●武田時宗先生から「武器の大事」を学ぶ。
武田時宗先生の訪問を受けたのは、昭和57年5月11日(北九州市八幡西区八千代町)と12日(八幡製鉄親和会館クラブへの招待と、学習塾の同市八幡東区中尾町)だった。
時宗先生をわが方まで、車で案内したのは、新日鉄社員・福山隆(ふくやま‐たかし)氏であった。これは時宗先生が福山氏を心の底から信用している為であろうが、逆に言えば、福山氏しか信用していないとも取れた。ために、福山氏を同行させたのかも知れない。
 |
|
 |
|
▲武田時宗先生の名刺。
|
|
▲苫米地芳見氏の名刺。
|
 |
|
 |
| ▲時宗先生と。(八幡製鉄親和会館内合気道クラブで/1)当時の同行者は進龍一師範、弟の進俊彦師範。 |
|
▲時宗先生と。(八幡製鉄親和会館内合気道クラブで/2)
|
この席で話された事は、次の内容であった。
私は昭和53年頃、進龍一師範師範の主宰する習志野綱武館に、北九州より巡回指導に行った時、この席に私も居合わせ、そこに夕刻“西郷頼母研究会”と名乗る、小さな本(この本は西郷頼母研究会の発刊した本と思われた)を片手にした、ある人物が顕れた。その人物が大東流合気武道東京支部長である苫米地芳見氏だった。
苫米地氏は、これまで“大東流合気術”と名乗っていた、早島正雄(はやじま‐まさお)師の所に行き、「お前は何で大東流を名乗っているのか」と問い詰めたら、早島師曰(いわ)く、「自分は武田惣角の息子である」と答えたと言う。これを不信に思い、更に問いつめると、「ただ、惣角と一緒に風呂に入っただけで、息子ではない事」を白状したという。
苫米地氏によると、それ以降、早島師は“大東流”を名乗らない事を誓約し、その後、“道家合気術”を名乗るようなったというのである。苫米地氏は、これを鬼の首を取ったように話した。
次に、「お前の所も、大東流を名乗る資格がないのではないか」と詰め寄ったのである。
そこで私は、先代の山下先生から、「わが流は大東流と言う」と聞かされていた理由により、大東流を名乗っているだけで、何も大東流合気武道の“大東流”を無断拝借して、大東流を名乗っているのではないと答えた。
苫米地氏はこの回答に不満であったらしいが、この時の氏の態度が、余りにも傲慢(ごうまん)であったので、昭和57年5月12日に、進龍一師範と、弟の進俊彦師範を連れて、八幡製鉄・親和会館の合気道クラブを訪ねた時、この話を時宗先生に言ったら、時宗先生は、苫米地氏の言に対し、至らない点があリ、「大変申し訳ない事をしました。苫米地に代わり謝ります」と謝罪した。(上記の写真はこの時の模様) |
さて、相手から学ぶ態度を採(と)れば“プラス”であり、相手を見下すような態度を採れば“マイナス”である。切磋琢磨は人間形成の要(かなめ)である。
そして最も肝心な事は、相手と接する時は、一切の固定観念や先入観を捨て去り、相手の短所には眼をつぶって、長所を吸収するようにするのがポイントである。善いものはどんどん取り入れ、自分の血とし、骨とし、肉とするべきである。これは自分を向上させる為の重要な役目を担う。
長い時間を掛けて、これを実践していれば、自然と効果は現れ始めるし、また、外野や外界の物事にも、心は動揺されず、これこそが自然の修行のありようだと教えるのである。それは、裏返せば、人の世とは、その大半が「悪魔の仕掛」にうまく騙(だま)され、これに振り回されているということだ。
昨今はこの手の自称「武術研究家」という低俗な人種が殖(ふ)え、この手の無責任人種は、ある一方方向のみに誘導する捏造(ねつぞう)により騙(だま)されている節が大いにある。これが「悪魔の仕掛けた、凡夫(ぼんぷ)を生け捕る仕掛け」であった。また、『合気ニュース』の一方的な言論に絡め捕られて、「西郷派叩き」を遣(や)る者も少なくない。
では、「西郷派叩き」を何故するのか。
