●武術研究家と言う、無責任な輩がのさばる時代
平成3年7月の『合気ニュース』の社説に2ページに掲載された「西郷派大東流の信憑性について」は、ともかくとして、以上述べた経緯から始まっている。
そして、この社説の攻撃の激しさは、これを読んだ一人の人間を憤慨(ふんがい)させるほど、痛烈なもので、これにより発狂者が出ている。特に、感受性が強く、神経過敏なものにとっては、無理からぬものであろう。
その上に、調査が詳細でなく、一方的な憶測で書かれ、昭和45年当時の事情を知っている者は、一切取材なしで書かれている為、その誤報に於ては、憤慨するのも当然である。人間は誰でも、自分との立場を逆にして考えれば、容易に想像がつくものである。
諺(ことわざ)にも「自分をつねって、他人の痛さを知れ」と、あるではないか。何故、露骨に此処までの報道を、ジャーナリズムの意地に賭(か)けて、遣(や)らなければならなかったのだろうか。
では、何処が、どう違うのか。当時の事情はどうだったのかを検証してみる必要がある。
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検証1
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社説記事掲載に当り、事実確認に対する取材ならびに調査が一切行なわれていない。電話で確認する事も一切なかった。一方的である。確認があれば、昭和45年当時の大東修気館の事情を説明するものを。 |
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検証2
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本当に調査をしたのではなく、わが流の「昭和45年頃までの間違った資料」を、西龍一郎が近藤勝之氏に献上(コピーか資料そのもの)し、それが“動かぬ証拠”として、一方的に使われている。 |
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検証3
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『和合への道』(機関雑誌と称され、創刊号で始まり、これで終った)は派閥時代に作られたものである。したがって、派閥各々に歴史観があり、これが間違っていうるのは当然である。この当時、わが流は“一枚岩”になっていなかった。裏切り、他への移籍、転覆、造反、暗躍や画策が渦巻いていた。この時代、政治的な力が働いていたからである。
これは豊山八幡神社側の波多野氏や、発足当時、理事長として乗り込んだ沖田氏の思惑が、政治や宗教の各々の派閥を作り、筆者はただの、20歳前後の「教えるだけの番頭」に過ぎなかった。行事や計画に対し、権限はなかった。 |
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検証4
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流派名、団体名が時代に応じて変化した事は、派閥時代の名残りであり、これにより、以後の流派名や団体名を変更に迫られた。
『合気ニュース』では、筆者が故意に名前を変更したようにかいているが、変更した理由は、派閥を解決し、その上で政治や宗教とも無縁な団体を構築したかったからである。 |
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検証5
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今日に至る「大東流の歴史観」が、その時代の認識において、非常に間違っていた。それは合気道の本からも分かる通りである。「清和天皇……云々」などは総て、後世の仮託である。
この“仮託”に対し、大東流の歴史観は間違って居ると言うのであって、大東流合気武道や、そのたの大東流合気柔術の技が劣っていると貶(ねな)しているのではない。技術的に優れている事と、歴史観が間違っている事は同じステージで論ずるべきではなく、この事は“技術の優”とは別問題である。 |
