運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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吾が修行時代を振り帰る 45


●おかしなボディガード依頼

 先日、合田会長が云った、川田女史が、“逃げもせず、そこに居て、必ず電話にも出る”という言葉が耳から離れなかった。そして、“ビジネスをしている”と言い張ることだった。私は、川田女史の気持ちになって、“何故か?”と思う。

 普通、債務者の心理としては、ドアのチャイムが鳴ったら、それが誰彼構わず、出たくないと思う。借金取りかも知れないからだ。また、電話が鳴っても、留守番電話の案内メッセージの声は聴くが、そうした電話には出たくないと思う。取り立てられることは、身を切られることにも等しいからだ。
 その上、度々遅れれば、気持ちは萎
(なえ)え、次第に意気消沈して行く筈(はず)である。また、金融ヤクザはこの辺を百も承知していて、債務者のこの心理を逆利用する。

 逆利用の常套句に「なぜ電話に出ねぇんだ!」と詰め寄ることである。債務者は、
「電話に出ないこと」「期日通りに返済できないこと」の、“二つの負い目”を負うことになる。債務者は返済が遅延していることへの言い訳に合わせて、電話に出ない、居留守の言い訳もしなければならない。
 そこがまた、金融ヤクザの暴利を毟
(むし)り取っていく手口である。この作戦に嵌(は)まれば、素人は一溜まりもない。常に“負い目”が蹤(つ)いて廻るからだ。一つのジレンマになり、永遠に解放されることがない。悪しき悪循環である。

 川田女史は、こうした背景を裏側から見ているに違いない。だから電話にも出るし、居留守も遣わない。毅然
(きぜん)としているのである。手強いと思う前に、“何故か?”と考える。あるいは彼女は、返済不能で、息詰まった状態ではないのかと思ってみる。しかし、もしそうなると、その態度には「裏付け」がなければならなかった。


 ─────私が川田女史の前に姿を現わしたのは、約束の90日を過ぎて、更に11日を過ぎた、約束期限切れの101日目であった。借金は概算では、合計が750万円前後であろうと思われた。また、同じような借金を、他でも撮
(つま)み食いしている筈(はず)だった。
 私は予備校のへ出勤する前の、早朝6時に川田女史のマンションを訪れたのだった。朝一番の、企救ヶ丘
(きくがおか)駅発5時45分のモノレールに乗り、三萩野からバスに乗り換え、八幡東区××町のサンハイツを訪ねたところだった。

 川田女史は、私の知るところ、金融ヤクザから訪問されても、怯
(ひる)む様子がない女である事を予測しておかなければならない。彼女はこの手のヤクザが暴力を奮わない事を、百も承知しているからである。取立屋が暴行などの暴挙に出れば、それは自爆にも等しい行為であるからだ。直に警察が介入する。金融ヤクザは、決してこの手段を用いない。したがって彼女は、この世界の裏側の実態をよく知っているのである。

 取立屋を始めた日、合田会長から預かった大粒のイエローダイヤなどの小道具は、全く必要なかった。
 サングラスを掛ける必要もなく、新調した背広に着替える事もなく、靴もピカピカの一足10万円もするイタリア製のテストーニなど、履く必要がなかった。高級靴を履いているか否かの、足下
(あしもと)を見られる心配もなかった。予備校講師スタイルの、普段着の量販店で売られている、安価な夏物の背広の侭(まま)でよかった。

 合田会長は先日、若い者
(もん)を送り込んだと云ったが、これが暖簾(のれん)に腕押しで、不発に終っている。この手の脅しは効果薄なのである。
 私は2年前の、川田女史が訪ねて来た時のことを思い出していた。その筋の者が訪ねて行っても、不発だったと言うのであるから、強硬策は余り効果が無い。また脅
(おど)しも無用だろう。裏側を読まれている観があった。名実共に一筋縄では、いきそうになかった。

 私は(株)エミー・フーズと、小さなプレートが懸
(か)かった玄関のドアの前に立ち、横のチャイムを鳴らした。すると、まるで私の登場を待っていたかのような素早さで、重い鉄製のドアが開いた。ドアのドア・チェーンは外され、間髪入れずに裡側(うちがわ)から開かれたのであった。
 「私は……」と言いかけた途端
(とたん)、「どうぞ中へお入り下さい」と声が懸(か)かった。