それは西郷派を叩くことにより、自分の「大東流○○会」を武道界に売り込めるからだ。西郷派を引合いに出し、西郷派を“悪”またはインチキと決めつけ、一方自分の方を“善”あるいは本物と決めつければ、「善悪二元論」の構造が成り立ち、白黒をつけて、門人の嵌入(かんにゅう)が遣(や)り易く、自己宣伝がうまく行くからだ。また、こうした醜聞(スキャンダル)がいつも登場しておれば、マイナーな雑誌も売れ足が止まらないのである。したがって、事あるごとに、西郷派が引合いに出されるのである。
一部のジャーナリズムの中には、こうしたものが存在し、様々な“一方的誘導”で、実証主義を検証する能力のない低能者を、この仕掛けで絡め捕っている。そして、今日の武道界では、「西郷派がインチキ」というのが定説になっているようだ。
だからこそ陽明学では、天下万民の大勢に信じられるよりは、僅か一人の求道者に信じられよと教えるのである。信じる者は、決して大勢でなくてもいいのである。
さて、それでは凡夫(ぼんぷ)を絡め捕る「巧妙な仕掛」をご紹介しよう。
それは『合気ニュース』が歴史的な見識の疎(うと)いマイナーな武道愛好者を、ある方向に導いている事だ。それは「西郷派叩き」をする事で、この方向へと導いているのである。この西郷派叩きの発信源は、近藤勝之氏と、かつてわが流の門人であった熊本の西龍一郎の独断と偏見による暴言である。
昨今は、「西郷派叩き」がエスカレートしているようである。西郷派叩きをすると、それで読者が喜び、このマイナー雑誌が大いに売れると言う事である。これは如何なるモラルのジャーナリズムから発せられる考え方なのであろうか。
今日の世は、まさに情報戦である。宣伝合戦である。情報によって、敵対者を葬り去る事が出来るのである。恐ろしい時代になったといえよう。情報過多であり、どれが正しい情報なのか、分からなくなってしまった時代である。どれも最もらしい事を伝えている。しかし、先を競う情報戦では、敵対者に先駆けて、相手の悪口を言い、自分を誇張して誇大宣伝をし、先に売り込んだ方が勝ちなのである。
これを武術界や武道界の論理に合わせて言うならば、まず、敵の欠点やウソや、些細(ささい)なミスを発見し、敵の揚げ足を取って、自流の展開を有利に行い、敵の弱味に付け込んで敵を陥れる事である。
「揚げ足を取る」とは、まさにこの事を言い、揚げ足とは、相手が蹴ろうとして揚げた足を取って、逆に相手を倒す意からこの言葉は始まっている。つまり、相手の言いそこないや、言葉尻に付け込んで詰(なじ)ったり、皮肉を言ったりすることに始まる。
いま、マイナーな武道雑誌『合気ニュース』では、こうした情報戦による戦略が行われ、その槍玉に上がっているのが「西郷派」であり、西郷派は叩けば叩くほど読者が面白がり、これに便乗する武術研究家や、大東流研究家が自己宣伝を行っているのである。
つまり、西郷派はこうした人種に、巧みに揚げ足を取られ、いいように“どつき廻されている”と言う事である。
また、こうした現実を招いたのは、『合気ニュース』の編集長であるスタンレー・プラニン氏が、一回も事実関係を調べる事なく、平成3年7月に社説記事として、「西郷派大東流合気武術の有無」と言う社説記事を載せたことに起因する。
この時、わが方には一切の裏付けの検証や、わが流の事情を調査すると言う事は行われず、かつて、わが流の籍を置いた熊本の西龍一郎によって、昔の「大東流修気会」時代(昭和40年前半)に発行されたパンフレット(【註】この中には西郷派がインチキとして挙げられた機関雑誌の『和合への道』や、福岡工業大学合気柔術部の演武会当時のパンフレットや、八幡大学合気柔術部の演武会当時のパンフレットが含まれる。また、当時歴史観に疎かったわが流は、その流れを甲斐武田家に求め、それにちなんでシンボルマークに「四ツ菱」を使用し、甲斐武田家、その後、会津藩に伝わった御留流、武田惣角、植芝盛平の流れの歴史観しか持っていなかった。近年に於てはこれが間違いであり、また、大東流の歴史も、甲斐武田家とは一切関係なく、況(ま)して清和天皇流祖説など、真っ赤なウソである事が判明した為である。したがって、わが流は武田惣角とも無関係であり、今日、大東流を名乗る流派とも無関係である)などが蒐集(しゅうしゅう)され、これは近藤勝之氏に、手土産として献上されたわけである。
