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▲幼馴染みの明子と。明子は裏隣の警察の官舎に棲(す)んでいて、その父親は警察派出所長だった。
昭和27年当時のこの時代、まだ巡査長と云う階級がなかったので、明子の父親の「警部補」という階級は大したものだった。 |
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▲明子と、明子の兄・啓二とで崖っ淵の木によじ登って。
この写真は写真マニアだった明子の父親が、旧八幡市妙見町の城山(徳川家出城跡)で写したものである。 |
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▲2歳の頃の筆者。小心で臆病で、泣き虫だった筆者は、床屋の鋏を見て恐がり「ハイカラ」という子供の髪型が出来ず、いつも丸刈りにされていた。 |
第一章 理不尽なる人の世の中
●わが足跡を「振り帰る」とは
この物語を始める上で、タイトルの説明をしておかなければならない。この物語は、私の過去の修行時代を振り帰るものだが、ここで「振り返る」の「返る」のを、わざわざ「振り帰(かえ)る」としているのは、その過去に戻り、その時の事を、反芻(はんすう)新たにして、自分自身を再発見しようとする意味で、これをテーマとして挙げてみたのである。つまり、「初心」という古巣に帰る事を言うのだ。
つまり、心の片隅に残る「なつかしき古巣」の模索である。人は誰にでも「懷(なつ)かしい」という想い出を宿している。それは遠い過去の、その日の出来事であったり、赤面するような体験談であるかも知れない。しかし、こうしたものは、偏(ひとえ)に懷かしいだけものである。一種の懐古(かいこ)に過ぎない。
それは旅先の何処かで、名も知れぬ、ちっぽけな食堂に、空きっ腹を抱えて飛び込んで食べた“鍋焼うどん”の、あの懷かしさかも知れない。
そして、多くの場合、こうした想い出が先行する。
ところが、私の「古巣に帰る懐かしさ」は、この手のものでない。もっと深いところに、古巣を持っている。したがって、私はそこに「帰って行く」のである。それは私固有の場所であると言ってもよい。
私は、かつて無一文になって、乞食同然の恰好(かっこう)で放浪生活をした事がある。この時、宮崎県日向(ひゅうが)の何処かの、ちっぽけな“うどん屋”に飛び込み、それを貪(むざぼ)った事があった。
その食堂には誰一人客が居なかった。粗末な木製のテーブルと、使い古した木の椅子が三組ほどあって、それが実に不揃いだった。今時の「洒落た綺麗な店」という部分は微塵(みじん)もなく、むしろ不衛生で、客も余り立ち寄らない、暇と思えるような店だった。店の真ん中に達磨ストーブが置いてあり、薪(まき)が投げ入れられて、ストーブは轟々(ごうごう)と音を立て、載せられた薬罐(やかん)は湯を滾(たぎ)らせていた。
その店には、退屈そうに新聞を広げている五十半ばの男がいて、私の顔と風体(ふうてい)をまじまじと見て、「いらっしゃい」も云わず、追い返したい素振りで、「何か、用かね」と面倒臭そうに訊(き)いた。
私は懐(ふところ)から財布を取り出して、高々と千円札を頭上に掲げてみた。この千円札を見て安心したのか、店のオヤジは、「どうぞ」と、ふて腐れたように席を薦(すす)めた。
店のオヤジが何故、私を見てこのような態度をとったか、それは私の風体に問題があったようだ。
私は美術品商売の会社の倒産(人生の中で初めて倒産と云うものを経験した)と、次に始めた子供相手の学習塾がうまく軌道に乗らず、一旦、商売も道場も畳み、托鉢僧(たくはつ‐そう)として半年ばかり、西日本を放浪した事があった。(【註】三度目の正直により、後の学習塾の成功から予備校へと発展したが、それもやがて斜陽を見る)その時も、行脚(あんぎゃ)放浪の旅を続けていた。この事については『続・旅の衣』(サブタイトル『地獄ツアー旅日記』)に詳しいので、以後に発表する作品をご参照願いたい。
つまり、私の所持金の千円は、托鉢中、心ある人からの喜捨であった。
