運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
老成録 1
老成録 2
老成録 3
老成録 4
老成録 5
老成録 6
老成録 7
老成録 8
老成録 9
老成録 10
老成録 11
老成録 12
老成録 13
老成録 14
老成録 15
老成録 16
老成録 17
老成録 18
老成録 19
老成録 20
老成録 21
老成録 22
老成録 23
老成録 24
home > 老成録 > 老成録 3
老成録 3

 ▲この世は不条理に出来上がっている。あるいは理不尽といってもいいだろう。それはいつの世でも、特権階級が恩恵に預かって来たと言う歴史を持っているからである。
 しかし、現代人はこうした歴史的事実を忘れ、自分さえ、文明の利器の恩恵に預かればいいという考え方がある。文明の利器は、一方で現代人を退化させた。

 例えば、電気の生活である。現代社会は総て電気に頼って生きている。したがって電気が止まれば、お手上げとなる。それが現代人が、燃えるような朝焼け、早朝の清々しい空気、どっと流れ込むような自然を忘れてしまったからである。また夕陽も然
(しか)り。

 そして、忘れてしまったことも、一つの苦しみに加味されて行く。苦しみのページに、妄念が書き込まれる。
 しかし、見方と接し方を少し変えれば、随分と楽になるのに……。誰も変えようとしない。何故だろうか……。


●死への瞑想

 生・老・病・死の四期の中で、いつも焦点を当てられるのは「生」の一部分だけである。生だけがクローズアップされる。
 特に“若い時期”というのは、男女とも「20代」の頃である。あるいは、大半は十代後半から三十代前半までであろう。この時期を総称して、一般には「青春」という。人生の「春」の時期をいう。
 四季の“春”が、四期の「生」に対比しているからだ。
 春は美しい。同時に生も美しい。生き生きしているからだ。
 つまり「生」の謳歌が春ということになる。
 そしてこの時期の、彗星
(すいせい)のように現れる人が居る。若い頃、打ち上げ花火のように有名になり、一世を風靡(ふうび)する。いつの時代も、こういう人が居る。

 ところが、その後、志
(こころざし)半ばに早死にするか、落ち目になると、奇麗さっぱり忘れられる。後の話題にも上らない。まさに打ち上げ花火のように……である。一瞬で終わる。
 花火に長時間の寿命はない。早死には損のような気がしないでもない。
 もし、しぶとき生きていれば、あるいはその後の名声は復活し、名前だけは残るかも知れない。細々とでも、長生きしていれば、そのチャンスはある。
 人間というものは、長生きすることも「才能」のうちなのである。そうした才能を伸ばして、長寿を全うしたいものである。

 では、どうすればその才能を伸ばしうるか。
 ます、体質を養うことだろう。
 体質を長寿型の内容に作り替えることだろう。細く長くの内容にである。太く短くの生き方も悪くはないだろうが、死に急ぎは些
(いささ)か損のような気がしないでもない。
 したがって、細く長くの方が人生の見聞もそれだけ広がる。そのためには、まず“長寿型体質”を持つことである。
 これは体力を養うのとは違う。
 体力だけでは、あらゆる災いを防ぐことが出来ない。問題は体質である。体質の善し悪しが、長寿で終わるか否かを決定するようだ。

 強靭
(きょうじん)な体力を持つことよりも、伝染病などの病気に罹(かか)っても、直ぐに治る体質を養うべきであろう。
 病気に罹らないことではない。病気に罹っても、直ぐに治る体質を持っていることが大事なのだ。即ち、こうした体質も、また一つの才能なのである。
 例えば感染症が流行する地域に誤って侵入したとしても、一度は感染症に罹り、それでもその後、これを克服して治癒するだけの体質を持っていることである。病気に罹らないように、予防医学のみに眼の色を変えることではない。健康に気をつけても高が知れている。病気に罹っても直ぐに治る体質を持っていることである。

 人生は長いようで短い。
 生・老・病・死の四期のうち、「生」から「死」に至までの人間の有する時間は、高々100年程度である。長生きしてもその程度である。この時間は、長いようで短い。宇宙規模で言えば瞬時の瞬きだ。
 この短さを喩
(たと)えるならば、あたかも、桜のような運命だ。

桜が蕾を膨らませ、やがて開花する。そして散り際は桜吹雪となって地面に落ちて行く。花弁は土の一部となるまで、この世から消えてしまうまで、地面に広がり、かつての過去に思いを馳せつつ残り続ける。そして地面の土と同化した時、この世での生存の全てが終わる。
 本来の非存在なるものが、本当に非存在に帰着するのである。
 人間も非存在なる生き物である。現実界に生きているのは、生きる因縁によってである。天に生かされているからである。この天命がある限り、生きることが許されている。これこそ、大自然の摂理であるからだ。

 蕾(つぼみ)を持ち、開花して、ぱっと散るといえば、誰しも「桜」を連想するだろう。
 桜の花は開花すれば、散り際までの時間は、あまり長くない。桜の花の散り方を見ていると、命の短さを認めざるを得なくなる。人間の寿命も、その程度のものであるからだ。

