運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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吾が修行時代を振り帰る 11


●雨に降られ通しの海の家

 理不尽は容赦(ようしゃ)なく、ある日、突然に不幸が襲ってくるということは、よくあることだ。
 こうした不幸に見舞われ、絶望の淵
(ふち)に立たされた時、人はこれに“どう対処するか”で、その人の値打ちが決まると言う。しかし、絶望の淵で、藻掻(も‐が)き苦しむのは、口で言うほど簡単なものではない。
 そして絶望のドン底から這
(は)い上がる為には、ある程度の忍耐と、何よりも「悪運の強さ」を持っていなければならない。
 私には、不思議とそれがあった。

 人生総て、「塞翁
(さいおう)が馬」というが、その通りだろう。その根本には、人生の吉凶と禍福(か‐ふく)は予測できないことが秘められている。これをかくして「運命の陰陽の支配」といい、人はこの吉凶と禍福のそれぞれを増幅させながら生きている。その意味に於ては、私も例外ではなかった。

 昭和54年頃、一旦閉めた学習塾を、約一年ぶりに開設した。昭和55年の4月だった。新学期に合わせたのである。
 この一年間ほどの空白は、仕事を離れ、漂泊の旅に出ていたのである。そして、再び場所を変えて遣
(や)り直す機会を得たのである。

 その後、北九州市八幡西区八千代町の小さな学習塾を皮切りに、八幡東区中尾町、八幡西区上上津役
(かみ‐こうじゃく)、八幡西区永犬丸、八幡西区千代ヶ崎、そして後に七階建の小倉北区馬借(ばしゃく)町にも本部を構えて進出する事になる。
 この間にも、理不尽なる容赦
(ようしゃ)のない不幸は、ある日突然、青天の霹靂(へきれき)という形で襲って来た。しかしそれは、物語の始まる本番前の“序曲”に過ぎなかった。

 さて、この不幸に至る路程は、次のようにして起った。
 それは昭和55年の5月か、6月頃であったと記憶している。
 私はこれまで、女運が悪いのか、結婚と離婚を度々繰り替えした。そして今の“連れ”と一緒になったのは、昭和55年のことだった。
 この年は気候が不安定で、5月、6月は見事な晴天で、毎日が快晴続きだった。今年は空梅雨
(からつゆ)かと思っていたが、7月中旬に入ると、本来ならば梅雨明けするのに、この日から8月一杯にかけて、殆ど雨を降られる天気に急変した。

 私は、当時8歳上の友人で、不動産屋をしている古野紀章
(ふるの‐のりあき)から、「海の家を遣らないか」と、話を持ちかけられた事があった。彼の話を聴くと、経営者の老人夫婦が急病で入院して、今年は海の家が遣れないと言う。亭主が入院して、その夫人が看病するからだ。

 家賃は1ヵ月20万で、この海の家には一切の備品が揃っていて、これを「込み」でということだった。多い時には海水浴客が観光バスで押し掛けて、一日百万円以上の売上があると言う。何故か私は、この「一日百万」という言葉に、つい惹
(ひ)かれたのである。
 場所は津屋崎海水浴場の一劃
(いっかく)に建った、敷地が五百坪ほどで、建坪が百坪ほどの旅館風の“海の家”であるという。そしてこの時、学習塾をしていたので、些(いささ)かの小金は持っていた。
 7月、8月を別の講師に塾を任せ、私は2ヵ月間だけ、海の家の経営に専念することになった。

 私は若い時から、「一日百万」と聴けば、直ぐに飛びつく軽薄な癖
(くせ)があった。選挙ブローカーをして居た時も、一日百万で、さる国会議員の特攻隊を請け負った事があった。それ以来、どういう分けか、「一日百万」という仕事には、つい、軽はずみに乗ってしまうのである。この時もそうだった。これが私の軽率な一面であろう。
 そして、古野の口車に乗って、7月と8月、遂に海の家『舞い姫』を遣
(や)る羽目になった。此処の屋号は『舞い姫』だった。派手な名前であるが、植え込みの電光看板にそうあるから仕方なかった。赤と黒の下地に白い字で『舞い姫』と書かれていた。また、毎年常連の馴染み客の間でも『舞い姫』で通っていた。

