●西郷派のコピーは世に溢れている
合気武道界の混戦模様と、その実態を挙げれば、最終的には西郷派に辿り着く。
この、ささやかな一例を挙げると、『合気武道精髄』(愛隆堂) や『合気解体新書』(愛隆堂)の著者・平子俊明(本名:萩原俊明)は、わが弟子・進龍一の弟子であるし、また、武道評論家で著名であり、「大東流神気会」の代表者である平上信行氏は、進龍一から新宿御苑で“西郷派の儀法”を習っている。
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| ▲平子俊明の『合気武道精随』(愛隆堂/平成元年9月25日発行) |
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▲『合気武道精随』の裏表紙で演ずる平子俊明の技は、西郷派独特のものである。この技は、大東流合気武道にも、また、その他の大東流合気柔術にもない。 |
最近、BABの『秘伝』などに登場する秋山俊英も、今でこそ「大東流合気柔術」を名乗っているが、その中身は西郷派である。
秋山は大東流合気武道とも関係ないし、他の大東流合気柔術とも一切関係ない。西郷派をベースに、大東流合気柔術を名乗っているに過ぎない。ただ、西郷派に対する雲行きが悪い為に、「西郷派大東流合気柔術」を名乗れないだけだ。自ら進んで、“火中の栗”を拾いたくないのか、自分に飛び火するのが怖いのか、西郷派の「さ」の字も出さない。自分が習った事まで抹消している。
また、日本伝合気柔術を名乗った鶴山瑞晃(つるやま‐ずいこう)氏の流れを汲む、大東流を名乗る人の中にも、西郷派を習った人が大勢いる。
しかし、彼等は昨今、西郷派がボロクソに叩かれていることから、絶対に西郷派を習ったとは謂(い)わない。どこまでも、故鶴山氏の日本伝合気柔術に縋(すが)り、「自分は大東流である」と言っている。だが、彼等の技を見れば分かることだが、西郷派の儀法が漂っているので、技自体は西郷派を否定することが出来ない。
更に、愛隆堂から柔術系の本を出版している某氏らは、わが弟子進龍一著『大東流合気武術』の写真からその技を真似て写真に映っている。
また、私が平成2年に収録した『大東流合気武術』(BAB)は、当時爆発的な大ヒットで、これで西郷派の業を真似て、「大東流○○会」を作った“武道オタク”はかなりの数に上る。
私は日本全国の電話帳を取り寄せて、合気道の項目から「大東流」を探したが、その中には、武田時宗先生とは一切関係がなく、ビデを屋書籍の技を真似して、「大東流○○会」を組織したものと、明らかに分かるものが幾つも見つかる。電話帳の電話番号に電話を掛けてみると、電話設置のその場所には、直接道場のようなものはなく、何処かの体育館や武道館を練習所にしている、「大東流○○会」は、驚くほど多かった。
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| ▲カナダ『富士山道場』のゲルモ・クラト師範と。来日時、福井県の福井市で。 |
カナダのバンクーバーに道場を持つ、現在カナダ在住の富士山道場(Fuji Yama DOJO Canada)の道場長で、師範のゲルモ・デル・クラト(Guillermo Murphy Del Cueto)氏がいるが、彼も。西郷派のコピーをカナダやキューバに広めた一人である。多くはBAB出版局の『大東流合気武術AtoZ』(第一巻から第六感)のビデオを手に入れ、これを演武会で堂々と真似し、使っている。
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| ▲外国武道雑誌の表紙に出たゲルモ・デル・クラト氏。
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▲クラト氏より贈られた著者を讃えるもの。
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最近は、『合気ニュース』が西郷派叩きを遣(や)るものだから、彼はすっかり怖(お)じ気付き、縮み上がって、西郷派の「さ」の字も言わなくなった。あれだけ親密だったのが、最近では「西郷派とは関係ない」と言い出している。今まで散々世話になっておきながら、という気がしないでもない。あるいは自分の身を守りたかったのだろう。
