●大きな誤解を招いた機関雑誌『和合への道』
西郷派が、そもそもインチキ呼ばわりされる元凶になったのは、昭和45年10月1日発行の、大東流修気会の名で出された機関雑誌『和合への道』である。
この機関雑誌はページ数が16ページで、B5のパンフレット書式をなったもので、発行人が筆者の名前になっている。そして、後半は殆ど広告であり、広告収入で賄った形になっている。
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▲機関雑誌『和合への道』(表)
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▲機関雑誌『和合への道』(裏)
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また、わが流の代表者は、私でなければならないのであるが、私の名前や挨拶文は一言も語られておらず、“育成局長”が発刊の目的を述べ、師家会の“幹事長”と“事務局長”が紹介され、私は、ただ本名が使われているだけである。
“曽川吾端”の名が使われているのは、表紙裏の裏表紙の上と裏扉の「合気柔術へのおさそい」のコーナーで私の名前が本名で出て来て、発行人となって小さく記載されているだけである。私はこの時期、殆ど本名は使った事がなかった。常に「吾端」の号名を名乗っていた。『桂小金治アフタヌーン・ショー』に出た時も、「吾端」で出演した。しかしこの時、桂小金治氏は、私の「吾端」の「あづま」を読めずに、「ごたん」と読んだ。そのようにテレビカメラに向かって紹介した。私がこの時感じたのは、「吾端」は“読めないのだな”ということだった。
しかし、その後も、「大東流修気会」時代は、「吾端」で通したのである。したがって、吾端の下に(正晴)という表現はした事があるが、直接本名を名乗った事はない。常に“曽川吾端”だった。
『和合への道』と題した冊子には、“曽川吾端”で出たのは僅か2箇所である。それは表紙・裏扉の『合気悟道歌』と題したこの箇所に“悟道歌”が出てくるが、この作者に私の名前が使われ、『大東流合気柔術の簡略と流起』に「曽川吾端師範が当主二代として現在に至っております」という記載である。
果たして、その流派の代表者が出ない、その流派の機関紙やパンフレットがあるだろうか。
またこの冊子の表紙の下に「大東流修気会合気武道連盟師家会」なる仰々しい組織を、私は結成した憶えはない。第一、「師家」などと言う言葉を知らず、またこの当時、「宗家」も名乗った事がない。私は山下芳衛先生より、与えられた“曽川吾端和翁”の名に恥じぬよう、これを墨守し、また当時は、山下先生より数えて二代目に当るので、「当主二代」を名乗っていた。
そして私が一番不思議に思うのは、『和合への道』と題した冊子が“機関誌”ではなく“機関雑誌”となっていることである。
一般に機関誌や機関紙と謂(い)われるものは、政党や研究所などの団体または個人が、その活動内容などの発表や宣伝や連絡の為に発行する新聞や雑誌類である。その雑誌類に、わざわざ「機関雑誌」と謳っているところに、不可解な違和感を感じるのである。なぜ“機関誌”ではなく、「機関雑誌」なのだろうか。
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| ▲「発行の目的」を記した育成局長・古木某の挨拶文。(同誌3ページ)
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▲大東流修気会・師家会を紹介した幹事長・尾川某と事務局長/多門某の挨拶文。(同誌4ページ)
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この時代、豊山八幡神社境内にあった私の「大東流修気会」は、この六文字からから「大東」と「修気」のみの四文字を取って、「大東修気館」と称していた。しかし大東流修気会は、多くの人間に巣食われる“野心や欲望の温床”となっていた。
私自身が20代前後の若造であれば、これを丸めて幾らでも料理ができるからである。私がこうした野心や欲望が渦巻く中で、好きなように料理をされていたのである。
それを如実に顕わすのが、「派閥」がった。当時、内部が幾つかの派閥に分裂していて、互いに啀(いが)み合った状態になり、当時、若造だった私は、40代、50代の古参連を抑えることができなかった。