 この時、手伝いとして、八幡大学合気柔術部の一年生と二年生の10人ほどをアルバイトとして、初日の一日だけ雇い、海の家の大掃除をしてもらった事があった。この日は酒類や、その他の食糧を運び、それを調理場の冷蔵庫に納めたり、天井に万国旗を飾ったりの仕事で、この仕事は大掃除であり、午前10時頃に始まり、午後3時頃に終った。
 仕事の内容は簡単で、別に力仕事と言うわけでもなく、飾り付けなどの楽な仕事であり、要するに遊びも兼ねた食事付きの、呑んだり食べたりの、7月の「海開き」には少し早い、海水浴までが出来たのである。そしてアルバイト料も、当時の金額では、それ相当と思っていた金額であった。

 アルバイトの八幡大学合気柔術部の学生は、八幡東区枝光から来ていたので、枝光・東郷間の交通費と日当2000円ほどを渡して、これで帰ってもらった。帰り際、彼等は、金の入った封筒を開けて「ちぇ、たったこれだけか」と文句のような陰口を叩いているのを、ちらっと聴いたが、これから先、食糧の仕入などで、軍資金は残しておかなければならないので、この金額で、彼等には我慢してもらうことにした。
 しかしこれが、後で、恨みを買う原因を作るのである。彼等に“仕える”という気持ちなど、毛頭なかったようだ。金でしか動かない現代風の若者であった。

 この年の7月、8月は、実に雨の多い月であった。夏は雨に降られて、寒くて海水浴どころではなかった。
 八代亜紀の『雨の慕情』の流行歌が大ヒットして、巷
(ちまた)で流行(はや)ったのも、この年の、この月であった。
 それでも、日曜日に3日だけ、海水浴日和の見事な晴れで、この時は大型観光バス3台で押し掛ける団体客があって、一日で約60万強ほどの売上となった。
 しかし、他の日は雨に降られてさっぱりで、客は途絶え、一日数人と言う有様だった。それでも地元の女子高生数人を日帰りのアルバイトとして雇っていたので、アルバイト料を払い、また忙しい時に来てくれる古老の板前を雇っていたので、幾ら赤字だとは言え、こうした人達にも報酬
(ほうしゅう)を支給しなければならなかった。

 雨続きの8月後半は、全く客足が伸びず、最終的な損益計算の帳尻は50万円ほどが赤字となり、「一日百万」の日は、結局、拝まず仕舞いであった。よりによって理不尽な不幸に襲われたと言う感じだった。欲をかいて、墓穴を掘ったと言うべきか。

 恐らく、毎年のような夏が来ていたら、海の家は儲かったであろう。しかし、ある年に限って、例外と言う季節が到来し、これが理不尽に襲って来ると言う、苦い経験を学んだのである。充分に成功が見込まれることであっても、物事は自分の描いた、計画通りには運ばないのである。

 その頃、アルバイトの女子高生に混じって働いてくれたのが、今の家内であった。この時の家内は、産業医大の医学部生のところに居候をしていると言う、小児科の看護婦であった。しかし、どういう訳か、この医大生が「自分のアパートに一緒に棲
(す)んでいると、気が散って勉強が出来ないから」と言って、私のところに、ある人を通じて、彼女を連れて来たのである。この医大生にとって、彼女は“お荷物”だったのだろう。

海の家で、地元の女子高生に混じってアルバイトをしていた頃の妻。(昭和55年7月下旬頃)

