●奔走の日々
沖田氏の独断専行は依然として続いていた。この人の性格は、生涯治らないであろう。そして私は、未(いま)だに沖田氏の使役動物だった。
しかし繰り返すが、沖田氏を悪く言うのではない。世話になったこともある。沖田氏の独断専行は、持って生まれた“一種の性格”であろう。性格は生涯変わらないと言う。それと同時に沖田氏は、クリスチャンにありがちな、善と悪を見事に同居させていた。
善の面を紹介すれば、私が学生当時、沖田氏は黒崎駅が、まだ木造で平家だった頃、ボーイスカウトの制服を着て、駅の便所を掃除しているのを度々見かけた事があった。この人が何で駅の便所を掃除するのかは知らないが、こうした特異な一面もあった。
ボーイスカウトには、「一日の善行」と言うのがあった。一日のうちで、一回でもいいことをすれば、制服のネッカチーフの端を、その日の善行として小さく結ぶのである。何か、善いことをすれば、ネッカチーフの先端を結び、集会に参加するのである。沖田氏の駅の便所掃除も、ボーイスカウトで言う「一日の善行」であったのだろうか。
しかし沖田氏が、やがてボーイスカウト北九州地区連盟のコミッショナーになってからは、こうした姿を見かけなくなっていた。そしてそれ以来、沖田氏の独断専行は烈(はげ)しくなる一方であった。“自分は偉い”と自惚れれてしまったのだろうか。
また当時、ただ一つ部に昇格していた福岡工業大学合気柔術部の幹部連中を自分の店に招いたり、飲みに連れて行くなどの、私に内緒の根回しをしていたようだ。この点、私は常に聾桟敷(つんぼ‐さじき)に置かれ、大学を卒業し、社会人になっても、私はいつも“青二才扱い”されていた。私を呼ぶにしても、弟子の前でも、錚々(そうそう)たる列席者の前でも、いつも「曽川くん」だった。
そして福岡工業大学での合気柔術不発足当時を知らない後進の学生達は、沖田氏が大東流修気会の最高権威者であるかのように思っていたようだ。学生達も寿司屋の前に掲げられた“大東流修気会理事長”の立派な看板に圧倒され、沖田氏を「沖田先生」とよんでいたが、私には「曽川さん」と呼ぶのが通例だった。
その上に、沖田氏の大東流歴史観への捏造(ねつぞう)は益々エスカレートして行った。
特に沖田氏のこだわったのは、「清和天皇」から始まる天皇家の皇胤(こういん)の流れであり、ここに沖田氏の重要な関心事があったようだ。常に清和天皇を持ち出し、新羅三郎源義光(しいら‐さぶろう‐みなもと‐の‐よしみつ)の“大東の館”を持ち出し、甲斐武田家伝説を持ち出し、時には素肌武道の原形と思われる「捕り」の女郎蜘蛛(じょろう‐ぐも)伝説を持ち出す始末だった。その雄弁振りは、堪能(たんのう)で、知らない人が聴けば、もう沖田氏は大師範の域であった。
まるで自分が、その“長”であるかのように、振る舞い、私はその家来に与(く)された小僧であった。この事がまた、道場生からも一等も二等も下に見られる現実を作り出していたようだ。
私が少年の頃に聴いた、山下芳衛(やました‐ほうえい)先生の「わが流は“大東流”と言う」という、この大東流を、大東流合気柔術の大東流と言うのか、大東流合気武道の大東流を大東流と言うのか、いまもって分からない。あるいはこうした流派に関係のない、“大東流柔術”の、別のものを「大東流」と称したのかも知れない。「わが流は“大東流”と言う」この大東流の“下”に、合気柔術が付くのか、合気武道なのか、単なる別の柔術の、大東流を言うのか、それは今持って分からない。
ただ、「わが流は“大東流”と言う」御墨付きだけは、慎(つつし)んで厳粛(げんしゅく)に受け止め、これを名乗りと押す忠誠心だけは最後まで貫きたいと思っている。私が“大東流”を名乗る理由は、「この一点」にあるのである。
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▲『武芸流派大事典』(綿谷雪・山田忠史共著)
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▲大東流“柔”の系統図
(同書521ページ)
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ちなみに綿谷雪(わたや‐せつ)氏と山田忠史氏の共著である『武芸流派大事典』(東京コピイ出版部)には「大東流」と言う別伝が紹介されていて、大東流は“柔”であり、関口流柔術の末流の一派であるとしている。そして同流九代目の関口柔心氏胤(うじたね)の系統であるとしている。更に大東流は“手裏剣”の流派でもあると言う。
その一方で、大東流を“合気”と“導引(どういん)”を挙げ、この流れを清和源氏に対抗して「村上源氏の伝承の術」としている。
しかし、清和源氏(清和天皇から出て源氏を賜(たまわ)った氏で、天皇の皇子貞固・貞保・貞元・貞純・貞数・貞真の諸親王に賜ったが、貞純親王の子と称する経基や孫の満仲は鎮守府将軍に、その子孫頼朝は征夷大将軍に任ぜられた)も村上源氏(村上天皇の子孫から出た源氏で、初代は源師房(もろふさ)に始まる。清和源氏とともに著名で、院政期以後の朝廷に活躍し、久我(こが)・土御門(つちみかど)・六条・岩倉・北畠などの諸家に分れる)も始まりは平安中期の貴族であり、歴史的には非常に疑わしいところがある。その流れの中で、この大東流は大阪堺市に宗家の大高坂清氏がおり、その流れを組んだ人に、茨城市の早島正雄氏が継いでいるようになっている。(早島正雄氏の事については後ほど述べる)
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| ▲第2回福岡工大・合気柔術演武会のパンフレット。中央の四ツ菱は、私も、沖田氏も、大東流は甲斐武田家の流れを受け継ぐものと、当時は信じていたからだ。(昭和45年当時もの) |