また、私は当時、沖田二二(おきた‐つぎじ/大東流修気会・大東修気館道場理事長)氏ならびに波多野英麿(はたの‐ひでまろ/大東修気館道場長で豊山八幡神社宮司)氏から、全権限は与えられておらず、抑止権もなかった。この二人の使役動物に過ぎなかった。この使役動物は、沖田氏と波多野氏の“貌(かお)を作る”為に、ただ使役されていただけのことである。
またこの事から、大東修気館道場の最高責任者は波多野英麿氏であり、その補佐役が理事長である沖田二二氏であった。私は、ただそこで“技”だけを指導していた、“一指導員”でしかなかった。その為に技以外の指導は許されず、直接的な運営は御法度(ごはっと)だった。
更に沖田氏が捏造(ねつぞう)した“大東流の歴史”に変更を加えたり、これを訂正する事も御法度(ごはっと)だった。技を指導するだけの使役動物である以外、私の残された道はなかった。この時代、「大東修気館道場」と言う道場は、私に与えられた形式だけの“体裁の良い器”であり、この中で老獪(ろうかい)な彼等二人に、私が“飼われていた”のである。
その上、幾つかのグループに分かれて派閥が存在した。こうした“板挟み”の中で、私の行動が厳しく制限されれていたのである。
何故ならば、私はまだその時、20歳前後の“若造”であり、この青二才は、年長者から常に一等も二等も下にに見られていた。こんな私が、年長者の行動を制御する事は出来なかった。
そして、年長者の言は、決まって「師範は全く人生が分かっていない」とか「世の中を知らな過ぎる」という言葉が帰って来るだけだった。こうした揶揄(やゆ)だけでも、私がどの程度の位置にランクされていたか、容易に分かるであろう。
さて、当時の派閥の種類を挙げると次のようになる。
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派閥グループ数
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派閥グループの各集団内訳
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派閥
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1
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「生長の家」八幡支部のグループ(銃剣道の有段者が多かった) |
波多野派
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2
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新日鉄八幡製鉄所職工の三交代職工グループで、沖田派に丸め込まれていた(八幡製鉄職工や下請けの職工で10人前後の集団が出来ていた) |
製鉄派
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3
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日本民族青年同盟(日本共産党の青少年を対象にした下部団体の「民青」などを意識して結成された団体)という政治団体グループ |
波多野派
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4
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石原慎太郎氏が組織した「日本の若い世代の会」という政治団体の八幡支部グループで、手先に製鉄派を使っていた(自由民主党八幡支部が後援) |
沖田派
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5
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自由民主党八幡支部の党員グループ(当時、自民党八幡支部長は西村清氏) |
沖田派
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6
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以上に属さない学生並びに一般サラリーマン・派閥無関心グループ(北九大生や福大、西南の学生並びに北九州市役所の職員) |
無関心派
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7
