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吾が修行時代を振り帰る 7


●さらば豊山八幡神社

 私は、吾(わ)が修行時代を振り帰って、そこには様々な私自身の時代区分があるように思う。そしてこの時代区分の時代と倶(とも)に、単に武術修行ばかりでなく、人間としての人生修行もさせられたようにも思う。
 これは波乱万丈
(はらん‐ばんじょう)とも言えよう。使い廻され、動物のように使役され、その挙げ句に逆手を捕られるようなことばかりをさせられてきたように思っている。何度、絶望の淵(ふち)に立たされ、その苦海に沈んだことか。
 それを整理すると、次のようになるであろう。

大東修気館道場は、豊山八幡神社の境内にあった。そして、そこは私の“心の象徴”でもあり、“信念の象徴”でもあった。
 しかし、もう此処には長居を出来ないほどの亀裂が入り始めていた。

職 業
年 代
年齢区分
出来事や事件
高校時代
昭和39年(1964)
〜42年
15歳〜18
昭和40年に大東流修気会発足。
大学時代
昭和42年(1967)
〜46年
18歳〜22
昭和42年に大東修気館創立。沖田二二(つぎじ)氏、道場に理事長として乗り込む。
高校教師時代
昭和46年(1971)
〜同年
(5月〜9月)
22歳〜23
わずか4ヵ月で退職。
刀屋時代
昭和47年(1972)
〜51年
23歳〜27
昭和47年に大東美術商会創設。後に有限会社となる。
昭和50年、福岡工業大学合気柔術部、合気会に移籍。
昭和51年、沖田二二氏の陰謀により、豊山八幡神社の大東修気館、建物の明渡を命じられる。
 この期間は暁鐘の刀屋である「旗師時代」も含む。
家庭教師時代
昭和51年(1976)
〜52年
27歳〜28
約一年間活動。大東修気館、八幡西区森下の『大進流空手道場』に間借。その後、八幡東区中央町に移転。
 黒崎体育館に八幡西支部開設。
学習塾時代
昭和52年(1977)
〜54年
28歳〜30
昭和52年に英数学習道場を発足。八幡西区上上津役に尚道館を置く。
放浪時代
昭和54年(1979)
〜54年
30
大阪の鷲野隆之氏と知り合う。
学習塾時代
昭和54年(1978)
〜60年
30歳〜36
昭和54年に英数塾を発足。尚道館、八幡西区千代ヶ崎に移転。
進学塾時代
昭和60年(1985)
〜昭和62年
(1987)
36歳〜38
昭和60年に進学教室・明林塾を発足。
昭和61年、八幡大学合気柔術部造反事件。
予備校時代
昭和62年(1987)
〜平成2年
(1990年9月)
38歳〜42
昭和62年に大学予備校・明林塾ゼミナールを創立。
平成元年7月、尚道館本部道場完成。
習志野時代
平成2年(1990年9月)
〜平成4年
(1992年1月)
42歳〜44
平成2年9月、有限会社・明林塾倒産。その後、習志野市大久保に移転。
愛知県豊橋時代
平成4年(1992年1月)
〜同年
(5月)
44
八光流師範の松永毅氏に豊橋市に招かれる。
滋賀県大津時代
平成4年(1992年5月)
〜平成13年
(2001年3月)
44歳〜53
東亜ハウス社長・法澤剛雄氏に滋賀県大津市に招かれる。
北九州時代
平成13年(2001年3月)
53歳〜
9年間住み慣れた滋賀県大津市を離れ、妻子を連れて北九州市小倉南区に移転。
平成13年12月、肝臓ガンと診断され、余命6カ月と告知される。

 私は以上の時代の流れの中で、時に流れに翻弄(ほんろう)され、人に惑わされながら、“わが運命”を全(まっと)うした。それは決して生易しいものではなかったように思う。汚辱(おじょく)に塗(まみ)れて生きるようなものであった。一等も二等も下に置かれていた。それは“人徳のなさ”からであろう。そして、時として、大きな誤解を招いた。
 私はこの時、人間と言う生き物は、社会生活を通じて、人間らしい尊敬も、また人間としての能力の総てを喪
(うしな)ったとしても、それでもまだ生きていなければならない生き物であることを知った。それは、介護を必要とする老人が、目も耳も駄目になり、排泄行為も自分で出来ず、垂れ流しの苦痛に嘖(さい)なされながら、それでも一人の人間として生きなければならない、あの過酷さである。