 連れて来られた当時、二週間前に大分県津久見(つくみ)市から出て来たと言う。そこで、ある小児科の看護婦をしていて、今は知人を頼って、医大生のアパートに世話になっていたと言うのである。一種の放浪癖があるのだろうか。あるいは逃避行か、それ以外の何かの事情があったのだろうか。
 この事が分かったのは、随分後になっての事である。ある宗教とも絡んでいたようだ。追われていたのかも知れない。

 第一印象は、よく喋り、訝
(おか)しな女だと思った。小理屈をこねて生意気だった。言葉の端々から、幾分知能が高いことが分かる。しかしそれにしても、実に愛想がいい。笑顔が美しかった。そして彼女は、海の家で“住み込み”のアルバイトをしてもいいと言うので、「どうして大分(おおいた)から出て来たか」は、深く理由も訊(き)かず、雇ってしまった。またそれが、その後の不思議な縁となった。
 あの時、無理にでも大分に追い返していれば、私と一緒に、辛くて厳しい人生を歩かなくても済むのにと、今になって思うことがある。

 海の家での経営は赤字に転落してしまっていたが、一つの不幸の上に、また一つの不幸が重なる事件が起ったからだ。
 それというのも成績が悪く、また素行も悪い中学三年生の親から、高校受験を来年に控え、このままでは入れる高校がないと言う事で、その時、二名の塾生を「泊まり掛けで預かって指導して欲しい」と頼まれたのである。とにかくこの二名は、日頃から素行が悪かった。警察にも度々補導をされた常習者であった。しかし無碍
(むげ)に断るわけにも行かず、私が経営する海の家で、手許(てもと)に置いて、そこで勉強と生活指導の両方の面倒を見るしかなかった。

 しかし彼等は、実際に自分の手許
(てもと)に置き、よく観察すると、躰も大人並みで、家での食事は肉や油物が多い為か、ニキビ面で、色気付き、異様に性への関心が強く、性欲だけが逞(たくま)しそうであった。こうした子供ほど、多くの問題を抱えている問題児であった。糞ガキの予感がした。その直後に、二人の顔を見て、預からねばよかったと後悔した。それは、とんでもない糞ガキだったからである。

 ある日のこと、この日は一人の女性の泊客があった。歳の頃は三十代前半で、色気をそそる男好きする女性であった。この日、この女性の一行は、大型の四駆の高級クルーザー3台で来ていた。そのうちの1台は、車種の名前は忘れたが、フォードのアメ車だった。この車は、その当時で800万円前後したと思っている。これを、わが海の家『舞い姫』の駐車場に、“デーン”と停めているのである。如何にも金持ちの集団のようであった。

 泊客の女性の話を聞くと、知り合い同士の仲間内で、下の砂浜でキャンプをしていて、この女性だけが、どうしてもテントの中では眠られないということだった。それで泊めて欲しいと、海の家にやって来たのだった。
 この海の家は、宿泊する事もできる設備を持っていたので、これまでにも度々、何人かの宿泊客を泊めた事があった。その日も、別の部屋に何人かの泊客が居た。

 糞ガキは、勉強の傍
(かたわ)ら、客が居る時は、海の家の手伝いもし、泊客には大広間に蚊帳(かや)を吊るなどして、その準備をさせのである。糞ガキ二人にも、この日の泊客の世話をさせた。そして糞ガキ二人は、この女性の見る眼が、異様に何か訝(おか)しいものを感じたのである。この女性を見る眼が、異様に下賤(げせん)の眼なのである。
 寝具を出し、蚊帳を吊り、とした一連の手順の中に、異様な目付きをしてこの女性を見ていたのである。一瞬、何か変な事が起るのではないかと言うことが脳裡
(のうり)を過(よ)ったが、これを直ぐに打ち消した。まだこの時には、泊客の女性の方も、彼等二人に対して、挑発するような訝しな素振りは感じられなかったからである。

