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▲湯野上温泉と塔のへつり。熊坂護氏と。
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▲会津武家屋敷・西郷頼母邸の前で。
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▲霊山神社参道
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●平成3年から11年にかけての大東流の調査
その後も、知人の福島県人らのお世話により、大東流の調査を続けていた。しかし、大東流の痕跡は、この県にはこの当時、皆無といっていいほどだった。
ただ一人、福島県会津若松市生まれの、栃木県の柔道整復師で、わが流の栃木県門人・熊坂護(くまさか‐まもる)氏の協力を得て、分からない部分の謎解きに協力して頂いた。熊坂氏は、かの有名な熊坂長範(くまさか‐ちょうはん)の末裔(まつえい)と謂(い)われ、福島県内に多くの知人を有していた。また凄腕の柔道整復師でもある。
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| ▲写真は熊坂護氏が講道館に出向き、山下泰裕選手を治療したときのものである。このことから、熊坂氏の柔整師としての腕前が、いかほどの凄腕か、容易に分かろう。 |
さて、一般に熊坂長範といえば、『義経伝説』に出てくる大泥棒と思われ、大盗賊にように誤解されてきたが、これは誤りである。現在は、歴史的にも、「熊坂長範大泥棒説」が完全に否定され、大泥棒の汚名は現在に至って拭(ぬぐ)われている。また、熊坂長範を祀(まつ)る神社には、長範に纏(まつ)わる石碑などが建てられ、これまでの誤解は、歌舞伎や芝居の中で作られた出来事が真っ赤なウソであったことが証明され、その後、名誉が回復されている。
歴史とは、誰かが勝手に捏造(ねつぞう)し、一方を“善”と決めつける反面、その片方は“悪”と決め付けられる仕組みがある。この仕組みは、人間が組み立てる仕組みである。そうした場合、その犧牲になるのは不等な扱いを強いられる生贄(いけにえ)である。歴史が作られる背景には、裏に生贄になる者が要る事だ。理不尽を受ける者が必要である。
自分だけが正しいとする論理で展開された歴史史観は、必ず生贄を呑み込んでいる。自説を強硬に押し通し、捏造する為に、必要だからだ。
これは歴史の中には多く存在し、特に武道界にあっては、それぞれが誇大と捏造(ねつぞう)の限りを盡(つ)くす情報戦である為、この捏造の激しさは、歴史の教科書以上である。そして後世の仮託(かたく)は、実に多い。存在する多くの「武勇伝」もこの後世の仮託により、捏造された。
強(し)いて言えば、西郷派もこの生贄の一つであり、捏造により、「西郷派インチキ説」が現在も罷(まか)り通っている。今日、武道愛好者の中では、これが定説となっているようだ。
では、なぜ生贄が必要であったのか。
それは他の大東流を光らせる為に、“叩き台”の生贄が必要であったからだ。事あるごとに、西郷派を引き出して来て、“叩き台”として、叩けば叩くほど、他の大東流は光り、輝くのである。『合気ニュース』も、この仕組みを形成した事によって、販売を促進させている。
かくして西郷派は、武道界では「インチキ」の代名詞になった。しかし、これを信じる人は、余りにも短見で、浅はかといえよう。
自分の足で直接取材なり、現場検証なり、歴史を知る者の論証を分析する事もなく、一方的に書かれ、捏造されたものを安易に信じる事は、正しい歴史観ならびに、その起源を誤らせ、武術や武道で唱える「戈を止める」の士道観(士たる者の履(ふ)み行うべき道義。この定義は三河以来の大久保彦左衛門・忠教(ただたか)らが説いた「弓矢の義」にはじまる)あるいは武士道観(江戸中期頃、儒教思想に裏づけられて大成し、封建支配体制の観念的な支柱をなした観念。忠誠・犠牲・信義・廉恥・礼儀・潔白・質素・倹約・尚武・名誉・情愛などを重んずる。特に葉隠の「武士道と云ふは死ぬ事と見付たり」の書き出しで始まる『葉隠論語』は常に心の裡(う)に死を充(あ)て、そこから生還する凄まじい武士道観を顕わしている観念)を誤らせるものである。
