●有限会社・大東美術商会倒産
私は大学を卒業した後、暫(しばら)くの間、高校教師をしていた。それは卒業の年に、大学院受験に失敗したからであった。
受験失敗で腐っていたところに、かつての高校三年の担任に、博多中洲(なかす)の橋の所で、ばったり合い、ある私立高校の教師の口があると言う事で、そこに暫(しばら)く勤める事にした。しかし、これも長く続かず、半年ほどで辞め、その後、道場と選挙ブローカーとしての、当時、二足の草蛙(わらじ)を履(は)いていた。この間の話は、小説『旅の衣』に詳しいので、此処では省略する。
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| ▲昭和46年、筆者が取得した福岡県公安委員会許可の古物商許可証と古物台帳。そして、屋号は『大東美術商会』だった。 |
これからの話は少し前後するが、昭和48年当時のことである。
学生時代に取得した古物商免許で、この時、黒崎商店街(北九州市八幡西区黒崎)の一劃(いっかく)に、屋号を『大東美術商会』という刀屋をやっていた。店はさほど広くなく、刀剣専門の美術品商であった。店を構えたのは信用を置く為で、旗師(全国の刀剣会の市などに顔を出し、行商の刀屋をこう呼ぶ)として活動するには、やはり自分の塒(ねぐら)が必要だったからである。
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▲大東美術刀剣店の広告
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当時は刀剣ブームであり、刀がよく売れた。しかしその後に、第四次中東戦争が起り、アラブ産油国がアメリカやオランダなどのイスラエル支持に対抗して、原油の減産や値上げを行い、その為、世界経済は大きな混乱に見舞われ、経済の成り行きは不透明化を増した。このときの影響が波及して、第一次オイル・ショック(1973年)が起った。これにより景気は一挙に低迷する。それに連動したかのように、美術品の売れ行きも鈍くなり、究め付けは、第二次オイル・ショックといわれる、1978年に起った“石油危機”であった。
また、ちり紙が不足すると言うデマが流れ“ちり紙騒動”が起ったのもこの頃である。そして、デパートの日用品売り場とか、トイレット・ペーパーを売る薬局などでは、ちり紙を買い求めて長蛇の列が出来た。荷ジョン銃からトイレット・ペーパーが消えた日でもあった。
イラン革命によって、原油価格が急騰(きゅとう)したのである。流石(さすが)にこの時は、売れ行きが鈍ると言うものなどではなく、美術品が“トドメ”を刺されたようにピタリと売れなくなった。美術品どころではなくなったのである。
息の根を止められたに等しかった。さっぱり売れなくなったのである。
抱え込んだ在庫だけがダブつき、刀剣市のオークションに出しても、二足三文で買い叩かれる始末だった。そして遂に、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなった。世界情勢の動向を探る“見通し”が甘かったのである。
この時、はじめて高級美術品と世界動向が連動しているという事を教えられた。
大東美術商会は有限会社だったので、資金繰りに苦しくなって、二度目の不渡り手形を出し、敢(あ)え無く倒産してしまった。あっという間だった。決済する資金繰りが完全に底をついてしまったのである。そして、手形の恐ろしさを知る事になる。それは約束手形の恐ろしさだった。
手形とは、一定の時期に、一定の場所で、一定の金額を支払われるべき有価証券のことをいい、為替手形や約束手形を、こう呼ぶ。手形を振り出すとは、信用の手段として用いられるのであって、これは厳守しなければならないものである。しかし満期日において支払われない手形は、総(すべ)て不渡り手形となる。また、不渡り手形などを出すと、銀行取引の停止処分を受け、事業が継続できなくなる。その上に、履行(りこう)されなかった債務は、手形振り出し人が負うことになる。
一度(ひとたび)、不渡り手形を出すと、倒産処理法に遵(したが)えば、経済的に窮境(きゅうきょう)にある人や、会社の再建をはかったりする場合は、財産関係を清算したり、債権者に配当したりする法律が施行されるが、零細の場合はあってなきようなもので、ただ一方的に、巨額な債務を背負う事になる。
