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▲真剣で、申し合わせる事は、「小さな死」を意味する。小さな死は、一種の臨死体験である。死んで生まれる事を、この世で具現する事なのだ。
何事も、絶望によって復活する。追い込まれ、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなり、切羽詰まった絶望の中から、新たな生を見い出す事が出来るのである。 |
●「死を嗜む道」への探究
私の探究は武術や武道の持つ、「武」への真摯(しんし)なる探究であった。また同時に、「死への模索」であった。これが私の若き日の“探究のテーマ”だったのである。
今日では「武」と言えば、武道や武術の“武”を指すようであるが、本来の武とは「武の道」のことを言うのである。
しかし今日、“武”と言えば、競技種目の名前がこれに使われたり、流派名がこれに使われたりしていて、その一流派や一種目を武道などと称しているが、それは狭義的な解釈であろう。そしてこの狭義的解釈には、その裏付けとなる「礼法」が一致していない事である。
一般に「武は礼に始まり、礼に終る」と言われる。また、世人の多くは武術や武道の「礼」に期待をしている。それに伴い、武術界や武道界もまた、某(なにがし)かの自身を持ち、それを誇らしく思っているところがあるが、然しならが今日の武術界や武道界を広く見回してみると、それは幻想だった事に気付く。礼儀が伴い、礼節が伴い、更には「武の道」で最も大事な謙譲や奥床しさが伴っているのは、ごく少数の例外的な流派を除いて他にないからである。
昨今の武道人口は増加の一途にあるが、その中でも外国から逆輸入された格闘技の流行は近年にないほどのブームを見せている。しかし、この種の格闘技を見てみると、隆盛とは言っても、その内容は往時のありようとは似ても似つかないもので、況(ま)して「日本的なもの」ではない。殺伐とした、“喧華”が目的にそれであるようにも窺(うかが)われる。
こうした現象の一つには、世人の武術や武道や格闘技に対する期待が、時代とともに変化してきたことを物語るものであり、世人の流行が、一種の“外国気触(かぶ)れ”に汚染されて来た事に起因しているとも思える。
世人の意識の中に、「舶来物はいいものだ」とか「外国の横文字文化は日本に比べてカッコ良い」という意識があって、強弱面については「外国の方が優れている」という固定観念があるようだ。
しかに日本武術や日本武道と言うものは、言うまでもなく日本人の伝統的な文化遺産の一つである。この世界に誇るべき文化遺産が、時代の流れに埋没して、本来の姿が見えなくなってしまう事は、後世の人達にとっても惜しまれる事である。また、根本的な真底にある「武の道」とか「死を嗜(たしな)む道」というのが明らかにされれない現状は、更に惜しむべき、由々しき事態となっている。
それは強弱論や優越論ばかりで、武術や武道の正面的技術が語られ、最も大事な「精神」を蔑(ないがし)ろにしているからである。
この「精神」を重んじ、往時の日本人の心を再現しているのは、良識派を除いて殆ど見なくなってしまったと言ってよい。
したがって、「武は礼に始まり、礼に終る」と言う、世人の期待は、今や幻想に成り果てているのである。その証拠に、世の有識者と言われる連中からは、今日の武道界全般を見回して、一等も二等も低く見られ、侮蔑され、その本来の真意を軽視されて居る事である。また、今日の武道界全般が、世の良識者と言われる連中を納得させるほどの内容を携(たずさ)えているとは思えないからである。
個別に展開される流派活動において、「礼儀正しい」と自負している場合でも、その内実は、自分の所属する集団しか通用しないものであり、それは恣意的(しい‐てき)な単なる習慣に過ぎなくなっている。また「礼」と言っても、実態はその集団での規則であったり、規律と言うものであり、単に個人の行動を規制するものに過ぎない。
更に追言すべき事は、今日の「武」と名の付く団体は大きく分けて二つに属し、スポーツの立場をとっている競技武道や格闘技であり、もう一つは「精進の道」や「健康法の道」をとっている演武形式の古武道や、古武道の武勇伝に縋る「伝承武道」と言われるものである。