さて、私はこの時、空きっ腹を抱えて宮崎県日向市を少し離れたところを放浪していた。漂泊の乞食である。そして余りの空腹に耐え兼ねて、何処でもいいからということで、この食堂に飛び込んだのであった。薄穢(うす‐ぎたな)い僧衣を身に纏(まと)い、無精髭(ぶしょう‐ひげ)の乞食坊主がいきなり食堂に飛び込んだのだから、店のオヤジが、「何か、用かね」と云ったのは無理もない事だった。そして、このオヤジはその後に続けて、「うちは托鉢(たくはつ)はお断りだよ」と続けたかったに違いない。
ところが、私がこのオヤジの思っている事を先取りして、財布から素早く千円札を抜き取り、高々とこれを頭上に掲げたのであった。
人は現金なものである。端金(はした‐がね)でも、金があると見ると、掌(てのひら)を返したように、猫撫(けこ‐な)で声になり、愛想が急に良くなるものである。私は、そこに人間の本性を見た思いだった。
しかし私は、そうしたものに頓着しなかった。何しろ、店が一見もない山路を歩いて来たところだった。そしてこの店では一番高い、“鍋焼うどん”を注文したのであった。一杯、しめて580円也。
この時、食べた“うどん”は空きっ腹だったので、骨身に滲(しみ)みて、凄(すご)くうまかった事を憶(おぼ)えている。
あの時食べた、土鍋に入った“鍋焼うどん”には、滑(なめ)らかな白い玉うどんの上に、蒲鉾(かまぼこ)や煮込んだ豚肉が載り、薄く切られた椎茸(しいたけ)に、海苔(のり)や長葱(なが‐ねぎ)が載っていた。久しぶりに見る御馳走(ごちそう)だった。
寒い日だったので、湯気が暖かく私の顎(あご)にかかり、その匂いは更に、もっと遠い日の懐かしさを思い出させた。いつの事だったか思い出せないが、この鍋焼うどんには、そうした遠い日の懷かしさを思い出させる、何かがあったようだ。
人間は実に現金だ。金で豹変する生き物である。金を出せば、今まで毛嫌いされていた乞食までが善人の仲間入りできる。差別されたと怒っていた男が、暖かい鍋焼うどんの出現に、舌鼓(したつづみ)を打ち、いま差別されたことも消し飛んでしまう。この世には、こうした自他が、“恥知らず”に存在していることは、何と偉大であろう。これも金の取り持つ縁か。利害関係によって、その態度は豹変(ひょうへん)するのだ。また、そこがおもしろい。
そして今も、寒い日に“鍋焼うどん”を食べると、あの放浪した、食えない日々の事が思い出されるのである。そんな懷かしさに、人が思い当たる時、もうそこには、単に過去の想い出を回想するだけではなく、「懷かしさ」までを誘発して、その時の次元にまで帰してしまっているのである。こうしたことから、私は『吾が修行時代を振り帰る』と題したのである。
では、この物語を始める事にしよう。
●善悪同根の、この世において
私は高校の頃、木刀を、護身用の仕込杖代りに持ち歩く癖(くせ)があった。これは一種のポーズと言うより、自己表現のスタイルであったのかも知れない。
この頃、私は友人のTに奨(すす)められて、「民青」という青少年の政治団体に入っていた。
民青とは「民主青年同盟」の略である。日本共産党の下部団体であり、少年少女の共産党員を養成する共産党予備軍の政治組織であった。
当時、此処から、ある者は日本共産党員になり、また、ある者は、全共闘華々し頃、その闘士になったり、更には日本赤軍派などの革命戦士となって、日本国中を革命の嵐に巻き込んだ底辺の細胞分子として奔走したのであった。
勿論、私は底辺の細胞分子であり、日本の革命を夢見てそこに集(つど)い、末端活動として、ビラ貼りなどの雑用をしたりしていた。また共産党に票をくれそうな小さな商店から寄付を貰(もら)って廻ったり、集会の為の会場作りや、友人などを誘って、組織員の勧誘などの過酷な雑用をさせられたのであった。これにはノルマがあり、目標に達することができないと、全員の前に引き立てられて、自分の不努力に自己反省した後、年長の幹部連から罵倒(ばとう)されるのである。
それは当時の、創価学会の組織造りにも匹敵する過酷なもので、これらの仕事にある程度の成果がでない者は、「信仰の不熱心」ということで、班長から吊し上げを食うのによく似ていた。