 “運命の全う!”
 それは口で言うほど優しくない。運命の陰陽に縛
(しば)られ、支配される事であった。そしてその渦中(かちゅう)には、常に理不尽が付き纏(まと)った。多くは謂(いわ)れのない事で疑われたり、誤解を受けたり、敵愾心(てきがい‐しん)に似た攻撃を受ける事でもあった。
 これは決して願わしい状態ではないが、心掛けの悪さからそうなるのではないのだから、どうしてこれを悔
(く)やむ必要があろう。一生懸命に、その時その場で生きて来たのだから、どうして遠慮する必要があろう。
 そうなればそうなったで、人間らしい尊厳も、人間の能力も、総て喪
(うしな)った人間として生きればいいのである。
 もし、尊敬や能力のない人間が、人生を生きるに値しない存在と言うのなら、私たちの多くは、赤ん坊の時に命を抹殺されていなければならない。だから、何を遠慮する必要があろう。

 私は憎まれ、恨まれもした。また、死ぬかと思うのではなく、殺されそうに、何度もなったことがある。まさに「出る杭
(くい)は打たれる」のであった。とにかく優れて、抜け出ている者は、とかく憎まれるのだ。能力や徳がなくても、人間が同じようなものだから、自分の非は叩かれるのである。

 その理由は、人間の背後には、羨望
(せんぼう)が隠れているからだ。時には、憤(いきどお)りの対象にされ、攻撃され、無惨なまでの敗北を味わった。それは絶望的と言ってもいいものであった。何故ならば、この世は「理不尽」と言う偉大なる構造で出来上がっているからだ。

 私にとって、理不尽は何処までも襲って来た。しかし、それはそれで私にとっては、偉大なる理不尽のお陰で、「九死に一生を得る悪運」を掴む切っ掛けをつくる要因になったのでもあった。実に、私の悪運の強さは、此処にあると言ってもよい。殺されそうになる度に、「小さな死」を体験し、死を臨死体験することが出来たからだ。
 これは死ねば、こうなるのではないかという、絶望に打ち拉
(ひし)がれる小さな死の体験であった。大東修気館道場時代も、しっかりと「小さな死」の体験をさせられたのであった。

 また、大東修気館道場時代、理事長であった沖田二二
(おきた‐つぎじ)氏に関与され、振り回され、徒労多く、散々だった。その散々な羽目は、まさに使役動物であると言えたであろう。長い目で人生を眺めると、沖田氏も私を鍛える為の、一種の手段に介入した人であったかも知れない。この人のお陰で、あるいは今日の自分があると言ってよいのかも知れない。素直に感謝できれば、私もこれで、大物の仲間入りが出来ようが、まだまだ未熟の為に、感謝できずに葛藤が続いてる。それも私の“小物”ゆえだろう。

 更に沖田氏は、「わが流は“大東流”と言う」先代の山下芳衛先生の言葉だけでは満足せず、ご丁寧に、わが流の“歴史の筋書き”のシナリオまで書いてくれた人物である。有り難いやら、悲しいやら……。あるいは偉大なる理不尽かも知れない。
 しかし、道場で発言権のない私は、沖田氏の使役動物になる以外なかった。また、私が指導を担当していた福岡工業大学合気柔術部の学生達にも、飲みに連れて行くなどして、私の知らないところで手懐
(てなず)けていたようだ。彼等、合気柔術部の学生から心が離れて行ったのも、沖田氏のこうした画策に敗れたからだ。沖田氏は、ものを作るのは下手な人であったが、ものを壊すのは、実に上手な人であった。

昭和44年11月15日に開催された時の福岡工業大学合気柔術部のパンフレット。
 冊子中央には、四ツ菱が入っているが、これは、清和源氏は甲斐武田家の専売特許と思っていたからである。
同パンフレット内に書かれた大東流合気柔術の歴史。それは総て、合気道の本からのコピーであった。

