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吾が修行時代を振り帰る 24


●合気の“ロマン”を追い求めて

 昭和40年代、当時は、何しろ合気道も大東流と同じと思われた時代であり、その後、合気道を「植芝流」というようになり、大東流そのものを知る人は殆どなく、合気道をやっている人が、合気道もかつては大東流と呼ばれた時代があったと教えてくれるほどで、当時の私としても、どの流統を辿って、今日に伝わったか、全く知らなかったほどだった。
 いい加減と言えばいい加減であるが、昭和30年代から40年代にかけての時代というのは、何流であろうと、世間は関係がなく、“強いことのみ”が必須条件であった。

長澤成繁先生の名刺(1)
長澤成繁先生の名刺(2)

 但し、同じ福岡県でも、この当時博多に行けば、“武田流合気術”が幅を利かし、非常に有名だった。
 武田流合気術のキャッチ・フレーズは、戦国時代、甲斐武田家の重臣の武田信友が、一子・勝千代に伝書を託して筑前黒田藩の食客となり、これを代々黒田家に伝えたと言うものだった。そのとき、博多で知り合った先生が、武田流双真道合気柔術の師範で、双真道本部柔真館館長の長澤成繁
(ながさわ‐なりしげ)先生だった。

 また、福岡で植芝流合気道では、福岡水上警察署に植芝流を指導していた山下清先生も、福岡では有名な先生だった。そしてこの当時、大東流という名前は、合気道の本に書かれた数行ほどで、これが始めて私の眼に留まったのは、昭和38年、植芝吉祥丸先生が書かれて、植芝盛平翁が監修した『合気道教本』という本だった。
 ちなみに、合気道の黄金時代は、昭和30年代と言われている。その黄金時代の背景になったものは、紛
(まぎ)れもなく“ロマン”であり、「合気で投げ」あるいは「合気で抑える」と言うものだった。

『合気道教本』(植芝盛平監修、植芝吉祥丸著。昭和38年12月1日発行)
『合気道教本』内の60ページには、植芝盛平先生が、若者の弟子を投げた写真が掲載されている。ここには老人が若者を投げると言う、ロマンが紹介されている。

 私が初めて大東流の名前を本で眼にしたのは、これが一番最初であった。そして、大東流は植芝盛平翁や植芝吉祥丸先生が伝えたもので、「今は“植芝流合気道”というのだ」という認識が、多くの合気系の人達の認識だった。

 私もその一人であり、その程度の認識だった。それ故、私の求めた自分の流派の“ルーツ”は、合気道に、それを求め、それから数年後、一時は、“沖田氏が作った作文”に心踊らせた。何故ならば、「清和天皇……云々」から始まる、この歴史的雄大さは、実に目を見張るものがあったからだ。

 その一方で山下芳衛先生の「わが流は大東流と謂
(い)う」と、「大東流合気柔術」あるいは同系列の「大東流柔術」を同じものと考えていた錯覚があった。また当時としては、大東流の文献を、合気道の本に求めるしかなかった。それが、大東流イコール清和天皇伝説や、新羅三郎義光の“大東の館”伝説に結びついたと言える。それは“ロマン”と言ってもよいであろう。
 しかし、この夢に酔うのは、ほんの束
(つか)の間の事であった。歴史を調べれば、直にこれらは幻想と分かるものである。

武田惣角を師と仰ぎ、大東流合気柔術を名乗っていた頃の植芝盛平翁。

 そして当時の合気道の本には、合気道と大東流は同じ流れで、同じ武道だ書かれているし、それを信じて疑わなかったのである。第一、合気道の創始者・植芝盛平翁が「大東流合気柔術」という看板を掲げ、日本刀を背にして写真に映っていたからだ。この写真を見て、合気道が大東流であると認識してしまうのは、尤(もっと)もなことだろう。

 ところが“合気会”が方針を変えて、合気道と大東流合気柔術は無関係だと言い出したのが、昭和30年代後半から40年代に懸けての事である。両者は、根本的に違い、合気道は大東流とは別伝経由で、今日に至ったと記してあった。
 それを顕わすものは、昭和45年10月17日、福岡市の九電記念体育館で行われた『合気道大演武会』と銘打った、演武会であった。この時の模様を8mm映画に収録しているが、技も去る事ながら、当時配付されたパンフレットには、一言も大東流の言葉は出て来なかった。これは合気道と大東流を、はっきりと識別する、合気道側の画策があったように思う。

