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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 2
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旅の衣・前編 4
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旅の衣・前編 29

川が流れるように、時代は過去を留め置くことなく足早に過ぎ去って行ったのだった。いい想い出も悪い想い出も、時は、そうしたことにお構えなく過ぎ去って行くのだった。

 そして今、あの時代を振り返れば、昭和47〜8年は確かに破廉恥だった時代であったが、それだけにエネルギッシュな時代でもあった。それはあたかも、山の渓流の湧き出る泉の如く、確かにエネルギッシュだった。熊本の球磨川渓流の上流にある垂玉温泉にも、こうしたエネルギッシュな支流が幾つも流れていた。


●蕗の薹

 数日して由紀子に詰問される羽目になった。
 何処へ行っていたのか?と問い詰められた。心配して捜していたという。
 半分心配して、半分苛々したように怒っていた。不思議なことに、十日間だけ由紀子のことがスッポリと頭から消えていた。そんな由紀子が夕方近く、売卜者
(ばいぼく‐しゃ)の奨(すす)めによって引っ越した、私のおんぼろアパートを訊ねて来たのである。
 この珍事には慌
(あわ)てるというか、混乱するような事態が起こった。そういう事を全く予期していなかったことが起こったからだ。
 私にとっては、異変、それも超異変現象だった。人生の“どんでん返し”というべき緊急事態だった。人生には思いもよらぬことが起こるものである。それだけ、結末も哀れな結末が俟
(ま)っている。
 だが有頂天の中で喜悦し、得意となっていると、やがて訪れる悲劇の末路が分らない。
 得意絶頂の時ではなかったろうか。

 その時のことである。
 誰かが、ドアの扉をノックした。
 いつもとは違う聞き慣れない、烈
(はげ)しいノックの音だ。そもそも引っ越した後に、今まで誰かが訪問したと言う記憶がないからである。
 勿論、十日間は留守にしていたから、訪問を受けても分らないことであったが、まさか由紀子とは思わなかった。
 最初、誰だろう?と思った。誰が烈しく叩くのだろうと思った。そんなに叩いたら、ドアが壊れるのではないかと思うような烈しい叩き方だった。
 しかし、ドアを細めに少しばかり開けて覗くと、そこには由紀子が立っていた。そのために、焦りに焦り、ひどく慌
(あわ)てた。女性の来客など、初めてであった。いや、訪問者自体が初めてであった。
 焦る、慌てる、混乱する。それ以外に表現しようがなかった。
 それに私のぐうたらな生活は見せたくなかった。見られれば失望も伴う。グウタラと雖
(いえど)も、自尊心はある。見栄もある。絶対に、こうした現場は見られたくないのだ。

 突然の来訪で、危うく部屋の中を全部を覗かれそうになった。覗かれてはまずいのだ。
 特に相手はお嬢様なのだ。失望を買うのは目に見えていた。
 「待った!待った!待った!」と三回連続して、“待った”を掛けた。
 今この現場を覗かれては非常にまずいのである。再びドアを閉めて防衛するしかない。
 これに対して由紀子がドアを再びドンドン叩く。なぜ閉めてしまうのか、抗議しているようだ。
 私は仕方なくドアを開けた。隣近所の手前もある。
 由紀子は眼を三角にしていた。無理して作ったように、やや上目遣いで三白眼で睨んでいた。その眼がなかなかいい。これを魅力的と云ったら失礼になろうか。

 「なぜ、あたくしが来て、わざわざドアをお閉めになるの?!」物凄い剣幕だった。
 「見られては困るものがありまして……」
 「まさか」
 「そのまさかです」
 「千羽織でも織っていらして?」
 きつい冗談である。『鶴の恩返し』でもあるまいにと思った。
 「千羽織ではなく、そのォ、次元の違いと申しましょうか。あるいは生活格差とでも言いましょうか……」
 果たしてこれで納得するかどうか。
 「理解できませんわ」
 「理解するものではありません。お察し下されば結構です」
 「なにを察するのです?
 「困惑です」
 「困惑?……、どういう?」
 「ですからねェ、そこを何とか」
 「なにを何とか?」
 「だから何とかです。そう、目くじら立てるものではありません」
 「ん、まあ!」
 異常である。私には理解出来ないことで怒っていた。
 私は、訳の分からない緊急事態に遭遇していた。
 「あのォ〜ッ、初めての人には、何かといいますか、あまりにも刺戟が強いかと思いまして……」と頭をかいて照れながら応えた。
 部屋の中が片付いてないのである。穢いのである。整理しきれないものが、ゴミ溜のように堆
(うずたか)く積み上げられているからである。
 「どんな刺戟?」
 「ショック性のものでして。あるいは心因性のものとでもいいましょうか」
 「ますます分りませんわ」
 此処で問答しても仕方がなかったので、「まあまあ、お気を鎮めて……」ということで、一先ず中に入れることにしたのである。
 「気を鎮めるですって?!」
 これ以上の入口での問答は拙
(まず)い。賢明でない。
 「では中で、充分にショックを味わって下さい」
 「うわァ、穢い!」思わず口を塞いだ。
 「でしょ」相槌を求めた。
 「消毒なさらないの?」
 「えッ?消毒ですか」
 「こんなところに居て、病気にならない?」
 「だから、その前に予防医学として、もう見学はこれくらいにして……」
 「ますます呆れますわ!一体どういう神経ですの?」
 あいた口が塞がらないという言い方だった。
 反論として、貧しいのですと一言付け加えたかった。こういう貧しさを、極貧と呼称するのを彼女は知っているのだろうか。
 この時は、久しく食事らしいものを摂っていなかったので、夕方由紀子を食事に誘った。近くの繁華街にある『川仙』という料亭の奥座敷の一室に、彼女を招待した。

