運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
合気剣術総合武範 1
合気剣術総合武範 2
合気剣術総合武範 3
合気剣術総合武範 4
合気剣術総合武範 5
合気剣術総合武範 6
合気剣術総合武範 7
合気剣術総合武範 8
home > 合気剣術総合武範 > 合気剣術総合武範 3
合気剣術総合武範 3

鞍馬寺の竹斬りの行事より


●太刀の理合と大東流合気剣術

 西郷派大東流の理合は、太刀捕りに代表され、剣技の裏技として太刀捕りがある。この太刀捕りは「位之太刀(くらい‐の‐たち)」といい、一般には「四方投げ」として知られているが、この「四方投げ」は無刀之術に由来する。
 敵の斬り込む、四方八方の太刀を、転身により捌きとり、手頸
(てくび)を受け捕って、背面側から掛とって、敵の後頭部を地面に叩き付ける儀法である。これを「位之太刀」における「四方之位(しほう‐の‐くらい)」という。

 さて、大東流の太刀の理合は日本刀によって行われる。日本刀は、西洋で言う「ナイフ」という、単なる刃物ではない。それには人間の精神が附随され、心が映し出されている。この、人間の心の映しが、また刀剣に反映され、一種独特の世界にも稀な、日本刀を造り出すのである。

 日本刀の鍛練は、材料の「玉鋼
(たま‐はがね)」よりはじまる。玉鋼は、砂鉄を原料とした製鋼であり、これに各刀匠が選んだ古釘や古鉄が遣われる。そして「皮鉄(かわ‐がね)造り」という作業に入る。まず、「玉つぶし」という下鍛えがあり、玉鋼を板状に平たくして小割りにする。次に「積(つ)み沸(わ)かし」という行程があり、ほぼ同一になった材料を「てこ鉄」の上に載せ、小割りにした玉鋼を積み重ねて炉の中に入れ、沸かして、鍛接して一枚の厚板を造る。更に、折り返し鍛練を行い、拍子木(ひょうしぎ)という短冊鉄(たんざく‐てつ)の下鍛えを行う。

 これが終れば、上鍛えに入り、積み沸かし、折り返し鍛練などが行われ、折り返し鍛えを数回行い、最終的に炭素量の決定が行われる。
 これが終ると、「心鉄造り」が行われ、軟らかい包丁鉄
(ほうちょうてつ)に玉鋼を混ぜ、数回鍛えられる。次に組合わせ鍛練が行われ、中に心鉄を入れ、外側の皮鉄でこれを包む。更に皮鉄と心鉄を鍛接してから曲げる「まくり鍛え」が行われる。心鉄を中心として皮鉄と刃鉄、刃鉄と皮鉄で三方から包み込む。これを「本三枚鍛え」と言う。更に本三枚に錬鉄を加えて「四方詰鍛(しほう‐つみぎた)え」が行われる。

 その後、組み合わせたものを長く打ち延ばす「素延(すの)べ」が行われ、火造りが行われて、素延べの刃方を打ち刀の形に造り出すのである。更に、荒仕上げ、土取り、焼入れ、反り直し、仕上げの各工程により、鍛冶押しと呼ばれる荒研ぎで刀の姿が出来上がる。また、肉置を整え、疵(きず)や欠点があるかどうかを確かめる。
 こうして確認したものは中心
(なかご)の形を整え、ヤスリ目をかけて仕上げし、目釘孔(めくぎ‐あな)をあけ、最後に作者の銘が刻まれるのである。

備前長船鍛冶場の刀剣鍛練より



大刀には珍しい「菖蒲(しょうぶ)造り」の刀身造り込み。菖蒲造りとは、横手がなく脇差しに多く、菖蒲の葉の形ににていることからこうした名前が付けられた。



 日本刀は、斬る為に造られたものであるが、それ以上に人知を超えた魂が宿る神器である。そして神器なればこそ、神器には理合なるものが存在し、単にナイフとは異なる、精神性の高いものが出現するのである。こうして、日本刀の発明以降、様々な日本刀を中心にした武技が生まれて来た。太刀捕りも、日本刀から生まれた技術であった。