したがって、合気ニュース内の、近藤氏が編集長のプラニン氏に対し、「本当によく調べましたね」の箇所は、プラニン氏が実際に調べたのではなく、近藤氏が西より献上された、わが流の『和合への道』(【註】昭和45年10月に発行された、何とも不可解な機関雑誌)の歴史的な“間違い箇所”を取り上げて、揚げ足を取ったことである。この揚げ足が、現実には「西郷派叩き」に結びつき、大東流オタクの便乗組もこれに便乗し、自分の「大東流○○会」の宣伝に、西郷派を引合いに出しているのである。
しかし、実際には、わが流には武田時宗先生が、度々足を運び、また私自身に「大東流合気武道の会員証」まで発行しているのである。それ故に、私の度々の質問に対し、丁寧(ていねい)に返事を下さり、この手紙のやり取りで、更に多くの事実を掴む事が出来、また、西郷派と大東流の違いも一層克明に確信したのである。
その証拠が、下記の武田時宗先生よりの、お手紙である。
武田時宗先生からは、約2年間の手紙の遣(や)り取り(21通)で、武田惣角を祖とする大東流の人脈も知りえたし、八光流流祖の奥山龍峰(本名:奥山吉冶)師、少林寺拳法の宗道臣(本名:中野道臣)師、そして合気道の創始者、植芝盛平翁の話や、植芝翁の天覧試合の真実の話、その他(【註】天覧試合に参加した植芝と、植芝の「受」として同行した塩田剛三と、もう一人の「受」の方を、お手玉のように……云々の話。そして特記すべきは、現在ネット上で有名な岡本正剛氏の名前すら時宗先生は知らなかった。習志野市を訪れた際、進龍一師範に「大東流六方会の岡本さんて、一体誰ですか」と訊(き)いたくらいである。なお、時宗先生が言われた「岡本さん」は、わが流の岡本邦介師範(八光流皆伝師範)ではなく、「六方会の岡本正剛師範」のことである。なお、岡本正剛師範は堀川幸道師範の弟子であるが、時宗先生は堀川幸道師範に対し、「堀川さんは、力が無かったので、力を使わないで済む技を私が教えたのですよ」と言っておられた。これは昭和60年頃の話)などを、いろいろと聞かせて頂いた。(【註】この会話は許可を得て、録音テープに収録)
 |
▲昭和60年(1985)に出した『大東流合気柔術』の著者・岡本正剛師範の存在を、この当時、武田時宗先生は、全く知らなかった。
(【註】『合気ニュース』には昭和40年代に時宗先生と一緒に映った写真があるが……) |
また、武田惣角翁伝承の大東流の宗家実印と称する「武宗」という印鑑を、半紙の中央に押したものを頂いたことがある。これをわざわざ郵送で送ってきたのである。これは武田惣角翁が持っていた「石印」であると言う。各免許(教授代理、免許、免許皆伝など)を与える時に押したものであると言われ、大変、貴重なものだった。
 |
| ▲武田惣角翁の「武宗」の石印。(【註】時宗先生から送って頂いた「武宗」の印は、引っ越し等で紛失した為、当時の記憶によって復元したもの。半紙の押された時期は昭和58年頃) |
武田時宗先生より、白紙の半紙に押して郵送で送って頂いたのは、武田惣角翁が持っていた「石印」と言う。その大きさは、おおよそ18mmくらいの正方形の印だった。そして惣角翁が持っていたと言う石印には、私に宛てて次のように説明されている。
|
|
▲時宗先生から頂いた、「武宗」の石印の説明。
半紙に押された「武宗」の石印は紛失したが、時宗先生が説明した手紙だけは、今も現存している。「宗家名」で発行されて免状には、この石印が押されると言う。
|