したがって破産法や和議法や会社更生法などは、倒産処理法の対象になり難く、これは裁判所に、更生を図ることを目的とする裁判上の手続をしなければならない。しかし、多くは株式会社に於てのみであり、また零細では、再建の見込みのあるなどとは、とても言えない状態であった。
唯々(ただただ)、債権者に善意を示して謝り、債権を少しずつでも返して行くしかない。刀剣商の場合、刀剣市での「延べ払い」の清算があり、これが複雑で、更に持ち寄った刀が委託品である場合、委託依頼者に直接返すのか、委託請負者に返すのかが不明確で、一応は法的には、事実行為などをする場合に第三者に依頼する本人が債権者の代理となるが、所在がはっきりしない場合は、同じ委託品に複数の人間が押し掛ける事があるのである。
要するに、一つの委託品の支払いを二重三重に履行(りこう)して、二重取り、三重取りをされるのである。私はこの手に度々引っ掛かり、債務を返済するのに大変な時間が懸(か)かった事を覚えている。
一つの委託品の債務に、二重取り、三重取りをするとは、如何なるモラルから起る道徳なのだろうか。明らかに人格を問われるような不道徳きわまりない、まさに理不尽であった。
しかし、とはいっても、払うべきものは払うしか仕方がなかった。父が残してくれた有価証券や、古銭なども処分した。特に父は八幡製鉄の株を10万株ほど持ってた。中学三年の時に父を失ったが、その父が残してくれたものは、八幡製鉄の株と、古銭と、敷地60坪ほどの、猫の額(ひたい)のような土地に、家屋建坪が30坪の古い家だけであった。この時、まだ母がこの家に棲(す)んでいたので、家を処分する事は出来なかったが、株券と古銭は、母の許可を貰って処分する事にした。
当時、八幡製鉄の株は、50円から60円の間を往(い)ったり来たりしていて、殆ど低迷していた。10万株を総て処分しても、500万から600万程度で、それに手数料が差し引かれるから、その時に株価にもよるが、せいぜいよくて500万円強というところだった。こうした小額の金では、まさに焼け石に水であった。株券と古銭を処分して作った700万円ほどの金も、直に右から左へと流れて、負債は一向に減らなかった。その上に、二重取り、三重取りをされるのだから、たまったものではなかった。
人間と言うものは、道理を尽そうとはしない生き物であるらしい。無理を通し、無体(むたい)を平気で押し付け、道理に合わない事に、帳尻を強引に合わせる事が好きらしい。これが人間と言うものか。何と、大いなる矛盾に包まれた、人間の人間たる偉大さであろう。私は、この時、そう感じたのである。
何故、自他に境目を付けて、他を遣(や)り込めるのだろうか。
言い掛かりを付け、論じ詰めて相手を騙(だま)し、それに付け込んで某(なにがし)かの金銭を二重三重に騙し取る。欲深い、汚らしい損得勘定ばかりが先行する。しかし、遣(や)り込められた方は、泣きっ面に蜂で、立つ瀬がない。
こうなると猟をする狡猾(こうかつ)な狩人に、狩られる以外ないのである。私は債務を抱えて喘(あえ)いでいた。
何故こうなったのか?と、自分でも反芻(はんすう)してみる。倒産し、負債を抱えなければならない羽目になったのは、何が原因しているのか考えてみる。
人間には人生において、「得意絶頂」と言う時期が、何回かある。たいてい男は、26〜30歳までにこんな時期が、一度か二度はやって来る。私もその時、26か27歳くらいだったと思うが、そんな幸運に浴した事があった。経験不足の若造でも、思わぬ幸運に巡り会う。しかし、この時ほど危ない事には気付かなかった。気付くよりも、得意になってしまう事の方が先だからだ。
つまり、何事もうまく行き過ぎて、有頂天に舞い上がる時期である。順風満帆(じゅんぷう‐まんぱん)を思わせ、まるで追風に乗って、帆に一杯風を孕(はら)んで、物事が順調に滑って行く、まさに、あれである。こうした得意絶頂期には傲慢(ごうまん)になり過ぎて、周りに起っている事がよく見えなくなり、自分が“大将だ”と思い込み、強気で“行け行けムード”に陥り易い。聴く耳を持たなくなる。謙虚さが失われる。凡夫(ぼんぷ)故に、陥り易い罠(わな)だった。
そしてこの罠に嵌(は)まった時、それでもなお、この事実に気付かない。現実を正しく見据えようとしない。