 また太刀捕りは「剣の理合」から出発した術理で、この「四方投げ」は、大東流以外、他の古流柔術には見られない技法である。

 この「四方投げ」は、素手対剣に対しての無刀捕りであり、「無刀の秘術」と称され、「四方之位(しほう‐の‐くらい)」から由来したものである。
 ここで用いられる「位」とは、「居捕
(いどり)」を表わし、四方八方に斬り結ぶ敵の懐(ふところ)に入り込み、受け、転身して掛け取る刀法の裏技で、太刀に対抗する無刀の技法である。
 一般に知られている合気道の四方投げは、大東流二箇条より発した四方投げで、「両手持ち」あるいは「片手持ち」から始まる四方投げであるが、本来の「四方之位
(しほう‐の‐くらい)」は太刀で斬りかかって来る敵に対し、それを制する業わざ/技の意)であり、この修練法は両手持ちなどの「素手」対「素手」でなく、「素手」対「剣」という防禦法(ぼうぎょ‐ほう)のみ、実戦で通用する業である。

 さて、自在に剣を遣
(つか)いこなすには、まず素振りによる呼吸法の会得が大事である。木刀を持ち、素振りの呼吸法を会得するには、単に一般に市販されている木刀ではなく、素振り用の木刀が必要不可欠となる。この素振り用の木刀を用いて、一人稽古法として、日々素振りを行い鍛練するのである。

 植芝系の合気道では殆ど、剣を用いた稽古は、あまりやられていないようであるが、大東流では剣を最重要の修練過程に取り入れている。それは剣の裏技が柔術であり、柔術を遣うには剣の間合いと呼吸を会得する、修練が欠かせないからである。
 素人考えで、柔術は畳の上での修練と誤解されやすい。しかし柔術は剣術の裏技であり、剣術をある程度、理解しない限り、本当の柔術に至る事は出来ない。


 柔術は剣を用いない、剣の無刀捕りであり、実際には剣を用いないが、自らの手刀
(てがたな)を剣に見立て、敵と対峙(たいじ)し、それと戦う儀法である。
 ところが一般に知られる合気道は、誰にでも出来る新興武道であると言う印象を抱かせるために、無刀同士で組ませて、剣と言う、難解な技法を排除して、簡単化した宣伝効果を狙ったものであるといえる。そしてこうした目論みがあった事は、否定できない。そのために、剣の修行法が殆ど存在しないのである。

 西郷派大東流の合気剣術の「剣操法
(けん‐そうほう)」の修行を挙げると、まず、次のような特徴があげられる。
尚道館が薦める素振り用の木刀三種。上から順に通常素振り木刀(750グラム)、中央・櫂型素振り木刀(900グラム)、下・八角型素振り木刀(1200グラム)で、お薦めはこの八角型素振り木刀。

1. 手頸(てくび)に関して、伸びんとする手頸を保つようにするのが、大東流合気剣術の特長である。

2. 肩に力を込めず、伸び伸びと行い、左右の方が孰れかに傾かないようしにし、鏡を見ながらこうした歪みを是正する。こうした素振りを十分に行うと「怒り肩」にやらず、山型の「撫(な)で肩」となる。昔から、撫で肩に剣豪と言われる人が多かった事はよく知られている事である。

3. 上段の構えは、単に右上段ばかりでなく、左足前の、左上段がある事を理解しなければならない。左足を前にして構えるのは、伝統的古流剣術の定石(じょうせき)である。ここが近代剣道とは異なっている大きな特長である。

4. 剣を上段に振りかぶった時、剣が後方に垂れないように注意しなければならない。振りかぶり過ぎの戒めである。上段に構えた角度はおおよそ45度である。

5. この時、出来るだけ肩の力を抜き、胸を大きく張るようにする。上段に構える。

6.
剣の握りは、茶巾絞りの要領で絞り込み、右手に左手を付けるようにし、剣の小尻に当たる部分を掴まないようにして、左右の掌の返しがスムーズに行くように する事が肝腎である。握りの主体は、左手であるが、右手を鍔元に固定したま ま、左手が柄の小尻から鍔元までを行き来する。

 この左手を常に動かすと言う点 も、近代剣道の長い竹刀の柄の握りとは異なっている。真剣ならびに木刀の握りは、熟練者については剣の柄一杯に左手を握り、初心者は鐔許
(つばもと)近くを握り、右手との感覚は、一拳くらいか、それより若干短くして握り、この握りの形で空間を作る。

