●『合気ニュース』に告ぐ
昨今のジャーナリズムは、報道精神のモラルが著しく低下している。また、好き嫌いが烈しく、固定観念や推測で記事を掲載し、一方論が罷(まか)り通っている。
更に付け加えるならば、『合気ニュース』ごときは、その最たるもので、掲載した一切の内容は、「西郷派叩き」に当たり、わが流の調査を一切することなく、一方的に、大東流合気武術東京支部長の近藤勝之氏の暴言をそのまま掲載しているからである。これにつき、「一方的である」ということは、同誌が中立・公正・公平を標榜(ひょうぼう)するジャーナリズムの仁義にも悖(もと)り、独断と偏見によって掲載している雑誌であるということを、自らが、明確に認めたということになるであろう。
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▲スタンレー・プラニン氏の名刺(1)
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▲スタンレー・プラニン氏の名刺(2)
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『合気ニュース』の編集長スタンレー・プラニン氏とは、以前に私と面識があり、もともと合気ニュース社を訪ねたのは、わが流進龍一師範を同行してのことだった。この時、同氏と約束をしたことは、昭和44年から48年にかけての四年間に、記録した8ミリフィルムをビデオに起こし、これを販売するという口約束だった。約束が口約束だっただけに、この約束は実行されず、今日に至っている。
私は、口約束であっても、約束は約束なので、というこので、四年間に収録した8ミリフィルムと、礼儀として手土産と思い、九州名物「博多明太子(はかた‐めんたいこ)」を送ったが、その後、一年経っても何の返事もなく、結局、明太子だけが食べられて、8ミリフィルムは放置されたままであった。プラニン氏の武道を愛好する同義的なものは、たったこれだけのことだったのだろうか。
これだけの行為で、同氏の品格が顕れているといえまいか。
そこで私は、進龍一師範に、「合気ニュースに行って、貴重な8ミリフィルムだけでも取り返して来い」と言ったところ、彼はさっそく同社に出向き、一年間放置された8ミリフィルムを取り返すとともに、「一年間放置した責任」を問い、プラニン氏は、進龍一の叱責にしぶしぶ応じたのか、これまで大東流合気武道や大東流幸道会での演武会の数々のビデオを提供し、このコピー・ビデオをせしめてきた。
また、これを進龍一師範が、即日コピーされ、平上氏らに配ったということであった。
このビデオの中には、演武会での失敗場面(武田時宗先生が演武中に「転けそうになる」などの多数のビデオならびに幸道会のビデオ)や、秘伝と称される場面(合気で固めて動けなくする)などが含まれていて、本来は極秘で扱わなければならないものだったらしい。これから察すれば、『合気ニュース』がどの程度の信憑性のある記事を載せ、他方を、一方的に悪であると決め付けて、あるいはインチキと決め付け、これでは偏見に満ちていることが分かろう。
また『合気ニュース』で報じられた、近藤勝之氏らの暴言も、実に偏っており、武田時宗先生がわが方を訪れた際、一緒に写真に映ったりしている写真を取り上げ、これは「何で大東流を名乗っているのか!」と文句を言いに行ったとしているが、何故、文句を言いに行った人間に、大東流柔術を教えたのか、これこそ逆に、近藤氏に質問をしたいところである。
既に、武田時宗先生より、4回の訪問を受け、また大東流合気武道方面指導部長の小松雅宮氏からも、2回訪問を受けている。そして、何(いず)れも大東流柔術の技を習い、これを修めている。したがって、近藤氏の言う、『大東流合気柔術』(合気ニュース発行)の書籍の中に述べられている「何で大東流を名乗っているのか、と文句を言いに行った」としているこのことは、全くのデタラメということになる。
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▲合気ニュース刊の『大東流合気柔術』には、近藤勝之氏曰(いわ)く、「何で大東流を名乗っているのか!」と時宗先生が文句を言いに行ったと書いてあるが、ビールで乾杯しているこの写真は、一体どう説明するのだろうか。
文句を言いに行って、他人の家に上がり込み、ビールで乾杯する人間が、果たしているだろうか。
聴くところによると、武田時宗先生は一滴もアルコールを口にしないという。その先生がビールで乾杯したというのは、一体何を意味するのであろうか。
また、その後も4度、わが方を訪れて、大東流柔術を武田時宗先生自らが直伝で教えているが、果たして文句を言いに行った相手に、技など教えるものだろうか。
これは明らかに「友好の印」と取る方が、自然であり、常識的な考え方であろう。
