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吾が修行時代を振り帰る 5


●『桂小金治アフタヌーン・ショー』の出演

 NETテレビ(現在のテレビ朝日)から、豊山八幡神社の社務所に、「若い師範で、大した技を使う若者がいるらしい。テレビに出演しませんか」という電話が掛かってきた。そして「ぜひ、桂小金治アフタヌーン・ショーに出て欲しい」という依頼があった。
 この出演要請に、沖田氏も勿論の事、飛びついて来て、宮司の波多野氏も躍
(おど)り上がって喜んだ。北九州と言う地方から、中央に打って出る足掛かりが掴めるからだ。

 そしてこの時、理事長である沖田氏から出演メンバーが発表されたのである。意外だった。武術に素人の沖田氏が口出しをしているからである。私が決めていたメンバーは、殆ど無効にされ、とにかく沖田氏の一言で、全てが決定されてしまったのである。

 そして、私が全く予想していなかった一人が、沖田氏の駄目押しで、出演する事になってしまったのである。その駄目押しで、予想もしなかった人物は、北九州市教育委員会に勤める県立八幡中央高・出身の中級公務員で、『中道新報』という政治新聞を出している編集長でもあった。この人物の名は、香原某といい、“生長の家”
【註】神道系の新宗教で、初代会長は谷口雅春(たにぐち‐まさはる/1893〜1985)だった。大本教(おおもときよう)から去り、1929年神示を受けたとして、翌年創刊した個人雑誌「生長の家」を通じて布教。宇宙を久遠の生命の在り方としてとらえ、万教帰一と天皇絶対を強調した。なお、谷口氏は、八光流の創始者・奥山龍峰師とともに武田惣角から大東流を習った人でもある。また字学の無い惣角の代書者でもあった)のメンバーでもあった。沖田氏の“子飼いの犬”というところであったのだろう。

 香原某が道場に入門する時、「私は沖田先生の鞄持ちで、『中道新報』の編集長・香原といいます」と自己紹介し、沖田氏を持ち上げるのであった。そして、その後、香原某からも遣
(や)り込められ、絡め捕られていくのである。その理由は、私が彼等より“弱年”と言う事であった。
 この派閥集団の口癖は「師範は、技が些か出来ても、人生に於ては“ずぶの素人”だから」と言うことだった。この事が彼等によって、大いに吹聴されたのである。私も“人生のずぶの素人”と言われれば、それを素直に受け止め、自称“人生の玄人”に従う以外なかった。

 この時の初めての“テレビ出演”は、道場生を湧
(わ)かせるだけでなく、その関係者も大いに舞い上がった。昭和44年(1969)3月のことである。
 テレビ局から、編集局の次長が訪れた時、上げ膳、据え膳の、老獪者
(ろうかい‐しゃ)連の歓迎振りだった。勿論これを仕切ったのは、沖田氏である事は言うまでもない。私の技術など、全く問題にされず、ただ沖田氏の巧妙な話術が生きていた。沖田氏一人が自己宣伝に奔走(ほんそう)した。

 そして、いよいよメンバーが選ばれ、その内訳は、私と同じ大学の福島某
(当時、師範代で初段)、高校教師の藤木某(二級)、高専教官の日笠山某(二級)、八幡製鉄職工の戸山某(二級)、同職工の沢田某(二級)、中央町商店街で食堂を経営する田辺某(三級)、それに北九州市役所・教育委員会の香原某(四級)に、勿論、沖田氏と波多野氏、更には波多野氏の奥さんの妹と称する人まで、連れて行く事になり、総勢は私を含めて11名であった。

 その上に、波多野氏と義理の妹さんは飛行機で行く事になり、編集局の次長から預かった金は、総て沖田氏が預かって仕切る事になり、11名と言う大世帯での参加で、交通費は不足が出ると言う有様だった。均等割りして、足らない分は自腹を切れと言うのであった。
 また、テレビ局側も、こんな“大世帯で来てくれ”と、要請まではしなかったのである。テレビ局の予算は、私と、それに“受け”を遣
(や)る二人程度の人間を予定していたようである。それなのに、沖田氏に仕切られた為に、私の出る幕はなく、沖田氏から国鉄のキップを渡された時は、八幡駅から鈍行で山口県の小郡駅(おごうり‐えき)まで行き、小郡から『特急はやぶさ』に乗れと言う事であった。

