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吾が修行時代を振り帰る 10

大学指導時代の著者。写真は福岡工業大学合気柔術部の道場において。


●金銭哲学を学ぶ

 私は昭和46年から50年代の初頭にかけて、鹿児島本線沿いの大学に、合気武術の巡回指導をしていた。大学を卒業し、一時高校の教師をしていた頃、その余暇を見て、各大学のクラブ活動を支援して巡回指導をしていた。旗師(行商の刀屋)、刀屋、家庭教師時代も同じだった。

 この頃、JR黒崎駅近くに棲
(す)んでいたが、黒崎と博多間、それに黒崎と小倉間を結ぶ沿線にある大学に巡回指導していた。黒崎と博多間では福岡工業大学を始め、西南学院大学(同学には、既に“富木流競技システム合気道”あり)、福岡大学(同学には既に“合気会”と“万生館”あり)、それに東海大学九州校などを廻っていた。
 また黒崎と小倉間では八幡大学を始めとして、北九州大学、九州歯科大学などを廻って指導を行っていた。そして、この中でも福岡工業大学と八幡大学だけが“部”に昇格していて正式な予算をとり、後の大学は同好会規模で活動していた。

筆者の巡回指導に明け暮れた青年時代。
大東修気館時代に集まった学生達。

 この指導は、高校教師時代だけでなく、刀屋時代、家庭教師時代、学習塾時代にも続けられていた。しかし、福岡工業大学だけは、昭和50年頃になると、合気会系の合気道に転向し、私はこの大学から御祓箱(おはらい‐ばこ)になった。まるで不用品を取り捨てるように、あっさりと解雇されたと言う感じだった。
 福岡工業大学合気柔術部が、私を御祓箱にした理由は次ぎの通りだった。

少数参加で組織が小さく、一地域の大学しか参加していないこと。
合気道のように全国規模でないから、部員の練習の成果を発表する場と機会が失われる。
小組織では、全国的に大学の名を売り出すことができない。
したがって、全国制覇などの大きな目標が掲げられない。
ために部員の練習に身が入らない為に、大きな組織の合気道(合気会)に転向する。

 以上が福岡工業大学合気柔術部の合気会への転向理由だった。彼等は“大きいもの”を、よしとしたのである。わが流のような小組織を敬遠したのだった。
 私が“部”に顔を顕わす時は、表面上、敬うような態度をして、実際は疎
(うと)んじて、大組織への転向を企てていたのである。転向を企てる数日前、私は大学の体育会とクラブに呼ばれ、顧問の大学側の教師と部学生を交えて、三者で話し合って協議すると言う形が取られたのだが、その実は問答無用の一方的な解雇であった。

 私は、私の指導する合気柔術が合気道より優れ、どんなに素晴らしいものか力説したが、大学側は、「あなたが幾ら優れたものを指導しようと、何を選ぶかは学生側にあり、学生本意に考えて行くのが体育会の基本方針で、あなたには一切何も主張する権利はないのですよ」と言われたのだった。
 これを聞いて、“学生本意”という言葉が出た事に、反論する言は直ぐに出て来なかった。

 言いたいことは胸に閊
(つか)えているのだが、煮えたぎる怒りのような感情を押さえるのが精一杯だった。過去の無料奉仕の影像が脳裡(のうり)で交叉(こうさ)するのだが、それを言い顕わす言葉が一言も出て来なかった。胸に閊えたものが何であるか、それは一方的に解雇された不条理な“理不尽”という言葉ではなかったかと思う。

 その後も大学側の人間が、何か、息巻いて青臭い事を、ほざくように言っていたが、耳に入らなかった。その言葉は一応、慇懃
(いんぎん)であったが、その言葉の端々(はしはし)は底意地の悪い、自らを棚(たな)に挙げた言葉だったと思う。学生幹部らの心は、既に合気会移籍へと固まっていた。
 もう、何を言われても、聞く耳を持たないという状態だった。御祓箱になった以上、何を言って我が身を繋
(つな)ぐ必要があろう。