私もそんな時があった。恐ろしいほど、うまく運び過ぎて、総てが順調に運び、追風に乗っていた。しかし、今になって考えてみると、これは人生の中に何度か起る、人生の“陰陽の支配の有頂天”に載せられただけであった。識(し)らないところで、まんまと操られた観がある。
私が当時、刀屋をやっている時、四十年輩の番頭を雇っていた。
この人は中々の刀の目利家(めきき‐か)で、鑑定士の“金章”を持っていた。私に何かとアドバイスをしてくれ、刀に関しては広範囲の知識を持っていた。それに刀屋商売が非常にうまかった。この人も、かつては刀屋をしていて、それなりの財産を築き、いい時があったそうだ。しかし何故か、店を潰してしまっている。原因は、“時の読み間違い”と言っていたが、私もこの人と同じような、時を読み間違っていたのであろう。
そしてこの事に限り、不思議と反省が蘇(よみがえ)るものだった。人生の“からくり”の何たるかを、曲がりなりにも悟り、自分の方が間違っていたと思うのである。まだ、それだけ柔軟な気持ちを持っていた。頑(かたく)なに、変化の異調を無視し続けるものではなかった。頑なになれば、感情の汚染される。したがって、私の場合、感情で物事を処理しなかっただけでも、まだ救われていると思った。
それにしても、オイルショック前の、ほんの一年程前の、あの強気は何処から来たのだろうかと思う。
番頭と二人で、アタッシュケースに五千万円ほどの金を詰め、かつて、豪農と思われた農家を一軒一軒廻り、未登録の刀を片っ端から買い上げていた。一輪車いっぱいに積んで、“山で幾ら”という買い取ったことがあった。その殆どは錆(さび)ていたが、これを買い付けて、買い付けた物を片っ端から研師(とぎし)に廻し、研ぎ上げてみると、10振りに2振りほどは、名のある刀工の番付上位の刀が出て来た。中には、大業物(おお‐わざもの)レベルの刀も、探し出したことあった。
こうした大業物は、軽く重要美術刀剣になるものであった。長物(ながもの)のマル特(特別貴重刀剣をこう呼ぶ。また「青紙」ともいう)一振り100万円と言う追風の時代、重美は相場から言って、500万円前後だった。勿論それ以上の物もあるし、国宝に近い物あった。そして、外国に持ち出して、美術館や博物館に買い取らせる事が出来れば、1000万円を超える値段がついた。
当時私も、このクラスの刀を何振りか持っていた。
しかし、刀屋にも“二通りのタイプ”の人が居て、刀を商(あきな)いとして考え、ドライに、すぐに右から左に流せる人と、自分の手に入れた刀に惚(ほ)れ込んでしまい、これを手放さずに、自分の手許(てもと)に置きたがる、大体この二通りのタイプが居るようだ。
私は後者だった。刀に惚れる欠点があった。こうした人は、時代を読むことができない。したがって時代に乗り遅れる人である。時の微妙な変化に気付かない。まるで真夏のキリギリスなのである。やがて厳しい冬が来るのにも、無頓着なのである。こうした愚に陥った場合、時代の変化に気付く事に疎(うと)い者は、間違いなく干されてしまう。私も干された、その一人だった。
ただ、苦悶(くもん)の淵(ふち)に立たされて、あとは落ちるばかりだった。しかし“自分の方が間違っていた”と思うだけの柔軟な心があった事は、その後の私の人生を大きく変化させた。
まあ、自慢でもないが、私は自分の前歴を“大したものだ”ということに「こだわらない性格」をしていた。それが救われたといえよう。厭(いや)な事に遭(あ)っても、直に忘れてしまうし、過去の栄光に浸ると言う気持ちが、そんなに烈(はげ)しくなかった。過ぎ去った事は、脳裡(のうり)に残さないのである。実に、“あっからかん”としたものであった。いつまでも“くよくよ”しない質(たち)であった。過ぎた事は仕方がないと諦められるのである。それが、私の精神を狂わせずに済んだ。
一時的に、感情に舞い上がったことでも、直に鎮(しず)まり、物事を冷静に分析する癖(くせ)があった。それは一時的に厭な事があっても、ノートなどに記録に残し、好きなだけその事実を書き殴(な)り、ノートの中に厭な事を閉じ込める事により、一切を忘れると言う特技を持っていた。これにより、思い悩まずに、精神的に随分と救われるのである。
そして幾日か経った後に読み返してみて、自分の至らかった点や、不具合を発見する事が出来るのである。