九電記念体育館で行われた『合気道大演武会』のパンフレット(昭和45年10月)

植芝吉祥丸先生挨拶

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合気道について

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合気道の見方

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 しかし、この時も、私は自流の正確な流統を知らず、この両者が違うものであると発覚したのは、昭和50年5月の、当時千葉県船橋市在住の岡本邦介【註】八光流柔術師範で、後に佐川幸義先生に師事し、その後、わが流に入門し、一時期、近藤勝之氏の道場にも居た)氏が入門してからのことであった。



●西郷派大東流合気“柔術”

 私が、自流の大東流に西郷派と命名したのは、この時であり、昭和50年以降に流名を「日本尚道会」と改め、昭和51年3月に、岡本氏に免許を授与するに当たり、この時に「西郷派大東流」を名乗ったのであり、大東流修気会も、このとき、西郷派大東流に統一した。

 したがって現在、アメリカやカナダに「西郷派大東流合気柔術」と名乗る団体
【註】ドクター・マーシャル率いる西郷派大東流は、昭和13年に中国で中国人のリー師範が、山下芳衛先生から西郷派大東流合気柔術を教わり、教わったお礼にリー師範が山下先生に中国拳法を教えたというももので、リー師範がその後アメリカに渡り、西郷派大東流合気柔術を教えたとするものであるようだ)があるが、こうしたものとは無関係であり、また、韓国にも私のビデオやDVDを購入し、これで技を真似して「西郷派」と名乗っている合気道の団体があるが、これとも無関係である。
 ちなみに、この“西郷派”は、韓国では
「にし‐ごう‐は」と言うそうだ。随分とふざけた呼び名である。

 では「西郷派大東流合気柔術」の根拠になったものは何か。
 それは『和合への道』の「大東流合気柔術の簡略と流起」が、何者かに渡り、その後、英訳されて、この“歴史作文”がそそまま引用され、アメリカやカナダで、模擬大東流を稽古する連中が、「西郷派大東流合気柔術」なるものを創始したと思われる。これは全くのデッチ上である。わが西郷派とも、山下芳衛先生とも無関係である。

 西郷派が、初めて世に出たのは、昭和51年3月からである。したがって、それ以前の資料は一切間違いであったと訂正した。
 しかし、そのまま旧資料が持ち出され、あるいはゴミ同然のものをそれぞれの道場生に配布して、無料で配ったということから、この資料を鵜呑みにすれば西郷派はかたりということになる。この配布については、西龍一郎の所属する八幡大学合気柔術部も例外ではなかった。この大学の学生には、「旧資料は間違いである」と追言した上で、無料で配ったことを覚えている。西にも、これまでの各大学の演武会のパンフレットと、問題の『和合への道』をご丁寧にセットし、無料配布した。

 お人よしの私は、その当時、西が後に造反するなど思いも寄らないことだったからである。私は、この時、「こうした遣り方をする裏切り者が居るのだ」ということを、いやと言うほどの慙愧に耐えない憤慨で頭を熱くしたものである。したがって、その後、旧資料が持ち出され、手土産代わりに近藤氏に提供されたとしても、不思議ではない。

 また、旧資料によると、昭和45年当時のわが流の大東流修気会は、様々な憶測により、派閥の道場生によって、流統の諸説が唱えられ、昭和45年10月に、大東流修気会の名前で発行された機関雑誌『和合への道』の歴史の略歴の中には、そのまま、『武道全書』の「合気術」の歴史がコピーされ、山下芳衛先生が松田利美師範の弟子となって記されている。
  また『合気ニュース』では松田師範の「利美」を、ご丁寧に「敏美」と訂正して、2ページにわたる社説の中に大々的に取り上げ、「鬼の首」を取ったように、これをインチキだと称している。

 しかし、わが流は昭和51年3月に「西郷派大東流」と改名し、また、これまでの人脈の歴史が総て間違っていたことを訂正している。この話は、既に岡本邦介氏が入門した昭和50年に通達し、それ以降の出版物には、植芝流合気道と、武田惣角の流れを汲む大東流の流統を完全に否定している。