 そして、一時は学生連合会を作るほどの盛会を見ていたのだが、福岡工業大学が抜けると、まるで櫛
(くし)の歯が抜けるように、その他の大学が自然消滅したり、合気道への移籍が図られていた。

 しかし、ただ一校、八幡大学だけは健在だった。そしてこの頃になると、他は脱け去り、八幡大学只
(ただ)一校になっていた。
 その時、これから先の衰退の翳
(かげ)りを見ていたのかも知れない。人間が造り上げた事象の衰退は、情熱が失われることから始まる。私もこの頃、情熱を失い始めていた。

黒崎商店街で刀屋をしていた頃の陳列(写真は昭和48年頃のもの)

 刀屋時代を経て、家庭教師時代に入ると、武術とか武道と言うものが、以外に金にならないことを感じ始めていたのである。使うエネルギーに比べて、その見返りは少なかった。その為に情熱も失われて行く。また最初から何もないところから始めたものは、これまでに存続する組織力のある団体に吸収され、自分の作り上げたものを根こそぎ奪われるのであった。
 この世の中の変化する現象は、多くの組織は、吸収・合併を繰り返しながら、それから弾き出される方が、消滅して行くと言う事実だった。

 また人間と言うものは、見かけ倒しに圧倒され易いもので、マイナーなものは、特にこの傾向があった。やはり大きなものに目移りし、“隣の花は紅
(あか)く見える”のである。
 人は“狭き門”より、大きくて楽な門を好むのである。資本力に負けてしまえば、弱小団体は一溜
(ひとたま)りもなかった。こうした現実に度々直面すると、人間は外に向かわず、裡(うち)へ裡へと入り込み、秘密を秘密にして、もう、これ以上外に洩らさないような心理が働くのである。それは内向力といってよかろう。遂に「教えない」という事になってしまうのである。

 そして私は、家庭教師で小金を溜めた後、小さな資金で学習塾を始めたが、これは中々軌道に乗らなかった。これは教え方云々ではなかった。家庭教師と勝手が違ったからだ。やはり研究する必要があった。全国武者修行が必要なのかと思った。“よそ”の遣
(や)り方を見て学ばなければという気持ちが起り、遣(や)り方を学び、それを研究する必要があった。

 一時、きっぱりと塾を閉め、塾の実態を見て廻る必要があったのである。
 それで一時、仕事も目的も持たず半年ほど九州各地を放浪した事があった。俳人・種田山頭火に準
(なぞ)えて、漂泊(ひょうはく)の旅に出たのである。前の女房と別居していたので気侭(きまま)な旅で、世間を見聞する意味が含まれていた。観察眼を養う事だった。

 その時の旅先で、テレビを見ていて、“大阪の変なオッサン”を知ったのである。このオッサンは濁声
(だみごえ)でドスの利(き)いた大阪弁で、「中学生を見たら一万円札と思え」とほざいていた。得体(えたい)の知れない化け物を見てしまった感じだった。しかし、この正体を検(み)て見なければならないとも思った。私の好奇心をくすぐるのである。

鷲野隆之氏の名刺

 後にこのオッサンは、NHKの『ルポルタージュにっぽん』という、30分の現地報告番組(大阪の進学塾の報道番組)に出て、「首吊りをしている者がいて、よう、死にきれずに藻掻(もが)いていたら、こいつが“金を遣るから足でも引っぱってくれ”と言ったら、金を貰って引っ張ってやれ」と言うのであった。
 首吊り人からも金を取って、金を稼げと言う、大阪のド商人
(あきんど)として知られるオッサンだった。

 このオッサンの名刺には札束を握ったオヤジが、似顔絵入りで描かれていた。そして年賀状や案内状まで、札束を握ったオッサンの絵入りだった。何か、金に対して凄
(すさ)まじい物を感じた。

鷲野隆之氏から貰ったテレビ出演の案内状。(この案内状は、これより後の昭和63年のもの)