 しかし、肉の眼に見えない深層下では、何かが起ろうとしていた。
 私は他の泊客の世話にも追われていたので、糞ガキの異様な目付きと、この女性の糞ガキ二人に対する不自然な挑発への予感は、直ぐに忘れてしまったのである。更にこの女性客が、あれこれと食べ物を注文するので、その仕事に追われて忙しかった。
 この女性が言うのは、知り合い同士で、下の砂浜でキャンプをしているので、下の連中に酒の肴
(さかな)を持って行って欲しいと言う事であった。

 この時、かなりの量、注文を受けたことを覚えている。売り上げ高で換算して、約7〜8万円程度であったろうか。片っ端から注文するので、少し変だと思いながらも、代金は明日、チェックアウトの時に払うと言うのである。本来ならば、宿泊料は前金で、食べ物類は現金引き換えが常識であったし、ここでも他の客にはそれを実施していた。
 ところがこの客に限り、別扱いした。一瞬、注文の品が多過ぎると脳裡を翳
(かす)めたが、それを信じるしかなかった。何しろ、相手は四駆の高級クルーザーで来ている金持ちの連中なのである。幾ら何でも、踏み倒して逃げる事はないだろうと思ったのである。

 そして深夜の2時を廻った頃、事件が起った。
 私の寝ている管理室のドアを烈
(はげ)しく叩き、「おい、起きろ!」というドスの利いた男の濁声(だみごえ)がした。男から事情を訊(き)くと、「お前のところのアルバイトのガキが、俺の女房に悪戯をした」と言うのである。つまりこの男は、ニキビ面の糞ガキが、自分の女房に強制猥褻(きょうせい‐わいせつ)を働いたと言うのである。

 この男は、他の泊客が眼を醒
(さ)ますほどの大声で怒鳴り、あるいはドスの利いた低い濁声で、ヤクザ言葉を遣って、「この落し前、どがんしてつけるんかい!」と脅(おど)し始めた。それはまさに恐喝(きょうかつ)であった。この声を聴いた、糞ガキの二人も、すっかり縮み上がっていた。

 私は「他のお客さんもいるので、もう少し声を落して紳士的に話しましょうよ」と鎮
(しず)めるように言い返すと、男は「ほう、紳士的にかい」と開き直った口調で、自分の女房と思える女性を、手招きして、女性に、どういう状態が行われたか、説明をさせた。女性は一切合切を克明に話し、「しきりに怕(こわ)かった」を連発した。男はそれを受けて、「ほら、こげん言うとるやろが」と、私を潰しに掛かった。

 私が、「では、どうすればよいのでしょうか」と聴くと、「落し前といっとうやろが」と切り返し、「落し前と申されますと?」と、その意味を聞き返してみた。
 すると男は、再び大声で、「お前、落し前も分からんのか!」と再び怒鳴り始めたのである。

 「私はその筋の者ではありませんから、意味がよく分かりません。落し前の意味を具体的に教えて下さい」と切り返してやった。この男は、慰謝料と言う名目の「落し前」を取ろうとしているのである。
 「落し前は、落し前やろが!」
 「では、幾らお支払いすれば、落し前をつけられるのでしょうか」
 この私の言葉を聴いた男は、「お前も分からん奴じゃのう。四の五の言いよったら警察を呼ぶぞ。こちらは被害者だからな」
 「では、警察を呼んで下さい」
 「何だと、このガキ。警察を呼んでもいいんかい?!」
 未
(いま)だに高飛車だった。
 「はい、どうぞ、お好きなように」
 「よーしッ、警察を呼んでやる。吠え面かくなよ!」
 そして、男は店の赤電話から110番したのである。

 こうしたやり取りを聴いて、他の泊客もすっかり眼を醒
(さ)まし、心配そうにこの成り行きを眺(なが)めていた。二人の糞ガキが、行(ぎょう)らしく、きちんと正坐をし、下を向いて頭を垂れていた。