 今でも、西郷派大東流と名乗る所以は、山下芳衛先生から「わが流は大東流という」それだけの理由で名乗っているだけであり、これに歴史的根拠はない。しかし、幕末の研究をすると、明治維新、文明開化、日本精神否定、廃仏毀釈(はいぶつ‐きしゃく)と時代が流れ、西洋化に押し流される現状に憂い、西郷親子の何れかが、『大東合邦論』の「大東」の二文字を採り、これを極東の「大いなる東(ひむがし)」とした可能性は大いにある。

 私はこの話を、かつてカネミ倉庫社長の加藤三之助氏から、「大いなる東」の話を聞いたことがある。加藤社長の話によると、影山正治(かげやま‐まさはる)先生が創始された「大東塾」の発行する『不二』に「ひむがし」という文字が見られ、極東のこの地を「ひむがし」と呼んでいた事は確認されている。それによれば、この「ひむがし」を「大いなる東(ひむがし)」にして、これを“日本の姿”と見て取ったことは容易に想像できる。

 西郷親子が、大変な政治好きであったことは、西郷頼母や西郷四郎を研究する人ならば、誰でも知っていることである。孫文(そんぶん)の辛亥革命にも関与し、それを調査する為に、西郷四郎が従軍記者として辛亥革命を取材したことは有名な話である。

戊辰戦争の頃の松平容保
晩年の松平容保

 こうした「政治好き」が考えることは、最終的に行き着くところは、日本精神の復活であり、「大いなる東(ひむがし)」以外にありえない。もし、この流名由来の推理が正しいとすれば、大東流は「政治秘密結社」の観が強い。
 現に、戊辰戦争後の松平容保公の晩年は、その取り巻きに会津藩を復活させる“政治結社”があり、そのスローガンは「薩長撲滅」であった。今でも、戊辰戦争からの呪縛
(じゅばく)に、会津人は解き放たれていないのである。地下では、秘密結社の指令が出ていると言う。

『不二』大東塾・不二歌道会篇。同第三種郵便の書物にも「大いなる東(ひむがし)」という「大東」が出て来る。大東塾は影山正治先生が創設したものである。

 また、大東塾の影山正治先生の著書『千里行脚の記』には、太平洋戦争終戦時、大東塾十四烈士が割腹自刃した追悼(ついとう)の旅に出て、その遺族を訪問したことが事細かに述べられている。そして、「ひむがし」の意を唱え、戦後間もない日本の荒廃を嘆き、敗戦以前の日本を振り返り、黙々と祈行があったことの述べている。
 したがって「大いなる東」は、明治中期に、これが「大東」になったことは想像に難しくない。

 こうした「大東」の二文字を追いかけて、大東流・流名由来の歴史を研究していくと、「大東流」という固有名詞が、武田惣角によってのみ名乗られたのは間違いであることは確かだが、一方、大東流の名付け親すら、実のところ分かっていない。したがって、一部の大東流愛好者が主張する「大東の館」から来たなどということは断じてない。

 綿谷雪(わたや‐せつ)氏と山田忠史(やまだ‐ただし)氏の共著『武芸流派大辞典』には、武田時宗先生の論説がそのまま掲載され、「大東流は代々源家古伝武芸として伝わり……云々」となっており、「新羅三郎義光に至って一段と工夫……云々」、「女郎蜘蛛(じょろうぐも)が雁字搦(がんじがら)め……云々」「戦死体解剖……云々」となっているが、「大東の館」の話は出てこない。

 そして、追加文として、「武田惣角は保科(西郷頼母)の言を墨守し、会津藩の名を辱(はずかし)めなようにと最初は大東流柔術本部長、後年には大東流合気柔術総本部長と名乗り、生涯を通じて宗家・何代目とか名乗ったことがなかった」(『武芸流派大辞典』より)そして、惣角は、「惣角流・日本伝合気柔術」を参照として、武田惣角が当時、大東流ではなく、「惣角流」を名乗っていたことを挙げている。これから窺(うかが)えば、大東流の名付け親は武田惣角でないことが分かる。