 そして、これはおそらく無意識だろうが、日本中の「霊園」という場所に行くと、意外にも桜の木が多いことに気付く。
 日本中、墓も多いが、桜も多い。それは死者が、おそらく桜の花が好きなためであろう。
 死後の世界を信じない者は、死した後、桜の好き嫌いなどはどうでもいいことであろうが、多くの日本人の深層心理には、何故か桜の花に……という比喩の意識が働いているらしい。
 土に埋まったまま、桜の花と一緒に腐って土に戻って行くという意識が、輪廻転生の循環の中に働くものらしい。もっともこれは輪廻を信じない人は、論外のことであろう。

 しかし深層心理は、やはりその民族というか、人種というか、その人の心のふるさとにこうした意識が働く以上、桜の花とともに「人生の短さ」を痛感させられるのであろう。

 人間の命は短い……。
 こうして、その短さを悩んでいる時間にも、刻一刻と確実に死は迫っているのである。
 長いように思われた私たちの時間も、実は一陣の風は過ぎ去るように消えて行くのである。人の命もそれと同じだ。
 日本人が桜の花に心を寄せ、その花の散り際に憧
(あこが)れるのは、何も軍国主義者だけの専売特許ではない。
 一般の日本人も、同じように桜の花の散り際を憧れるのである。
 その憧れの主体には、桜の花の潔さと美しさであり、それを自分の人生に重ね合わせ、それを思うから「うっとり」と出来るのである。

 ところが、これも憧れだけで、よく考えれば「まやかし」である。一時のまやかしである。
 人間の四期に形作られた、この間の「青春」という時期はあまりにも短い。楽しい青春は瞬
(またた)く間に過ぎて行く。そして、多くの人は自分の人生の中で、年を老いても、あの時代の出来事をしっかりと胸に抱えて生きて行くのである。
 つまり、「まやかしの残像」に残る、散り際の美しい桜の花は、決して生涯消えることがないのである。いつまでの残像として残るのである。散ってしまって、落ちた地面の上でも、しっかり残っているのである。

 誰しも、それに心を馳
(は)せる。自分の過ぎし日の想い出は、常に「青春」の中に内包されているからである。
 自分の盛りの過ぎた過去の想い出を懐かしみながら、散った桜の花弁
(はなびら)のように、地面の上でゆっくりと腐って行くのである。
 散った花弁が、土と一緒になるまで、土と同化するまで、この世から消えてしまうまで、過去の想い出に、あの頃の若かりし青春に思いを馳せつつ、老いてもなお、地上に残り続けるのである。

 さて、あなたは所謂
(いわゆる)人生の盛りを過ぎた「老年期」に達した時、一体何を思い出すのだろうか。
 ただただ、過去の栄光にしがみつくのだろうか、それとも新たな余生の過ごし方を模索するのだろうか。

 余生の生き方……。
 それは死を瞑想することではなかったのだろうか。
 死後の世界に思いを巡らすのではなかったのだろうか。




●生きている苦しみ

 人間の人生は“苦しみ”で満ち溢れている。一切が「苦」である。
 これは仏道に学べば、一目瞭然だろう。
 釈尊
(しゃくそん)は「人生の一切は苦である」と断言している。そしてこの「苦」から、“どう解脱するか”の道を説いたものが、則(すなわ)ち、仏道である。これは仏道だけではない。本来宗教とはそうしたものである。苦の解決のための模索が、実は信仰だったのである。宗教の原点は此処にある。
 「苦」といえば、“死”もその一つだろう。
 宗教は本来、死を解決する手段として、これまで人間に信仰されて来たのである。
 ところが、人間の煩悩が死の解決法をあやふやにした。この曖昧
(あいまい)さが、無神論者を作り出した。

 人生を苦にしている原因は、人間の持つ欲望である。
 この欲望こそ、「煩悩
(ぼんのう)」の実態であり、人間はこの煩悩に灼(や)かれながら人生を体験する事になる。
 煩悩とは、衆生
(しゅじょう)の心身をわずらわし、悩ませる一切の妄念のことである。その妄念は貪・瞋・痴・慢・疑・見を根本とするが、その種類は多く、「百八(やお)煩悩」あるいは「八万四千の煩悩」などといわれる。煩悩を断じた境地が「悟り」である。

 端的に言えば、これまでの事だが、こうしたものを発生させるのは「欲望」であり、欲望を生むのは「心」である。しかし、心の制御は並大抵ではない。一筋縄ではいかない。至難の業
(わざ)である。煩悩が簡単に断ち切れるくらいなら、生きて行く上での苦悩は消滅するだろう。しかし、それが出来ないから「迷う」のだ。

 人は、心の動きを受け、人間の持つ「五つの感覚」がそれに応じて反応するのであるが、その場合の心の動きは、心が清く澄んでいない時には、欲望に振り回され、“心の垢
(あか)”に汚染されてしまう。したがって、心を清く、正しく持つことが大事だとされる。この状態に至って、はじめて五感が感ずる感覚は快いものとなる。

 五感に感じるものは、心の反映であり、心が悲しいもの、不愉快なもの、苦痛に満ちたものを感じ取ると、五感は直ちに麻痺
(まひ)してしまう。心がそれらの事に奪われてしまう、あるいは魅せられ、それに官能的な状態を示したりすると、正しい反応は何も感じとることが出来なくなる。