この「ビールで乾杯」について、『合気ニュース』と近藤勝之氏は、「何で大東流を名乗っているのか!」と文句を言いに行ったとしてるが、この時の時宗先生の行動を説明しなければならない。
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| ▲近藤勝之氏の言によると、この写真は時宗先生が、わが方に対し、「何で大東流を名乗っているのか!」と文句を言いに言った写真であるそうだ。 |
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こうした間違いを冒しているのは、『合気ニュース』が近藤勝之氏の言を鵜呑みにし、取材をせずに憶測で書いた記事自体を反省しなければならないであろう。
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| ▲このビデオ『大東流演武会』(平成3年3月26日演武/BAB出版)には、近藤勝之氏の弟子である、当時、二段の大学生が出演している。 |
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| ▲演武の術者と受けの拡大写真。(この“受け”と“取り”の約束演武はビデオの中にも登場している) |
また、平成3年3月23日に習志野市民会館で行われた、わが流の『大東流習志野演武会』に近藤勝之氏の門人である二段の大学生(当時)が、わが流の金澤龍司(かなざわ‐りゅうじ)師範と約束演武を遣(や)り、これに出演しているが、近藤氏はこれを、どう説明するのだろうか。
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その証拠に、武田時宗先生が私と進龍一師範とともに、乾杯をしている写真は、一体どう説明をつけるのであろうか。文句を言いに行った人間が、敵の陣地に、わざわざ上がりこみ、ビール片手に乾杯などするだろうか。常識で考えても、分かりそうなものである。
これこそ、紛(まぎ)れもなく「友好の印」であり、「文句を言いに行った」ということは真っ赤なウソである。また、私は武田時宗先生から、一度も文句を言われたことがなく、むしろ「よく似ている技同士ですから、大同団結しませんか」と薦められたくらいである。あるいは、わが方を取り込む為の、一種のポーズであったのだろうか。
しかし、『合気ニュース』の調査のいい加減さや誤報記事、近藤勝之氏の暴言、また近藤氏の『剣道日本』(【註】何で剣道雑誌まで使って、ここまで扱き下ろさなければならないのか、近藤氏の精神状態を疑うばかりである)を使っての西郷派への文章による攻撃、更には、かつて西郷派に籍を置いた西龍一郎の傲慢(ごうまん)記事がその後、誤解に誤解を呼び、名誉は失墜した次第だ。
昨今では、「インチキ西郷派」として定着し、電子辞書にも登場することになり、この中の一つ一つを丹念に調べ上げていくと、その殆どが謂(い)れのない敵愾心(てきがい‐しん)に満ち、「敵意を観じる内容」で報じられてあり、西龍一郎の近藤氏への資料提供は、結局、調査不足の事実無根でありながら、現代の事実無根の茶番劇を、そのまま「西郷派叩き」の槍玉に揚げ、これを放置している事である。
近藤氏は、あの手この手で、西郷派潰しに掛かっている事が分かる。
わが流が、西郷派の後に「大東流」と続けているのは、先代の山下先生が「わが流は“大東流”と言う」という言に遵(したが)ったまでで、故意に、似せて大東流を標榜(ひょうぼう)しているのではない。
また、わが流以外にも、『大東流○○会」を名乗っている流派は多くあり、こうした団体や研究会は、直接、大東流とは縁が無く、また武田時宗先生や、その他の師範の方々とも何の所縁(ゆかり)もなく、それで大東流を名乗っていても、文句を言わず、西郷派だけを目の敵(かたき)にして、叩いているのである。これこそ、片手落ちの最たるものではないか。
世は情報戦である。言いたい事を先に言って、吹き捲(ま)くった方が勝ちだ。マスコミを通じ誇大宣伝をし、逸早くジャーナリズムを凌駕(りょうが)した方が勝ちになるのである。
こうした槍玉に挙げらるれ感情の中には、明らかに「西郷派憎し」の激しい憤りが感じられる。また、真夜中に午前1時、2時に、「お前はインチキだ。死ね!」とか、「殺してやる!」などの電話が毎日のよう掛かってくる。これらの電話は総て敵愾心に満ちていた。
また、日に何回も、明らかに「西郷派憎し」と思える、ワン切り電話がかかってくる。これも『合気ニュース』の影響だろうと考えている。
そして、この電話に私が出るならともかく、家族も出る。今は自宅療養している家内も出れば、娘も出る。