しかし、伝承武道と言われる求道精進(ぐどう‐しょうじん)を目的とする、この手の武道は、人脈の系図や伝承の流れを重んずる為に、肝心な自らが「求道」と自称することすら見逃し、他派攻撃に当てて、他を詰る事は、誠におぞましい限りである。
古伝の弁(わきま)えを知らず、伝統の真意を見失い、自分の立場を誇張して、古人の武勇伝に縋り、便乗して自己宣伝欲に邁進しているものを見ると、何とも情けない限りである。
私に武門の礼儀を解く資格があるなどと毛頭考えていないが、周囲の実情を見回した時、“これでよし”とするものは何一つなく、私個人の意見としては、「武」は本来の基本姿勢に戻るべきであると考えるのである。
一方、現代という時代に往時の形式や身分制度を持ち込み、往時の武人達が勤しんだ生活意識や価値観を、そのまま現代に持ち込む事が、明らかに愚行である。しかし、往時の武人達が、その精神性において、学ぶべき点は多々あるように思われる。
特に、武は「死を嗜む道」であり、その生死を明らかにしなければならない。
この「死を嗜む道」を著わしたものに『忠孝真貫流規則(ちゅうこう‐しんかんりゅう‐きそく)』(平山行蔵)があり、これによれば次のように記されている。
「敵の撃刺に構わず、この五体をもって敵の心胸を突いて背後に抜け通(とを)る心にて踏み込まざれば、敵の躰にとどかざるなり。かくの如く、気勢いっぱいに張り満ちて、日々月々精進して不倦(うまず)、刻苦して不厭(いとわず)、思ひをつみ功を尽す時機(とき)は、しない太刀を取って立ち向ふと、自然と敵があとすざりし、面(おもて)を引くようになる。如斯(かくのごとき)にならざれば、真実の勝負は中々存じよらざること也」とある。
平山行蔵の死生観は、常に武芸の中に持ち込まれ、此処で死を嗜むことに励んでいる。
行蔵は、平素の稽古を試合と心得、素面と素小手で、相手に3尺3寸の長竹刀を持たせ、こちらは柄元(つかもと)1尺3寸の短い竹刀で踏み込んでいって、躰事(からだごと)ぶち当たり、一刀必殺を養う剣法である。
この場合、竹刀の当たりはずれは問題ではない。肝心なのは、体当たりして潔く討ち死にする覚悟でぶちあらるのである。その後の、わが命など、残す気持ちなど全く無いのである。ただただ、潔く討ち死するだけである。
これはこの流派が、勝負を争う次元を、試合場から戦場に置き換えていることで、「ただただ討ち死すること也」としていることである。試合場では、竹刀の打ち合となるので死ぬことはないが、戦場では生死を賭けて命のやり取りをするので、殺すか殺されるかの命を賭けた戦いとなる。
その為には、死生観を超越しなければならない。この超越することこそ、忠孝真貫流では「討ち死」であったのである。武芸・武術の真髄(しんずい)は殺すか殺されるかのギリギリの真剣勝負の修行である。命を賭けていなければならない。こうしたギリギリの線まで自分を追い込み、大事に臨(のぞ)んで生死を明らかにするものでなければならない。まさに、これこそが「死を嗜む道」なのである。
死を嗜む為には、生に有っては「生の道」を尽し、死に有っては「死の道」を尽すのである。そして行動を「悟り」の一語に帰するのは、「潔(いさぎよ)い討ち死」である。
こうした観点から考えれば、現代に世界に広まった日本武道は、「武の道」の名に値するものが殆ど無い。多くは興行主義で、入場料をとって観客に見せることを目的とし、あらかじめルールを決め、好戦的に争って、どちらが強いか弱いかの強弱論に終止し、その範疇(はんちゅう)を出るものでない。小さなステージで、興行目的に行われる。
危険な技を、あらかじめルールによって禁止しているので、規則内の試合でポイントをとるだけのものに成り下がり、「危険を無くした闘技」となって、単なるスポーツや体育に成り下がっているのである。その為に、その道の探究者に生死を超越する気魄(きはく)がなく、見苦しい小手先の掛け引きばかりが目につくのである。
●死の超剋
人生の中には、様々な凄惨(せいさん)を舐(な)める箇所が多く登場する。屈辱もあろうし、死ぬより辛い生き恥をかかされることもあろう。それでも人は、寿命の限り、精一杯生きなければならない。心にどんな疵(きず)を背負い、どんな悲しみを持っていようが、うなだれずに背筋を伸ばして、毅然(きぜん)として人生街道を歩きたいものである。
多くを望まず、普通に食べ、見知らぬ人から会釈されれば、自然と笑みがこぼれ、こちらも会釈を返す。これこそが、人生経験者の輝く生き態(ざま)ということが云えないか。そうした人の人生には、何処か余裕というものを感じさせるものである。