 私は、男が110番した意味を考えていた。恐らく強制猥褻
(きょうせい‐わいせつ)の成立をでっち上げ、これを正当化して、慰謝料をせしめる魂胆であろうと踏んだ。そして私は、まんまとこの男と、連れの女性に嵌(は)められたことを悟った。男は、その筋の者に間違いなかった。この計略は、男が考え、女に実行させたのだろう、餌付きキャンプをタダであげる為に。

 そうこうしているうちに、パトカーが赤色灯を点
(つ)けてやって来た。そして店内に、二人の警察官が入って来た。警察官が事情聴取を取り始めた。本来ならば、糞ガキ二人は強制猥褻の現行犯として、即、逮捕なのだが、15歳の未成年と言う事で、逮捕だけは免れた。しかし、これだけでは済まされなかった。

 強制猥褻の慰謝料として、某
(なにがし)かの金は取られるだろう。
 男は、警察官が引き上げた後も、胡座
(あぐら)をかいて居座り、「それじゃ、ワシはこれだけの精神的被害を受けたんじゃから、慰謝料として、たったの10万、いまずぐ払ってもらおうか。これでも良心的な金額を示しているんじゃ」と本音を吐いた。思った通りであった。

 この赤字続きの店で、その上、10万をむしりとられるのか、と思うと虚しい気持ちになった。「負けろ」といっても、びた一文、負けないであろう。
 しかし、例
(ため)しに訊(き)いてみた。
 「もう少し負かりませんか」
 「何をいっとんじゃい、このガキ!この店の構えで、10万くらいの端金
(はしたがね)、どがんでもなるやろうが!」と、濁声で、逆螺子(さかねじ)を喰らわすように、畳み掛けて来た。

 「では、事が事だけに、この子供達の親も呼びますから、もう少し待って下さい。そして、謂
(い)われた慰謝料は必ずお払いしますから」と言ってやった。
 この男は、私の「必ず」と言葉に満足したのか、少し落ち着いたようだ。

 私は、深夜であったが、事が事だけに、親に電話をした。そして、二人の母親が夜中、タクシーを飛ばしてやってきた。男はやってきた母親の子を睨
(にら)み据えると、大声で一喝(いっかつ)した。
 「お前んところの、ガキは一体どんがんな教育しとるんじゃい。とんでもないガキじゃのう!」と怒鳴って、睨み据えた。その睨みが、堂に入っていた。母親達は米つきバッタのように、お辞儀を何度もし、「大変申し訳ございません」の言葉を連発させていた。

 そして、慰謝料の事を話したが、母親達は言うのである。
 「急な事で、いま持ち合わせがありません。どうか、先生のところで一時立て替えて頂きたいのですが……」と恐縮しながら切り出した。
 私は仕方なくレジ
(自動金銭登録器)を開け、その中から10万円を払うしかなかった。

 男に10万円、耳を揃えて渡すと、男はその金をさっと掴み取り、慣れた手付きで、金を数え始めた。10万円が確かにある事を確認したら、男は「邪魔したな」と言って立ち上がり、そのまま出て行こうとした。

 私は男の後を追い掛け、昨夜の酒の肴
(さかな)の代金とその他の代金や、慰謝料10万円を受け取った受取書を書いてもらわなければならなかった。慰謝料を受け取ったと云う事は、和解したと云う事で、和解した証明としては受取書が要るのである。
 「すみませんが、受取書を書いて下さい」
 「何だと?!」男は金切り声を上げた。
 そして、玄関前に掛かっていたカレンダーをいきなり、千切るようにして破り、「これに書いてやるから、ボールペンと朱肉を持って来い」と言い捨てた。

