●大東流修気会の発足
いよいよ道場活動が始まった。大東流修気会は、豊山八幡神社境内にその本拠地を構える事が出来た。そして「大東流修気会」の“大東”と“修気”の二文字をとって『大東修気館』とした。
当時大東流は無名の流派で、この流名を知るものは北九州には殆(ほとん)ど居なかった。したがって、大東流と宣伝してみても、それで集まるものはなく、誰もが一度は名前は聴いた事がある「合気道」という名で人集めをしたのである。また一時期「合気柔術」を名称とした。
そして大東修気館は、昭和42年4月7日に賑々(にぎにぎ)しく“道場開き”を行ったのである。野外道場から、二年待って、やっと道場開きに漕ぎ着けたのであった。二年間と言う歳月は短いようで、随分と長い時間だった。この道場開きは、私が待ちわびた瞬間であった。
この道場開きを宣伝する必要があった。この模様を、各新聞社に事前に知らせておいたが、この道場開きに集まった報道機関は、北九州では最も販売部数の少ない『新九州』という新聞社一社だけで、記者が根掘り葉掘り歴史等を訊(き)いて取材のポーズをとっていたが、結局、道場開きの模様は報じられる事がなかった。
特にこの記者が質問する内容は歴史箇所で、「大東流は、いつ興(お)こったのですか?」という質問に対し、私は「自分の師匠から“わが流は大東流と言う”とだけしか聞かされておりません」というと、この回答に不満であったらしく、「それでは歴史を語った事になりませんね」と釘を指され、何か不満と不機嫌を露(あらわ)にしていた。この記者は、流派の流統や人脈などを知りたかったのであろう。
一方私は歴史や流脈よりは、技術的な素晴らしさに良いものを見い出していたのだが、これは相手にされず、結局、世間では、この程度のものにしか扱われなかったのである。内容より、流脈を大事と考えた節があった。
道場開きの当日、神社側が根回しをしてくれていたのか、十数人の氏子(うじこ)と、そして生長の家・八幡支部の10名ほどの若者が集まっていた。彼等は最初から入門する気持ちで集まっていた。その殆どが、自衛隊出身者で占められている為か、銃剣道の三段か、四段の腕の持ち主だった。また、この宗教団体は非常に結束が固かった。
当時の入会金と月謝は、入会金が100円、月謝が50円だった。信じられないくらい安かったのである。この金額に抑えてしまったのは、勝手に乗り込んだ沖田二二(おきた‐つぎじ)という人物だった。元々この人物が豊山八幡神社の宮司・波多野氏に話を付けて、道場の借用を許されたからだ。この人物は当時40代後半の年輩者で、黒崎町で『O寿司』という寿司屋をしていた。以後、この人物に弱輩の私は、好きなように振り回されることになる。
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順位
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役 職
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大東修気館道場・役員名
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年齢
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1
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道場長
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波多野 英麿
(豊山八幡神社宮司・八幡ロータリークラブ会員)
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36歳
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2
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理事長
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沖田 二二
(ボーイスカウト北九州副コミッショナー・団体役員)
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46歳
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3
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理 事
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柴田 常雄
(ボーイスカウト福岡県連コミッショナー・団体役員)
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49歳
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4
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理 事
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日高 康(福岡県会議員・日高タクシー社長)
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44歳
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5
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理 事
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入江 伸明(入江興産株式会社・副社長)
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36歳
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6
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理 事
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高山 貞海(八坂神社宮司)