しかし、これはあくまで、ドン底に叩き落された時だけで、有頂天に舞い上がっている時は、嬉しい悲鳴と、多忙と得意絶頂の為か、こうした“小まめ”な作業をしないのである。そこに失敗があったと言えば、言えなくもない。刀屋の倒産以来、私は債務を少しずつ返し始めていた。
このとき、私は「何によって生きて行こうか」ではなく、「何によって死のうか」と言うようなものを模索していた。つまり、負け将棋を“もう一番”“もう一番”と繰り返すのではなく、頭の中をリセットし、心機一転して、心持ちを変えることが出来たのである。
“心持ちを変える”こととは、同じ事をやるのでなく、一気に“商売替え”してしまうことなのである。総てを御破算(ごはさん)にして、業種を変える事なのだ。
私はそれに「家庭教師」を選んだ。
学生時代、良家の子弟に学習指導した経験を持っていたので、家庭教師のコツを呑み込んでいた。その為に家庭教師を選んだのだった。大掛かりな仕掛けも要(い)らないし、道具も、仕入も要らない。在庫が溜まる事もないし、頭だけで勝負が出来た。自分の頭を売るだけである。資本は頭の勝負であり、それ以外にタフな指導力と、口から発する啖呵(たんか)だけであった。親と生徒を威圧する事が出来れば、それだけで、成績はグングン上がって行くのである。
そして私は、「受験指導のプロの家庭教師派遣」という小さな広告を新聞に出した。
●受験指導のプロの家庭教師派遣
但し、プロの家庭教師派遣といっても、別に何人かの教師を抱えているわけではない。私一人である。私が、その“プロの家庭教師”だった。孤立無援の一匹狼である。
しかし、この一匹狼は、そんなに安売りしない。
二三日経つと、新聞の広告を見て、方々から電話が掛って来た。私はその電話の内容を確かめ、高校生だったら、学区内でも県立高校上位2番以内、あるいは明治学園高校などのカトリック系進学校に通っている女子、あるいは開業医の子弟で、自分の息子や、娘をどうしても医学部に送り込まなければならない良家を対象にしたのでる。
あるいは小中学生でも、未来は必然的に、頭で飯を喰(く)って行く条件下にある子弟だけを相手にした。自分の未来に“人生の計”を立てきらない子供は、結局、家庭教育が間違っていて、目的意識がないからだ。
したがって、目的意識のない子供は、“並”の底辺の人種として、その地位に甘んじなければならなくなる。可もなく不可もなく“並の人”というのは、この辺のランクの人を言うのである。こうした家庭の子弟は、実に疲れる事を知っていた。基本が出来ていないから、基礎学力を付けるのに往生するのである。
私は、もうこの時、人間には“階級があるのだ”と言う事をハッキリと認識していた。それは刀屋をやっていて学んだ教訓であった。私の刀屋商売は、一見全く関係のない家庭教師と言う業種にも、関連性を持っていたのである。
かつての顧客名簿のリストを繰ってみれば、その中には開業医の刀剣ファンが何人か居たのである。既に配達などをして、どの程度の規模の病院を持っているか、家族構成はどうなっているか、それも既に知っていた。また資産家と言う良家にも、受験生を抱える人が何人か居た。心当たりは、既にあったのである。そして新聞広告に頼るばかりでなく、こちらからも、こうした家庭には「プロの家庭教師派遣」という名目で電話攻勢を掛けた。
これに飛びつく親は少なくなかった。しかし、肝心の子供に会ってみて、本人の人物像を確認しなければならなかった。電話に応じて、来て欲しいと言うところには積極的に足を運び、親子面接をし、成績の状態や、細(こま)かな勉強に対する姿勢を聞き取り調査した。そして、いよいよ派遣依頼となると、私自身が家庭教師として、身を運んだのである。
料金一覧表を作り、その料金を見て、高いなどという家庭は、その時点で一切相手にしなかった。値切る人間は、貧しさを理由に“哀れみ”を乞う人間であり、精神も貧しかった。もう、それだけで“人生の敗北者”と思っていた。こうした層は、“触(さわ)らぬ神”であった。これに触らなければ、物事に禍(わざわい)を招くことはない。不幸とは、こうした“触らぬ神”と交わってしまうからだ。心の貧しい人には近付かない事であった。
そして時間給も、半端なものではなかった。びた一文、負けることはしなかった。