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▲パンフレット内の人物捏造。挨拶文に山下芳衛先生が出ているが、この挨拶文と、写真の人物は無関係。筆者は以前、沖田氏から、「お前の持っている資料を全部出せ」と言われて、山下先生の肉筆や英文で書かれたレポートのコピーを既に渡した憶えがある。
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沖田氏はまた、わが流の大会にも役員として登場し、これを何かと仕切ろうとしていた。つまり、ここで派生する入場券の売上などを、沖田氏経由で流し、それを支配しようとしていた。パンフレストの広告代も、入場券の売り上げ金も、一部は沖田氏に流れて行って有耶無耶(うや‐むや)になった。この度に私は金に苦労しなければならなかった。
そして私の金策が、最も頂点に達し、苦しまなければならなかったのが『大東流修気会・和合への道』創刊号の印刷代金であった。これには広告収入があったはずだが、この金が何処に消えたのか皆目検討がつかなかった。悪く言えば持ち逃げされ、“カス”だけが私に押し付けられたのだった。
この印刷代35万円(広告主に聴くと公称5000部で、刷り上がった実質は3000部。一軒当たり3,000円から20,000円と言う。その基準不明)に苦慮することになる。
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▲機関雑誌『和合への道』(表)
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▲機関雑誌『和合への道』(裏)
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この機関雑誌が出来て直後、これに掲載された幹部達は辞めているので、広告収入がいかほどだったか分からない。そして、こうした意味不明な製作物と、それに対しての印刷代などの支払いは、その後も益々続いた。
それは『選手権大会』という名目で、見えないところで多額の金が動き、その金に対して、私は殆ど聾桟敷(つんぼ‐さじき)だった。私は大東修気館では、それほどの発言権を持って居なかったからである。その癖に支払いだけは、私のところに廻って来ると言う有様だった。
下記の大会も、集金した金の流れが使途不明金として消えることが多かった。これらの使途不明金は、大会役員達の飲食費に消えた疑いが大だった。私は、いい様に使われていたのである。
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▲大会の為のチラシ広告
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▲パンフレット
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▲入場券
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▲パンフレット内の大会役員(沖田氏と波多野氏はこの頃から、こうした催し物にも積極的に口を出し、筆者の行動を妨げた)
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▲八幡市民会館の使用許可書
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▲第1回合気柔術選手権大会当時の出版物
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第2回目の大会になると、沖田氏と波多野氏は、露骨に表面に貌(かお)を出すようになっていた。自己顕示欲か、宣伝欲かは知らないが、これが明確に顕れたのは第2回大会の頃からであった。何かと指図され、それに従わねばならないことを覚えている。
私の立場は、一道場生と同じようなものであった。そしてパンフレットやその他の印刷物は、最初の沖田氏の作文は、次から次へとコピーされた。知らないところで動くのであった。もうこれは、私の力では止めようがなかった。一種の“動き出したエネルギー”であろう。最早こうなると、一人の人間の力では止められなくなる。私も、倶(とも)に転がり落ちて行くしかないのである。
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▲第2回大会・入場券
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▲第2回大会チラシ
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▲大会役員一覧。この時、『日本の若い世代の会』を主宰していた、石原慎太郎氏が名誉大会長になっている。
もうこうなると、健全な青少年の集まる道場ではなく、民族派性の漂う「政治結社」だった。
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▲第2回合気柔術選手権大会当時の出版物
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そして第2回大会から、露骨な政治色が表面化し、大東修気館は、日本民族青年同盟などの政治運動に加担する様相を見せ始めた。私はこの中で、政治運動に加担し、指令のまま動かされる使役動物だった。
したがって、政治色が濃厚になると、選挙の度に、一般道場生も駆り出され、これを厭(いや)がって辞めて行く者も出た。誰もが“政治に利用された”と言う感じるのだった。しかし、そう云う私も、その後、選挙ブローカーに成り下がったのである。
●金策の為の上京
道場で機関雑誌を作って、印刷代が払えなくなったことがあった。
