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吾が修行時代を振り帰る 19


●千代ヶ崎教室撤退

 明林塾ゼミナール千代ヶ崎教室は大打撃を受けていた。それに伴い、塾の経営が急に困難になり、存続も危ぶまれ始めた。千代ヶ崎教室は、わが明林塾チェーンの中でも“ドル箱”だった。この地域では、多くの生徒を集めていた。それは家内の活躍が大きかったかも知れない。そうした中での異変であった。
 理不尽はある時、予告もなく急に襲って来たのである。打撃だけではなく、私の精神的ショックも大きかった。心の底より絶望感を味わった。

 学習塾を生業
(なりわい)としていた私は、これで糊口(ここう)の口が閉ざされたのを感じた。塾生の激減は、死活問題であった。これ以上、此処に腰を据えても、ライバル塾に手の裡(うち)を知られた以上、常に“揚げ足”を取られ、ことあるごとに策に嵌(は)まろう。敵は、したたかな策士である。
 もう、この時、私は千代ヶ崎より撤退
(てったい)する事を考え始めていた。道場も畳むしかないと考えていた。撤退も時間の問題であったのである。

 八幡大学合気柔術部と、そのOB達が目論んだ
“造反劇”は、結局、千代ヶ崎から撤退することで結着がついたようだ。
 この撤退について、彼等は直接的に問題を引き起こしたわけではないが、あれだけ大規模な造反劇を行えば、私自身とは直接関係のない家族においても、禍
(わざわい)として降り懸(か)かってくる事は避けられなかった。身から出た錆(さび)と思ってみても、やはり口惜しい限りである。それ以上に、家内は口惜しかったに違いない。

 要するに、西龍一郎と横田稔は、造反に当り、
“方法論が間違った”のである。徒党を組んで大袈裟(おおげさ)な芝居をしなくても、私は「お前は邪魔だから、降りて欲しい」といえば、素直に降りたのである。電話一本で済む事であった。仰々(ぎょうぎょう)しく、大袈裟にやる必要はなかった。

 もう、私はこの頃、道場には情熱がなくなっていて、集金力の悪さに辟易
(へきえき)し、それよりも、これまでの塾経営を拡大し、事業の拡大・展開を図っていたのである。
 また、八幡大学合気柔術部学生の
“喫煙に対するマナーの悪さ”など【註】上級生が下級生に強いる喫煙の際の、マッチ、ライターなどのさっと出して火を点(つ)ける動作は、健全な学生の行う好意でなく、ヤクザの行儀見習いのようなものであった。果たして学生がああした真似をするのは如何なものか。更に見苦しい「ガクラン」である。一体ああいう恰好(かっこう)に何の意味があるのか?まるでヤクザの真似ではないか。本業として学習塾をしている関係上、生徒達に与える精神衛生上の悪影響が懸念(けねん)された)を加えると、こちらも降りたいと考え、汐時(しおどき)の頃合いと思っていた。
 だから、電話一本で「降りて欲しい」といえば、この時、ごねずに簡単に降りたはずである。大東流などと言う、マイナーなものに魅力を失っていたからである。

 道場の入門者を集めても、一人3,000円では、広い面積と建坪を占める割りには、利益率が悪い。地方では、東京などの違って、人口も密集していないし、稽古日は多くが、学業や仕事が終ってからの夜の時間となる。そして、文化の低い田舎に行くほど、その地が“不毛の地”である事が明白になり、人間の質も意識も低くくなる。

 北九州市というこの街を端的に表現すれば、もともとは八幡製鉄があり、此処は職工の街であった。それに北九州小倉は日本で最初に競輪場が出来たところで、その他にも若松ボートや門司競輪もあった。少し行くと芦屋ボートや飯塚オートもある。周囲は博奕場だらけだ。職工の街で、公営ギャンブルも多く、至る所にパチンコ屋が犇
(ひしめ)いていた。これは街自体の文化程度の低さを物語るものである。
 駅周辺に行くと、サラ金会社が所狭しと隣立し、巨大看板で消費者を魅了し、かつ威圧している。

