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吾が修行時代を振り帰る 18


●家内の発狂

 造反時、西龍一郎と随行した小松雅宮氏
【註】小松氏の身元を確認する為に、果たして国学院大学の講師なのか、それを確かめる為、平上信行氏は国学院大学人事課に電話で問い合わせたところ、小松なる講師や、その他の教授陣は存在しないという事だった)は、兵庫県神戸市灘区在住で、名刺には「大東流合気武道・方面指導部長」とあり、自ら「国学院大学講師」と名乗った。
 特に氏は、自分が“国学院大学講師である”ことを強調された。

 尚道館玄関では、OB会長の横田稔が、脱藩連判状を思わせる、古風な巻物風の紙に正書して認めた文を高らかに読み上げ、これを絶縁状にて、私に叩き付けた。
「造反!」である。仕組んだのである。私はこの計略に敗れたのだった。
 この敗北は私だけでなく、家内も大きな痛手であったであろう。そして何よりも屈辱的であったのは、徒党を組んで押し掛け、私を八幡大学合気柔術部師範の座から蹴落としたことである。それに西龍一郎が、とって代わるという筋書きであった。

 家内も八幡大学から学生が来ると、いろいろと世話を焼いていた。彼等は便所も使用するし、手洗い場も使用する。またその為に、事前に清掃もしなければならない。大勢が入れ代わり立ち代わりで、汚すので大変だった。
 彼等は、「わざわざ来てやっているのだ」と思っていたかも知れないが、何も“集団で来てくれ”とは頼んだ憶
(おぼ)えは一度もない。しかし、来(く)れば来(き)たで、それでけ迷惑を掛けている事になる。自分達が世話になっている事を全く知らないのだ。世間と言うものに疎かった。自分が世話になっている気持ちが薄かったのだろ。

 造反をした日、彼等と倶
(とも)にやって来た小松氏が、「往来ではみっともないので、道場の中に入れてくれたらどうですか」と切り出した。私はこの言葉に遵(したが)い、仕方なく全員を道場の中に入れた。しかし、この言葉は“お門違い”のようにも思えた。

 何故ならば、造反した人間を、何故このように優遇しなければならないのかという疑問である。既婚者で云えば、離縁状を叩き付けられたようなものである。この場合、叩き付けた者の意志を尊重する為には、むしろ表で対応し、何も懐
(ふところ)に入れて優遇する必要はない。この時、冷たく“あしらう”のが礼儀であろう。表で叩き帰す事こそ、この場合の礼儀と云うものだろう。氏の「中に入れろ」とは筋違いである。

 しかし、“離縁状”を叩き付けた彼等は遠慮なしに上がり込んで来た。全く、礼儀知らずだった。徒党を組んで、これだけの事をしたのであるから、元の古巣に上がり込む資格はない。
 その時、私は「これは明らかに造反である」というようなことを言った憶
(おぼ)えがある。この言葉に対し、小松氏は「造反されるようなことをしたのは、あなたではないか!」と烈しくやり返した。

 「はて?」と思う。
 私は彼等に、造反するような搾取
(さくしゅ)や、奴隸のように酷使した憶(おぼ)えはない。しかし、かつて海の家で飾り付けなどのアルバイトや、ミニコミ紙の宅配を頼んだことはある。手間賃が安かったかも知れないが、“安い”という理由で、造反するとは筋違いも甚だしいではないか。しかし、本当はこうしたところにあるのではなかろう。もつと根深く、陰謀を含ませるようなところに、造反劇の真意があるのだろう。

 要するに、最初から計画は立てられていて、この造反計画は筋書き通り運ばれ、“八幡大学合気柔術部”が最初から手土産として用意されていたのである。この白々しいシナリオを知って、家内は激怒したのである。「さんざん今まで世話になっておきながら……」と口惜しそうに叫んだ。
 彼等の理不尽を呪ったのである。またそれだけ、この呪いに気付かなかったのも、徒党を組んだ計画に水の漏れるようなミスが生じていたと言える。

昭和53年11月5日に発行された「日本尚道会時代」の『武術宝典』と題した冊子。
 これを見て小松氏曰
(いわ)く、「大東流は、こんなものではない!」と散々貶(けな)された。
 また、調査不足で違いも多かった。その為に「間違いがある」と訂正の紙片が添えられていた。既に絶版になっている冊子である。こうした間違いだらけの物を取り上げ、「こんなものではない」とは如何なる理由からか。