「少し負かりませんか」と切り出した家では、その場で席を立った。そして、その後、電話が掛かってきても、絶対に相手にしなかった。触らぬ神に祟りなしである。仮に成績が上がれば、子供に実力があるからだと言い、下がれば教え方が兇(わる)いと家庭教師の所為(せい)にするからだ。
私は当時、学生が家庭教師をする時給の10倍以上の金を取った。“一時間15,000円”という、一見法外な金だった。しかし、この法外な金の家庭教師、つまりプロの家庭教師と自称する、この得体の知れない私に、良家の親達は飛びついたのである。
まんまと図に当ったと思った。
良家の親達は一時間15,000円と聴いても、別に驚きはしなかった。使う金は、資本だからである。この資本は学問で世に立つ資本なのである。土台になる資本を値切れば、軟弱な建物しか立たない。そして、自分の息子や娘が、志望校に入学すればそれでよい事であった。その希望を私は、ただ訊(き)くだけ側だった。
したがって、ある程度成績がよく、学内でも上位で、はっきりとした目的意識を持って、第一志望が最初から決定している子弟だけを相手にした。自分の頭の程度の合わせて、大学や高校を決めると言うレベルの人間は、後でトラブルを起こすのである。また、こうした子弟こそ、金銭の執着は烈(はげ)しく、金離れが悪かった。“生き金”と“死に金”の区別が分からないのだ。
このことを刀屋時代に充分把握しており、例えば重美(重要美術刀剣)などの500万円以上のクラスの刀を買う場合、これを値切る者は、既に日本刀を集める資格を失っていると思っていた。
重美刀剣は、一般の「マル特」以下の刀と違って、いい物であるだけに、持っているだけで価値が上がって行く。いい物を、それ相当の相場で買うと言うのが重美を所持する資格なのである。だから値切らないでも、その利鞘(りざや)は充分にあるのである。それは、良い物は値上がりするからだ。
これを値切る人間は、このクラスの刀を持つに値しないレベルなのだ。
したがって、私の家庭教師の時間給15,000円も、びた一文負ける必要はなかった。
ある日、私はかつて私の店で重美刀剣を何振りか買って頂いた、ある開業医のお宅に電話でアポイントを取ってお邪魔した事がある。この人は、当時2,000万円ほど、私の店で買ってくれた、医学博士の肩書きを持つ著名なお医者さんだった。自宅の横に、当時、入院設備を持つ“U内科医院”が併設されていた。
そして、お宅のお邪魔し、豪華な応接間に通された後、この開業医と顔を合わせた時、この人は大変に驚いたのである。
「どうして刀屋さんが……」というような顔をしていた。最初の電話の応対は奥さんが出たので、この日、家庭教派遣業の人間が来るとは知っていたであろうが、まさかそれにしても、かつて刀屋の私が顕われるとは思いもよらぬ事であったろう。
開業医の驚く顔を余所目(よそめ)に、私は「高校受験の息子さんに会わせて下さい」と切り出した。そして自分の経歴を書いた書類のコピーを渡し、それに一応目を通してもらった。
私の経歴に眼を通す開業医は、「ほーッ……、刀屋さんはこんな経歴の持ち主だったのですか」と感心したようだった。
経歴に書かれた「プロの家庭教師」という項目が、この開業医は特に眼を惹(ひ)いたようだ。
この開業医は、更に経歴の上にタイトルとして謳(うた)ってある「プロの家庭教師」という項目を見ながら「ほーッ……、プロですか……」だけの言葉を残して、それ以外のことは何も言わなかった。
おそらく、この人は“プロ”の意味を知っているのだろう。
人間の努力というものは、この世の中では、そんなに問題ではない。努力よりも、“結果”だけが問題にされる世の中である。ここが学校の教師と、“プロの家庭教師”の違いだった。子供を志望校に、確実に合格させてこそ、プロの家庭教師としての威厳は保たれる。その子供が如何に努力して、歯を食い縛(しば)り、頑張ったとしても、不合格では意味を為(な)さない。
したがって志望校に合格させる条件は、家庭教師の学歴や学閥でもなく、ただ合格させるか、否かに懸(か)かっていた。また教え方云々(うんぬん)でもなかった。要は最終的に、志望校に合格すればよかった。
私の遣(や)り方が一応済むと、今度は息子との面談となった。この席には母親も同行していた。この夫人は中々美人で、刀を配達する当時から顔見知りの人であった。この夫人も、私の顔を見て、「あらッ!」と驚いた一人だった。