 自称「金儲けの天才」と自負し、大阪では“鷲野学校”という商売人相手の、私設学校の“えげつないフランチャイズ”の元締だった。一時フランチャイズ塾(CVSS進学教室/このオッサン曰く、CVSSはコンビニエンス・スクリーング・システムと言うそうだ)をやって、全国的に有名になったオッサンでもある。
 また、このオッサンは、ある民放のテレビ番組で、代々木ゼミナールの高宮理事長と遣
(や)り合うのを見たこともあった。高宮理事長の事を名指しで、「あのオッサン、いったい何やねん……」などと扱(こ)き下ろしていた。

 私は奇
(く)しくも、このオッサンと知り合う機会を得た。私が大阪人と接するようになったのは、このオッサンが初めてであった。鷲野隆之(わしの‐たかゆき)という“変なオッサン”だった。

 第一印象は、毒舌で捲
(まく)し立てる“金の亡者”という感じだった。
 しかし、話を聞くうちに、そこには一本“しゃんと筋の通った金銭哲学”があった。

 金は直ぐに溜まらないこと。金を溜めるには、地道な辛抱がいること。幾ら商魂逞
(たくま)しくても、地と時を得なければ運に恵まれないこと。金儲けのできる人間は、自分を決して偉いなどとは思わず、バカで通して、頭を下げ、人から教えて貰うという低い姿勢を作ること。このオッサンの口癖は、“田中角栄をみてみい!”だった。

 「田中角栄
(たなか‐かくえい)は偉いやっちゃ。角栄が総理大臣になれたのは、自分が小学校しか出ていません。学歴ありませんから、教えてくださいと言いおったことや。これは中々できんことや。ホンマに偉いやつはプライドを捨てて、低姿勢で、人に教えを請う姿勢がある。そこで人間は本当に“無”から出発できて、徐々に力を付けてくるんや」
 そして、何かを始めよう思ったら、“最低でも1億円以上持っていなければならない”ことであった。手ぶらでは、何も出来ないのである。

 「あんさん、なんぼ金欲しいんや?」
 「まあ、仰られるように1億円程度。強いて言えば、1億5千万ほどです」
 「なんや、たったその程度ですかいな。ワシゃ、10億円でも欲しいと言うのやないかと思う取りましたがな。随分とスケールが小そおますな」
 「……………」一瞬絶句した
 「なんで、中途半端な1億5千万なんや。そんな中途半端な金ほしがらんと、せめて3億円強奪犯人のように、3億円くらい言うたらどないや」
 「いいえ、1億5千万で結構です」
 「けったなやっちゃなァ、なんでや?」
 「会社を倒産させて、1億5千万の穴を開けたんです」
 「そら、御苦労なこっちゃなァ、それで1億5千万かいな。しっかりきばりや」

 「しかし、なあ。塾の“上がり”で1億5千万、叩き出すんは容易なことやおまへんで」
 「分かっています」
 「ほなら、あんさん、今財布の中身は幾ら入っとるんや?」
 「まあ、大阪まで出て来たのだから、10万円ほどはあると思いますが」
 「ほなら、その財布見せてみい」

 私は言われるままに財布を取り出し、それを見せた。
 「あちゃー、こら、いかんわ。この財布じゃ、会社倒産させよるわ」
 まるで汚らしいゴミでも見るように言った。
 「どうしてでしょう?」
 「いいか、財布が“よれよれ”で汚くて、くたびれとる。そんなところに金あつまらしませんで。中身、見せてみい」
 言われるままに財布を開いた。