以上の事からすれば、わが流に対し、よく調査し、取材すれば『合気ニュース』の誤報記事は避けられたであろう。わが流は、時代と倶(とも)に、歴史に対する認識や武術思想は、その時代時代に応じて、変化しているのである。それは清和天皇を流起とする、旧来の“大東流伝説”に固執しない為である。
わが流は次のような変化の中で、変貌(へんぼう)して来たのである。それは「伝統武術」と「伝承武道」の違いから起るものである。
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▲武術とは、かくなるもの。武術の真剣勝負において、最初から素手で太刀合うものは何一つない。最初は、飛道具か長槍で、次に止めを刺す為に刀の間合に入り、接近戦に入ると言うのが尋常な戦術思想である。したがって、素手で闘い、これで結着をつけると言う事はあり得ない。
また、これが命の遣(や)り取りをする武術と、素手や竹刀で競技をするスポーツ武道や格闘技とは大きく異なるのである。
本来ならば、武術は「命の遣り取り」をするものであり、武技を競う事はない。試合もないのである。試合は、武術では「死合」となる。(槍術写真は、わが流の高垣卓也 准師範) |
「伝統武術」と「伝承武道」の違いは、伝統武術は時代時代の“時の移り変わり”において、古来の戦闘思想や戦術技術あるいは戦略技術をベースに、時代に即応するように変化するものであり、一方、伝承武道は時代の変化に一切関係なく、古式のまま、保存し、時代の即応性と言う事に重視しない、演武形式の武道である。演武は“約束”の上に構築されるものであり、現実には実戦的でなりえなくなる。
ただ伝承と、人脈的系図ばかりを重んじ、これ以外に目を向けようとしないものである。こうしたものは、“骨董品”に成り下がる以外ない。
今日の大東流の多くは、“骨董品”に成り下がった観があり、また、武術と武道の違いを明確にしていない。それは“変化しない”ということが骨董品の要素を濃厚にしたとも言える。これでは時代に備える「武の領域」あるいは「死生観」は確保できまい。
一方、わが流は変化を重ねて来た。時代に即応しようと努力した。したがって、“骨董品の大東流”に固執するものではない。技が違うのは当然である。
こうした変化をし続ける“わが流の戦闘思想”に対し、その後も、近藤勝之氏ならびに西龍一郎の、わが流の誹謗中傷は収まらず、益々エスカレートして今日に至り、わが妻の精神分裂病を更に悪化させ、「西郷派叩き」の煽(あお)りの炎を、更に焚き続けている。一体この道徳は何処から来るのか。
あるいは「大東流合気武道」という団体は、こうした団体なのか。わが方に非があり、インチキであったとしても、発狂者が出るまでに、事あるごとに誹謗中傷(ひぼう‐ちゅうしょう)して止まないのは何故か。これに回答すべきである。
また、誹謗中傷記事と知りつつ、これを許す『合気ニュース』というマイナーな武道雑誌の正体は何か。“片手落ち報道”は、まことに恐ろしい限りである。
昨今は、合気系武道関係者ならば99%が、「西郷派はインチキである」という風説を、『合気ニュース』の“事あるごと”の記事で読んで知っている。ジャーナリズムの道義を頭から信用している読者は、これを疑うことを知らない。それだけ時代の多忙に従い、現代人は裏から物を見て考える能力が、著しく退化していると言えよう。それだけに安易に信じ込み易く、マスコミに翻弄(ほんろう)され易い欠点があると言える。
そして、昨今は電子辞書の「西郷派大東流」という項目に「インチキである」と、堂々と書き込みを遣(や)っている。消しても消しても、再び掲載してくる。一体、この執拗(しつよう)なまでの「西郷派叩き」は何処から起るものか。
昨今は、日本人が日本人を叩き、武道家面(づら)して、一流派を潰しに懸(か)かる。恐ろしい世の中になったというか、「世も末」という、薄ら寒い気持ちになる。こうしている間にも、隣国から、虎視眈々(こし‐たんたん)として日本を窺(うかが)っている現実に気付かないのだろうか。