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製鉄派と反民族派が対立した対立グループ(八幡製鉄職工や市役所の労働組合員らが結束した、“アンチ曽川”集団) |
対立派
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道場開きの時点で、既に集団入門のグループがあり、それが「生長の家」八幡支部の連中は大きな利権グループであったように思う。道場生が「生長の家」に入信させられた事もあった。こうした事に私は口出しをすることが出来ず、波多野氏も沖田氏も、こうした事には見てみ見らぬ振りをしていた。
大東修気館は当時、政治団体のようなもので、波多野氏の「日本民族青年同盟」と、沖田氏の「日本の若い世代の会」が連立政権のように仲良く手を握りあって、良好な関係を保っていたのである。その配下として、私は合気柔術指導と謂う立場に置かれて上手に使役されていたのである。
豊山八幡神社は、新日鉄八幡製鉄所の西門前にあり、新日鉄の社員がそのまま入門して来るケースが多かった。それに豊山八幡神社の宮司・波多野英麿(はたの‐ひでまろ)氏が、「日本民族青年同盟」という政治団体を組織していたので、此処からの入門者も多かった。それに当時、石原慎太郎氏が全国的に組織した「日本の若い世代の会」という政治団体の八幡支部があり、また自由民主党八幡支部からも、何人かの党員が参加していた。
こうした形成では、選挙の度に、候補者を巡って対立するのは当然で、少なからず、北九州市八幡役所(この時は区役所は東や西に分かれておらず、東区も西区もなかった)からの組合系の人も居たので、選挙の度に三つ巴、四つ巴になるのは当然だった。こうした派閥下で、機関雑誌『和合への道』が発行された。他を圧する為に、出し抜きを図る一部が“抜け駆け”を図ったとしても不思議な状態ではなかった。
この機関雑誌は製鉄グループが、沖田氏に丸め込まれて遣(や)ったものだと思われる。しかし、これに私の名前が出て居る以上、責任は私にあり、それを否定するものではない。
それに大学の参加校は、福岡工業大学が合気柔術部を発足しており、それに西南学院大学や福岡大学の合気柔術愛好会があり、その他、北九州大学や九州歯科大学の学生等が参加しており、またこの時代は全共闘全盛時代で、学生運動が盛んであった。それに選挙が絡んでくると、道場内の派閥は、多い揉(も)め、毎晩遅くまで遣(や)り合って、師範であった私も、彼等を前にして、簡単に家へは帰らせてもらえなかった。そして深夜まで、つき合わされるという時代だった。
この時代、世の中は赤旗旋風で吹き荒れ、それを押し進める側と、阻止する側が烈しく対立していた。大東修気館も例外ではなかったのである。
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▲各大学の幹部達と著者。(写真は昭和47年頃)
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▲大東修気館道場玄関前で。(写真は昭和47年頃) |
昭和44年から46年の前半期、まだ八幡大学は参加しておらず、この大学に同好会が出来たのは、昭和46年の後半頃で、正式な発足は昭和47年5月以降のことであった。当然、八幡大学には合気柔術部はないのであるから、この当時の模様を知る者は誰一人居ないのである。
この同好会は、最初、高塚弘巳(入門が昭和46年5月頃)という当時八幡大学の少林寺拳法部に入っていた学生が、筆者が大蔵公民館(北九州八幡区大蔵)に大蔵道場を開いた時に入門した門人であった。そして高塚が主将になり、その後、西龍一郎が大学二年頃の秋口、同好会に入ってきた。万生館の合気道を遣(や)っていたと言う。
またその後、西の性格から、自分が長にならなければ収まらず、高塚は主将の座を蹴落とされ、西が主将となり高塚に取って代わった。
●派閥の中での苦しみ
この道場は、私が18歳の頃に始め、ただ柔術の業(わざ)を以て、指導した為、年長の人間を抑えるなどの人間修行や人生勉強は皆無だった。年長者の誰かが、「こうあるべきだ」と唱えれば、それに傾くしかなく、また一方で、「いや、違う。実はこうだ」といえば、それに靡(なび)くしか手はなかったのである。優柔不断で、小心者の私の性格から来たのかも知れない。しかし、権限がないのであるから、彼等を抑止する事は出来なかった。
派閥がある故に、門人同士にまとまりがなく、好き勝手なことを言われたりされたりという、有様だった。こうした時代背景下にあり、若造の私は全くお手上げという状態であった。未熟者の若造は、いつの時代にも、“世間知らず”という理由から、人生の経験者からは見下され、甘く見られるものである。