しかし間もなく、私だけ、「腕が立つ」と云うことで、末端の取締である“キャップ”という年長の青年のボディーガードをさせられた事があった。
常に、キャップと付き添っていると、末端の過酷な仕事から幾らかでも解放されるのである。また、幹部の用心棒と云うことで、同年代の者からは一目置かれるようになった。
私と一心同体になっていた仕込杖代りの木刀は、単に威嚇(いかく)の武具であるばかりでなく、事あれば、これが火を吹く、心強い味方にもなり得たのである。当時、私の出で立ちは、何処に行くにも、高校の学生服に下駄履きで、常に木刀を手にしていると言うスタイルだった。
木刀は、単に裸で持ち歩いても、それは人から恐れられることは少ないから、その木刀を房付きの西陣織の金襴(きんらん)の刀袋に入れて、これを持ち歩いていた。こうする事により、裸で持ち歩く以上に人を恐れさせ、一種の威厳が保たれていた。
これはつまり、人の眼から見て、金襴の刀袋の中に、日本刀が入っているのか、単なる木刀が入っているのか、それを疑わせるところに、疑惑の威厳があり、中身が分からないと言うのが、一つの戦略であった。私はこの頃から、第三者の眼から見て「恐れさせる」ということが計算できる頭になっていた。つまりそれは、疑惑を持たれている事が、如何に効果が大きいか、よく知っていたのである。
人々の疑いは、当の本人とは殆ど関係なく、そこには憶測(おくそく)が飛ぶ。この憶測は、結局、計りかねて、「恐れ」が先行することになる。
しかし私のこうしたスタイルに、いちゃもんをつけた者が居た。キャップと謂(い)われる年長の青年の妹で、同い年の女子高生であった。彼女は県下有数の進学校のY高校に在学していた。そして美人にして、秀才の誉(ほま)れが高かった。
彼女は、私に向かって「自分の腕に自信があるのなら、素手で歩きなさい」という口だった。そして常々、木刀を仕込杖代りに持ち歩く私を、なぜか軽蔑していた。
少女らしい美形な顔の、可愛い口から、こうした言は発せられるから、私としても黙ってはいられない。男の面子(めんつ)に関わることでもであった。況(ま)して、集会などの、全員が集合している時に、こうした事を言われるのであるから、名指して指摘される私としては、ただ無言で歯軋(は‐ぎし)りする以外なかった。
またそれに、彼女もキャップの妹である事と、美人で秀才と言うことで、全員から一目置かれていたのである。
彼女とは、何かと衝突することが多かった。一言云えば、二言三言で遣(や)り返すのである。そして何か声を掛けると、決まったようにツンとそっぽを向くのである。
キャップの兄は、これに仲裁に入るわけでもなく、ただ事務的な指令を発する以外、何の取柄もない人であった。おそらく頭の中は、革命の論理で許容量が一杯なのであろう。
あるいは、私と彼女が衝突するのは、実は、表面とは裏腹で、二人は仲が良いのでは、と思っていたのかも知れない。事実、私は女に惚(ほ)れ易い性格から、美形の彼女が厭(いや)でなかった。隙(すき)あらば、という下品な下心で虎視眈々(こし‐たんたん)と彼女を狙っていた。しかし、その機会は遂に遣って来ず、本能的には厭(いや)でないのだが、その性格に何か刺(とげ)のようなものを感じていた。その刺が、未(いま)だに何であるか分からなかった。
こうした時、ある日、キャップが、集会も遅くなり、解散時間が遅かったせいか、「自分は今晩、此処で徹夜の仕事をするので、妹を家まで送ってやってくれないか」と話を持ちかけて来たのである。
キャップの願いとあらば、無碍(むげ)に断るわけにもいかなかった。
夜の12時を廻る少し前で、私と彼女は民青の集会所がある八幡駅前から電車に乗って、上本町まで行く羽目となった。いつも二人は衝突していたので、勿論、電停までの道のりも、電車を待つ時間も、電車に乗ったからも、二人は一言も口を利かなかった。彼女は、常にそっぽを向いたポーズを崩さなかった。そして、電車が上本町に到着し、電車から降りて歩く時も、この沈黙は保たれていた。