さて、息子と対面となった。この息子は、北九州でも屈指の明治学園中学(【註】この学校はイエズス会が経営する学校で、小中高校を有する12年間一環教育をするところで知られる有名校であったが、当時、男子は高校がなく、中三から他の高校へと受験しなければならなかった。その多くは鹿児島ラ・サール、長崎青雲、久留米附設、遠くは灘や開成に進む生徒もいた)に通っていて、現在中三で、志望校は、かの有名な“鹿児島ラ・サール”と言う事であった。学内での成績は上位に居るが、いま一つ合格ラインを出たり入ったりしているというのである。最高のいい時で、学年で4番、悪い時で50番以下に下がってしまうと言うのである。両親の悩みは、実に此処にあった。
安定して、5番以内をキープできれば、ラ・サール合格も実現しようが、出たり入ったりのこの状態にあっては、まず難しい事が避けられなかった。
この開業医は内科医で、一人息子にどうしても、自分の跡を継いでもらいたいふうだった。
面談形式で、親子三人を含めて、それぞれに意見を言ってもらい、志望校合格に対して、どういう方法で迫るか話し合いをしてみた。そして私は、この話し合いの結果を見ながら、親子の会話の総てを聴き逃すまいと慎重に耳を傾け、時には受け応えに対して反論をしたり、信念のほどを確かめたりして、結局、親子三人で話し合った結果、遂に、私に依頼する事になった。
時間帯は、学校に行く前の午前6時から7時までの一時間。夜は午後8時から10時までの二時間で、週3日来てくれと言うのである。ざっと月謝を計算して、一日分三時間で45,000円。これが一ヵ月では54万円前後となる。この54万円を報酬として支払うと言うのである。ある意味で、当時の金としても大金であった。
そして、いよいよ明日からと言う事で、この開業医の自宅に足を運ぶこととなった。
ラ・サールを受験すると言うこの息子は、実に温和(おとな)しくて、躰(からだ)の線が細く、少しひ弱に見えた。しかし、頭がいいと見えて、かなりの集中力もあり、しかしそれでも、数学が苦手と言う事で、親の言では「数学に重点を置いて貰いたい」と言う事であった。感情ではなく、冷静に物を考える知性を子供の時から訓練されているようであった。要するに脳の前頭葉が発達しているのであろう。父親譲りかも知れない。
当時、有名私立の開成・灘・ラサールなどを受験するには、単に中学三年の教科書だけをやっていては駄目であった。県立高校普通科の受験とは訳が違うのである。有名私立を受けるには、特別な受験トレーニング法があった。私は、かつて学生時代に家庭教師の経験があり、数学は教科書を離れた、別の方法で対処しなければならないことを知っていた。
この当時は、駿台進学会が発行していた『高校への数学』という、有名私立を受験する為の、特別な解法が掲載された手引書が、街の書店で500円ほどで売られていた。そこには一般の中学での授業には絶対に出て来ない、「メラニウスの定理」など高度な幾何学が含まれていた。難解な物ばかりを選(よ)りすぐって集め、それに詳細な解法が載っていた。この解法を徹底的に訓練する事により、有名私立の数学受験の対策は完了するのである。
この息子には、『高校への数学』を一冊与えておき、そのトレーニングをさせた。この少年は、その問題形式と解法だけを逸早く理解したのか、勝手に自分で、どんどん先に進んで行くのである。一切教える必要がなかった。勝手に勉強を遣(や)り出したのである。殆ど質問する事はなく、勉強する興味と面白さが分かったようであった。後は、ほったらかしても、自分でやっていける足掛かりを掴んだようだ。
この少年の勉強は、自分の部屋とは違った、12畳ほどの大広間の片隅に置炬燵(おき‐ごたつ)があり、そこで勉強すると言う癖があったようだ。
大広間の片隅には、直ぐ近くに池が隣接していて、時々鯉が跳(は)ねるほど深閑(しんかん)としたところだった。物音は何一つない。鯉が跳ねる音が、たまに聴こえ、後はその少年が書き上げて行く鉛筆のサラサラという音だけであった。
こうなると横で坐っている私も、つい、うとうととして、眠たくなる。そして遂に我慢できなくなって、舟を漕ぎ出す始末であった。そうこうしているうちに、一時間が経過した頃、母親がケーキとコーヒーを運んでくるのである。