また、こうした誤りや捏造によって起った後世の仮託は、次世代の歴史観を検証する能力を奪い、次世代を自ら感情の発露として利用してしまう、悪しき体験主義に摺(す)り替えて終(しま)う事である。更にこれがもっと、“進行ガン”のように進行すれば、感情のみで語る歴史観が出現し、正しい見識で歴史を観察する観察眼が失われてしまう。したがって、歴史と言うものは、知性と理性をもって、そこからの体験主義で語るのが必須の要因となろう。
また、武道愛好者でありながら、一方向ばかりの情報を有り難がり、多角的に物を見る観察眼がないのは、その人自身の、戦略も戦術も、お粗末と言う事を証明している。
世は情報戦時代であり、情報を逸(いち)早く流し、それに先手をとる事ができる者が勝つのである。したがって、裏には仕掛人がいる。仕掛人の策に、まんまと嵌(は)まって踊らされる理由は何処にもあるまい。正しい観察眼を持つべきである。
さて、熊坂氏の紹介により、福島県白河市で柔道整復師(福島県柔道整復師会々長で、渡辺整骨院院長)をしておられた渡辺益治(わたなべ‐ますじ)先生に、知り合う機会を得た。
JR白川駅からタクシーで15分くらいのところに、渡辺整骨院がある。熊坂氏から連れられて渡辺先生を訪ねたのは、平成6年の、白川では遅い春の5月頃だったろうか。白川城は桜の花で満開だった。
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▲JR白川駅より白河城遠望する。
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▲白河城(1)
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▲白河城(2)
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渡辺先生は、もう既に、今は故人だが、「自然医食」と「浄血」で有名な、東京・お茶ノ水の「お茶の水クリニック」の院長・森下敬一(もりした‐けいいり)医学博士と入魂(じっこん)で、国際自然医学会議では、何度もハワイやアメリカに何度も同行している。
そして渡辺先生からは、平成7年4月20日、森下医博の著書『浄血』を、私に先生自らの自筆署名入りで下さった。
渡辺先生は柔道家(柔道五段)で、また白川では屈指の資産家で通っていた。先生のご祖父は大変な大金持ちで、白川から100キロほどの距離を馬に乗って、会津若松まで飛ばし、武田惣角から、「惣角流(そうかく‐りゅう)合気術」を習ったということで、武田惣角についても非常に詳しく知っていたようだった。また、祖父伝来という事で、刀剣に非常に明るく、その知識は、刀剣専門の古物商である私も顔負けの明るさだった。
特に注目したいのは、ご祖父が、白川から会津若松まで馬を飛ばして、毎月数回、惣角流を習いに行っていたことである。そして、このとき、大東流ではなく、“惣角流”とされたのは、渡辺先生によれば、ご祖父から聞いた話として、このとき惣角が「大東流ではなく、惣角流だった」と念を押された。渡辺先生のお宅には熊坂氏を伴って、その度、三度お邪魔している。
そのときに、ご祖父のことを話され、「大東流は後世の仮託(かたく)」というのである。「清和天皇……云々」の話が訝(おか)しいというのである。大東流と謂(い)われ出したのは、植芝盛平が彗星(すいせい)のように顕(あらわ)れた「昭和の初期である」というのである。ここでも貴重な証言を得ている。
そして、これらの証言を整理すると、大東流は、別ルートで「武田惣角と植芝盛平の共同制作の合作武道」でもあったともいえるだろう。