 よく、恋愛は“恋の病”などと言われるが、この類の病気に罹
(かか)ると、その後に“恋愛後遺症”というものになる。その後の情愛の世界は、何も感じることがなくなるか、恋愛そのものを否定したり、最悪視する、「悪想念」が取り憑(つ)くことになる。
 また、どんな料理を食べたとしても、心が荒
(すさ)んでいれば、味覚は美味しく感じることはない。更に、重責を背負ったサラリーマンならば、仕事に心が囚(とら)われ、苦境に立たされたり、窮地に立たされて、悪戦苦闘をしなければならなくなる。

 心と五感との密接な関係は、その関係において、直接的に「吸収」の役割をするのが“六根”であり、仏道で言う、六識を生ずる六つの感官、すなわち眼・耳・鼻・舌・身・意のことである。この六根が「六識」と言う意識を生み、人間の煩悩の根源となるものである。
 したがって、沸き立つ煩悩を鎮
(しず)め、迷いを断つことを「六根清浄」というのであるが、この境地に至るのは、“悟りの境地”に至らねばならない。これにより、六根が福徳によって清らかになるという。

 しかし、凡人には困難なことで、無理な相談である。簡単には出来ない。
 したがって、生きながら精進できる道を模索しなければならない。出来るだけ欲望を小さくして執着心を極力捨ててしまうと言う努力である。
 換言すれば「断念」の境地である。この「断念」は、総てに対してではない。欲望に対しての「断念」である。諦めである。つまり「我慢する」ことなのである。我が儘
(まま)を通さないことなのである。



●四つの神聖な真理

 我慢することを覚えれば、これまで頭を擡(もた)げて居た欲は、頭から消え失せる。
 欲をサラリと捨てることができれば、今まで欲望以上に抱いていたものが、気付いた時には「満たされている」という気分になる。不思議なものである。

 仏道では、これを「四諦
(したい)」といい、人生に関する四つの真理を指す。
 ちなみに、四諦の“諦”という字は「自分の思い通りにならぬことへの諦め」を言う。
 人生は苦であるという真理
(苦諦)、苦の原因に関する真理(集諦/じつたい、苦を滅した悟りに関する真理(滅諦)、悟りに到る修行方法に関する真理(道諦)である。これが原始仏教の中心の教説とされる。この真理を四聖諦(ししよう‐たい)とか、苦集滅道(くじゆう‐めつどう)という。

 つまり、四諦でいう苦・集・滅・道は「四つの神聖な真理」であり、煩悩を消し去る事によって、正しい物の見方が出来ると言うことを顕わしている。

 この根底には“根”としての心があり、心があるから五感を味わうことが出来るのである。そしてその接点に「六根
(ろっこん)」があり、その六根を浄めることが、根としての心の持ち方である、「八正道(はっしょうどう)」に導くのである。
 我が儘の通らぬこと、思い通りに運ばないことへの諦めは、実は心の持ち方を正常に戻す。欲に塗
(まみ)れた心を解放する。

 八正道とは、修行の基本となる「八種の実践徳目」のことである。
 正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八種を指し、これは則
(すな)ち、正しい見解・決意・言葉・行為・生活・努力・思念・瞑想をいう。

 「苦」の根源が“欲望”であるならば、欲望を形成する煩悩は断ち切るべきであり、これを断つ努力が必要であると言うことだ。そして欲望を断つことができれば、一切の苦は消滅すると言うことを仏道は教えている。“断つ”とは「諦め」と同義なのである。
 つまり、これが「空
(くう)」なのである。
 何事も断てば「色即是空
(しき‐そく‐ぜ‐くう)」なのである。
 『般若心経』でいう「色
(しき)」とは、現象界の物質的存在を指す。そこには固定的実体がなく空(くう)であるということをいうのである。

 総ては、空に回帰される。これにより苦悩は消える。迷いを駆逐できる。
 故に、こだわることはない。頑迷になることはない。拘泥する必要はない。
 サラリの流れれば、それで済むことだ。
 こだわらなければ、また迷うこともあるまい。
 迷うことなく、好きなことをすればいいのである。

 『葉隠』にもあるではないか……。
 「人の一生は寔
(まこと)に短きものなり。好きなことをして生きるが宜(よろ)しかろう」と。
 そう。人間は好きなことをして生きればいいのである。
 何も肩肘を張って、強引な生存競争の中で自己を埋もれさせる必要もあるまい。好きなことを遣って生きれば、それでいいのである。
 ただし、それに支払いの代価は必要だろう。
 人生には「代価を払う」ということが、常に課せられるからである。それさえ覚悟していれば、好きなことをして一生を過ごすのが最良の道である。



●何ものにも、こだわらず、サラリと流れて行く

 愚かな行為の一つに「こだわり」というものがある。一つのことに頑迷になることだ。執着し拘泥(こうでい)になることだ。
 小さい事に執着して、融通がきかないことを「こだわる」という。愚行である。
 この「こだわり」の愚に気付かずに、これを「好い事」と思い込み、毎日のように日常茶飯事に、この言葉を使い捲
(まく)っているのが、現代人である。
 此処に「こだわり」から“頑迷さ”を生み、道に迷い、死生観を明らかに出来ない現実があると言えよう。
 そして、現代は「こだわる」という呪いから解けない時代でもある。