 私は言われるままに中に吸い込まれ、予備校で通勤する際に用いる、教科書の詰まった鞄を手に下げたまま、玄関の中へと入った。私は手に、借用証書のコピーをひらひらさせて、取立屋である事を証明した。そして私の顔を見るなり、彼女は「おや!」と、小さな悲鳴のような声を挙げた。彼女にとって、奇遇だったのであろう。

 「私を憶
(おぼ)えて下さいましたでしょうか?」
 そんな突発的な声を返していた。
 「ええ、勿論ですわ。わたしを袖
(そで)にした“塾長さん”ですもの」
 「あれは確か、2年前でしたねェ」
 「もう、そんなになるかしら……」
 「朝早くから、あなたをお訪ねしたのは、2年前のあなたを“袖にした”お詫びではないのです。私も今では、しがない借金の取立屋でして、2年前とは比べ物にならないくらい、今ではすっかり落ちぶれてしまいました」
 「まあまあ、それは可哀想。わたくしの話に一枚咬
(か)んでいれば、今頃、左団扇(ひだり‐うちわ)でしたのに……」
 「いいえ、一枚咬まずに居
(お)ればこそ、また巡り巡って、こうしてお会いする事が出来ました。世間は中々狭いものです」

 「取立屋と申しますと、もう、予備校は廃業されたのですか?」
 「いいえ、予備校の“理事長
(経営)”兼“塾長(専任講師の長)”兼“取立屋(朝晩のアルバイト)”で、二足の草蛙(わらじ)と言いたいところですが、実は今では“三足の草蛙”を履いております」
 「おやおや、そうでしたの……。いまどきの予備校経営も大変ですわね。では、わたくしも“取立屋さん”に、お詫びしなければなりませんわ」
 「?…………」
 「本当に申し訳ありませんでした。この通りです。心からお詫び申し上げます」
 彼女は玄関前の廊下に静坐
(せいざ)して、両手を揃えて丁寧(ていねい)に“三つ指”を着き、深々と床に頭を擦(す)り付けながら、私に頭を下げたのだった。

 「玄関前のでの立話しも何です、部屋の中に入れてもらいましょう」
 いつしか私は、厳しい表情の“取立屋”になっていた。女だからといって、甘い顔は出来ないのだ。特に男は美人には弱いが、そうした弱点は取立屋にとって禁物なのである。
 私は普段履きの、履き古した靴を脱ぎ、玄関前で這
(は)いつくばっている川田恵美子を、軽く突き退(の)けて部屋の中へと押し入った。

 誰もが“S通商”と聞いただけで、厭
(いや)な顔をして恐れるその代理人として、私は早朝より、川田恵美子のマンションに押し掛けたところであった。彼女は、S通商から正確に言えば、6,707,131円の借金をしているのである。元本と金利分と延滞損害金を取立に乗り込んだのだから、取立屋として、甘い顔をする事は出来なかった。

 川田恵美子の棲
(す)んで居る2LDKのマンションは、それほど広い部屋ではなかったが、女一人の住まいとしてはまあまあで、ロシアの風景と思える“四つ切り判”の写真や、品の良い小さな西洋絵画が何枚か飾っていて、その趣味のよさを顕わしていた。私は3点応接セットの長椅子に、ドッカと、背凭(せ‐もた)れに腕を乗せて腰を据えた。

 「実は手違いがありまして、“Dドリンク産業さん”から、手形で支払って頂いたものを受け取って、銀行で割り引いてもらいましたところ、間違えて、そのまま口座に入金をしてしまいました。その為に、別の手形が廻って来て、それが落ちてしまったのです。こんな事になるなんで、わたくし夢にも思いませんでしたわ。
 わたくの“うっかりミス”の為に、本当に申し訳ありませんでした
 それで、また後、10日間だけ、ご猶予
(ゆうよ)を頂きたいのです。後10日もすれば、返済のメドがつきます。どうか後10日……」

 私は彼女の巧妙な作り話に、“よく出来ている”と感心し、思わず手を叩いてしまった。それは、ちゃかし半分の拍手だった。
 「失礼しちゃうわ。人の話に、ちゃかしを入れて、揶揄
(やゆ)するように手を叩くなんて……」
 「今朝は随分とウソが下手だね。2年前の“冬中夏草の投資話”の時は、今日以上に迫力があった。あの時は、もう少しで、私も騙
(だま)されるところだったよ」