 また上段の構えから一刀両断にして斬り結ぶ場合は、両手の「合谷
(ごうこく)」の経穴同士が一直線上になるようにして握るのが肝腎である。このように正しい剣の操法を知っておれば、指導者から口伝の部分を教わる場合、非常に分かりやすく、その手順なども正確に把握できるので、以上の事は正しく理解すべきである。
 更に、剣の握りの極意は、「手の裡
(うち)を鍛える」と言う事にあり、これは相打ちで、敵を必ず倒すという「相打ちの剣」をマスターするための修行法である。
 この世のものは総てが流転し、流動的なものである。したがって千変万化・臨機応変に、何事も対応しなければならない。型にこだわり、骨董品の古い稽古方法にこだわっていると、ついには行き詰まり、敗北の要因となってしまう。常に実線をイメージしながら稽古をすれば、臨機応変は作
(な)るのである。

7. 転身素振り(西郷派大東流では「四方素振り」といい、「四方之位」を会得する基本動作となっている)をする時は、右足を軸としてそれに左足が左右の振りに応じて、90度ずつ動き、この際の左足は近代剣道競技のように、後ろ踵(かかと)が、床から離れないように注意する。つまり「つま先立ち」にならないようにするのである。(西郷派大東流には、口伝あり)

 以上述べた素振り法の基本を十分にマスターした上で、今度は真剣を用い、「試し斬り」や「据え物斬り」を行うのである。



●なぜ、「試し斬り」や「据え物斬り」が必要か

真剣での巻藁の試し斬り稽古。

一刀両断」と、口で言うのは容易い。しかし「一刀両断」は、真剣勝負と同じ心持ちでないと、決して両断する事は出来ない。

 現代社会は法治国家として、法秩序から構築されている。
 したがって秩序があり、社会ルールが厳しく叫ばれる今日、「果たし合い」などは決闘罪と言う法律で厳しく禁止され、多くの武術や武道は、ひたすら真剣勝負の場で味合う、臨場感を放棄し続けてきた。そしてそれは、実際には遣えないものへと退化した。

 真剣の模造品や、形態を模倣した木刀と言うものを用い、これを代表品として反復練習をするに止まった。その結果、真剣勝負の次元から遥かに退化し、その精神性も希薄なものになった。何故ならば、そこには真剣勝負で見られた「命の遣
(や)り取り」がないからだ。

 命を危険に曝す事なく、安易に模造品で型の反復を遣ると、その次元は遥かに退化した、物質的な速度や移動、体の転換だけが問題になり、その行動線は真剣勝負に見られた、緊張感と気魄感がないものになってしまう。そして、その結末として、「やり直しの利かないものを、再び最初から行おうとする安易な思考」に陥り、たった一度の時機
(とき)を見逃してしまうのである。

 時機とは「汐時」の事であり、これは一般には、潮水のさしひきする時刻を指すようであるが、武術では「好奇」と捉える。つまり、たった一度のチャンスであり、再び巡る事の無い「今」という一瞬を指す。
 剣術における「一瞬」とは、それ以外に存在しない「今」の刹那
(せつな)と言う、ほんの短い瞬間であり、この「今、この一瞬」に賭ける事を言うのである。したがって「今、この一瞬を賭ける」に相応しい得物は真剣以外にないのである。

 しかし昨今は「危険である」とか、安易に危ないを評して、「代表品で事足りる」として、真剣に変わるものとして模造刀が居合愛好者や剣道愛好者の中で持て囃されている。果たしてこうした物で、「今、この一瞬」に賭
(か)ける時機(とき)が見つかるだろうか。
 あるいは緊張感と気魄感
(きはく‐かん)が自分の体の内側から湧き起こってくるだろうか。

 こうした事がまさに愚であり、安易な模造と、命を遣り取りする「今」とは根本的に異なっていると言う事を知らねばならない。したがって西郷派大東流合気武術は、実際に真剣を用い、これを能
(よ)く遣う事で、真剣勝負に近い精神状態を味合う武術として活かし続けてきた。

 武術と言うものは、負けたら命を取られると言う非情な意識を体験する事が大事である。したがって勝負は勝つ事よりも、「負けないように工夫する」べきで、この両者の意味は似ているようで、実は似てない。

 勝つ事のみを追い求める者は、勝敗を第一とするであろうが、負けない事を模索する者は、どうしたら負けずに済むかという工夫をするところに両者の違いがある。その手段や方法を、有形または無形に思念し、工夫する。その結果、体得に至ると言う道筋が出来る。つまり、この道筋を真摯
(しんし)に模索する事が、工夫であり、その工夫の結果、試行錯誤して苦しんだ末、「悟り」に至るのである。