 理由は「師範は出演時間が長く、重労働なので、寝台で、楽にして行かせてやろう」ということであったが、特急寝台の乗り継ぎ駅が小倉ではなく、遠く離れた山口県の小郡からであったから、それが果たして楽かどうか。
 それに特急に乗ってみると、私の寝床は、三段寝台の「上」であり、此処に上がるのも一苦労で、便所などで下に降りる時も非常に不便で、この上り下りに、非常に難儀した事を覚えている。その上、朝になると「二等車寝台」は、ベットを片付け、畳みに来るので、午前7時までに起きていなければならず、荷物を持って廊下側に整列させられ、寝台車に揺られて東京までとは行かなかった。
 そして、当時の寝台車の場合、今までベットであった「下」の寝台が東京までの椅子代わりになり、「下」と「中」の乗客が此処を大きく占領する為、結局、「上」に居た者は、廊下の補助椅子に弾き出されてしまうのである。

 この日、特急寝台は大幅に遅れていたので、途中で徐行になったり、信号停止をしたりで、遅々として進まず、この時間が非常に長く感じたことを覚えている。

 そして『特急はやぶさ』は、午前9時に、東京駅に着く予定になっていたが、この日は大幅に遅れ、東京に着いたのはアフタヌーン・ショーが始まった5分過ぎの“12時5分”であった。東京にはj不馴れの私は、八重洲口の方をあちらこちらと走り回り、駅で、やっとタクシーを探したところだった。
 運転手に「港区のNETテレビに大至急行って下さい。今日の“桂小金治アフタヌーン・ショー”に出演しなければならないのです」というと、「そらまた大変だ。もうあの番組は始まっているよ」と言われたのである。
 しかし、運転手は何とか本番に間に合うように、猛スピードでテレビ局に乗り付けてくれた。

 そして他のメンバーは、私以外の除いて、全員集合していたのである。その時、私の顔をみた沖田氏は、罵声一番、「何で遅れたんだ!」だった。
 彼等は朝一番の特急で新大阪まで行き、新大阪から新幹線を乗り継いで東京入りしており、午前10時頃にテレビ局入りして、リハーサルまで遣っていたのである。私だけが沖田氏の詰まらぬ行為によって大幅に遅れ、リハーサルなしの“ぶっつけ本番”を遣
(や)らねばならなくなったのである。

 スタジオには、仮設の六畳ほどの畳敷きの部屋が設けられており、ここで投げ技と、一本捕りなどの押え技を遣った。そして最後のメーン・イベントが、短刀突き出しの“白刃捕り”と、手刀
(て‐がたな)による“角材折り”であった。
 白刃捕りには、最初の打ち合わせにはなかった香原某が私の“受け”を遣
(や)るようになっていた。私が「なぜ相手を変更して香原になったんですか」と沖田氏の詰め寄ると、沖田氏は「香原君が、師範(筆者のこと)の相手をして、テレビに出たがっているから」と言うのであった。沖田氏はこの程度の理由で、自分の“子飼いの犬”を私の“受け”に選んだのであった。
 香原自身も、職場で自分がテレビに出る事を吹聴していたのであろう。その為に、沖田氏に懇願
(こんがん)し、本来の相手を退(しりぞ)けて、自分が私の“受け”をすると言うのであった。

 香原某は入門する前、銃剣道を遣
(や)っていて有段者であると言っていたが、テレビカメラの前に引き出された時、既に彼は完全に上がってしまい、カチカチであった。ただ力(りき)んで短刀を握り、それを握る手が矢鱈(やたら)に震(ふる)えていた。そして、“短刀突き”の段となり、彼の突いて来るのを捌き、短刀を掌(てのひら)に捕って、投げを打った。予想にない、また予期しない突き方だったので、一歩間違えばテレビカメラの前で、刺し殺されていたであろう。

 もし、私が刺し殺されれば、昼の番組で、人が刺し殺される生中継が行われていたかも知れない。私はこの時、運が良かったのかも知れない。予想外の事をされて、理不尽と思うより、短刀の咄嗟
(とっさ)の攻撃を躱(かわ)し、それに投げを打つ事が出来たからである。しかし、こうした不意打ちに似た理不尽は、人生では往々にして起るものである。

 更に番組は盛り上がり、最後にテレビ局が用意した、長さ1mほどの45角
よん‐ご‐かく/一辺が45mmの角材。当時、ゲバ棒に使われていた角材である)を手刀(て‐がたな)で折る段となった。両端に並んだ折畳椅子2台の上に、長さ1mほどの角材が渡され、それを叩き折るというものであった。しかし、折畳椅子は畳の上に置かれ、固定されたブロックなどと違い、不安定で、ビヨンビヨンとした椅子の“座り部分”の上に置かれていた。こうした角材折りも、予定にはなかったが、私が知らないところで、勝手に申し合わされていたのであろう。沖田氏が売り込んだのかも知れない。しかし私にとっては、無理難題だった。