 「ねえ!ちょっと。わたしの投資話がウソですって?!冗談じゃないわよ。冬中夏草の投資話は本当なんだから……」
 「だって今の話聞いていたら、訝
(おか)しいじゃないか。第一、別口で“もう一つの600万円”の借金があったということ?」
 「何ですって?!」
 「幾らDドリンク産業だからと言って、こんな小さなマンションで細々と遣
(や)っているブローカー擬(まが)いの会社に、600万円単位の連続の2口もの発注を出すとは信じられない。それは、あっちこっちに、様々な多重債務があると言う事じゃないか。借金で嵩(かさ)んでいるのだろう?」
 私は決めつけるように言っていた。

 川田恵美子は、“図星だ”と言う態度に豹変
(ひょうへん)し、私の言葉に虚を衝かれて意を決したのか、膝を揃えて座り直し、深々と頭を下げて「申し訳ありませんでした」と、また、ゼンマイ仕掛けの人形のようにお辞儀をしたのであった。
 私はソファーにふんずり返って、再び、「下手な芝居は飽きた」という風に、焼け糞で手を叩くしかなかった。

 「わたくし、言い訳が下手でしょうか?数日前の怕
(こわ)い“お兄さん方”には通用したのですけれど……」
 まるでそれは“八方破れ”と言った口調だった。
 「そんな言い訳しなくたって結構だよ。それこそ、“お里が知れる”と言うものだ」
 「そうかしら?わたくし、これでも随分上手に言い訳をした積もりなんですけど。
 それに今日は、朝早くから誰かが押し掛けてくると覚悟していたから、朝っぱらから、余所
(よそ)行きのスーツを着込んでお待ちしておりましたのよ。決して下手な言い訳をする積もりなんか、ありませんでしたわ」

 「仕方ないよ、誰もが恐れるS通商から、600万円も引っ張り出して、踏み倒そうとするんだから……。そんなことしたら、セメント詰めされて、今頃、玄海灘の海底にでも沈められているところだ」と、凄んでみせ、巧妙に脅
(おど)し文句を吐いた積もりであったが、彼女はこれくらいでは、ビクともしなかった。

 「決して踏み倒そうと思っておりませんわ。あと10日だけ待って下さい。今度は本当に大丈夫ですから」
 「そんな逃げ口上では、誰も納得しないよ」
 「どうしても駄目ですか?」
 「あと10日と言うけれど、10日じゃなくて、1週間だったらどうなる?1週間後にセメント詰めになったら、話も何もならないだろ」

 この言葉を聞いて、川田女史は少し笑った。
 「塾長さんも取立屋の癖に、随分と脅しが下手ね」
 こう言われて、「うッ」と言葉に詰まったが、こちらも八方破れで居直るしかなかった。この頭の回転の早い女には蹤
(つ)いていけないのである。

 「お互いに、ウソの付き合いは下手なようだな」
 「狐と狸の化かし合いですもの、どちらも見え見えですわ。金貸しが、貸したお金を回収しないうちに、セメント詰めして、海にドボンなんでありまして?そんな勿体無い事、する筈
(はず)がありませんわ」
 「まあ、それもそうだな」私も苦笑せずに入られなかった。

 「あのーッ、塾長さん……」
 「はあはあ、何でござんしょう?」
 「今日から10日間、わたしをガードして下さらない?」
 「ガードを?」
 「わたしの身の回りには、いろいろとトラブルも多く、女一人の身では、とても凌
(しの)ぎ切れませんの。10日間だけ助けてちょいだい。ねえ、お願い……」それはまさに媚(こ)びを売る声であった。

 「なに?……」
 「株式会社エミー・フーズの代表取締役である、わたしくとしては、今日より10日間が非常に危ない時期なのです。お願い、ガードして……」冗談とも取れない口調で、哀切を込めて言い放つのであった。
 何か企んでいるのだろうか。

 これをどうしたものかと困惑したが、“はて?”と思う。
 「あのね、もし私がそんな事をしたら、ミイラ取りがミイラになるじゃないか」
 「やっぱり駄目かしら……」
 更に哀願の目が強くなった。目が潤んでいる。

 「そんな顔で、私を見ないで欲しいな……」
 「でも、駄目?……」
 「その目が駄目と言うんだ」
 「じゃァ、ボディガードはOK
なのね」
 「しょうがないな……。でも10日間だけだよ。それから先はお断りだからね」
 「ガードする計画予定を訊
(き)きたいわ、善は急げと言うし……」

