査でなく、西龍一郎が近藤勝之氏を通じて『合気ニュース』に齎
(もたら)したものであろう。
『合気ニュース』側は、筆者に対し「お前が蒔いた種である」と言いたいのであろうが、筆者が20歳前後(道場開きの昭和42年4月から西龍一郎が入門する前の昭和47年10月まで)の大東修気館道場がどんな状態だったか、当時を知る者から事情を訊いたり調査をしたのか。
 取材なし、調査なしの事実が、結局は八幡大学合気柔術部の造反事件以来、家族に精神病患者を出す切っ掛けを作ったのは、その責任の所在が『合気ニュース』にもあるのではないか。
 これは西龍一郎並びに近藤勝之氏の、その後の「西郷派叩き」とも符合する。このような繰り返しの「ペンを以て叩く行為」は、“どういう道徳”に起因するのか。
近藤勝之氏の、強引な一方的な意見が、『合気ニュース』に反映されているのではないか。これでマスコミ人としての、中立・公正・公平を厳守していると言えるのか。
以上の一切の行為は単調直入に言えば、「営業妨害」と「名誉毀損(きそん)」である。これらに絡んで、精神的経済的な損害が発生し、“発狂者が出た実情”は、明らかに傷害罪であり、刑事事件としての疑いもある。また、真夜中の「悪戯電話」も「ワン切り電話」も絶えない。これだけでも精神的苦痛は大きい。
 これらは根本に『合気ニュース』の「西郷派叩き」の現実が、こうした犯罪を呼び起こしたのではないか。また、「西郷派叩き」は、平成3年7月以来、1度で終らず、度々
“意図的”に繰り返され、以後も反復されているからである。
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武田時宗先生は「西郷派の技は大東流【註】大東流合気武道)とよく似てますね。昔、どこかで繋がりがあるのでしょう」と言ったし、また小松雅宮氏は「(西郷派は)合気道より、よっぽど増しだ」【註】どの程度の合気道を指すのか不明)と言ったが、これは“わが西郷派”を傘下に加える為の“方便”だったのか、それとも「本当に、繋がりがあったのか?」それを実証しなければならない。頭から“近藤氏の言”に翻弄(ほんろう)されて、偽物と決めつけ、一蹴(いっしゅう)するのは真実を追求するジャーナリストとしてはお粗末であろう。
 筆者はあくまで、山下芳衛
【註】武田時宗先生曰(いわ)く、「この人は会津藩出身ではない。会津藩に“山下家”なる家名は存在しない」と)先生が云った「わが流は“大東流”と謂(い)う」この“言”に重きを置きたい。

 以上、上記の「公開質問状」に対し、『合気ニュース』は回答す義務があろう。

 今でも、西郷派大東流と名乗る所以は、山下芳衛先生から「わが流は“大東流”と謂
(い)う」それだけの理由で名乗っているだけであり、これに歴史的根拠はない。
 繰り返すが、わが流のネーミングは、大東流修気会
日本尚道会西郷派大東流と言う流れの中で、時代とともに変化して名乗っているわけで、「西郷派」は西郷頼母【註】西郷派を西郷四郎からこれを習ったと一部の書物に書かれているが、これは誤りであり、正しくは西郷頼母の精神性を引き継いだ理由による)の精神性を受け継いだのであり、「大東流」は、「わが流は“大東流”と謂う」それだけの理由によるものである。そのように聴いたからである。したがって、わが流が西郷派の後に、大東流を名乗るのは、それだけの理由だ。

 しかし、幕末の研究をすると、明治維新、文明開化、日本精神否定、廃仏毀釈
(はいぶつ‐きしゃく)と時代が流れ、西洋化に押し流される現状に憂い、西郷親子の何れかが、『大東合邦論』の「大東」の二文字を採り、これを極東の「大いなる東(ひむがし)」とした可能性は大いにある。

 私はこの話を、かつてカネミ倉庫社長の加藤三之助氏から、「大いなる東」の話を聞いたことがある。加藤社長の話によると、影山正治(かげやま‐まさはる)先生が創始された「大東塾」の発行する『不二』に「ひむがし」という文字が見られ、極東のこの地を「ひむがし」と呼んでいた事は確認されている。それによれば、この「ひむがし」を「大いなる東」しにして、これを日本の姿と見て取ったことは容易に想像できる。その根拠は次の通りである。