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53歳
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7
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理 事
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西村 清(自由民主党八幡支部長・会社社長)
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66歳
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8
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理 事
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渡辺 俊雄(会社社長・北九州市議会議員候補)
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56歳
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9
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理 事
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諸隈 光彦(帆柱権現神社宮司)
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46歳
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10
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顧 問
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花田 宏(花田仏壇株式会社社長)
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48歳
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11
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顧 問
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亀井 昇一郎(北九州青年商工会議所役員)
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56歳
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12
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顧 問
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高橋 了照(妙心寺住職)
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42歳
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13
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顧 問
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古賀 哲磨(教念寺住職)
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54歳
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14
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顧 問
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梶野 てるお(北九州市議会議員候補・会社社長)
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33歳
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15
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師 範
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曽川吾端和翁
(工学部学生、当時は「吾端(あずま)」を名乗る)
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18歳
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※大東修気館道場発足当時、筆者は“第15番目”にランクされて、最下位であり殆ど発言権はなかった。
なぜ、周りに振り回されたり、年長者の言に従わねばならなかったのか。
それは、自分が18歳の時を思い浮かべればよい。“18歳と言う未成年”が、果たして年長者を抑えるだけの、発言力や社会的常識、あるいは権限などがあっただろうか。
若造は、どこまでも若造なのである。況(ま)して、“並の人間”である私は、偉人の青少年期と違い、年長者に“座”を譲るのは当然であろう。
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▲亀井昇一郎氏の名刺
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▲日高康氏の名刺
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▲梶野てるお氏の名刺
