運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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吾が修行時代を振り帰る 12

●人生の旅の感得

 30代前半から後半に懸(か)けて、私は金銭欲に絡め捕られていた。いつでも頭の中は、金を儲ける事で一杯であった。
 これは誰でも同じであろうが、男は世の中に一歩人より先んずる為には、金が欲しいと考えるものである。特に20代後半から30代、更には42歳の本厄
(ほんやく)を迎えるまでのこの期間は、特にそう思うらしい。そして私も例外ではなかった。

 ある呪縛
(じゅばく)に掛かったように、「ああ、金が欲しい。もっと欲しい。金で買えないものは何一つないのだ」とんな呪文(じゅもん)を口先で唱えていたように思う。酒席に招かれた時でも、この意識は萎(な)えず、金銭のことだけを考え続けた。それは端(はた)から見ていて、妙に見窄(みずぼ)らしく、侘(わ)びしいものであったかも知れない。
 だが、誰もが罹
(かか)る熱病の、この時期を抜いては、人生は語れないであろう。この呪縛に嘖(さいな)まされない男など、殆ど居ず、現代社会では当然であろう。

 第一、男にとって、よく働いて金を儲けると言うのが男の仕事だった。男は女よりも、毎日、生活の質を向上させる為に、金銭の事は念頭から離れないのである。家族に少しでもいい暮らしをさせ、その余暇で、稽古事などの趣味に身を投ずるのが現代社会では自然となり、基盤は経済的な安定と豊かさにあった。

 今日のような物質社会では、金・物・色が優先するようだ。また、こうした社会では、男の総
(すべ)ての価値は、金を儲ける才能であり、経済的な生活力であり、力量や身分、それに社会的な地位と言うものであろう。この尺度で、男の価値を計るものが出来上がっているのである。
 時には、幸福と言うものまでが、“金銭”と言う尺度で計られ、その力あるものを、実力者と言うようだ。

 男が、如何に人格高潔
(こうけつ)でも、自分の家族を充分に喰(く)わせていけなければ、それは男としての役目を果たしていない事になる。
 昔と違って、今日の世が評価する「男らしい」とは、「生活力のある人間」を言うのである。したがって、腕力があり、フォークリフト代わりの力持ちでも、生活力がなければ、また金銭を沢山稼ぐ才能がなければ、それは単に底辺に甘んずるしかなく、生活の困窮
(こんきゅう)からは抜けだせないものである。そして、男の欲望と言えば、金銭欲であろう。
 しかし、それを追い求める欲望は端
(はた)で考えるほど単純ではなく、脂(あぶら)の乗り切ったこの時期に懸けて、世の中の構造が見え出した者は、金銭欲だけではなく、もっと他の欲望に眼を向け始めるのである。

 それは野心や野望であり、また幸福への憧
(あこが)れでもあり、その側面には征服欲や人間不信などの、その他様々な者が付き纏(まと)うものである。
 この頃、私は着実に基礎固めをして、大きな野望に向けて巨大学習塾への夢を膨らませていた。

 次の拠点として構えた八幡東区中尾町は、私の第三の進出地であった。一文無しの、無から有を生むが如く、最低限度の確かさと、安定を求めて奔走
(ほんそう)していたのである。男が金を欲しがるのは、単に金銭だけのことではない。金銭は、何よりも現代社会にあっては、幸福や安定感、出世や理想の実現、あるいは自分の力を試す為の代用品になり得るからである。

 男は人よりも、いいものが欲しいのだ。美人の女性に近寄り、その女性を妻にして、いい暮らしをしたいと思うのも、金持ちになって出世しようと思うのも、この為である。
 かくして世は、好条件でいい会社に入り、安定した暮らしを得ようとするには、まずいい大学を出て、安定度のある一部上場企業か公務員になろうとするのが、この世の常であるようだ。

 しかし、男の中には巨万の富を作りながらも、それでもなお、趨
(はし)り廻り、新しい事業を起こし、更に金儲けを企む人が沢山いる。私も当時そんな夢を追い求めて、奔走していたのである。そしてこの期間、ささやかな、安定した歳月が、緩(ゆる)やかに流れていたのである。