 「私はガードする計画予定を訊く前に、川田さんの“返済予定”を聴きたいなァ」
 「それだったら、本日より10日後に元本、利息、延滞損害金の一切の総てを完済致しますわ」
 「つまり、111日後に750万円前後を、きっちりと完済すると言うこと?」
 「ええ」

 私は内心で思っていた。この女はS通商だけではなく、他からも合計すると、3,000万円ほどの金を引っ張り出している。ざっと検
(み)て、利息分や延滞金を含め、400万円以上には達しているだろう。合わせれば3,400万円以上だろう。
 しかしこの金を全額、返済する力はないだろう。顔では強気を装っているが、やがて泣きを入れて“風呂屋
【註】ソープランドを指す)にでも沈められる”だろう。もう、10日先が見えたようなものであった。

貸し出す場合の借用証書の様式(『貸金業務の知識』福岡県金融課刊より)

 「塾長さん、随分と悲観的な目付きで、わたしを見るのね……」
 「なにが?」
 「だって、そうでしょ。塾長さんの目は、わたしの10日先を、悲観的に見ている目だわ。わたしは10日間、わたしのボディガードをお願いしてますのよ。そのガード料は、きっちりとお支払い致しますわ。1日10万で、10日間で“100万円”では、いかがかしら?……」

 “それを言うな”と言いたいところであった。私は“100万円”に弱いのだ。
 「其
(そ)の手は桑名の焼蛤(やき‐はまぐり)」と、思わず、反射的に言い返していた。
 「塾長さんって、わたしを詐欺師みたいに言う癖、ちっも以前と変わっていらっしゃらないようですねェ……」

 私は何事にも「100万円」という言葉の響きが、“危険用語”であるのだ。今まで「100万円」という言葉に、どれだけ転んで来たことか……。
 しかし、私はこの女の“面白い一面”に転んでみようと思った。“騙
(だま)されてみてやるか”という軽い感じで、川田恵美子の“10日間の支払い猶予”と“ボディガード”を引き受けてやったのである。その上、彼女は、ボディガードは懇願(こんがん)ではなく、「交渉なのだ」と言うのであった。ビジネスとして、ものを言っているのである。この辺にも、川田女史の気丈(きじょう)さがあった。したたかな女である。

 しかし、この“10日間の支払い猶予”を、合田会長は何と言うか。恐らく“甘い”の一言で一蹴
(いっしゅう)されるだろう。
 これに対して、私は「作戦続行中です」と、反論する以外ないだろう。

 さて、私は10日間の毎日の川田恵美子のスケジュールを決めてやった。
 これは1日24時間の、10日間で“240時間のガード”をするスケジュールであった。240時間だけ、彼女を、何者かは知らないが、護ってやる事であった。しかし、彼女が何者かから、命を狙われているようは節は窺
(うかが)えず、もし狙われているとしたら、それは別口の借金取りからの追撃を躱(かわ)すことであろう。
 しかし借金取りを躱
(かわ)すには、単に彼女が、自分のマンションに立て籠(こも)り、鍵を掛けて、裡側(うちがわ)に、息を潜(ひそ)めて居ればいいと言うものではなかった。外にも自由に外出をし、今まで通り、伸び伸びと自然に振る舞わねば、ガードする意味もないだろう。ボディガードとは、此処までも保障できるものでなければ意味を為(な)さない。

 テレビドラマの一コマには、よく、玄関のチャイムが鳴る度に、電気を消し、真っ暗な部屋で息を殺して、身じろぎもしない債務者の哀れな場面が登場する。あるいは電話のけたたましい呼出音に、耳を塞
(ふさ)いで現実逃避する債務者の哀れな姿が映し出される。しかし、多重債務者が「身を切られる」思いで、これを躱しているという風には思えない。発想は悲観的である。現実逃避が、悲愴感を煽(あお)る。

 だからこうした無意味な錯覚は、打ち砕くしかない。物事は皮相的に表皮の現実のみを捕らえるのではなく、本来の姿に戻って、攻める側の論理に徹すれば、解決の糸口も見えて来る。
 私は、これまで随分と取立屋に脅され、悲惨な現実に直面して来たが、逆に自分が取立屋になり、取立屋の心理が分かれば、それが一種の幻想であったように思われて来るのだった。有って、無いような、夢の一コマを、人間は翻弄
(ほんろう)されているのではないかと思うのである。貸したの、借りたのも、実は“夢の一コマ”であろう。
 これを舞台裏から見れば、その実情はもっと違ったものになっていて、お互いが役者同士の絡み合いでなかったかと思うのである。