ちなみに、当時の入会金と月謝は、入会金が100円、月謝が50円だった。大学での初任給が三万円前後の時代であり、それでも当時の稽古事をやる金額としては安い方ではなかっただろうか。その後、
「月謝が安いのでは……?」という意見があり、昭和47年頃に500円に月謝を上げるが、これでも安い方であっただろう。
この時代の私にとって、年が若いだけに遣(つか)い回され、非常に苦慮(くりょ)した時代であった。私が『陽明学』に志し、これに打ち込むようになったのも、その頃からであった。
大学では工学部だったので、古典を読んだり、国文学に拠(よ)り所を求めるということは殆どなく、文学的な才能は皆無であり、日々大学のハードな授業と実験に追い捲(まく)られ、その上、授業が終われば、とんぼ返りで道場生の指導に当たり、毎日深夜12時頃まで、道場の事務処理に追われたりで、てんてこ舞いの状態だった。
この時代が、ボーリングなどという遊戯施設も、まだ出来ておらず、庶民は専(もっぱ)ら、稽古事や習い事をして余暇を過ごすのが常だった。
そして大東修気館での稽古は、日曜日を除く毎日だった。以上の理由から、この時は総勢100人以上の道場生を数え、一見、見た目も“日の出の勢い”であり、普段の毎日の稽古でも、50人以上参加して、芋(いも)を洗うような状態だった。午後9時半の稽古が終わっても、道場生は中々帰らず、その後が議論の場になった。その上、派閥があった為、派閥同士が啀(いが)み合い、これを解決する手立ては、若造の私には全くなかった。
こうしたところに、一見眼を覚ますような強烈な印象で迫ったのが、陽明学と、種田山頭火(たねだ‐さんとうか)の『俳句集』であった。山頭火は、その背景に哀愁を感じたからである。
また陽明学は、私にとっては、学べば学ぶほど深い感銘を受け、これにのめりこむ行動原理が芽生え始めていた。
一般に陽明学といえば、古くは「大塩平八郎の乱」の当事者・大塩平八郎であり、幕末では「松下村塾」の吉田松陰(よしだ‐しょういん)であり、また近年には文豪で「楯の会」の主催者・三島由紀夫らが、陽明学ゆかりの学者として登場し、また、日本の陽明学の大家は、安岡正篤(やすお‐かまさひろ)先生であった。こした歴代の学者が並ぶと、陽明学は危険思想と採(と)られ易い。
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▲安岡正篤先生の色紙
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しかし、陽明学は危険思想でもないし、単なる理想論でもない。まさに生きる為の「命の学問」と言えるだろう。溌剌(はつらつ)とした情熱と信念を持ち、志を立てて邁進(まいしん)する人には、現世の厳しい現実の中で苦闘し、闘っている方には最高の激励の行動学であろう。
後に安岡先生には、平成2年にカネミ倉庫社長・加藤三之輔(かとう‐さんのすけ)氏を通じて、色紙などを頂き、知り合う縁があり、また、加藤三之輔社長を通じて奈良薬師寺の高田好胤(たがだ‐こういん)管長や、その他大勢の著名人に知り合う機会を得た。これは私が経営していた大学・大検予備校の経営に苦慮(くりょ)し、立て直しにかけて奮闘しているときであった。私の生涯の中で、“最もお世話になった人”である。そして、安岡先生との出会いにより、更に『陽明学』への学究は深まっていった。
さて、話を元に戻すが、私が陽明学への学究の徒になったのも、若輩で人生経験が少なく、一方で、道場の内部分裂状態を何とか改善したい為であった。しかし人生勉強の少ない、若造の私には、幾ら陽明学の書を貪(むさぼ)り読んでも、解決する手立てはなかった。こうした時の、昭和45年に、不思議な機関紙『和合への道』が発刊されたのである。寝耳に水というか、青天の霹靂(へきれき)というか、驚きの一語に尽きた。そして、この印刷代の後に請求されて、二度の驚きだった。
以前にも、「こういうものを作りたいのですが」と、相談だけは受けていた。しかし、これをあまり深く考えなかった私は、これが出されてしまってから、こんなものが出てしまったといった程度の、浅はかさであった。
文章は勝手に作られ、初期の“沖田氏の作文”が載り、文章の内容は、『武道全書』(堀田巍顕著)から引用されたものであり、また、絵は以前、私が新しく有段者になった者に無料で配布する英語版の『ダイナミック合気道』の絵を製図用のトレーシング・ペーパーにトレース(この絵は、有段者の為に著者がトレースしたもの。後に西龍一郎にも貸した憶えがある)したものであった。