人間とは、元々こうした理不尽を抱えたい“生き物”かも知れない。
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▲カナダ『富士山道場』の稽古風景
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▲『富士山道場』のゲルモ・クラト氏の弟子の山本綾子氏。 |
形勢が不利になれば、傘下から離れ、これとは無関係だと言う。
“寄らば大樹の蔭”なのか、体勢が悪い“負け戦”は、したくないのであろう。人情から言って、どうしてこれを責めるわけにいこう。しかし日本の武士道を掲げ、紋付袴を着、“仁義”や“忠孝”などの、氏の掲げる論理は無に帰する事になる。
また昨今は、氏に限らず、『合気ニュース』の「西郷派叩き」や「西郷派インチキ説」に震(ふる)え上がり、縮み上がり、辞めて行く、わが流の黒帯も少なくない。既に、茨城県などではこうした輩(やから)が何人も出ている。
─────昨今は、三人寄れば「大東流○○会」である。しかし、神通力的な威力を持っていた「大東流」も、大東流を名乗る“気系”の著名な某先生が、格闘技と試合をして2、3秒で叩きのめされているので、“気系”あるいは“合気系”の関心は薄れ、今はその殆どの関心がムエタイやブラジリアン柔術、フルコン空手、あるいは最も過激な総合格闘技といわれるバーリトゥードなどに向かい、合気系はさっぱりである。
現在の演武形式中心の大東流の遣(や)り方は、例えば柔道の寝技に持ち込まれたり、絞め技で組み付かれた場合、これを絶対に外せないだろう。もう、それほど大東流は骨董品に成り下がっているのである。
また、仮に世界最強と謂(い)われるバーリトゥードと闘ったらどうなるだろうか。2、3秒で叩きのめされることは、想像に難くない。現在大東流が自負している“合気空手”で闘っても、組み付かれたら滅多打ちされてそれで終わりである。格闘技に世界では、大東流が自称する“力貫”や“相手の力を無効にする”などの方便は一切通用しなくなって来ている。
西が、西郷派を造反する切っ掛けになったのは、武田時宗先生が、熊本の長洲(ながす)の地に、惣角以来の弟子が居るということで、この地の旅館に宿泊しているとき、西が現れたという。これは後に、時宗先生から来た手紙で明かとなった。
その時の模様を、時宗先生の手紙から引用すると、「私が旅館に泊まっているいるとき、夜、一人で西氏がこられて……」という書き出しになっていた。
また、西が八幡大学合気柔術部を手土産に大東流合気武道に鞍替えしたとき、私は、西に対して「何故このようなことをしたのか!」の抗議の電話をかけたら、西は「武田先生が、坐っている座布団を取って来いと言われたので、取りに行ったら、ひっくり返されて抑えられ、動けなくなって、息が出来なくなり、もう少しで死ぬところだった」と感想を述べた。
これにより、西は大東流合気武道に魅了されたのだろうと推測できる。私の“もの”と、格段上と感じたのだろう。これが造反の原因の一つになり得たかも知れない思料できる。
西は当時、日本尚道会当時の技術体系より、大東流合気武道の方が優れていると、絶賛の感想を述べている。
また、近年、かつての八幡大学が、“九州国際大学”に大学名が改められたとき、この大学の合気柔術部に、西が顕れ、そのとき丁度居合わせたOBで、現在わが尚道館の指導員をしているY(福岡県警特捜部刑事)君が居て、西が、「武田時宗先生から抑えられ、苦しくて、もう少しで“死ぬところ”だった」との話をしたそうだ。だから、「西郷派など辞めて、大東流合気武道に帰伏せよ」と言ったそうだ。
さて、「背中を押さえられて」という話は、一部の大東流マニアならご存知であろう。この技のことは、松田隆智原作、藤原芳秀作画の劇画『拳児』に出てくる。「透明な力」として紹介され、背中を指で押さえられて息の出来ない場面がある。透明な力のモデルは、佐川幸義先生で、指一本で抑えて動けなくしている。