また平成10年、会津若松市で西郷眼科医院を開業されている、この医院のご息子の西郷龍太郎(さいごう‐りゅうたろう/当時浪人中で、後に東京理科大の学生)君の父君(当時70歳)は、西郷頼母の孫に当たられる方で、会津若松市で当時眼科医をされていた方であるが、父君の証言によれば、「自分の祖父(西郷頼母)は合気術の達人だった」ということで、ここにも「違う大東流」が存在していることが分かる。こうして数少ない事実を発掘していくと、大東流は必ずしも、「武田惣角を中興の祖」とする説や、「惣角ただ一人」というこれまでの仮説は、徐々に崩れてくる。惣角が大東流の名乗ったのは、随分後の事である。
私は福島県白河市で、渡辺益治先生にお会いできたことを、大変幸運に思っている。また、渡辺先生に引き合わせてくれた、熊坂氏にも大変感謝する次第である。
渡辺先生には、その後も、何度かお電話を頂き、ご祖父のことを話された。そして「祖父が白川から会津若松まで馬を飛ばして武田惣角から習った技は、実は惣角流なのか、あるいは今日に言われている大東流なのか、その真意は分からない」というが、「祖父の習った技は、確かに惣角流と聞いた筈(はず)だった」と仰られた。
そうなると、武田惣角は明治のはじめから中期にかけては、まだ大東流を名乗っていなかったことになる。
また、渡辺先生と熊坂氏を通じて、森下博士とも縁が出来た。後に私は、森下博士と何度か電話でお話をし、ガンで斃(たお)れ躰(からだ)を悪くしてから、大変お世話になったことがある。この時、自分は天より生かされているのだと言う事を、はっきりと認識した。未だ、天命は尽きず、なお“生かす因縁”を与えてくれ、生かされている事への感謝と、命ある限り、自分の使命を全うする事を天に誓い、祈りを捧げたのである。
人間の命は皆同根である。生死も、また同根である。この同根の人間同士が、何故、啀(いが)み合い、他を中傷誹謗するのか。
これを考えると、残念を通り越して、情けない限りである。
●西郷四郎の「山嵐」が、大東流六ヵ条から出たという後世の仮託
柔道の「山嵐」は、西郷四郎の考案したものであるが、この山嵐が果たして大東流技法の六ヵ条から出たというのは、恐らく後世の仮託であろう。
何故ならば、大東流編纂(へんさん)は明治中期以降のことであるからだ。歴史的に考えても、絶対に辻褄(つじつま)が合わない。
また、大東流と名乗った技法の分類分けの編纂(へんさん)は、大正以降のことと思われる。非常に新しいものである。
柔道の山嵐が登場するのは、明治19年の警視庁武術大会においてである。
西郷四郎は講道館に入門して直ぐさま、その驚異的な伎倆(ぎりょう)を発揮する。
その三〜四年後には、警視庁武術大会に嘉納の名代として、講道館を背負い、試合に出場している。その伎倆に比は、学者・嘉納を遥(はる)かに凌(しの)ぐ資質を備えていた。こうして四郎は講道館七人目の弟子として『講道館修業者誓文帖(こうどうかん‐しゅぎょうしゃ‐せいもんちょう)』に名を連ねる事になる。この誓文帖には「福島県越後国浦原郡清川村四十三番地、志田駒之助弟 士族 志田四郎 十四年四ヵ月 明治十五年八月廿日」とある。
四郎が入門するまでの約二ヵ月半の間には、樋口誠康(ひぐち‐せいこう)や有馬純文(ありま‐すみふみ)らの入門者が居たが、彼等は嘉納が勤めていた学習院教師の縁故から来たもので、彼等は柔道によって名を為す格闘技の猛者を目指した訳ではなく、むしろ学者肌のひ弱な少年であった。実質上、嘉納塾の書生となり、講道館の内弟子となったのは、四郎と、講道館入門者第一号の山田常次郎であった。山田は伊豆西浦(現在の沼津市)の出身で、治五郎の父治郎作に見込まれて早くから東京に送り込まれ、四郎より一歳年上で、此処に嘉納家の柔道普及戦略が窺(うかが)える。
山田自身、天成(てんせい)の資質を備えており、後年富田家の養子になって富田常次郎を名乗り、次男の常雄が常次郎から詳細に訊(き)いた四郎の伎倆(ぎりょう)を編纂したものが小説『姿三四郎』であった。
明治19年1月下旬に五段に昇段し、四郎の得意絶頂はこの時であり、同年三月には講道館が九段坂下に移転した。また同年の6月には警視庁武術大会で、楊心流戸塚派の昭島太郎と日本一を賭(か)けて試合し、「山嵐」を以て優勝した。
しかし以降、楊心流戸塚派の昭島の弟(おとうと)弟子であった好地(うけち)円太郎から兄弟子の仇討ちと称して、四郎には度々挑戦状が叩き付けられた。四郎は、講道館では他流試合は禁止されているとして、これを断わり続ける。