 この世の中は、善悪が綯
(な)い交(ま)ぜになった世界である。
 何が善であり、何が悪であるか判別し難い。そしてこだわりがあり、執着心があり、固定観念があり、先入観がある。
 現代人はこうしたものに振り回されて生きている。そして、これらの概念は恐ろしいほどの、洗脳のされ方をし、培養され、しっかりと植え付けられる。その培養媒体がマスメディアである。
 テレビから、新聞から、週刊誌から、その他いろいろなメディアから「こだわる」ことがいいことのように現代人の脳は培養されている。

 したがって、彼
(か)の人が悪人であり、もう一方が善人であるとする考え方も、実に怕(こわ)いものがある。これらは「こだわり」から生まれた発想であり、総て、先入観から発したものであるからだ。
 だから「こだわり」の別の名を“拘泥”というのである。
 小事に頑迷になり、さんざん迷って苦悩した後に辿り着く行為が、実は「こだわり」という、“一事に執着して融通がきかない”ことだったのである。
 これでは大局を見失うのは当然のことであろう。
 こだわれば、大局を見失うのだ。こだわれば、物事の全体の成り行きは分からないのだ。
 時局に盲
(めくら)になるのが、こだわりである。

 さて、人間の本質は「悪人は居ない」と断言できることだ。
 しかし、野望や欲望が大き過ぎたり、欲望を求めるものが、欲求不満になる場合は、時として、善人は悪人に変化
(へんげ)する。
 しかし、実社会の大半は、「善」の集合であるから、社会のルールがある程度守られている。善を前提として、人が集まり、社会を構成し、共同生活を行えるシステムを作っている。そこに基本的な姿が顕われ、人間関係もこれが基準となっている。

 社会形成の第一義は、“大半が善人”としていることである。
 これこそが基本理念であり、先入観によって、あるいは宗教や考え方の違いによって、一方を善人とし、もう一方を悪人とするのは間違った概念である。

 例えば、犯罪者が刑期を終えて罪の償いを果たした後に、容易に社会復帰できないのは、社会を構成する一般大衆の多くが、彼等に対して“悪人の概念”を植え付けているからである。昨日の悪人を、今日も悪人と看做
(みな)し、明日も明後日も悪人と看做す概念が働いているからだ。
 そしてこうした概念を抱く時、これは自らにも向けられているということである。

 人が誤って悪を演じた時、容赦なく懲らしめるべきであるが、悪を演じた人がその後、改心して悪を演じる行為が無くなった時にも、これを悪人扱いして色眼鏡で見ることは慎
(つつし)むべきである。
 過去の悪人を、今も悪人として評価する扱いは、人間本来の習性から、「善を取り上げる」ことになる。

 結局善を取り上げられた者は、残る手段として、悪魔に身を売るしかない。悪魔に加担させ、良心を失わさせ、この世に人間の形をした悪魔を大勢放つことになる。
 そして悪魔を作るも、作らないも、その周囲の人の“為
(な)せる業(わざ)”であり、見方一つで、悪にも善にもなる。人間は、如何様(いかよう)にも変化自在(へんげ‐じざい)であり、善にも悪にも化身(けしん)するのである。

 人間関係が絡む人の世では、「こだわり」が絡むことで、小さい事に執着して融通がきかなくなり、“こじれ”が生ずるものである。“こじれ”は縺
(もつ)れる元になり、悪く、然(しか)も弛(ゆる)みが生じて来る。
 “こだわる”ことを拘泥
(こうでい)というが、この“こだわり”が、また人間を色眼鏡で見る元凶となり、一人の人が、見方によって、善人にも悪人にもなる。

 則ち、過去に悪人であった者は、今日の悪人とも、明日の悪人とも言い難い。また過去に善人であった者が、今日や明日の善人とも言い難い。人間は時とともに変化し、人の心は絶えず豹変
(ひょうへん)するものである。

 かつて仏法を守護する神々は、多くが悪神であった。鬼子母神
(きしぼ‐じん)(しか)り、竜神然りだった。
 鬼子母神は王舎城の夜叉神
(やしゃ‐しん)の娘だったが、千人(万人とも)の子を生み、また、他人の子を奪って食したので、仏は彼女の最愛の末子を隠して戒めた。その後、改心して仏に帰依(きえ)し、仏法の護法神となり、求児・安産・育児などの祈願を叶える神となった。

 一方、竜神はインド神話に出て来る神で、蛇を神格化した人面蛇身の半神である。大海や地底に住し、雲雨を自在に支配する力を持つとされる。仏教では古くから仏伝に現れ、また仏法守護の“天竜八部衆の神”とされた。
 よく雲を起し、雨を呼ぶという神であり、天地を荒らし、自然の穏やかな摂理を狂わせた神でもある。

 鬼子母神も竜神も、何
(いず)れの神も悪神であったが、仏の教えを受け、やかて帰依して守護神となるのである。
 また、アショーカ王も、前三世紀頃のインドのマガダ国に君臨したマウリヤ王朝第三代の王であったが、近隣諸国を征服し続けた野望に満ちた王だった。ところが、仏教を保護宣布して、インド統一の為に尽力し、第三回の仏典結集を行なったという。