 わが流の歴史のシナリオは、この時、沖田氏によって捏造(ねつぞう)されたものであった。また、これを傍観した私にも責任がある。同罪の罪は逃れないだろう。
 そしてこれは、後々までに禍根
(かこん)を残す事になった。今日、「西郷派叩き」が行われている今日の要因は、此処に起因する。

大東修気館時代初期
大東修気館時代中期〜後期

黒崎体育館時代
黒崎体育館時代の女子の稽古

 大東修気館は当時、破竹の勢いで快進撃をしてた。道場生も日増しに殖(ふ)えていった。各公民館にも、講堂などを借りて代理道場でき始めていた。私が指導員制度を提案し、私以外の指導員が育ち、各公民館で普及の烽火(のろし)を上げたからだ。
 現在のように、他に遊ぶこともないこの時期、私の見通しを立てた思惑は、見事に成功していた。これまで武道に縁のなかった人が、武道に眼を向け始めたからだ。時代の波に乗ったといえよう。

八幡東区高見町の高見公民館・講堂での稽古風景。此処にも多くの若い男女が集まり始めていた。
 わが流の進龍一
(しん‐りゅういち)師範は、この当時入門した門人だった。昭和47年頃。

 大東修気館道場は各々の時代を経て、初期・中期・後期の成長を遂げるが、成長すればするだけ、他からは嫉(ねた)みを買う事になる。人の世とは、そう言うものだろう。また、小さな粗(あら)を探されて、それが叩かれると言うのは、実に人間が不完全で出来上がっているか、雄弁に物語るものであるからだ。

 人の羨望
(せんぼう)と嫉(ねた)みと、更には自己顕示欲と自己宣伝欲は、生涯殆ど消えることはないようだ。前頭葉未発達な人間ほど、この意識は強いようだ。そう言う人間を何人も見て来た。自分は何一つ出来ない癖に、人の欠点を上げて批評し、これを尤(もっと)もらしく論(あげつら)う。何と、人間は理不尽なことか。何と、矛盾した偉大さだろう。

 そして少しでも油断を見せると、この間隙
(かんげき)をついてクーデターが起る。このクーデターを、私はその後何度も経験しなければならなかった。造反に継ぐ造反であった。造反にあたっては、元の師は、造反者たちの槍玉に挙げられ、徹底的に扱(こ)き下ろされる運命を甘受しなければならないのである。これ以上の理不尽はあるまい。

最初のクーデターは老獪者によって企てられた。その原因となったのは、昭和45年の『万国びっくりショー』の出演を巡ってだった。(当時のフジテレビの代理店は大阪の萬年社だった)

 私が既に、豊山八幡神社境内から、追い出される運命を辿っているようだった。
 その原因となったのは、昭和45年の『万国びっくりショー』を巡っての事であった。このテレビ番組に、沖田氏と波多野氏を出演させないと言う理由からであった。

『万国びっくりショー』を担当した萬年社の水野寛氏の名刺。
『万国びっくりショー』を担当したフジテレビの中尾正男氏の名刺。

 しかし、彼等は“大東流”と言う武術も知らず、単に名誉職に納まっているだけで、技術的には何も知らないし、何も出来ないからである。こうした“ド素人”を、どうして熟練者と偽って、テレビに出演させねばならないのか。
 しかし、この事はいつまでも根に凭
(もた)れ、やがて表面化して行くことになる。

 昭和50年頃になると、豊山八幡神社宮司の波多野英麿氏から、近日中に道場を明け渡してもらいたいという申し渡しがされた。まさに“寝耳に水”であった。全くの不意打ちであった。そして私が一番驚いたのは、賃貸法に定められる明け渡しが、一ヵ月後などの猶予期間がなく、即刻「近日中」ということであった。つまり、二三日後に荷物をまとめて出て行けと言う事であった。次の場所を探すのにも、時間がなく、反論も許されず、“問答無用”と言う観であった。裁判所の立ち退き命令も、辞さない剣幕だった。
 それほど彼等は、『万国びっくりショー』に出演できなかったことに肚を立てているようであった。こうした、勘違いされた遺恨
(いこん)も、人間のレベルでは中々解決できないようである。それが「即刻に出て行け」に変わったのである。