 ボールペンと朱肉を渡すと、玄関前に立て膝を立てて、だらしなく座り込み、斜に引き千切ったカレンダーの裏側に、受取書の内容を素早く認
(したた)め、朱肉の蓋(ふた)を開けて、左手の人差し指に朱肉を着け、警察署で容疑者が留置所に入る前、持ち物を取り上げられて、その確認の際に、よく遣(や)るような、左手の人差し指を回転させるような動作で認印を認めた。これだけで、この男は前科者である事が分かり、結局、まんまと10万円をせしめ取られてしまったのである。

 そればかりか、「昨日のお食事代と駐車場代を……」と私が切り出すと、「お前んとこは、客に強制猥褻を働いておいて、不味い料理を食わせ、それで金まで払えと言うんかい!」と凄みを利
(き)かせて怒鳴り返し、遂に踏み倒され、この男の筋書きに、まんまと嵌(は)められたと言う事を悟った。無銭飲食で警察に訴えても埒(らち)はあくまい。
 せめて受取書だけでも書かせた事で、諦める以外なかった。

 男が帰った後、夜中に呼び出さた親達は、筋の者の脅しが消えると、今度は私に喰った掛かった。
 「困りますね、前途のあるうちの息子にこんなことさせちゃァ」
 私は「はァ?」と一瞬聞き返したかった。こちらがさせたのではなく、自分の息子が、自分で意志で、性欲を満足させる為に、勝手に強制猥褻を働いたのではないかと言いたかった。この親にして、このガキであった。何
(いず)れも似た者同士であった。糞ガキどもは、自身に、よほどの突然変異が起らない限り、このまま大人になり、“子供大人”の状態で一生を過ごす事になるだろう。未来は見えていた。

 母親達がタクシーを呼んで帰る際、「後で受取書の金額は、二人で折半しますから、少し待って下さい」であった。
 親達もヤクザに劣らないほど、好き放題であった。そして、食事代と駐車場代を踏み倒された事も言ってみた。そうすると、「それはそちらが請求するものでしょ。わたしくどもには関係ございません」ということだった。
 しかし、食事代も駐車場代も、取れないようにしてしまったのは、二人の糞ガキどもが原因していた。

 母親達が帰った後、直ぐに早朝、私の大学時代の友人の警察官に電話を掛けてみた。中野と言う男で、今は福岡県警博多署の暴力団係の強硬班の班長
(警部補)をしていた。彼は警察にキャリアで入ったので、階級は最初から警部補であった。
 受取書に書かれた名前と住所を告げると、「そりゃ、あれたい」という返事が帰って来て、「一体どういうことか」と問い糺
(ただ)すと、「そりゃ、博多でも筋金入りのヤクザたい。争っても、お前に勝ち目はなか」と一蹴(いっしゅう)された。

 そして、「むしろ10万円で納まったのが不思議なくらいたい。これくらいで納まった事を、運がいいと思え」ということだった。更に「あげんな奴は、相手にせんがよか」が最後の駄目押しとしてつけ加えられた。私は本当に運が良かったのだろうか。
 駐車場代はともかくとして、慰謝料を取られ、食事代を踏み倒されたことは痛かった。明日の仕入に困るからだ。

 確かに監督責任を問われれば、私にも非はあるだろう。しかし、夜の夜中に抜け出して、強制猥褻を働くとは全く予測できなかったのである。考えが甘かった。
 その後、所轄の警察署から電話が掛かってきて、二人の糞ガキを連行するように命じられた。この糞忙しい時に、馬鹿ガキを連れて、警察署まで行かなければならなかった。客の面倒を、アルバイトの子らに任せる以外なかった。後ろ髪を惹
(ひ)かれつつ、二人を連行した。連行途中、床屋があったのでそこに寄り、糞ガキどもの長髪を丸刈りにさせた。反省の意味からだ。

 坊主頭の糞ガキどもを連行すると、担当の取調官と思える私服の警察官が、「おお、きおったか、グリーンピースども」と最初に悪態をついた。糞ガキの坊主頭を見てグリンピース
(青豌豆)を連想したのであろう。
 そこで散々説教された後、事情聴取の調書を取られ、ついでに私まで、「監督する人が、しっかり監督しなければだめですね。この子たちは未成年ですよ」と釘を刺された。