母親の跫音(あしおと)が廊下伝いに聴こえて来ると、うとうとしている私に気遣い、「先生、この問題はどうして解くのですか」と気を利かせて訊(き)いてくるのだった。彼は、母親が入って来る事への警戒を促したのである。教える側が寝ていることに懸念(けねん)し、これを気遣って、こう質問するのだった。
私は、彼の声と同時に眼を醒(さ)まし、そこには英語の教科書が突き出されていた。イエズス会が発行した、中三生にとっては、かなり難しいと思える教科書の設問の一節であった。一瞬これを見て、“何と難しい”というのが、私の感想だった。一片で眠気が醒めてしまい、教科書に向き合うと同時に、母親が襖(ふすま)を開けたのだった。私は間一髪(かん‐いっぱつ)であった。勿論、この少年が気を利かせたことは間違いなかった。何て“いい奴だ”と思う。一度に親近感が湧いた。
こうした場合、親の目からすれば、教師が難問に取り組み、その解法を探す為に、一生懸命になっていると映るだろう。母親はケーキとコーヒーを置いて、それを勧めて去っていったが、私はそれどころではなく、難解な英語の設問に組み付いていた。
そして、暫(しばら)く経ってその少年が、次のページをはぐり、「解法の考え方は此処ですよ」といいたげに、それを示してくれた。何だ、そんなことかと思う。種明かしを、その子がやってくれたのである。それにしても、イエズス会が発行した、この中学三年の英語の教科書は、かなりレベルの高いものであった。
こんな状態で、1ヵ月になろうとした頃、この少年も私に慣れたのか、「僕は先生が横に居てくれるだけで勉強が捗(はかど)るのです」と、まるで私を“狸の置き物”のように言う。そして私も、「じゃァ、私は君を見張る狸の置き物か」とやり返してやった。
「そう言うわけではありませんが……」と言い訳のような事を云ったが、この少年は中々性格のいい奴だと思った。大人に混じって、ジョークを飛ばせるだけの知的なものを持っていた。これだけでも、この少年の知的レベルが高い事が分かった。
自分で勉強し、質問は殆どしない。家庭教師にとって、こんないい生徒は、実に有り難かった。
そして、「君は自分で勉強できるんだろ」と訊いてやった。しかしその少年は、「僕は先生のような人が居ないと、落ち着いて勉強に身が入らないのですよ。何か、先生が居るだけで、志望校に合格したような気になるのです」と、中々いいことを言うのであった。
この日、月謝の支払日であり、そのことを忘れていたが、この時、ケーキとコーヒーを持って来たのは、母親ではなく、この少年の姉であった。母親似て、眼の覚めるような美人で、現在、九州大学薬学部の大学院に通っていると言う。博士課程の二学年ともいった。
この日は「母が居ないので」ということで、ケーキとコーヒー、それに今月分の月謝の入った封筒を差し出し、封筒の中には、58万円が入っていると言う。
「どうそ、お改めください」と彼女が云った。
私は、封筒の厚みを指先で計っただけで、「ええ、確かに58万円入っています。確認いたしました」とそれだけを言った。
彼女は不思議そうな顔をして、「中を開けないのに……?」と訊き返した。
私は「間違いありません。確かです」と念を押した。
やがて彼女は首を捻りながら、大広間を出て行ったが、私は指先だけで確認したこの行為を、どう理解しようかと迷っているらしかった。
しかし、私にしてみれば、58万円に2、3万円足らないとしても、それはどうでもよかった。もともと一時間15,000円と言う時間給が高いのだから、足りようが、足るまいが、どうでもいいことであった。要は、この少年を受験の当日まで指導する事であり、それまでの家庭教師にありつけばいいと思っていたのである。
しかし、そうは言っても、やはり気になるものである。家に帰り着くと、急いで鞄の中から月謝の入った封筒を取り出し、この中の58万円を拝んでやろうと言う気になった。開ける前に、「もしかしたら、これが“葉っぱ”だったりして……」と思う。だが、開けてみると、確かに58万円あったのである。
そして、私の狸の置き物風の家庭教師は、功を奏したのか、その少年の成績が一挙に学内でトップに躍(おど)り出て、ラサール合格圏内に入り込んで来たのである。これに開業医の両親は大いに喜び、その後、私に対し、挙げても、低きには置かない“受験の神様扱い”をしだしたのである。