普通の神経として、もし、このような悪戯と分かっている電話でも、受話器を取った途端に、「お前はインチキだ。死ね!」とか、「殺してやる!」など、電話口で罵(ののし)られたら、どうなるだろうか。これを承知の上での電話であれば、紛(まぎ)れもなく「犯罪」である。最初から、病人を葬る意図で故意にやっていると考えられる。
更に昨今の、わが流が出しているユーチューブの動画に入るコメントも、意図的な、悪辣(あくらつ)窮(きわ)まる、厭(いや)がらせとしか思えない“汚らしい罵倒コメント”が入っている。これも『合気ニュース』の影響だろう。
この点から考えても、ジャーナリズムとしての『合気ニュース』の責任は大きい。最近の悪戯電話も『合気ニュース』の影響だろう。
また家内は今では「2級身体障害者の精神分裂病」(【註】この病気の発端となったのは、八幡大学合気柔術部に造反をけしかけ、この企てを目論んだ西龍一郎と横田稔に責任の一端がある。もし、私が邪魔であるならば大掛かりな茶番劇はやらずに、「邪魔だから降りて欲しい」と、別の角度での方法もあったはずである)なのである。『合気ニュース』のお陰で、人間的にも廃人同様である。
こうした者が、深夜電話を掛けるモラルは、一体何処から来るものであろうか。
もし、この電話を大東流合気武道と名乗る門人の誰かが、毎日面白半分の厭(いや)がらせでこれをしているとなると、これこそ世間から、武道家としての人格を疑われるようになろう。くれぐれも、私は、大東流門人やその関係者が、こうした悪戯をしてないものと信じたい。
しかし、こうした電話が毎日・毎晩ある。夜中の2時や3時にも掛かってくるこの手の電話は、明らかに常識外れと言うより、「犯罪」であろう。誰が考えても分かることだ。また、もしそうだとすると、『合気ニュース』も、間接的に“犯罪に加担している”ことになる。
こうしたストーカー的犯罪に対し、NTTや警察に何度も足を運び、また、逆探知の申請を裁判所に申し出している。しかし、これが実行されたとして、この犯人の中に『合気ニュース』の“2ページ”にわたる社説記事(平成3年7月)を信じたり、「インチキ西郷派」のことを指導者から懇々(こんこん)と聞かされた、大東流合気武道の熱烈な信奉者(無責任な武術研究家も含まれる)が居て、もし、こうした者から、毎日「いたずら電話」が掛かってくるとしたら、この団体は一体何だったのか?というこのになる。世間からは眉をしかめられるだろう。
武術家とか、武道家とか名乗る連中の、“底”が見えた様な感じである。また、『合気ニュース』の読者も、この程度のレベルの購読者なのであろうか。
あるいは無関係であったとしても、電子辞書に、正面から堂々と、「西郷派はインチキだ」と述べ立てている制作論者は、何を根拠に、こう断言するのだろうか。果たしてわが方に、その真意を自分の目と耳で詳細に確かめたのだろうか。
これらの攻撃も、憶測から出ていることは疑いようもなく、『合気ニュース』の事実無根の社説が影響しているもののように思われる。
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▲機関雑誌『和合への道』(表)
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▲機関雑誌『和合への道』(裏)
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なお、『合気ニュース』の社説で叩かれ、以降、西郷派がインチキとして武道界に知られるようになったのは、わが流が、大東流修気会時代に発行した『和合への道』という、僅か16ページの機関雑誌に記載された“大東流の歴史”である。これについては、後ほど詳しく述べる。
●大東流は武田惣角の専売特許か
さて、「大東流」は誰が名付けた“流派”なのだろうか。
これは武田惣角でない事は確実である。
この事について、『史伝・西郷四郎』の著者・牧野登氏は、『武芸流派大事典』の「大東流」の項目の記載を、次のように述べている。
「大東流は合気道の源流である。その技法には、合気之術、合気柔術、柔術の三段階があった。これらはすべて、旧幕時代において会津日新館(藩校)の教科武芸であって、そのもとは太子流兵法、溝口派一刀流、柔術など藩内武術の極意を、藩政に基づいて総合化したもので、藩士五百石以上の上肢のみに指導した」とある。
更にそして、「大東流」と流名が付けられたのは、大日本武徳会が創立された明治31年(同書引用)のことで、柔術や剣道の全国組織であった武徳会は、当時、日本・中国・朝鮮の三国を総称して“大東圏”と呼んでいたのにちなみ、この総合武術を「三国一の優れた武術」として、「大東流」と定めたとしている。