武田惣角翁の「石印」は、時宗先生によると、重要な意味を持つという。免許の発行に伴う印可には、この印鑑が押されると言うものであった。したがって、「武宗」という石印のないものは、大東流合気武道とは関係なく、“本物のように見せかけた人”と言われた。ここが重要なところであり、大東流研究者はこの石印の有無に注意して頂きたいものである。
つまり、免許状などの紙切れにおいて、「武宗」の石印がないものは、“本物のように見せかけた人”であり、時宗先生自身が認めたものでなく、“ウソ”というのである。大東流を名乗る著名な先生方にも、こうした“ウソ”の人がいると言うのである。実力不足を厳しく指摘したものであった。
事実、近藤勝之氏がオーストラリア建国200年に招待されて、演武に出向く際、氏がオーストラリアに出向く前に、「七段をくれ」と申し出たそうだが、時宗先生は、氏の申し出に苦笑されたそうだ。(【註】知人の北海道系大東流指導者Y氏の談。また、東京総支部長は徴集した会費を横領し、大東館に支払ってくれないなど。平成4年5月3日、愛知県豊橋市の「神武館・道場開き」の時に、この話を聞く)
これを要約すると、次のようになる。
|
1
|
惣角門人で免許状があっても「武宗」の石印がないものは、“本物のように見せかけた人”である。実力は認めない。 |
|
2
|
惣角は字学のなかった人なので、「教授代理」などの免状を発行する時、代筆者が書いたものが多いが、こうした大事なものは、惣角の門人と雖(いえど)も、「武宗」の石印が押してある。 |
|
3
|
以上は、時宗先生の代にあっても、同じである。惣角門下の人でも、自分を大東流の第一人者のように言っている人が有るが、こうした人達は“本物のように見せかけた人”である。 |
以上の時宗先生の談は、私への手紙の中で展開されているが、惣角門下でも“本物のように見せかけた人”がいるということを、時宗先生は手紙の中で語っている。私を“インチキ”と豪語して、これを憚(はばか)らない人が居るが、後ほど、時宗先生が言った“本物のように見せかけた人”を公表したい。
ちなみに、わが西郷派は、 武田惣角を明治期の流祖とする“大東流”とは関係ない。また、「清和天皇第六皇子……云々」や「新羅三郎源義光や大東の館」ならびに「大東久之助」などとも、一切関係ない。
また、アメリカやカナダでDr.マーシャルとトップとする「西郷派大東流合気柔術」と名乗る団体や、韓国で、わが流のソウル総支部以外の、「西郷派」と名乗るの団体とは、一切関係ない。
わが流は「剱(けん)の道」を母体とする、《武芸十八般》を目指す団体であり、素手格闘の体術のみの格闘技とも異なるのである。
 |
|
 |
| ▲小野派一刀流という剣の型は、日本剣道型の“一本目”から“七本目”だった。(1) |
|
▲剣道型(2)写真は八幡製鉄親和会館内の道場で。 |
その後、武田時宗先生は度々、わが方を訪れた。北九州市八幡西区八千代町で1回、八幡東区中尾町で1回、また、その後、新日鉄八幡製鉄所・親和会館内の道場で1回、八幡西区千代ヶ崎に尚道館があった時に2回の合計4回であり、延べにして大東流柔術を合計20手ほど、八幡大学合気柔術部の学生に指導してくれた。また時宗先生を、車でこれらの場所に案内したのは、福山隆氏であった。信用されていた為であろう。
 |
|
 |
|
▲新日鉄八幡製鉄所・親和会館で(1)
|
|
▲新日鉄八幡製鉄所・親和会館で(2)
|
 |
|
 |
|
▲進龍一師範と。
|
|
▲著者と。
|
私が武田時宗先生が来訪した際に、大変、心を惹(ひ)いたのは以前から興味と疑惑を持っていた、八光流の「村井顕八氏」なる人物である。
惣角を絞め落としたか、否かは知らないが、先生の話によると、「惣角は至る処に刃物を隠していて、家族の私も、たじたじとなった」と話されたことだ。他人が躰(からだ)を触れようとすると、家族に対しても、いきなり刃物が突き付けて来たというのである。この話を聴くと、惣角は刃物だけを信用していたようだ。
 |