 私は、この分けの分からない“角材折り”を手刀
(て‐がたな)で叩き折るしかなかった。打ち合わせにない、まさに理不尽であった。そして私の手刀が、長さ僅かに1mの上に叩き付けられた。
 第一打は、ただ角材がバウンドして跳
(は)ねるだけで、折る事は出来なかった。次に、間を置いて第二打に挑戦するしかなかった。そして第二打も角材に叩き付けた。しかし、結果は同じであり、角材は折畳椅子のスプリング状態で、ただバウンドするだけだった。二回も、私の失敗が全国のテレビで報じられていた。この時、こうした理不尽に惨めさを感じたのだった。

 そして更に、第三打目を行わんとする時、時間切れとなり、コマーシャルの段となったが、私はそれでも構わず、第三打を角材の打ち付けていた。それが角材の“節”の上に当り、烈
(はげ)しい衝撃を、手と臂(ひじ)と肩に感じたが、遂に叩き折ることが出来たのである。しかし、テレビはコマーシャルに入り、ただ会場で見ていた人から「おーッ」という喚声が上がっただけで、打ち合わせにない事をやらされて、無惨な出演であった。結局沖田氏に仕切られ、自分の発言権は何一つなく、いつも振り回される状態だった。

 出演が終了した後、左手を見ると、異様に腫
(は)れ上がり、更に疵(きず)を負って、血が流れれいた。抑えると非常に痛かった。私は左利きなので、最初に使う利き腕は左である。テレビ局の人が私の腫れ上がった左手を見て、「これは大変だ」と言って、テレビ局内にある診療所へ案内した。
 そこには二十代後半と思える女医と、看護学校を出たばかりのような若い看護婦の二人が居て、「今のテレビ見ていましたよ。やっぱり手を怪我しましたか」と言って、レントゲンを撮り、「思った通り、骨に罅
(ひび)が入っていますね。しかし、君は武道をする若者だから、治りも早いでしょう。全治2週間と言うところでしょうか」と言われたのである。
 私はこれを無言で聴くしかなかった。

 更に、「君のした事は、あんな短い角材を折畳み椅子の上に載せて、それで手で折ろうと言うのですから、第一無理ですよ。君は、いま何歳?」と訊くのであった。
 「丁度20歳です」
 「そう、20歳……。だったら大学生?」
 「はい」
 「じゃァ、何処の大学?」
 「九州の田舎の大学です」
 “九州の田舎”というのが受けたのか、この言葉を聴いて女医は少し笑ったようだった。
 「大学では何を専攻しているの?」
 「工学部です」
 「工学部?きみ!工学部の癖に、物理の“力の支点”と“作用点”の理論を知らないと言うのではないでしょ。工学部の学生だったら、もう少し物理の勉強に力を入れなきゃ」
 「はあ……」弁明を許されないまま、何か説教を喰
(く)らった感じだった。

 私は、疵の手当をしてもらって、手に包帯をしてもらいながら、この女医から散々嫌みを言われたのである。しかし、私の出演は“ぶっつけ本番”で、リハーサルも打ち合わせもない、理不尽な強要であったことは一言も言い訳しなかった。この女医に言い訳しても、理解してもらえるとは思わなかったからだ。事情を知らない彼女の予想外の所で、この番組出演が行われたからだ。

 テレビ局からの帰り際、担当者が遣
(や)って来て、出演料3万円を貰う事になった。この3万円も、沖田氏が仕切る事になり、私には権限がなかった。そして沖田氏の言うには、この3万円を11等分し、これを平等に配ると言うものであった。これを頭数で割ると、一人が2700円となり、私も平等に“頭割り”された金額を沖田氏から受け取った。何と割の合わない、損な事をしたのだろうと思ったが、結局この世は理不尽が付き纏(つきまと)い、これに遵(したが)わざるを得ないと言うのが、私の持論であった。

 また、このテレビ出演の時、長崎県平戸出身で、家族で東京に引っ越したと言う平戸小学校時代のT君も、私のテレビ出演を袖
(そで)から見てくれていた一人であった。小学校時代の数少ない友人の一人であった。彼は当時、東京外語大学のドイツ語科に学ぶ、2年生であった。そして彼は、「今晩、練馬の俺に家に泊まれよ」というのであった。

 私はT君と練馬駅で落ち合う事にした。約束の時間を夕方5時と定め、改めて彼に、今晩お世話になる事を約束して、テレビ局で訣
(わか)れた。また北九州から連れて行ったメンバーは、テレビ局を出てその後、私たちは合気会本部道場を見学する事にした。