 これらの神々や王は、かつては“悪の権化”であった。
 しかし、時とともに変化し、悪から善へと転換したのである。この事は、自分が最初は悪でないと信じ込み、しかし、行動において、悪を演じた為に悪とされた神々であり、王であった。



●思い込みを捨てる

 人間は思い込みが激しい生き物である。
 先入観に囚
(とら)われ、それに固定観念を抱くと、そこに固執が生まれ、「こだわり」が生まれる。またそれが、頑固になる要素を作り、それはやがて頑迷を招く。頑迷になれば、それが思い込みへと誘発し、ある意味で自分は悪でないと信じ込んだ末に、悪事を働くことが少なくない。

 これは、実際に悪を演じた事のない人間ほど、「善とは何か」ということを知らない為に、自分の悪事が気付かないのである。
 自分のしている事に、悪の意識を持たない人間ほど始末の悪い者はない。

 そうした人間は、悪い事は“何もしていない”と言う、悪事を働いており、こうした人間は、善すらも働いた事がないのであろう。したがって、「改心」のチャンスも見失っているのである。
 一方、悪を知り、その罪深さを恥じて、最後は善に回帰した人間ほど、善悪の“けじめ”を把握している人である。

 物事は、思い込みが先行してはならない。深く知らずして、善人や悪人の区別する色眼鏡
(悪しき先入観や固定観念)で“もの”を見るべきではないであろう。
 つまり、世の中を見れば、この世には、善も悪も綯
(な)い交(ま)ぜになっており、これに“こだわる”べきではない。

 世に起るべき、総ての善や悪は、これに何らかの意味があるのものと思われる。それは自分の身の回りに起った様々な事件を、自分自身に関連づけようと、意味あるのものにするからである。
 それは霊的に言えば、宇宙神の意志であろう。自分の身の上に起る、総てのことを見ようとする努力である。こうした努力は、どの人間の生涯にも起こり得る事であり、これらは本来ならば、望んでも与えられないものである。しかし、これに執着せず、また、こだわらず、サラリと流れるように立ち去れば、人間は、一層、柔らかく、然
(しか)も、心的にも豊かになる事が出来よう。

 一つの事に、「こだわる」ことをしないことを、「断念」と言う。いま一歩の完成であっても、いざとなれば、これに「こだわる」ことなく、サラリと流れて行けばいいのである。
 そして、流れて行き、回帰する場所は、その人の死後、「何処に還
(かえ)って行くか」である。

 人は、「死ねば、それで総てが終りよ」という。死ねば、「無」に還ると言う。
 しかし、死んだ後の「無」では愚かしい。やはり還る所があった方がいい。“死出の旅”に出て、還る所がない、宛てのない旅では愚かしいであろう。
 人間は“この世”と“あの世”を行き来しているから、“この世”においては“あの世”は「還るべきところ」なのである。

 しかし、無神論者は死した後、還るべきところがない。
 若いうちは「還るところなんて……」と一蹴
(いっしゅう)していても、年を取って老齢期に達すると、「自分丘得るべきところは?……」と模索するのは常人であり、これを模索しない者は、神をも恐れぬ“つわもの”だろうが、還るべきところがないので、「死ねない生」を全うしなければならなくなる。現象界から逃避を企てて、永遠の生に執着しなければならなくなる。現象界というところは有限世界であるから、始めがあり、終わりがあるのである。
 現象界でこれを無視することは出来ない。
 生まれた者は、必ず死ぬのだ。
 そして現象界の死とは、肉体の死であって霊魂の死ではない。霊魂は繰り返すのだ。

 無神論者にも死はある。
 死した後も、確かに死ぬであろうが、これこそ「終わりなき死」ではないか。再生しない死ではないか。
 そして、迷いぱなしで、人生最大のテーマである死生観を解決することなく、生涯を終える人は、再び六道
(りくどう)を輪廻して、「迷い」を繰り返すことになるのである。
 こだわりは「迷い」を生む。これこそ終わりなき、永遠に生き続けなければならない大変な生き方と言えるのではあるまいか。
 終わりなき生き方は、また再生しない「永遠の死」もあるのだ。拘泥は、そうしたものも招く。

 人生の問題とは、生・老・病・死の四期の中に含まれている。そして人生の最大の苦しみは「死」とされている。
 そして死に至るまでに、世の中は自分の思い通りに運ばないという現実がある。これを思えば「悩み」が起こり、自分の「我」のこだわれば、それ自体が「迷い」となる。
 これを集約して人生は一切が「苦」なのである。苦しみ、迷い、そして悩むということが、人間の人生を明確にしている。

パウロ像

 時間は縮まっていると言う。
 昨今は時の流れが、やたらに早い。時間の経つのが早い。これは「時」というものが、縮まっている証拠だろう。
 かつて、キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かった伝道者・聖パウロは、「現世と言う世界が、過ぎ去る事の早さを警告した人物」であった。パウロの著わした書簡は、後に『新約聖書』となった。

 キリスト教を論ずる上で、『新約聖書』は重要な一部だ。そのパウロが言うのである、「時間は縮まっている」と。
 昨今の時の流れを振り返ると、やはり、時の流れは早いように思われる。そして、時代の移り変わりも、また早いのである。