 この日の夕方、八幡大学合気柔術部の監督をしている高塚弘巳(たかつか‐ひろみ)が、謝りに来た。
 「みんなの造反を止めようとしたのですが、私の力が及ばず、“西の計画”を阻止する事が出来ませんでした。申し訳ありません」
 彼は
、この造反を阻止できなかった事を謝罪した。高塚の言葉から、西と横田の仕組んだ“造反”は明らかとなった。

元八幡大学合気柔術部監督の高塚弘巳。向かって左から順に、当時の門人、著者、当時の門人、高塚弘巳、八幡大学合気柔術部4年の金子某。当時、八幡大学合気柔術部の部員並びにOBは、やたら喫煙者が多かった。黒崎体育館での大会後に設けた酒席で。(昭和53年10月28日)

 高塚弘巳は、西龍一郎と同年に入学し、同年に卒業した八幡大学出身者である。卒業後、私が彼を監督に任命した。もともと八幡大学合気柔術部は、高塚が中心になって作り上げた同好会で、この音頭取りを高塚が遣(や)ったのである。
 高塚弘巳は、私が指導していた八幡東区大蔵にあった「大蔵道場」の道場生で、八幡大学では一学年次、少林寺拳法部に入っていて、それ以外に夕方、私が指導する大蔵道場に西郷派大東流
(当時は「大東流修気会合気柔術」を名乗っていた)を習いに来ていた。そして彼が大学二年時に、八幡大学に同好会を作るよう指導したのである。

高塚弘巳の3級の申請書。

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西龍一郎の6級の申請書。

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 高塚の入門が昭和46年4月頃で、西の入門が47年10月以降の事であったと記憶する。上記の級位申請書は提出日が記載されていないが、両名はほぼ同じ頃にこれを提出していると思われる。入門差も1年以上あり、また級位も3級と6級で、色帯と白帯の開きがある。  

 西はこの時には、まだ入部しておらず、その時の初代主将は高塚弘巳であった。西が入部して来たのは、その年の後期以降であり、入部後、西は高塚が主将である事を不満に思っていた。
 西には、「主将は高塚ではなく、自分でなければならない」というような事を言い出したのである。そして、この当時の同好会は二つに分裂し、“高塚派”と“西派”に分かれた。この分裂騒動は暫
(しばら)く続いたが、結局、わが道場の吉田司よしだ‐つかさ/わが流の師範資格を持ち、陸上自衛官で小倉北方駐屯地に勤務)が仲裁に入って高塚を説得し、一応高塚が折れて、西に主将の座を譲る事になったのである。西が主将になり、高塚は総務長か、渉外長か、一等下の何かで納まったようだった。自分が作ったクラブ活動で、分けもなく格下げされてしまったのである。
 この点、今思い返せば、高塚の方が随分と大人であった。

師範免許を許された吉田司(つかさ)師範と、八幡東区中央町の合気武道館道場前で。(昭和50年当時) 門人に稽古をつける著者。受けは、当時、師範代で合気道出身の二宮某。(昭和50年当時の中央町時代)

 この時、私は高塚が折れた心の裡(うち)を察して、西に「初代主将は高塚なのだから、お前は“二代主将”になったらどうか」と云ったが、これを聞き入れず、高塚を蹴り落した形で自分が“初代主将”になった。高塚は、過去に自分が主将であったことが打ち消され、西により、完全に抹殺されてしまったのである。それ以降の学生達は、かつて高塚が主将であったことを知らないのである。
 これだけで西が、常に人の上に立って、「長」にならなければ気が納まらない人間である事が分かるであろう。要するに、自己顕示欲が強いのである。

 高塚は、西をこのように分析していた。
 「あいつは何事にも、自分が一番上に立たないと気が済まない奴ですよ。他人を自分より下に見下す性格の持ち主で、他人を蹴り落してでも、上に立ちたがる傲慢
(ごうまん)な奴ですよ」
 この分析は確かにその通りであった。

 現に西は熊本県土地家屋調査士会の“会長”でもあるし、大東流合気武道では“九州総支部長”でもある。この事からも、西の自己顕示欲の強さは窺
(うかが)われよう。「長」の座に固執する人間なのである。