●大剛に兵法なし

 テレビ出演後、私は香原某、沖田氏、波多野氏とその義理の妹を除く、残りのメンバーで新宿区若松町の合気会本部に、見学に行く事にした。午後2時からの稽古は既に始まっていて、それを残りのメンバーで見学する事にした。合気会本部では、私の来館を快く承諾してくれ、見学する事が許された。

 合気会本部道場では、昼のアフタヌーン・ショーを見ていた人が何人かいるらしく、「そこで見学している人は、昼の番組に出た人たちだ」と云う人が居て、私たち一行は、稽古をしている人たちの関心を惹
(ひ)いたようであった。

 合気会本部道場を見学した後、新宿駅のあるフルーツ・パーラーに入り、コーヒーとフルーツ付きのケーキを頼み、此処でひと休みした後、全員は此処で訣れ、私は約束の練馬駅へと向かった。約束時間の午後5時前に練馬に到着したが、T君は既に迎えに来てくれていて、歩いて彼の家まで向かい、夕食を御馳走
(ごちそう)になり、平戸時代の昔話をした。しかし、私は小学校三年の時に平戸を引き払っており、彼が話す、それ以降の記憶は、私の知らない事だらけであった。

 午後7時頃、彼の兄と言う人が会社から帰って来て、私の本日の来訪を知っているらしく、その日は些
(いささ)かの武道談義に華を添えてもらった。T君の兄と云う人も、やはり東京外語大学の出身で、彼と同じドイツ語科の出身と云った。この兄と云う人は、私が本日のテレビ出演に持参した日本刀に興味があるらしく、これを見せてくれと言うので、私は快く同意して、日本刀を観賞してもらう事にした。

 そして、T君の兄は、翌日の早朝の帰り際に、一冊の本を呉れ、これを読むと、「武道をする意味が明確になる」と教えてくれたのである。それは佐藤金兵衛著『暴力に勝つ護身術』
(未央書房/昭和43年7月10日発行)であった。
 この本は全般的に、佐藤金兵衛師の信奉する太極拳が中心に語られていたが、その中に武道の心得として、「柳生但馬守宗矩」のことが、語られていた。その内容は次のようなものであった。これを私流に、新たに註釈を付けて著わすと、次のようになる。

 徳川将軍家の剣術指南役をしていた家光の頃、その指南役は柳生但馬守宗矩
やぎゅう‐たじま‐の‐かみ‐むねのり/宗厳(むねよし)の子で但馬守を名乗る。著書に『兵法家伝書』がある。1571〜1646)だった。宗矩は、関ヶ原の戦に徳川家康に従い、大和国柳生荘(やまと‐の‐くに‐やぎゅう‐の‐しょう)で二千石を知行、のち一万二千五百石に家蔵され、大名にまで伸し上がった江戸初期の剣客(けんかく)である。
 また宗矩は柳生新陰流の達人で、その武勇は全国に轟
(とどろ)いていた。

 その頃、宗矩の門に一人の武士が入門を請
(こ)うて出た。
 宗矩はこの武士を一目検
(み)て、只者(ただもの)ではない印象を受け、次のように訊(たず)ねた。
 「貴殿は一流に達した達人とお見受け致すが、何故わが流の門に入門をされるのか?」
 この問いに答えて曰
(いわ)く、この武士は、
 「私は今まで、一度も武芸の修行をしたことがございません」と答えた。

 宗矩はこの言を受けて、
 「さては余
(よ)を試しに来たのか?!余は将軍家指南役であるぞ。この余の眼を偽ることは出来ぬぞ!」ときつく叱責すると、
 この武士は、
 「私は子供の頃より、父母に武士は命を惜しんではならぬと厳しく言い聞かされて育ちました。それ故、いつも命を捨てられる覚悟を致して、日々、死を心に充
(あ)てて生きて参りました。したがって、今では死ぬことを何とも思わなくなりました。私には、これ以外に思い当たることはございません」と神妙な面持ちで答えた。

 これを聴いて宗矩はたいそう感心し、
 「兵法の極意もその一事にある。余はこれまでに多くの門人を抱え、数人の高弟を得ることが出来たが、まだ此処までの極意を許したものは一人も居ない。したがって貴殿は、あたらめてわが流の剣術を学ぶ必要はござらぬ」と云い放った。
 そして、宗矩はこの武士に柳生新陰流の免許皆伝を与えた。
 ちなみに免許皆伝とは、師から弟子に芸道などの奥義を、悉
(ことごと)く伝授する最高の御墨付きである。