西郷親子が、大変な政治好きであったことは、西郷頼母や西郷四郎を研究する人ならば、誰でも知っていることである。孫文(そんぶん)の辛亥革命にも関与し、それを調査する為に、西郷四郎が従軍記者として辛亥革命を取材したことは有名な話である。
 こうした「政治好き」が考えることは、最終的に行き着くところは、日本精神の復活であり、「大いなる東」以外にありえない。もし、この流名由来の推理が正しいとすれば、大東流は「政治秘密結社」の観が強い。
 現に、戊辰戦争後の松平容保公の晩年は、その取り巻きに会津藩を復活させる政治結社があり、そのスローガンは「薩長撲滅」である。今でも、戊辰戦争からの呪縛から、会津人は解き放たれていないのである。
また、大東塾の影山正治(かげやま‐まさはる)先生の著書『千里行脚の記』には、太平洋戦争終戦時、大東塾十四烈士が割腹自刃した追悼の旅に出て、その遺族を訪問したことが事細かに述べられている。そして、「ひむがし」の意を唱え、戦後間もない日本の荒廃を嘆き、敗戦以前の日本を振り返り、黙々と祈行があったことの述べている。したがって「大いなる東」は、明治中期に、これが「大東」になったことは想像に難しくない。
 こうした「大東」の二文字を追いかけて、大東流流名由来の歴史を研究していくと、「大東流」という固有名詞が、武田惣角によってのみ名乗られたのは間違いであることは確かだが、一方、大東流の名付け親すら、実のところ分かっていない。したがって、一部の大東流愛好者が主張する「大東の館」から来たなどということは断じてない。
綿谷雪(わたや‐せつ)氏と山田忠史(やまだ‐ただし)氏の共著『武芸流派大辞典』には、武田時宗先生の論説がそのまま掲載され、「大東流は代々源家古伝武芸として伝わり……云々」となっており、「新羅三郎義光に至って一段と工夫……云々」、「女郎蜘蛛(じょろうぐも)が雁字搦(がんじがら)め……云々」「戦死体解剖……云々」となっているが、「大東の館」の話は出てこない。
「武田惣角は保科(西郷頼母)の言を墨守し、会津藩の名をはずかしめなようにと最初は大東流柔術本部長、後年には大東流合気柔術総本部長と名乗り、生涯を通じて宗家・何代目とか名乗ったことがなかった」(『武芸流派大辞典』より)そして、惣角は、「惣角流・日本伝合気柔術」を参照として、武田惣角が当時、大東流ではなく、「惣角流」を名乗っていたことを挙げている。これから窺(うかが)えば、大東流の名付け親は武田惣角でないことが分かる。
また、『西郷四郎伝』の著者・牧野昇氏は、大東流の流名由来を、当時、樽井藤吉(たるい‐とうきち)の『大東合邦論』の政治書にあると定義付け、この書物を西郷頼母か、養子の西郷四郎が知っていたのではないかという推測を立ってている。『大東合邦論』の「大東」を採(と)って、大東流とした可能性は大きい。

 ともあれ、大東流の「大東」は、誰が名付けたものか、はっきりとしない。ただ「極東の優れた大いなるもの」という意味は、「大東」の二文字から読み取れる。
 したがって、こうした流名不明な流派に対し、「大東流」を商標登録とし、独占した近藤勝之氏の行いは、明らかに傲慢
(ごうまん)という他ない。文化的な独占禁止法に触れているではないか。果たして、近藤氏の商標登録した大東流は、『大東合邦論』の「大東」と同じものなのだろうか。本来ならば、そうでなければならない。第一、武田惣角は最初は「惣角流」を名乗っている。大東流を名乗ったのは、後のことだ。だから、商標登録した大東流は、『大東合邦論』の「大東」と同じものかと、問い質(ただ)しているのである。

 そして、もし、近藤勝之氏が商標登録として、大東流を名乗るのであるならば、正しくは、「大東流合気武道武田惣角派」を商標登録べきであろう。また大東流は、武田惣角流統の専売特許ではない。

 ちなみに、西郷派が平成3年3月23日に開催された習志野市大久保の習志野市民会館での「大東流演武会」(この演武会はBAB出版のビデオになって発売された)に、当時、近藤勝之氏の門人の二段の大学生が、わが流の門人・金澤龍司(かなざわ‐りゅうじ)師範と、二人で組演武を遣り、演武に出演しているのは、どういう分けか。

 大東流はこのように、敵味方別れて大混乱に混戦し、非常に乱れて分かり辛く、許(もと)を辿れば、その殆どが総て西郷派に辿り着く。今では大東流合気武道・九州総支部長の肩書きを持つ西龍一郎も、許を辿れば西郷派であり、西が、わが流に在籍した大学一年三学期から大学を卒業し、土地家屋調査士として開業し、その後の約13年ほどの、第六級から参段までの全記録が、わが方に残っている。
 西が、八幡大学造反事件以降、大東流合気武道に鞍替えしたとして、急激に上達する「突然変異的な形跡」は、この時代、視られなかった。それが九州総支部長に短期間で伸
(の)し上がるのであるから、「裏取引」があった事が疑われる。

 混戦模様と、西郷派に辿り着く、ささやかな一例を挙げると、『合気武道精髄』(愛隆堂) や『合気解体新書』(愛隆堂)の著者・平子俊明(本名:萩原俊明)は、わが弟子・進龍一の弟子であるし、また、武道評論家で著名であり、大東流神気会の代表者である平上信行氏は、進龍一から新宿御苑で西郷派の儀法(ぎほう)を習っている。