 「やはり想像した通りや。金もよれよれや。こんな汚い、粗末な扱い方したら、“お金さま”が逃げよるわ。ところで、ワシの見てみい」
 背広の裡
(うち)ポケットから二つの財布を取り出した。一つは茶色のワニ革の財布で、もう一つは黒い牛革の財布であった。どちらも見るからに高級に見えた。そして最初に取り出した財布の中身を見せた。
 一万年札がぎっしり詰まり、その札束には封緘
(ふうかん)の帯が懸かっていた。それにピン札で数十枚入っていたから、百万と何十万かあるだろう。総てピン札だった。
 私は黙って見る以外なかった。
 「……………」
 「どや、金ちゅうもんはワシのようなところに集まるんや。何故か知っとるか?」
 「……………」黙って首を降ると、
 「いいか、見てみい。ワシの財布の“お金さま”は皆ピン札やろ。ピン札は気持ちが良い。気持ちの良いところには“お金さま”がやってくる。あいつの財布は気持ちが良い言うてなァ」
 「……………」
 「金を集める基本は、これや。“お金さま”に気持ちよう来てもらわなあかん。それに比べ、あんさんの財布はどうや。気持ちよう来て貰えるような財布か。違うやろ」
 「……………」
 「そんな財布には、“お金さま”、よう、来よらへん。ここの違いが貧富の差を付けるんや。したがって、貧乏人のすることと言ったら、金持ちへの逆恨みや」

 私は鷲野氏の言を、黙って聴く以外なかった。
 そして、もう一つの黒い、牛革の財布を見せたのである。その財布には、財布の扉に、大きな24金と思われる金具で出来た菱形が入っていた。
 「どや?この菱形、何か分かるか?この菱形、怕
(こわ)いでっせ。そや、あんさんも知っとろう、Y組や。神戸のY組の二代目“Tはん”から、もろうた財布や。この中にも、ぎっしり200万ほど詰まっとる。その辺のチンピラなんぞ、この菱形と財布の膨らみ見ただけで逃げ出すんや。これと同じ財布、全国でたったの20人しか持たんのや。金が貯(た)まってくると、こうした“権力”にも預かれるんやで」

 私は唯々
(ただただ)恐れ入るしかなかった。そして、このオッサンから“金”に対する考え方を学んで行くのである。
 しかし、そこで学んだ事は、このオッサンの口癖であった、「人間の性格は本質的には変らない」ということであった。持って生まれた“癖”は、一生変らないと言うのである。人間道として、人間を見る眼力も確かだった。小さなことも見逃さないのである。人を見抜く見識眼は、実に鋭かった。

 そして、自分の金は“鐚
(びた)一文”、使わないのである。みんな付き合った相手から金を出してもらい、自分の財布の一万円札には手を付けないのである。これには確かに哲学があるように思えたが、私には馴染めなかった。

 こうして著名なる金儲けの名人からその極意を学ぶのだが、私は持って生まれた習性と言うか、習気
(じっけ)と言うか、性格上から来る本質は、やはり鷲野氏が言うように、何も変らなかったようである。小心者で、臆病で、引っ込み思案で、度胸に欠ける私は、鷲野氏のように毒舌家にはなれなかった。ネズミのように、細かく、小刻みに、少しずつ前を歩いて行くしかなかったようである。
 しかし、鷲野氏から学んだことは、金儲け以外に、巧妙な詐欺
(さぎ)の手口を防衛する策だった。金を握ると人が集(たか)り、それに乗じて詐欺師が遣(や)ってくると言うのである。

 この詐欺の手口は、単に知能的な手形詐欺ばかりでなく、会社の設立から、ボロ株の押し売り。幽霊会社などのペーパー・カンパニーの代表権買収。更には計画倒産に至るまでの巧妙なやり口や、敵対関係にある会社を潰す、巧妙なやり口だった。これを学んだことにより、私はその後、何度も危機を脱出することができるのである。



●玉より飛車を可愛がる

 再び塾を始めるには、今まで抱え込んで来た物を全部捨てる必要があった。これも鷲野氏から学んだ哲学だった。
 物を捨てると言うことは、捨てた分だけ新しい空間が出来、それが人間を若返らせると言うのである。

 人間は他の動物よりも、何よりも、物を溜め込む習性がある。古くなったものでも、“勿体無い”という気持ちが起り、いつかこれが役立つだろうと思い、溜め込むことである。これは人間にとって、“捨てる”ということが如何に難しいかを物語っている。“勿体無い”の連発だけではダメだと言うのである。