 このように、古人は「人の死」を重んじた生き方をしたわけである。人の死を重んじた生き態
(ざま)に、宗矩はたいそう感心したのである。古人に立派な死に方をしたいと念じた人は多い。しかし、立派な死に方が出来る条件は、正しく生きた人でなければ、見事な死に方は出来ない。
 見事な死にようをした人は、見事な一生を貫いた人であるからだ。見事な一生を貫ける人に、「もう、武術修行などいらない」と宗矩は見抜いたのだろう。
 何故ならば、もともと武術は見事な死に態
(ざま)を致す、「死を嗜む道」であるからだ。

 その後、宗矩はこの武士について、次のように語っている。
 「大剛
だいごう/優れて心身が強いこと)に兵法なし。生死の悩みを解脱した真人には、もはや武芸を学ぶ必要は無し」と。

 そもそも武芸あるいは武術と云うものは、古来から武士の間で真摯
(しんし)に修行され、日夜その研究において、血と汗が流され、絶え間無く研究されて、それが心あるものに伝承されてきた。この根底には、「殺さねば殺される」という殺気をもって、まっしぐらに敵の心肝に突入する気魄(きはく)があったからである。また、武芸とはこうしたものであった。

 わずか一撃をもって、その「術」が一度
(ひとたび)火を吹けば、敵は忽(たちま)ち首と胴が離れたものである。必死必殺の道が、武芸あるいは武術なのである。此処に人間の生命(いのち)を賭(か)ける本当の姿があり、人間という生き物は命を賭けてこそ、心眼が見えるようになる。事実を事実として、素直にそれを見据え、その現実を現実として受け止めるのだ。
 私はこの時、“必死必殺の道”という武術の根底に隠れている「何か」を知ったような気がした。



●無料奉仕の巡回指導

 私の運命は、いろいろな人の巡り逢いで、そこから学ぶことは実に多かった。武術や武道を学ぶと言う事は、単に小手先の技術を高めるばかりでなく、“命を捨ててからる心”が大事であると気付き始めていた。この心があれば、少々の事は我慢できるからである。冷静さを失わずに済む。
 武術は本来、スポーツや競技武道とは異なるものである。また、格闘技とも異なる。それは生死を明確にすると言う一言に懸
(か)かるからである。

 そして武術は“見るもの”ではなく、“するもの”であると、“自身は日々実践するもの”であると感じたからである。
 世に、観戦スポーツや観戦格闘技と言われるものは、多々ある。相撲や野球、サッカーやラグビー、その他、柔剣道に試合観戦など、これらを見ていれば、一日退屈しないどころか、在
(あ)りし日の、自分の青春時代をそのまま思い出してくれて、若き日の血をたぎらせる事はよくあるが、単に寝そべってこれを見るより、健康の為には自身が躰(からだ)を動かし、地味な稽古を積む事も、捨て難い事実である。

 大学卒業後も、私は武術を自らで鍛練し、各大学へ巡回指導していた。もともと自腹を切って巡回指導するのだから、利益が出ると言うものではなかった。多くは無料奉仕で行われていた。高校の教師時代も、よく教えて廻ったが、教師を辞めてからも、よく教えて廻った。刀屋時代も同じだった。

各大学への巡回指導時代の著者。(写真は昭和46年頃。福岡工業大学合気柔術部の道場において)

刀屋時代の各大学への巡回指導をする著者。(写真は昭和48年頃。福岡工業大学合気柔術部の道場において)

 しかし、無料奉仕は何処まで言って“無料奉仕”であり、「タダ」という実情は、余り感謝されなかったようだ。労多く、利少ないと言う、徒労が、当時の私の一種の生活スタイルであった。一種の理不尽に甘んじたのであった。そしてそれが、何故か空回りして虚しく感じるのだった。
 各大学を巡回指導しつつ、道場に戻ると、またそこはそこで、別の問題が持ち上がっていた。
 私の“人徳のなさ”を、唯々痛感する次第だった。そして最も辛いのは、私のような青二才が、老獪
(ろうかい)な大人達に、牛馬の如く使役されていることだった。

昭和44年1月2日の鏡開きの案内状。

 私は大東修気館道場に籍を置く限り、老獪者たちの末席であり、それに甘んじる道場活動が余儀なくされていたのである。
 さて、上記の「鏡開き案内状」は昭和44年1月2日に行われる鏡開きを記したものであるが、この案内状は沖田氏のよって作られた。そして、その中で、波多野英麿氏が「九州連盟会長」という肩書きになっているが、一体誰が「会長」に任命したのだろうか。
 策謀好きな沖田氏は、こうしたことを平気でする人でもあった。



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