 ─────当時私は、八幡大学合気柔術部の師範もしていたが、そこで“寝身に水”を浴びせかけられるような事件が発生するのである。この事件は、次のようにして始まった。

 八幡大学合気柔術部の主将以下、数名が、八幡東区大蔵にある新日鉄八幡製鉄所の運動クラブである親和会館に連れ出されて、「お前達は我々と一緒にやれ」と唆
(そそのか)されたのである。学生達を連れ出した男は新日鉄社員の福山隆(ふくやま‐たかし)という人物であった。この人物は、自分の叔父さんに、北海道で大東流合気武道の幹事長をしている「加藤」なる人物がいることを強調した。この人物が大東流合気武道を始めたのは、この叔父さんに簡単に投げられたからだと言う。

 この人物は、直接の責任者である師範の私に一言も話をすることなく、勝手に引っ張り出して、大東流を見学する事を強制したのだった。此処の大東流は、新日鉄の運動クラブであるらしく、最近、武田流合気柔術から大東流合気武道に転向・移籍していたと言う事であった。
 その頃から、不穏な事件が次々に起り始めた。

 当時、大東流合気武道と名乗る集団は、“大同団結”を合い言葉に、小さな道場を吸収してその勢力下に入れ、組織拡大を図っていた。その為に、わが流も狙われたのであった。
 世の中の道理は、大が小を呑んで、その組織を拡大していくと言うのが世の常であり、また「寄らば大樹の蔭
(かげ)」と言うことから、人間は小さな傘よりも、大きな傘の下を好むものである。誰でも、頼る相手を選ぶならば、力のある者がよいと考えるのである。これこそ正攻法と言える、世の道理であろう。
 そしてその後、大同団結の波に呑まれ、大半は造反者と成り果てていく。それも仕方のない事であったかも知れない。何故ならば、人間は勢いのいい方に加担するからである。

 八幡大学合気柔術部にもその兆候が出ていた。また、何者かが、裡側
(うちがわ)の扉を開き、敵を侵入し易いようにしていた。いつの世にも、秦の宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)のような人間はいるものである。
 趙高は、始皇帝の崩後、末子胡亥
(こがい)を二世皇帝に立て、のち丞相(じょうしょう)李斯(りし)を獄死させ、自ら丞相となり横暴を極めた“悪党”である。

 二世に鹿を献じて馬といったが、「衆
(しゅう)怖れて皆これに和した」という。劉邦(りゅうほう)の軍が関中(かんちゅう)に入るや、胡亥を殺し、子嬰(しえい)を立てて帝(みかど)としたが、子嬰に殺された。
 趙高は墓穴を掘ったのである。そしてあまりにも日和見主義すぎた。信念の欠如を感じさせる。忠義も見えてこない。趙高を、例え話の引き合いに出すまでもなく、人間とは、事の成行きをみて、有利な方につこうと、形勢を窺
(うかが)うことが、多くの人間の人生の選択肢であるようだ。


 ─────しかし、私はこの道を選択しなかった。独り孤高
(ここう)を保った。
「士は己
(おのれ)を知る者の為に死す」という言葉がある。「己を知る者の為に」、人は死力を傾け、それに尽くし、持てるわが才智を投入するものである。運命を切り開くには、この見通しが立たなければならない。そして私自身、自らを準(なぞら)えて、自らもそうでありたいと願った。

 私は若い頃から『三国志』を傾倒していたので、私のような生まれの悪い、貧乏人の小倅
(こせがれ)に生まれた者は、諸葛孔明(しょかつ‐こうめい)の臥竜(がりょう)を模して、愚を叡智(えいち)に変えることしかなかった。だが一匹狼の習性は未だに抜け出す事が出来ず、既にこの時、人材を欠いていた。難問が生じた時、これを解きほぐし、助言を与えてくれるような“知謀の士”を得る事が出来なかったのである。補弼(ほしつ)の臣に欠けていたのである。私の人間の魅力のなさであろう。

 私は劉備玄徳
(りゅうび‐げんとく)のように、「人を知り、士に待(たい)す」力量もなく、経済的にも一進一退の状態を繰り返し、更に悪い事は、この時より七年前ほどに倒産した美術品(主に刀剣を扱っていた)の有限会社(大東美術商会)の約1億5千万円程度の債務を抱えていたからである。この債務は私にとって巨額であった。この債務を少しでも減らせば楽になるという願望から、儲け話と聴くと、それに直ぐ飛びつく有様だった。家庭教師も、学習塾も、海の家もこうした理由で始め、結局、海の家は雨に祟(たた)られて赤字を出す始末であった。