喩(たと)え、一度や二度の敗北や失敗しても、それにもめげず、俯(うつむ)かず、背筋をしゃんと伸ばして人生街道を歩きたいものである。
背筋を伸ばし、矍鑠(かくしゃく)と人生街道を歩き続けた人ならば、その晩年は「老」と云う言葉が相応しいだろう。「老」に至るには、単に馬齢を重ねた生き方をしていては到達できまい。老練でなければならない。老練に至って、内心と外面の乖離(かいり)が可能になるのである。それは武人の場合、「雄々しさ」といってもよかろう。
武術史を紐解き、古人の生き態(ざま)と死に態を検証すると、そこには常に「備え有れば憂いなし」という防備の思想が窺(うかが)われる。
生き態については、常に、心に死を充て、捨身懸命(すてみ‐けんめい)に、精一杯、命賭けで生きて来た足跡がある。更に、その死に態については、心に備えと準備がある為に、大慌てすることもなく、死に直面しても実に潔い。決して、無駄死にや犬死はしていない。死の在(あ)り方が、実に大きな意味を持っているのである。
本来、人の死には意味があるものでなければならない。その人の死は、後世に発するメッセージが克明に残されていなければならない。古人には、そうした人が実に多い。それは、古人自身が、死に対して力を持っていたからだ。つまり、「死ぬ力」である。
しかし、現代人に「死ぬ力」を持っている人は非常に少ない。現代人の死には、殆どといっていいほど、死に力がない。厭々(いやいや)死ぬか、あるいは曖昧に生きた帳尻合わせに、自殺などをして現実逃避を図る。何とも愚かしい限りである。
曖昧に生きるから、曖昧に訪れる死は恐ろしいものとなる。したがって、病気などに罹ると、これが中々完治しない。ガン発症、高血圧症その他の現代病はその典型であり、一旦これらの病気に罹ると、治らずに痴呆(ちほう)や植物状態になって死んでいく人が多い。ひたすら死から逃げ回った結果である。
「死を恐れない者は生き、死を逃げ回る者は死ぬ」というが、寔(まこと)にその通りである。死を逃げ回る者に、九死に一生を得るという奇蹟は起らない。みんな死んでいく。永遠の死の、死に方である。自殺願望者の死と酷似する。
また、現世には念仏宗的な生き方がある。愚かしいまでの生き方である。
「南無阿弥陀仏」と、一席ほざいて死んでいく死に方がある。この死ほど、安っぽい死に方はなく、まさに自殺願望者の死に方と酷似する。自殺願望者は、この世に何もいいことがなかったから死ぬのである。人生に、何の意味も見出せなかったから死ぬのである。自分勝手な死の考え方である。
この考え方には、死を以て、「生の終わり」とする考え方は支配している。だから死ねば楽になると考える。
換言すれば、生命というものを蔑(ないがし)ろにする考え方である。人の生命を尊ばない考え方である。命を目方売りする考え方である。こうした考えは、死を恐れるばかりでなく、死を無視すらしている。死を無視した考えは、人間の命の尊厳すらも失わしめる。命が、十把一絡げの、実に安いものになる。自分の生命のみが安っぽくなるばかりでなく、他人の生命までも、安っぽくしてしまう。此処に生命の尊厳が、蔑ろにされる元凶がある。
念仏宗的の発想は、生命の尊厳を安っぽくした宗教思想である。
彼等は云う。生きている間に、どんな辛いことがあっても、あるいは病気などで苦しめられても、人間は一度死ねば、楽を得て極楽浄土に行けるのだと。
それには、ただ「南無阿弥陀仏」を唱えれば、それでいいのだと。
しかし、果たしてそうだろうか。
一度死ねば、極楽浄土に行ける……という人を、念仏宗の門徒や宗徒に多く見る。しかしである。生きている「生」においてですら、楽を得ずして、何ゆえ死して楽を得ようか。これこそ、自殺願望者の心理を描いたものではないか。まさに、自殺者の心理の錯覚状態というものである。
ただ「南無阿弥陀仏」を唱えれば、阿弥陀如来(あみだにょらい)の膝元に大往生できるのか。
常凡低調(じょうぼん‐ていちょう)なる、曖昧な生き方において、最後の死の場面だけが、どうして阿弥陀如来の膝元に大往生できるほど、その死が荘厳(そうごん)なのか。どうして奇抜な、劇的な死が訪れるのか。これはマヤカシの何ものでもない。現実を直視しない、現実逃避である。苦しければ苦しい現実の中で、一生懸命、のた打ち回れば済むことである。