 よく磨き込まれた黒光の廊下を通って、十畳程の座敷に案内された。通された部屋は、青畳で清澄な空気に溢れていた。床の間があり、そこには恐らく偽物であろうと思われる雪州
(せっしゅう)まがいの山水幽谷(さんすい‐ゆうこく)の掛軸が掛けられていた。
 しかし部屋はよかった。座敷から庭が一望できる、静かで落ち着いた部屋であった。この空間は私好みであった。
 そこには古風な造りの日本庭園があった。そこは山水画の風景であった。
 広くはないが、池もあり築山
(つきやま)もあった。捻(ね)じれた松が、海辺の風雪に耐えた力強さを連想させる。庭の石灯籠(いし‐どうろう)の灯が、池の中に揺らいで、仄(ほのか)に浮かびあがり、小さな山水画の情緒を醸(かも)し出していた。しびれる。そういう絶景を彷彿とさせた。
 池を浄化する竹筒を形どった浄化機から飛沫
(しぶき)を上げて、渓流(けいりゅう)を思わせる豊かな水が滔々(とうとう)と流れていた。いい景色であった。

 その音は、山中の静かな渓流の細流
(さいりゅう)を連想させる水の流れであった。恐らく池の中には鯉(こい)でもいるのであろう。水銀灯にほんのりと照らされた池の銀盤の水面には、緩やかな波紋(はもん)が広がっていた。時折(ときおり)、水を叩くような音が跳ね返ってきた。
 私が錦鯉に興味をもち始めたのは、この頃からだっただろうか。斯
(か)くして、その後、鯉を探して諸国巡礼が始まる。持ってはならぬ、たいそう金の懸かる趣味を持ってしまったのである。
 しかしその音は、決して邪魔にはならなかった。鯉の時折はね音は、静寂の中の「動」の世界であった。

 本日は、この料亭の定食を食べに来たのであるが、カウンター席が混んでいて、生憎にもそこには座れなかった。会社帰りの客で長いカウンターも、多くのサラリーマンで溢れていた。
 しかし私は持ち前の図々しさと、強引な螺子
(ねじ)込み押しで、“カウンターが駄目なら座敷に上がらせろ”と、ひとゴネごねて、この店の主人に掛け合ったのだ。
 それも懐石
(かいせき)ではなく、定食をここに運んでくれと、強引に螺子込んだのであった。主人は両手を開くようなジェスチャーをして仕方ないとなり、渋々これを了解したのである。
 しかし定食といっても、千円以下では食べられない。
 何故ならば、刺身の小鉢一つ上げても、スーパーで売っている水っぽい鮪
(まぐろ)などは使わず、真鯛(まだい)や鰤(ぶり)や烏賊(いか)等の新鮮なものが出される。会席料理だからだ。だが私は刺身定食を頼み、彼女は天麩羅(てんぷら)定食を頼んだ。
 そして飲み物として、日本酒のお銚子2本と、酒の肴の突出しの小鉢物を最初に頼んだ。この二点は直に運ばれてきた。

 「随分静かな処ですのねェ。この街に、こんな処があるなんて、今まで知りませんでしたわ。本当に静かだこと、何だか落ち着くわ」
 「僕は騒がしい処は嫌いなんです。特に大衆でごった返す処が……」
 暫
(しばら)く、その細流を思わせる水の音に聞き入っていた。

夕陽を受けた暮れ泥む池

 「ところで、あなたは今まで何処へ行ってらしたの?」
 詰問である。彼女の眼が三角になった。尖
(とが)っている。
 「えッ?」
 「えッ、じゃありませんわ!」
 「さて……、どう答えたものか……」
 「何処に行ってらしたか、訊いていますの?」
 早速こんな話が始まった。それは詰問であった。詰め寄られる迫力があった。危うし……である。
 私はこう訊かれて、改めて座り直し、
 「個人的なところです……」と徐
(おもむろ)に答えた。そして、それ以降を控えた。
 「黙って居なくなったものだから、また、収監でもされて、何処かの警察の留置場にでも入っているのではないかと思って、随分と捜しましたわ!余り、無駄な心配ばかりさせないで下さらない」
 突然、切り出した由紀子の口調は、何処となくお説教調だった。あるいは叱責にも響いた。
 (どうしてここまで、彼女は俺のことに構うのだろうか?俺は、もてるわけのないのだが……)そんな疑問が頭を擡
(もた)げ始めた。何故だろうと思う。