 鷲野氏は、私に云った。
 「あんさん、“玉
(ぎょく)より飛車を可愛がる”タイプと違うか?」
 言われてみれば、その通りであった。

 「このタイプはなァ、肝腎
(かんじん)な時機(とき)に“蜥蜴(とかげ)の尻尾切り”できんのや。蜥蜴みてみい、あいつ偉いやっちゃ。逃げる時には、ちゃんと自分の尻尾切って逃げよる。形(なり)振り構わずに、尻尾の恰好(かっこう)悪さなど気にしよらんと逃げよる。人間は、もっと蜥蜴を見習わなあかん。
 だから、捨てるべき時には、物でも、人でも、何でも捨てる。古い物を一つ捨てなければ、新しい物は一つも取り込むことが出来んのやでェ。限られた面積に棲
(す)む人間生活の智慧(ちえ)は、これが道理と言うもんやがな」

 この鷲野のオッサンには、何か“したたかさの美学”というものがあった。自分の事がちゃんとできる人間は、幾つになっても若々しいとも言う。
 一方それに反して乞食根性と言うものがある。
 俗に言う、「もらうものなら夏でも小袖
(こそで)」という俚諺(りげん)があるように、なんでもかんでも庶民感覚で、貰い放しではよくないというのだ。貰う物は、金だけで宜しいと言う。

 一度、このオッサンの自宅に呼ばれた事があった。家は大阪ばかりと思っていたら、実は京都市に豪邸を構えていたのである。
 京都市左京区○○アガルだった。大層な邸宅に棲
(す)んでいた。応接間に通された時、床の間には日本刀が数振り飾られていた。一目見て安物ではないことが分かった。
 そしてこれに気付いた鷲野のオッサンは、この場の雰囲気を殺気として読み取り、すかさず言うのであった。
 「これ検
(み)てみい。“延房”や。その辺の刀屋に飾っている安物と違いまっせ」
 これを私に自慢げに差し出すのだった。

 私は手許に受けて、鞘を払った。
 「ほーッ、刃文が小錵
(こにえ)で丁字(ちょうじ)乱れ」
 「なんや、あんさん日本刀見れるんかいなァ。その齢
(とし)でたいしたもんや」
 「はあ、些
(いささ)か。これは備前で、建保けんぽ/鎌倉前期で、順徳天皇朝)の頃ですね」
 「随分と詳しいやないか」
 「塾を遣
(や)る前は刀屋でしたから」

 「おもしろい巡り合わせやなァ。ワシも刀が好きや。それに刀は勉強せなあかん。刀は、草木の世話をするのと違うで。人間が草木の世話ばかりをしていると、早よう惚
(ぼ)けよる。定年を迎え、隠居した老人の末路が、どないなるか知っとるか。
 老人が盆栽などをいじって、草木の世話をすることは確かに好ましい。ところが、こればかりに気持ち向かってしまうと、変化に対応できなくなる。
 草木というものは、人間が手を加えんでも黙って育つか、枯れるかの何
(いず)れかや。本質的には、動物ほど厳しい精神状態にない。そこへいくと、人間はどないや。草木以上に厳しい精神状態に置かれとるやろ。そして、人間が作り出したものは、草木ほど単純でない。特に芸術品や美術品というのは、実質は物であるが、これが単なる物でないのや。
 精神的な“何か”がないと、芸術品や美術品は作り出せない。これを作り出すまでには、一筋縄では行かない苦労が伴う。そして最後に出来たのが、日本刀のような芸術品であり、美術品だ。これを作ろうと思ったら、大量生産できないさかい、一振り一振り、みな手作りや。苦労の跡が忍ばれる。それが“匂い”や“錵
(にえ)”や。これが刃文の美しさを構成する。
 日本刀は大量生産される、剃刀
(かみそり)とは訳が違うんや。だから価値がある。この価値は、本来ならば金で買えん価値や」