西郷四郎の得意技は「山嵐」である。
この技は後に大東流柔術六箇条の応用技として解説されているようであるが、その真意は定かでない。しかし四郎が天神真楊流の名倉堂の粟山や永田の教えを受けていた際、粟山邸には、頼母が度々訪れている事から、四郎は天神真楊流とともに大東流(【註】この時期、大東流の流名がないのであるから、会津御留流と称するべきであろう)も学んだという説もある。その謎は未だにベールを被った儘(まま)で、それは今日に至っても定かでない。
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▲会津武家屋敷(旧西郷頼母邸)
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また「山嵐」だが、四郎が得意としたこの技は大正9年まで講道館制定の「五教」一つに含まれていたが、以降万人向きでないと言う理由から外されて今はなく、この技自体が“幻の技”と称され、この技法を正確に知る者は殆どいない。
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| ▲会津武家屋敷に架かる山嵐の絵は、後世の仮託により描かれたものである。大東流柔術六箇条と、柔道の山嵐を結び付ける因果関係は何処にもない。 |
山嵐と、大東流柔術六ヵ条を結びつけるような接点は、何一つない。これこそ後世の仮託であろう。
しかし、四郎が天神真揚流とともに、会津御留流を学んでいたら、あるいは四郎独特の感覚で、山嵐を考案するチャンスは幾らでもあったはずだ。また、四郎の独特な才覚と技量により、会津御留流とは異なる、「独特の足技」が山嵐であったのかも知れない。
何故ならば、四郎の得意な身体的特徴にあるからだ。
例えば、四郎の足の指は猿のように長く、その上、昨日に何でも掴むことが出来た。これ自体が、四郎の身体的特徴を物語っているのである。したがって、「大東流柔術六ヵ条」イコール「山嵐」の図式は成り立たない。山嵐は、あくまでも四郎のオリジナル技であるからだ。
私は、柔道の種目に山嵐が加わったことにつき、平成13年10月15日発行の『週刊読売』 の取材に対し、次のようにコメントした。
「西郷が使っていたのは大東流の柔術の変形技です。本来の技は膝関節で相手の足を引っ掛けるんですが、西郷は、足の指が非常に長くて器用だったので、足の指で掴むようにして引っ掛けたようです。その意味で“山嵐”は彼(西郷)の個人的な才能から出たオリジナル技です。だから、今回、承認された技と西郷が使っていた技とは、形が同じだとしても内容が違うのですよ」と、コメントしたのである。
つまり、今回採用になった柔道の山嵐と、大東流六ヵ条は接点を見出すことができないのである。
●知行合一に遵えば
陽明学は謂(い)う。自分の人生に関与しているものは、総(すべ)て「師」であると。
如何なる相手に対しても、これから学ぶように努めれば、それは総てプラスになり、相手を見下すような態度をとれば、それは総てマイナスになるというのである。
人は、自己の人間形成を行う場合、何事も切磋琢磨(せっさ‐たくま)して、相手の短所はなるべく眼をつぶり、長所を吸収するように努めれば、自己を向上させることが出来るというのである。
最初から、人を見下し、傲慢(ごうまん)に下郎(げろう)扱いして、懸(か)かる色眼鏡(いろ‐めがね)の御仁(ごじん)は、決して少なくない。陽明学は、こうした御仁は、その時点で成長が止まったと言い切っている。それまでの人なのだ。
陽明学に照らし合わせて、現代人の大半を評すれば、現代人ほど精神的成長のとなっている人種は、かつてなかった程だろう。程度が低いのである。
誰も彼も、未熟者ばかりである。特に武道界を見てみると、この種の人間が殆どであり、自分が“日本一”とか、自分より優れた者は居ないなどと言い切る、自惚れ上がった指導者が居る。更には、昨今の特長として自称「武術研究家」という類(たぐい)のオタクが殖(ふ)えたことだ。このオタク連中は実に無責任で、好き勝手、言いたい事を、言いたいだけ捲(まく)し立てる。そして彼等の言に、知的な面は一言(いちごん)たりとも感じられない。知性や理性で語るのではなく、感情剥(む)き出しの自己主張である。論陣の張り方は幼児的である。