 兎
(と)に角(かく)この場は、脇役の私としては、彼女の御機嫌を損なってはならないのである。
 私は柄
(がら)にもなく、にこっと笑って、彼女にお猪口(ちょこ)を勧め、徳利を手にした。
 「まあまあ、そう目くじら立てず、一杯いかがですか」
 こう、自然に差し出したつもりであったが、彼女は私を遮って、
 「あたくし、手酌
(てじゃく)がモットーですの!」と皮肉な言葉で切り返して、自分で酒盃(さかずき)に酒をなみなみと注ぎ、一気に口に流し込んだ。
 いや飲み干すのでなく、流し込んだのである。これには驚くしかなかった。そしてどことなく、その目が徐々に三角に変形していくようで、何だか尖ったようだった。
 実
(げ)に恐ろしき目付きである。
 こうした彼女に取り付く島はあるだろうか。
 どうすれば彼女の機嫌が戻るのかと混迷した。

 仕方ないので、「いやァ〜、いい飲みぷりですねェ」と、お追従
(ついしょう)のつもりで云ってみた。
 しかし彼女の眼は、まだ三角の儘だった。そして手酌で、ついに二杯目を呷
(あお)った。これも、やはり流し込む勢いだった。
 「あなたには、あたくしの気持ちが分かりませんわ」
 「女がそんな呑み方をすると、みっともないですよ」と云ってやった。
 「どうせ、あたくしはみっともない女です!」と、まるで喧華でも売っているようだった。
 「そんな、はしたないこと仰
(おっしゃ)らずに……」
 「はしたなくって結構よ」
 ああ言えば、こう言うという感じであった。
 彼女の心に内で、何が波立っているのであろうか。
 恐らく心の何処かで、私への憎悪?……というか、苛立たしさというか、そのへんの感情が自分自身でも始末できないのであろう。コントロール不能という自暴自棄のようにも思われた。自棄になっていることは確かだった。いつもは冷静で、思慮深い彼女が、どうして今日はこうした行動をとるのだろうか。

 私の策した「恋のすれ違い作戦」は、あまりにも効果覿面
(てきめん)と言う感じだった。
 あるいは効き過ぎたのかも知れない。しかし、この作戦は成功したという確信があった。
 内心、俺も大した悪だと、内側では驚喜していたのかも知れない。彼女のこうした取り乱しを初めて見たからである。

 「僕は、あの仕事から足を洗いましたよ。金で動かされる一生では、自分に誇りが持てないからです。つくづく飼い犬の惨めさを悟りましたよ……」
 「惨めさはいいんだけれど、黙って何処にでも行かないで下さらない!」
 「あなたこそ、僕に足枷
(あしかせ)を嵌(は)めないで下さい」
 遣
(や)り返したつもりであったが、少し言葉が過ぎたと思った。そして彼女との会話は途切れた。空白な状態が数分続いただろうか。こうした空白の間は、私の最も苦手とするところだった。

 この沈黙を破って、お運びの女性が入って来た。付け出しの八寸
(はっすん)や、炊き合わせ等の付け合わせ料理が運ばれて来たのである。
 八寸には季節感があった。いい風景の表現であった。季節の旬
(しゅん)のものが僅か25cm正方の平皿に盛られている。そこには季節の移ろいがあった。
 次に本命の刺身と天麩羅
(てんぷら)が運ばれて来た。これで定食の一切が揃った訳である。
 刺身は真鯛
(まだい)と縞鯵(しまあじ)と烏賊(いか)であった。天麩羅は車海老(くるま‐えび)と烏賊と穴子(あなご)、それに銀杏(きんなん)の実と獅子唐(ししとう)であった。
 そのうえ旬の竹の子ご飯、蕪
(かぶら)の糠漬(こうじ‐づけ)に、蜆(しじみ)の味噌汁が付くのだ。これだけ揃って千円程であった。豪勢である。千円では安かった。昭和47年(1972)頃の話である。