 欲をかいた所為
(せい)であるかも知れないが、その根本には、私の人間的な“人徳のなさ”が横たわっていたように思う。誤解され易いのも、その習性だろう。
 よく、熱意と誠意とは、人を感動させ、人を動かすと言うが、私は、もっと根本的な習性と言うところに欠陥があったのかも知れない。しかし、欠陥人間であるからと言って、人間を辞めると言う事は出来ない。それでも人間を続けなければならないのである。死ぬまで、永遠の戦士として……。

 闘う戦士である限り、その者の天命は尽きないものと思っている。
 私は若い時はから“天命”の信仰者であった。天命の尽きない者は、如何に叩かれようが、その人間が欠陥だらけであろうが、大病に罹
(かか)って死ぬような思いをしようが、“命の火”はまだ消えないのである。それを信じて、還暦を過ぎた今でも、「ガンと共棲」と言う生活に勤(いそ)しんでいる。

 一方、健康で幾ら丈夫な躰を持っていても、生きる因縁が失われれば、その人はやがて頭の病気などに冒されて、死ぬ因縁を背負わされる。五体のうちでも、頭をやられる。そして死ぬ。


 ─────話は飛ぶが、私は平成13年12月、肝臓の末期ガンとして、余命6カ月と告知された。主治医からは、しきりに外科摘出手術を奨められた。しかし私は主治医の説明に納得の行かないものを感じた。そして一切の現代医学でのガン治療に疑いを持ち、これを拒み、別の方法を探していた。

 その頃、それ以前に、栃木県宇都宮市の柔道整復師・熊坂護
(くまさか‐まもる)氏と知り合う切っ掛けを得て、更に福島県白河市の著名な柔道整復師である渡辺益治先生と知り合う機会を得ていた。この時、渡辺先生は柔道家としても名を為(な)しておられ、また渡辺先生の大の親友に、森下敬一医学博士が居(お)られた。森下医博は自然食学会の会長でもあられ、ガンを食事療法で治す医学者としても著名であった。
渡辺益治(柔道家で柔道整復師)先生と白川城大手門前で。(平成6年5月19日)

 渡辺先生の祖父君は「白川から会津若松まで馬を飛ばして、武田惣角から技を習った」と言う人である。大金持ちだったと言う。明治の初期の、武田惣角を知る人だった。

 その時、習った技が、実は惣角流なのか、あるいは今日に言われている大東流なのか、その真意は分からない」という。しかし「祖父の習った技は、確かに惣角流
(そうかく‐りゅう)と聞いた筈(はず)だった」と仰られた。そうなると、武田惣角は明治のはじめから中期にかけて、大東流は名乗っていなかったことになる。

 渡辺先生と知人の熊坂氏を通じて、森下博士とも縁が出来た。後に筆者は、森下博士と何度か電話でお話をし、躰(からだ)を悪くしてから、大変お世話になったことがある。


渡辺先生から頂いた森下医博の著書『浄血』 『浄血』の裏扉に書かれた渡辺先生の「贈」の肉筆の書名入り。

 ガン告知のその後、私は森下医博の食餌法(しょくじ‐ほう)アドバイスの掟(おきて)を墨守し、玄米穀物菜食を徹底して、人間は果たしてガンで死ぬものか、そうでないか、また人間は病気で死ぬか、天命により寿命で死ぬかを試してみたくなったのである。これこそ、私が“天命”から学んだ、生きる因縁と言うものであった。
 そして得た結論は、人間は病気で死なずに、「寿命で死ぬのだ」と言う事が分かったのである。

私が食べる、朝食抜きの、朝は玄米ジュースなどを飲み、昼と夜の一日2食の食事メニューである。粗食・少食に心掛け、主食は「玄米・雑穀ご飯」と「一汁一菜」である。これらも森下医博から教わった。

 森下医博は次のように言う。「人間の歯型が物語るものは、“粗食”である」と。
 ここで言う「粗食」とは、欧米食に比べて「貧しい食事」と謂
(い)うことではない。
 粗食とは、「蔬食
(そしょく)」のことであり、「蔬菜(そさい)」のことで、季節折々の、旬の新鮮な野菜や青物のことをいう。日本人は旬の穀物や野菜類、それに旬の魚介類を食べて来た食体系を持っている。この実践において、「粗食」と呼称するのである。