| ▲「武田惣角、八光流の村井顕八の“絞技”に敗れる」を書いている。『奥山龍峰旅日記』より。(昭和33年3月21日初版発光、発行所:八光塾本部、定価5,000円) |
 |
|
 |
| ▲八光流秘伝解説の表紙(昭和43年10月1日発行) |
|
▲同書9ページに記された村井顕八氏の記述。説明には、村井氏は三船久蔵十段と義兄弟になっている。
|
私はこれにより、一つ悟ったことがあった。それは幾ら「大東流柔術百十八箇条といったところで、結局、最終戦においては、命の遣(や)り取りであり、また、自分が命を取られそうになった最後の最後は、大東流の技ではなく、刃物なんだ」と、心に強く理解したことだった。
つまり、最終戦の結果は、刃物によって、その勝者が決せられるということであった。これこそ私にとって、「眼から鱗(うろこ)」であった。私は、武田先生からこれを聞いて以来、徹底的に武器の研究をすることになる。
結局、武田惣角は、「大東流柔術百十八箇条」を売り物にして、大東流を普及し、次々に弟子を獲得して、自らの「英名録」に住所氏名を書かせて捺印(なついん)させていったが、惣角自身、「大東流柔術を100%信用していなかったのではないか」そんな疑念が起ったのである。
そして最も私の感心があったものは、三船久蔵十段と義兄弟であるという村井顕八氏の存在だった。この事につき、何度かこれについて時宗先生に質問したことがあった。時宗先生はこれに丁寧に答えられ、奥山龍峰師の英名録のコピーまで送って下さった事があった。
 |
|
|
| ▲武田惣角の英名録にみる奥山龍峰師の名前。(武田時宗先生コピー提供)
|
|
▲武田惣角の英名録にみる佐川幸義先生の名前。(武田時宗先生コピー提供)
|
私は村井顕八氏と武田惣角翁の事について、質問した時に回答を出された返事が下記のものだった。時宗先生は奥山龍峰師の自己宣伝欲が、村井氏の武勇伝を勝手に“でっち上げた”としている。
 |
▲武田時宗先生からは、約2年間を通じて、合計21通のお手紙を頂いた。
ここに示したのは、八光流の村井顕八氏なる人物が柔道の絞め技で、武田惣角を実際に絞め落としたか否かについて質問した回答の手紙である。
時宗先生は、八光流の村井なる人物が、奥山師の売名行為に利用されたのだとしている。筆者の関心は大いに、此処にあった。
|
村井顕八氏と武田惣角翁の話は、『奥山龍峰旅日記』より、次のように紹介されている。
|
大武田を首締で落とす
北海道の漁業は何といっても銀鱗躍る春告魚(はつつげうお)といわれる、年一度の鰊漁でもっているようなもの。その中心地、港小樽は内地からまで出稼ぎにくる鰊の神様達で、春の前奏曲がかなでられる。バーも料亭も終夜「そおらん節」で賑わい、大漁の幟(のぼり)を立てた漁船も港一杯に溢れる。北海の春も景気も、まさしくこの鰊漁から湧き出ずる。
その折、小樽高商に通学の傍ら、町道場を開いていた村井君、何気なく小樽新聞に眼を通せば「柔道は木端微塵」大東流の武田惣角来る─────の見出しに吸付けられた。そこには目下札幌の旅館に滞在、多くの知名の士が教えを受けていると書かれていた。憤然色を変えた彼は、休校して小樽駅に飛んだ。売店で求めた北海タイムスには、もっとデカデカと報道されており、武田の言葉として柔道を滅茶苦茶に貶(けな)した一文が載っていた。激昂した村井君、夢中で乗車、一時間後には札幌の旅館で武田氏と対座していた。坊主頭で背の低い割に腕っ節の太さは、成程一流の苦労人と見えた。
「あなたの流派を拡めるのに何故、柔道を引合に出された。俺は講道館の嘉納直門として見逃す訳にはいかん。各新聞に陳謝状を出すか、それともここで優劣を決するか、あなたの本心を聞こうじゃないか」
「君は大東流を知らないから大きなことがいえるんじゃ。柔道が何だッ。体操じゃないか。武道じゃァない。まあまあもっと修業さッしゃい」
成程新聞に書かした通りだ。よしッ。若輩ながらこの村井は、北海道一の柔道家だ。他を誣(し)いるのそ舌の根を止めてやるぞ。口には出さなかったが決心は出来た。