 由紀子と向かい合ったお膳一杯に、定食の品々の一切が並べられた。それを見ていたら、やはり遠近感の焦点が合わない。精々50cm手前がいいところだ。その先に遠近感がない。みな平面に見える。前後が分からないのである。
 したがって箸
(はし)を持つ手に自信がない。同じ処を何回かつつくが、箸が届かない。何故なら遠近感がないからだ。これに由紀子が気付いたのである。
 「眼をどうかしたの?」心配そうに訊いた。
 「いいえ、別に……」こうした場合、白
(しら)を切るしかあるまい。
 「でも、何だかおかしいわ」
 今度は心配性の母性が露
(あらわ)になったようだ。
 「心配いりませんよ。遠近感の焦点が合わないだけです」
 「まあッ……、一体どうしたの?」母性を募らせた訊き方だった。
 「差し当たり、困ることはありません」
 「いつからそうなったの?」ズケズケと深入りして来る。遠慮知らずだ。あるいは、それだけ懇意になったと言うことだろうか。
 「この頃でしょうか……」
 「この頃って……、いつのこと?……」
 「元はといえば、数年前、僕の不注意と心の隙
(すき)からこうなったのですよ。
 但し、今は開眼の修行を満願して、これを見事に克服しました。心の眼だけはしっかり開くようになりましたので心配いりません。暗闇でも歩ける位にはっきりと……」
 わざと強気を言ってみせた。ハッタリもここまでくれば大したものだ。
 私の眼の異常を楯
(たて)に、彼女を心配させて同情を買うこともあるまい、と思った。

 私はある事を突然切り出した。
 それは以前、一緒に乗馬をした篠田氏の事が頭の片隅にあったからだ。あれ以来、由紀子はまだ篠田氏と、何らかの関係を維持し続けているのであろうか。そんな穿鑿
(せんさく)が脳裡(のうり)を過(よぎ)った。
 そして今は恋の争奪戦をしているのだという現実に引き戻されていた。

 「あのッ……、一つだけ質問をしてもいいですか?」
 「どんなことですの?」
 そう言われて、私は恐る恐る言葉を切り出した。
 「あのですねェ。その……以前ですねェ。一緒に乗馬をした篠田さんの事なんですが……」
 「ああ、あの。……。あたくし、あの方、一向に好きになれませんの」きっぱりと撥
(は)ね付けた。
 私は深く穿鑿する気持ちはなかったが、つい、その真相を探ってみた。小心者の習性である。
 「篠田さんは歯科外科医としても将来性もあるし、なかなか感じのいい人じゃありませんか」
 「そう、あたしを本当に大切にしてくれますわ。でも、それだけですの。それだけに、一緒に居ても、一向に心が和
(なご)んだり、弾んだりしませんの。何というかその……」
 彼のエエカッコシーを指摘しているのだろうか。
 「冒険心ですか」ズバリ斬り込んで訊いてみた。
 「そうそう、それ。あの方を見ていると、安穏な、安定した人生設計の、これから先の何もかもが見えてしまって、つまらなさが一番先に見えてしまいます。そんな彼と、将来のことを描いてみても、本当に幸せかどうか、疑問ですわ。更にあなたと比較すれば、彼はあまりにも安定し過ぎてつまりませんの」
 (嬉しいことを言って呉れるではないか)と、寧
(むし)ろ私の顔が綻(ほころ)びはしないかと、それを押さえながらながら、「ではどうして、外道(げどう)の僕に付き纏(まと)うのですか?」と単刀直入に訊いていた。
 「?…………」
 彼女は即答ができずに、一瞬躊躇したようだった。
 「外道は危険ですよ、根が山師ですから」自身が朴訥
(ぼくとつ)でないことを告白した。
 「でも、人間。真面目一方でなく、ときには冒険もしていいと思いますわ」
 それはアバンチュールへの憧れであろうか。

 「だがら危険と申し上げているのです。将来を医者として周りから嘱望されるあなたが、一体どうして僕なんかに?……」と、至極
(しごく)真面目くさったことを訊いてみた。あるいはそれは一種の焦燥感(しょうそう‐かん)だったかも知れなかった。
 「そういう穿鑿は無用ですわ」
 「穿鑿は無用?……」鸚鵡
(おうむ)返しに訊いていた。
 「あなたが危なかしくって、黙って見ていられないからですわ」その語尾に《お分かり?》と烈しい語調が続くようだった。
 彼女の突慳貪
(つっけんどん)と言い放った言葉は、一見屈託(くったく)のない口調であったが、何処となく憤(いきどお)りが感じられて、少なからず尖(とが)っていた。
 「僕が危なかしいて?……」
 その真意を糺
(ただ)してみた。
 「そう。綱渡りの下手な曲芸師が、危ない綱渡りをしているようで」
 「凄い形容ですね」
 「ええ。だって他に言葉が見つかりませんもの」何という鋭い斬り込み。
 「他に言葉はありませんか?」
 「ありませんわ!強
(し)いて言えば、見ている観客を、無鉄砲で、無謀で、無思慮な軽率な行動で、ハラハラ・ドキドキさせる……。これを不安定要素とでもいうのかしら」
 「ますます、舌鋒するどいと申しましょうか、適切な形容と申しましょうか……」
 なんと、相槌も此処まで来れば上等というか。たぶん上等の部類だろう。
 「だからそれを見ている観客のあたくしとしては、この儘
(まま)呑気(のんき)に傍観(ぼうかん)していることが出来ませんの!」
 やはりこの語尾にも、《お分かり!》と感嘆符が付くようにも思われた。あるいは、それが彼女自身の、自分の性分とでも云いたいのだろうか。
 断定的に、よくもここまで、ぬけぬけと云ったものだと思った。だが傍観者ではないらしい。それは彼女の母性が雄弁に物語っていた。
 由紀子からこう指摘されて、一瞬躰が電気に打たれたようにビリビリと慄
(ふる)え始めた。まさに雷に打たという感じだった。あるいは心因性ショックというべきか。このショックに痺(しび)れるしかなかった。
 彼女の母性本能が敏感に反応しているのである。
 それに「恋のすれ違い作戦」が効き過ぎて、捻れ始めているのである。作為も度が過ぎれば有害である。確かに修正が必要だった。緊急事態発生である。