現代と言う世の中は、アウトサイダーの無責任で、面白半分に語られる持論に振り回される時代である。それだけに、青天の霹靂に等しい形で、ある日 突然、“寝耳に水”ということで、不意打ちを喰(く)らうのである。此処にも、現代という時代の理不尽があろう。
私は、武田時宗先生から、実技と倶(とも)に手紙においても、何回か教授を頂いた事がある。これは西郷派の考え方とは違ったものであったが、これまでの私の眠れる目を醒(さ)まして頂いたのは、「合気」イコール「武器」という考え方であった。つまり、武田惣角は、最終的に格闘術のような形で敵を制するのではなく、「合気に掛ける」場合、拳なり、手刀なり、あるいは刃物なりを敵の頭上に叩き込むと言う、特異な“戦闘思想”だった。
これがまた、私の40歳以降の人生を変えた。
そして、この頃から私が打ち込んだ武器術の要(かなめ)が、手裏剣術だった。
例えば、剣術家は幾ら剣の素振りをし、剣だけを鍛えても駄目であると言う事であり、また躰術家は幾ら無手で格闘の躰術を学んでも駄目であるということであった。その「裏付け」が要(い)ったのである。この「裏付け」の正体こそ、時宗先生の言う“合気”であった。
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▲時宗先生は、筆者と進龍一師範に“合気の真髄”を熱っぽく語った。
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更に時宗先生は、「一本捕り」を題して、「一本捕りは小野派一刀流の極意技であり、“刺す技”です」と強調された。「その為に、力は必要としないものです」したがって「この技は初心者の為に作られたものであり、手首や指を痛める事もありません」とも謂(い)われた。
これを“中高一本拳”に置き換えたものが、「刃物」であり、刃物こそ、合気の要となる。最終手段として、大東流は徒手による素手での格闘を問題にしていないのである。これこそが、最も重要な大東流の教えとなろう。
逆から言えば、素手で闘う如何なる格闘技であっても、最後の極めは、「刃物には適(かな)わない」という事を言っている。武田惣角が、「刃物しか信用しなかった」と言うのも、これで頷(うなず)けるだろう。
●一つの流派が歴史から消える要因
平成13年12月末、私は背中に激しい痛みを覚えて、某大学病院で精密検査をしたところ、「肝臓の末期」と告知され、余命は“半年”と通達された。ただ、自分では「ああ、実は“やはり”そうだったのか……」という感想しか抱かなかった。
人間はこうした局面に立たされたとき、自分の生きた証(あかし)を、何とか伝え、世に残そうとする。私は「肝臓の末期」であることを、誰憚(はばか)ることなく、正直に告げ、門人に対しては、「今から真剣に、俺の修得した儀法(ぎほう)を学びたいなら、学びに来い。その気がないなら、気に留めることはない。仕事が忙しかったり、その他のことで多忙ならば、そちらを優先せよ」と知らしめた。
これを受けて、真摯(しんし)に教えを請(こ)いに来た者は、そんなに多くなかった。しかし一部の人は、「万難を排して」という感じで、毎月一回は習いに来て、二日ほど滞在し、そしてその日の夜、帰るということを遣(や)っている。多いときには、月に2回遣ってきた。その態度は、実に真摯だった。
この時、彼等ほど研究熱心なものはなく、真摯に、何かを掴み取ろうとしていた。
彼等は私から知っていることを引き出し、これを何とか残そうとしていた。一方、こうした真摯(しんし)な動きに対し、これに応ぜず、傍観(ぼうかん)する門人も居た。傍観する彼等は、仕事の多忙を理由に挙げ、あるいは私の傘の下から離れて、「西郷派」ではなく、「大東流」を看板にして、自分で旗揚げしようと考えている者も居たようだ。そして肩書きだけを貰って、辞めて行った者も少なくない。彼等は実力ではなく、“紙切れ”が欲しかったのだろう。