私は、なぜ彼女が口を利かないのかと思う。なぜ心を開かないのかと思う。あるいは自分自身を頭の良い人間と思い、末端分子を共産主義の唯物論によって、知識ある者が、知識ない者を指導して、管理・独裁するとでも思っているのだろうか。
この時、私は何かの縁(えん)と思い、こんな話を切り出した事があった。
「こうして、今晩、この帰路を二人で歩くのも何かの縁です。無言では葬式帰りのお通夜のようですし、第一、何か暗くて仕方ありません」というようなことを云った。少々ジョークを交えた積もりだったが、うまく伝わらなかったようだ。
その時、彼女の切り返した言葉は、「もともと、夜は暗いものですわ」だった。
取りつく島がないとは、この事だった。
この頭でっかちの唯物論者は、抽象的な意味での魂や精神と言うものが嫌いらしく、何も見ず、誰とも口を利かず、何事にも魂を揺さぶられるという経験をしたことがないらしく、これからも経験する気持ちなど、何処にも無いように窺(うかが)われた。彼女は人間として生きているのだろうか、彼女にとって人生とは何なのだろうかと、そのようなことが、頭の中で反芻(はんすう)された。
あるいは唯物論に酔い、底辺の細胞分子を見下して、思い上がっているのだろうか。
何だか、この場に居ることが、やけに虚(むな)しいもののように思われた。
キャップからは、「家まで送ってくれ」と頼まれていたが、もう、家まで送る必要はないものの思われた。私の気持ちは、ここらで踵(きびす)を返すことに傾こうとしていた。
「あなたの家はもう直ぐでしょう。その上、お通夜の帰りのように黙っていては、精神衛生上、躰によくありません。此処らで引き返そうと思っていますが、此処でいいでしょうか?」
「ええ、結構ですわ」
シャッターをぴしゃりと閉めるような、冷たい返事だけが返って来た。
「そうですか。では、さようなら」
私は一目散に踵(きびす)を返したい気持ちに駆られていた。彼女から出来るだけ遠くに離れようと思った。
私は帰り道に、人間の思い上がりは恐ろしいものだと思った。論理を弁証法で解析していく唯物論であっても、それを学び、考えるのは人間である。人間の魂と精神を蔑(ないがし)ろにして、唯物論は成り立つのだろうかと言う疑問が波立っていた。
しかし、唯物論は精神に対する物質の根源性を主張する立場をとっているのだから、霊魂や精神や意識を認めないのは尤(もっと)もなことだった。認識は客観的実在の脳髄による反映であるとする唯物論は、唯心論や観念論と異なり、一切の霊魂、一切の精神を否定するのである。それも、いいだろうと思う。
こんな事を反芻(はんすう)をしながら帰路の道を歩いていると、後の方から女の悲鳴が聴こえた。明かに彼女の悲鳴であった。私はその悲鳴に向かって駆け付けた。下駄を履き捨て、悲鳴に向かって一目散だった。
駆け付けた時、そにこは一匹のシェパードの雑種と思える犬が、唸(うな)り声を上げて、今にも彼女に飛びつかんばかりとなっていた。街灯一つの暗がりからの観察であるが、涎(よだれ)を流していることから、明らかに狂犬病に罹(かか)っていると思われた。
彼女は私を見ると「救(たす)けて……」と小さな声で云い、その声は恐怖で震(ふる)えていた。
彼女は普段から、「自分の腕に自信があるのなら、素手で歩きなさい」と云い続けた彼女である。しかし、狂犬病に罹っている犬に、素手とは、果たして如何なものか。
狂犬病はウイルスによる犬の伝染病であり、狂暴化するのが特長だが、しかし、それもやがて全身麻痺(まひ)が起って死ぬ。また、咬傷(かみきず)から人畜にも伝染し、そのウイルスは中枢神経に達し、痙攣(けいれん)および麻痺を起して、人畜までもを死に至らしめる。
事は切迫していた。
私は刀袋から、木刀を抜き出す以外なかった。この場合、脳天に向けて、一撃で止めを刺す以外ないのである。もし外したら、こちらもウイルスに感染することになる。感染して、手後れだったら死ぬこともある。
もう、棒で追い払うというような状態ではなかった。狂暴に襲い掛かる以上、殺すか殺されるかである。