病気になったら、病気の真っ只中にあって、病気と闘い、それが苦しみにあるときは、思い切り苦しみもがけば済むことである。ただ、のた打ち回るだけだ。しかし、それに囚(とら)われて、思い悩むことはない。「生」を、苦しみの中で、あるいは絶望の中で、ただ全うするだけのことである。それが現実を生きることである。
未(いま)だ、精一杯生きて、人生の辛酸を舐(な)め、もがき苦しみ、のた打ち回って生きた足跡のない生涯が、どうして荘厳なる死を迎えるというのか。
人間、最後の欲望が「生」に固執する生命欲とするならば、その断絶は、まさに死に回帰されよう。死に対して、生に固執することこそ、悲痛なる叫びとなる。これが最も強くなることは、当然であろう。死を恐れる人間こそ、この執着心は強い。往生際(おうじょうぎわ)悪く、死を中々受諾しないのである。この世と言うものを、過剰評価していた為である。この過剰評価が「生」に固執させるのである。かくして、現代人は死から逃げ回るのである。
しかし、もし、死が人の人生最大の悲痛であるとするならば、人はあらゆる努力を払って、悲痛なる死生観を超越するべきではないか。死生観を克服するべきではないか。
これこそが「死の超剋」というものである。死は超克すべきものなのである。
死は総決算であり、人生の一大事なのだ。これに向かって努力を払う必要がある。そして、これこそが「死を嗜む道」なのである。古人に死を嗜んだ人は多い。
その死を嗜み、偉業を遣(や)り遂げた人が、幕末の剣豪・平山行蔵であった。死生観が超越できれば、本筋が正しく見えるようになる。
また私は、禅の世界で極意を究めた正受老人(しょうじゅ‐ろうにん)のことを知っている。正受老人は白隠禅師(はくいんぜんじ)の師匠であった。
『観音経(かんのうきょう)』には正受老人のこと書かれている。そして正受老人は「無畏(むい)」を実践しようとして、狼の集まる山の中で、夜坐を組んだ人である。
正受老人は岩の上に結跏趺坐を組み、自然の中に溶け込もうとした。狼が徘徊する夜行動物の中で坐り、自然の岩か、あるいは樹木のような様相を呈して、何事にも関わっていないかのような状態を作るのである。これがまさに「無畏」なのである。
「無畏」とは、自然と溶け込むことによって、自然の中の一つに成り済まし、恐れる心を捨ててしまうことをいう。安穏で畏(おそ)れのないことをいう。
また、これこそ、「四無畏(しむい)」の境地であった。
四無畏とは、仏や菩薩が説法するときに持っている、畏(おそ)れることのない四つの智慧(ちえ)のことである。この四つの智慧とは、仏にあっては、一切智無畏(いっさいち‐むい)・漏尽無畏(ろうじん‐むい)・説障道無畏(せっしょうどう‐むい)・説尽苦道無畏(せつじんくどう‐むい)であり、菩薩(ぼさつ)にあっては能持無畏(のうじ能持むい)・知根無畏(ちこん能持むい)・決疑無畏(けつぎ能持むい)・答報無畏(とうほう能持むい)のことである。それを正受老人は、会得したと言うのだ。
言い伝えによると、正受老人は狼の群がる山中で、七日間坐禅行を行い、見事に「無畏」を会得したという。
狼等は老人の臭いに吊られて集まり始め、鼻をすり付けて臭いを嗅いだり、あるいは老人の上を飛び越えたり、躰を押し付けたに違いない。狼に食われるかも知れないという危険に身を曝(さら)し、行道(ぎょうどう)の志(こころざ)しを確かめたのであろう。
その激しい無言の気魄(きはく)は、狼等の襲う意欲を喪失させ、噛(か)みつくことすら許さなかったのであろう。狼たちは、まさに正受老人の凄(すさ)まじい気魄(きはく)に呑まれたといってよい。
それは死を超剋していたからである。生死の概念がなかったからである。自他に境目がなく、既に悟りの境地に入っていた。
●正受老人に準えて
人は死から逃げ回る生き物である。特に現代人はその傾向が強くなって来ている。余りにも生に固執し続ける。「生」のみに意義があり、「死」には全く意味がないと思い込んでいる。しかし、この世の此岸(しがん)に対し、彼岸(ひがん)という涅槃(ねはん)の世界がある以上、生死の海を渡って到達する、終局の理想境である「悟りの世界」はあるはずだ。
私は子供の頃から、随分と人の死を見て来たので、「死」に対する関心が強かった。いつも子供心に、「人はなぜ死ぬのか」と言う疑問を考え続けて来た。そして還暦(かんれき)を過ぎた今、人間は「非存在なる生き物であるが故に死ぬ」と言う事が分かったのである。