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▲入江伸明氏の名刺
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▲渡辺俊雄氏の名刺
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以上の人達を大東修気館道場の役員に引っぱり込んだのは、沖田氏と波多野氏の政治的な影響力である。私の力ではなかった。私は当時、ただの18歳の若造に過ぎなかった。こうちた地元の紳士録に載るような名士を引き込む力は、私にはなかった。
また、沖田氏は西南学院大学・神学科を出ているということで、「プロテスタント教会の牧師である」と自称していた。寿司屋の中で、“聖書”を小脇に持ってうろつく人でもあった。一風変わった人であった。
私も最初は、「牧師に寿司屋か」と、奇妙な取り合わせを面白いと感じていたのであるが、やがてこの奇妙なものに、違和感を感じ始めたのである。
そして沖田氏は、北九州では二番目に入団したと言う、ボーイスカウトの先駆者であり、その古株である事を、いつも自慢していた。
この御仁(ごじん)には、額に疵(きず)があり、その理由を聞くと、大戦末期、学徒動員で徴兵され、陸軍の特攻隊に編成されて猛訓練後、出撃したと言う事であった。そして特攻機が朝鮮半島の山の中で墜落し、機に抱えた爆弾は破裂せず、墜落した飛行機から脱出する際に、額に疵を負ったと言うのであった。
ちなみに階級は陸軍軍曹(沖田氏の、この階級に疑問を持つ人が居た。その人は元陸軍中野憲兵学校出身者の憲兵だった人で、当時筆者の刀屋の筋向かいで武道具店を経営していた人である)で、特攻機が墜落し、それから暫(しばら)く山の中に隠れていたが、そこで終戦なったと言うのである。この話しが、どこまで本当かは知らないが、否定する根拠もなかった。
そして沖田氏は、私が小学校5〜6年の高学年から、高校三年まで世話になった、ボーイスカウトの北九州副コミッショナーで、また北九州第26団(黒崎地区)の団員長を兼ねた人でもあった。(【註】このときの本当の団員長は、沖田氏より年輩者で、黒崎薬局の原田種彦(はらだ‐たねひこ)氏であったが、沖田氏と原田氏の間に確執があり、原田氏は辞めさせられたような恰好になった。ちなみに原田氏は、良識のある人で、よき指導者だった。いつもボーイスカウトのキャンプなどでは、軍隊当時の話を聞かされ、陸軍少佐あった事を覚えている)
高校時代、沖田氏に世話になった話をお聞かせしよう。特に沖田氏からは、高校三年の時に、富士の山中湖畔で開かれた『日本ジャンボリー』において、参加するように申し渡された。(高校時代、筆者は日本ジャンボリーに夏休みの度に 三回参加した)そしてこの当時、北九州第26団では、私がただ一人、“菊スカウト”(高校一年の時、猛勉強し、実技の猛特訓をして実力で取得)であったが、高三時の、このジャンボリーの時に、全く試験も受けずに、“富士スカウト”の階級章を貰い、これで富士・御殿場に行けと言われたのである。
びっくり仰天(ぎょうてん)して、私は「難関な“隼スカウト”も合格していないのですよ。どうして自分が“富士”に……」と聞き返すと、沖田氏は次のように言った。
「第26団は黒崎商店街からの寄付もあり、また有志の協力も頂いている。この為に北九州初の“富士スカウト”を出さねばならない。第26団と黒崎町の名誉が懸(か)かっている」
私は「しかし……」とやり返し、「第一“富士”という階級章を付けているのは、日本でも5人と居ないはずです。東大を受かるよりも難しいと言われているのですよ。自分ごときが、“隼スカウト”も合格していないのに、“隼”を通り超して、いきなり富士だなんて……」と、“恐れ多くも”という気持ちで訊(き)き返した。
沖田氏はこれに答えて曰(いわ)く、「日本でたった5人しか居ない“富士スカウト”にお前がなる。北九州第26団にも、凄い奴がいると思われる。それで結構ではないか」と言い放つのであった。
「しかしですね。自分は難関な“隼スカウト”を度々受けても合格せず、“菊スカウト”だって、北九州には自分を含めて、たったの10人程度ですよ。況(ま)して“隼スカウト”は北九州第3団のS君ただ一人だけです。
彼はスポーツ万能で、県下有数の進学校のY高校の、学内トップで、当然“隼スカウト”としてその資格があります。しかしどうして、自分が彼を通り越して、試験も受けずに“富士スカウト”なれるというのですか!」と詰め寄ったが、これに切り返して曰(いわ)く、「お前が今度、富士に行けるのは黒崎地区の有志からの寄付金などもあり、それによって旅費も出してもらっている。これに感謝の気持ちを顕わすには、“富士スカウト”の階級章で日本ジャンボリーに参加し、日本中に“北九州にも富士スカウトあり”と、あッと言わせなければならない。それが“わが第26団”の定めである」と豪語したのであった。
私は分けの分からない論法に押され、“富士スカウト”の階級章で、日本ジャンボリーに参加させられた事があった。この時、北九州からシニア・スカウトとして、高校生20名ほどが日本ジャンボリーに参加したが、当然“富士”は私一人であり、他は“菊スカウト”が1名と、多くは“一級スカウト”と“二級スカウト”が大半で、“富士スカウト”など見た事の無い連中ばかりだった。
そして今回の参加者の“菊スカウト”の一名であるN君は、度々北九州のボーイスカウト大会で、顔を合わせていたので、彼は私の胸に付けた階級章を見て、「きみ、いつ“富士スカウト”になったの。凄いじゃないか。でも、何だかウソ臭いな。本当に試験受けて“富士”になったの。違うでしょ。階級章だけが“富士”じゃないの。もし本当だったら、スカウト手帳見せてよ。スカウト手帳にはそれを証明する福岡県連コミッショナーの合格を証明する印鑑が押しているはずだ。なんせ“隼”通り超して“富士”なんて一度も聴いた事ないからね」と、疑いを巻き付けるような目付きで訊(き)いてきた。彼の眼は、まさに疑いへの追求であった。
私は“スカウト手帳見せてよ”のN君の詰問に苦悶(くもん)する以外なかった。やはり、見抜ける者には見抜けるのだった。心の中で「クソ沖田め」と呪うのであった。「あいつが“富士”で行けなどと言わなければ、こんな事にはならなかったのだ」の呪う以外なかった。後ろめたい、後味の悪さがあった。
「やっぱりそうか。きみの“富士”は、実態と実力が伴わない階級章だけか。なっぱりな、食わせ者だったんだ。しかし、僕はこのこと、誰にも喋らないよ。喋れば、他のみんなも動揺するだろ。最後まで隠し果(おお)せて、見事ジャンボリーから帰る事だね。それまでの秘密にしておこう」