 企てられた“造反劇”を分析すれば、次のようになる。また、この造反劇を、果たして企てねばならなかった理由は何処にあるのか、それも併
(あわ)せて分析してみた。

造反の企ては、西龍一郎(熊本県)と横田稔(香川県)によって計画的に行われた。また、この儀式のシナリオが最初から最後まで出来上がっていた。
造反の目的は、八幡大学合気柔術部師範の筆者を引き摺(ず)り下ろすことであった。
筆者を引き摺り下ろす際、「劇的なもの」でなければならなかった。西の自己顕示欲が、そうさせたのであろう。
劇的なものに仕立て上げる為には、『連盟脱退状』や、その朗読が必要であった。これを横田が事前に用意していた。
また、筆者に決定的なダメージを与える為には、電話で一報などの生温(なまぬる)いことではなく、直訴面談により、連盟脱退状を直接著者に手渡さなければならなかった。儀式の形式である。
万一の場合(荒れることも想像していたのであろう)に、小松雅宮氏を同行し、合気柔術部学生ならびにOBも、ほぼ全員引き連れていた。これは一種の、筆者への意図的な威圧であろう。

 以上により、“連盟脱退”という行為が茶番として完了すると倶(とも)に、私にある程度の衝撃と痛手を与えることが出来たと思ったようだ。また、以上の目的をもって造反事件が起った。しかし、彼等は私の家族に対し、計算外のミスを冒(おか)した。
 いま思い返しても、彼等が“徒党を組んで”という大袈裟な行為が、決して正しいとは思えないからである。

 それはこの日から、家内の行動に訝
(おか)しな現象をとり始めたことだ。私にダメージを与えることは、同時に人生の良き伴侶である家内へのダメージでもあった。そこに私は、ある種の胸騒ぎがその直後に起った。“発狂したのでは?”と。

 そのダメージを克明に顕わす現象は、次のようなものだった。
 それは、1歳を少し過ぎたばかりの娘にボタンを、飴玉代わりに舐
(な)めさせていることだった。最初は母子で楽しく遊んでいるのかと思ったのだが、よく見るとそうではなかった。娘がそれを舐めて口に含んでいるのである。明らかにお菓子などではなく、洋服に縫い付ける大きめのボタンであった。呑み込んだら大変である。これは心因性疾患【註】精神分裂の心因反応(psychogene Reaktion)の事で、欲求不満や葛藤(かっとう)などの心理的かつ精神的原因によって起る精神障害で、神経症および心因性精神病を含む疾患を指す)から起る異常現象である。

 私は、驚いてこれを取り上げ、「何てことするんだ!」と怒鳴った記憶がある。既に、家内はこの時を境に、精神分裂症の初期の兆候が起ったのかも知れない。眼が、これまでとは、確かに違っていたのである。それは紛
(まぎれ)れもなく、眼に力の無い、狂人の眼だった。

 精神病には、精神機能の障害のうち、主として内因性および器質性のもので、殊
(とく)に精神分裂病と躁鬱病(そううつ‐びょう)を二大精神病という。その中でも、精神分裂病は、特に恐ろしい病気である。完治が難しい病気であるからだ。
 この病気に罹
(かか)ると、殆どが完治せずに死んで行く。一時的に良好な状態が続いても、それは朝昼晩の三回飲み続け、この薬は精神科医がブレンドした薬剤を投与して“当った”場合の話である。
 多くは、精神科医の検
(み)たてで異なり、精神分裂病患者は十人十色というか、仮に1万人いて、1万人全てが1万種の“投薬の組み合せ”があるのである。

 精神科医も専門医師として、訓練された専門家であるが、その専門家にして、この“投薬の組み合せ”を完璧にあわせる事は不可能に近い。この実情を、私自身も精神科医並みに勉強し、研究したのである。

 患者の多くは、まず精神科医師の今までの経験と直感によって、“投薬の組み合せ”が決定される。そして最初は、“強めの薬”で結果を見て、これを徐々に弱め、適合する投薬を探して行くのである。その為に、患者は投薬の影響により、口の周りが白くなり、粉
(こな)を吹いたようになる。そして喋る言葉も、舌が縺(もつ)れて、呂律(ろれつ)が廻らなくなって、何を喋っているか分からないくらいである。

 これは投薬の強さが原因していて、患者はそれだけ苦しむ大きさが、巨大化する。この強い薬で初めは慣らしておいて、この段階から投薬を模索するのであるが、これが中々的中しない。その間患者の苦しみは長くなる。患者が、良心的な医師と巡り会い、投薬を続けながら恢復
(かいふく)へ向かう道を模索するには、一人の医者だけで解決する事はない。精神病院を転々とし、全国を放浪しなければならなくなる。放浪の果てに、遂に悪化して、入院も断られ、自宅療養として、家に帰される場合もある。この場合は、老衰と精神病の抱き合わせで死んで行く。

 歳を取った精神病患者は哀れである。普通の介護を必要とする高齢者とは違うからだ。眼も、耳も駄目になり、垂れ流しになる状態は同じであっても、正常な老人と違うことは、苦痛に嘖
(さいな)まされる度合いが異なり、一般の願わしい状態とは、かなり懸け離れるからだ。二重、三重の苦しみを背負うのである。