しかし、私からすれば、殆ど躰動法(たいどう‐ほう)の一つも知らず、型だけを真似した西郷派の基本躰術のレベルだった。彼等を何とか一人前にしなければならないと思うが、仕事の多忙で撥(は)ね付けられると、そうもいかなかった。
やがて、現実に私から習って、実力を身に着けていく少数と、ただ西郷派を名乗り、あるいは大東流を名乗り、傍観者として、紙切れを有り難がる大勢とに分かれ、確執が見え始めた。また、こうした状況を、逸早く察したのは、韓国SEOUL市で約20年間、西郷派を遣っていた呉東善(オ‐ドンソ)師(合気道を含めると、もっと長いそうだ)の門下で、紙切れを有り難がる傍観者に対しては、その実力を、今でも疑いの眼で見ている。
所謂(いわゆる)、個人教伝を真摯に受けていた者と、仕事を多忙に、個人教伝を一度も受けたことのない、両者の間には、はっきりとした実力の違いが現れていたのである。
ある者は、来日した外国人にもウソを教えていたが、私は敢えて、これに口出しすることはなかった。言っても、素直には聞き入れまいと思ったからだ。真摯で学ぶ気持ちのない者に、幾ら真実を説いても、聴く耳を持たなければ、これは薬にならない。
聴く耳を持たず、見下したように考える者に対し、何を説いても、効果のある薬は、ただ彼等にとっては毒薬でしかなく、最後まで抵抗して受け付けないものである。個性が固まり、固定観念が強固になっていく中年以降の人生は、少々のことでは、自分の非に気付くことは有り得ない。
その意味からすれば、西龍一郎も、こうした類(たぐい)の人種であったように思う。少なくとも、わが流に籍を置き、熊本支部長を名乗っていた時代、彼の欲しがったものは段位という“紙切れ”であり、肩書きであり、名誉であり、自分の名前を世間に広めようとする“売名”であり、こうした自己顕示欲の激しい人間であったと記憶している。この表現は、「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」だろう。大体、正しい推量であろう。
既に、真摯な態度で身に着けていった者と、ただ傍観者に成り済まし、仕事の多忙にかこつけて、個人教伝を撥(は)ね付けて来た者との間には、はっきりとした実力の差が現れていたようだ。
こうした中、真摯な態度で、実力を身に着けていった者は、傍観者の言動や態度に疑問を持ち、一方、仕事を多忙に私から高段位を貰いながらも、一度も個人教伝を受けたことがなく、ただ合宿などの社長出勤して、威張り腐る(彼等より後から入門した為に技量は持っていても、頭を抑えられてしまう。ここにも無言の年功序列があった。また後進者は入門順で、先に居る者に対し、こうした目で捉えていた) 、こうした態度が許せないのか、これを理由に、西郷派から離れて行く集団もあった。
一つの集団が、活動を辞め、解散していく現実の裏には、こうした根深い確執があったのだと、私は気付かされた次第である。私の知らないところで、“真摯組”と“傍観者組”は、それぞれの心の中で激しい葛藤があったものと思われる。
しかし、私は真摯な態度で教えを請(こう)う者と、傍観者に成り済まし、もう「自分は完成しているのだ」と高を括(くく)っている者とを比較すると、やはり前者は、何とか“ものになる”ように育てようという気持ちが起るが、後者は何を言ってもムダだという気持ちになる。後者は、わが師を甘く見ており、見下しているからだ。したがって私は見下している者に、道を説き、儀法(ぎほう)を教える義務はないものと信ずる。
一つの流派が歴史から消滅するのは、こうした時機(とき)である。
かつて私は時宗先生から、惣角翁の晩年のことを聞いたことがあるが、惣角翁が、晩年、衣類の至る所に小さな刃物を隠し持ち、自分の体に触れると身内のものであっても、刃物を抜いて突き立てたというが、これに併(あわ)せて、わが流の「躰動法(たいどう‐ほう)」に匹敵するような「躰の動かし方」の話を聞いたことがある。これは非常に難しく、複雑で、熟練者から教えてもらわねば解らぬものだ。
その話の中で、惣角翁から「僅かに手を触れられただけで、宙吊りになってしまう」という話をされた。