そして、更に具体的にこの「種明かし」をしたのが、プロレスラーとして著名な藤原嘉明氏であり、これは氏の「関節技」のビデオの中で、具体的に紹介されている。
さて、背中を抑えられて「死ぬかと思った」とは、逆から言えば「死ななかった」ということであり、これが「一撃必殺の技」などでないことは一目瞭然であろう。
「死ぬところだった」とは、死ぬくらいの苦痛を感じたからこそ、こう表現できるのであって、これが「一撃必殺の技」であれば、“死ぬところだった”という表現は成り立たないはずである。何故ならば、一撃必殺では、「苦しませずに、僅か、その刹那(せつな)」に、死に至らせるからである。
“死ぬところだった”は、実際には「死ななかった」という事であり、これが苦しませずに殺す「一撃必殺の技」でない事は明白であろう。
かつて、こうした技を、「旦那芸」と言った。
旦那芸とは、大家(たいけ)や商家の主人などの、慰みに修めた芸事で、一種の、金持ちを取り込む為の「俄芸」としても遣われるのである。そして、「苦痛は感じさせる」が、殺すまでには至らない。あるいは、死の一歩手前で止めるという、配慮がある。
しかし何(いず)れにしても、日本刀が死を齎す、「斬首(ざんしゅ)の刹那」とは違うようだ。
─────わが流の進龍一師範は、次のようなエピソードを自分の著書『大東流合気武術part1』(愛隆堂/平成年3月15日)に記述している。
そこには「知謀合気とは」と題して、これを紹介している。
「次ぎのような話を耳にした事がある。
ある合気の名人が話し合い懇談と称して、まんまと他団体の会長を呼び出した。
満座の門弟の前で、門弟の中でも剛力の者に会長の腕を握らせ、「合気揚げを見せてもらいたいが如何に!」と強要。
会長は、必死にもがけど合気揚げかなわず醜態をさらす羽目になってしまった。
更にこの後、この剛力の弟子が、自分の師に楽々と投げられ、ズラリと居並ぶ弟子たちいに「会長と違って先生は本物である」と嘲笑させ会長は大恥をかいて退散したという。
この話しが実話であったとしたら、この会長という人物は余りにも善人でありすぎる。
大東流の「知謀合気」を知らないものであると言えるであろう。戦国の世であれば、敵陣で“なます斬り”に切り捨てられていた事であろう」
私はこの話の出所を後に進龍一師範に問いつめたら、「話し合い懇談」をセットしたのは『合気ニュースの』スタンレーで、「他団体の会長」とは大東流幸道会の某会長の事で、「満座の門弟」とは佐川道場の門弟であり、「会長と違って先生は本物である」と言わしめた“本物”とは佐川幸義先生のことであると白状した。
また進龍一師範は次のように“合気”の真理を表現している。
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まず、合気は自分の弟子にはよく掛かる。これは合気関係の指導者なら誰でも分かる事で、チャンネル(経路)が開かれているから当然である。
したがって、会長の恥とするところでもなければ、名人の自慢となるところでもない。最近話題になる事が多い「遠当て」とか「触れずに投げる」とか称するものは皆これである。暗示に掛かり易い(合気になり易い)弟子や協力者を持てば、ついやりたくなるものである。 |
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それよりも、自陣に相手を引き入れる事こそ、真の合気であり十分なる準備のうえで会長をおびきだしたところに「知謀合気」の面白躍如たる点があるのだ。 |
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武田惣角は常に抜き身の刃物を腹に持っていたという。恐るべき技法を持ちながらこの用心、他人を一切信用しない、甘えの無い武人の心構えを見習うべきである。
『我以外、皆我が敵』が武人の心構えであり、その上で『我以外、皆我が師』なのである。 |
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合気の掛かっていない状態でどのような技も掛けるべきではない。他人に技を見せる必要は全く無い、相手が強さを計ろうとする心待ちなら、まして見せてはならない。
技を見せるのは