 ちなみに精神病院に入院すると、老若男女を問わず平均36万円で、これに合併症などがあると、軽く50万円を超す。これだけでも患者の家族は経済的に困窮するのである。この病気は、病気自体も恐ろしいが、経済的にもその負担が大きく、家族は金銭の遣繰
(やり‐く)りに疲れ果て、棲(す)んでいる近所の人からも白い眼で見られ、経済的かつ精神的に“ドン底”に叩き落されるのである。
 また、「世間」という“目”は、偏見も強く、“世間様の目”が精神病患者の家を、まるで“汚らしいゴミ”でも見るように蔑
(さげす)み、ろくに口も聴いてくれないというのが実情である。

 さて、この病気は、多くは青年期に発病し、妄想や幻覚などの症状を呈し、しばしば慢性に経過して、人格の特有な変化を来す内因的精神病である。人格の自律性が障害され、周囲との自然な交流ができなくなるのである。
 現在、精神科学で確認されているのは大きく大別して、破瓜型、緊張型、妄想型などがあり、昔は「早発性痴呆」と呼ばれたものであった。こうした患者は、半強制的に、精神病院に隔離されたものである。

 私は、娘にボタンを、飴玉代わりに舐
(な)めさせていた、あの光景を見た日から、一つの不安が取り憑(つ)いて廻った。「家内が発狂したのではないか?」と思い始めたからである。これが一抹(いちまつ)の不安となった。
 書店で、精神分裂病の本を何冊か買って来て、これを貪
(むさぼ)り読んだ。そして、内因性の要因で、潜在したものが、急激に起る衝撃などで、ある日突然吹き上げ、これが起因して人格の自律性が失われ、精神分裂病に至るプロセスに突入して行く、と書かれていた。

 読んでいて、一種独特の恐ろしさを感じた。
 私には、造反劇が起ったあの日から、家内がこの日を起点に、人格が急変した。そして極度な、耐えきれない衝撃を受け、人格の自律性が破壊されたのだと思った。この衝撃を受けた日、確かに家内は人格を喪失したようである。
 それに気付くと、私の気持ちは暗く沈み、前途に暗い暗雲が懸
(か)かった事を認識せずにはいられなかった。実際に、とんでもない事になったと思った。これを、造反劇から、日をおいて悟ったのである。これも一つの理不尽なのか。何と惨(むご)い、と思う。

 しかし、暫
(しばら)く経って、家内の様子は正常に戻っているように思われた。眼に力が戻って来たのである。また、娘を背負って教壇に立ち始めたからである。これでよくなるのではと、そんな期待が脳裡(のうり)を過(よぎ)った。この時の状態をそう判断し、暫く放置したまま、余り、気に止めないようになっていたのである。

 ところが、これが甘かった。
 これは精神分裂状態の一進一退を繰り返す、躁
(そう)と鬱(うつ)が顕われる周期に当っただけのことであり、決して良好に向かっていると言うものではなかった。私はこの状態を見逃して、錯覚していたのである。余りにも多い、仕事の量に忙殺され、実は家内の様子を詳しく観察する暇がなかったのである。
 また、家内を信じるしかないので、多忙の中、それ以外方法はなかった。朝早く“自宅”兼“道場”兼“学習塾”を離れ、小倉の本部校舎に向かわなければならなかった。

 私はこの時、小倉北区馬借町に、七階建のビル内に本部校舎を構えてた。銀行からの大借金で、スリー・フロアを借りたものである。毎日そこに通って行かなければならないのである。
 この本部校舎には大検予備校をはじめ、大検合格者や大学浪人生を集めた大学受験クラスがあり、その他、小・中・高校生のクラスがあり、この時の経営としては、まだ小規模なものであった。

千代ヶ崎時代の尚道館。

道場内の稽古風景。
明林塾ゼミナール玄関。

教室内。
事務室(1)
事務室(2)

 当然家内は、“自宅”兼“道場”兼“学習塾”を離れず、ここで他の講師の指揮を採るようになっていた。千代ヶ崎地区には、産業医科大学があり、ここの医学部生が、講師の半分を占めていた。彼等を時間配分して指揮するのは、家内の役目であった。果たして、私の留守中に、巧く采配(さいはい)を振っているのであろうか。

 頭の片隅に、一抹
(いちまつ)の不安はなかった分けではなかったが、それでも私は主力である、本部校舎へと向かわねばならなかった。そして出来るだけ、家内に負担を掛けさせない為に、娘を私が預かる事にした。自転車の乗せて、千代ヶ崎から小倉の馬借町まで、毎日通ったのである。