この手合いに、謙虚に自分は二流以下に甘んじ、控え目に我が身を保ち、そこから精進する気持ちがない。常に自分が一流でないと我慢ならない。そんな連中が、今日の武道界には犇(ひし)めき合っているのである。
数年前、私は、「自分は剣においては日本一だ」と言い切った、大東流琢磨会から別れて「大東流○○会」を創設した大東流を名乗る某指導者が居た。この指導者の思い上がりは、一体何処から起るのだろうか。
この思い上がった指導者は、生涯にわたる“大きな病根”を抱えて潰(つい)えていく人だろう。臨終に際して、往生際は悪かろう。
一方、最初から充分に調査もせず、頭ごなしに、憶測で「インチキだ」とか「偽者だ」と言い切る『合気ニュース』のようなジャーナリズムも、近藤勝之氏と西龍一郎(【註】かつてわが流の門人で、熊本支部長を名乗っていた人間であるが、今では大東流の第一人者面して『合気ニュース』の文面を独断と偏見で飾っている、自称“第一人者”だ。そして彼の得意技は、かつてのお世話になった師の「師匠叩き」である)の暴言に振り回されていて、風上にも置けない出版社がある。
また、同社の言に悪乗りして、「西郷派叩き」を遣る武道評論かも殖(ふ)えてきた。そして大半は、礼儀知らずで、実に紳士的でない。
この手の人種は、昨今はネット電子事典(百科事典)などにも現れ、「西郷派は歴史的根拠がない。技もインチキだ」と掲載している。本当は「西郷派大東流のコーナー」は、西郷派を遣っている側が書くのが当然ではないか。
それを全く西郷派とは関係のない、第三者が悪意の感情と、憎しみを込めて誹謗中傷しているのは、いったい如何なるモラルから来るものか。この製作者自身、自分の人間的な人格すら疑われよう。此処での西郷派の紹介は、誰が読んでも悪意に満ち、感情的な暴言であることは一目瞭然である。自分自身が、心ある者から笑われているとも知らないで。
そして、この西郷派を“インチキだ”と断言する文章の製作者は、一度も、わが流を訪れて取材したり、その内容を正しく確認した形跡がない。感情的な「一方論」である。『合気ニュース』の侮蔑(ぶべつ)に満ちた社説を100%信じて、あるいは近藤勝之氏や西龍一郎の、暴言を信じて、こう言い切っているのだろう。
もし、この手の人間が、大衆に向けて誹謗中傷(ひぼう‐ちゅうしょう)の発信基地になっているとしたら、日本の言論界には、こうした類(たぐい)の自己主張が犇めき合い、大衆を一方的に誘導する「悪魔の仕掛」が作り出されていることになる。中立・公平・公正が聞いて呆れるではないか。ジャーナリズムの風上にもおけないではないか。
そして大東流は、武田惣角の専売特許でないことが、全く分かっていない。
したがって、外野から面白半分に見ている傍観者(ぼうかん‐しゃ)とて、いつ、その「悪魔の仕掛」の毒牙(どくが)に懸(か)からぬとも言い切れないのだ。この手の「悪魔の仕掛」には、“生贄”が必要であるからだ。明日は吾(わ)が身ということにもなりえない。
その上で、現在「大東流○○会」を名乗っている大東流真似の同好会も、直接は武田惣角の大東流とは全く関係のない団体であり、それなのに大東流の名乗り、『合気ニュース』に便乗している。この「合気ニュース』便乗組は、「西郷派を叩く」ことで、同好会員を集めていると言う。西郷派を一回叩くと、一人門人が増えるそうだ。全く、お粗末な“門人培養装置”ではないか。
聴くところによると、『合気ニュース』は、西郷派叩きによって、よく売れるそうだ。
一方わが方は、以上のような様々な営業妨害にあって、道場は年から年中、閑古鳥(かんこ‐どり)が鳴いている。道場は閑散(かんさん)としたものである。入門者の、一人とて居ないのである。
物事や事象は、この有限世界に於て、常に『質量保存の法則』が働くから、一方が減れば、一方が増えると言う現象が起り、わが方の門人は激減しているのであるから、近藤勝之氏や西龍一郎の大東流合気武道ならびに、合気ニュース便乗組の「大東流○○会」は、西郷派叩きで、多くの門人を獲得したと思料する。くれぐれも毎年、確定申告をされ、脱税されないようにご用心願う。