 だが分らないこともある。
 「危ない綱渡りって?……」その真意であった。
 「そこまで、女のあたしに言わせるつもりですの?」
 「?…………」

 (後は言わなくても分かっているでしょ)という無言の叱責があった。
 これを訊き返すことは憚
(はばか)られ、焼かれた鉄板の上で煎(い)られる、まさにあの大豆(だいず)のような心境だった。灼(や)かれて弾ける以外ない。
 彼女は家柄や遺伝等の、古い観念に捉らわれない新しい型の人間なのだろうか。そしてこれが、私に恋心を伝える間接的な告白なのだろうか。それは分からない。
 それにしても、為
(し)て遣られた感があった。これから先の質問に絶句した。
 露骨に、この先を訊くことが怕
(こわ)かったし、これ以上の言葉も憚られた。
 おそらく彼女は、不安や苦しみや嫉妬が、却
(かえ)って相手に情熱を掻き立たせ、更に執着を強め、火の中に油を注ぐような、恐ろしきものを覗こうとしているのではないかと思われた。
 早速、作戦変更の修正が必要だった。
 また変な期待を持たないように、分相応に出来るだけ冷静になろうとした。この儘
(まま)でいると、息が詰まりそうなので、話題を変えた。

 「これから他で飲み直しませんか?パァーッと何処かで派手に……」
 「あら、もう食べませんの?」
 「もう、十分に食べましたよ」
 「だって、まだこんなに残しているじゃありませんか?」
 「いや、僕の得意技で食べてしまいましたよ」
 「得意技って?」
 「目で食べることですよ」
 「まあ……」
 この強がりのような言葉で、由紀子は些か呆れているようであった。
 暫
(しばら)く食事らしい食事はしていなかったと言いながら、もう胸が閊(つか)えたようで、妙な満腹感を感じていた。
 此処を出てから、由紀子とスナックをハシゴした。

 何処の店に行っても、私の得体
(えたい)の知れない風体からして、不思議な生き物を眺めるような眼付きで見られた。おまけに由紀子を同伴しているものだから、このアンバランスな取り合わせは、差し詰め、掃き溜めに一羽の鶴が舞降りた観があった。
 彼女の容貌からして、低級な飲み屋では何かと目立つた。その艶やかさが、逆に、場にそぐわなかった。
 何処の店へ行っても、もの珍しそうな好奇の眼が走り、じろじろと見られた。
 ドアを開けて店に入るなり、カウンターに直列に居並ぶ男どもが、一斉に振り向く。そのどれもが、安物の整髪剤を塗りたくってセットした頭だった。
 振り向いた何れの眼も、
(何で、あんな奴がいい女を連れているのだ?)と言うような嫉妬と穿鑿(せんさく)でギラついていた。私は憎々しい媒体だったに違いない。

 これらの客の殆どは、今日一日の不満や憂さ晴らしを細やかな酒席で行い、愚痴を零
(こぼ)して安酒を呷(あお)る、言わずと知れた連中であった。
 酒の相手として由紀子を、此処に連れ込んだことを一瞬後悔した。
 いつしか私自身の心の中に燻
(くすぶ)っていた劣等感が、ついに爆発して吹き上げた。その結果、何処の店でも、ダブルの水割りを注文し、直接胃袋に流し込むようにして、呷(あお)るように呑みまくった。
 呷ると、胸も腹も灼け付くようであった。乱暴な飲み方をしていた。何故このような行動に駆り立てられるのだろうか。

 自分自身もはっきりとした理由は分からなかった。しかし由紀子の存在が、訳が分からない行動に駆り立てているのは確かであった。原因は彼女だった。
 《由紀子との、このような関係はいつまで続くのだろう?……》そんな不安が脳裡を翳
(かす)めると、日頃の鬱積(うっせき)が溢れ出て、更に呷るピッチが早まった。その一杯一杯には各々に濃度があり、今にも酩酊(めいてい)が始まろうとしていた。
 やがて訳の分からない恍惚
(こうこつ)と酩酊に陥り、見苦しく酒品(しゅひん)を失い始めていた。もう完全に酒に呑まれていた。