 また、日本伝合気柔術を名乗った鶴山瑞晃
(つるやま‐ずいこう)氏の流れを汲む、大東流を名乗る人の中にも西郷派を習った人が大勢いる。
 しかし、彼等は今日、西郷派が“ボロクソ”に叩かれていることから、絶対に西郷派を習ったとは謂
(い)わない。どこまでも、故鶴山氏の日本伝合気柔術に縋(すが)り、「自分は大東流である」と言っている。
 だが、彼等の技を見れば分かることだが、西郷派の儀法が漂っているので、技自体は西郷派を否定することが出来ない。

 更に、愛隆堂から柔術系の本を出版している某氏らは、わが弟子進龍一著『大東流合気武術』の写真からその技を真似て写真に映っている。また、私が平成2年に収録した『大東流合気武術』(BAB)は、当時爆発的な大ヒットで、これで西郷派の業(わざ)を真似て、「大東流○○会」を作った武道オタクはかなりの数に上る。

 私は日本全国の電話帳を取り寄せて、合気道の項目から「大東流」を探したが、その中には、武田時宗先生とは一切関係がなく、ビデオや書籍の技を真似して、「大東流○○会」を組織したものと、明らかに分かるものが幾つも見つかる。電話帳の電話番号に電話を掛けてみると、電話設置のその場所には、直接道場のようなものはなく、何処かの体育館や武道館を練習所にしている、「大東流○○会」は、驚くほど多かった。

 今日は、三人寄れば「大東流○○会」である。しかし、神通力的な気系の威力を持っていた大東流の著名な先生が、格闘技と試合をして2、3秒で叩きのめされているので、合気系の関心は薄れ、今はその殆どの関心がムエタイやブラジリアン柔術、フルコン空手、あるいは最も過激な総合格闘技といわれるバーリトゥードなどであり、合気系はさっぱりである。
 現在の演武形式中心の大東流の遣
(や)り方は、例えば柔道の寝技に持ち込まれたり、絞め技で組み付かれた場合、これを絶対に外せないだろう。もう、それほど大東流は骨董品に成り下がっているのである。

 また、仮に世界最強と謂(い)われるバーリトゥードと闘ったらどうなるだろうか。2、3秒で叩きのめされることは、想像に難くない。現在大東流が自負している合気空手で闘っても、組み付かれたら滅多打ちされてそれで終わりである。
 あの最強格闘技に、素手の合気系は無理だろう。

 私は合気と言うものは、もともと“格闘できないもの”と思っている。むしろ、時宗先生曰く、「力を遣わないもの」と定義している以上、鋼
(はがね)のように鍛えた躰に通用するものは、「刃物」以外あるまい。

 一刀流では、間合に踏み込み、敵刀を左右に払うか、あるいは上から下に叩き、その“弾み”を利用して、「突き」を入れるのを「斬り落し」と呼んでいる。これは基本業の中に入り、初心者でも使える業
(わざ)としている。また敵の手許に飛び込んで来る小太刀の技も、最初に斬り付けるこの業を「斬り落し」と呼んでいる。これこそ、「力がいらない」というものに相応しい武技ではないか。


 ─────さて、かつて私が時宗先生に、八光流柔術創始者・奥山龍峰(吉冶)師のことを質問したら、武田惣角からの英名録を示され、奥山師のことを詳しく教えて下さった。その後、奥山師から八光流の帰伏しないかと誘われ、これを断り、またあるとき、「八光流は“もと”は大東流であるのだから、どうして大東流を名乗らないのか」と、逆に文句を言いにいこうと思い、佐川先生と伴って出かけたが、「このときは居留守を使われた」とこぼしておられた。
 佐川師については、惣角以来の「宗武」の印鑑を返してもらったことや、何となく技の交流があったことを匂わせる話をした。


 ともあれ、流名変更の経緯を知らなかった西は、昭和48年以前の事情や経緯を全く知らぬまま、機関雑誌『和合への道』と、これまでの私が指導に当たっていた福岡工業大学合気柔術部や、昭和48年以前の八幡大学の演武会のパンフレットを近藤勝之氏に提供し、また近藤氏から『合気ニュース』の編集長であり、経営者であるスタンレー・プラニン氏に渡ったものと推測できる。

 これはあくまで推測であるが、おおよそ、このような流れで、平成3年7月の『合気ニュース』の社説
(論説)に2ページに亘って掲載され、これを近藤氏はプラニン氏に対し、わざとらしく「本当によく調べましたね」と相槌(あいつち)を打っているのであるから、全く笑止千万といわねばばならない。

 追言として補足するならば、『大東流合気柔術』(合気ニュース発行)では、近藤氏は「本当によく調べましたね」と相槌を打っているが、プラニン氏は一度も、わが方を取材したことはなく、実際に業(わざ)も見たことがなく、安易に近藤氏の言を信じて、そのまま掲載してしまったという観が強い。明らかに誘導されていると思われる。これこそ、ジャーナリズムの道義も仁義も、悖(もと)る軽率な行為であろう。なぜ事情や経緯を聞き取り調査し、取材しないのか。これでは片手落ちではないか。



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