 今になって思えば、バブルに踊る前の昭和59年末から、日経平均株価は1万1千円台だった。そして翌60年末には、プラザ合意で円高に向かった時は、1万3千円台になった。この時、既に世の中は浮かれる様相を見せ始め、全国至る所で、ヤクザなどが絡む地上げの兆候が、ぼつぼつと見られるようになっていた。
 日本国民を挙げて、バブルに踊ったのが昭和61年12月からであり、日経平均株価は1万8千円台に達し、これから三年後の平成元年12月末には、3万8千9百15円を記録していた。

 しかし当時、バブル構造の巧妙な“からくり”を見破る、日本人エコノミストは一人も居なかった。そして、経済社会を支配し、それを突き動かす“資本の理論”の中に、「意外性」が含まれていることを指摘できる経済学者も、一人も居なかった。多くの経済学者達は、旧態依然の「マルクス経済学」で、資本主義の欠点ばかりを論
(あげつ)らっていた。巧妙に仕掛けられた、バブルの構造など、誰も指摘できず、また解明もできなかった。
 追い詰められると、藁
(わら)にも縋(すが)りたい心理こそ、先の読めない人間の愚かしいところで、「いまどき、そんな話がある分けない」と思いつつも、実際にはコロッと騙されてしまうのである。あの、バブル絶頂の、あの時も、誰もがそうでなかったのか。その意味で、あの時代も一種の“夢の中の幻想”であった。

 そして私の立てた計画は、次のようなものであった。
 まず10日間だけ、住まいを今のマンションから、ホテルに移し、この間、ホテル住まいをさせる事であった。そして昼間は予備校に勤務させて、“化学”と“生物”の講師をさせる。これを彼女に、10日間こなしてもらう事だった。私の策は、「人を隠すは人の中」だった。



●野暮用

 「ねえねえ、塾長先生。今日入った理科の先生、すげー、ベッピンじゃん。何処で見つけて来たんスか?」
 こう、私の後から声を懸
(か)けたのは、もう私の予備校に2年も通っている、大検クラスの野村剛士つよし/仮名)だった。ちょうど、4時限目の授業が終ったところであった。


 ─────野村は大検の11教科のうち、数1と理科1の必須教科の二科目が合格できず、今年も予備校に通っていたのである。彼は県立の中堅普通高校に通っていたのだが、その学校の体育教師と折り合いが悪く、その教師を殴り、高校2年の三学期、学校を辞めたのであった。人間的には、いい人間なのだが、少々短気で、直ぐに切れて、過激な暴力を奮うのであった。補導歴もある。そして喧華早い。闘争心旺盛である。しかし純情だった。

 小学校から柔道をしていて、中学、高校と柔道を続け、そのうち何処かの大学
(第一志望:天理大学、第二志望:日本体育大学、第三志望:近畿大学)で、柔道の特待生として入学を考えていたようだが、彼の短気な性格は、大学入学を漕ぎ着ける前までに挫折していた。

 しかし、柔道の素質はあるらしく、高校2年の夏に、福岡県下で行われた柔道の段取試合
(当時の昇段試験の呼称)に出て、7人抜きを遣り、最年少で柔道二段だった。当時の柔道の昇段試験は、初段で二人抜きをし、二段では七人抜きをしなければならなかった。それから考えても、分厚い弁当箱のような体型をした野村剛士は、柔道の素質は充分にあったと思われる。

 そして彼は、不思議と私に懐
(なつ)いた、可愛い子分のような存在だった。私の言うことをよく聞いて呉れるのである。
 彼が私の手下
(てした)のような存在になったのは、一年前の国語の授業の時だった。

 私は、2時限目の授業がなかったので、小倉本校の理事長室で、事務員の入れてくれたコーヒーを啜
(すす)っているところであった。私好みの、時間を掛けて、サイフォン式の水蒸気の圧力を利用するコーヒー沸かしは、ゆっくりとお湯を注いで行くところに、一つのうまいコーヒーを入れるポイントがある。常々私はこの事を、事務員に申し渡しておいて、ある程度訓練させ、それを毎日実行させていたのである。そうして入れた、コーヒーは、一層香ばしい香を飛ばし、その匂いが辺一面を漂うのが、私は実に好きだったのである。
 そういう、手の込んだ入れ方をさせたコーヒーを楽しみ、至福の一時
(ひととき)を味わっている時だった。