「未熟だが修業はしているつもりだ。今更他流のあなたに干渉を受ける必要はない。仕方ない、柔道の真価を見せてやるか」
怒り心頭に発した村井は、血気盛んなるまま、武田の正面から首を締めた。
寝技と首締めでは、当時全国では四、五人目に挙げられる程の村井君だった。
「何をッ、生意気なッ─────」
と叫びながら、村井の両腕を必死になって掴み、これを退(しりぞ)けようとしたが、村井の力量優ったか、そのまま、得意の寝技に移行して行った。双方上になり下になり秘術を尽した─────と書きたい処だが、武田は下に組敷かれたまま、首締めが極まって落ちてしまった。
此の間、僅か数分の出来事だった。
当時武田惣角氏は宮城県下に於ける大乱闘で数名を殺生せしめ、死刑とならんそした直前松平侯(【註】元会津藩主・松平容保のこと)の特別弁護で釈放と成り、これを契機に剣を棄て、大東流合気柔術と呼称して転向したばかりだった。だから武田氏命名の大東流の専門は剣術ということになる。
村井君は、活も入れずにさっさと小樽に引き上げたということである。留守宅には室蘭海運界の大御所、栗林悟一君が稽古来ていた、が札幌での武勇伝は一言も漏らさなかった。札幌といえば市区井然たる碁盤割の市街と、時計台を連想し、又街路樹に生い茂っているアカシヤの、花咲く頃の馥郁(ふくいく)たる香りが、想い出しただけで鼻を突くような気がする。大陸的で悠長なサッポロ、否雄大な雰囲気は忘れ難い風物詩である。
(【註】『奥山龍峰旅日記』263ページ、264ページ、265ページより)
|
私は以前から『奥山龍峰旅日記』に出て来るこの部分に、興味を持ち、この真意を武田時宗先生来訪の際に訊いてみた。その回答は、八光流の村井なる人物が、奥山龍峰師の売名行為に利用されたということだった。
|
三船氏参る
村井君の首めと双璧をなしていたのは、三船氏の締らざる首だった。初めは双方で敬遠しあっていたが、天馬空を行くが如き利かん気の村井君、遂に三船挑戦の挙に出た。何人(なんびと)が締めても俺の首は絶対に締らない、と豪語していた三船も、村井の執拗豪胆な首めに、腿を叩いて降伏してしまった。
今でこそ文化勲章に輝く三船十段も、戦時中には麻布に邸宅を構え、講道館の審査員として大道を闊歩した当時は、悪評が多かったといわれる。
曰く袖の下を届けなければ昇段出来ない。という真偽は別として評判を立てられるだけ、人格的にはどうかと思われると、今は亡き警視庁の谷川刑事(八光流師範)が、当時顔を曇らせていた。
|
奥山龍峰師は八光流門人の村井顕八氏を以上のように、柔道の猛者と持ち上げている。
|
植芝氏逃げる
更に大東流武田氏の門より出でて、大本教事件で破門になった植芝盛平氏は、合気道を名乗り海軍大将山下勇氏を後ろ楯に、牛込に道場をもった当時、一と手ご指南を─────と訪れた村井顕八君を、先ず先ずと奥の間に招じ===「大家と試合なぞは……」===敬遠しては旺んし歓待して遂に試合を回避したのだった。
その後、村井君は、北米、南米に柔道行脚をなし、到る処で辣腕を揮い、多くの門弟を遺されているが、嘉納館長の命を受けて渡満、満洲柔道界の創立に生命を捧げる事となった時、段位を返上して壮挙に就いたのだった。渡満後、事、志と違った政界、軍閥の渦中に於て獅子奮迅の活躍をなし、復命せざるうちに嘉納館長の客死に遭い、終戦後無事引揚げられた。昭和十九年も暮れなんとする時、銀行為替で三百万(当時小学校長の月給が百二十円だった)を東京の留守宅に送っているから、彼が満洲での権勢、豪華ぶりは察するに余りある処であろう。
|
『奥山龍峰旅日記』には随所に村井顕八氏を褒(ほ)めちぎる文がふんだんに記載されていて、武田惣角が締め落とされる処に始まり、三船十段が絞技で降参し、植芝盛平が逃げたと言う箇所まであり、最後の註釈として、村井氏は、乞われて三船十段と義兄弟になったと記されている。
|