 肉や食肉加工食品、牛乳、乳製品、油脂類、白砂糖類などの現代栄養学で謂
(い)う食品に対して、決して「貧しい食生活」という意味ではない。
 「粗食」こそ、日本と言う、四季折々の自然の豊かさが齎
(もたら)した気候と風土から生まれた「素晴らしい食生活」という意味である。

 したがって、動蛋白は人間には不必要な食品であり、現代栄養学が現代人に植え付けた、「肉のアミノ酸神話」や、「牛乳の骨太神話」の呪縛
(じゅばく)からは、解放されるべきである。こうした食品は生活習慣病の病巣になるだけである。この事に気付いたのは、自身がガンに罹(かか)ってからである。



●肉体という牢獄

 人間はどんなに病魔で冒されていようとも、また七転八起の苦しみを、我が身に浴びせかけれられようとも、これだけで人間は簡単に死なない。人が死ぬのは、それは“寿命”によって、である。寿命が死を齎(もたら)すのである。これこそ自然の摂理である。

 また逆に、寿命が尽きていない者は、どんな大病を抱えていても、寿命が尽きるまでは死なないのである。人の生き死に関わるのは、“寿命”である。
 そして、私は天より、まだ“生きる因縁”によって、有り難くも生かされているのである。奇(く)しくも私は、余命6カ月のガン告知以来、「ガンと共棲」する道を選択したのだった。

 そして最近では、東京の知人の宮本啓一
(みやもと‐けいいち)氏から、「ガンで死なない男」として紹介されるようになった。
 宮本氏は、私が病態に鞭(むち)打って、福智山に登る度に、頂上での写真を添えて、私のガンとの闘病の日々をネット上で紹介しいる。また、私の闘病生活を支援する「ガン友の会」のメンバーに向けても、人間は“ガンで死なない”ことを紹介し、一方これは現在ガンで闘っている方の大きな希望と励ましになっている。こうして私が一命を取り留めているのも、森下医博のお陰であった。

福智山山頂を臨む。晩秋はススキの穂が見事である。(平成19年11月24日)

福智山山頂で。月一回、尚道館恒例の福知山登山において。(平成19年9月23日)
福智山山頂で。恒例の秋の講習会において。(平成19年11月24日)
福智山山頂で。陸上自衛隊レンジャー養成員の末坊主と。(平成19年11月8日)

 ガンになって、医者の口車に乗って摘出手術、コバルト照射、抗ガン剤投与などを遣(つ)れば、まだ長く生きられる命も悉々(ことごと)く五年未満で潰えてしまう。これを「五年生存率」と言い、現代医学での医療処置をすれば、多くは五年未満で寿命が費(つい)えると言うのが森下医博の口癖であった。然(しか)して、人間が病気で死なず、寿命で死ぬ。

末坊主は当時、福岡県より最年少で平成17年、1月隊員として陸上自衛隊に入隊した。この時期、私は身体中に烈(はげ)しい痛みを憶えていたので、「最早これまでか……」と死を覚悟し、この時に「剃髪(ていはつ)」することで、自分の、苦しんでも尚生きる事への因縁に感謝する心が芽生えた。
 もし、筆者がガン発症などをせず、今でも元気でピンピンしていたら、とてもこうまで謙虚な気持ちは生まれなかった事だろう。傲慢
(ごうまん)で我が儘だったであろう。

 人間は、わが身に大病を抱え込むと、はじめて「病気」の有り難さに気付き、「生かされる自分の運命」に、謙虚に頭を垂れると言うが、筆者も例外ではなかった。生かされる「天の命」に有り難さを観じ、それに素直に従う事ができるのである。

 ちなみに筆者は、自分の心の中に、常に「余命3ヵ月」の意識があり、自分の余命を3ヵ月事に区切り、この「3ヵ月の余命」を生きる事が出来たら、またそれから「3ヵ月」とし、3ヵ月事に生かされる自分の天命に、心から感謝する事が出来たのである。
 この意味で、人間は「因縁によって生かされる存在」であり、元々「非存在なる人間」が生きていると言う事は、まさに「奇蹟の連続」を実感する次第である。
(写真は平成17年7月17日の、陸上自衛隊後期教育の卒業式)

 生きる因縁を喪(うしな)ったから死ぬという事が分かれば、ガンを告知されても慌(あわ)てる事はなく、充分に死の準備が出来るのである。寿命は、天命が握ると言う天の理(ことわり)が分かれば、死ぬ事はそんなに恐ろしい事ではないと思うのである。