 また、『西郷四郎伝』の著者・牧野昇氏は、大東流の流名由来を、当時、樽井藤吉(たるい‐とうきち)の『大東合邦論』の政治書にあると定義付け、この書物を西郷頼母か養子の西郷四郎が知っていたのではないかという推測を立ってている。『大東合邦論』の「大東」を採って、大東流とした可能性は大きい。

 ともあれ、大東流の「大東」は、誰が名付けたものか、はっきりとしない。ただ「極東の優れた大いなるもの」という意味は、「大東」の二文字から読み取れる。
 したがって、こうした流名不明な流派に対し、「大東流」を商標登録とし、独占した近藤勝之氏の行いは、明らかに傲慢
(ごうまん)という他ないだろう。

 文化的な「独占禁止法」の法に触れているではないか。果たして、近藤氏の商標登録した大東流は、『大東合邦論』の「大東」と同じものなのだろうか。
 本来ならば、そうでなければならない。第一、武田惣角は最初は「惣角流」を名乗っている。大東流を名乗ったのは、後のことだ。だから、商標登録した大東流は、『大東合邦論』の「大東」と同じものかと、問い質
(ただ)しているのである。

 そして、もし、近藤勝之氏が商標登録として、大東流を名乗るのであるならば、正しくは、「大東流合気武道武田惣角派」を商標登録すべきであろう。また大東流は、武田惣角流統の専売特許ではない。

 ちなみに、西郷派が平成3年3月23日に開催された習志野市大久保の習志野市民会館での「大東流演武会」(この演武会はBAB出版のビデオになって発売された)に、当時、近藤勝之氏の門人の二段の大学生が、わが流の門人・金澤龍司(かなざわ‐りゅうじ)七段と、二人で組演武を遣(や)り、演武に出演しているのは、どういう分けか。これも回答する必要があろう。

 大東流はこのように、敵味方別れて大混乱に混戦し、非常に乱れて分かり辛く、許(もと)を辿(たど)れば、その殆どが総て西郷派に辿り着く。今では大東流合気武道・九州総支部長の肩書きを持つ西龍一郎も、許を辿れば西郷派であり、西が、わが流に在籍した大学一年頃の後半からであり、大学を卒業し、一時、司法書士事務所に見習いとして勤め、その後、土地家屋調査士として開業し、その間の約13年ほどで、第六級から参段までの彼の全記録が、わが方に残っている。



●人のふり見て我がふり直せ

 人間は他の生き物の同じように、「一生に、一つの生き方」しかできない生き物である。
 この点は動物と変わりないが、霊長類の長
(おさ)である人間が動物と違うところは、自分とは違う人生を想像力によって考えたり、他人の身になって思考できると言うことである。
 自分がしている事を、他人にした場合、その結果を予測する事ができると言うことである。

 例えば、公衆便所に入り、そこで用を足したとして、その使用法が乱雑であったり、汚く遣
(つか)った場合は、その後から遣う人の事を考えて、「乱雑に遣ってはならぬ」「無闇(むやみ)に汚してはならぬ」と、こう考えるはずである。ここが人間と動物を隔てる、大きな違いである。

 「乱雑に遣
(つか)う」「自分勝手に好き放題にする」「後から遣い人のことを考えずに汚し放題にする」などが、喩(たと)え、それが主観的には気持ちが良くても、他人の立場から見れば、不愉快きわまりない事であろう。こうした事は、子供でも分かることである。

 公のものを遣う。公共の施設を遣う。公共性のあるものに報道をする、と云ったものを使用する場合、“二重の操作”が必要である。それは「他人のことを考える」「その結果を予測する」ということである。これをせずに媒体を使った場合、そこには悲劇が起る。単に、主観的な感情をぶちまけて、自分にとっては愉快なことをしている積もりでも、他人にとっては、動物が汚した後と同じになり、それはまさに動物と言えよう。

 動物は人間と異なり、「自分の事は自分で出来ない」生き物である。野生の中にいる動物ならともかく、ペットは御覧の通り、何から何まで、人間の介助を借りなければ何も出来ない。また、自分と立場を逆に考えて、他の事を思い遣ることができない生き物である。今日は、“この種”の人間が急速に増加している。“自己完結性”がない人間が多い。無責任が多い。知的レベルが動物並みになっている。
 これは“この種”の人間に、自己完結性を持たない知者が少ないことを顕わしている。それに比べて自己宣伝欲は強い。