西郷派は、如何なる一方論で攻め立てられても、一向に堪(こた)えない。何故ならば、武術家はペンで勝負をするのではなく、日々鍛練した、その努力で勝負するものであるからだ。陽明学でも勉強してみたらどうか。そして、あなた達の修行法や考え方は、どこか間違っているのではないか。
陽明学は、更に謂(い)う。
誹謗中傷されたとしても、それに心を振り回されることなく、善念が起っているときは、それを察知して充実させよ。悪念が起っているときは、それを察知して抑制させよと。
つまり、志を持っていれば、誹謗中傷には、此処とは決して揺らがないものであると教えるのである。遣(や)るべき事は、日々の地道な鍛練である。マスコミに取り上げられて、“第一人者面”して有頂天に舞い上がっている場合ではない。目的ははっきりしていれば、何も心は揺(ゆら)らぐものでない。
世に受け容(い)れられなくとも不満を抱かず、天命の命ずるままに生きて、人生の苦楽を満喫し、「命を知る者」は、どんな境遇に置かれても悠々(ゆうゆう)と対処できるものである。そこまでの境地に達して、道はあまねく行われるものであると、陽明学は教えている。
西郷派は万人に対して、メッセージを発しているのではない。陽明学の説くところの、「万物一体の仁」を定理として、「心即理」と「良知」によって、「知行合一」を実践しているに他ならない。
したがって、天下・世の中の人の総(すべ)てに信じてもらうよりは、一人でもよいから、心から信じてくれる人に巡り合った方がいいと考えているのである。
「道」は、もともと何ものにも捉(とら)われないものである。天下の総ての人に信じられても、「多過ぎる」とは云えないだろうし、逆に、一人しか信じてくれる人がいなくても、決して「少な過ぎる」とは云えないだろう。
また、集(つど)う人間が多いからそれは正しくて、集う人間が少ないからインチキであるとも言えないだろう。むしろ、邪悪なるものに傾くのは大衆の常であり、見掛けのいい巨大な組織こそ、悪の巣窟(そうくつ)になっているではないか。
それは新興宗教を見れば、一目瞭然であろう。
聖書の一節の「マタイ伝」にも出ているではないか。
狭き門より入れ。
滅びに至る門は大きく、その道は広く、
これにより入る者は多し。
命に至る門は狭く、その道は細く、
これを見出す者は少なし。
(「マタイ伝」第七章13〜14) |
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集団や組織を語る上で、これ以上に真理を述べた言葉はないだろう。
人として、踏み進む「道」が、志に繋(つな)がっていれば、これに迷うことはない。多いからいい、大きいからいいという考え方は、大衆の眼を晦(くらま)ます「悪魔の仕掛」である。
一方、少ないから悪い、小さいから悪いとするのは、「悪魔の仕掛」を考え出した者が論ずる一方的な偏見である。組織作りの上手な者は、巧妙な「悪魔の仕掛」の作り方を知っていて、他を陥れて、自分は伸(の)し上がる方法を知っているからである。
人間とは、毅然(きぜん)とした態度をとりたいものである。また、世に埋もれても悩まず、世に受け容れられなくとも悩むことはない。確固たる信念を持っていれば、「道」を踏み外したのでないから、修行の方法は間違っていないと陽明学は教える。
志を立てた以上、それに邁進(そうぐう)して粘り強く実践し、人に嘲笑(ちょうしょう)されようとも、非難されようとも、あるいは侮辱(ぶべつ)されようとも、自信を失う必要はないし、信念を捨てる必要もない。また、賞賛されようと、これに気をよくして有頂天に舞い上がる必要はない。一切そんなことに頓着せず、黙々と、地道に進めと陽明学は教える。まさに、“行動の哲学”である。
そして、「道」を進む上で、それが進歩しようと、後退しようと、こうしたことは一切気にせず、“ひたむき”に良知を致せと、陽明学は教えるのである。
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