そして、ついに犬が狂暴と化して、身を屈(かが)めて飛び掛かろうとしていた。彼女は私の背中に廻り、痛いほど爪を立てて私にしがみついていた。身動きが自由にならない。惹(ひ)き付けて、その刹那(せつな)に一撃をくれるしかなかった。
私は、凄まじい早さの突進を、脳天激打という方法で反射的に迎え撃っていた。犬の頭蓋骨(ずがい‐こつ)が割れて陥没する、ぐしゃッという音と倶(とも)に手応えを感じ、犬はその場に長々と横たわり、微動だにするものではなかった。恐らく即死だろう。
必死で闘った私は、夏でもないのに大量の冷や汗をかいていた。間一髪(かん‐いっぱつ)だった。危ういところだった。一歩間違えば、私はどうなっていたか分からない。とにかく、彼女の安全は確保されたのである。
「死んだのかしら?」
安全を確保した彼女の、開口一番に飛び出した言葉は、こでれあった。
「即死のようです……」
「そんな……、何も殺さなくても……」
これは明らかに、私に対しての批判だった。
言葉にならなかったが「最低だわ」という眼を、私に向けていた。
人間は、自分が悪くなくても憎まれるのだと云う現実があることを、この時、初めて知ったのである。実に信じられないくらい偉大な、かつ滑稽(こっけい)なる認識だった。
しかし私は、この言葉が腹立たしかった。これこそ人間のエゴイズムであった。今まで危険に晒(さら)されていた者が、一旦自分の安全が確保されると、途端(とたん)に偽善者ぶったことを云う。動物愛護協会の、口の利き方のようなことを云う。
この世には、避けて通れないと云うようなものがある。これは自明な理であり、これから先の未来も同じであろう。狂犬病の犬に襲われたこの夜、それはまさに避けて通れない現実に遭遇したのだった。そして間一髪で、彼女を助け、掠(かす)り傷一つ負わせる事なく、安全を確保してやったのである。
そして、これが感謝を顕わす言葉でなく、私を避難する「何も殺さなくても……」だった。彼女の言は、明らかに善人の言である。しかし、悲しむべきは、善人同士が対立して、互いが苦しむという真実は、何ともやりきれないものであった。
彼女の云った、「何も殺さなくても……」は、万人が用いる免罪符だろう。しかし、この免罪符を用いて、この危機は回避できまい。何しろ相手は狂犬病に罹(かか)った犬であったからである。殺す以外なかったのである。それとも動物愛護協会の「動物愛護」から、自分が狂犬病の犧牲になって啖(く)わればよかったというのか。
人間が、何かのアクションを起こして、身を護ろうとすれば、そこには“エネルギー不滅の法則”ではないが、何かの代償を払わなければならない。こうした“護身”という見地から考えれば、当然の事ながら、人間の手を煩(わずら)わせるアクションと云う“労力”がいる。自分は何一つ損をすることもなく、手も汚さず、こうした場合、狂犬病の犬の襲撃から身を護る方法があるというのか。口先の理論が通用するのか。犬にお説教が通用するのか。
現代社会において、日本人くらいお人好しで、平和好きな人種は居ないだろう。
したがって、「平和」とか、「動物愛護」という面から考えて、自分が平和で、動物も可愛がるのであれば、他人も平和で動物を可愛がると、このように信じている人は少なくないようである。これでは、「自分の身を護る何たるか」が明確でなく、狂犬病の犬に襲われた時、抵抗もせずに、咬(か)まれろというのであろうか。
平和好きの言葉には「人間の生命は地球よりも重い」などという荘重な言葉があるが、これが時として吐かれ、また、誰もが口にするようになった。しかし、この言葉には、何処か瞞(まやか)しのような匂いが漂っている。
また、昨今では「愛は地球を救う」などの言葉も生まれた。そして、前者と後者とが抱き合わせになることもある。しかし、実際はそうではない。愛唱するスローガンとは違う。
命ある、生きとし生けるものは、生命が生命の犧牲になることによって、生命が護られると言う原則が、この世にはあるのだ。
何らかの生命が生き残ろうとする場合、一方で別の生命が犧牲にならなければならない。普段、勇ましいことを云っている人が、いざ、自分の身に危険が降り懸かると、逃げ腰になったり、助けを求めるのは、如何なる信念からくるものであろうか。