しかし、「死」についての関心は、それを思う時、人の死は「様々である」と言う事だ。
生まれは、誰も彼も、母親から生まれ落ちる。同じようにして生まれて来る。家柄や貧富の差はあっても、生まれでる状態は、何びとも変わらない。
ところが死ぬ時の、「臨終(りんじゅう)」に於ては、人各々である。安らかに死んで行く人もあれば、苦しみ藻掻(もが)き、死んで行く人もある。
今日では人の死に、宗教が大きく関わっているように見えるが、特別な宗教や信仰を持たなくても、穩やかに、最後まで仕事に打ち込み、楽しんでこの世を去る人もいる。こうして死んで行く人が、特に例外と言うわけではなく、こうした人は、決して一人や二人ではあるまい。
人の死には、単に肉体が費(つい)えると言う事だけではなく、その裏に大きな仕掛けが隠されているように思う。何故ならば、同じ死でも、人によって異なるからである。そこには個人の「魂の尊厳」と言うものがあって、その個人差によって、死が苦しい死になったり、楽な死になったりしているのではないかと思うのである。
しかし、生きているうちに、真当(ほんとう)の死の意味を知らなければ、凡庸(ぼんよう)な私たちは、死期に際して狼狽(うろた)える事になる。そして更に、怯(おび)え、運命を呪い、醜さを見せ、それでも生に固執し、ときにはその為に死期を早める事すらある。それはそれで、大きな意味があると思うが、醜態を曝(さら)して死ぬと言うのは、どうも頂けない。
人の死は「清らか」でありたいと思う。清々しくありたいと思う。生死を繰り返す迷いを捨てて、自他別離の垣根(かきね)も取り払い、人生に賭(か)けたものを全うすべきだと思う。
私の武術探究は、この点において、「死」と背中合わせであった。刃(やいば)の下には、死が待ち構えていて、その下を潜(くぐ)り、あるいは紙一重(かみひとえ)で躱(かわ)し、そこに課せられる動作は、死から逃れる事であるが、死から逃げ回ってばかりいては、死が追い掛けて来るであろう。
私は正受老人(しょうじゅ‐ろうにん)の凄じさを思い返してみた。何故、狼の群れの中で「夜坐」をし、七日間坐禅行をしたのかと。
現代は、禅僧と雖(いえど)も、此処まで悟り切る人は居ないだろう。肩書きばかりは大層なものを持っているが、その悟りのほどは、生に固執する生き態(ざま)が横たわっている。
これは何も、禅宗の僧侶だけではあるまい。キリスト教の神父(カトリック教会で、教区司祭や修道司祭の呼称)や牧師(プロテスタント教会の聖職者で、1個または数個の教会の牧会(ぼつかい)の責任者の一般的呼称)においても、死は、ひたすら逃げ廻る対象として捉え、死に運命の呪いを掛けている人もいる。
私はカトリックの、ある著名な司祭で、死期が近付いた時、酒に溺れて死から現実逃避した人を知っている。死を前にした神父でさえも、酒の力を借りて恐怖を消し去ろうとするのである。しかし、私はこれを「悟りきれない人」と侮蔑(ぶべつ)しない。
人情にあっては、最も人間的であり、その背景には、今まで散々信者の前で偉そうな事を言いながら、実は「凡庸だった」ということを、その神父自身で暴露しているからだ。死に行く魂を冒涜(ぼうとく)してはなるまい。
しかし、この現実を通してみれば、死を解き、死を論ずる宗教者ですらも、結局、偉そうに見えて、実は偉くない事が分かる。そこに人間を観(み)る。
それは人間が死を前にした時に、死に対してどう立ち向かうかで、その偉さと大きさは明白になるようだ。
これは武術や武道の世界に於ても同じだろう。武術や武道はある意味において、宗教に酷似するところがある。それはその格闘や、申し合せの中で「死の臨死体験」をする事が前提となっているからだ。
この意味で、「申し合せ」の中で、死を少なからず意識し、臨死体験をすると言う事は、勝つ方と負ける方が存在し、勝てば生き、負ければ死ぬと言う、この世の掟に遵(したが)ったものである。それは「紙一重」で生きるのか、紙一重が出来なくて死んで行くのかは知らないが、こうした闘技の中にも、何か肉の眼では見えない、神の手が関係しているのではないかと思うのである。
人間が本来、戦いにおいて訓練したり稽古をするのは、その前提が死なない為に、これを遣(や)るのであって、しうん為にこれを遣ると言う事は、非常に少ない戦闘思想である。