この刊行物については、私は全く知らなかった。印刷屋から大量の印刷物が届いてから知ったのである。
これは一部の幹部道場生が勝手に広告を集め、『大東流修気会・和合への道』創刊号(昭和45年10月)を、私に何の相談もなく発刊したのである。内容も、他派の歴史を引用し、間違いだらけであった。
この間違いが、これから約25年を経て、『合気ニュース』というマイナーな武道雑誌から、誹謗中傷の原因を作ることになる。
この誹謗中傷の仕掛け人は、曾(かつ)てわが流の熊本支部をしていた西龍一郎(現在は北海道大東流の九州総支部長)が、宗家代理を自称する近藤勝之に、ご提供・ご衷心(ちゅうしん)したものと思われ、近藤氏の意向が、そのまま『合気ニュース』のスタンレー氏に齎(ふたら)され、同誌の社説欄に2ページにわたり、スタンレー氏の筆によって、インチキ武道家として、私の名前が実名で記載さた。
内容は一方的で、公平と公正に欠け、四流・五流の週刊誌顔負けの、当方の発行物の誤りを、スキャンダル情報のような形で載せ、“鬼の首”を取ったかのように、得意げに誹謗中傷する記事だった。
さて、この間違いを記載した機関雑誌には、私の巻頭言や紹介欄はなく、専(もっぱ)らこの雑誌を作った数名の者が雑誌の冒頭に紹介されていた。私は発行人になっていたが、全くこの事を知らなかった。
そして、福岡市の福岡印刷(株)から、印刷代を35万円請を求されたのである。この雑誌には広告欄があり、この広告の集金については、既に集金が終わった後で、この金銭も一体どこに消えてしまったか分からなかった。
兎(と)に角(かく)印刷代35万円を請求されたのである。
だが、この時期、私にはこの金額がなかったので、この印刷代を作る為に、自分の持っている刀剣類の処分をするしかなかった。それを処分するべく、東京に行くことを決意したのである。
自分の持っている日本刀や小道具を整理し、売れそうな物を選別して、東京の古美術商に売却する予定であった。北九州の地元より、東京の方が高く売れる為である。
東京の大手の古美術商の柴田刀剣や、金座の長州屋、その他の古美術商を廻り、何とか五十万円程の金を作った。この日、代々木参宮橋の刀剣博物館に寄って、刀剣を鑑賞した帰り、当時この近くにあった合気道養神館にも足を運び、稽古を見学させて頂いた。
この時、養神館に訪れたのは2回目であった。昭和46年秋頃にも一度養神館に訪れ、47年元旦には、塩田先生から年賀状を貰っていたからである。
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▲合気道養神館からの年賀状(1)
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▲合気道養神館からの年賀状(2)
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この時、大学時代の友人と倶(とも)に養神館を訪れ、受付で私の名刺を渡し、二人で道場内の末席で暫(しばら)く座っていると、そこに寺田先生が名刺を持って現れ、私に丁重に挨拶した。
そして稽古時間が早いということで、二階の応接室に案内された。更にこの後、串田先生が入ってこられ、大東流の技のことについて色々と訊かれたので、“踏み技”と“影技”を説明したら、合気道にはないということで感嘆の声を上げられた。
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▲合気道養神館で、館長の塩田剛三先生、串田先生、寺田先生から貰った各々の名刺。
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稽古が始まった時、稽古風景を撮影したい旨を伝えたら、快く了解して下さり、8ミリ映画撮影を一時間程させてもらった。(【註】合気道養神館で撮影したその時の8ミリフィルムは尚道館に保存されている)
その途中、塩田先生が名刺を持って現れ、私に丁重に挨拶をした。事前
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▲二人の銀座(レコード・ジャケット)
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に私のことは、寺田先生の方から連絡済であったようだ。道場内の人々は私のような若造に、次々と先生方が挨拶されるので、私がどういう人間であるか興味を持たれたようだ。
稽古が終わって、塩田先生の稽古終わりの締め括りの挨拶に「今日は、九州から大東流の師範が、この道場を見学に来られている」ということを言われ、有り難い紹介を受けて、私は道場生全員の前で一礼した。
当時の養神館は、先生方も道場生の皆さんも、みな和(なご)やかで、好感の持てる人の集まりと感じた。帰ったら早速これを実行し、私の道場も、こうあらねばならないと言う、お手本のようなものであった。
稽古が終わり帰る時、ある女性から話しかけられた。
私は、彼女が誰であるか知らなかったが、目の大きな美人であったと記憶している。袴を履(は)いていたので(当時養神館では師範以外は袴を許可する風習はなかったようであるが、彼女は履いていた。特別であったのだろう)有段者であると思い、「何段ですか」と言った以外は、何を話したかはっきり憶えていないが、立ち話で、彼女と10分程度話したであろうか。
私の案内した者の話では、彼女が女優(当時はアイドルだったようだが)の和泉雅子(いずみ‐まさこ)であるというようなことを言っていたが、彼女が女優であることを知ったのは、九州に戻った後の、テレビの中で、彼女が男性歌手と、『二人の銀座』という歌を唄っている時であった。
これは昭和47年10月頃であったであろうか。
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