●人間の底力が、執念に振り回される時

 生きる原動力に、はずみをつけるには、「底力」というものがいる。そしてこの原動力になりうるエネルギーは、悔しさ、苦しさ、貧しさの三要素である。これこそ、現体制に立ち向かう原動力であり、この原動力により、人類はこれまで歴史をひっくり返して来た。

 歴史を形づくるものの根底には、人間の「底力」が大きく関与している。それは“執念”というべきものであろう。
 人類の築いた有史以来の歴史は、常に立場を逆転させる為に、限り無い執念を燃やす“憤り”が、その原動力となった。
 支配者は自分の地位を守り続ける為に、欲望としての“執念”を燃やす。それは多くの場合、富の独占と権力の座である。一方、被支配者はその立場を逆転させる為に、限り無い執念を燃やして、時の権力に抗
(あらが)うのである。

 おおよそ民族、王朝、国家、企業などは、この“執念”を燃やす事において、目紛
(めまぐる)しく変化するものであり、それを動かすのは“執念”である。“執念”は、人間の底力を支えている。これは歴史が雄弁に物語っている。その最たるものが戦争であろう。

 一つの民族や国家、あるいは政治的理念によって組織された集団は、“執念”というものが底力となり、これを原動力にしている。かくして、この攻防は底力によって、死闘が演じられる。

 底力が執念によって燃やされる時、敵対する他の勢力より、圧倒的な強固さを求めて軍事力を増強させようとする。人の世に、栄枯盛衰はつきものだが、これはあくまで“自然の摂理”に他ならない。自然が齎
(もたら)す現象であるのだから、多くの場合も、自然の成り行きのように映る。

 ところが近代史は、そうとも言い切れないところがある。
 自然体のよる成り行きが失われ、民族間や国家間、政治的なイデオロギーの相違は、抗争によって明確となり、これらの二極対立も、動機は明らかに欲望が、その根底に渦巻いている事が分かる。

 近代史に於ては、この傾向が明確になりだした。意図的な思考によって、近代史は十七世紀後半から、一つの脈流により、人工的に、作為を以て誘導されている観が強くなった。特に、マスコミ誘導は顕著に顕われ、特定の目的と、何者かの意図により動かされている。

 近代史の中で、その時代に生きた人達が経験した、明治維新、日清戦争、第一次世界大戦、日露戦争、第二次世界大戦・太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争など、漠然と見れば、自然の成り行きで起ったかのように見える。ところが、こうした戦争の流れの中に、一つの目的を持った意図が隠されている事が分かる。

 それは現代という時代の価値観の統合である。
 その根底には、民族の統一、宗教の統一、通貨統一、言語の統一、文化の統一、思想の統一などであり、いま世界は、カオスの論理が説明するように、一方通行の道を驀進
(ばくしん)している観がある。その道は人類の繁栄の道であるかも知れないし、また破局の道であるかも知れない。
 しかし昨今の世界動向や、各国の国民の生活状況を見ると、少なくとも人類がこれから先、繁栄を見るようには映らない。むしろ、不穏材料ばかりが、多く横たわっている気がしてならない。

 さて、「底力」には、二つの二分した働きがある。作用と反作用の関係である。底力は良い方にもなれば、悪い方にも加担してしまう。この二極性と矛盾こそ、人間の持つ本来の習性であり、人間は二極化した善悪を同時に背負い込んでいる。
 そもそも人間は、動物の中で、最も柔軟性に富んだ生き物であり、如何なる環境にあっても、逸早く順応してしまう。

 例えば、悔しさも慣れてしまって慢性化すれば、「諦め」に変わるし、苦しさも貧しさも、慢性化すれば、自分が苦しいとか、貧しいとかの自覚症状が薄れてしまうのである。おしなべて、平均化された「普通の人間」に映るようになる。

 監視機構が一極に統括され、警戒の目が厳重になると、人間は現状の枠の中で、“これでよし”という諦めの境地に辿り着く。これが体制下への順応である。したがって、こうした状況下では、「窮鼠
(きゅうそ)ネコを咬(か)む」という状態にはなり難い。

 貧富の差が明確になり、支配者とし支配者の、命令をする方と命令をされる方が明確になると、支配者は益々命令権を確立し、支配権を堅固なものにするであろう。
 つまり、支配権が確立されれば、永遠に統治される社会構造が出来上がるのである。喩
(たと)えば、社会主義のような国家体制である。日本はこうした状態が、既に完成していると言える、極めて社会主義に類似した国家の観が強い。事実この国は官僚国家であり、官僚によって指導される国家である。

 政治家が動かしているデモクラシー国家ではない。法改正にしても、様々な規制にしても、政治家が国会を通じて、行政の立場から変えているのではなく、官僚の意図が働いて、それが実行されていると言う事だ。ここに日本人が、ある意図によって永遠に統治される運命がある。



●善良な市民の定義

 日本人の近未来の構図は、まず普通の市民として、裁判所が定義する「善良な市民」としての枠組みが与えられ、これを“普通の市民”と称する事になろう。
 普通の市民は、“善良な市民”と同義語であるから、司法の定義から読み取れば、「無力で、何もせず、暴動にも加担せず、温和しく、可もなく不可もなく」ということが基本条件になろう。