(1)敵を倒す時
(2)弟子に教える時
(3)確実に合気の掛かっている者に、余興で見せて威圧する時
この3つの場面だけである。 |
進龍一師範は「知謀合気」をこのように分析しがた、平成2年の時点で、わが弟子がよくぞ此処まで成長したものだと感心するばかりである。
─────以前私が、武田時宗先生に「八光流柔術創始者・奥山龍峰(吉冶)師」のことを質問したら、武田惣角からの『英名録』のコピーを示され、奥山師のことを詳しく教えて下さった。その後、奥山師から八光流の帰伏しないかと誘われ、これを断り、またあるとき、「八光流はモトは大東流であるのだから、どうして大東流を名乗らないのか」と、逆に文句を言いにいこうと思い、佐川先生と伴って出かけたが、「このときは居留守を使われた」とこぼしておられた。
佐川師については、惣角以来の「宗武」の印鑑を返してもらったことや、何となく、技の交流があったことを匂わせる話をした。
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| ▲岡本邦介氏の入門願書(岡本氏は、あつて近藤勝之氏の弟子でもあった)
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また昭和50年5月1日に、わが流に入門した岡本邦介氏は、八光流柔術の師範であり、その後も八光流を続け、皆伝師範まで進まれた人である。岡本氏が入門した当時、八光流の奥山師の直接の松田敏美師であり、松田師から大東流を、奥山師は習ったという。また、松田師の遠縁か親戚かは知らないが、松田隆智がいると聞いたことがある。「だから苗字が一緒だ」といったが、それは調べたわけでないので事実は分からない。もしかしたら、違うかも知れない。
また岡本氏は、八光流皆伝師範として、佐川先生の道場に何年間か熱心に通っている。
岡本氏が、八光流皆伝まで進まれたのは、佐川先生から、「何でもいいから、六段以上を取ってきなさい」と言われた為で、「八光流師範」では入門させてもらえなかったという。そこで、八光流の皆伝師範を取得して行ったら、すんなりと入門許可が下りたと言う。
そして岡本氏は、最後は佐川道場から、北九州の私の門に入門したのである。これだけ検(み)ても、西郷派と大東流が、絡み合っていることが分かるであろう。
ともあれ、流名変更の経緯を知らなかった西は、自分が入門する前の昭和47年以前の事情を全く知らぬまま、機関雑誌『和合への道』と、これまでの私が指導に当たっていた福岡工業大学合気柔術部や、大東修気館道場の経緯を知らない。また、大東修気館道場では、政治色が強く、派閥があった事なども知らない。わが流の歴史が、合気道の本からの作文であった事も知らない。派閥間で使途不明金が発生していたことも知らない。私が21〜2歳の頃の話だ。
またそれが、昭和47年以前の、わが流の演武会パンフレットを近藤勝之氏に提供し、また近藤氏から『合気ニュース』の編集長であるスタンレー・プラニン氏に渡ったものと推測できる。
これはあくまで推測であるが、おおよそ、このような流れで、平成3年7月の『合気ニュース』の社説に2ページに亘って掲載され、これを近藤氏はプラニン氏に対し、わざとらしく「本当によく調べましたね」と相槌(あいつち)を打っているのであるから、全く笑止千万と言わねばばならない。プラニン氏の中立・公正・公平のジャーナリズム魂は、一体何処に行ったのだろうか。
追言として補足するならば、近藤氏は「本当によく調べましたね」と相槌を打っているが、プラニン氏は一度も、わが方を取材したことはなく、実際に業(わざ)も見たことがなく、安易に近藤氏の言を信じて、そのまま掲載してしまったという観が強い。明らかに誘導されている。これこそ、ジャーナリズムの道義も仁義も悖(もと)る軽率な行為であろう。
●武術や武道で「見栄を切る」とは如何なものか
武術や武道と言われるのもは、本来は男のものである。したがって、そこに絡むものは、自分の力量、能力、社会的地位、名誉などであり、これがつまり男の本能であり、この本能は直接、闘争心や征服欲に繋がっている。そこで「男の見栄」というものが浮上して来る。