 この言葉はあまりにも唐突だった。これを聴いて、後の言葉が直に出て来なかった。言いたいことは胸に閊
(つか)えているのだが、「近日中」という、余りにも理不尽な言葉に、煮えたぎる感情を押さえるのに精一杯で、遂に言葉の一つも出て来なかった。

 私はこの、青天の霹靂
(へきれき)とも言うべき事態を納得し難かった。なぜ追い出されるのか、それが理解し難かった。そして納得できず、とにかく理由を訊(き)いてみようと思い、なぜ近日中に出なければならないのか、それを質(ただ)した。
 波多野氏曰
(いわ)く、次の理由によると言う。そして、その理由を分析すると、あちらこちらに針を含んだような、奇妙な言い掛かりが見え隠れするのだった。
 要するに私への、「所払い」は最初から、何者かによって“計画的”に仕組まれていたのである。

理由1
電話を勝手に道場内に引いたこと。
反論
電話を引いたのは、いちいち社務所に掛って来た電話を受けに行かねばならなかったからである。社務所に一台しかない電話を、道場の用件で塞ぐことは心苦しく、道場と社務所が離れている為、雨の日などは、実に不便だった。そこで電話を引いた。私に掛かって来る電話の内容を、何故、神社側が知らなければならないのか。なお、電話加入などの一切も自前で行った。当時は、電話を引くのに電話債権を買わねばならず、それが17万円ほど掛かった。
理由2
これまでの入会金100円と月謝50円を上げたこと。
反論
当時、ビール大壜が140円だった。入会金100円、月謝50円は理事長で乗り込んだ、沖田氏が勝手に決めたことであり、この時代、習い事が1000〜2000円以上の時代に、50円とは余りにも不可解で、これでは経営困難だった。その上に道場を修理したり、消耗品の交換をするのであるから、教えに行く筆者の交通費も自腹を切る有様だった。それで50円から“500円”に上げたのである。
理由3
神社の行事に熱心ではなく、感謝の気持ちが足りないこと。
反論
此処に集まった道場生は、必ずしも、宗教が神道ばかりの人間ではなかった。仏教もいれば、キリスト教も居た。新興宗教もいるし、無神論者も居た。こうした彼等を私は、「行事に参加しろ」と、強制する権利も、資格もなかった。一体「感謝の気持ち」とは、何を指すのだろうか。私個人では、盆と暮れには、「御中元」と「御歳暮」は欠かさないはずであったが。それも自腹を切って。
理由4
昭和44年の台風で、道場の屋根が一部壊れ、雨漏りはし始めた。その際、その補修工事に、道場生が誰一人参加して直したり、手伝う者が居なかったという。
反論
専門家でもない道場生に屋根に登らせて、どうしろというのであろうか。万一、屋根に登って顛落(てんらく)などをしたら、誰が責任をとるのだろうか。明らかに言い掛かりとしか思えない。こう云ったものは、屋根屋などの専門家に任せるのが常識である。
理由5
神社内の道場は、神社側の持ち物である。ここで使っていない時間帯に、酒席などの場所を提供しても、それは神社側の勝手である。これに文句を言うのは筋違い。
反論
この当時、道場は使わない昼間、地域住人の盆踊りの稽古場になったり、地域の呑み会や、忘年会、新年会の酒席会場となっていた。そして、殆どは後片付けも悪く、食品の食べ残しを片付けるのに大変だった。これを誰かが、神社側に洩らしたのであろう。「お前達は、神社が好意によって遣(つか)わしてもらっているのだから、文句を言うなど、以ての外」とでも言いたかったのであろうか。しかし、後片付けをするのは、使った側の責任ではないか。
理由6
昭和44年11月15日(土)八幡市民会館で行われた演武会は、道場長である波多野英麿氏と、理事長の沖田二二氏を抜きで行われたことは、誠に遺憾である。
反論
この演武会は福岡工業大学合気柔術部が行った演武会で、大東修気館はこれを技術的に関知するが、主催者側は飽くまでも大学の部員であり、わが道場は口出しできなかった。
 本来、この演武会は最初、筆者が計画し、道場生と福岡工業大学合気柔術部の二者合同で行う演武会であったが、道場長の波多野氏と理事長の沖田氏が、「何の相談もなく」という事で、いちゃもんを付け“蹴った演武会”であり、筆者が自腹らを切って会場を借りていた関係から、福岡工大が八幡市民会館で演武会をすることになった。筆者自前の演武会だった。