 私の持論だが、人間は病気では死なないと思っている。病気で死ぬのではなく、あれは寿命で死ぬのである。寿命で死ぬのは、老化が齎
(もたら)す。生きる因縁が失われたから死ぬのである。それだけのことだ。人間の「生」には、天命が関わっている。だから、天命の尽きた者は死ぬ以外ない。

 それは諸葛孔明が信じた
“天命”と、同じものであったかも知れない。
 孔明のコペルニクス的発想が大好きである。この転回に於てのみ、人は無から有を生み出す事ができると信じる。したがって私は「天命の信者」なのである。人間の生も死も、それは人間側が決める事ではなく、天命が、それを決めると思っている。
 したがって、病魔に冒され、窮地
(きゅうち)に立たされ、絶体絶命の場面に遭遇したとしても、これに解決策を施すのは天命以外にあり得ない。この場合、人間側は「人事を尽くして天命を待つ」努力だけをすればよい。最終決定は天命が下すのである。私は今でも、本心からそう思っている。

 だから、最初から負けると分かっている“負け戦
(いくさ)”を仕掛けるのも面白いものだと思っている。運があれば、この戦も随分と面白いだろう。
 人は強い者に靡(なび)くと言う。“寄らば大樹の蔭”を決め込むと言う。
 考えてみれば、強い者や大勢力に寄り添って、生き延びていくと言うのが大半の人間の落ち着くところだ。

 これは乱世の戦時にあっても、また今日のように表面上は平和に見える世の中でも、水面下では烈(はげ)しい攻防戦が繰り広げられている。その表面では、仮初(かりそめ)の平和を保って、見掛け上の安泰な平時でも、人の考える事は、やはり寄らば大樹の蔭である。大きいことは、いいことなのだ。人の目には、こう映り易い。まさに凡夫(ぼんぷ)の目である。

 これこそ、戦時・平時に限らず、世渡りの常識的な遊泳術であろう。
 然(しか)し乍(なが)ら、孔明はこの道を選択しなかった。孔明の選択は、安定した政治基盤を持っていた魏
(ぎ)の曹操孟徳(そうそう‐もうとく)でも、また呉の孫権仲謀(そんけん‐ちゅうぼう)でもなかった。
 当時、自分を護るべき城もなく、養うべき手兵も少ない劉備玄徳
(りゅうび‐げんとく)だった。孔明の、“独りわが道を行く”という孔明らしい選択が、この時、一種独特の個性を形成したと言ってもよい。こうした人生を選択した時、天命は最もよく働くと言う事を、私は知ったのである。


 ─────更に、もう一つ個性の選択において感動させるのは、旧約聖書に出てくるアブラハムの生き方であった。旧約聖書に記された「アブラハムの物語」には、次ぎのようにある。
 この物語の、実に劇的な場面は、「時に主はアブラハムに言われた、『あなたは国を出て、親族と別れ、父の代からの家を離れ、わたしの示す土地に行きなさい……』」(創世記第12章、1〜3節)とアブラハムが神のお告げを聴いたことから始まる。

 この神の声に、アブラハムが呼ばれた時は、彼は既に75歳になっていた。老年期も半ばに差し掛かり、余命はそんなに残って居なかった。彼はあまりにも年を取り過ぎていた。旅をして、
“さすらう”には、あまりにも老人過ぎたのである。

 しかしアブラハムは、今まで住み慣れた土地も、物質的な財産も、これらに思い遺(のこ)す執着も、総て措(お)き捨てて、「さすらいの旅」に出る。この旅は宛(あ)てのない旅であり、行方も知れぬ旅であり、また75歳と言う年齢は、あまりにも年を取り過ぎていた。

 だが、彼は旅に出ることを決心する。行方も知れぬ旅の果てに、自分を待ち受けるものは、一体それが何であるかは知らないけれど、神のお告げを信じて、そこに自分を待ち受けるものが素晴らしく善いものである事を信じて、旅立つのである。身は老いても、心の中は一杯の冒険心に溢れた若者で、それらが彼を掻(か)き立てるのであった。かくしてアブラハムは旅に出る。未来に訪れるものが素晴らしく輝いているものと信じて……。
 老朽化して、朽ち果てたように見えた舟は、再び船出するのである。