 そんな私に彼女は、文句一つ言わず最後まで付き合ってくれた。
 彼女は何処かで、私のこのやり場のない気持ちを察していたのであろうか。そして依怙地
(いこじ)な私は、我が儘を言って、彼女に何処かで甘えていたのかも知れない。
 結局、私一人がベロンベロンでへべれけになり、酒品を失い無態
(ぶざま)にも、彼女からタクシーで安アパートに送り届けてもらうという醜態を曝(さら)したのである。
 時刻はかれこれ、午前三時を過ぎていたろうか。
 酔うと、いつも躰
(からだ)の力が、ぐにゃりと萎(な)えて、そのくせ大声で悪態(あくたい)をついて喚(わめ)きまくる悪癖があった。溺酒(できしゅ)状態で、足には自信がなかった。そのくせ、意識は確りしていた。
 日本酒は溺酔すれば意識を失うというが、洋酒やワインの類は、意識は確りしているのにも関わらず、足が覚束無くなるのである。
 無態にも、私の腕は彼女から支えられやっとの思いでアパートに辿り着く有様だった。
 ぐにゃぐにゃと、ただしなく斃
(たお)れ込むと、「おい、健太郎!しっかりしろ」と罵声が飛んだ。

 木製の階段の手摺
(てすり)をぎこちない手で掴み、床板を軋(きじ)ませながら、無態な靴音を立てて昇っていった。近所迷惑も顧(かえり)みず、深夜大声で歌を唄い、聞き分けのない子供のようなことをして、由紀子を困らせた。
 酩酊の極みにいた私は、鍵を納めたポケットの場所すら思い出すことができず、これを取り出すのは一苦労だった。
 酔ったことをいいことに、由紀子に抱きついてやった。そして胸元から彼女の甘い香りがした。途端、彼女は小さな悲鳴を漏らした。
 「だめ!」
 その声は最初小さかった。そして乾いた髪の匂いがした。
 女の匂いが鼻腔
(びこう)の奥を刺激した。
 酔っていても、女の匂いには敏感なのだと思い、流石
(さすが)に売卜者から“女難の相”ありと揶揄(やゆ)された、わが人生に苦笑せずにはいられなかった。確かに酔っているには酔っているが、心まで酔い潰れてしまっていたかどうか、甚だ疑問であった。
 しかし酔った時くらいで、多少の理性を失っても、この程度の破廉恥
(はれんち)な悪戯なら、許されて当然だろうと甘い気持ちでいた。そして抱きつく私に対し、彼女のスルッと抜ける不思議な仕種(しぐさ)は何とも奇妙だった。これは一種の術と云ってよかった。
 身をよじって、私の腕の中からスルリと抜け出してしまうのである。あまりにも鮮やかに抜け出してしまうのである。何と云う妙技を遣う女かと思った。
 彼女は確かに術者だった。
 その仕種が、ひどく場慣れしていることに驚くだけでなく、その鮮やかさに、一瞬ムッとしたのである。簡単に去
(い)なされていることに、少しばかり腹立たしさを感じたのである。
 何だこれは?と思うのだった。それでも私は諦めなかった。
 内心、
(こんな小娘如きに去なされてたまるか。俺を怒らしたら、どうなるか知っているのか)と、訳の分からない性欲が湧き起こっていた。

 「こら!ドサクサに紛
(まぎ)れて、いったい他人(ひと)の何処を触わっとるんじゃ!」
 髪伐
(かんばつ)を入れずに“はしたない言葉”が返って来た。
 お嬢さま育ちの彼女が、一体この“はしたない言葉”を何処で覚えたのだろうか。
 「あのォーッ、こんなの、お嫌いですか?」素頓狂
(すっとんきょう)な声を上げて訊き返していた。
 「ええ。そういうはしたないことはしたくありませんの」
 鋭い目付きで、眼を吊上げ気味に彼女は言うのだった。
 (はしたないこと?……)と心の中で復誦するのだった。
 一種の失望でもあった。
 私は、とんだ道化を演じているようだった。
 まるで牝
(めす)に、お預けを食らった哀れなマント狒狒(ヒヒ)だった。おそらくそんな格好をしていたに違いない。
 「どう……、どうしてです?」性懲
(しょう‐こ)りもなく呂律(おれつ)の回らない言葉で切り返した。
 「あたくし、肉欲派女優でありませんの」
 「うム?……」
 「あたくしには、その種の女優は無理だと分かりましたの。したがって、純情派女優でいきますわ」その口調は、あくまでも冗談めいていた。
 「そりゃあ、中学生の『交換日記』の世界ですよ」
 これだけ切り返せるのだから、溺酔とは言っても、完全には酔っていなかったのだろう。むしろ躰を病んでいた。自身の体調が優れないというべきか。
 それでも私は聞き分けがなかったようだ。それで、再び彼女に手を伸ばした。
 すると、伸ばした手の甲をピシャリと叩
(はた)かれた。決して冷静さを崩さない。乱れない。
 敵は然
(さ)る者。手練だ。
 油断も隙もない。いや、これは逆というべきか。
 酔いは醒めていたが、悪酔いは醒めていなかった。