惣角翁の柔術は、両手取りを修練する中での「手解き」において、「うねり」を起せば、相手は「崩れる」という現象を知っていたと思われる。この「崩れる」という現象は、人間の動きの中にある1コマであり、この1コマの中に“崩す技”があったと推定される。
そして、やがて手頸(てくび)だけではなく、体躯(たいく)のどの部分を取られても、あるいは衣服の上からも、自分の躰(からだ)を震(ふる)わせて、「うねり」を起すだけで、相手は宙吊りになってしまうということだった。
私は、この秘密は「合気揚げ」にあると睨(にら)んでいる。
合気揚げが、この魔術のような根本的修行法で、わが流の言う躰動法に近いものだと考えている。つまり「うねり」が必要なのである。
しかし、躰動法は一朝一夕で完成するものでなく、長い歳月を有する難解は儀法である。そして、惣角翁はこれを殆ど後世に伝えず、自分のものとして、墓場の中まで持って行ったと言う。
これこそ、後世の仮託で武勇伝を作り上げ、幾ら捏造(ねつぞう)しようとも、一流派が歴史的には、技が消滅するという現実を招いたことは事実のようだ。真摯(しんし)に請う者が、居なかったのかも知れない。
●虚構の入り乱れる武勇伝
堀田巍顕著『武道全書』の「合気術」の項目には、次なる秘話が出ている。
「昭和13年頃同氏(植芝盛平翁)の道場は、時局を反映して、荒木貞夫(陸軍)大将をはじめとして、世を挙げて同氏の門に入り、盛大なものであったが、ある日道場見学に行った折り、24貫(1貫は3.75kgであるから、24貫では、90kg)にあまる柔道四段の若者をつれていって稽古を願ったものである。若者は得意の“跳ね腰”で、先生に一本とろうと立ち向つたのであるが、一瞬にして二間(1間は6尺で、約1.818mであるから、2間となると3.636m)も上に舞い上がったのは、老人の植芝先生ではなく24貫の大兵の若者だった」とあり、この記述には、90kgの巨漢が、3.6mも宙に舞い上がったとしている。
しかし果たして、こんな事があるのだろうか。
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▲天竜満州へ。満洲国民政体育連盟。
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更に、他書によれば、植芝盛平先生は「 天竜を投げた」などの秘話が出てくる。
しかし、これは「合気上げで挙げただけだ」とか、「天竜が植芝盛平の手首を握っただけ」という別伝もあり、これに対して曰(いわ)く、武田時宗先生は「植芝先生は天竜から手首を握られただけで、投げる事は勿論なかったし、合気上げで挙げたことも疑わしい」と言っている。
この話が何処まで本当かは分からないが、時宗先生の言うのには「植芝先生は、話が実に大きくなる」と言っておられた。
また、植芝先生の北海道時代、開拓村で「大木の根を引き抜く話」が出てくるが、時宗先生は「どうして人間の力で、大木の根っこが引き抜けるのですか。この話はウソですよ」とも言っておられた。しかし、その真意は実際にその場に居なかったから、今でも分からない。
●世は、まさに武術研究家時代
根掘り葉掘りと註釈を付け、自分はただ、見て観戦し、それで一端の論評を加える、自称「武術研究家」というオタクが、五月の雨上がり時の“竹の子”のように殖(ふ)え続けている。そしてこの武術研究家と言う連中は、特定の日々の地道な稽古をせず、単に、自分のご贔屓(ひいき)の流派を“ベタ褒(ほ)め”し、無責任な暴言を吐いて、偏見に満ちた暴言を吐いている。
しかし私は、観戦するだけの武道の演武会や、観戦格闘技を、総て無駄だとは言う積もりはない。観戦スポーツや観戦格闘技は、これはこれで、大きな功績があると思っている。しかしまだ、自分で躰(からだ)を充分に動かすことのできる人が、茶の間に寝そべって、格闘技を見るというのは如何なものか。
あるいはマラソン選手が走っているのや、水泳の選手が力泳をしているのを見ているばかりよりは、自分も躰を錆び付かさない程度に動かし、観戦客の立場からではなく、実践者として、謙譲的な姿勢をとる事は出来ないものか。