その少ない戦闘思想の中でも、薩摩示現流などは、生きる為ではなく、死ぬ為の玉砕(ぎょくさい)思想が盛り込まれた戦い方をする。私はこの玉砕思想に、若い時はから「滅びの美学」を見い出し、「華々しく負ける、負けの戦い方」を見い出していたのである。玉が美しく砕(くだ)けるように。
人間の生き死にに関わっているのは、人間の力ではない。因縁がこれに関わり、その根底には「生かされる」という他力一乗(たりき‐いちじょう)がある。私は他力一乗を探し求めて、若い頃から求道の道を歩んでいたのかも知れない。「因縁」に生かされている人間の姿を、それを背後から見ようとしたのかも知れない。そこに人間の正体があると信じたからだ。
生かされている因縁を見つけ出せば、勝ち負けや、優劣はそんなに問題ではなくなる。人の生き死ににおいて、関わっているのは、因縁だけであろう。生きる縁がなければ、その人は如何に優秀であり、強靱(きょうじん)な体躯(たいく)を持っていても、立ち所に死ぬのである。
若い頃は、これを明確な言葉で顕わす事ができなかったが、今はこれが、朧(おぼろ)げながらに見えて来たのである。勝ちは、相手に譲ればいいことであるからだ。
無理に勝負にこだわる必要はないのである。勝者も何(いずれ)れは死ぬからであり、死を前にして、生き残ることは無駄であり、むしろ死の荘厳を穢(けが)すからである。正受老人(しょうじゅ‐ろうにん)に準(なぞら)えるならば、人間が大自然と一対二なり、自他の垣根を取り払えば、生きている事も死んでいる事も、無関係となって、ただ黙々と坐り続ける事だけが、禅者に与えられた使命になるからである。
私は、正受老人に準えて、この世の因縁の正体を見極めようとしていた。
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| ▲大東流柔術の当身拳法稽古。(会員を集めての合宿稽古。山口県吉見海上自衛隊にて。写真は昭和40年) |
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▲大東流柔術の一本捕り。この当時「一本捕り」の名を知る者も居なかった。(山口県吉見海上自衛隊での大東流修気会の会員の合宿稽古において。写真は昭和40年) |
昭和40年頃、先代の山下芳衛先生の「わが流は大東流という」の言葉に遵(したが)い、『大東流修気会』なるものを結成した。その流れは兎も角として、「わが流は大東流という」の言葉に、自流を大東流と信じ、この言葉に遵う事こそ、忠義と信じたのである。それだけで充分であろう。
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| ▲初期の大東流修気会の屋外稽古。当時はまだ道場がなかったので、稽古はいつも屋外で行われていた。(写真は昭和43年・春) |
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▲野外稽古(福岡県芦屋町・芦屋海岸にて。写真は昭和43年・春) |
そして当時、道場と言う体裁の良い「箱部屋」は持たなかったから、稽古は専(もっぱ)ら屋外だった。毎日稽古に明け暮れる日が続いたが、雨天にはお手上げになり、稽古は中止となって、雨空を見上げながら「いつか道場を持ってやろう」と言う、夢を描き続ける日々だった。
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| ▲垂玉渓谷で滝行の修行をする筆者。滝水の受ける場所は頸(くび)の唖門宮(あもんきゅう)で受ける。(写真は昭和43年・夏) |
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▲初熊本県南阿蘇垂玉(たるたま)渓谷で。ここは筆者が修行の場として度々訪れた場所である。(写真は昭和43年・夏) |
そして昭和40年初頭、ある後援者が顕れた。「いつか道場を持ってやろう」が成就し始めたのである。
後援者は当時、北九州市八幡区春の町にある豊山八幡神社の宮司・波多野英麿氏だった。好意的にかつての能舞台を提供すると言うのである。此処は、神社境内にある古びた能舞台で、これを改造して、ガラス戸を嵌(は)め、出入口の戸を建てるということであった。
その後、此処に「大東流修気会」の基盤が作られ、道場活動を展開する事になるのである。
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