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▲英語版ダイナミック合気道
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当時の有段者宛に、技の説明を加えたものを製作したのは確かに私である。しかし、これはトレーシング・ペーパーに筆で描いている。ところが、『和合への道」創刊号に出て来る絵は、筆ではない。細字用のマジックペンで機用に描かれたものであった。ただし、表紙だけは筆で、絵の写しは非常に下手である。
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| ▲『合気ニュース』が訂正した“誤字”は『武道全書』の「合気術」の盲目の歴史を“丸写し”したものだった。 |
次に歴史の部分は、沖田氏の作文に、適当なことが載っている。
特に驚くべきは、山下芳衛先生の略歴である。『和合への道』の「大東流合気柔術の簡略と流起」によると、山下先生は「九州では初めて大東流を紹介した第一人者」になっている。
第一人者ではあろうが、先生が云った「わが流は“大東流”と謂(い)う」と、此処に出ている「大東流合気柔術」とは、必ずしも同じものではない。
私が間違いなく聴いたのは、「わが流は“大東流”と謂う」という事だけで、それ以外の事は知らない。しかし、昭和42年4月7日に大東修気館道場の“道場開き”をした際、事前に連絡をとって呼んだ、『新九州』の新聞記者に、「大東流は、いつ興(お)こったのですか?」という質問に対し、私は「自分の師匠から“わが流は大東流と言う”とだけしか聞かされておりません」と答えた事だ。
この回答に記者は不満であったらしく、「それでは歴史を語った事になりませんね」と釘を指され、何か不満と不機嫌を露(あらわ)にしていた。この記者は、流派の流統や人脈などを知りたかったのであろう。
また、沖田氏はこの時、私の横に居て、この会話を聴いていたので、「わが流は“大東流”と謂う」と、抽象的な答え方では誰も相手にしないと言うので、その後の「沖田氏による作文制作」が始まったのである。その作文の多くは、合気道の本の丸写しであった。特に植芝盛平が大東流の出身者ということで、これを清和天皇の皇胤(こういん)から引っ張り出し、此処に重点をおいた。
更に、清和源氏を引っ張り出しておいて、一挙に明治期に飛び、武田惣角→植芝盛平の流れを創作し、その後に山下先生を持ち出している。
私は今でもはっきり謂(い)って、山下先生が「わが流は“大東流”と謂う」という、この流派名が大東流合気柔術と同じものかどうか、未だにはっきりとしない。
しかし、歴史の作文は作られた以上、その後の私は沖田氏に従う以外なかった。
ただ『和合への道』に書かれた歴史作文は、かなり込んだ作り方をしていて、「山下芳衛翁……云々」とあり、「翁は明治22年(1889)福島県会津若松に生まれた士族」とか、「キリスト教を学んで米国人宣教師について英語を学んだ」とかがあり、これはプロテスタントの新教を奉ずる、牧師としての沖田氏ならば、この場面を強調したいところであろうと思われる。
沖田氏が「英語を学んだ」と「キリスト教」とのイメージを交叉させたのは、私がかつて「お前の持っている資料を全部出せ」と沖田氏に言われた時、山下先生が書いた「英文の大東流」のレポートの写しも、一緒に差出したからである。この山下先生の英文レポートに、“キリスト教”と“米国人宣教師”を絡め、沖田氏独特のキリスト教観を、この冊子に盛り込んだとも考えられる。
また、「英文レポート」から察して、「東京専門学校英語専修科に入学」までをイメージして、大正13年(1924)には妻子を連れて満洲に渡り、満洲建国大学の英語講師となっている。また、別の歴史作文には、東京専門学校英語専修科時代、文豪の正宗白鳥(岡山県生れの小説家で評論家。1879〜1962)と同期だっととも書いてある。
山下先生の出身は熊本だと聴いていたが、これが「福島県会津若松」に飛んでいるのだから恐れ入る。ちなみに、満洲建国大学の英語講師であるが、近年に発刊された『満洲建国大学・教師陣録』には、山下先生の名前は出て来ない。したがって、この大学の講師をした形跡はなく、これも沖田氏独特の作文であったと思われる。
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▲満洲建国大学(毎日新聞社・『昭和史』日本植民地より)