 この定義下において、“普通”と定義され、要するに「何も出来ない、普通の生き物」に落されるわけである。つまり、「公民の微生物化」である。
 これは人権の剥脱
(はくだつ)であり、奴隷化の第一歩と言えるだろう。

 そして、こうした体制が実現されると、国家機構は更に堅固なものになり、監視体制は厳重になって、総背番号制があらゆる国家管理下で活躍し、国民は窮鼠になる事が許されなくなり、反抗の牙を抜かれ、底力を消滅させられるだろう。国家体制は転覆出来ないほど堅固になり、それが強大な国連軍と言う名の軍隊で統制されるだろう。
 また内部警察機構の確立により、世界規模の監視と密告制度が日常茶飯事となって、誰もが疑心暗鬼の生活を余儀無くされるであろう。

 こうした国家体制が確立された時、変革は絶望的になって、人心は「諦め」と傾くだろう。
 一般人の多くは、まさに資産や頭脳によって階級化され、様々な能力は機能化されるであろう。一握りのエリートに奉仕する体制が明確になり、裁判所が定義した「善良な市民」は、一般国民のして、家畜同様の扱いを受けることになろう。



●窮鼠ネコを咬む時

 「底力」とは、本人が知らぬ間に遣っている深層心理から起る潜在力であり、人は窮地に追い詰められれば、こうした力を物理的に発揮するようになる。しかし、これは意識して引っ張り出せるものでない。
 とことん追い込まれた時に、発揮する力であり、これが“窮鼠
(きゅうそ)”となる。

 窮鼠の原動力は、悔しさと、苦しさと、貧しさの三つである。虐
(しいた)げられれば、当然こうした力は強くなる。
 此処まで来れば、「破れかぶれの反抗心」が生まれる。

 一方、敵対する側は、相手からこうした意識を引っ張り出し、意識が底力に変わると、厄介な問題を抱えた事になる。
 人間関係のバランスの大事さは、常々口にされることであるが、上下左右の力関係や、前後の相互関係は、相手を窮鼠にして「目覚めさせない」ことであり、また、あるいは「目覚めさせる」ことで、新たな変化が起る。

 何処かが出れば、一方がへこむのである。一方的に追い回し、奪い続ければ、必ずその相手は窮鼠になって、反抗の牙を剥
(む)く。歴史を見れば、百姓一揆などはこのよき例で、底力を出して、窮鼠になった例である。
 中世において、身分制度は支配者と被支配者を明確にしたが、江戸期には百姓を“生かさず殺さず”に扱った。しかし度が過ぎて、死線を超えれば、被支配者とて反攻の牙を剥いた。生死を超越して、生死を念頭に置かず、決死の覚悟で刃向かって来るのだ。

 人間は“捨鉢”になった時が、実に怕
(こわ)い。
 子飼いの部下が、上司の馘(くび)をかくというのは、歴史に散々登場する。突如として反旗を翻(ひるがえ)す。その行動は、批判するべきものでない。非難する前に、どうしてそうなったか、原因追求の方が先だろう。おそらく、そうなるような状況に追い込んだのは、むしろ首を掻かれた方だろう。

 大勢の前で、失策を罵倒すれば、これは悔しさだけが残る。無闇にリストラしたり、減俸したりすると、明日からの生活に迷い、苦しみや貧しさを募る事になろう。こうなれば、当事者は“捨鉢
(すてばち)”になるのは当然である。明智光秀(あけち‐みつひで)がそのよき例である。

 こうした状況に追い込まない為にも、何処かに逃げ道を作ったり、救済策を考えて、“反抗の牙”を抜くのが兵法であり、戦略である。
 また“摩擦”も無用であろう。
 摩擦を起こさないために「礼」がある。礼法によって、人と人との摩擦を防ぐのである。
 何事もこだわらずにさらりと流れていくには、意地にならないことだ。

 こだわらずに、固執せずに頑迷にならずに、さらりと流れ、摩擦を起こさないためには一箇所の一事に囚
(とら)われることなく、自我に執着しないことだ。自我に搦(から)め捕られ、執着すれば「迷い」が生まれる。迷いは、全てが自分の思い通りにならない苦悩から発するもので、本を正せば「こだわり」から起こったことだ。
 したがって“こだわり”を捨てれば楽になるのである。

 生きることでも、死ぬことでも、それだけにこだわり、そこに執着すれば囚われてしまう。また囚われは“迷い”を生じさせるから、此処で苦悩がいっそう深くなる。これらを集約すれば「苦」であろう。悩みも「苦」の種になり易い。したがってこうした「こだわり」から抜け出すことができなくなれば、人生は則
(すなわ)ち“苦”に変貌する。
 此処にこだわることの愚かさがある。

 この「愚」からさらりと抜けるには執着しないことが肝心である。意地にならないことだ。意地になれば「迷い」が起こる。迷いっぱなしの人生か繰り広げられる。迷いっぱなしでは、生にも囚われ死にも囚われる。
 しかしもともと“死生不知”こそ、迷いを解決するのだ。これは命知らずをいうのではない。生にも死にも囚われないことをいう。
 生き死にを解決することなく生涯を終える人は、迷って再び六道
(りくどう)を輪廻して、また迷いを繰り返すことになる。こうなれば、これこそ終わりのない生き方となってしまおう。
 意地にならないことも肝心だが、相手を意地にさせないことも肝心である。