多くの日本人は、いま「偽りの平和」の上に築かれた社会の現実に、全く気付いていないのである。
また、私が高校生であった頃、世の中全体が進歩的な動きに傾き始めていたが、その当時でさえ、進歩的と思われているような人が、実は保守的に、物事を考える代表格のような人達であった。
エゴイズムは、保守的な思考から起るものである。したがって、私を批難した「何も殺さなくても」の彼女の言は、安全圏に身を置いた、実に保守的な発言といえよう。他人の為に、自分が生命を差し出すと云うことは、容易なことではない。
また、他人の為に、あるいは自分を含めて、生き物が生き残ることは、他の生命の生贄(いけにえ)を求めることになる。これが“エゴイズム”であって、何であろう。
エゴイズムとは、自分一人だけの利益を計ることばかりでなく、自分は全く手を汚さず、「いいとこ取り」をする、損をしない理屈を主張することである。この意味からすると、人間ばかりでなく、動物も同じだろう。
しかし、人間は動物と違って“損”をすることが出来る生き物である。人間と動物の差は、此処にあると言ってよい。人間は、時には損をすることを名誉と思う生き物なのである。
日本には、ロータリー・クラブやライオンズ・クラブのような、奉仕団体がある。しかし、この団体は厳密に云えば奉仕団体でありながら、この団体に奉仕者が一人も居ないのは、衆目の一致する所である。これらの団体のメンバーは、何の為に集まっているかと云えば、本来は、社会活動を通じて、公民に奉仕をし、自分の労力においても、金銭においても損をして、人の為に尽すと言うのが目的である。
ところが、日本ではロータリー・クラブやライオンズ・クラブに入れば、社会的に名士と云われる金看板が付けられて、自他がともに認める金看板により、自分の目論む事業が遣(や)り易いという名流夫人達の団体に成り下がっている。所属する多くの人は、社会活動をする奉仕者とは程遠く、とにかく計算高い人ばかりが「名士」の名を求めて集(つど)っているのである。
本来ならば、「奉仕」という観点に立てば、その人の育ちの良さ悪さや、家柄や、経済状況や、教育程度の有無は全く関係ないのだが、ロータリー・クラブやライオンズ・クラブに入る為には、会員として充(み)たす条件が要る。しかし、本当の意味で奉仕活動をする人は、自分が他人の為に、損をすることが出来て、時には自分の命すら与えることのできることに、喜びを感じる人なのである。
他人の為に自分の命を差し出すことは容易ではないが、自分が耐えて他人の為に、損をして、汚い処理仕事をして、あるいは犧牲になって何かをすると云うことは、その人にとっては、実に大きな喜びなのである。
しかし、私はロータリー・クラブやライオンズ・クラブに入っている人を何人か知っているが、今までに“損をして……”などという人に、一人もお目にかかったことがない。
当世は、精神の貧しい人で溢れ返っている。
私は、この時、一つの生命を確かに抹殺(まっさつ)した。間一髪であり、避けて通れない出来事であった。一つの生命を生かす為には、別の生命が犧牲になって、一つの生命を生かす以外にない。その執行者になっただけである。
これは世の中のイデオロギーが、社会主義に変ろうと、資本主義を保守しようと、人間の根本は少しも変らない。
社会主義に偏(かたよ)れば、中国や北朝鮮に見るような賄賂(わいろ)政治や暗黒政治が罷(まか)り通ろう。また資本主義に徹すれば、今日の金融経済に見るような、学閥(がくばつ)にこだわり、家柄にこだわり、出身母体の人脈を辿って、組織作りや金儲けの能力のある人が、リーダーとして群れを率いることになるだろう。
しかし、何(いず)れに偏ったとしても、自分にとって損なことは絶対にしない、「人間擬き」や「獣(けだもの)人間」は今後ますます増加の一途を辿るだろう。