本部校舎(向学館文化センター内)

 最初は本部校舎に勤める女子事務員が、自分の車で、善意で娘の運搬してくれていたが、これも小倉からの往復と言う事で、女子事務員に負担が懸(か)かり、一ヵ月でリタイアし、結局私が娘の運搬に買って出るしかなかった。運転免許も失っていたし、車もなかった。第一、タクシーなどで通える御身分ではなかった。それで自転車と言う事になった。
 娘を本部校舎に連れて行く理由は、このビル内に「尚道館保育園」を併設していて、此処では「尚道館小倉道場」とともに、道場の昼間の空きの時間を、保育園として使用していたのである。

本部校舎に併設していた尚道館保育園。

 保育園では、昼間、パートタイマーで働く主婦達の子供を預かり、保母を数人雇って、私設保育園の経営にも乗り出していたのである。
 私は最初、わが子を此処に入れる為に、本部校舎に勤める女子事務員が、好意として運搬に携わってくれたのであるが、何ぶんにも遠く、往復4回の道のりで、これだけでも、早く来て、遅く帰るという時間外労働が課せられる為、遂に私が子供の送り迎えをすることになったのである。

 既にこの時は、運転免許も車もなく、送り迎えは、自転車のハンドル付近に“子載せ籠
(かご)”を取り付け、自転車で往復すると言う羽目になった。
 自転車で車道を走り、交通量の多いバイパス道路を通ってと言う、一見危険な自転車走行が課せられた。八幡西区千代ヶ崎を出発して、小倉北区馬借町までの所要時間は、私の脚力で約1時間20分ほどであった。かなりハードな肉体労働だった。これを約1年間遣ったのである。雨の日は娘に幼児用の合羽を着せ、傘を指してというスタイルで走行した。一歩間違えば親子ともども、死ぬかも知れないと言う危険を背負っていた。これは私にとって、「小さな死」の疑似体験であった。
 もしかしたらこれは、死に瀕
(ひん)して、“あの世”と“この世”との境を、さまよう臨死体験であったのかも知れない。

 そして、保育園が退ける時間が午後6時だったので、その頃、保母から娘を預かり、一路再び千代ヶ崎に戻り、そこで、掻
(か)っ込みの夕食を食べて、再びチェーン塾を自転車で巡回し、夜の12時まで授業を行ったり、受験生の進路指導にあたっていた。
 朝6時に“自宅”兼“道場”兼“学習塾”の千代ヶ崎を出発して、本部校舎に向かうのである。睡眠時間が5時間以下と短いものだった。

 娘を自転車に載せ、走行している間に考えることは、いま家内は「どうしているだろうか……?」ということだった。この時、まだ精神科に連れて行ったわけではないが、精神病であることは間違いなかった。しかし、塾の経営者側の講師が、「精神病に罹
(かか)っている」とか、「精神病では?」とかの疑いを持たれたら、塾は評判商売であるだけに、大きな打撃を受けるのである。

 そして、千代ヶ崎の教室から200mほど離れたところに、新たな進学塾“シーズK
”が進出して来たのである。此処の経営者は某国立大学の卒業者で、中々のやり手という評判であり、時には策略を遣うということで知られていた。

 この策士が、やがて私の塾の経営を脅
(おびや)かす事になるのである。そして遂に、恐るべき時がやって来た。
 こともあろうに、「明林塾ゼミナールの経営者の夫人は、精神病であるらしい」というデマを口コミで流し始め、塾生が大量に抜けるなどの経済的圧迫を掛けて来たのである。こうした事への反応は、塾に通わせている父母は、特に敏感である。ただで済まされるわけがない。何か悪い事が起る予感がした。私はこれを一番恐れていたのである。

 その中で、私は独り困窮
(こんきゅう)する以外なかった。
 そしてこの塾の経営者Kは、私の塾の学生講師まで引き抜くと言う裏工作に出て、講師ともども生徒まる抱えで、引き抜いて行ったのである。まるで、ぼろぼろと歯が欠けて行く櫛
(くし)だった。もう、こうなると打つ手がなかった。後は滅びるだけである。

 塾は、単に塾の評判だけで生徒が集まるものではない。講師の人柄にも生徒は集まるのである。この事を知っているKは、これを利用して講師の引き抜きを始め、“根刮
(ね‐こそ)ぎ”と言う形で、私の塾へ大打撃を与えていたのである。もう壊滅状態だった。勝負はついていたのである。塾戦争でも、私は敗北していた。



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