古人は、迷える人間の魂を救うために地蔵尊を建立した。
 釈尊の入滅後、弥勒
(みろく)仏の出生するまでの間、無仏の世界に住して六道の衆生を教化ならびに救済するという菩薩を地蔵菩薩という。
 地蔵の像は、胎蔵界曼荼羅地蔵院の主尊は菩薩形に表されるが、一般には比丘形で、左手に宝珠、そして右手に錫杖
(しゃくじょう)を持つ形が流布され、日本では平安時代より盛んに尊信されたのだった。

 人間は死を覚悟した時、信じられない力を発揮する。この「力」こそ、底力なのである。敢えて寝ている者を、揺り起こす必要はない。奮い立たせる必要はない。寝ている巨人を起こすのは、寝ていた虎を起こして、これと戦う事になり、その後は重大な難問を抱え込む事になってしまう。

 抗争や内紛ばかりでなく、戦争も、こうしたものが集団ヒステリー化した場合、起こりうるものである。人間は、潜在的な機能の中に、こうした起爆剤を抱え込んでいて、一方で建設の気持ちがあるが、他方で、二進
(にっち)も三進(さっち)もいかなくなったとき、今まで作り上げたものを、惜し気もなく破壊する意識が働くのである。
 底力には、二つの意味が含まれ、“両刃
(もろは)の剣”である事が分かるであろう。



●老境の人

 人は「若い」ことを願う。そういう風に、思い過ごす生き物である。だから「若い」といわれるの微笑む人が多い。しかし本当に年をとっても若い?のだろうか。
 このことを曖昧にしてはならないだろう。
 では「老年期」とは、いつから始まるのだろうか。

 私はちは若いことを願うあまり、いつも自分はまだ若いと高を括
(く)くり、“老い”から逃れた気持ちになっている。精神的に依然とはきはきしているならば、体力も失われていないように思い込んでしまう。この思い込みがあるから、何度か肉体の若さを試してみようとする。
 それは遠い過去の幻影である場合が多い。

 例えば、「あの頃、あの坂道は易々とかけのぼれたのだが」とか、「あの急勾配の階段を息切れもせずに駆け上ったものだが」という遠い過去の記憶を呼び戻しながら、「では、今でもあの頃と同じように、同じ早さで息切れもせず、駆け上れるだろうか」などの回想である。
 こうした回想は、回想であるだけに幻影を生む。
 そしてこれが幻影である証拠に、肉体の移り変わりのいうものを見逃してしまうのである。

 「まだ若い」と思っている壮年時代から老年時代にかけて、その移り変わりは実に緩慢である。緩慢であるから、その移行に気付かない。変化を感じないのである。この無感覚が、再び訝
(おか)しな自覚症状を伴わない落し穴へと突き落とす。
 ところが、変化は刻一刻と訪れているのである。

 季節は、秋が夏に続くものだ。秋の次には冬がくる。変化は確実に起こっているのである。
 しかし変化は刻一刻と起こっているにも関わらず、変化の一つひとつは毎日眼につく分けではない。
 秋が夏の中に隠れていることは事実である。この現実を忘れてはならない。秋の枯れ葉のように錆色の木の葉が、夏の木の葉に見えなかったとしても、夏の木の葉の中に秋の錆色の木の葉は潜んでいる。これが変化の実態であるからだ。

 夏の風景の中に見ることができなかった青々とした木の葉は、十月、十一月となって冬を知らせる疾風が巻き起こる朝になれば、夏の木の葉が錆色に変化していることに気付くだろう。
 一見、黄金色に見えた木の葉は吹き飛ばされた背後に、冬の骸骨が潜んでいたことを突然現れた木立で思い知らされるだろう。
 これまで青々と緑を湛えていた木の葉も、この季節になれば枯れて枝にはもう見る影もなく、病葉がぽつぽつと残っているだけになってしまう。これが「変化」である。

 この変化の中に人間も生・老・病・死の四期を抱えている。
 「老境」とは、生の次ぎにくるものである。
 “老い”は四期の“生”に続くものだ。
 老いれば、毛が黒から白に変わるか、抜けるか、そして同時に歯も抜ける。眼も霞んで利かなくなり、耳も遠くなる。顔も窶
(やつ)れ皺(しわ)だらけになり、背も曲がり、心臓の鼓動も思わしくなく、杖を頼りに歩行しなければならなくなる。
 これから先、あと十年生きるか、あるいは十五年生きるか。
 そうした寿命の計算も気に掛かるところである。

 “若い”と自負していた思い上がりも、瞬く間に老人になった“今”を思えば、若いと思った思い込みは実は幻想であったことに気付かされるのである。
 そしてこの幻想こそ、老いの現実と対峙
(たいじ)し、随分久しい以前から、私たち人間は「老境の人」になっていたのである。



これより先をご覧になりたい方は入会案内をご覧下さい。


入会案内はこちら

daitouryu.net会員の入会はこちら



<<戻る トップへ戻る 次へ>>

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法