 この事は、この街の人間が、サラ金生活者である事を顕わしている。自分の給料の枠内で生活がする事が出来ず、不足分をサラ金で借りて、家や車のローンに当てたり、ちょっとした食事をするにもサラ金で借り、あるいはパチンコや公営ギャンブルの軍資金を、サラ金で調達するという人間が多いことを顕わしている。国内旅行や海外旅行まで、サラ金で借りて出かけて行く。要するに計画性がないのだ。

 この事は、私自身が平成13年に県知事から貸金業の認可を取り、実際に金貸を遣った経験から、以上の事が断言できるのである。

トキオ・プランニング。筆者は平成13年7月〜平成16年7月まで、福岡県知事の貸金業許可を得て、試験的な金融学を営んだ事がある。この時、社会学の一貫として、高利貸しに手を染める北九州の実態を調査した事があった。
 その結果、北九州は非常に文化が根付き難い都市である事が分かった。駅前にサラ金業者が隣立するのはその為である。

 またヤクザも多く、素人が玄人に混じって、“丁半博奕”や“手本引”などを生業にする博徒衆と交わり、これに手を出す気質(かたぎ)に人間も少なくなかった。当然家の中は火の車になり、自転車操業に陥ってしまう。
 私は黒崎商店街で、ヤクザの開帳する博奕に手を出し、挙げ句に店や土地を取られた商店主を何人か知っている。この程度の文化意識で、また金に切羽詰まった者が、とても武術や武道に目を向けるとは思われなかった。仮に目を向けたとしても、主体は柔剣道であり、徒手格闘技の空手や拳法であり、知名度の低い大東流では無理があった。

 また、こうした武術や武道は特殊なものだけに、同好の士が少数集まるだけで、学習塾のように万人向きでない。大半の興味を惹
(ひ)くわけはないのである。必然的に通う必要もないのである。その点、塾は違う。大半が通ってくれる、一種の登竜門のようなところがある。小・中・高校生ならば、必ず一度は通うところである。その上、利益率もいい。

 つまり道場とは、非常に利益率が悪く、また通ってくる人間の方にも些
(いささ)か問題があって、月謝は不払いであって、道場の先生は太っ腹で、大目に見てくれるという“甘え”があるのである。こうした甘えのある人間を相手にしても、これで喰って行くのは非常に難しいことである。甘えと礼儀知らずが横行する中で、自然と情熱が冷めて行くのは当然であろう。
 それに参加者が多いように見えても、例えば尚道館では、八幡大学合気柔術部のような、月謝売上に協力しない学生が参加していれば、賃貸料の支払いも困窮する状態になり、道場は、低料金で礼儀知らずに奉仕する“道楽”ということになる。

 それよりも、塾経営の方は遥
(はる)かに利益率がよかった。平均一人1万円として、20人クラスを一学年に、一日に3回転させれば60人で、これが仮に中学1年生から3年生まで居たとして、180万円であり、それに小学校高学年と、高校生補習組と、受験組を併(あわ)せれば、売上が軽く250万円程度になる。但し、机上の計算であるが。
 この時代、塾の過熱競走はエスカレートしていたから、生徒の募集は容易であり、ただ“評判”と“実績”を落さなければ、思うように生徒は集まったものである。

大学受験クラスの授業風景。

 しかし、塾にも欠点があった。それは評判と実績という点においてである。これを維持し続ける事は難しい。やはり塾経営にも、火の玉のような、熱い情熱が要るのである。そして、過熱は大声を張り上げて、生徒と親を叱咤激励(しった‐げきてい)しなければならないのである。

 また何よりも、評判であり、実績である。実績に於ては、努力した事は一切認められず、結果が総てだった。塾講師が、幾ら大声を張り上げて、自分の授業に酔うようないい授業をしたところで、生徒の成績が上がらなければ意味がないし、志望校に合格してこそ、これまでの努力が評価される。総ては結果だった。努力の後は評価されないのである。

 この維持は非常に難しかった。それに、質の悪い生徒は試験をして弾き出すという、一種の、“あそこに入る為には、ある程度の学力が要
(い)る”というステータスが、通ってくる生徒の優越感をくすぐり、この優越感を生徒に与えてやる事のできない塾は潰れていくしかなかった。