 ある教室から、女子生徒たちの悲鳴が聴こえて来たのである。
 一瞬“いったい何だ?なんだ?……誰がバカやったのか?”という気持ちで、至福の一時が中断され、事務員が「生徒と先生が掴み合いになっています。大変です」というのである。
 事務員は「大変なことになっているから直ぐ来て下さい」とも言う。私も“朝っぱらから、誰が掴み合を遣っているのだ?”と半分腹立たしい気持ちで教室に向かったのであった。教室では、喧華早い野村剛士が、国語の原田講師
(この御仁も国士舘大の剣道部出身の“つわもの”)の胸倉を捕まえて、殴(なぐ)り合いを始める寸前であった。

 「よさんか、野村!」
 私は怒鳴りながら、原田講師の胸倉を捕まえる野村の手を払い、直ちに席に座ることを命じた。しかし野村は、それが我慢できなかったのか、今度は私に向かって来た。その面構えから、刃向かう相手は誰でもいいという風であった。

 「何かッ!塾長だって容赦せんぞ!ボコボコにしちゃる」野村は大声で云い放った。
 私は、野村の柔道式の、“組手取り”を払い除け、彼の顔面に向けて掌底
(しょうてい)を打ち込んでいた。“入り身”の掌底打である。野村はそれをまともに喰(く)らって、仰向けにひっくり返り、口から泡(あわ)を吹いて居た。そして周りを取り囲んだ、男子生徒数人に、医務室に運ぶよう命じた。
 そこは医務室と言っても、別に医師が常駐して、突然の事故や怪我に対し、手当てすると言うものでなく、授業中に気分の悪くなった生徒達を一時、休息させる部屋であった。簡単な常備薬などは置いてあるが、治療する医師や看護婦は居ないのである。そこへ、ひっくり返った野村を暫
(しばら)く寝せておくことにした。

 医務室のベットに野村を寝せて、運ん来た生徒は下がらせ、授業に参加することを促した。
 野村は泡を吹いていたので、下腹を両掌で抑え、一気に活
(かつ)を入れてやった。彼は息を吹き返すと同時に、涎(よだれ)を垂れて、「気持ちわりィー」と言いながら起き上がった。そして、「オレ、塾長にくらされたんだよね?」と言って起き上がってきたのである。
 「ああ、そうだ。今度このような真似をしたら、退学だぞ」
 「はい、分かりました。ついでに塾長先生が“並のオッサン”でないことも、身を持って体験しました。有難う御座います」と、深々とベットから起き上がって最敬礼したのである。

 「これからは、鬼ヶ島に、鬼退治に行く“犬”になりますから、是非、お供に加えて下さい、ワン」
 その一言で、いつしか野村は手下のような存在になっていたのである。図体は大きいが、中々いい奴であった。


 ─────そして今日、川田講師の“化学”と“生物”の授業で、野村は彼女を見たのであろう。わが予備校では、理科と数学の講師は、白衣を貸与していたが、川田講師にも白衣を貸与した。そして彼女の白衣姿が、また、よく似合っていた。研究所の研究員は女医を連想させた。そんな白衣の彼女を、野村は魅了され、入れ込んだのであろう。いつになく、そわそわしていた。

 「塾長先生。オレ、“化学”と“生物”履修して、いいスかね?」
 「なんで?」
 「オレ、まだ理科1、合格してないスから……」
 「何でお前が、“化学”と“生物”を履修するのか?理科1は栗田先生だろうが……」
 「あのスねェー、栗田先生。老いぼれ爺さんで、何喋っているか、さっぱりわかんないスよォ……」
 「それで川田先生の“化学”と“生物”を……?」
 そういわれれば、栗田講師は、高校教師を満期で退職して、うちの予備校に来た、67歳の非常勤講師だった。

 「野村」
 「はい?」
 「お前、川田先生に一目惚
(ぼ)れしたんと違うか?」
 「別に、そんなことないスよォー」と、語尾を引き延ばしながら言う。そして顔を赤らめていることが、その何よりもの証拠であった。野村は厳つい体型に似合わず、純情少年だった。