「見栄を張る」とか、「見栄坊だ」とか言うが、これは「上辺を飾る」という事に尽きるだろう。これは一種の虚栄心であろうが、虚栄心と「上目を飾る」こととは必ずしもイコールにならない。「見栄を張る」ことと、「虚栄心を持つ」こととは多少のニュアンスの違いがあるのである。
端的に言えば、見栄も一種の虚栄心であろうが、それは他人から見られる事、他人の眼を意識する事を前提としているものである。歌舞伎の用語に「見栄を切る」というのがあるが、これはその芝居が頂点に達した頃に、役者が動作の感情表現や、更には“目立つ仕種”をすることで、「此処一番」という感情の頂点表現である。
そしてこの時に、役者の向こうから、かかる掛け声や拍手を期待して、それが「見栄を切る」表現になっているのである。
これは歌舞伎の芝居であるから、見栄を切っても許される事であろう。歌舞伎の見栄に、いちゃもんきつける気持ちなど全く無い。ところがこれが武術や武道の戦闘指頭から考えると、この“見栄”というのは如何なものか。どう見ても、近藤氏の見栄が「残心」とは思えないからである。
特に見栄を切る前に、一体両手を叩き、その後見栄を切る、あの動作は、手裏剣術で考えると、「最も打ち易いベスト・タイミング」であり、この手拍子が、手裏剣を投げるタイミングの指示を出しているようにも思えるからだ。
かつて私は、カナダのゲルモ・デル・クラト氏に「見栄は切るな」と何度も注意した事がある。しかしこれは未だに直っていない。カナダで演武会などのビデオが送られてくるが、その演武の中には必ず最後に「見栄を切る場面」があり、近藤氏の汚染が此処にも広がって居ると言える。
武田時宗先生が、わが方に数回訊ねて来られ、私の弟子が技を教わった事があるが、時宗先生は「見栄を切る動作」など一つもやらなかった。但し、「相手を掛け捕った後に、手刀(てがたな)を相手に向けて振り上げるのは“残心”の意味で大事です」と言った事を覚えている。
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| ▲武田時宗先生の指導。福山隆氏相手に、八幡製鉄の親和会館で。(昭和57年5月11日) |
しかし、近藤氏の掛け捕った後の見栄は、どうみても残心とは思えない。歌舞伎芝居に出て来る見栄と数分も変わらない。
近藤氏はこの見栄を「余裕」と位置付け、「掛け捕った相手は二人であろうと、三人であろうと、更に攻撃してくるならば、どこからでもいらっしゃい」としているそうだが、例えば攻撃者が、弓矢、吹き矢、投擲武器などで攻撃して来たらどうなるのだろうか。
約束による演武に於ては、こうした攻撃も捌く事は難しかろう。約束は約束であって、約束の領域を一歩も出る事はない。多数捕りにしても、約束で行われ、戦場の斬り合いとは違うものである。これを忘れてしまえば、大東流と言えども、時代遅れの骨董品に成り下がる以外ないのである。
実戦武術の真髄は、見せず、教えず、秘密にしておく事であり、誰とも競わないと言うのが、本当の心の「鞘の内」というものであって、無闇矢鱈に刀を抜き放って、これを“ひけらかす”ものではない。
既に述べたが、武人は、かくもこのようにありたいものだ。そして「武の道」は、あくまでも「死を嗜(たしな)む道」と考えるのである。
果たして、近藤勝之氏の背後に「死を嗜む道」の軌道が見えるだろうか。
格闘技や演武形式の武道と、わが西郷派の違いは既に述べたが、更に重複して論ずれば、次のようになるだろう。
江戸中期、尾張の武士に、星野勘左衛門(ほしの‐かんざえもん)という柳生新陰流の達人が居た。勘左衛門はある時、所用で家老宅を訪ねた。家老は大の相撲好きで、丁度その時、大相撲の関取が来ていた。この関取は五百石積みの船の錨(いかり)を片手で振り回すほどの大力であった。
家老は興味本位から、勘左衛門に、「この関取と試合してみよ」と命じた。勘左衛門は筋違いと考え度々断ったが家老は聴く耳を持たず、これを強く強要した。それでも、勘左衛門は「筋が違いますゆえ」と、これを何回も辞退した。しかし、家老はこれを聞き入れず、止(や)むを得ず立ち合うことになった。武士のとって“立ち会う”ことは「太刀合い」を意味する。太刀での斬り合いを意味するのだ。そこには、当然、死を賭(か)ける。