 一時、「赤ちゃんを背負った女の先生」で、特異なスタイルで女子生徒から評判をとっていた家内も、精神病に嘖
(さい)なされていては、何処にも立つ瀬がなかった。それに、やり手の競争相手が出て来て、然(しか)もこの経営者は中々の策士であった。私は、この策士に、完全に絡め取られた観があった。知謀に負けた観があった。もう、こうなれば撤退する以外なかった。
 その上、八幡大学合気柔術部の造反事件と、家内の発狂が重なっては、塾の競走合戦に、敗者復活を賭
(か)けて努力奮闘する事は、かなり難しい問題であった。私の上に、二重苦、三重苦の苦渋が伸(の)し掛かった。

 しかし、生徒が激減したからと言って、好きな時期に、いつでも撤退するという訳には行かなかった。いやしくも街の教育者の端
(はし)くれであり、受験を目近(まじか)に控えた生徒の面倒は、受験の終るその日まで、責任を持たねばならなかった。それで、来年の3月までは閉校しないということで、赤字覚悟で頑張り通す覚悟を決めた。明らかに負け戦であった。
 だが、負けるを分かっていても、踏み止まり、「戦い尽くして潰える」という実感も、その側面には必要で、それなりの“男の哀愁”が漂っていると感じたのである。私は、千代ヶ崎で、出来るだけ頑張り通し、負け戦を戦っても悔
(く)いはないと言う最後を送りたかった。


 ─────千代ヶ崎から撤退を決めて、その残り期間中にも、小松氏はわが方を2回訪ねて来られた。この時も同氏より、大東流柔術の技を、合計20手ほど教わったことがあった。
 こちらが教えてくれと言わないでも、自分から「一緒に少し稽古をしませんか」という誘い掛けで、稽古を誘われた事がある。

 塾は、日曜日だけ午後からは休みになるので、私の稽古時間はこの時間帯だけであり、私にとっては唯一の稽古時間であった。
 ある日の日曜日の午後、小松氏が訪ねて来た。前もって電話を受けていたので、小松氏が午後、わが方を訪ねてくる事は分かっていた。

 更衣室に案内し、そこで着替えてもらって、稽古衣に着替え、大東流合気武道で言う“手解き”を幾つか習い、わが方との違いを比較して、頭の中で整理してみた。それは繰り返しても、やはり“違う”と言うものであった。
 稽古が終り、お茶を進め一服してもらったのであるが、小松氏はベビー・スモーカーであるらしく、更衣室で煙草
(たばこ)を吸う有様だった。

 私が思わず更衣室のドアを開けて中に入ったとき、小松氏は煙草を吸っていたのを見れられたのが、少し気まずかったのか、「自分はこのような事
(大東流の事を指す)を修行していて、いまだに煙草が止められないのですよ」と言い訳のような事を言った。
 その後も、やって来て、合計2回の来館だった。そして最後に念を押して断言したのが、「先生のところの技は、明らかに大東流ですよ」という事だった。私は果たして、そうだろうかと思う。これは恐らく、大東流合気武道への誘いであったと思っている。

  そして氏からは、度々、武田時宗先生が強調された「大同団結」のお誘いを受け、それを手紙で促したのである。
 その時、氏から受け取った手紙の宛名は、「大東流尚道館」であった。小松氏自身が、「大東流尚道館」という宛名が書かれた封筒が、わが方に届いたのである。小松氏が、わが方を「大東流」と称したのは、わが流の儀法
(ぎほう)が、大東流合気武道に似ているから“大東流”と称したのか、あるいは大同団結の同志として、わが流を大東流合気武道の一員に加えたのも同然ということから、「大東流尚道館」と書いたのか、その真意を分析すれば複雑である。
 いま振り返ってみて考えると、軍門に下るよう促した形跡が確かにあるようだ。

 今となってはその真意は分からないが、ただ、武田時宗先生も、わが流の門人の稽古を遣
(や)っているのを見て、「西郷派は大東流と同じですね」といわれたことがあった。わが流の「極めの厳しい固業(かため‐わざ)」は、武田先生が絶賛され、「合気道より、よっぽど増しですよ」【註】どのレベルの合気道団体を指すのか分からないが、この点を誤解なきように。合気会にも素晴らしいものがあり、これを侮る事はできない。また凄い技を持っている人がいる)と言われたことがあった。

竹内海四郎氏よりの平成20年の年賀状 (表)
竹内海四郎氏よりの平成20年の年賀状 (裏)