この評判は大きいもので、知り合いの医者の子弟を紹介すると言う事になった。しかし、私は特別頭のいい、素直な子供に当っただけで、ただ運が良いだけであった。普通ならば、こうはいくまい。
この開業医宅から、帰る時、つい時間が遅くなり、最終電車に降り遅れてしまった。それというのも開業医が、友人から譲ってもらった重美の刀があるから検(み)て欲しいと言うのである。重美の認定書が添えられていて、これを1,500万円で買ったと言う。刀の銘(めい)は、「一貫斉秀寿(いっかんさい‐ひでひろ)」で、刀剣マニアの間では「清麿」あるいは「秀寿」という銘(な)で知られていた。
刃文は大出来で、匂いを絞ったような五の目丁字で、“大五の目乱れ”に“砂流し”の金線が駛(はし)っていた。このクラスになると、重美でも2,000〜2,500万円はするだろう。
私は拝見させて頂いて、「いいものを譲り受けましたね」と、ただその一言だけをいった。もう、これ以上何を言う事があろう。
この開業医は、私のこの一言だけで大満足であった。この夜、息子の“学年トップの成績祝”で、簡単な酒食をよばれたのだった。
その為に最終電車を逃してしまったのである。そこで大学院に通ってる、先ほどの娘さんが家まで送ってくれると言うのである。父親の方は、酒に酔っていて運転どころではない為に、娘さんが送ると言うのだった。
父親の乗る黒のベンツの助手席に座り、帰路のコースに、彼女と某(なにがし)かの話をした。大学院博士課程の二学年というから、年の頃は24歳前後であろう。彼女も明治学園の出身で、既に薬剤師の免許を持っており、大学院を修了したら、自分の家(うち)の横に隣接している調剤薬局を経営すると言うのだった。
「先生って、いつも居眠りばかりしているんですってね」彼女が突然こんな事を切り出した。
私は慌(あわ)てざるを得なかった。「えッ?」と、そんな顔をしたように思う。
「でも、不思議に思いますわ。居眠りばかりしている先生が家庭教師をしているだけで、うちの弟は成績がグングン上がるんですもの。わたしなんて、母から弟の勉強を検(み)て欲しいと頼まれて、検てやるんですけれども、一向に向上が見えませんのよ。どうしてかしら……?」
「それは、教え過ぎるからですよ。人間ってのはね、教え過ぎると進歩しないのです。ただ依頼心ばかりが強くなって、自分で考えようとする力が失われてしまいます。むしろ、ほったらかしにして、何もしない方が成績は上がるのです」
彼女は暫(しばら)く黙って運転していたが、何かに気付いたかのように、「ああ、分かりましたわ。人間は自立心を奪うと、退化する生き物なんですのね」と、自分なりに結論を導き出したのであった。
私も、まさにその通りだと思った。何事も、依頼心の強い人間は伸びないのである。成長がそこで止まってしまうのである。満足感が厳禁なのである。安心感も厳禁だ。人間は、いつも飢えていなければならないのである。
自己を進歩させ、時代に対応できるように進化する為には、自分なりに困窮して、打開策を見つけなければならないのである。これを人に頼り、初めから「教えて貰う」という、他人を宛(あ)てにする考え方では、何も進歩は生まれないのである。あれやこれやと、自分なりに研究し、次なる模索をし続けなければ、人間は退化し、落ちぶれて行く生き物なのだ。模索し、こうでもない、ああでもないと迷い、その困苦に耐えぬいてこそ、進歩の跡が見られるのである。
私は、「何も教えない」ことが、実は「本当に教える」ことと思うのである。暗中模索(あんちゅう‐もさく)の手探りの中からのみ、本物を探す事が出来るのである。
本来「学ぶ」という言葉は、「真似る」という語源に発していると言う。則(すなわ)ち、このようになりたいと「真似をする」ことにより、そこから新たな探究心が湧いてくるのである。そこに、実現に向かっての心像化現象が起る。
したがって、「何も教えない」ことは、崇高(すうこう)な真理が横たわっていて、学問ばかりでなく、芸道や武芸においても、根本真理(こんぽん‐しんり)は、みな同じなのである。
私は開業医の息子の成績が、学年でトップになったという事で、その評判を得て、もう一口の家庭教師の口を労せずして紹介してもらう事になった。
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