─────私は、この場を立ち去る時、確かに生き物の殺傷の罪を犯し、一つの命をこの世から消し去ったということに、些(いささ)かの懸念(けねん)があった。しかし、悔悟(かいご)ではない。避けて通れなかったのである。したがって、私には生殺与奪の権などという、大それた思い上がりなど、微塵(みじん)もなかった。事は急を要し、目前に危険が迫っていた。「決断」の名において、決断したまでの事であった。
しかし私は、一つの生命をこの世から抹殺することを、「勇気」の名において実行した。
真の勇気とは、即刻、決断することだと思っている。感情に左右されず、有無も言わせぬ、決断こそ、一つの生命を奪い、同時に別の生命を生かすことだと思っている。物事は決して理想主義だけで動くものではない。冷酷な現実を、姿と云う形で見極め、シビアに、容赦(ようしゃ)ないまでの鉄槌(てっつい)を下さない限り、理想主義ばかりにこだわっていては、現実逃避したことになる。現実は、しかと見据えなければならない。
本来の理想とは、現実のデータを基(もと)にして、この上に、理想の図面を書くことであり、現実逃避の中から、真の理想なるものの出現はあり得ない。
さて、この晩、私の働いた罪は、何に当たるのだろうか。
間一髪のところで助けた彼女は、「何も殺さなくても」と反論したが、人間は今まで「救(たす)けて!」と悲鳴を上げていた者が、一度、自分の身が安全なると、今度は“決断”の執行者に、批難の鉾先(ほこさき)を向けるのである。何と人間は身勝手なものか。これこそ、人間の“偉大なる矛盾”であろう。
この矛盾の偉大なるところは、今まで危険と背中合わせに居て、それから逃れる為に「救けて」と叫び、一度、危険が回避されると、今度は動物愛護の主張に摺(す)り変っているところが、何とも浅ましいからである。この浅ましさこそ、人間の偉大なる部分であり、ある意味で、神をも恐れぬ振る舞いといえよう。
現実を悪く云い、未来に途方もない夢を描く。これは決して悪いことではない。
しかし、改めて云うが、現実は理想主義者が考えるほど、この現象界は、総(すべ)てが穏やかさで充(み)たされている分けではない。突如として、謂(いわ)れのない理不尽が襲い掛かってくる。それを日本人独特の感傷主義で解釈してはならない。
私は確かに、狂犬病の犬が襲い掛かった時、死と隣り合せに居た。彼女を抱えて、逃げ出す暇もなかった。逃げ出したとしても、やはり襲われただろう。
今日の日本人は自分の命を、殆ど危険に晒(さら)すことなく、どんな立派なこともで言える、思い上がった人種に成り下がった。これを皮肉として云えば、基盤のない観念論の上に、「平和」の文字を樹立し、一方で戦争反対を唱え、一方で経済大国の優越感に浸っている。これこそが、日本の繁栄の具体的な要素となっているし、逆に云えば、このことにより、日本人は国際社会で大人になり損ねたと言えるだろう。
特に日本屈指の学閥出身者は、自分が頭のいいこと、あるいは物を知っていることの知識力を自慢する幼児性は何ともお粗末な限りである。政財界を見渡すと、どんなに誇れる学閥を出ていても、始末に困る単純な、子供同様の人間は沢山いるのであって、当事者だけが全く気付いていないだけなのである。
そして人間は、いい気なものである。
今まで危険に晒されていた人間でも、一度、自分の身の安全は保障されると、今度は善人の眼で、殺傷を働いた執行者を、悪人に仕立てて、厳しい糾弾(きゅうだん)の眼を向けるのである。
彼女の身の安全後に吐いた、「何も殺さなくても」は、私の心に“虚しさ”を降り積もらせた。虚しさと矛盾の共演。それは私に偉大なる教えを諭(さと)した。それは命の恩人が、動物虐待の罪で指弾され、自実に信じられないくらい、偉大な逆転劇が演じられることであった。
理不尽に襲った偉大なる暴言。あるいは悪意に満ちた罵詈雑言(ばり‐ぞうごん)。こうした言われなき、嘲罵(ちょうば)に襲われる事があると言う、この事実を、この時に知ったのである。
そして私は、この日を境に、理想主義者達の群れる「民青」を辞めた。
私は自由を口先で唱える共鳴者であるよりも、自由を実践する行動者でありたいと念じたからだ。
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