 また、私の知人である、著名な武道評論家の竹内海四郎(たけうち‐かいしろう)氏からも、「西郷派の固業は本物だから是非取材するように」と、『合気ニュース』のスタンレー・プラニン氏に申し入れたというが、未だに取材する動きは全くなく、同氏は、「これでは片手落ちではないか」と嘆いておられた。

今堀信明氏よりの平成20年の年賀状(表)
今堀信明氏よりの平成20年の年賀状(裏)

 更に、実用書などでお馴染みの愛隆堂の社長・今堀信明氏は「スタンレーが西郷派大東流の社説であんな記事かくものだから、大東流の本が売れなくなって困っている」といい、その後、合気ニュースのスタンレー・プラニン氏に抗議の電話を入れていた。

極真会館滋賀支部長・河西泰宏師範の平成20年の年賀状(表) 極真会館滋賀支部長・河西泰宏師範の平成20年の年賀状(裏)

 そして、極真会館の滋賀支部長である河西泰宏師範は、私が滋賀県大津市に在住の頃、同県草津市から西郷派大東流の個人教伝を受けに、私の道場(玄武館)に約4年間通って来た門人である。
 私の子供の下二人が小学校で「気狂いの子」といわれて虐
(いじ)められていることを知ると、「私が先生のお子さんを預かりましょう」といって、二人とも小学校の6年間、極真空手を6年間やって、河西師範には大変お世話になった間柄である。


 ─────小松氏からは昭和61年、大阪で開催する琢磨会の演武会に是非来て頂きたいという熱心なお誘いの手紙を頂き、これに臨席した。演武会会場では、筆者は審査員席に座らされ、8ミリカメラで、一切の演武を撮影してよいことの許可を頂き、これを8ミリフィルムに総て収録した。

 また、その中で一番興味深かったことは、小松氏の演ずる、直心影流
(じき‐しんかげ‐りゅう)の表の型と、「自分の腰に六人の人間を巻き付かせ、がっちりと腰を取らせておいて、一気に叩き潰す技」であった。そして、この技のことを質問したところ、別段に隠すわけもなく、この技の種明かしを惜しげもなくやってくれて、私はこれがよく理解できた。実に「コロンブスの卵」であった。

 この「六人捕り」の種明かしをすると、小松氏に許可を得て収録した8ミリフィルムを繰り返し見て検討して解った事だが、小松氏は、腰の取り付いた受けの連中を一気に潰してしまうのではなく、腰に取り付いた円の中心に自分が居て、自分が一種の「台風の目」のような体勢を作り、それを起点として、右に回り、あるいは左に回り、腰に取り付いた連中の「組み付き体勢」が弱ったところを狙って、円の中心に居て、周囲から悟られないようにし、この汐時
(しおどき)に自身が脚胡坐(あし‐あぐら)をその中で組み、その重力の働きと、自らの体重の重みを利用して、取り付いた敵を潰すというものであった。
 同氏はこの時、武田時宗先生の名代として、同演武会を仕切っていた。

 しかし、取り付いた敵が中肉中背の、一般的な中庸体型の「自らの弟子」でなく、毎日驚異的な稽古を積む、大相撲の力士やプロレスラーだったら、これは一体どうなっていただろうか。
 私には、この点が大いに疑問に残るところであった。

 この琢磨会の関西演武会は、最後の琢磨会会長である森氏の、一般的な演武により、一応は盛会に終わったようだった。その後、小松氏は盛会に終わってことに満足し、合気道からの来賓者に対しても、愛想のよい会話を交わし、大同団結により大東流合気武道に与
(くみ)するように盛んに勧めていた。

 私は、小松氏に最後の質問をぶつけ、片手両手持ちから揚げる「合気揚げ」のことについて「大東流合気武道ではどうやるか」と、訊
(たず)ねてみた。西郷派とは異なる見解を示すと考えたからだ。恐らく私の教わったものとは違う方法だろう、と思った。
 そして小松氏は、これを快く承諾し、それを私の目の前で実演して見せるということだった。