 老いてなお、新たな目標に向かって旅立つ冒険心は、アブラハム自身が、この旅には、冒険を冒すだけの値打ちがあると見抜いていたからだ。
 この時、これまで溜め込んだものを一切捨てるか、否かの現実問題は、老人にとって非常に苦痛であり、不安であるが、それでも、ただ肉体だけを生かしておいて、老人ホームなどで朽ち果てる余生よりは、精神的には卓(す)ぐれた選択であったといえよう。

 現代人は「健康で若々しく、長生きをして、幸福に暮らす」という事ばかりに眼の色を変えているが、これは多くの場合、肉体的なものへの憧(あこが)れに過ぎない。肉体的なものに固執した長寿では、生きていても殆(ほとん)ど意味がないのである。現実に、肉体に固執して、80歳、90歳と長生きをして、長くは生きて来たけれども、ただ長い歳月を、「自己と言う牢獄」の中で過ごし、一度として冒険をした事の無い老人は多い。

 また、こうした人は、心より人を愛したことが一度もないという人が多い。長生きはしたものの、そこには単に牢獄で過ごした日々と、少しも変わらないであろう。
 そうした歳(とし)の取り方は、長い人生が何とも空虚なものであり、過去を振り変えれば、無駄に、盲目的に、単に生に固執して来ただけの人生であったことが分かるであろう。一生が、催眠術に掛かったような、「眠れる人生」であったのである。

 「眠れる人生」を過ごして来た人は、多くが仕事第一人間であったといえよう。真面目に、無力で善良に、仕事だけに打ち込んで来た人間は、また会社人間として仕事だけに情熱を傾ける余り、配偶者に向けるべき愛情面や、自分の人格を向上させる鍛練が疎(おろそ)かになり、ついには自己探究が出来ず、更には愛する相手を失うと言うことをして来たのである。
 そして、こうした人は、人生が旅であると言うことに、全く気付かなかったのである。

 しかし、私は「人生の旅」を知る機会を得た。それは小が大を呑む、諸葛孔明の生き方を通じてである。



●昭和51年、福島県会津若松での大東流の調査

 私は、先代の山下先生が言われた「わが流は大東流と言う」という、そのルーツを求めて、合気道の本で言う、合気道の発祥の地、会津を調査して廻っていた。
 昭和51年10月、福島県会津若松市を照査した時のことである。

 八光流柔術・皆伝師範から転向した、わが流の岡本邦介師範は、会津若松にも八光流の知人や同門を多く持っていた。そこで、氏にお願いし、こうした方々の協力を得る事になった。私自身も会津若松まで出向く機会を得、大東流について調査する事にした。
 そして、霊山
(りょうぜん)神社、西郷頼母屋敷(現在、会津武家屋敷になっている)、白虎隊記念館・さざえ堂などを調査して廻った。

福島県霊山神社

西郷頼母邸
飯盛山自刃跡

 また、地元の多くの方にも、大東流のことを訪ねて廻ったが、この当時、これを知っている人は一人も居なく、大東流の、「だ」の字も知らなかった。

 近年大東流が有名になったのは、津本陽氏の武田惣角を題材にした武勇伝小説『鬼の冠』や、植芝盛平を題材にした武勇伝小説『黄金の天馬』の発表以降からである。
 これは丁度、昭和30年代まで、全く無名で、当時の歴史教科書には殆ど出てこなかった坂本龍馬が、司馬遼太郎の小説『竜馬が行く』で、爆発的に全国に知られるようになったのと酷似している。世の英雄達は、有名売れっ子作家によって作られるのである。

 私が始めて福島県会津若松市の地を踏んだのは、昭和51年10月頃だった。岡本氏の八光流の同門で、福島県会津若松市に八光流の道場を開き、柔道接骨院も開業されていた桑名利和
(くわな‐としかず)師範を、私は岡本氏から紹介された。桑名師範は、また八光流柔術城代(当時は全国に20人だったと聞く)で、錦紫帯を許された師範だった。昭和23年生まれで、私と同い歳だった。

八光流・桑名利和師範の名刺
桑名師範の父君の名刺
大越敏夫先生の名刺

 桑名師範は当時、福島県立会津総合病院で、柔道整復師や医療技師もされており、幼少時代から剣道をされていたということで、その剣道の師匠である、全国的にも剣道家として有名だった陵武館(りょうぶかん)の大越敏夫おおこし‐としお/当時剣道教士で、七段)先生にも知り合う機会を得た。
 会津若松市に住んでいる人ならば、「陵武館」といえば、知らない人が居ないほど有名な道場である。ここから多くの著名な剣道剣士が育っている。
 また私の知人で、元警視庁の特捜部刑事だった、N
(彼の父親も福島県警の警察官で、陵武館の大越先生も、よくご存知だった)氏も、実は陵武館出身だった。陵武館は多くの有能な人材を輩出した道場である。