 鷲野のオッサンは、しんみりとしたことを、弁舌さわやかにたれた。世間では毒舌家で通っている、このオッサンも、別の一面では、人間の心を掴む話術を心得ていた。しかし、余り近付き過ぎると、逆鱗
(げきりん)に触れるような烈(はげ)しさを持っていた。遠くから、距離をおいて付き合うしかなかった。何れにしろ、このオッサンは一筋縄ではいかない、したたかさを持っていたのである。
 私の学ぶべきことも、一筋縄ではいかない“したたかさ”であった。

 かつて私は、京都市在住の、ある人から古美術の考え方と手解きを受けたことがある。
 その人曰く、次のようの言った。
 「“目利
(めき)き”の人に接して勉強しなければなりまへん。本の上だけの知識では役に立ちまへん。この事が、よう分かっとらんと、絶対によい物は手に入れる事が出来まへん。そして、目利きの人から買うか、譲るかしてもらっておけば、必ず、そうした物は日とともに、美術品としての価値がどんどん上がっていき、いよいよ美術品に対して、楽しい希望が生まれくるものどす。
 しかし今までと違い、今後の書画骨董の世界では、余程この道のこと、よう研究や探究せんことには、掘り出し物も見つけ出すことができまへん。
 売る人が目が利かず、買う人が目利きならば、売る人の負けでおます。また、この逆もおます。したがって、いい加減な研究で、自信過剰に陥ったり、修羅場
(しゅらば)の真剣勝負を避けて通るようなことをしていては、よい物を見る目は養われず、こうした事では、まことに浅慮(せんりょう)と言わねばなりまへん。これこそ、固く慎(つつし)まんと、いかんのと違いますやろか。
 更に、これを投機的に買い漁
(あさ)っている人にも、同じ事が言える思うのどす。
 昨今は、投機は株式か、骨董か、と言われておりますけど、株式を買うか、骨董を買うかの問題は、これを同じ土俵の持ち出して論ずるのは、ちと訝
(おか)しいのと違いまっしゃろか。……わては、そこんところが、どうも残念でたまりませんのや」と。

 これは日本刀においても同じだろう。日本刀も、ただ本や刀剣図鑑だけを見ていては、中々“よく見る”ことが出来ない。実物を手にし、あるいは刀剣商から騙
(だま)され、騙されて偽物を掴まされ“高い月謝”を数千万円以上も払わなければ、“よく見る”ことはできない。まさに“目の勝負”である。この勝負を繰り返す度に、目が肥え、本物か偽物であるかを見抜く事が出来、同時に、日本刀の場合は、「美術刀剣」なのか、「実用刀」なのかが、一目で分かるようになるのである。

 ちなみに、「大業物
(おおざわもの)」と言われる“重要刀剣クラス”の刀は、美術刀剣の分野と、実用刀の分野の両方を合わせ持ち、そこに見事な調和を見せて、両方を兼ね備えているのである。
 この“凄さ”を見抜くことができれば、「目の勝負」には勝ったことになり、こうした“教養”は、自分の人生に後々までに役に立つのである。

 しかし、ド素人の、単に“刀好き”は愚物を掴まされると忽
(たちま)ち怒る。“高い月謝”を払ったことがない癖に、自分が掴まされた刀が偽物であったと声を露(あらわ)にしてヒステリックに怒る。愚かなことである。
 ある大東流の指導者の近藤某が、刀屋から偽物を掴まされ、声を露にして怒ったそうだが、これこそ“幼児的”であり、自分の目の勝負に負けたことを反省すべきである。
 人間は、何事も真摯
(しんし)に勉強すべきなのである。そして勉強する以上、“タダ”というのは見苦しく、やはりそれ相当の“高い月謝”を払うべきであろう。幼児的な“坊ちゃん”趣味では何もならないのである。

 私は、鷲野のオッサンと日本刀について同じ趣味を持ち、その領域を共にしていたと言うことは、その後の人生に大きな役割を果たし、同時に庶民階級と付き合いながらも、上の階級の人とも付き合える教養を手にしていたのである。私の経営していた(有)大東美術商会は、時代の読みと、折からのオイルショックなどで潰
(つぶ)される現実を招いたが、かつて刀屋をしていたと言うことは、その後の人生に一種の“教養”として残ったのだった。



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