 この実演について小松氏は、片手両手持ちから、合気揚げを教えるということで、私に片手を両手で取らせ、「必死で、力いっぱい握って下さい」というので、その言葉通り、ぐッと必死に握ったが、同氏は手の指先をパンと張り、螺旋状
らせん‐じょう)に巻き上げるように挙げようとした。
 しかし、残念ながら押さえ込まれたままで挙げることが出来なかった。周りには人が見ていた。この周囲の中には、北九州市八幡西区黒崎で合気道の道場をやっている黒石某もいた。黒石某は、これを「ちっとも揚
(あ)がらないではないか」と疑いの眼で見ていたのが、何とも印象的だった。

 もう一度ということで、今度は小松氏に恥をかかせてはなるまいということで、二回目は挙げられることで、一応面目だけは保てる場をつくってやった。しかし、私の習った「合気揚げ」とは異なっていた。別物のであった。
 別れ際に、合気揚げの修行法を示したビデオがあるが、そのテープはβ形式で録画されているので、VHS方式に変換して、送ると言う事であったが、今になってもビデオは届かない。そして、「合気揚げは、私
(小松氏のこと)のように神道の修行をしてないと出来ないのですよ」と念を押した。

 神道の修行と、合気揚げができるか否かの有無は、決して否定するものではないが、修行法は同じであっても、技術的には直接的でないように思えた。あるいは「神道の行法の“たまふり”など」を指すのか。

 しかし、躰動法
(たいどう‐ほう)による、激しい「うねり」が感じられなかったからである。合気揚げが出来る人は、相手に握らせた腕でも、手頸(てくび)でも、肩でも、あるいは衣服の上からでも、握った瞬間に、激しい「うねり」が伝わるものだ。この「うねり」が、一切感じられなかったのである。
 あるいは、周囲の人を憚
(はばか)って、わざとこれを見せないようにしたのか。その真意は今以て分からない。

 また、同氏は尚道館の千代ヶ崎時代、2度来館したことがあったが、この時のことをもう少し補足すれば、次のような事であった。
 大東流柔術を教えてもらうにあたり、「力いっぱい、拳で腹を突いてきて下さい」とか、「蹴って下さい」というので、本当に力いっぱい突いたり、蹴ったら、腹に何度も当たり、捌き切れなかったことを覚えている。そして同氏曰
(いわ)く、「練習で幾ら当たったとしても問題ではありません。問題なのは、実戦で当たらなければよいのです」ということだった。
 しかし、あの意図も簡単に当てられてしまう、練習での当たり方は、今でも「あれは何だったのか?」と疑問に思う次第である。果たして、わざと隠していたのだろうか。そのことも拭い切れない。

 更に同氏は、日本刀に大変興味を持っておられるらしく、私は尚道館とともに学習塾を経営し、また、古物商として大東美術刀剣店も経営していたので、同氏から陳列に並ぶ、「刀を拝見できませんか」と言われて、日本刀を納める耐火金庫の中を開けて、何振りかお見せしたことがあった。
 そして、その後、試し斬りの話に移り、同氏は自分の太股くらいある孟宗竹
(もうそう‐ちく)を京都の山の中で、連続で何本も斬った自慢話をされ、その時は、唯(ただ)恐れ入って聞き入るばかりだった。【註】同氏に関する話は他にも沢山あり、知人の著名な武術評論家の平上信行氏から聞いた話などがあるが、同氏の私事のことでもあり、名誉を失墜されると考えるので、ここでは公開しない。なお平上氏は、わが流の進龍一師範から、かつて東京新宿御苑で、西郷派の業(わざ)を何手か教わった一人である。平上氏が「大東流神氣会」を自称するのはこの為か)

 日本刀について、私は若いときから日本刀を鑑定し、目利きの修行をしていたので、その扱いは熟練していたが、正直な話をいって、武田時宗先生は、あまり本当は刀の目利きについては詳しくなく、真剣の扱い方も、そんなに上手ではなかったようだ。

 以上こうした事からも分かるように、近年だけでも、西郷派と大東流の接触は多く、仮に西郷派の業
(わざ)が大東流を真似したといっても、それはやはり大東流であり、西郷派がインチキとなれば、「大東流柔術百十八箇条」も、またインチキとなりはしないか。これこそ単純な道理であろう。
 何故ならば私も、同じものを時宗先生と小松氏を通じて数十手以上も習ったからである。



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