 「塾長先生こそ、川田先生にイカレテいるんじゃないスかァー」
 「そうかも知れん……。いい女だ。是非一発お願いしたいね」
 「なんですと……?」
 「そこでだ。お前、俺が川田先生に、お前のデートを申込んでやろうか?」
 「ホントー……スかァー」
 「ああ本当だ。あす授業が終ったら、川田先生とデートをして、あとは隙
(すき)があったら、連れ込み旅館でも、モーテルでも、何処でも連れ込め」
 「そんな事して、いいスかァー」
 「ああ、構わん」
 「でも、オレ、そんな金ないスよォー」
 「金か……。金なら今晩、俺のバイトを手伝え。時間は午後6時から8時の間で、たった2時間で5万円だ」
 「それ、ヤバイすよォー。2時間で5万円だなんて、絶対にヤバイすよォー。オレの童貞、ホストクラブ出入りのオバンなんかに、売ったりなんかして……」
 「いや、違う。ちょいとした力仕事だ」
 「力仕事?」
 「仕事は簡単だ。お前は午後6時から8時の間の、ほんの2、3分、芝居で、俺からボコボコに、くらされたら、それで済むことだ。これはあくまで芝居だから、絶対に生命には危険がない」
 「ホントーすかァー。塾長先生は、以前オレを一発でノックアウトした“危険な技”を遣う恐ろしい人だから、今度、ボコボコにされたらオレ、死ぬかも知れないスよォー」
 「そうなる前に、辞めてやるから安心しろ。とにかく芝居だから、安心せい」
 「なんか、信じられないスよォー」
 「男だったら信じるしかあるまい、それに、別嬪
(べっぴん)の川田先生にイカレテいるんだろ?そして今晩2時間で5万円のバイトをして、その金で明日、川田先生と何処かで、しっぽりと濡れたらいいんじゃないか……」
 「そんなにオレを、唆
(そそのか)さないで下さいよォー。オレ、直ぐその気になっちゃうから……」
 「よーし、決まりだ」
 「待って下さいよォー、勝手に決めないで下さい。考える時間を、少し下さいよォー、とにかく考えますから……」
 「何を考えるのだ。お前は今晩、俺のバイトを手伝って、明日、川田先生を、先ず高級レストランに食事に誘って、次にナイトクラブか、高級バーに誘う。そこで、しこたま酔わせ、前後不覚にして連れ込み旅館か、モーテルに誘い、仲睦
(なか‐むつ)まじく、しっぽりと濡れる。これで川田先生は、お前の“もの”だ。単純明解だろう?」
 「女って、そんなに単純スかねェー、なんか、違うような気がするけど……」
 「お前、こんな明解な単純方程式が解らないようでは、今年の8月の大検は、また落ちるぞ」
 「おどかさないで下さいよォー、オレ、今年こそ大検合格して、この予備校を卒業しますから。オレ、2年もこの予備校に通っていますからね、親や近所の手前もあって、予備校に2年なんて、かっこうわるいスよォー。だから、大検の合格に弾みを付けて、ついでに大学受験も一緒に受かって、来年の4月からは、見事に大学生になってみせますから……」
 「そう、簡単にいかんだろう」
 「大丈夫、スよォー」
 「しかし、その前に今晩の“登竜門”をクリアしなければ……」
 「それって、ホントーにヤバかないでしょうねェ?」
 「ああ、信用しろ」
 「信用しろったて……。ヤーさんみたいに、“からだ”張るんでしょ?いやだなァー」

 結局、野村剛士は、ゴネ捲
(まく)っていたが、最後は遂(つい)に折れ、不請不請(ふしょう‐ぶしょう)、私のバイト相手として手伝うことになった。
 また、川田女史には今晩は9時まで、予備校に勤務して、此処から絶対に動かないように指示を出した。此処から一歩でも外に出たら、ガード依頼は白紙に戻すと念を押しておいた。動かれては監督に視界から外れるからだ。

 そして“野暮用”で、今晩9時まで出かけるが、9時になったら戻るので、それまで個別指導の、他の学生講師
(個別指導は時給の安い学生を使っていた)のアドバイザーとして、助言を与えて欲しい旨を頼んだのだった。
 川田女史は、高校レベルの理科の教科書やテキストをパラパラと捲
(めく)って、「うわーァ、懐かしー」を連発していた。



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