 特に、武術界や武道界にあっては、“この種”の人間が実に多い。
 “この種”の人間は、二言目には「武は礼に始まり、礼に終る」などと、尤
(もっと)もらしいことを言うが、よく“この種”の人間を観察すると、実に幼児的である。“この種”の人間が口にする「礼儀」などということばは、最早(もはや)幻想と成り下がっている。

 “この種”の人間の多くは、「礼を通じて相手の立場を考えることくらい誰でもできる」と、思っているようだが、よく観察すると、案外そうでないことに気付かされる。
 一端
(いっぱし)の武道家と称する人を検(み)ても、結果を予測したり、相手の身になって考えると言う包容力に欠け、自己主張ばかりが強く、骨董品を振り回して、さも、これが世界最強のような武技であることをほのめかし、これを強調する幼児性を持った、武道家や武術研究家と称する人物が、実に多いことには驚かされる次第である。
 また、こうした幼児性を自慢する子供感覚の武道家を、名人のように吹聴する武術や武道雑誌も少なくない。これこそ、“幻想”であろう。そして読者も共鳴して、愚かなる幻想に酔い痴
(し)れる。

 現代社会は過酷なもので、人間関係の殆
(ほとん)どは利害の対立に置かれている。そしてこの「利害」こそ、根底には“自分が一番”とする我田引水(がでん‐いんすい)の構造が横たわっていて、これが“あらゆる商行為”に繋(つな)がっている。物事を、自分の利益となるようにして、構造的には、一方が常に損をすれば、他方が儲(もう)かると言うことになっている。人はこの“儲け”に、焦点を当て、奔走する。

 では、こうした構造の同じ社会に生きながら、また、そのような対立する人間関係の中で、なぜ、人間は共通の関わり合いを持つ要素を共有するのであろうか。
 それは「礼儀」という、自分を相手の立場に嵌
(は)めて考える思考が働くからである。

 一見して、どれほど明らかに、一方が正しく、一方が悪党に見える人間関係にあっても、悪を為
(な)した側にもそれなりの理屈があり、それなりに納得させる部分がある。しかし、短見で、単純な頭脳しか持たない幼児的な大人は、その深層部の見極めが出来ない。

 “この種”の人間には、世の中は自分と一定の他人だけは、全面的に正しく、そうでない人は全面的に悪いのだと断言する人が余りにも多い。またこれが、少なからず世論操作されている場合は、“この種”の人間は、その操作に完全に撹乱
(かくらん)されてしまう。そして、自分が操られている痕跡(こんせき)すら気付かない。単純で短見な頭脳は、最初から善悪二元論しかなく、これにこだわり、固執していることである。

 しかし、現実を丹念に、慎重に観察すれば、全面的に善き人も、全面的に悪き人も、この世の中には、“まず居ない”ということだ。
 人間は誰もが、部分的には善く、部分的には悪いだけのことである。

 俚諺
(りげん)に「人のふり見て我がふり直せ」というものがあるが、これは“他人の性行の善悪を見て、自分の性行を改めよ”という意味である。しかし、この言い古された言葉は、今日では、余り見向きもされないようになっているが、実際には、誰もが他人の中に「他人の欠点と同じ、自分の要素」を見い出し得ることを示唆(しさ)しているのである。

 限られた一回限りの自分の人生において、何処までが他人の生活範囲で、何処までが自分の生活範囲であるか、類推し得る人は非常に少なくなった。それだけに、自分の人生を味わう事なく、嫉妬と憎悪と誹謗中傷で、この世の「生」を無駄遣いしている人が案外と多い。

 「人生を味わうなんてどうでもいい。問題は他人より優位に立ち、得をすることだ」と考える人も、最近では随分と殖
(ふ)えているようだ。
 これは人間の思考が、何者かに誘導されて、一方方向に向かっていることを物語っている。カオスの理論で言う、「未来誘導への方向性」であり、現代人は善悪二元論に、頑固なまでに固執し、一方が善で、一方が悪と言う論理の中に吸収されている。そしてこの由々
(ゆゆ)しき現実に気付かないのが、自称「武術研究家」と称したり、自称「武道家」と称する人達である。



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