 「宜
(よろ)しいのじゃありません、交換日記。そういうの、一度やってみたかったわ」冗談か本気か分からないようなことを言うのだった。
 「本気ですか?」
 「ええ」しゃあしゃあと答えた。
 「それ、ちょっと変ですよ」
 「変じゃありませんわ。愛欲に身を任せる趣味はございませんの」
 「愛欲か、まあ、確かにそうですよね」と、未練がましく言い捨てた。
 「あたくし、どうせ演じるのなら肉欲派でなく、純情派で参りたいと思いますの」
 「えッ?純情派ですか」
 「お分かりになりました?」
 「いいえ、わかりましェん〜」ふざけて言い捨てるのだった。
 深刻に捉えることなく、不真面目に、これを一種のゲームと解釈していたのだ。酔いに任せて。


 (それはないぜ。ちょっとくらい、いいだろ。別に減るもんじゃないし)こんな感想をもって抱きつき、その度に罵(ののし)られたが、そんなことお構えなしに、胸や尻を触ってやった。しかし、何ともしたたかであった。
 これに激怒した彼女は、私の後頭部にハンドバックをバコーンーとぶつけてきたのである。それが見事に後頭部を直撃した。途端に衝撃が疾
(はし)っり、目の前に星がチカチカと光った。
 そのうち、天罰が、わが身に降り掛かったのである。
 彼女は確かに天敵だった。
 何度、襲撃しても跳ね返された。それは後頭部に直撃を食らったからではなかった。深酒が原因だったのである。一気に呷ったが原因だった。天罰と天敵がダブルでシェークさてれいた。

 大して酒に強いわけでもなく、呑めない酒を呷ったのもだから、急性アルコール中毒のような状態になり、一晩中ゲロを吐き続け、朝まで背中を摩
(さす)られて介抱された。一晩中、苦しんだ。天罰である。
 どうやら由紀子は、一晩中此処に居てくれていたらしい。彼女を家に帰さないで大変なことをしでかしたと思った。両親に、これをどう言い訳するのだろうか。
 大変な事態を招いたのである。
 由紀子は、過去に知る、どの女性にも該当しなかった。知的な職業に似合わず、驚くほど素朴で、しかも少女のようなところがあった。じゃじゃ馬的な小娘と云ってよかった。
 彼女の例えようもないアンバランスな精神構造が、私の好奇心を惹
(ひ)き、そして占領し始めていた。
 格言に、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」というのがある。
 私の場合は「将を得んと欲すれば先ず馬を生け捕れ」であった。こういうじゃじゃ馬が欲しかった。是非、馭したい一頭だった。屋はじゃじゃ馬を生け捕ることで、取れそうな気がしたからである。

 翌朝、彼女は小さな流し台に向かって、何かの洗い物をしていた。
 私が今まで散々洗わずに溜め込んだ食器を洗っているのであろう。
 私には一つに性癖があった。それは食器は洗うものではなく、買ってくるものだと思っていたからだ。
 汚れた食器は、つい、洗うのが面倒になり、積み上げた儘、次から次へと放置して、次々に新しいものを買うという愚行を繰り返していた。不経済である。貧乏はここにも転がっていた。
 また、近くの食堂から出前を頼み、返さずにその儘になった丼
(どんぶり)や皿などの食器類も沢山あった。異臭が発するほど放りされた食器類だった。
 私は重い頭を持ち上げ、寝ぼけ眼
(まなこ)で由紀子の後姿を見た。そして私の眼を醒(さ)ました気配に気付いたらしい。

 「ご気分はいかが?」
 (いいわけねいだろう)という気持ちで、 
 「はあ、何とか辛うじて」声も細々だった。
 頭がガンガンするのである。胸焼けもきつい。
 「それは結構でしたわ」
 無邪気な顔で棘
(とげ)のあるようなことをいったのだった。これは皮肉なのだろうか。
 拍子抜けして、おかしな吐息が漏れたのだった。
 「ねえ、お手伝いさん、いつ来るの?」突拍子もないことを切り出した。
 彼女は整理の手に負えない、汚れた食器や、ビールやウィスキーの空瓶の山を指差した。“これ、どうするの?”と訊くのだった。
 「そんな人、いませんよ」
 「お手伝いさん、いないの?」
 それは、“えッ?まさか、ウソー”という顔つきだった。