それ故に、勘左衛門は度々断り続けたのである。太刀を抜かなければならないからである。太刀を抜けば、血の雨が降る。当然の事だ。死傷者が出る。
無益な殺生をしなければならなくなる。出来ればしたくない。武士と雖(いえど)も、太刀を抜いて無益な殺生をする「生殺与奪(せいさつ‐よだつ)の権」はない。
勘左衛門は何回も断り続けたが、遂に聞き入れられず、とうとう仕方なく試合をすることになった。試合場に、関取は裸になって、“廻し”を絞めて顕れた。一方、勘左衛門は紋付袴(もんつき‐はかま)に、袴の“もも立ち”をとって、大小二振りの刀を腰に指していた。
これを見た行司(ぎょうじ)は、「相撲をとるのに、刀を指す法はないだろう」と咎(とが)めた。
すると、勘左衛門は「私は武士であって、相撲取りではない。家老の、たっての望みで試合するのであって、試合は“死合”であり、武士は腰に両刀を指して試合するのは作法でござる」と言うのだった。
これを訊(き)いた関取は「お前は試合で、俺から投げ飛ばされて、惨めな負け方をするのが怖いのだろう」と高飛車にものを言い、勘左衛門に掴み掛かった。勘左衛門はこれをさっと躱(かわ)し、“抜打”で、一刀の下(もと)に、関取を袈裟切りにし、斬り殺してしまった。これこそ“合気”であった。
これに周りの者は驚き、ざわめきはじめると、勘左衛門は“血振り”をして、太刀を鞘に納め、家老の前に進み出て、次のように言うのだった。
「武士が勝負をして試合で争うことは、このようなものであると存じます」
こう言って、勘左衛門は一礼し、家老宅を後にした。これに家老は激怒したが、どうしようもなかった。
そしてそこに居たある武士が、「星野勘左衛門の振る舞いは、武士として尤(もっと)もなことである。相撲取りと武士が試合をするなどは筋違いであり、そもそも家老が、これを強要したことに間違いがある」と云ったのである。
そこに居た武士達は、これに、「大いに尤(もっと)もだ」と頷(うなず)いたと言う話である。そこに居合わせた誰もが、武士たる者の本分に帰ったのである。 |
試合とは、武士にとっては“死合”であって、その総てに自分の全人格と名誉が懸かっている。そして、追い込まれれば、死合をすることも、また“武士の定め”であった。
更には、勘左衛門の行為は、武人として当然の事をしたまでのことである。ここに、“死の道”を嗜(たし)む武人と、土俵で一時の勝ちを争う格闘家との違いがあろう。
つまり、死の道を嗜む武人の行動と、試合を競う格闘技とは、根本的に違うのである。また、次元の違いも分かろう。
したがって、「見栄」とは、歌舞伎役者の見栄であり、武人は役者でないから、「見栄を切る必要はない」と思うのである。この辺も、カナダのゲルモ・デル・クラトは分からないようだ。ポーズで演武会に精を出しても、武術の真髄は極められない事が分かるであろう。
私は、かつて山下芳衛先生から習った手裏剣を、40歳過ぎてから健康法として、毎日行っているが、投擲武器を研究すると、演武形式の武道が、如何に型に嵌まってしまって、危険であるかが分かるのである。
手裏剣術は「万打自得」と言う。一万回以上打って、やっと何とか“ものになる”というものだ。
一万回打つとして、一日に朝晩100回打てば、100日で「一万回」となる。100日と言えば、僅かに3ヵ月と3日強である。これだけで誰でも手裏剣を打てるようになる。私は、わが門人全員に「手裏剣の一人稽古」を義務付けている。これは健康法としても非常に良い。相手との“間合の計り方”も、自然と覚えるものである。何の武道であれ、種目に限らず、手裏剣を稽古する事は大きな利点がるのである。
そして手裏剣の稽古は、最初は「打ち方」だけを師匠について教われば、後は自分で「万打自得」の域を高めて行けばよいのである。
空手や拳法などの武道で、よく「一撃必殺」というが、私は未だかって、1秒以内に一撃必殺で人を殺したと言う話は一度も訊いた事がない。本来、一撃必殺と言うのは、手裏剣や抜刀による“抜打”のことを言うのである。この辺も、リングや畳や板張りの上で闘う格闘術とは違う事が分かるであろう。
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