こう云ったN君から、私は何か、秘密を握られてしまったようだった。
「……………」
「きみんところの団員長って、沖田マスターだろ。あの人、こうした事を平気で遣(や)る人だから、気を付けた方がいいよ。うちの隊長も、沖田マスターのこと、余り良いように言わないからね……」
「……………」
「きみって、随分お人好しだなァ、そんな自分が損をする役を引き受けて……」
言われてみれば、全くその通りだった。後でとんでもない誤解を受けることになるのである。また、沖田氏、子飼いの“狼”のような事もやらされたのである。“富士スカウト”階級章の偽りを起点として、である。当時は何かと、沖田氏の奉仕させられる事が多かった。(【註】ボーイスカウト関係者の話によれば、その後も第26団では、筆者の後に“隼スカウト”や“菊スカウト”が、わんさか出たと言う話である。そして彼等は“ノー試験”で階級章だけを付けた団員で、“隼スカウト”だけでも、5人以上居ると言う事で、ボーイスカウト北九州連盟では問題になった団である。しかし流石に、筆者以降“富士スカウト”だけは憚(はばか)られたのか、1人も出ていない)
これを聴いて、沖田氏に、何だか騙(だま)された気持ちだった。北九州にも“富士スカウトあり”は、果たして、それほど重要なものであったのだろうか。私は当時を振り返って、この意味が今でも分からない。沖田氏の宣伝材料として使役されたのだろう。
また、高校の頃、沖田氏の長男の家庭教師をやらされて、週二回、3ヵ月ほどこれを勤めたが、最後に「家庭教師料を払って貰えませんか」というと、「お前、高校生の分際で金をとるのか」と逆螺子(さかねじ)を喰らわされ、交通費の他は1円も払って貰えなかった。まさに沖田氏の使役動物であった。
当時の大東修気館道場も、沖田氏の振り回された時代であった。それは沖田氏が「俺に理事長を遣(や)らせろ」と乗り込んで来たからである。沖田氏と、豊山八幡神社の宮司・波多野氏は親密な関係にあったからだ。
まだこの頃、私は18歳くらいで、世間知らずの“青二才”だった。これが沖田氏に絡めとられる、原因を作ったようだ。
特に沖田氏は、「お前の流派は“わが流は大東流と言う”だけでは世間に通用しないから、これを明確にさせるべきである」と、強く迫り、こういう事を度々言われたのだった。
そしてある日 、沖田氏の寿司屋に立ち寄った際、一冊の『合気道』(植芝吉祥丸著)や、塩田剛三先生の『合気道の楽しみ方』『英語版・ダイナミック合気道』『合気道入門』などの本を手にして、「おい、合気道の本には、“大東流”は清和天皇……云々とあるではないか。これこそ、奇遇であると思わんか。これはお前の流派の事だぞ」と聞かされたのである。
沖田氏は、「清和天皇……云々」に飛びついたようだ。天皇家との皇胤(こういん)を重視したのだろう。沖田氏は、この皇胤を宣伝材料に使い、以後、大東流を吹聴して廻った。
合気道の歴史の中には、公然と“清和天皇説”や、大東の館の“新羅三郎源義光説”が飛び出すのだった。また、甲斐武田伝説が公然と語られていた。
しかし、私はその歴史観が、直感で“違うのではないか”と思い始めていた。歴史認識のある人ならば、そんな古い時代から、武術の流派が起るわけはないことを知っているからだ。清和天皇は平安前期の天皇である。この天皇が在位したのは、858年〜876年である。武士団(平安後期に登場し、武技を職能として生活する職能民)も興らないのに、何故、武芸の流派が存在するのか。
だがこの当時、私はこの歴史観を調査し、それを否定する一切の手段を知らなかった。そこに沖田氏が付け込んだと言ってもよい。
沖田氏は、更に言う。
「俺が理事長として、お前の流派の歴史を作ってやろう。それに遵(したが)い、大東流を売り出すとよい」
こうして大東流修気会の歴史は作られたのだった。その筋書きは、今日に至る、まさに大東流の“清和天皇説”や、大東の館の“新羅三郎源義光説”だった。また、甲斐武田伝説が歴史観を捏造(ねつぞう)した。後世の仮託(かたく)の上に、沖田氏のデッチ上げが載ったのである。甲斐武田家の“四ツ菱”も当時の捏造によりイメージしたものだった。そして、これを信じる以外、この当時、方法はないと思っていた。
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▲真伝合気口訣奥秘(大宮司郎著)
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沖田氏の作文は次のような、合気道からとった“大東流の歴史”だった。それは今日、大東流愛好者が必ず持ち出す歴史と、ほぼ同じようなものであった。
「清和天皇の第六皇子・貞純親王起源説」「清和源氏の流れ説」「新羅三郎源義光流祖説」「新羅三郎の『大東の館』説」などで、“後世の仮託”に酷似するものだった。
そして、沖田氏の作文が始めて登場するのが福岡工業大学合気柔術部の昭和44年11月15日に開催された演武会でのパンフレットであった。そして以降、これが次々にコピーされて流れて行く。
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▲福岡工大合気柔術部演武会パンフレット
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▲大東流修気会のの歴史の中で、捏造された歴史が初めて登場した福岡工大演武会当時の印刷物。
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沖田氏のデッチ上げにより、当時の経緯を知らない者は、私への誤解を招く事になる。後に、吾(わ)が弟子であった西龍一郎(わが流に造反を企て、大東流合気武道に加担して、現在は九州総支部長)や、大東流合気武道東京総支部長と名乗る近藤勝之氏に叩かれ、西郷派インチキ説が罷(まか)り通るようになる。
私は、“青二才”と言う理由で、いいように沖田氏に操られていたとも言える。
しかし「歴史捏造」は、これを作文した沖田氏だけにあるのでなく、「大東流の歴史が訝(おか)しい」と疑いを持ちながらも、これを調査せず、以降も使い続けた私にも責任がある。決して沖田氏だけに、責任を被せるものではない。
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