 そして、また此処に一つの理不尽が起った。
 食事代は踏み倒された挙げ句、10万円
(二人で分担すれば5万円だが)は少し待てと言う事であった。しかし、この10万円も結局は払って貰えず、塾まで辞めて、8月分の塾の月謝まで踏み倒された。
 そして、警察署では「監督に問題があり」とされた。これこそ、理不尽の最たるものであろう。
 自分に直接関係がなくても、理不尽はこのようにして襲って来るのである。この世とは、何と凄まじい処
(ところ)か。

 親達は親達で、我が子を甘えた環境の中に置き、過保護に育て、“このざま”であった。この二人の糞ガキが塾を辞めた後、母親達は、私の塾の悪口を方々で喋って廻り、自分の事は棚に上げて、塾と私の悪口を吹聴
(ふいちょう)して廻ったのである。その吹聴で、更に塾生が辞めて、他に塾に代わると言う珍事が起った。泣き面に蜂であった。これこそ、理不尽の最たるものであった。


 ─────そして一方、8月が終り、海の家を閉める事になっても、大分
(おおいた)から来た彼女は、なかなか北九州から立ち去ろうとしなかった。「どうしても大分に帰りたくない」というのである。それがまた、彼女の切ない哀願(あいがん)のようにも聴こえた。
 人情から言って、「窮鳥
(きゅうちょう)(ふところ)に入れば猟師も殺さず」の喩(たと)えから、これを無視する事は出来なかった。
 追い詰められて、逃げ場を失った者が、救いを求めて来れば、見殺しに出来ないのが人情ではないか。
 結局、押し掛け女房的に、私の家に居着いてしまったのだが、此処からが彼女の生地獄の人生の始まりだった。何かの問題で、大いに悩んでいたようだ。あるいは追跡者を避けているようであった。

 この時、帰りたくない理由を訊
(たず)ねてみた。すると宗教団体からの追跡者が怕(こわ)いという。
 そして、「どうして俺の処
(ところ)に居座るのか」も訊(たず)ねてみた。

 そしたら「あなたが、わたしに手を出したり、襲ったりせず、紳士で、腕っぷしも強そうだし、頼りになるように見えたから」だった。そして、「世間一般の並の男のように、女と寝ることばかりを考えて、顔が性器のような人とは違っていたから」と、褒
(ほ)め言葉なのか、貶(けな)し言葉なのか、訳の分からない事を言った。

 しかし、私のところに居ると言っても、遊んではおれず、彼女も働かなければ喰っていけないのである。食客として居着くには、心苦しかろう。プライドもあろう。それで、知り合いの女医の小児科医へ、彼女の就職を斡旋したのだった。
 最初は真面目に病院勤務をしていたのだが、いつの頃からか、昼間は看護婦、夜はスナックで働くようになり、二つを使い分けて、水商売に転落していたのである。何て奴だと思った。
 私も塾が忙しいので、彼女の監督までは目が届かなかったのである。

 水商売が発覚したのは、ある店の経営者から彼女が、18歳未満と思われたからだ。
 童顔に見えるので、18歳未満と思われたのだろう。「お前、本当に高校を卒業した18歳以上だろうな?」と訊
(き)かれたそうだ。そして私の処に、身許(みもと)を確かめる為に電話が掛って来たのである。これで水商売をしていることがバレてしまったのである。おまけに病院にもバレたのである。

 そこの小児科の女医から、「監督者がこんな風では困りますねェ」と嫌みのような文句を言われた。
 「くそーッ、いまいましい女医め」と思う。いつも頼みごとには、後で註釈がつくからである。頼んでも、頼まれてもろくなことはないのである。