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その後、沖田氏の作文は飛び回っていた。これが、相談もなく遣われ、発行された。
また、私の名前で発行されて居る以上、私に届くべき、広告で上がる筈の広告料は、1円も筆者の許(もと)に届かなかった。
師家会幹事長と事務局長は、既に辞めた後であり、代表者の私に、当時としては決して少なくない「印刷代35万円ほど」が請求された。当時の金額としては、大学での初任給が三万円前後だったので、35万円という金額はその5倍であり、5ヵ月分の給料に匹敵する金額であった。
私がこの為に、約一年後、自分の所持している刀剣や小道具類を売り払う為に東京に出かけて行き、東京銀座の長州屋や柴田刀剣店をドサ回りする羽目になったのは、この印刷代の代金を金策する為であった。
この16ページのパンフレットは一冊100円程度であったが、3500部作り、殆ど売れなくて三千部以上は道場の片隅に置き去りにされ、ゴミのような状態だった。その後、徐々に減っていったが、それは誰かが勝手に持ち去ったのだろう。
この時、西龍一郎も進龍一も、まだ入門していなかった。当然、以上の事情は知るはずがない。
彼等が入門してきたのは昭和47年後半である。入門順は当時の「入門願書」によると。西が数ヵ月ほど早く、その後、進が高見道場(八幡区高見公民館)に入門している。間違いだらけのパンフレットは、暫(しばら)くそのままになっていた。誰でも持ち出そうと思えば持ち出せた時代であった。欲しいと言えば、タダで配布するくらいであった。私にはただ、印刷代を請求されていて、その代金を作るのに頭を痛め、奔走(ほんそう)していたのである。
また当時、自分の流派がどの流統を辿って、今日に伝わったかなど、全く知らなかった。ただ、「大東流」と一言聞いただけであり、この人脈を辿(たど)ることなど、思いもよらなかった。ただ、毎日稽古を遣って、それで強ければよいという感想しか持たなかった。
況(ま)して、紙切れの“段”やら、“級”などは必要ないと思っていたくらいである。段および級の発行は随分後のことで、昭和46年頃であった。
流統を考えなかったことは、迂闊(うかつ)と言えば迂闊である。そして、道場生から流統を質(ただ)される度に、合気道の本からコピーされた沖田氏の作文を渡し、これで体裁(ていさい)を繕(つくろ)っていた。
その為に、当時私が指導に出かけていた大学の演武会は、沖田氏の作文をベースに歴史が語られ、更に学生達によってアレンジされ、私は学生達が書いた文章に眼を通して、これでよいか否かを訊(き)かれ、そのとき安易に返事をし、また、返事をしたとして、これの何処が間違っているか、訂正のしようがなかった。当時の私としては、歴史を認識する知識がなかった。
私の知っているのは「わが流は“大東流”と謂(い)う」という、先代の山下先生の言葉だけである。
「人の噂(うわさ)も七十五日」という。
これは、世間の評判や取沙汰は長くは続かないことを意味する。しかし「西郷派叩き」にあっては、75日はおろか、平成3年7月から数えて、もう“18年以上”も続いている。こうした“息の長い噂”になるのは、西郷派を叩けば叩くほど、叩いた方が“得をする構造”が出来上がっているからである。西郷派を引き合いに出し、それと比較して叩いた方が、何かと得をするからである。ここに「話題」としての“醜聞(スキャンダル)性”があると言える。
事実、醜聞(スキャンダル)を論(あげつ)らって、『合気ニュース』や、西龍一郎ならびに近藤勝之氏の道場は、西郷派を引き合いに出す事により、何らかの“利益”を得ている。これは明白な事実である。
しかし、“得”をした分だけ、そこには思わぬ“落し穴”もあるので、両氏は稼業の他に、「道場売上所得」の確定申告もしっかりとなされ、脱税だけはしないように、ご注意申し上げておく。
また、八幡大学合気柔術部の同伴事件に併(あわ)せて、爾来(じらい)、近年の『合気ニュース』はじめとする「西郷派叩き」で、私の家族の中に“精神分裂病患者”が出た事も、お忘れなく。これは立派な「精神的傷害事件」ですぞ。
だが、わが流がこうした人の動向に翻弄(ほんろう)されて、誤解を生じさせた責任は、大東流修気会当時の沖田氏や波多野氏に押し付けるものでもなく、また、『和合への道』を画策した元弟子たちに押し付けるものでもない。これは偏(ひとえ)に、私の「徳の無さ」から起った、必然的な現象であり、この責任の一切は総て私にある。その責任は、決して軽からぬものと思っている。
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