 私の作り上げた道場は、約10年弱にして追われる羽目になり、残った弟子を連れて、一時、知人を頼り、本部を八幡西区森下電停前の『大進流空手道場』(大林正夫師範)に間借する事になった。
 豊山八幡神社宮司の波多野氏は、私を追い出してしまったのだが、私を追い出して、一体どうなると言うのだろう。その後の大東修気館がどうなったのかは知らないが、私があれから20年ほど経って、神社を訪れた時、道場がもとあったところは取り崩されて、神社境内は夥
(おびただ)しい車の駐車場になっていた。

 もともと豊山八幡神社は八幡製鉄の西門前にあり、製鉄の社員が乗って来る車の駐車場にした方が、道場を遣るより儲かるからであろう。神社は儲かる方を選択していたようだ。

間借していた頃のチラシ広告。もう、この頃は大東流修気会を解散して、沖田氏や波多野氏を抜きにして「日本尚道会」を立ち上げていた。大東流修気会が一新して、名前を日本尚道会に変えたのは、こうした理由による。そして武技の名称も、「合気道」を名乗っていた。

 私はこの時に「近日中に道場を明け渡してもらいたい」という波多野氏の貌(かお)を、未(いま)だに忘れ得ないのである。氏の、顎(あご)を突き出し、そうして語る言葉の端々(はしばし)が、また、ものを言うその眼が、どこな猜疑(さいぎ)に濁っているような感じだった。沖田氏に吹聴された観が漂っていた。どこか、余りにも生臭いものを感じた。しかし、これを言っても始まらなかった。
 「明け渡せ」と言うのであるから、出て行く以外なかった。私は自分の惨めな卑屈さを、精一杯、肚に溜め、呪いたい気持ちで一杯だった。

 また、なぜ追われなければならないか、この時の事を今も反芻
(はんすう)してみる。それを反芻する度に、何度か虚しい疑念に駆られるのであった。そして裏で糸を引いていたのは、沖田二二氏だったと思えるのである。沖田氏は私を追い出して、自分が「合気道を教える」と、波多野氏に根回しをしていたようである。

 これこそ“前代未聞の理不尽”であり、沖田氏は剣道の経験者
【註】初段か二段程度であったが、当時は円心流剣術師範を名乗り、剣道五段を名乗っていた。ちなみに私の知人の元陸軍中野憲兵学校出身者の憲兵だった人で、当時筆者の刀屋の筋向かいで武道具店を経営していた人の話によると、「あの人は剣道の素人ですよ」だった)であったが、合気道や合気柔術を経験したことは一度もなかった。この御仁(ごじん)が私に成り代わり、私が去った後、合気道をこの道場で教えると言う話まで付けていた。そこに生臭い野心への、沖田氏の思惑があったように思う。この人の性癖は、死ぬまで続くだろう。

豊山八幡神社を追われ、「大進流空手道場」を間借した後に、八幡東区中央町に一時、賃貸の道場を構えた。(写真は昭和52年頃)

 思えば約10年弱の豊山八幡神社での道場活動の日々は、余りにも多忙過ぎたといえよう。我武者(がむしゃら)らに突っ走った青春だった。多忙過ぎた日々を顧(かえり)みて、私は人間の観察する“観察眼”の配慮に欠けているように思われた。そして、白けた虚しさを感じながら、私は思うのであった。
 「多感な、一本気の素直な気性こそ強かったけれど、老獪(ろうかい)な人間には、素直さや一途(いちず)さは通用しない」と。

 此処を去る日、私は老獪な人種の企てに敗れたことをはっきりと認識せざるを得なかった。有無も言わせず、所払いを食わされたのだった。これからは失意を凌(しの)ぐ、焦燥の日々が待ち構えているように思われた。これが敗北者の常であるようだ。
 私の肚(はら)には、一晩かかっても、二晩かかっても、言い尽くせない腹立たしい言葉が充満していた。




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