また旧会津藩家老・西郷頼母(保科近悳)は字学の無かった武田惣角に「大東流」の流名の使用を許可し、惣角の為に形式(原本)を作成してやって、惣角が剣術ではなく、柔術で自立できるようにと、この流派の背景に「大東流は代々源家古伝の武芸として伝わり、新羅三郎義光の時代に至っては、一段と工夫を加え、女郎蜘蛛が獲物を雁字搦(がんじ‐がら)めにする方法や、戦死体の兵卒の死体を解剖して人体の骨格を研究した上で、これを合気柔術の極意にした」という伝説を付け加えたとしている。
これにより、「惣角は西郷頼母の言を墨守し、会津藩の名を辱(はずかし)めぬようにと、最初は大東流柔術本部長を名乗り、後年には大東流合気柔術総本部長を名乗って、生涯を通じて宗家とか、何代目とかは名乗った事がなかった」としている。
更に大東流は関口流柔術の末流にも、“大東流”があり、関口流九代目の関口柔心氏胤(うじたね)の流統にもこれがあり、更に大東流(関口流の末流)の系譜には半田弥太郎という人物がおり、この人物は明治32年5月に武徳会柔術試合審判規程作成の際、嘉納治五郎委員長のもとに、大東流を代表して、委員の10名のうちの1人だった。
なお、大日本武徳会(京都)の創設を多くの書物は「明治31年」としているが、正しくは明治28年4月17日の事である。
また『秘伝日本柔術』の著者・松田隆智氏は同書内の「大東流篇」で、「大東流が新羅三郎義光によって創始され、会津藩に秘密武術として伝えられた説」に疑問を投げ掛け、「大東流は会津藩末期に、“いずれかの人”によって各流派の極意や精随を寄せ集めて創始した武術ではないか」と推理している。
更に氏は、「西郷頼母によって伝承された技が、武田惣角の諸国武者修行とそこで体験した実戦を通じて、惣角自身が研究を積み重ね、頼母より伝承された技に創意工夫を重ね、今日の大東流が完成した」としている。
更にその説を裏付けるように、甲野善紀氏は『日本歴史人物事典』の「武田惣角」の項を次のように列記している。
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▲日本歴史人物事典(朝日新聞社/編)
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▲同人物事典の「武田惣角」の項。同氏は『合気ニュースの』の「大東流と武田惣角」から引用している。
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しかし、甲野氏の「大東流と武田惣角」の関係について、大東流の流名由来については全く明らかにしていない。ただ、武田惣角を大東流合気柔術の中興の祖に位置付けるに止まっている。大東流は誰が名付けたか、この点は明らかにされていない。
また、甲野氏が『日本歴史人物事典』の「武田惣角」の項で記述している「……同流は古流武術のうちで最も盛んである」は、此処に間違いは二つある。
その一つは、「大東流」は古流武術ではない。江戸末期に起ったもので、江戸中期以前には存在した形跡がなく、明治末期以降に他流の寄せ集めで創作された武術である。もう一つは、「最も盛ん」と言うのは、直接、大東流合気武道や大東流合気柔術とは関係のない、自称「武術研究家」と言われる連中が「大東流○○会」を名乗り、これが五月の竹の子のように、あちらこちらで隣立しているだけで、こうしたものまでもを含めて大東流と自称しているのであって、「最も盛ん」と言うのは適格でない。この背景には『合気ニュース』の影響があるものと思われる。
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| ▲『図解コーチ合気道』(鶴山晃瑞著/初版:昭和47年4月20日発行) |
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▲系図/大東流(同書190ページ。武田時宗先生が“第二十六代宗家”になっている。
「清和天皇の第六皇子・貞純親王起源説」「清和源氏の流統説」「新羅三郎源義光流祖説」「新羅三郎の『大東の館』説」などからすると、大分“宗家”の数が足りないが……。
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一方、『図解コーチ合気道』の著者・鶴山晃瑞氏の大東流系図には、武田時宗先生が“大東流26代宗家”として挙げ、誰から数えて26代なのか明確にしていない。
さて、大東流は総合武術であったと考えられる。単一の柔術や躰術ではなく、総合武術であった可能性が高い。これは大日本武徳会創設と無縁でないようだ。武徳会は明治28年4月17日に創設されて以来、当時の「大東圏構想」に基づき、西郷四郎の養父頼母によって命名された可能性が強い。
これが確かであれば、当時大陸問題に関わっていた四郎の思想が、何らかの形で投影されていたはずで、最終的な命名者は西郷頼母であり、実質的な発案者は大東圏構想から西郷四郎であったと言う可能性も出て来る。つまり、「大東流命名者」はこの父子の何れかであろう。