さて今日、格闘技と称される闘技は、実に多くなった。この中には外国から逆輸入されたものも少なくない。これまで日本には存在しなかった奇妙な道衣に、トレーニング・パンツというものも登場している。また、強弱のみを論じ、競技スポーツとして、素手でやり合い、喧華に役立つか、否かを問題にしているものも少なくない。
こうした舶来製の格闘技を余所(よそ)に、日本古来の国技と言われるプロ力士が登場する相撲も、「相撲道」と呼称され、観戦闘技の頂点に置かれている。そしてプロ力士達は、毎日並みの格闘家以上に驚異的なメニューの稽古量を消化して行く。
一般の空手家が鍛えた一撃必殺の拳も、プロ力士の前では、何の意味も為(な)さないであろう。
だが、プロ力士はプロ力士で、何も問題を抱えていないと言うわけではない。
かつて大東亜戦争当時、これも大戦末期となると、日本中の国民は喰(く)うや喰わずの時代となって、それでも時によっては、太り返った力士は、充分に食べている人間として、それだけで“豊かさ”や“力”を顕わす人間として、一般国民からは羨望(せんぼう)の目で見られていた。
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| ▲銃執る“お相撲さん”いたって意気軒高と囃されるように、力士は戦前から戦中にかけて特別扱いされ、温存されていた。 |
戦後は、アメリカからプロレスが輸入され、これがまた国民的な観戦スポーツになった。相撲取りもプロレスラーも、よく食べて練習をよく積み、筋力を鍛え、スピードを養成し、毎日驚異的な練習を積む事により、他を寄せつけない強さを秘める肉体を作り上げた。
しかし、この強さの秘訣の裏には、単によくトレーニングすると言うだけではなく、よく食べるという事が含まれていて、肉体力の有無がこの強さの背景の裏に隠されている。驚異的なトレーニングもするが、また驚異的な食事量も否定できないのである。
またしかし、現在、国を挙げて健康の為には「中庸(ちゅうよう)がいい」と言われる時代、人間の生命の尊厳を重要視している今日に、太り返った病的な肉体は、他人のものだからと言って、これを平気で「見せ物的な観戦」の対象にしてしまっていいものだろうか。
プロの力士や、プロレスラーは単に痩身体躯では決して強くなれない。強さの裏には、「重さ」も必要なのである。そしてその「重さ」が曲者ではないのか。その曲者を見ながら、観戦者は観戦を楽しむのである。
一方で、「強いと言われる力士」や、「最強と言われる格闘家」の大半は、同世代の中庸と言われる人に比べ、極端に短命であると言われる。また病気も、糖尿病を始めとして、高血圧や高脂血症や動脈硬化などを抱え、その上に膝や臂の関節の痛みも、職業病として抱え込んでいる。よく食べて体重を重くする為、二十代で糖尿病性の網膜症を抱えた力士や、格闘選手も少なくなく、既に二十代で視力障害者になっている人もいる。
人間に視力障害が顕われると、その人は余り本を読まなくなる。本を読まなければ、脳味噌は低下の一途を辿り、正しいものと邪悪なものとの識別が出来なくなる。誰かが右らと言えば右を信じ、左だと言えば左を信じてそこから動こうとしなくなる。これこそ、思考能力の低下したいる証拠である。
ある関取に対し、新聞記者が「本は読みますか?」と訊(たず)ねたところ、その力士は「眼が悪くなるから本は読まない」と答えたそうだ。しかし、正直なところ、この力士は眼は悪くないだろうが、本を読まないせいで、思考能力も低下し、脳は随分と退化していると思われる。“首から下だけが丈夫で”というこうした格闘技選手やスポーツ選手が殖(ふ)えている。
これは何も力士に限らず、武術や武道を愛好している人にも、こうした事は言えるのではないか。
つまり、昨今は強弱を論ずる余り、かつての武人の基本であった「文武両道」が蔑(ないがし)ろにされ、勝てばいい、叩けばいいと言う状態に、頭の程度が、誰もがなっている事を物語っている。
果たして武人に、知性や理性は必要無いのだろうか。
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