●会得

 悟りとは、武術の観点から言えば、「理解する」とか、「知識を得る」というものではない。学問上の「学び」とは異なるのである。つまり、苦しみ、苦しみ抜いた挙げ句に、漸く辿り着く処が「涅槃(ねはん)」であり、煩悩ぼんのうを断じて絶対的な静寂に達した状態を得るのである。そして涅槃の境地こそ、人間の魂が理想境とする「安らぎの世界」であり、柵(しがらみ)を吹き飛ばす有余涅槃(うよ‐ねはん)を、肉体を残して体感するのである。

 そして更にこれを一歩進め、無余涅槃
(むよねはん)に辿り着くのである。
 無余涅槃とは、一切の煩悩を断じ、さらに肉体も滅した完全な寂静の境地であり、肉体に振り回される物理現象に左右されない境地を指すのである。

 この境地を仏教的に言えば、まさに「菩提
(ぼだい)」であり、武術の言うところの「悟り」である。武術の教えるところは、「悟りへの道標」であり、それを苦労しながら探究して、そこに見える「静寂な境地」を会得せよと教えている。
右斜め下からの左斬り上げの試し斬り。 右上段から、一刀のもとに斬り据える右袈裟斬り。

 西郷派大東流合気武術の「剣の道」は、剣を能(よ)く遣う事によって、人生の意義を悟り、更に能く遣う事によって、天地大自然の理法を悟るのである。これは宇宙の真理に通達することであり、この路程を極めつつ修行する事が武術家には、課せられているのである。

 一道を極めれば、すべてに通じるところに、道の尊さがあり、これが万道の理に至るのである。その第一歩の手始めが、涅槃に至る「涅槃門
(ねはん‐もん)」という悟りへの門扉である。この涅槃門に辿り着き、そして扉を自らの力で、押し開けなければならない。そこに、代用品も模造品も存在しないのである。ただあるのは、真剣のみであり、真剣のみを用いて、此処を通らねばならないのである。

「正眼」対「送り八相」の対峙。剣は陰陽の交わりにおいて変化し、「静」と「動」が入れ代わるものである。陰はやがて充ちて陽に転じ、陽はやがて欠けて陰に転じる。この変化の中に陰陽の交わりがあり、剣技はその刹那の隙を衝いて、勝敗が決せられる。迷いは雲を呼び、雲は足許を不確かにする。迷いの雲が晴れてこそ、吾が足許は実の空を見るのであって、迷いの雲の隠された曇らされた部分に「勝ち」の境地は見えてこない。進むか退くかに、迷いの迷妄があってはならない。

 西郷派大東流合気武術の剣術の極意は、単に剣法の極意に止まらない。また物理的な科学するスポーツではない。精神的領域を重んじる霊的世界にまで辿(たど)り着く、精神性を重んじるのである。これは「パワー」としての、筋力や腕力では到底解決する事の出来ない、崇高な次元を持つ霊的反射神経を養成しなければならないのである。

 この呼吸を以て、有事の際の軍陣に臨み、あるいはこれを以て、社会に還元し貢献するという、まずは人間である事に回帰するのである。人間であるからこそ、悟りへの境地は、必要不可欠な命題の一つとなりうる。そして求める先は騒音が充満しない、安らかな、門のウを断じた静寂の境地である。騒音に掻き乱され、雑音に汚染されているのでは、決して辿り着けない世界である。
 だからこそ、緊張感と気魄
(きはく)感をもって、「静」より「動」へと転ずる、「今」を真剣によって再現し、真剣とともに、陰陽の移り変わりの汐時(しおどき)を読むのである。

 汐時(しおどき)には、万物の移り変わる「今」がある。「今」を見極める事だ。これこそが万物大極の理であり、剣の道も、また人生の道なのである。そして理合と修行を一致させる事によって本当の「剣の道」の価値があるのである。
 静寂を得て、安らぎを得れば、そこには「今」をどう変化させるかの、「変応自在
(へんおう‐じざい)」が存在するのである。



これより先をご覧になりたい方は入会案内をご覧下さい。


入会案内はこちら

daitouryu.net会員の入会はこちら



<<戻る 次へ>>

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法