大東流の流名由来に必ず飛び出して来るのが、新羅三郎義光の「大東の館」である。この“館”の所在地は不明であるが、現在の滋賀県長浜市内に戦前は“坂田郡南郷里村”という郷名があり、この一帯に「大東」という字名が見られる。
更に明治期の司法大臣に“大東義徹”なる人物がおり、この人物は滋賀県犬上郡彦根町の出身で、姓は「おおひがし」と読む。彼は西郷隆盛と親しく、“西南の役”に薩摩軍に味方したところから、「近江西郷」と呼ばれた。
また西郷頼母が西南の役後、西郷隆盛の謀反に加担したと言う疑いで、都々古別神社の宮司を罷免させられたという事実を符合しても、「大東」という言葉は非常によう見深い内容を秘めている。
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| ▲『不二』大東塾・不二歌道会篇。同第三種郵便の書物にも「大いなる東(ひむがし)」という「大東」が出て来る。大東塾は影山正治先生が創設したものである。 |
一旦的には「大東」と言う文字が、昭和15年(1940)の大東亜共栄圏以来の、太平洋戦争期に日本が掲げたアジア支配正当化のためのスローガンで耳馴れしているが、これは遡れば、樽井藤吉の『大東合邦論』に帰着する。この思想の根本には、欧米勢力を排除して、日本を盟主とする満州・中国および東南アジア諸民族の共存共栄を説く、松岡洋右の「大東亜共栄圏」に結びつくものがあり、また、「三国一の優れた武術」としての「大東流」にも反映される。
『大東合邦論』は樽井藤吉の著書である。明治26年8月に刊行されたもので、この書籍は明治の識者の中で、かなりの反共を呼び起こしたものである。
この著書から樽井藤吉なる人物の人物像を描き出せば、『東亜先覚志士記伝』には、「樽井は明治17、8年頃から、東亜聯邦(とうあ‐れんぽう)の組織を唱へ、日本を盟主として東洋の諸国が結合し、その結成せる力を以て西力東漸(せいりょく‐とうぜん)の大勢(【註】西洋の力が次第に東方に進み移ること)に対抗しなければならぬといふ意見を持ってゐたのであつて、特に朝鮮問題及び支那問題に力を尽し、明治18年に“大東合邦論”を著はしたが、例の大井憲太郎(おおい‐けんたろう/政治家・社会運動家で、福岡豊前出身。民撰議院設立論争で尚早論を批判、自由党左派の指導者。1885年(明治18)大阪事件を起し入獄。1892年に東洋自由党を組織し、労働者保護や国権拡張を唱えた。1843〜1922)らの大阪事件に連座して下獄した際その原稿を紛失し、更に明治23年頃再び稿を起し、明治26年8月初めて之を発行した」とある。
既に述べたが、樽井の『大東合邦論』は識者の間では大きな反響を呼んでいた。出版から13年後の明治39年10月の朝鮮一進会の会長・李容九と内田良平の最初の会見で、李は「余の素志(そし)亦(ま)た丹芳氏(樽井藤吉のこと)の所謂(いわゆる)大東合邦に在(あ)り」と言わしめている。これが“日韓合邦”(【註】韓国併合とは異なるので注意)を作ったと言われている。
これらの政治的思想は、西郷四郎が講道館出奔後、彼が書き記したとされる「東洋諸国一致政策論」からも、“合邦(がっ‐ぽう)”からも明らかであり、「二つ以上の国家を合併する」この構想は、日本がアジア諸民族の団結を以て、欧米・露列強に対抗する“策”だったと考えられる。またこれは、樽井の『大東合邦論』に四郎が大いに共鳴したと考えられ、「大東流の流名由来」は此処に帰着するのではないか。
以上のことを整理して端的に述べれば、『大東合邦論』の刊行は明治26年8月初めで、大日本武徳会創立が明治28年4月17日であることから、西郷頼母(保科近悳)が武田惣角に「大東流合気柔術の奥儀を伝授したのが明治31年5月」と伝えられている事から、大東流の命名者は西郷頼母であり、その流名由来に何らかのイメージを齎したのが西郷四郎であったと考えられる。
したがって、武田惣角は、自らのこれまでの直心影流から「惣角流」と名乗っていた武技に、頼母から伝承した大東流を加えて、この時点で「大東流柔術」後に「大東流合気柔術」と名乗った事が分かる。
更に西郷頼母は、13歳の時、大和畝傍山(うねび‐やま)神武天皇陵に詣でて一詩を賦していることから、熱血的な勤皇家であったと推測でき、これを考えれば、「三国一の優れた武術」としての「大東流」は当然、独創的な武士道精神が浮上して来る。
わが「西郷派大東流」は、此処に帰着するのであり、武士道精神との合一投影を以て、この流派名を呼称する次第である。また、わが流の「大東」は『大いなる東(ひむがし)』であり、大東流合気武道の“大東”を無断拝借しているものでもない。
先代の山下先生が「わが流は“大東流”と謂(い)う」という言葉に、『大いなる東(ひむがし)』を象徴して、何が不足があろう。
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