 大越先生は、元警察官
(警部)であり、福島県警剣道師範でもあった。福島県下では、知らない人が居ないほど有名な先生であった。福島県警察の剣道大会や剣道選手権大会でも、多くの門人を優勝に導いた先生である。また当時、福島大学の剣道師範でもあり、財団法人全日本剣道道場連盟理事や、福島県剣道連盟理事なども歴任されていた。
 ただ、この頃、大越先生は眼を悪くされていた。その理由を窺うと、ある剣道大会で優勝し、その後、優勝祝で酒を飲み、その席で門人等から胴上げされて、一番最後に支えの手を抜かれて落とされ、後頭部を打ち、それ以来、見えるものがカラーでなく、白黒になったということであった。

 私が、八光流の桑名師範に連れられて、大越先生の道場をお訪ねしたのはこの頃で、当時、剣道五段の23歳のお嬢さんが、道場生の指導に当たられていた。

 この時、桑名師範を挟んで、大越先生からは、いろいろな話を聞かせて頂き、「技を少し見せて欲しい」というので、道場の板張りの上で、桑名師範相手に投げ技を披露したことがあった。そして、大東流のことや、当時福島県や会津若松市で大東流を遣
(や)っている人のことを聞いたが、そんな人は会津若松にはいないということだった。
 また、大東流のことを、西郷頼母屋敷の係員の方に聞いたが、「大東流などという、流派は知らない」ということであった。昭和51年のことである。この事は、会津の観光名所の一つになっている旧会津藩校「日新館」も復元されていなかった。
 ただし、大越先生から「武田惣角は会津藩士である」と、確かに聞き止めた。また、大越先生から、「武田惣角は、確かに直心影流の達人である」ということを聞き止めたのである。大越先生の話からも分かるように、武田惣角は柔術の人でなく、「剣術の人」として会津若松市では通っていたようである。

 桑名師範宅に3、4日ほどお世話になったが、大東流を当時知る人は居なかった。この時桑名氏は、専
(もっぱ)ら、「鍼灸の技術」に興味を持っておられ、私が「大東流には活法として鍼術と骨術(整骨や整体など)がある」というと、「鍼術(しん‐じゅつ)を見せてくれませんか」というので、では、「私が前代から習った透鍼術というのを披露しましょう」と言う事になったので、彼は自分の門人であるレントゲン技師らの医療関係者を集めてくれた。

 そして一人の門人の方に実験台になってもらい、透鍼術の「透鍼」を披露した。鍼は透鍼に遣う、かつて山下芳衛先生から貰った20cmほどの長鍼で、これを手の合谷
(ごうこく)から少府に向けてと、足裏の行間(こうかん)から湧泉(ゆうせん)に向けて刺し、この深々と刺された鍼術に驚愕(きょうがく)し、桑名師範は自分が密かに所持していたポラロイドのレントゲン・カメラ(彼の言では、患者を治療する場合、レントゲンを撮って診なければ分からない怪我ものもあり、その為に所持しているということだった)で、これを撮影した。

 この時、レントゲン・カメラで何度か撮影したが、ピントのボケているものが多く、被験者はこのとき、数多く撮られて、被爆量を超えているのではないかと思われたほどだった。それでも一枚だけ鮮明なもの写真が撮れたが、この写真は、平成3年に知り合いになった、著名な武道評論家の平上信行
(ひらかみ‐のぶゆき)氏に預けてある。彼が紛失していなければ、今も存在するだろう。

 ちなみに、手の「合谷」は手之陽明大腸経
(て‐の‐ようめい‐だいちょうけい)の経穴であり、「少府」は手之少陰心経(て‐の‐しょういん‐しんけい)の経穴であり、また、足の「行間」は足之厥陰肝経(あし‐の‐けついん‐かんけい)の経穴であり、「湧泉」は足之少陰腎経(あし‐の‐しょういん‐じんけい)の経穴である。

 結局、昭和50年代初期、当時の福島県会津若松に於ては、大東流を知る人は皆無であったと言う事である。大東流は普及するのは、これよりずっと後の事である。



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