 しかし預かっている関係上は、これではいけないと思い、水商売からは足を洗わせる事にした。また、「自分の実家に帰えったらどうだ」と、度々言っても帰らなかった。何かを怖がっていたようだ。
 “何で、へんな宗教に入ったんだ?”と、攻める気にもなれず、一先ず此処に置くことにした。
 しかし、男と女が一つ屋根の下で暮らしていれば、近所からも何かと変な噂が立って誤解される。これを解決するには、彼女と結婚する以外なかった。私は先妻と離婚して一年が経っていた。今は自由の身であった。

 そこで冗談半分に、「俺と結婚しないか?」と訊いてみた。そしたら、二つ返事で「してもいい」という。これ自体が訝しな女であった。
 そして、一緒に暮らしても、半年間は夫婦の事は何もせずに、ほったらかしていたのである。この辺も、並の男とは違うと言う事で、彼女は安堵
(あんど)したらしい。女は、精力的であっても、性欲をぎらつかせない男に安堵するらしい。

 歳が約8歳ほど違うし、童顔に見えるので、最初は「女子大生のような……」という表現で、特に進龍一師範からは羨
(うらや)まれたものである。

昭和55年10月頃の、塾の講師をしていた頃の妻・千歳(旧姓、川満)
 知り合った頃は小児科の看護婦だったが、その後、私の波乱万丈
(はらん‐ばんじょう)の激流生活と、数々の事件に遭遇して、彼女は精神を病み、精神分裂病患者として、生きながらに地獄の中に転落していくのである。

 この時の、一見平和で幸せそうに見える笑顔からは、それから先の数奇
(すうき)なる運命を、いったい誰が予想しえたであろうか。

 そしてその後、簡単に籍を入れただけの結婚をした。この結婚に関して、私の知人はおろか、彼女の親兄弟姉妹も一切呼ばなかった。結婚は当人同士がするものであるし、煩(わずら)わしい親戚関係を作る事が嫌いであったからだ。もう、こりごりだと思っていたからである。

 病院を辞めた後、八千代町から中尾町へと引っ越し、そこで彼女を塾講師に仕立て上げ、新たな学習塾の教室を二人三脚で始めたのである。彼女は看護婦になる前、愛知県岡崎市の有名な、偏差値の高い私立短大の教育学部を出ていたので、小・中学生のみならず高校生にも教えるだけの学力を持っていた。全教科について教える事が出来、遣
(つか)い廻しも利(き)いて、便利だった。第一、講師としての給料を払わないで済むし、塾の経済状態は徐々に安定し始めて来た。

 おまけに生徒の面倒見がよく、特に中・高生の女子生徒から慕われ、「ちとせ先生」の愛称で呼ばれ、幾ら扱
(こ)き使っても文句一つ言わなかった。実に重宝だった。当時教室は三箇所に構え、チェーン塾の様相を呈し始めていた。時間割りを作り、遠いチェーン塾まで巡回させて、教えに行かせた。
 そして彼女には、不思議な話術の特技があった。それは月謝を滞納している生徒の家に、片っ端から電話を掛け、「月謝の遅納」を伝えて、やんわりと取り立てる特技を持っていた。集金係としても便利だった。

 ただ心配になったのは、昼過ぎに出かけて行き、夜遅く帰って来るので、その時間になると電停まで迎えに行くか、私も塾を巡回していたので、何処かで落ち合わなければならなかった。いつも迎えに出た時は、電車から降りて来る彼女を見て、ほっとするのだった。

 結局、欲を出して海の家などを遣
(や)らずに、彼女を扱(こ)き使って、とことん遣い廻し、夏期講習の学習塾に専念しておればよかったのだが、これは後の祭りであった。塾に専念すれば、その月の天候などは関係なかったからである。身から出た錆(さび)だった。
 しかしこの錆は、その後の一生を付き纏
(まと)う、不穏(ふおん)なものが感じられた。私の習性的なものであったのだろうか。



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