 (どうしてこの超貧乏の俺が、お手伝いなど雇えるのだ。あんたの家とは違うんだよ)と反論を試みようとしたが、もうこれ以上、一言でも拙(まず)いことを言うと、煙のように消えてしまうのではないか、と思われたので反論を控えた。顰蹙(ひんしゅく)を買うような無駄口は、一言でも慎まなければならない。
 この日は丸一日間、酷い宿酔
(ふつか‐よい)で、寝込むという羽目になった。
 私は謙虚な誓いを立てた。
 《これからは、一切酒は飲まない、絶対に!》と誓った。
 しかし、この猛反省にも似た誓いは、ある意味でいい加減である。決して長くは続かない。数日後には直ぐに破られるのである。それでも、誓いを立てずにはいられなかった。
 この時の宿酔の苦しさは尋常でなかったからだ。
 この日の夕方、彼女は私の様子見と、食事の用意を兼ねて来てくれたが、もう食事どころではなかった。
 頭の中で、一寸法師
(いっすん‐ぼうし)が、徒党を組んで駆け回っていた。自業自得であった。天罰が当たったのである。
 一体開眼とは、何であったのだろうか。そのような反省が脳裡を交差し始めていた。

 次の日も同じような状態で、昨日由紀子が作ってくれた食事も殆ど手つかずの状態であった。ただ冬眠中の蛙
(かえる)のように手足を折り曲げ、また胎児のように蹲(うずく)って子宮の中ならぬ、蒲団(ふとん)の中でグウタラな一日を決めこもうとした。
 その時である。
 朝からドアを敲
(たた)く者がいた。
 寝ぼけ眼で、「ドアは開いてます、勝手にどうぞ」というと、由紀子であった。
 彼女は様子を見に来たのだろうか。容赦
(ようしゃ)なく中に踏み込まれ、事情聴取を受けるような質問が飛んで来た。

 「ご気分はどう?まだ宿酔
(ふつかよい)が続いていますの?」
 「はあ、長らく」
 ただ眠くて答えるのが面倒であった。宿酔いを口実に、今日もグウタラを決め込むつもりでいた。
 そして直に臆病な小動物が、巣穴に潜るように蒲団の中に潜り込んだ。
 酔いは疾
(と)っくに去っていたが、無精(ぶしょう)から酔った振りをして、グウタラな習性が表面化しただけのことであった。
 本来ならば、もう少しシャンとするべきであろうが、彼女から愛想を尽かされても、それはそれで良いではないかと、負け惜しみの賭
(か)けをしているような気持ちだった。
 果たして彼女は、私に愛想を尽かしてしまうのだろうか。そんな危ない綱渡りのような賭けをしていた。

 「二日酔い
(宿酔)て本当ですの?」叱責するように訊いた。
 「本当です。僕の場合は二日酔いが恢復
(かいふく)できずに、つい三日酔いになってしまうのです」
 私の馬鹿馬鹿しい惚
(とぼ)けた返事に、由紀子は反論もせず、「あら、そう。じゃぁ、今日は三日酔と云うことですか?お大事に……」と皮肉のようなことを言ったまま台所で何かを作り始めていたようだ。
 しかしそれを確認しようとは思わなかった。習性である巣穴への逆戻りが、今私に残された最後の行動ではあるまいかと思っていたからだ。
 暫
(しばら)くすると、えも言われぬ香りが部屋の中を漂い始めた。

 「お食事ですよ」
 天敵は一方で、まめまめしく働いていた。
 その香りに誘われて、むっくりと起き上がると、粗末なお膳に、一人分の朝食が用意されていた。味噌汁の立ち上る湯気の中に、はっきりと美味の一つである蕗
(ふき)の薹(とう)が確認された。春の旬(しゅん)の時期を少し過ぎたとはいえ、実によい香りを漂わせていた。
 勧められる儘
(まま)に箸(はし)を取り、立ち上る湯気に顔を埋めて、御椀(おわん)の味噌汁の香りを嗅ぎながら舌鼓を打った。

 私はこのとき女というものの存在の大きさを知った。朝の味噌汁の味など下らぬ事だと思っていた。
 朝、味噌汁が飲みたければ、早朝から行
(や)っている定食屋に行けばいいと思っていた。しかし定食屋に行ったところで、ここまではいかない。どれほど味噌汁がうまく出来ていても、そこからは何も語りかけるものは何もないだろう。
 ところが、由起子の作った蕗の薹の入った味噌汁はどうだ。これは、実にそこから様々な言葉を語りかけて来るではないか。
 《お酒も、ほどほどにしないと駄目ですよ》
 《はあ、仰せの通りで》
 《それで今日のご気分は?》
 《何とか頑張れそうです》
 こういう語り掛けがあるものである。
 私は、つい食が進み、味噌汁を三杯もお代わりをしてしまった。

 由紀子は私の横に居て、「二日酔いが、三日酔いにならずに本当に良かったですわね」と、一見皮肉とも取れるような言葉を洩らした。
 この興醒
(きょうざめ)するような言葉は少々鼻についたが、口に言えないような感謝で一杯になり、不思議な命が吹き込まれて来たような気がした。
 「ごちそうさまでした」
 私はこう云って、自然と由起子にお辞儀をしていた。
 そして由紀子の人心収攬術
(じんしん‐しゅうれん‐じゅつ)の巧みな技に、まんまと引っ掛かったような、それでいて上機嫌をたっぷり味わったような、不思議な気分になっていた。
 彼女の方が、役者は一枚も二枚も上のようだった。



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